会いたいエレアル
※ヤンデレ・カニバ要素あり。ご注意ください。
目を開けると、慣れ親しんだ我が家だった。ウォール・マリア南端、高さ五十メートルの壁に四方を囲まれた城塞都市、シガンシナ区。生まれ育った、そして、奪い去られた故郷だ。
巨人どもに破壊された筈の我が家の食卓に、どうして自分が座っているのかは分からない。ここに至るまでの記憶が、どうにも曖昧なのだ。そういうことは、これまでにもよくあったので、別段、気にするようなことではない。また、夢幻の類でも見ているのではないかとも思われたが、そういう疑念を抱いているということ自体、頭がちゃんと働いている証拠だから、これは夢ではないのだといえる。居心地が良く、いつまでも浸っていたい夢の中では、不都合な過去は消し去られ、なかったことにされる。しかし、そんな記憶の改竄は、今ここにいる自分の中では、起こっていない。ちゃんと、知っている。理解している。懐かしい故郷も、我が家も、五年前のあの日に、失われたことを。覚えている。
だから、家の中には、誰もいない。こうして、食卓の自分の席に座していても、温かな料理を作ってくれる母はいないし、話を聞いてくれる父もいない。ぐるりと見渡す、家の中は、しんと静まり返っている。その視点が、記憶にある五年前よりも高い位置にあることが、年月の経過を教えていた。
席を立ってみると、それはよりいっそうに顕著であった。かつては背伸びして母の手元を覗き込んだ流し台が、今や、随分と低く感じられる。積まれた白い揃いの食器、よく磨き込まれた、古い鍋。窓辺に並ぶ調味料。何もかもが、五年前のままだった。それも当然だろう。ずっと自分たち家族を守ってくれるものと、当たり前のように思っていた我が家は、あの日、嘘のようにあっけなく、ぐしゃりと潰された。永遠に失われてしまったものが、かたちを変える筈もない。だから、こうして、かつてのままの我が家で、かつてのままの炊事場を眺めている。何も不思議なことはなかった。
街の様子はどうであろうかと、窓辺へ寄る。外の景色は穏やかであったが、小路を通り掛かる人の姿はなく、いつもは聞こえていた筈の、小鳥のさえずりも、子どもたちのはしゃぐ笑い声も、荷車の車輪の音も、何一つ、捉えることが出来なかった。多分、この玄関の扉の外には、何もないのだろうと分かった。奴らに蹂躙され尽くした土地に、住人があろう筈もない。残された領域は、この家の中だけだ。どうせ、外に出るつもりはなかったので、構わなかった。このガラス窓を叩いて、遊びに行こうと友人が呼び掛けてくれるというのなら別であるが、それまでは、家の中で大人しくしていればいい。扉に手を掛けるのは、やめておいた。それよりも、懐かしの我が家の空気を、ゆっくりと味わいたい。
左手の壁には、大小さまざまな引出を備えた、木製の棚が据えられている。年季の入った、重そうなその引出のそれぞれに、いったい何が入っているのか、子どもの頃は、気にも留めていなかった。母の手作りのクッキーが仕舞われているのは、食器棚の上の戸棚であったし、街で拾い集めたがらくたや、きれいに光る石を仕舞った宝箱は、寝台の下に隠していた。当時の自分にとって、大事なことはそれだけであったから、それ以外の何が、重厚な引出の中に入っていようとも、関係のないことだった。
かつては両親の管轄であった、その引出も、今となっては、開ける者もいない。思うと、忘れ去られたその中身が、不憫であるような気がした。何とはなしに、棚の前に立つ。背丈の伸びた今、一番上の段でも胸の高さより低く、簡単に手が届く。目についた、一つの取っ手に、試しに、指を掛けた。力を込めると、木と木の擦れ合う音を立てながら、小さな引出が開いていく。
中ほどまで引き出してみたが、予想に反して、その中は、がらんと空いていた。何も入っていないのか、とやや肩透かしを食らった気分で、腰をかがめたときだった。空っぽの引出の奥に、何かが入っているのを見つけた。棚をがたつかせながら、最後まで手前へ引き出す。
その奥から出てきたのは、小さく畳んだ白い薄紙だった。四角く折り畳まれて、中央付近が、少し膨らんでいる。つるつるとした半透明の薄紙は、確か、かつて父が、薬を調合する際に、折り畳んで使っていたような気がする。それでは、これも薬か何かだろうか。そっと手に取り、掌に載せる。確かに何かが入っているのだが、かさかさとした感触だけで、殆ど重さを感じない。膨らんだところを、指の腹で、そっと押し込んでみる。それは、優しい感触でもって、指先を受け止めた。つつくと、柔らかく沈み込み、離すと、また膨らみに戻る。少なくとも、粉薬ではなさそうである。乾燥させた薬草の類だろうか。
いよいよ気になって、再び食卓に腰を据える。薄紙をテーブルに載せ、慎重に手を掛けた。破いて台無しにしてしまわないように、ゆっくりと、折り目を開いていく。下、上、左、そして、右。最後の折り目を開いて、その中のものを目にしたとき、思わず声を漏らしかけて、急いで口元を覆った。暫し、息を詰めて、目の前のものに視線を落とす。口は、しっかりと噤んでいた。どうせ一人の家なので、声が出るのは構わないが、息を吐くのは、いかにもまずかった。
薄紙の中に、大切に仕舞われていたのは、一つまみほどの、金の糸だったからだ。小指ほどの長さで切り揃えられ、癖はなく、まっすぐに伸びている。その一本一本は、窓から射し込む陽光を艶やかに反射した。ふっと吹けば、簡単に舞い散って、二度と見つけることは出来ないだろう、繊細な糸だった。
吹き飛ばしてしまわないように、息を詰め、口元を覆って、それに顔を寄せた。十分に注意したつもりだったが、それでも、何かの弾みで、薄紙の上の糸は、微かに乱れた。これでは、落ち着いて観察も出来ない。仕方あるまいと、床に膝立ちとなって、目から上だけを、テーブルの上に出す。これならば、呼吸は直截に、薄紙に触れずに済む筈だ。その状態で、慎重に、薄紙を目の前に引き寄せた。傍から見れば、かなり奇怪な体勢となっていることだろうが、構いはしなかった。どうせ、ここには誰も、いないのだから。
小さな山となった金の糸を、まじまじと見つめる。陽光にきらきらと輪郭を輝かせる、麦藁色。眺めていると、懐かしいような、もどかしいような思いが、胸にこみ上げる。そろそろと指先を伸ばして、糸の束の表面に触れた。掠めるようにして表面を撫で、それから、静かに、中へ埋め込んだ。糸の束は、抵抗なく崩れて、薄紙の上に広がる。柔らかく、くすぐったい感触が、指先を受け止めるのを感じた。細い糸の先が、爪の間の柔らかな肉をくすぐる。ああ、と溜息がこぼれたが、テーブルの下のことなので、糸を吹き飛ばしてしまうことはせずに済んだ。小さく円を描くようにして、指先に糸を纏わりつかせる。少しだけ摘み上げて、ぱらぱらと落としてみると、きらめく細い光の糸が躍った。摘んでは、落とし、摘んでは、落とす。飽きず、それを繰り返した。
知っている。
こんな風に、光に揺れる金の糸を、すぐ近くで見ていた日々があった。
薄紙の合間に、それを見出した瞬間、感じた懐かしさの正体が、ようやく掴めた。懐かしくなりもするだろう。これを仕舞ったのは、自分だ。
この糸が、幼い頃、好きだった。鼻先で、ふわふわと揺れる、この糸の束に、顔を埋めて、頬を摺り寄せた。指先に掬い上げては、するりと滑り落ちる感覚を、繰り返し確かめた。頬を撫で、唇の合間から這入り込み、舌をくすぐる、あの感触も、よく知っている。
その糸は、とても大切だったが、自分のものではなかった。幼い頃からの、親しい友人のものだった。ずっと近くにいたから、自分のもののような気になっていたが、それは勘違いであるに過ぎなかった。実際には、自分のものではないから、いつでも自由に出来るわけではないし、いつ、何かのきっかけで失ってしまうかも分からない。そうして、触れることが出来なくなるのは、惜しいように思われた。
だから、こっそり、切り取った。ほんの少し、一つまみだけだ。あれだけ沢山ある糸の中から、ほんの一束だけ切り取ったところで、たいしたことではないと思った。実際、友人はそれを咎めようとはしなかった。彼が、静かに目を閉じている間にしたことなので、気付いていなかったのかも知れない。ようやく手に入れた、その一束だけは、今度こそ、自分のものだった。丁寧に薄紙に包んで、大事に上着のポケットに仕舞い込んだのだった。
あのときの糸だと、鮮明に思い出した。どうして忘れてしまっていたのだろう。こんなところから、出てくるものとは思わなかった。思い出すと、いよいよ愛着が込み上げる。いつしか、窓の外は薄闇に覆われ、食卓にはランプが灯っていた。金の糸は、陽光の下で見るのとは、また違った陰影を作り出していた。光に融けそうだったそれは、今は闇の中、光を纏うものへと、姿を変えていた。
そこから一本だけを、慎重に選り分けて、摘み上げた。ランプの灯を映して、暗闇に細く、浮かび上がる、光の糸。目を閉じて、それに口付けた。ごく微かな感覚が、唇を掠める。舌に絡め取ると、きゅ、と柔肉が締め付けられるのを感じた。口内で、暫し戯れ、決して噛み切らないように加減しながら、優しく食んだ。濡らすと、糸はよりしなやかになり、その舌触りはなめらかであった。
いつまでも戯れていたい一方で、もう一つの欲望が、次第に頭をもたげてくる。腹の底から、抗い難く、こみ上げて、意識を支配する。とうとう、こくりと喉を鳴らして、唾液と一緒に呑み込んだ。引っ掛かるような感触が、内壁を撫でて落ちていく。この身体の中に、あの、きれいに光るものを閉じ込めた。薄れて消えていく、その証が、名残惜しかった。
食ってしまったのだ。思うと、鼓動が早く、息苦しい。久々に感じた、心地よさだった。きらきらと光る、細い糸が、血流に沿って全身に巡り、心臓に絡んで、締め付けるさまを夢想した。けれど、一本だけでは力が弱く、鼓動に負けて、ぷつりと切れてしまう。まだ、足りないのだと思った。
食卓の上に広げたままの薄紙を見遣る。大切な一本を呑み込んでしまっても、糸は、少しも減ったようには見えなかった。それを確かめて、安堵する。残りは、また今度だ。少しずつ、大切に、味わわなくてはならない。呑み込んだ金の糸が、寄り集まって、心臓に張り巡らされるまで。
丁寧に、薄紙を元通りの形に畳んで、引出の奥へと、仕舞い込んだ。
外は暗くなっていたので、もう友人が会いに来ることもないだろうと思われた。そのままソファに横になり、目を閉じた。自分自身の呼吸と、微かな身じろぎしか聞こえない。久しぶりに、静かに眠れそうだった。
■
少し休むだけのつもりが、しっかりと寝入ってしまっていたらしい。目が覚めると、外が明るくなっていた。窓の外の白っぽい世界に、目を細める。こんな天気の良い日には、友人を誘って野原に出掛け、木登りをしたり、追いかけっこをしたり、疲れたら木陰で昼寝をして、長い一日を過ごしたものだ。陽光の下、風に揺れる明るい麦藁色の髪を、覚えている。その優しい匂いも、柔らかさも。
家の隅っこで、背中を丸めて本を読んでいるアルミンの手を引いて、外に連れ出すのは、ずっと自分の役割だった。それが、ここでは逆転している。家の中にいる自分を、アルミンが呼びに来てくれるのだ。のんびりとソファに寝転がって、それを待った。何か、しなければいけないことがあったような気もしたが、考えてみても、分からなかった。することがないのであれば、アルミンと遊ぶだけだと思った。
外の音は、何も聞こえないが、友人の声だけは、聞き逃さない。どんなときでも、あの高く澄んだ声で呼ばれると、急速に意識を引き寄せられる。悪い夢から、呼び覚まされる。そうして、自分を取り戻すことが出来るのだ。
しかし、寝転びながらいつまで待っても、こちらに駆けてくる足音もしなければ、こんこんと窓を叩く音もしなければ、外に行こうと呼び掛ける声もしなかった。
今日もまた、会えないのだろうか。もう随分と、こうして、友人を待ち続けているような気がする。いったい、いつから彼と会っていないだろう。故郷の街で、開拓地で、訓練所で、いつもすぐ隣にいたというのに、どこへ行ってしまった。どうして、アルミンは、ここにいないのだろう。
それは、不思議で、不自然なことだった。しかし、考えてみたところで、こういうことになったきっかけは思い出せないし、アルミンは会いにきてくれなかった。そういえば、起きてから何も食べていない。口寂しさを紛らわせたくて、引き出しを開けた。昨日、金の糸を仕舞った引出を開けたつもりだったが、中には違うものが入っていた。うっかり、隣の引出を開けてしまったらしい。
引出の底には、千切り取ったような紙片が一枚。何だろうかと思って、拾い上げる。古びて黄ばんだ紙だ。そこには、乱暴な筆跡で、こう殴り書きされていた。
『彼には、会えない』
ただ一言、それだけだった。文脈も何もない。
引っ繰り返した裏面には、何も書かれていなかった。元々は、書物の一頁だったのだろうか、繊細なタッチで描かれた風景画か何かの一部が見て取れる。それが何を描いたものであるのかは、分からなかった。
もう一度、表面の一文を読み返す気には、ならなかった。一つ息を吐くと、そのまま、紙切れを握り潰した。ぐしゃぐしゃに丸め、手の中に握り込む。嫌な気分だった。荒っぽく破り取られた紙片の形も、黒々とした筆跡も、その内容も、何もかもが気に入らなかった。小さく丸めたそれを、元の引出に投げ入れた。どうして、こんなものを取り出さなければいけないのかと思った。ただでさえ、友人に会えずに、むしゃくしゃしているのだ。更にその上、追い討ちを掛けるようなことをしなくても良いではないか。
こんなもの、引出の奥に仕舞い込まれたまま、二度と見つからなければ良かったのだ。そのためにこそ、こうして仕舞い込まれていたのではないか。どうしてまた、亡霊のように蘇る。二度と開けるものかと、忌々しく、引出を閉めた。
こんなものより、食い物が欲しい。腹が減っているから、ますます苛々としてしまう。何でもいいから、食いたかった。
閉めたばかりの引出の、一つ隣を開ける。中を覗き込んで、ほっと口元がほころんだ。今度こそ、そこには、求めるものが入っていたからだ。折り畳まれた白い薄紙を、そっと取り出す。薄紙越しに、包まれたものの柔らかな感触を確かめていると、波立った感情が鎮まっていくのが分かる。丁寧に、その感触を味わった。
荒んだままの気分で、中に触れてはいけないと思った。あの光る糸に触れるときは、いつも落ち着いて、穏やかな心地でいたい。そうでなければ、あの繊細なものを、傷つけてしまう。ぐしゃぐしゃにして、引き千切って、汚してしまうに違いない。それだけは、避けなければならなかった。今となっては、これだけが、ささやかな楽しみなのだ。失うわけにはいかない。
深呼吸をして、食卓に着いた。はやる気持ちを抑えて、そっと薄紙を開く。柔らかな光が、こぼれ落ちる。それから、1本だけを摘み上げて、昨日と同じことをした。ただ、今日も友人に会えなかった物足りなさを紛らわせるように、昨日よりも時間をかけて、咀嚼した。焦らした分だけ、深い満足を得ることが出来た。その頃には、先ほど感じた苛立ちは、どこかへ消え失せていた。
■
それから、何日経っても、アルミンには会えなかった。毎日、あの光る糸を舐めるばかりで過ごした。いつも、最初に開ける引出に、それは入っていたので、他の引出を開けることはしなかった。余計なことをして、またあのおかしな紙片を目にするのは、ごめんだったからだ。
時折、エレン、エレンと遠くで呼ぶような声がして、急いで窓辺に寄った。しかし、目を凝らしても、誰の姿も見えなかったし、いくら待っても、窓を叩く者はいなかった。そのうち、その声が、自分の頭の中から聞こえていることが分かった。長い間、ひとりきりでいたために、そろそろ、友人の声が恋しかった。せめて、声だけでも聞きたいと思った。子どもの頃から変わらない、優しく澄んだ声で、呼んで欲しい。
思い出すのは、息を弾ませながら、こちらへ駆け寄ってくる、幼いアルミンの姿。陽光に融けそうな、麦藁色の髪が、柔らかな頬をなぞって揺れる。片手に本を抱え、もう片手は、長い上着の袖口から指先を覗かせて、こちらに大きく手を振っている。あと数メートルの距離ももどかしく、こちらからも走り寄った。殆ど、ぶつかるようにして顔を合わせる。会えて嬉しいと、互いの瞳が、物語っていた。あの頃は、毎日がそんな調子だった。たった一日、会えずにいただけで、感動的な再会の喜びを分かち合っていた。それだけ、お互いを、なくてはならないものに感じていた。
今、こうして、会えずにいることを、アルミンはどう思っているだろうかと、ふと気になった。自分がアルミンに会えないということは、アルミンも自分に会えないということであると、ようやく思い至ったのだ。そんな当たり前のことにも気づかないほど、自分のことで手一杯になって、アルミンの気持ちというものを、考えたことがなかった。
アルミンも、同じように、会いたいと思ってくれているだろうか。同じ苦痛に、苛まれているのだろうか。友人にこんな辛い思いをさせたくはないと思うのと同時に、そうであって欲しいと望む自分がいる。否、そうであるに違いないのだ。根拠はないが、確信していた。
アルミンは、何でも知っている。そして、辛いときはいつも、傍で一緒に、分かち合ってくれた。だから、会えずにいるこの現状も、こちらの気持ちも、よく理解して、心を痛めていることだろう。勿論、会いたいと思う気持ちは、こちらに負けないくらい、強く切実に抱いている。
アルミンとは、一緒にいてやらなければ、だめなのだ。うぬぼれではなく、事実として、そうなのだから仕方がない。二人でいるときにだけ、アルミンが見せてくれる表情がある。聞かせてくれる声がある。お互いに、弱ったときには寄り添い合うことを、子どもの頃から知っていた。そういうときは、どちらともなく、手を繋いだ。肩に頭を乗せて、黙って寄り掛かっているだけで、アルミンは安心するらしかった。肩に感じる、ささやかな重みが、友人を守っていることの証で、誇らしかった。
訓練兵になり、大勢の同期に囲まれた中でも、そんなことをやっていたから、心無い連中にからかわれることもあった。だからといって、アルミンも自分も、行動を改めるつもりはなかった。一番、自然なことをしているだけなのだから、咎められるいわれはない。お互いに、お互いしかいなかった、あの頃に、きっと、そう定められてしまったのだ。他の人間とどれだけ出会っても、書き換えることは出来ない。アルミンが安心して手を繋ぎ、頭を預け、身をもたれて、涙を見せることが出来る相手は、一人しかいないのだ。
会えずにいる今、それをしてやれないことが、情けなく、悔しかった。また会えたならば、その分も、ちゃんと埋め合わせてやりたかった。会えるとなれば、すぐさま、走っていこう。だから、どうか、待っていて欲しかった。
今日も、引出の前に立つ。一つの取っ手に触れかけたところで、しかし、思い直して、その一つ下の引き出しへ指を掛けた。ただの、気まぐれからの行為だった。なんとなく、このままでは、あの金の糸を食い尽くして終わるだけのような気がした。もしかすると、アルミンに会うための手がかりか何かが、見つかるかも知れないという期待もあった。いずれにしろ、彼に会えずにいる現状よりも、更に事態が悪くなることはないだろう。
そろそろと、引出を開け、中を覗く。その中に入っていたものを見て、一瞬、身構えた。いつもの、白い薄紙ではない。また、あの忌まわしい紙片ではないかと思ったのだ。
しかし、よく見れば、それは乱暴に破り取った紙切れとは、まったく違うものだった。
引出の底にあったのは、一通の封書だった。ごくありふれた、茶色い封筒。宛名は無地のままだ。引っ繰り返してみるが、差し出し人の名も、記されていなかった。破るまでもなく、封ははじめから開いている。四つ折りになった紙片を、慎重に取り出した。
広げた紙面に目を走らせた、瞬間、息が止まる。両手が震える。思った通りだった。署名などなくとも、すぐに分かった。
アルミンからの手紙だ!
急いで窓辺に寄り、穏やかな陽光の下で、もどかしく視線を走らせた。もっとゆっくりと、味わいながら読まなくては勿体ないとも思われたが、そんな余裕はなかった。手掴みで食い荒らすようなものだとしても、自分を止めることが出来なかった。アルミンの文字に、アルミンの言葉に、アルミンの思いに、飢えていた。何でもいいから、今すぐ、貪り食わなくては、おかしくなりそうだった。
さして長い手紙ではなかった。そこには、会いたいという気持ちが、素直な表現で切々と綴られていた。
君に会えなくなって、どれくらいになるだろう。目が覚めて、真っ先に、君を探している。会いたい、会いたいとどれだけ思っても、君に会えない。叫んでも、叫んでも、君に会えない。
君はいつも傍にいてくれたのに、どうして、会えなくなってしまったのか、分からない。どうして、こんなところで、ひとりきりになってしまったのだろう。どうしたら、君に会える。
もう一度、君と話したい。君に触れたい。幼い頃、顔を寄せ合って、二人だけの秘密の話をした、あのときのように。
君も、同じ気持ちでいるのだろうか。会いたいと、思ってくれているだろうか。
君に会いたい、君に会いたい。
繰り返す言葉で、手紙は締め括られていた。きれいに整った筆跡を、指先でなぞりながら、何度も読んだ。初めて読む筈なのに、それはまるで、はじめから自分の内にあった思いが、言葉のかたちをとって表れたかのように、心地よく胸に染み入るのだった。いつしか、目元からこぼれ落ちたものが、紙面をぽつぽつと濡らしていた。
同じ思いなのだと、言ってやりたかった。アルミンの思いが、自分の思いだった。そうだ、こんなことになっても、アルミンはちゃんと、理解してくれている。二人にしか分からない、思いのほどを、こんなにも書き綴ってくれている。
そんなアルミンに、応える術を持たないことが、もどかしくてならなかった。引き出しを漁れば、どこかに、紙とペンの一本でも、入っているかも知れない。しかし、書いた手紙を、どうやってアルミンに届ければ良いのか、分からない。アルミンの手紙にも、その方法は書かれていなかった。手紙に書かれた、アルミンの切なる思いのほどは、痛いほどに伝わってきたが、それはどれも、自分が身をもって知っていることであって、新しい情報を見つけることは出来なかった。
アルミンは、どうにかして、この手紙を引き出しに忍ばせてくれたというのに、こちらからは返事をする術のないことが、悔しかった。返事を書いたところで、同じような内容になってしまうだけだとしても、伝えたかった。アルミンに繋がるのであれば、どんな細い糸でも、掴んで離したくなかった。その先にアルミンがいるというだけで、また会える日を、信じられる。
思い立って、新たな引出を開けた。思った通り、そこには、ありふれた封筒と便箋、鉛筆がきちんと入っていた。食卓に着いて、急いで鉛筆を走らせた。早く伝えたいという思いが先走って、文字は荒っぽく乱れたが、構わなかった。伝えたいのは、一つだけだったからだ。
会いたい。会いたい。会いたい。
先の丸くなった鉛筆で、それだけを、叩きつけるようにして、紙面に刻んだ。アルミンからのあれほどの思いを、受け止めるだけで、何も応えられないなんて、耐え難かった。溢れ出すものを、何かにぶつけなければ、潰れてしまいそうだった。届ける方法なんて、問題ではなかった。
書き終えた頃には、軽く息が上がっていた。会いたいという思いだけで埋め尽くした便箋を、折り畳んで封筒に入れた。それから、適当に選んだ、空っぽの引き出しに仕舞いこんだ。
後は、届くことを祈るばかりだった。何らかの方法で、アルミンが手紙を届けてくれたのと同じように、この手紙も届けば良いと思った。こちらの気持ちを、アルミンも分かって、安堵してくれるだろう。そうすれば、きっと、また会えるようになる。
手紙というかたちで、わだかまる思いを吐き出したからだろうか。久しぶりに、清々しい心地がした。
■
1日に1本だけと決めて、大切に味わっていたものの、金の糸は少しずつ、確実に、その量を減らしていた。それに反比例するように、このところ、腹が減って仕方がない。あるいは、友人に会えずにいることも、腹の底の空しさの原因であっただろうか。アルミンさえいてくれれば、こんな惨めな、満たされない感覚を抱くことはないのだ。いったい彼は、どこに行ってしまったのだろう。いつまで自分は、一本の糸で、飢えをしのぐことが出来るだろう。引出を開ければ、顔を埋められるくらいの金の糸が入っていれば良いのにと思いながら、無造作に取っ手を引く。そして、いつもの小さな包みを見つけて、溜息を吐く。日々、そんなことの、繰り返しだった。
きっと今日も同じだろうと、半ば諦めつつ、無造作に引出を開ける。しかし、その中に入っていたのは、ひとつまみの糸を包んだ薄紙ではなかった。かといって、溢れるほどの金糸でもなかった。
入っていたのは、人形だった。小さな子どもが、抱いて遊ぶような、柔らかな布人形。予想外のものが現れて、一瞬、あっけにとられた。そのまま、何も見なかったことにして閉じることも出来たが、念のため、検めておいた方が良いかも知れない。とりあえず、片手で襟首を摘み上げた。人形遊びをする趣味を持ったことはないし、子どもの頃にそんなものを与えられた記憶もない。どうしてこんなものがここにあるのだろうかと、首を捻りながら、しげしげと眺めた。
綿を詰めた身体は、だいぶ使い込まれたものらしく、くったりと手足を垂らしている。あるいは、もともと、使い古しの布をつぎはぎして作られたものだろうか。人形の薄汚れた麦藁色の頭を、指先で軽くはたいてやった。目の位置に青いボタンを縫い付けた素朴な顔立ちは、なかなかに愛嬌がある。単純化された造形からは、どちらとも判断がつかなかったが、白いシャツと、七分丈のズボンという服装からみるに、人形は少年であるらしかった。
そして、特筆すべきは、彼の手足の一本が欠けていることだった。哀れなことに、右腕は途中から千切れてしまったらしく、断面から綿が覗いていた。縫製が甘かったのか、毎日遊んでいれば、そういうことにもなるだろう。飛び出た綿を、破れた箇所へ、指先で押し込む。そのときは、収まったように見えるが、押さえる指を離せば、すぐにまた、中身が溢れてしまう。かわいそうだが、どうしてやることも出来なかった。
妙なことではあったが、麦藁色の頭と青い瞳を見つめていると、次第に親しみが湧いてくる。それは、長く友人に会えずにいる人恋しさも手伝って、一時の気の迷いであったとしか言いようがない。無抵抗の人形を、手の中で弄んだ後、戯れに、頬を擦り寄せた。柔らかな感触は、久しぶりに触れたような気がした。ただ、十分な実感を得るには、人形はあまりに小さく、物足りなかった。もっと神経の鋭敏な箇所で触れれば、また違うのだろうか。それを試すべく、白い額に、そっと唇を寄せた。それで、何が変わることを期待したわけでもない。とりあえず何でも口に入れたがる幼児と同じだ。ただ、確かめてみたかった。
今にも唇が触れる、その瞬間だった。ぐらりと、視界が傾いた。遅れて、首の後ろから頭蓋を、鈍痛が襲う。咄嗟に、頭を抱え込んだ。ぼとりと、手の中のものが、床に落ちる音がした。視界がきかない。灰を撒き散らしたように、光が霞む。地に足の着かない、奇妙な浮遊感。
よろめきながら、壁に背中を預け、辛うじて平衡感覚を取り戻した。思わず閉じてしまっていたらしい目を、そろそろと開ける。いつもと変わりのない、居間の風景。足元には、壊れた人形が、仰向けに転がっていた。
いったい、何が起こったのかと、頭をさすりつつ様子を伺ってみたが、あの鈍い痛みは一度きりで、その残滓も、間もなく薄れて拡散した。軽く頭を振ってみても、特に異常な感覚はない。
背をかがめて、床に転がった人形へ、慎重に手を伸ばす。指先でつついて、変わった様子が見られなかったので、首の後ろを摘んで拾い上げた。ためつすがめつしてみたが、人形はただの人形にしか見えない。こいつが原因ではないかと、一瞬でも疑ったことが、ばからしく思えてきた。こんなちっぽけなものに、どうしてそんな力があるだろうか。
いずれにしても、良い気分とはいえなかった。もう一度、唇を寄せて、何が起こるか確かめる気には、なれそうになかった。頭痛によって引き起こされたか、微かな吐き気すら覚えている。いかなる理由にしろ、この小さな人形を、己の身体が、拒絶していることが分かった。
妙な気分のまま、人形を元の引出に戻した。こいつに何らかのまじないの力があるとは信じてはいないが、心持ち、丁寧に、底に寝かせてやる。引出を閉める前に、もう一度、それを見つめた。閉じてしまえば、おそらくは、二度と取り出すことは出来ない。思うと、少し親しみを感じていただけに、名残惜しい気がした。だから、最後にもう一度、見つめてから、ゆっくりと、引出を閉めた。
■
いったい、ここで何日を過ごしたことだろう。金の糸は、一本ずつ大切に食していたが、そう経たず喰い尽くしてしまうことは、目に見えていた。貴重な一本を、今日もまた、食らうのだ。この身体の中は、もうあちこちに、金の糸が巣食っていることだろう。息苦しいのも、心臓が痛むのも、そのせいだ。心臓を通り抜けた細い糸は、鮮烈な血液の色に染め上げられて、ますます艶めく。動かなくなるまで、締め付けられて、そして、無数の糸に引かれた、操り人形になる。
そうすれば、もう、腹が減って惨めな気分になることもないのだろうか。会いたい気持ちで、思考をぐしゃぐしゃにかき乱されることも、ないのだろうか。
今日も、あの糸を喰らうべく、引出を開ける。そこで、己の眼を疑った。中に入っていたのは、白い薄紙の包みではなかったからだ。それは、手紙だった。いつかも見たことのある、素朴な封書だ。アルミンから、また手紙が届いたのだ。急いで取り出し、便箋を広げる。
手紙には、ただ、会いたい、会いたいと書き綴られていた。その文字列を見た瞬間、がくりと膝を折っていた。震える手に、便箋を握り締め、床に拳を打ちつける。それから、堪えきれずに、嗚咽をもらした。くそ、と床を殴りつけるも、うまく力が入らなかった。背を震わせて、ひとしきり、泣いた。
手紙には、アルミンの切なる思いが溢れ出ていた。それは、叫びだった。おかしくなりそうなほどに、悲痛な叫びだった。知っている。それ以外の何も考えられないほどに、思考のすべてを覆いつくす、心臓が押し潰されそうな、この痛みを、知っている。同じ痛みを、二人で分け合って、感じているのだ。
会いたい、会いたいと綴られた筆跡は、アルミンの切迫した状態を表すように、大きく乱れていて、見ているだけで辛かった。友人がこんなに苦しんでいるというのに、彼に会うことすら出来ない、自分はなんて無力だろうかと思った。直截に、彼の言葉を聞き、彼の涙を受け止め、きつく抱き締めてやりたいのに、叶わない。会いたい思いは同じなのに、それをアルミンに伝える術もないのだ。
彼は、不安に思っているかも知れない。会いたいと思っているのは、自分のほうだけなのではないか、だから会えないのではないかと、どんどん悪いほうへと、考えが突き進んでしまうかも知れない。アルミンには、そういうところがある。いかなる状況下でも、物事を精確に把握し、正解を導き出す優れた能力を持っているくせに、自分自身のことだけは、客観視出来ないらしい。普通の子どもに簡単に出来ることさえも、出来ずに打ちのめされた、かつての体験が尾を引いているのか、不当に己を低く評価しようとする。だから、放っておけないと思うのだ。傍についていてやらなくては、誰かに壊されてしまうか、あるいは、ひとりでに壊れてしまうような気がする。
会えなくなってしまったことを、もし、アルミンが自分の責任であると感じているのならば、事態は深刻である。会えないほどに、アルミンはますます、己を責めるだろう。こちらの思いが伝わっていないとなれば、なおさらである。実際、手紙の筆跡は、いつものアルミンからは考えられないほどに、乱れに乱れていた。どんな状態で、アルミンがこの手紙を書いたのかと想像すると、いたたまれなかった。ひとりきりで、きっと、細い肩を震わせて、声もなく泣いている。抱き締めてやりたいのに、彼がどこにいるのかも分からないのだ。
最後に触れた感覚を、思い出そうとしても、うまくいかない。どうして会えなくなってしまったのか、思い出せないのと同じように、記憶がぶつりと途絶えている。それは、きっと大切なことだった筈なのに、糸口さえも掴めない。こうして会えなくなる直前、アルミンは、どんな表情をしていただろうか。どんな言葉を交わしただろうか。あの金の糸を、いつ、どうして自分は、切り取ろうと思ったのだろうか。何故、アルミンは、それを許したのだろうか。そんなことも思い出せない己に、愕然とした。記憶からも、彼を奪うのかと思った。
どうして、これほど、苦しめられなければいけない。
ただ、会うだけのことが、どうして許されない。会うことさえ出来れば、こんな回りくどいことをしなくて済むのだ。一本の糸だけで我慢することもなく、存分に、顔を埋めることが出来る。柔らかな頬に、口付けることが出来る。きれいに浮き上がった鎖骨を、噛み締めることが出来る。簡単に折れてしまいそうな細い小指を、ねぶることが出来る。こりこりとした、あの感触が、恋しくてならなかった。これ以上は、堪えられそうになかった。
棚と壁の僅かな隙間に両手を差し入れて、力任せに、引き剥がした。ぐらりと棚が傾き、いくつもの引出が、中身をさらけ出しながら、落下していく。その中身は、どれも、がらんどうだった。床に散乱した引き出しの上に、遅れて覆いかぶさるように、穴だらけになった棚が倒れ込む。衝撃に、床が揺れ、窓が軋んだ。気分は、治まるどころか、より一層にひどくなった。
衝動的に、袖を捲り上げ、親指の付け根に思い切り、噛み付いた。ぎりぎりと、牙を突き立て、食い破る。ぶちぶちと、何かの千切れる感覚があったが、痛みは感じなかった。溢れ出る液体でぬるつく肉に、何度も食いつき、噛み締めた。彼に会えない、この不条理も、引き裂いて、食い千切りたかった。それなのに、いくつ歯形を刻んでも、ただ生温い感触がするだけで、ちっとも満たされない。違う、欲しいのは、こんなものではないと思った。違う、違うと、頭を振りながら、縋りつくように、噛み締めていた。
期待したようなことは、何一つ、起こらなかった。ただ、手と口を汚しただけだった。ぼんやりと両手を見つめ、ずるずると、その場にしゃがみこむ。散乱した引出も、ひどい有様になった己の手も、どうでもよかった。何らかの処置をしようとは思わなかったし、そもそも、視界に入れたくもなかった。
ふと視線を落とせば、傍らに、一輪のタンポポが落ちていた。どこからか紛れ込んだか、引出のどれかの中に入っていたのだろうか。瑞々しい黄色の、きれいな円形をした、愛らしい野の花。陽光をいっぱいに集めたような、その黄色が思い起こさせるのは、穏やかな日常風景そのものだ。友人と遊んだ野原のあちこちに、それは群生して、微風に花を揺らしていた。形が良く、すらりと高く伸びた花を探しては、摘み取って歩いた。特別、花に興味は無かったが、戦利品を譲ってやると、アルミンが喜ぶからだ。すごいね、ありがとう、と言って嬉しそうに微笑む顔が見られるのならば、手を青臭くしながらの地道な探索作業も、苦ではなかった。
渡した材料から、アルミンは器用に、指輪だの冠だのを作ってみせた。出来上がった作品は、二人で分かち合う。揃いの指輪を嵌めると、何か秘密を共有したような心地になって、小さく笑い合った。寝転がった草の上に広がる、麦藁色の髪が、黄色い花のようだった。
そんな平和な思い出も、今となっては、ただ渇望を煽るばかりだった。こんなものがあったところで、アルミンがいなければ、何の意味もない。小さな花を、無造作に取り上げる。傷ついた手に擦れて、花弁は赤く汚れた。すぐさま、舐め取ったが、花弁の奥まで這入り込んだものは、拭うことが出来なかった。だから、咥えて、口の中に転がした。細かな花弁のかたちが、口内をざわざわと撫でる。それに刺激されて、思わず、歯を立てた。舌の上に広がる苦み。花も茎もまとめて口に入れ、そのまま呑み込んだ。口の中にしつこく残る草の匂いに、ばかなことをしたと後悔したが、既に遅かった。忌々しく、頭を抱えて、眼を閉じる。何もかもが煩わしく、そのまま床に姿勢を崩した。投げ出した手を、繋いでくれる相手はなく、ただ空しく虚空を掴むばかりだった。
■
古びた書物を、大切そうに捲る、小さな手。
幼い頃、繋いだアルミンの手は、彼の頬のように、ふっくらとして、柔らかかった。それが、訓練兵団に入り、ブレードを握って繰り返し擦り切れた皮膚が硬化し、掌も指も次第に引き締まっていった過程については、よく知っている。子どもの頃のように、仲良く手を繋いでいたからというのではない。その頃には、アルミンの身体の色々な箇所を、唇で知っていた。
夜毎、繰り返し蘇り、襲い来る悪夢。忌まわしい光景の再現。幾度となく、夜中に目を覚ました。呼吸は乱れ、額にはじわりと汗が滲む。苛立ちや焦燥感で、昂った神経を鎮めるには、隣で眠るアルミンに触れるのが一番だった。温かくて柔らかいものを、撫でたり、抱いたりしていると、次第に心が落ち着いていくのが分かる。枕でも毛布でもなく、自分にとっては、それがアルミンだった。
深く寝入っている友人を、腕の中にきつく閉じ込める。それでも、足りないときには、やるせない衝動を牙に乗せて、荒っぽく喰いついた。ほっそりとした首に、肩に、腕に、いくつもの噛み痕を残した。そのうちに、アルミンは、目を覚ますこともあったが、抵抗はしなかった。そういうときは、何も言わずに、こちらが落ち着くまで、頭や背中を撫でてくれるのだった。
エレンが辛そうなのを見るのは、辛いよ、と言っていた。こちらが苛立ったり、惨めな気分になっているときに、アルミンは一緒になって、辛そうな顔をしてくれる。友人を苦しませるのは、本意ではないが、それを嬉しいと感じることを、抑えられなかった。痛みを、辛さを、アルミンが、分け合ってくれているのだと思った。だから、辛うじて、やっていけている。
アルミンの優しさに、甘えた。優しい彼に、身勝手な情動を押し付けて、傷つけた。そうすれば、ようやく安心して、ゆっくりと、互いの傷を舐めることができる。アルミンが、必要だった。こんな風に求められることを、アルミンも喜んでいた。誰かの役に立てることが、アルミンは何より、嬉しいのだ。だから、悪いことをしているとは、思わなかった。お互いにとって、良いことなのだと思った。
一人では統制出来ない、腹の底から湧き起こって内臓を食い荒らす情動を、そうしてやり過ごすことしか、知らなかった。そうして、アルミンを、喰らっていた。
作りの小さい右手の、とりわけ小指が、もう長い間、一番のお気に入りだった。細い指だった。関節は華奢で、歯の間にそっと挟むと、こりこりとした軽い感触があった。小さな爪は、子どものように薄く、柔らかで、強く歯を立てたら破れてしまいそうだった。
しなやかな肉の奥にある、硬い芯を確かめるように、唇と歯を使って、揉み解した。時折、小指はひくりと跳ね上がって、口蓋を叩く。それは、友人が吐息交じりの声をこぼしてしまうのに先行して、いつも跳ね上がるのだった。声を抑えることは出来ても、反射的に跳ね上がる指は、どうしようもないらしいのが、面白かった。暴れた罰として、たっぷりと唾液を絡めた後、強く吸い上げてやると、今度は指先だけではなく、細い肢体のすべてが、ふる、ふるとひくついた。
これなら、噛み切れそうだなと、ふやけた小指を甘噛みしながら思った。ぐ、と試しに力を込めてみると、痛いよ、と小さく声が上がった。すぐに歯は外したが、細い指にはしっかりと、噛み締めた跡が残っていた。へこんでしまったそこを、慰めるように、舌先で丁寧になぞった。そうしていると、くすぐったいのか、友人はくすくすと笑い出す。そして、こちらに手を伸ばす。優しく髪をかき混ぜながら、彼は陶然と瞳を閉じて、言うのだ。
エレン、噛んで。噛んで、いいよ、と。
■
瞼を透かして、強い光が瞳を射る。庇うように手を翳しながら、緩慢に眼を開いた。朝のようだ。身体があちこち軋む。どうやら、床で眠ってしまったらしい。いったいどうして、そんなことになったのだったか、思い出そうとしたが、暫く考えてみても、思い当たることがなかったので、諦めた。どうせ、たいしたことではあるまい。室内を見回しても、特別に変わったところはない。何故か捲り上がっていた片袖を直しつつ、身を起こす。腹が減っていた。たぶん、食べ物の夢を見ていたのだろう。覚えていないが、そんな気がする。いつものように、壁際の棚へと向かう。整然と並ぶ引出の一つに、手を掛けた。
次は、いったい、何が出てくるというのだろうか。そろそろと引き出して、中を覗き込む。今度は、引き出しの中央に、小さな白い包みが入っていた。食い物であると、見た瞬間に、直感する。ほっと安堵の息がこぼれた。
大きさとしては、金の糸を収めた包みと、さして変わらない。小指くらいの大きさで、真中が膨れている。ただ、その中身が、糸とは違うものであるということは、開ける前から、なんとなく分かっていた。摘んでみると、糸の束とは明らかに異なる、硬い感触と、確かな重み。ごくりと喉が鳴る。知っている。棒のような、この小さなものの歯応えを、確かに知っていると思った。包みを開ける前に、顔を近寄せて、匂いをかいでみた。鼻腔をくすぐる、濃厚な匂い。
瞬間、景色が一変する。静寂に慣れた耳に、痛いほどのざわめきと、目を射る強烈な光。それは直接に脳裏に響く。否、そこから生じているのだった。目を瞑り、耳を塞いでも、止まらない。心臓と脳が、どくどくと脈打つ。勝手に展開する光景は、加速していく。
あれは、いつのことだった?
これは、何の記憶だ?
白い布に包まれた、一抱えほどの、長細い塊。陰鬱な人々の行進。それだけしか、取り返せなかった。悲痛な泣き声。いつか見た光景。
知っている。
この手に、抱えたのだ。
それが、誰のものであるのか、知っていた。
血の気の失せた、つくりもののように冷たい腕。もう、跳ねることのない、華奢な小指。最後に聞いた声。最後に見た表情。
一緒に行くんじゃなかったのか?
今度は、そっちが忘れてしまったのか?
答えは、返ってこなかった。
持ち帰ることは、出来ないのだと、感情を押し殺したような声。薄汚れた麦藁色の糸を一束、切り取ったとき、誰かが泣いていた。薄紙に包んだ、それが、証なのだと言われた。
けれど、他を捨てるために、それを切り取ったのではなかった。残りの何も、手放すつもりはなかった。
こんなところに、残していけるわけがなかった。
一緒に行くと、約束したから。
情動の混乱に直面したとき、それを鎮める方法は、決まっていた。慣れ親しんだ、あの柔らかいものに、触れること、そして、噛み付くこと。
噛んで、良いと、アルミンが言ったから。
生きることは、喰らうことだから。
だから。
喉に引っ掛かる感覚を残して、深く、落ちていくもの。
心臓に絡みついて、締め付ける、赤く染まった、金の糸。
ああ、よかった。これで、一緒に行ける。
最後に感じたのは、腹の底からの、深い満足感だった。
あれから、ずっと、アルミンに会えずにいる。
彼にはもう、会えないのだと、周りの人々は同じ内容の文句を、色々に言い方を変えて、繰り返した。どうやら、自分以外の誰もが、同じ認識であるらしかった。確かに、アルミンはここにはいないが、だからといって、どうして諦めてしまうのだろう。会えるか会えないか、そんなことは、誰にも分からない筈だ。それなのに、誰も彼もが、会えない、会えないと、ある者は悲しげに、ある者は恐ろしげに、ある者は忌まわしげに、言い立てる。聞き分けのない子どもに言い聞かせるようにしていたかと思うと、頼むから、分かってくれと、最後には懇願までするのだ。
こちらの答えはいつも決まっていて、そんなことよりアルミンに会わせろ、と訴える。すると決まって、相手は黙り込む。こちらを見つめる、その瞳に浮かぶのは、苦く、痛ましげな色合いだ。彼らは、何かを隠している。その何かとは、アルミンだ。皆で口裏を合わせて、会わせまいとしている。こちらとしては、折れるわけにはいかなかった。どれだけアルミンに会いたいか、訴えていれば、いずれ彼らも、気を変えてくれるだろう。いったいどんな理由があったのかは知らないが、会わせずにいたことは、間違いだったとわかってくれる。
哀れに思うのならば、ただ一つだけの願いを聞いてくれればいい。友人に会いたいというだけの、それは、ささやかな願いだ。ただ、会いたいだけなのに、どうして叶わない。毎度、同じ説教を聞かされなければならない。同じ遣り取りを、あとどれだけ続ければ、会えるのだろうか。
どうしてアルミンに会えなくなってしまったのか、その理由も、思い出せないのだ。きっと、記憶に残らないほど、些細なことだったのだろう。それなら、取り返せる筈だ。
だから、ここで、思い出の我が家で、待つことにしたのだ。ここなら、アルミンもよく知っている。もう一度、二人で会うなら、ここしかないと思った。自分とアルミンを引き裂く、すべてのものに対する、反抗といっていい。
子どもの頃は、アルミンの家へこちらから出向いて、彼を外へと連れ出した。今は、アルミンの方が、こちらに呼び掛け、連れ出してくれる。あのとき、そうだったように。きっとアルミンは、会いにきて、連れ出して、面倒を掛けた自分を叱ってから、優しく笑ってくれる。いつまでも、それを待つつもりだ。
■
気付くと、壁の上に立っていた。五十メートルの視界から、見下ろす下界には、やはり、人の姿は見えなかった。空に鳥はなく、鳥を運ぶ風も止んでいた。
腕の中には、引出が一つ。ちゃんと外箱に収まっている。家にあった棚から、そのまま切り出してきたかのようだった。
そこから出ろと、引出の中から、叫ぶ声が聞こえてくる。そういえば、前にも似たようなことがあったのを思い出して、小さく笑った。あのときは、アルミンが、家の窓を叩いて、呼び起こしてくれたのだった。だが、今、アルミンの声は聞こえない。そちら側に、アルミンはいない。ならば、応えるのは、間違いだと思った。
そこから出ろ、出てこいと、引出はしつこく呼び掛けてくる。誰だか知らないが、引出の中にいるくせに、出て来いというなんて、可笑しな話だった。
残念ながら、こちらが外側だ。
壁の縁から爪先を出して、あと一歩踏み出せば落下するだろうぎりぎりに立つ。そして、腕の中の引出から、ぱ、と手を離した。それはくるくると回転しながら、あっという間に小さくなって、下界の景色に紛れて見えなくなった。そいつを見送ったところで、やれやれと、壁の縁に腰を下ろす。
分かっていた。
いくら引出を開けたところで、探し求めているものは、その中にはいないのだ。見つかるのは、仕舞い込んだ記憶ばかりで、偽物の断片をいくら繋ぎ合せても、決して、彼には至らない。
会えないアルミンが、本当はどこにいるのか、はじめから知っていた。自分に一番近いところにあって、そして、自分では開けることの出来ない、引出の奥の、暗い底。取り出すことは、もう、出来ない。一緒にいるためには、こうするしかなかった。二度と会えなくなる代わりに、二度と離れないことを、選んだのだ。
切なく渇望を訴える腹の上を、宥めるようにさすった。ふと周囲を見れば、いくつもの引出が散らばっていた。その真中へ、埋もれるようにして寝転がる。積み重なった引出は、周りを取り囲む城壁のようで、心強い。大丈夫、引出はまだ、いくつもあるのだから。
寝転がって、見上げた空は、薄曇りの青。肺が軋むほどに、息を吸い込んだ。
そして、叫ぶのだ。
君に会いたい!
[ end. ]
アルミンに会いたいエレンbotさん(@aitakute_bot)の「アルミン食べたい」発言に心を打たれて三次創作。いろいろとごめんなさい。
2014.04.23