涙は透明な血
この小指の小さな骨の先端を、細く細く磨き抜いて、真っ白なペン先を作るのだ。
しなり具合を確かめて、もう少し力を込めれば、折れてしまいそうなまでに、薄く、繊細に。
初めてつけるインクは赤に決まっていて、抵抗なく心臓に刺し入れる。
息を潜めて、最も鮮やかな水面にそっと触れる瞬間、向こうから口付けるように、寄り添ってくる。
濡れたペン先を走らせれば、さりさりと音を立てて、削れていくのは、紙面か、あるいは、骨がすり減っていくのだろうか。
そうしたら、またあの鋭さを取り戻すために、磨かなくてはならないだろう。
君が好むのは、赤よりも希少な透明かもしれない。
力に任せれば、それは容易に濁ってしまう。
僅かずつにしか、溢れ出させることはできないから、価値がある。
眼球に、そっと触れて、吸い上げる。
視えない文字を、そのインクで書くとき、か細い鳴き声が聞こえる気がする。
すり減らし、すり減らして、綴り続けるだろう。
□
落ちていく夕陽に、片手を翳して、浮かぶ輪郭を確かめる。燃えるその身を地平線に沈めながらも、なお強烈な光は、指の間からアルミンの瞳を射抜いた。
調査兵団の猛者から新入りに至るまで、日中は訓練に勤しむ者で活気に溢れた練兵場も森林も、今はすっかり引き上げられて、静まり返っている。夕陽が橙に染め上げる景色を、兵舎に戻ろうともせずに、茫と眺めているのは、アルミンくらいのものだ。座り込んで背中を預けた大樹の葉が、風に擦れて鳴る。
太陽に向けて掲げていた片手を、アルミンは引き戻して、もう片手で包んだ。重ねた手を、何とはなしに、握っては離し、あるいは、温めるようにさする。
そんなことをしていると、ふと頭上から、声が降ってきた。
「何やってんだ、アルミン」
見上げれば、幹にもたれるようにして、こちらを覗き込む瞳にぶつかる。
「エレン。おかえり」
朝方、分隊長らと共に山中の洞窟に向かった幼馴染の無事の帰還に、アルミンは表情を緩めた。かつてのように、意識を失って担架で運ばれることもなく、彼は当たり前のように、自分の足で地を踏み締めて立っている。エレンが能力の加減を身に付けたか、分隊長が自制心を身に付けたか、あるいはその両方であろう。
エレンは、アルミンの手元や、腰を下ろした周囲に眼を遣ったが、特に注意を留めるべきものを見出せなかったらしく、再びアルミンの顔に視線を戻した。何をしているのか、と最初に問うてきたように、エレンの頭には、アルミンが何をするでもなく、ただ木にもたれてぼんやりとしている、という発想はないらしい。ケガでもして動けなくなっているか、あるいは、花でも編んでいると思われたのだろうか。幼い頃こそ、それはアルミンの得意とするところであったが、さすがに、この状況ですることではあるまい。
見るべきものは何もないと分かって、エレンはそのまま、立ち去るものと思われた。一日中、尋常ならざる体力の消耗をもたらす実験に励んでいたのだから、一刻も早く、自室に戻って休みたいはずだ。
しかし、アルミンの予想に反して、エレンは当然のように、傍らに腰を下ろした。幹に背をもたれて、一つ息を吐く。すぐに立ち上がるつもりはないらしく、両脚を投げ出して、沈む夕陽に目を眇める。僅かな湿り気を帯びた微風が、黒髪を揺らして、目元を掠めた。
並んで夕陽を眺めながら、アルミンは友人にぽつりと問うた。
「行かなくて、良いの? エレン、実験続きで疲れてるでしょ」
「別に。こんなの、なんてことねぇよ」
いい風だな、などと言って、エレンは心地良さそうに目を瞑る。のんびりとした様子に反して、しかし、その手は、小さく痙攣していた。何でもないような顔をしていても、滲む疲弊の色は隠せない。
美しい夕焼けに、暫し足を止めて鑑賞していこうだなんて、彼らしくないことだとは思っていた。そもそもエレンは、あまり夕陽が好きではない。赤黒く染め上げられた空は、あの日、目の当たりにした故郷の落日を思い起こさせるばかりだ。目の奥に焼きついて、決して、薄れることはない。
そんな夕陽を眺めて、感傷に浸ることが目的であったのではなく、それはただの口実に過ぎない。ただ、このまま自室まで歩き続けて、寝床に潜り込むだけの体力も、彼には残っていなかったというだけのことだ。
アルミンは分かっていたが、それを指摘したところで、エレンは頑なに否定するだろうことも、よく分かっていた。だから、何も言わず、ただ、投げ出されたエレンの腕を見つめた。
当人の意思に反して震える、その手を、握ってやりたかった。以前、彼がそうしてくれたように、今度は、彼にしてやりたかった。
しかし、伸ばしかけたアルミンの手は、途中で止まった。こんな手で、触れてはいけないと思った。
エレンには、相応しくない。
彼が、自分ではない、他の手を取るのを見て、初めてそれが分かるとは、あきれたことだった。
縋るように、少女(ヒストリア)の手を取って、額の前で握り締める、エレンの姿を、アルミンはすぐ傍で見ていた。そのとき、自分の胸の内にあった思いを、アルミンは決して、誰にも知られるわけにはいかなかった。
敬虔に俯き、固く眼を閉ざした、エレンは──なんて、美しいだろうかと思った。息を呑み、惹きつけられ、目を離せないことを、美しいと言うのであれば、これがそうだと思った。
己の内に答えを探し求める少年の横顔は、どこまでも真摯で、純粋な決意を宿している。その苦悩が、無言の叫びが、痛いほどに張り詰めて、声を掛けることも憚られる。
乙女に服従する一角獣。あるいは、神の御使いに懺悔する咎人。
何人たりとも、入り込むことの叶わない、息を潜めるべき領域が、そこに存在していた。
エレンに救済を与える、細く白い手──翻って、この手はどうだろうか。汚れていくしか、役に立たない、この手は。己の右手を見下ろして、アルミンはすぐに顔を背けた。
触れられない、と思った。大切な彼の手に、自分の汚れた手が触れることは、堪え難かった。この手に触れることを、まるで当たり前のように思っていた、己を恥じた。
それでは、こんなときは、どうすれば良いのだっただろうか。当たり前のようにしていたことが、今は、どうしてできていたのだか分からない。
どうすることもできずに、アルミンは、投げ出されたエレンの手を見つめた。その指先が、ひくりと小さく跳ねる。あ、と思う間もなかった。
次の瞬間には、アルミンの手は、素早く捉えられている。力なく投げ出されていたのが、嘘のようだった。エレンは無言で、アルミンの手を掴み、引き寄せた。
「……エレン」
引き戻そうとしても、きつく握られた片手は、外れそうにない。焦燥が、彼の指先までを支配していた。余計に力を込められて、骨が軋むのを感じる。鈍い痺れが、腕を駆け上がり、アルミンは息を詰めたが、痛い、とは訴えなかった。代わりに、ぎりぎりと握り締めてくるエレンの筋張った手に、もう片手を重ねる。
「どうしたの、エレン?」
顔を寄せて、囁くように問うと、エレンが唇を震わせるのが分かった。
「悪い……うまく、調節できない……」
彼自身、戸惑いの浮かぶ面持ちで、緩く首を振るう。ぎこちなく、エレンは握り締めていたアルミンの手から、一本ずつ、指を外していった。解放されたアルミンの手は、圧迫されたかたちのままに、赤く色づいている。
「痛かっただろ、ごめんな」
「ううん。なんだか、最近……痛いとか、あまり、感じないんだ」
呟いて、アルミンは赤くなった指をさすった。いつもの強がりとは違って、これは本当のことだった。
感じない──痛みに強くなったというわけではなく、単に、鈍くなっただけであることは、分かっていた。神経が、鈍麻している。それは、痛みに限ったことではなかった。確かに自分の身体でありながら、膜を一枚隔てたように、感覚が遠い。
友人のささやかな異変に、エレンは眉を寄せる。
「大丈夫なのか? それ……」
「心配ないよ。おそらく、一時的なものだから」
何の根拠もないが、とりあえず、エレンを心配させないために、アルミンは微笑んでみせた。
幼い頃から現在に至るまで、大きな環境の変化の度に、似たようなことは経験している。まともに受け容れるには過酷な現実から、自己を防衛するためであると、医者ならば説明してみせるだろう。きっとまた、自然に元に戻るだろうし、仮に戻らなかったとしても、さして問題はない。いちいち、心を動かされずに戦えるのであれば、そのほうが良いに決まっているのだから。
エレンは、暫しアルミンを見つめて、それから、視線を逸らした。掠れた声で、ぽつりと問う。
「……寄りかかっても、良いか?」
いいよ、と応じると、骨ばった肩が、胸元にもたれてきた。すっかり、自立を放棄して、崩れるといったほうが、精確かもしれない。その硬さと、熱と、重さを、直に感じる。ああ、と気付かれないようにアルミンは嘆息した。
そろそろと、腕を持ち上げる。静かに触れた身体は、服の上からでも分かるほどに、熱かった。渦巻く凶暴な熱が、彼の身を灼き苛む。その熱も、痛みも、誰も代わりに引き受けてやることはできない。
できるのは、彼が膝を折る前に、支えてやることくらいだ。ぎこちなく、アルミンは両腕をエレンに回した。少し躊躇って、しかし結局は、抱き締めるようにして、しっかりと彼を支えた。彼が地に倒れ伏すくらいなら、たとえ汚れた手でも、自分が支えてやる方が、まだましだと思った。
エレンは斃れてはならない。
エレンは失われてはならない。
アルミンの腕の中で、エレンは深く溜息を吐く。
「こんな、甘えたこと……情けねぇよな」
「いいよ。エレンは……それだけの働きを、しているんだから」
その働きには、報いがあって当然だ。はたして、こんなことで、彼の支払ったものをいくらかでも埋め合わせられるのかということだけが、アルミンは心配だった。貧相なこの身体が、寝床よりも心地良いものであるとは、とても考えられない。ただ、エレンがそうしたいというのであれば、アルミンは、できるだけのことをしてやりたかった。自分にできることなど、さして無いのだと、分かっていればこそだった。
「お前こそ、『槍』の方は、どうなんだよ」
自分たちが洞窟で実験に勤しんでいる中、アルミンを含む残りの者たちが励んでいたはずの、新兵器の習熟度合いについて、エレンは問うた。
「うん……まだちょっと、怖いかな」
「巻き込まれるんじゃねぇぞ」
気をつけるよ、とアルミンは頷いてみせた。本当のところは、エレンには言えなかった。怖いのは、『槍』そのものではない。それを扱う、自分であると。
こんな強大な力を、この手に持ってしまうことが──怖い。
いつの間に、自分は、こんな力を行使できるようになってしまったのだろうかと思う。それは、自分から望んだことであり、喜ぶべきことであるはずなのに、少しも浮かれた気分にはなれなかった。
初めて刃を握ったとき、重いと思った。
それは、すぐに慣れて、軽くなった。
初めて銃を握ったとき、重いと思った。
それは、すぐに慣れて、軽くなった。
初めて槍を握ったとき、重いと思った。
それは、すぐに慣れて、軽くなるだろう。
そうして、重さを失い続けていく。失い続けて、何になるのだろう。
この力を、しかるべきときに、しかるべき相手に行使して、そのとき、自分はどんな顔をしているのだろう。
──否。
そのようなことは、問題ではない。自分などは、問題ではない。思考を振り払うように、アルミンは腕の中の友人に意識を向けた。
すっかり身をもたれて、こんな風に弱みを見せてくれるとは、エレンも変わったものだと思う。以前の彼ならば、倒れる限界まで、意地でも自力で立っていようとしただろう。
労わる思いで、髪を撫でてやると、エレンは心地良さそうに息を吐いた。しなやかな黒髪に指を差し入れ、熱を持った地肌に触れる。そうしていると、ふと、アルミンの目に留まるものがあった。
「エレン、血が……」
「ああ……さっき、少し派手にやりすぎたか。どこだ?」
いったい、派手に何をしたものか、飛び散った血液が、耳下にこびりついていた。その痕跡だけでも、彼がどれほどの血を流したかが知れて、アルミンは堪らない心地にさせられた。傷が癒えても、失われたものは戻らない。
指先で指し示そうとしかけて、しかし、アルミンは思い直してやめた。代わりに、ここだよ、と舌先で触れて示す。思いがけない感触に驚いたのか、エレンは小さく呻いた。すぐに、アルミンは顔を離す。
「くすぐったかった?」
「ああ。でも、ひんやりして、気持ち良い」
続けてくれ、と促すように差し出されたままの首に、アルミンはもう一度、唇を寄せた。舌の上に、エレンの血が溶ける。エレンの匂いが満ちる。塩の味。見たこともない、海の景色が、脳裏を過ぎる。繰り返し、拭い取って、呑み込んで、味がしなくなって、なお、丁寧にその箇所をなぞった。
分かっている。彼の傷口に唇を寄せることは、叶わない。彼の傷口を塞ぐことは叶わない。だから、これは、まがいものの行為でしかないと、分かっていた。血を拭い去った下の首筋に、傷などないのだから。
アルミンの丁寧な仕事が気に入ったのか、心地良さそうに目を閉じて、ああ、良いもんだな、とエレンは嘆息する。
「もっとあちこち、舐めて欲しいくらいだ」
「そんなこと、できないよ……」
苦笑しながら、アルミンは己の言葉を反芻する。できない。本当だろうか。エレンが望むのならば、彼の心臓に口づけて、そこから溢れ出るものを啜ることだって、きっと、できてしまうだろう。彼がまだ、何かを望んで、求めてくれるというだけのことで、アルミンは喜んで、それを差し出し、応える用意がある。
彼の望むこと──先ほどエレンは、アルミンの舌を、ひんやりして気持ち良い、と言った。熱に苛まれる身体には、温い人肌も、冷たく心地良いものに感じられるのかも知れない。
舐めるのは難しくとも、撫でることくらいならばできる。背骨に沿って、アルミンはそっと、手のひらを滑らせた。引き締まった背中の、ひとつひとつのなめらかな隆起を、指先で確かめる。幼い頃から、慣れ親しんだエレンの身体だ。
大地を踏み締め、咆哮を上げる、あの巨体を生み出しているのは、こんな少年の身ひとつなのだ。計算が合わないことは、子どもでも分かる。
いったい、どれだけの代償を支払えば良いのかも、知らないままに、走り続けるしかない。彼も、自分達も。それも、両者は決して同じ立場ではない。
自分達は、彼を搾取する。家畜相手にするように。最後の血の一滴まで、絞り尽くして、骨の一欠片まで、喰らうだろう。
彼に何を、与えることもないままに。己が特別な存在などではないと悟った、誰より人間らしい、ひとりの少年に。
造り出せ、血液を!
差し出せ、骨肉を!
生み出せ、力を!
彼以外の、すべての存在が、彼にそれを強いる。
エレンの血が、この壁を塗り固めるだろう。彼の骸が、皆を覆い守るだろう。
「僕たちの命は、エレンの血で贖われる──」
硬質化によって、創り出された『作品』の数々を見るのは、アルミンには、あまり気が進まなかった。それは、まるで、彼の墓標のようだったからだ。彼の偉業は残り続ける──異形の彼が、いなくなった後も。
そんな不吉な考えは、エレンや仲間たちの必死の働きを愚弄することに他ならないと、分かってはいても、拭い去ることはできなかった。縋るように、アルミンは友人の身を抱き直した。その重さを、抱いて感じる。その鼓動に、耳を澄ませる。
──ああ、まだ、ここにいる。
腕の中にある、これが、彼がアルミンに預けているものの重さだ。それだけの価値を、アルミンに見出してくれている。預けられた重さが、愛おしい。彼の信頼に、応えなくてはならないと思う。
否、それが信頼であるというのは、適切ではないかもしれない。これは、もっと単純なものだ。エレンにとって、アルミンは、半ば身内のようなものだ。文字通り、自分自身と一続きのように感じているから、触れることにも、身を預けることにも、抵抗がない。自分の身体に触れることを、いちいち、特別に意識しないのと、同じように。
その意味で、アルミンは、エレンのものだ。エレンにならば、何をされても良いとアルミンが思うのも、当然のことだろう。自他の線引きができていないのは、お互い様だ。
自分のものが、奪われたり、害されたりしかけたならば、エレンは、何としても取り返そうとするだろう。奪われた自由を、取り戻そうとするだろう。時に、己の身を呈してでも。
それが、あってはならないことだと言って聞かせたところで、エレンを変えることはできない。思うようにできるのは、己の行動だけだ。それくらいのことは──できなくてはならない。今度こそ。
この声が、彼を躊躇わせるのであれば、押し殺すだろう。
この腕が、彼の妨げになるのであれば、切り落とすだろう。
この瞳が、彼を惑わせるのであれば、抉り捨てるだろう。
どちらかが、いなくならなければならないのなら、それは、自分の方であるべきだと、アルミンは分かっている。そのためにならば、自分自身を壊すことも、厭うまい。そうすれば、もうエレンは、アルミンのために何も労力を割かずに済む。
己の命を引き換えにしようとする以前に、引き換える先が、なくなってしまえばいいのだ。そうすれば、エレンを守ることができる。簡単なことだ。それが、アルミンの選べる、最後の手段だった。
二度と、過ちは繰り返さない。
あのとき死んでおけば良かったと、後悔するのは──二度とごめんだった。
「……なに、考えてんだ。アルミン」
掠れた声が、耳元をくすぐる。なんでもない、とアルミンは答えようとしたが、できなかった。うまく声が紡げずに、唇からこぼれたのは、震える息だけだった。代わりに、ふるふると首を振るってみせた。
もたれていたアルミンの胸から、エレンは緩慢に姿勢を起こす。しっかり支えていたつもりのアルミンの腕は、あっけなく外れて、滑り落ちる。エレンの重さが、遠くなる。
ああ、もう必要なくなったんだな、とぼんやり思った。エレンが、もういいというのであれば、それを引き留める権利は、アルミンにはない。ただ、元の通りに戻っただけのことなのに、一緒に何かを失ったように感じてしまうとは、おかしな話だった。
身体を起こしたエレンは、しかし、そのまま立ち上がって去ろうとはしなかった。どうしたのだろうかと思っていると、不意に、肩を抱き寄せられる。俯く顔にかかる髪をかき上げられたと思うと、柔らかなものが、頬に押し当てられた。
エレンは、身体のみならず、舌も熱かった。内側から発熱しているのなら、当然のことだろう。柔らかく湿った熱は、アルミンの頬を伝い上がって、やがて、眼球に至る。
渇きを癒すように、彼はそれに吸いつき、そっと舐めた。背筋が、ぞくりと震える。不慣れな感覚が、鈍麻していたアルミンの神経を、たちまち呼び起こす。
エレンの熱に促されて、容易く視界が滲み、溢れ出るものは、こぼれ落ちるそばから、彼の舌に絡め取られる。ひく、と反射的に、アルミンは喉を引き攣らせた。
「だめ、だよ……そんなもの、舐めちゃ……」
「これがいい」
圧し掛かってくる友人を押し返そうとする、アルミンの両手は、彼に届く前に、行くあてなく彷徨った。やがて、ぱたりと地に落ちる。ずるずると、姿勢は崩れて、すっかり覆い被さられる格好になった。
胸の上に体重をかけられると、息苦しさに、眼が潤んでしまう。十分に溢れ出るのを待って、エレンは、それを舐め取るのだった。
駄目だ、とは、もうアルミンは言わなかった。エレンによって、アルミンから生み出されたものを、エレンが己のものとするのは、当然の権利だった。彼の喉を潤すために、彼の欠落を埋めるために、アルミンは喜んで、捧げるだろう。
熱心に舌を這わせる、エレンは多分、失ったものを取り戻そうとしている。失ったもの──血液を。
血液は、赤く色づいた涙だ。
涙液は、透明に澄んだ血だ。
失った分だけ、エレンはアルミンから、摂取しようとする。けれど、それでは到底、追いつくまい。いくら涙を溢れさせようと、エレンの流した血には、到底、及ばない。
失って──失って、失って、そして、君は透明になっていくんだろう。
肉を持たぬもののように。重さを、失って、最後に何が残る。
訊けぬままに、問い掛けは嗚咽に溶け消えた。
舐めて欲しいと最初に言ったのは、エレンの方なのに、今や彼の方が熱心に、それを為している。アルミンが涙をこぼし続けるから、エレンはそれを吸い続ける。
駄目だと思うのに、エレンの舌が触れると、涙は次から次へと勝手に溢れて、止まらなかった。血を流しもしないで、彼に何の役にも立たない、こんなまがいものしか与えられない、自分が惨めだった。
それも、やがては、涸れるだろう。
──もう、あまり、残っていないんだ。
あの日から、変わらずに持ち続けているもの。
エレンに、与えられるもの。
ひた走るほどに失っていく、エレンを留める方法を、知らない。
何で埋め合わせてやれるだろう。
どくどくと、耳の奥で、鼓動が鳴っている。失い続ける、時を刻んでいる。
熱い、と思った。密着する、エレンの身体が熱い。そのせいで、頭が茫とする。息が上がる。
彼の熱を、自分のもののように感じるなんて、おかしなことだと思った。これは、自分のものなどではないのだ。分かっている。
それなのに、呼応するように、熱せられ、同じになろうとする。流れ込んでくるものを、拒めない。熱に浮かされた頭で、ただ思う。
──いったい、何をもってすれば──
「……お前の涙で、贖われるんだ」
「え……なに、エレン……」
打ち鳴らされる鐘の音が、声をかき消す。集合の合図だ。刻み込まれた、兵士としての習性が、一瞬にして意識を明瞭にし、心身を緊張させる。
エレンは既に、背を起こしている。濡れた目元を、アルミンは手早く拭った。
「……エレン、もういい?」
「ああ……行こうぜ」
暫く座って休んだのが良かったのか、身を起こすエレンに、つらそうな様子はない。むしろ、アルミンに手を貸して、引き起こしてくれる。
肩が当たって、指先が触れ合う。離れようとするアルミンの手を、エレンは引き留めて握った。手放すことなく、歩き出す。
硬い指の感触を確かめながら、このほうが良いな、とアルミンは密かに思った。
柔らかく濡れた部分を触れ合わせるのは、摂食に似ていて、抑えの利かない危うさと、焦燥に呑み込まれていく。あのまま、続けていたら、もっと、もっとと物足りずに、互いを奪い合い、喰らい合うようなことになっていたかもしれない。
それよりも、こちらの方が、ほっと安心する。こうすれば、いつでも、あの頃に戻ることができる。
故郷の街を、こうして二人、手を取りあって歩いた。まるで、世界から切り離されて、二人きりになったようで、この手をずっと、握っていられたら良いと思った。そんな幼い願いは叶わないと、今ではもう、分かっている。
それでも、叶わないからこそ、願ってしまう。指先が強張るのを、隠せない。エレンに触れられると、アルミンは何も隠せなくなる。俯いてみたところで、きっとエレンには、明瞭に伝わってしまっているのだろう。
彼の指が、しっかりとアルミンを捉えて、握り締める。心臓を握り締められたように、胸が詰まる。気付かれないように、ゆっくりと息を継いだ。
痛い思いも、苦しい思いも、できることならば、したくはない。それなのに、この息苦しさは、すすんで味わいたがる自分がいる。エレンは、繋いだ手を緩めようとはしない。アルミンも、それを振り払おうとはしない。
このまま、締め付けて欲しいと、思ってしまうのは、おかしなことだろうか。彼の手によってならば、その手の中で、窒息しても、構わないと思うのは。エレンには、伝えられない、それはアルミンひとりの、密やかな思いだった。
喉元に手をやって、そこが何によっても締め付けられていないことを確かめる。それから、心臓の上へと、伝い下ろす。押さえ込んでも、速い鼓動は、いっそうに強く響いている。寝惚けている暇はないと、叱咤するように。
最早、それは他人事ではなく、確かに自分のものとして感じられた。それを感じさせているのは、エレンだ。エレンによって、繋ぎとめられていることを知る。だから、これは自分のものであり、エレンのものであるのだと、アルミンは思った。涙にしても、血にしても、とうの昔から、そうだったのだ。
同じものによって、かたちづくられている。ただ、表れ方が、違うだけだ。それが、今のアルミンにとっては、確かな拠り所として感じられる。
遠く、手を振る仲間の姿が見える。二人仲良く手を繋いで登場したら、また、ひやかされてしまうだろうか。そんなアルミンの胸の内を読んだかのように、エレンは、しっかりと手を握り直してくる。彼が構わないというのなら、アルミンとしても、何も気にすることはなかった。
重ね合わせた手に、同じ温度を共有している。無慈悲な力を握ろうとも、赤く汚れようとも、無惨に砕け散ろうとも、消え去ることのないよう、この手に記憶しておきたい。
きっと、憶えているだろう──温かなものが、赤く、また透明に、この身を流れる限り、どこまでも。
[ end. ]
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2016.5.10