Back-flip
■Eren & Armin
「アルミン……大丈夫か? きつかったら、言えよ」
「う、ん……いいよ、続けて……」
身じろぐ度に、きし、きし、と古びた寝台が軋む。それは、ともすれば押し殺した悲鳴を連想させたが、友人の身を気遣って為された問いに対する返答は健気なものであった。それに応じて、エレンは、小さく頷く。辛い思いをさせるのは、本意ではないが、これもアルミンのためである。
「ちゃんと解さねぇと、お前が辛いから……」
「っエレ、……強く、しないで……」
切迫した訴えに、エレンはすぐさま力を抜いた。あまり性急に事を進めすぎてしまったかも知れないと反省する。力の加減が下手なのは、戦闘場面に限らないようだ。
「ああ……悪い、つい……これなら、どうだ?」
アルミンの様子を窺いつつ、エレンは努めてゆっくりと、自重を移動した。伝い感じられる呼吸のリズムを掴んで、同調させると、アルミンは少し楽になったようだった。
「っふ……ちょっと、痛いけど……いい、よ」
「じゃあ……続けるからな」
ぐ、と押し込むようにすると、アルミンが息を呑むのが分かった。苦しげな吐息がこぼれ落ちる。何かを堪えるように、ふるふると、麦藁色の髪が揺れる。
「うん……っ、あ……」
上ずった声が、限界を告げようとした、そのときだった。
「……さっきから黙って聞いてりゃお前らは! うるせぇよ! もっと静かに出来ねぇのか!?」
我慢ならないといった様子で、読んでいた教本を枕に叩きつけ、ジャンは怒鳴った。寝台の上のアルミンと、その背中に圧し掛かるエレンを、忌々しげに睨めつける。就寝前のひとときを、思い思いに過ごしていた同期たちが、その怒声に驚いたように、あるいは、またかとあきれたように、こちらに顔を向けるのが分かった。
同期の唐突な怒りの矛先を向けられて、エレンは眉を寄せた。
「は? ……何イラついてんだ、お前……」
そう騒いでいたつもりはない。これがうるさいというのならば、カードゲームに興じている連中の歓声の方が、よほど耳障りではないか。こいつはいつも、わけのわからない難癖をつけて絡んでくる。ややうんざりとして、エレンは溜息を吐いた。
「誰だって、やってることじゃねぇかよ……柔軟体操なんて」
鍛え上げた身体を武器とする兵士において、柔軟性は欠くことの出来ぬ素養の一つである。あらゆる体勢からの攻撃動作の自由度を高めるのみならず、受けた衝撃を受け流し、防御態勢を取る上でも有利に働く。筋力トレーニングと共に、訓練兵の課題としては、基礎の基礎であるといえる。
就寝前に、交代でお互いの背中を押す手伝いをするのは、エレンとアルミンの日課だった。いちいち、痛いだの死ぬだのと呻きつつ取り組んでいる者もいるのだから、それと比べれば、大人しいものである。文句をつけられる筋合いはない、とエレンは思った。
一方で、アルミンは素直に、己の非を認めている。
「あっ……ごめん、僕の声、いちいち、うるさかったよね……」
口元を覆い、気恥ずかしげに縮こまって、アルミンは俯いた。彼が謝るようなことではないと思うが、事を荒立てるのは得策ではないと判断したのだろう。友人の意思を尊重して、エレンはジャンに文句をつけるのをひとまず保留とした。
アルミンは神妙な面持ちで、声を潜める。
「出来るだけ、声、抑えるようにするね。ごめん」
「分かりゃいいんだよ……」
自分の言葉を忠実に守ろうというのだろう、アルミンは片袖で口元を覆った。準備が整ったことを確かめてから、エレンは耳元で問い掛ける。
「いいか? ……いくぞ、」
友人の問い掛けに、こくりと頷く。それを合図に、ぐ、と背中が押さえ込まれた。
「ん……く、……っふ、……」
押し殺した声が、抑えきれずにもれ聞こえる。アルミンは片手を懸命に唇に押し当てるが、苦しげな息遣いを隠すことは出来ない。小さく震えるその背中越しに、エレンは気遣わしげに声を潜めて問う。
「……アルミン、辛いか」
「っ……う、んぅ……」
「……だからうるせぇよ!」
いよいよここから、というところで、またしても横槍が入った。またか、とエレンは手を休める。いったい、こいつは何が気に入らないというのだろうか。正当なる鍛錬の邪魔をされて腹が立つというよりは、ただ純粋に不思議である。エレンは首を捻った。
「いや、うるさくねぇだろ……ちゃんと頑張って、声、抑えてるじゃねぇか」
「音量の問題じゃねぇ! 変な声出すな!」
「変? 何が?」
もういい、とジャンは吐き捨てて、頭まで毛布に包まった。妙な奴だと思いつつ、エレンは引き続き、アルミンの背中を押そうとした。ぐ、と力を込め──かけたところで、その手が、ふと止まる。
「……アルミン? おい、アルミン、」
返事が無い。見れば、開脚して上体を倒しかけた格好のまま、アルミンは小さく寝息を立てていた。隣のコニーが、あきれたように呟く。
「うわ、器用だな……この体勢で寝るかよ」
軽く頭をつつくが、アルミンは何ら反応を返さない。完全に寝入ってしまっている。
「疲れてたんだ……寝かせてやらねぇと、」
背後から脇に手を入れて、エレンは、ひとまず友人の上体を起こさせた。力ない身体が、胸にもたれかかってくる。
「手伝おうか」
「いや、大丈夫だ」
仲間の申し出を断って、そのまま、ずるずると寝床まで引き摺っていく。エレンは片手を伸ばすと、薄っぺらい枕を定位置に据え、そこへアルミンを仰向けに寝かせてやった。あまり丁寧な運び方ではなかったが、よほど深い眠りに落ちていたのだろう、途中でアルミンが目を覚ますことはなかった。
力なく投げ出された肢体に毛布をかけてやって、エレンは、友人の白い顔を見つめた。安らかな寝顔とは、言い難い。幼さを残した柔らかな面立ちに滲むのは、憔悴の色だ。満ち足りた思いで、一日を終えたようには、とても見えない。得るもの以上に、何もかも根こそぎ奪い尽くされて、最後に残された意識さえ失ったというのが、適当であるように思われた。
無理をしている、と思う。友人の、細く頼りない首や、薄い肩を見つめて、エレンは目を眇めた。
日々の過酷な訓練に、アルミンはついていくのがやっとの様子だった。集団の最後尾に、辛うじて追い縋るだけで、もとより少ない体力を使い果たしてしまう。基礎的な体力トレーニングを、毎日こなす中で、たいていの少年たちはみるみるうちに体格を向上させていったが、アルミンはあまり変化のあるようには見えない。決して、さぼって楽をしているのではなく、むしろ必死になって取り組んでいる筈なのに、結果がついていかないのだ。
夜も、他の同期たちが雑談などをしている隣で、早々に眠り込んでいる。特に昼間の訓練が過酷であった場合、今日のように、行き倒れ的に意識を失うことも、しばしばである。折角、書庫から持ち出してきたというのに、好きな本を読んで楽しむ暇もない。それらは、開かれることもないまま、枕元に山積みとなっている。自分や、夜更かし組のあり余っている体力を、エレンは、分けてやりたいくらいだった。
友人の寝顔を見つめ、柔らかく落ちかかる金髪を、指先に弄ぶ。ゆっくり休めよ、と胸の内で呟いて、隣の布団にもぐり込んだ。
■Jean & Armin
普段は通らない寮の裏手を通りかかったのは偶然で、だから、そんな人気のない場所で誰かに出くわすものとは、もとより想定していなかった。それは相手にとっても同じことで、心の準備が出来ていなかったのはお互い様であろう。先に相手に気づいたのはジャンで、その格好が格好であっただけに、思わず足を止めていた。こんなところに陣取っていた相手、すなわちアルミンは、そのとき、逆さまになって、どうにもこうにもならない状態に陥っていた。
具体的には、壁際で作ったブリッジの体勢から、何とか足を蹴り上げ、倒立へ移行しようと試みていた。後方転回の練習ということらしい。膝を曲げて反動をつけるが、僅かに浮いた両脚は、真上まで上がる勢いもなく、元の地点へ落ちてしまう。壁を足掛かりにしても、のろのろとやっているうちに、両腕は自重を支えきれずに震えだし、とうとう限界に至って、かくりと肘が折れる。わ、という短い悲鳴とともに、アルミンは体勢を崩して、あっけなく地面に背中を打ちつける。
見ていられないほどの惨憺たる有様に、逆に興味を引かれて、ジャンはそちらに歩み寄った。呻いているアルミンを、上から覗き込む。
「……独りか? いつものお友達は、どうしたんだよ」
「あ……やあ、ジャン」
仰向けになったまま、逆転した視界に同期の姿を映して、アルミンはやや気まずげに応じた。どれだけここで励んでいたのか、すっかり息を切らしている。頭に血が上ってしまったために、頬は真っ赤だ。一瞥して、さすがにジャンは哀れみを覚えた。年季の入った寮の外壁を、手の甲で叩く。
「誰かに補助して貰った方が、良いんじゃねぇか。こんな壁なんかじゃなくてよ」
「僕のために、迷惑は掛けられないよ。誰かに、怪我をさせてしまうことの方が、怖いし……」
ゆっくりと身体を起こし、肩や背中についた土を払いつつ、アルミンはそんなことを言う。確かに、遠慮っぽいこの同期の性格では、誰かの顔面を目掛けて足を振り上げるような真似は出来ないだろうとジャンは思った。いつぞやのコニーの無茶な補助で、自分が痛い目を見ているだけに、相手を巻き込んでしまうことを恐れているのかも知れない。ただ、それゆえに、疑問点は最初の問い掛けに立ち返る。
「あの、死に急ぎ野郎でもか?」
幼馴染であれば、そんな遠慮も必要あるまいと思って、ジャンは問うた。手についた土を払っていたアルミンの動作が、ふっと途切れる。
恐怖心や躊躇は、大胆な跳躍を要する運動において、足を引っ張るものでしかない。ならば、最も信頼し、リラックス出来る相手と練習に励み、成功体験を重ねるのが合理的である。アルミンにとって、その適切な相手は誰かといえば、思い浮かぶ顔は一人しかいない。しかし、アルミンは、どこか後ろめたそうな面持ちで目を伏せる。
「エレンは……あまり、僕にこういうこと、させたくないみたいだから」
そうだろうな、とジャンは胸の内で同意した。自分から投げ掛けたことであったが、そう返事が来るだろうことは、予測の内であった。
嫌でも視界に入るので、奴の動向を目にする限りにおいて、エレンはアルミンを気遣いはするものの、自分と同じ水準まで鍛え上げてやろうとは思わないらしかった。指導してやっても無駄と諦めているのか、あるいは、危険な目に遭わせたくないとでも思っているのだろうか。
そうだとすれば、笑い話である。ここは、人類の未来を担う兵士を養成する場である。力のない奴は去れ、とはエレン自身が言ったことではないか。だったら、真っ先に、いつもつるんでいるその幼馴染を、開拓地に送り返せと言いたい。要するに、傍に置いておきたいが、自分と同じことはさせたくないというのだから、破綻していることは簡単に分かる。
口に出しはしないが、アルミンが無理をしてまで過酷な訓練に励むことを、エレンは良しとはしていまい。そんな友人の胸の内を、アルミンも何となく察し、まるで悪いことをしているかのように、隠れて練習に励む。面倒くさいことだ、とジャンは心底あきれた。いつもべたべたとつるんでいるくせに、妙なところで、噛み合っていない。それも、原因は互いに、相手への不器用な思い遣りから生じているわけだから、ますます性質が悪い。
勝手にやってろと、ジャンが肩を竦めかけたときだった。
「それでも、跳びたい」
俯いていたアルミンは、顔を上げて一言、そう呟いた。一瞬、聞き間違いではないかと思った。内容が予想外だったというのではない。その声が、あまりに迷いなく、はっきりと発せられたものであったからだ。
大人しく穏やかな性質で、喧嘩っ早い友人を困ったような顔で諌めている姿が似合いのアルミンが、こんな声も出せるということを、ジャンは知らなかった。いつも集団の最後尾にいる、落ちこぼれの同期の面を、ジャンはまじまじと見つめた。お前には無理だろうといって笑い飛ばす気には、なれなかった。代わりに、ジャンの口から出たのは、自分自身、思ってもみない台詞であった。
「……もっかい、やってみろよ」
「え? あぁ……」
すぐに立ち去ると思っていた同期に、そんなことを言われて、こちらはこちらで予想外であったらしい。アルミンは首を傾げたが、誰かに見て貰った方が良いとは思っていたらしく、素直に提案に従った。
見られているという緊張感もあってか、アルミンは、やや躊躇いがちに、もう一度、最初に見た時の格好をとってみせた。すなわち、壁に向き合った直立から、ぐ、と背を反らして、姿勢が崩れそうになるのを堪えながら、辛うじて地面に着手する。毎晩の体操の成果であろうか、柔軟性に関しては、特に問題があるようには見受けられない。だが、問題はこの先である。
「この先が……どうにも、ならなくて、」
ブリッジを作ったまま、アルミンは切れ切れに紡いだ。ここから、何らかのかたちで立ち上がらなければ、次の動作へ繋げることが出来ない。わざわざ自滅を選び取ったことになり、ならば、はじめからしない方がましであったとさえいえる。後方へブリッジが出来るというだけでは、何の役にも立たないのだ。
だんだん、頭に血が上ってきたのだろう、既にアルミンの呼吸は苦しげである。哀れなその格好を、ジャンは笑うでもなく、じっと観察していたが、細い手足がそろそろ震え始めたのを見て、一歩、歩み寄る。
「ジャン……?」
逆さまの視界に、相手の姿は入っていなくとも、近づく気配を感じたらしい。アルミンはなんとか首を動かして、状況を知ろうと試みるが、その努力は大して役に立たなかった。考えてみれば、手足を封じられた上、腹を晒して、相当に無防備な格好である。無言で近寄る相手を警戒したくもなるだろう。ただ、それならば、さっさとその体勢を崩し、しかるのちに起き上がれば良いのに、そうしないのは、もしかしたらこれから何らかの手ほどきがなされるのかも知れないとして、震える手足で健気に姿勢を保っているのだろう。
その判断は、正しかった。否、あるいは、この後に彼が見舞われることになった災難を思うと、間違いであったというべきだろうか。
ジャンは、アルミンの背中を支えてやることも、腰を引っ張り上げて後方への転回を補助してやることもなかった。ただ、愉快な格好をしている同期を見下ろして、呼吸に合わせて上下する、その頼りない腹に、おもむろに片手を置いた。
「ひゃう!?」
どこから出たものか、これまた聞いたこともない声を発して、細い身体が跳ね上がる。もとより倒壊寸前だったアルミンのブリッジは、それを機に、あっけなく瓦解した。再び、地面に崩れ落ち、全身をしたたかに打ちつける。心の準備が出来ていなかっただけに、こちらの方が、より直截的に骨に響いたかも知れない。
「う、ぅ……」
「おい……大丈夫か」
自分の招いたことではあるが、まさかここまで、てきめんに効くものとは思っていなかった。さすがに罪の意識にかられて、ジャンは、地面に潰れたアルミンを覗き込んだ。アルミンはびくりと肩を跳ね、すぐさま、両腕で腹を庇うようにして身を縮めた。よほどショックだったのだろう、どうしてこんな目に遭わなくてはならないのか分からないというように、声もなく、青灰色の瞳を瞠っている。肉食獣に屠られる直前の小動物とは、このように怯え、震えるものであろうか。潤んだその目から、何かの拍子で、いつ涙がこぼれ落ちても不思議ではなかった。
ただ、これで泣かせては、いったい、何をやっているのだか分からない。別に、落ちこぼれの同期を遊び半分にいじめて傷つけることが、目的であったわけではないのだ。もしかすると、アルミンはそう感じているかも知れないが、だとすれば、ジャンは誤解を解かねばならなかった。
とはいえ、誤解もなにも、余計な手出しをして痛い目に遭わせたことは、事実そのものなので、弁明のしようがない。そんなつもりではなかった、といくら言葉を重ねたところで、空々しいだけだ。もう何も信じられないとばかりに、アルミンは頑なに縮こまっている。己の殻に閉じ籠るかのようなその様子を横目に、ジャンは腕組をして天を仰いだ。頭上に浮かぶ雲の輪郭を目で追いつつ、独りごちる。
「ちっこくて軽いんだから、むしろ器械体操なんてのは、やりやすい部類の筈なんだがな……バランス感覚も、適性検査を通過してる以上、そう悪くはねぇわけだし……それでも、崩れちまうのは、腹筋が弱いせいだな」
先ほど、触れた身体の感触と、その際の過敏な反応を思い起こしつつ、ジャンはどうでもいいような風情で呟いた。実際、それはジャンにとっては、どうでもいいことだった。アルミンに腹筋があろうとなかろうと、ジャンの関知するところではなく、至ってどうでもいい。どうでもいいことを、わざわざ口にしたのは、それをどうでもよくないと感じるかも知れない相手が、ここにいるからである。
ジャンの独り言を聞いて、アルミンは、俯いていた面をそろそろと上げた。何か言われるより前に、邪魔して悪かったな、と言い残して、ジャンは背を向けた。アルミンが身を起こす気配があったが、振り返ることはしなかった。いかにも急いでいるといった風情で、大足で草を踏み分けて、本来の進行ルートへ復帰する。これ以上、その場に留まるのは、いかにも気恥ずかしい気がした。
わざわざアドバイスめいたことをしてやったのは、ジャン自身にとっても、意外なことであった。いつから自分は、そんな世話焼きになったものかと思う。ただ、真剣な面持ちのアルミンの、青灰色の瞳にまっすぐ見つめられると、からかったり、あしらったりする気にはなれなかった。およそ兵士の資質があるとはいえない落ちこぼれのくせに、誰よりも、懸命な目をしている。
これが他の奴であれば話は別であるが、憲兵団行きの上位争いには、間違っても食い込んでこないであろうアルミン相手であれば、多少の後押しをしてやっても、自分の損になるわけではない。だから、こういうのもたまには良いだろうと、ジャンはその必要もないのに胸の内で言い訳をしつつ、帰路に就いた。
[ to be continued... ]
アルミンプチオンリーみんぷちっ! 記念アンソロジーに寄稿させていただいた話の前日談。
2014.04.29