paper knife
■≪誰か≫の話
手紙を開けるには、覚悟が要る。
それが、自分の出した何らかの意見に対する返答であるとなれば、なおさらだ。
はたして、返されたのは、良い知らせか、悪い知らせか。
封筒を矯めつ眇めつして、そのヒントを探り、宛名の筆跡から、そこに込められた何らかの予兆を感じ取ろうとさえする。きっと、この上なく良い知らせであるに違いないと、期待に胸を高鳴らせる一方で、絶望的に悪い知らせであるに決まっていると、頭を抱えて蹲る。期待して裏切られるくらいならば、はじめから望みを抱くまいと、あえて徹底的に悪い想像を膨らませ、姑息な自己防衛に走る。それでもどこかで、予想が良い方向に裏切られることを望んでいる。
両極端を揺れ動き、むやみに精神を消耗する。頭の中で、幾度となく喜びに満ち溢れ、幾度となく絶望に打ちひしがれる。まるで生産性のない行為。そんなことをしている暇があれば、さっさと封を開けてしまえばいい。ペーパーナイフを手に取り、封の隙間に差し込みかけては、しかし、それ以上進めずに、引き戻すことを繰り返す。
奇妙なことだ。記述された時点で、内容は決まっていて、書き換えることなどできないというのに、あたかも、自分がそれを封切って、目にするまで、ありとあらゆる可能性が存在するかのようだ。封筒の中の小さな世界に、それは、無数に折り重なっている。この手に感じる重みが、その証だ。
手紙の中身は、はたして、良い知らせか、悪い知らせか?
良い知らせだと思うなら、そもそも躊躇いもせずに、封を切っている。くだらぬ悩みを抱いて悶々とするのは、それが、悪い知らせだと予感しているからだ。ならば最善は、手紙を開けずに、そのまま抽斗に仕舞い込むことだ。そして、存在を忘れるに限る。知らせなど、そもそも、無かったのだと。己に言い聞かせ、信じ込む。
可能性の問題だ。封印されている限り、手紙の中身は、良い知らせとも悪い知らせともいえない。封を開け、紙片を開いた瞬間に、それは決定してしまう。封を開けさえしなければ、中身を読みさえしなければ、可能性を可能性として残しておける。もしかしたら、良い知らせを見逃すことになるかもしれないが、それで悪い知らせを見ずに済むなら、安い代償だ。
悪い知らせは、いつも外からやってくる。
知りたがるから、ひどい目に遭う。知ったところで、碌なことはない。知らないほうが、ずっと良い。
現状の維持。決断の放棄。変化の拒絶。
炎の中に投げ込む勇気もなく、読まない手紙だけが、折り重なっていく。もはや、手を付けられないまでに。いずれ、それらは主を失い、なおも存在し続けた後、誰に読まれることもなく、土へ還っていくことだろう。あらゆる可能性を、内包したままに。
──もっとも、これは理想論であって、そこまで徹底できるのは、よほどの臆病者か、あるいは、鉄の意志の持ち主だけだ。読むまいと思いつつも、結局は、僅かばかりの希望的観測を捨てきれず、好奇心に負け、封を切ってしまって、知らなければ良かった悪い知らせに直面することになるというのが、凡庸で中途半端な人間にとっては、一番、ありそうなことだ。
手紙を、君は、どうする?
■エレンの話(1)
だんだんと日が長くなり、肌を刺す冷たい空気が緩み、寒々しい路地に小さな緑の葉が顔を出し始める、この季節といえば、食卓に並ぶ卵料理の数々だ。朝は分厚いベーコンを敷いた上に景気よくいくつもの卵を割り入れてじゅうじゅうと焼く賑やかな音で目が覚め、いつもの地味なポテトサラダには、黄身の色も鮮やかな茹で卵がふんだんに混ぜ込まれ、ふんわりと巻き上げた卵焼きは子どもの味覚に合わせて菓子のように甘く、なんとか野菜を食べさせようという意図の下に、巧妙に混ぜ込まれる緑色の細切れの種類を変えて、じゃがいもと玉ねぎの卵とじは、日々食卓に上がることになる。
そう卵ばかりでは飽きそうなものだが、なにしろ手を変え品を変え味を変え、腕を振るう母のおかげで、そんなわがままを言う機会は、エレンには訪れなかった。台所の籠に、山盛りの卵が準備されているのを見ると、いよいよ春が来たと感じるし、なんとなく気分が良くなる。それは、家族の誰にとっても同じことのようで、食卓を囲むと、「春だな」「春ね」と、誰かしらの口から詠嘆がこぼれ、しみじみと同意しあうのだった。
もっと幼い頃には、春のお祝いだといって、母は一年に一度だけ使う型を棚の奥から引っ張り出して、うさぎの形のケーキを焼いていた記憶がある。ドライフルーツの混ぜ込まれた、密度の高いしっかりとした生地で、菓子というよりパンに近いものだった。それは細部まで、うさぎの毛並みが伝わってくるような丁寧な造形をしていたが、その分、小さな型だったので、家族で分けると、少々物足りなかった。腹八分目ということをわきまえず、あればあるだけ食べたがる子どものことだ。もっと大きいのを焼いて欲しいと頼むつもりで、「形なんてどうでもいい。口に入れば同じなんだから、普通のが良い」と、エレンが無粋なことを言ったために、あのうさぎの型には、久しくお目にかかっていない。
正直、今でもエレンは、この時期に町で売っているパンや焼き菓子を見る度に、何故わざわざ、それらをうさぎだの卵だのの形にしなくてはいけないものかと首を捻る。そんなに食べたいのなら、本物を食べれば良い。卵はもちろん日常的な食材であるし、兎肉にしても値は張るものの、市場に行けば手に入らないわけではない。そして、栄養たっぷりで身体にも良いときている。などと言うと、あのとき母が機嫌を損ねたように、「そういうことではない」と怒られることになるのだろう。本当はうさぎや卵を食べたいけれど、それが叶わないために、せめて形だけでも似せたものを食べている、ということではないらしい。
しかも、人々はそれを、かわいいかわいいといって喜びながら、おいしいおいしいと食べるのだ。どうせ食べるものを、かわいくしたところで、むやみな躊躇いを生じさせるだけではないかという心配は、どうやら無用のようだ。食べたいのか食べたくないのか、はっきりしてほしい。
物知りな友人に、そんな疑問をぶつけてみたところ、いわく、そもそも卵やうさぎというのは多産繁栄の象徴であり、芽吹きの春は冬という凍てついた死の世界からの再生の季節であるからして、それらの力にあやかって豊穣を祈るべく、食って己の血肉とするわけだが、それはうさぎの肉そのものに力があるというよりは抽象化されたイメージの方こそ本質なのであるから、食うにあたっても即物的というよりは象徴的でなくてはならず、また、人形がそうであるように、形を似せて作るという行為そのものに呪術的意味合いが見出され、もはやケーキのうさぎはうさぎであってうさぎではなく、より高次の純粋なうさぎそのものの概念に近い存在として、うさぎをうさぎとして規定する様々な望ましい特性のみを取り出してケーキというまっさらな器に収めた形態と考えることで、ヒトははじめて摂食を通してそれを己のものとすることができるということじゃないかな、聞いてるエレン? とのことである。途中からは、頭の中でぴょんぴょんと跳ね回るうさぎを数えるのに忙しくて、半分聞き流していた。形を似せたもののほうが、本物よりありがたがられるなんて、妙な話だと思った。「まあ、お肉よりもパンや焼き菓子のほうが、手間なく安くたくさん作れるし、日持ちするし、万人受けするというのもあるよね」という、身も蓋もない結論で、友人は話を締め括った。
似せた形を作るという行為、そのものに意味があるというのは、家々の窓辺の飾り付けを見ても、納得できることだった。窓辺、あるいは庭の木々に、カラフルな模様の描かれた卵が吊り下げられている。本物ではない、中身を抜いた殻だけで作ったものや、木製あるいは粘土のつくりものだ。あれも、食べるわけでもないのに、卵の形をありがたがっていることになる。そのままだと地味なので、色や模様をつけさえする。本当にこんな華やかな卵があったら、目立って仕方なく、すぐに天敵に見つかって食われてしまうことだろう。母が吊るした、かわいらしいピンクと黄緑色に塗り分けられた木製の卵を、エレンはつついて揺らした。隣の卵とぶつけて戦わせる遊びは、叱られて以来、母の目のあるところでは控えている。
窓から射し込む光は、床と壁に明瞭な陰影を刻む。雨の心配は、必要なさそうだった。となると、やることは決まっている。洗濯物の手伝い──を、言いつけられる前にと、眩しい陽光の降り注ぐ中へと、少年は駆け出していった。
寒さという緊張感がすっかり消えてなくなった、生ぬるい春の空気は、人間をぼんやりとさせる。陽当たりの良い石段の上に腰かけて、エレンは何とはなしに、気の抜けた顔で景色を眺めていた。
民家の庭で、小さな子どもたちが、四つん這いになったり爪先立ちになったりしながら、茂みの中だの、鉢の裏だのを覗き込んでいる。「どこー?」「ないよー」と不平を漏らしながらも、その表情は、わくわくとした期待に輝いている。あちらこちらを、彼らは探し回った。やがて、花壇の隅を探っていた子どもが、「あった!」と叫ぶ。他の子どもたちが振り返る中、高々と挙げた手の中には、黄色に塗られた卵があった。わぁ、と歓声が上がる。見つけた子どもは誇らしげで、大事そうに卵を両手で包み込んだ。大人たちから、まだいくつも隠してあると聞かされて、他の子どもたちも、我こそはと捜索に戻っていった。
「……あれ、やったことある? エレン」
隣に座って、同じものを眺めていた友人が、小さく問う。この聡明な友人も、身を包む春の怠惰な空気に抗うことはできないようで、今日は熱心に本を読むでもなく、弁舌を振るうでもなく、エレンと同じくらいぼんやりしているように見えた。緩く首を振って、エレンは応じる。
「いや。なんでわざわざ、隠したり、見つけたりしないといけないんだろうな。面倒なだけだろ」
あんなのは、つまらない子どもだましだと、ことさらに醒めた口調で言うことで、自分がそのゲームに何の興味関心も持っていないという立ち位置を、エレンは表明した。
実を言うと、かつて一度だけ、やってみないかと母が提案してきたのだが、別にいい、とエレンは断った。家の中のどこかに隠された卵を、一人で探し回るという遊びの、どこが楽しいのか分からない。母にとっても、それは予想通りの答えだったようで、そうかいとだけ言って、小さく溜息を吐いた。そもそも卵探しは、仲の良い子どもたちが集まって、皆でわいわいと楽しむゲームだ。そして、エレンにそんな友人たちはいない。一応、気遣いで訊くだけ訊いてはみたものの、一人寂しく卵を探す息子の後ろ姿など、彼女も正直、見たくはなかったことだろう。
そういうわけで、アルミンの問いに対して、やったことはないし、やりたいとも思わない、ということを明瞭に主張すべく、エレンは続ける。
「どうせ、親が隠した卵だっていうのも、気に食わない。答えを知ってる大人がいる前で、あっちこっち苦労して探し回るなんて、ばかみたいだ」
それなら、野原で珍しい虫やトカゲでも探して過ごしたほうが、ずっと有意義というものだ。探検、探索するという遊び自体は、エレンとて、嫌いではない。目当てのもの、あるいは、思いがけないものが見つかったときには、素直に嬉しいと思う。ただ、誰かに仕組まれたものを、無邪気に楽しむ気にはなれないというだけのことだ。こちらが右往左往しているのを、そ知らぬ顔で高みの見物と決め込まれていると思うと、気分が悪い。わざわざ探さずとも、はじめから、そいつを問い詰めて答えを吐かせればいいだけのことではないか。とんだ無駄足だ。
誰も答えを知る者がいないからこそ、探しものは楽しいと、エレンは信じる。エレンだけではない、隣の友人も、きっと同じ意見であるに違いない。エレンは当然のようにそう決め付けたが、しかし、どうもアルミンの様子がおかしい。いつもならば、エレンの言うことに対して、そのとおりだと力強く肯定してくれたり、あるいは、違うんじゃないかなと理路整然と異論を述べるのに、今日は妙に歯切れが悪い。春の陽気に、よほど眠気を誘われているのだろうか。不審に思うエレンに対して、申し訳なさそうな面持ちで、アルミンは口を開く。
「僕は、人が作った謎々とか、パズルを解くのが、好きだから……」
誰かの手によって答えが意図的に隠された問題であっても、挑み、解き明かすのは楽しい。その点で、エレンとは相容れないものがあることを、気にしているらしい。控えめな口調は、異議を唱えるというよりは、趣味を共有できないことを残念がっているようだった。どころか、そんな自分の好みを恥じているようでさえある。何を言っているんだと、エレンはあきれてしまった。
「それは、また別の話だ。卵を隠すなんてのとは、レベルが違うだろ」
頭の良い誰かが、捻りに捻って作った難問に挑む。それを楽しめるのは、解く者も同じくらいの賢さを備えている証だ。両者の立場は対等な、いわば正々堂々たる戦いであって、卵探しのような、手の上で踊らされているような屈辱的な構図は存在しない。子どもだましとは、対極にあるとさえいっていい。
などというと、まるでエレンが優れた謎解きの名人であるかのようだが、実際は、解こうと思ったことすらない。自分にはまるで歯が立たないことは、分かりきっているからだ。ただ、アルミンが時々、真剣な面持ちで問題に取り組んでいるのを、横で眺めて過ごすことはある。そうして観察を重ねた結果、至った結論である。
だから、人の作った謎を解くことに喜びを見出すアルミンと、同じ気持ちにはなれなくとも、「わざわざ面倒なこと」「ばかみたいだ」などとは、間違っても思わない。そういうことに、楽しんで取り組めるのは、エレンにはない、アルミンならではの良さだと思う。続けていけば、いずれは、誰も答えを知らない、どこにも答えのない問題さえ、解けるようになってしまうかもしれない。なんと心強い友人だろう。
そこで、はたとエレンは、彼が何を言いたいのかを察した。自己主張の控えめな友人が何を求めているのか、他の誰に分からなくとも、毎日のように顔を合わせているエレンには分かる。
「なんだ、アルミン。もしかして、卵探し、やりたいのか? いいぞ、母さんに頼もう」
「う、ううん……卵じゃないんだけど……」
察したつもりだったが、どうやら、間違っていた。さんざん卵探しを否定しておきながら、しかし、この友人となら面白そうだと、あっさり意見を変えたエレンが腰を上げようとするのを、アルミンは慌てたように押し留めた。恥ずかしがって、強がりを言っているという様子でもない。てっきり、遠まわしにエレンをゲームに誘うために、この話題を持ち出してきたのかと思ったが、そうでないなら、何なのだろう。エレンは首を捻った。
「卵じゃない、って言ったな。それなら、何を探すんだ?」
「ええと……何なのか、というのは分からなくて……」
「なんだそりゃ」
促してやると、アルミンは、ぽつぽつと語り出した──一言で言うと、それは「宝探し」だった。
暫く留守にするという祖父から、その間寂しくないようにと、アルミンが手渡されたのは、一通の封書だった。アルミンの祖父は、これまでにも、面白い本だの、難しいパズルだのといったものを、孫の暇つぶしのために用意していたが、何事にも熱中すると止まらなくなる性質のアルミンは、それらをすぐさま消費してしまう。一度本を開いたら、何時間も石のように動かないし、パズルは解けるまで、すべてに最優先してやり続ける。きりの良いところでやめて、続きは明日の楽しみに取っておく、ということができない。
ゆえに、その間、アルミンは他のことが何もできない。エレンに外で遊ぼうと誘われても、ちょっと待ってといっているうちに、日が暮れてしまうこともあるし、仮に中断してエレンについて出掛けていったとしても、残してきたものが気になって、上の空といったことになる。いずれにしても、友人に対して誠実な態度ではないということは、アルミン自身が一番よく分かっている。こんな自分に、よくエレンは嫌気がささないと思うし、そんな奇特な友人のことは大切にしたいし、身勝手をしてはいけないと反省もする。してはいるのだが、どうしようもない。友人を差し置いて、自分の興味を優先させてしまうことの苦悩を、アルミンは信頼する祖父に打ち明けた。
「そうしたら、友達と一緒にやってごらんって。今度は、外で遊べるように作ったって、おじいちゃんが言ってた」
手の中の封筒を、アルミンは大切そうに見つめた。まだ、封は切られていない。いったい、中には何が記されているのだろう。
「開けてみようぜ」
当然のように、エレンは言ったが、アルミンは意外そうに顔を見返してくる。
「いいの? エレン、こういうのあんまり興味ないんじゃ……」
「一緒に遊べるようになってるんだろ? それなら、面白そうだ」
いつもはアルミンを眺めているだけの自分にも、できることがあるかもしれないと思うと、やってみてもいいような気になった。やってみて、やはり面白さが分からないということになれば、そのときは速やかに撤退して、後はいつも通り、アルミンに任せればいい。アルミンが気に病むほど、エレンは自分がないがしろにされているとは感じていないのだが、一緒に遊ぶための方法を考えてくれたアルミンと、その祖父の気持ちが嬉しかった。
面白そうだ、と言われたことで、アルミンはほっと安堵の表情を見せた。
「じゃあ……開けるね」
なんとはなしに、二人して、息をひそめた。アルミンの細い指が、慎重に、封を剥がしていく。ぺり、ぺりと、乾いた音を立てながら、少しずつ。じれったいようでもあり、また、そうするのが相応しいようでもあった。決して引き千切ろうとせずに、できるだけ封筒の原形をとどめようとするアルミンの努力は、彼がそれだけ、この手紙を大切に思っていることの証だった。急かすことなく、エレンはその手元を見守った。
封筒に入っていたのは、何の変哲もない便箋のようだった。小さく畳まれたそれを、アルミンは、はやる気持ちを抑えるように、そっと取り出して広げた。エレンも一緒に、横から覗き込む。そして、同時に、え、と声をもらした。
そこに記されていたのは、奇妙な模様だった。便箋に書かれていることで、なんとなく、文字であるらしいことは分かる。だが、普段エレンたちが使っているそれと、同じ文字は一つとしてなかった。
「何だこれ? こんな文字、見たことねぇぞ」
いきなり、難易度が高すぎる。それとも、アルミンには読めるのだろうかとエレンは思ったが、友人は同じように首を傾げている。
「僕もだよ……この便箋とインクは、いつものだから、おじいちゃんが書いたものには、間違いないはずなんだけど」
このままでは、どちらが上か下かも分からない。とりあえず、地面に置いた紙を挟んで二人で向かい合い、ああでもない、こうでもないと、首を捻った。少しばかり声を潜めて、アルミンは呟く。
「昔、使われていた文字とか……世界中に人間が散らばって住んでいた頃は、場所によって、違う言葉を使っていたんだよね。今も、小さな村なんかだと、独特な言葉遣いをするけれど、それよりもっと、大きな違いだったみたい」
「へえ。面倒だったんだな」
「でも、そうだったらしいっていうだけで、当時の本なんて残っていないから……おじいちゃんでも、分からないと思うよ」
それもそうだ、とエレンは思った。この壁の中で、他の言語を習得する機会など、あるはずもない。
「ならいっそ、自分で新しい言葉を作っちゃったのかも……」
それも壮大な話だ。折角、一つの言語の下に皆が意思疎通を図っているのに、わざわざまた、昔のような面倒なことに逆戻りしたいのだろうか。普通には読めない、そんな暗号を使うのは、何か知られてはまずいことを企てていると疑われても仕方がない。もしや、これは間違って紛れ込んでしまった、何らかの秘密文書ではないか。だんだん、雲行きが怪しくなってきた。
「じいさん、いったい何者だよ……」
呟いて、エレンは何気なく紙を引き寄せ、太陽にかざしてみた。光に透かしたら、隠された文字が浮かび上がってきたりはしないかと期待したが、そんな仕掛けはなさそうだ。水につけたり燃やしてみたり、手当たり次第に試してみるしかないだろうか。そんな乱暴なことを考え始めたとき、あ、と向かいのアルミンが、小さく声を上げた。どうしたのかと思って、少し紙を下ろして見ると、真正面から、大きく瞠られた青い瞳にぶつかる。瞬きも忘れたように、アルミンはエレンを──否、精確には、エレンの手にした紙を見つめた。何かを追うように、視線を走らせている。そっちの面には何も書いてないぞ、と声をかけようとしたところで、アルミンは勢いよく顔を上げた。
「エレン、すごいよエレン!」
「何が?」
友人の興奮した声は、大いなる発見を物語っていたが、あいにくエレンには、それが何なのか分からない。分かるのは、彼が喜んでいるということだけだ。アルミンは、頬をほのかに紅潮させて、大きな青灰色の目を輝かせている。先ほどまでの、難しそうな顔とは大違いだった。
「裏側から見たら、分かったんだ。ほら、エレンも見て!」
促されるままに、紙を裏返して頭上に上げ、光に透かしてみる。そうしてエレンは、友人が何を見て、何を発見したのかを知ることとなった。
「あ……」
「ね?」
裏面から透かし見たとき、そこに並んでいたのは、確かに、エレンのよく知る文字列だった。施された装飾によって、一見すると未知の言語のようだが、反転することで、いくつかの見覚えのある文字を拾い読みできる。そうなると、これまで無意味だった線の集合が、途端に意味あるものとして、目の前に鮮やかに浮かび上がってくる。あれほど、じっくり眺めていたはずのものが、裏返すだけで、まるで違って見えるのは、奇術でも使われたようだった。
並んで座り直したアルミンが、それを辿って、内容を読み上げる。記されていたのは、政権転覆を図る秘密組織の陰謀、ではなく、いたって平穏な、風景や太陽について描写した、詩のような文章だった。二人、身体を寄せ合って、同じものを見つめた。しかしエレンは途中から、アルミンと同じものを見つめてはいなかった。エレンが見つめていたのは、手の中の紙ではなく、アルミンだった。暗号が解けて嬉しいのだろう、他の何も目に入らないというばかりの、活き活きと輝く瞳。手紙を見上げて、少し上向けた顔を、柔らかな光が白く照らす。
「そういえば、おじいちゃんは両利きなんだ。だから、こんな風に、鏡に映したみたいな文字を書くのも、得意なのかも知れないね」
弾んだ声を上げるアルミンを、エレンはぼんやりと見つめた。返事がないことを不思議に思ったか、どうしたのエレン、とアルミンが首を傾げる。青灰色の瞳が、触れそうに近い。
「なんでもない。で、次はどうするんだ?」
早く次の謎に挑みたい、といった風情を装って、エレンは応えた。それも、まるきり嘘というわけではない。興味の先が、謎そのものではなく、それを解くアルミンに向いているだけのことだ。
友人が乗り気になってくれたことが、アルミンはよほど嬉しかったらしい。待っててね、と言うと、はりきって、暗号を吟味していく。その表情には、確かな自信と、責任感のようなものが感じられた。いつも、そんな風に振舞っていれば良いんだ、とエレンは思う。そうすれば、弱くて頼りない奴だなんて、不当にからかわれずにすむ。膝を抱えて俯くのではなく、顔を上げて、光を浴びることができる。アルミンは、そうしているほうが、ずっと相応しい。
彼を馬鹿にする連中は、まったくもって、人を見る目というものがないから、自分たちが見当違いのことを言っていることも分からない。アルミンは強い。アルミンは頼りになる。エレンは、ちゃんと知っている。それを、広く皆も知るべきだと思うし、一方で、自分さえ知っておいてやれば、それで十分なようにも思う。
そんなことをエレンが考えている間にも、アルミンは着々と、方針を固めていく。
「これは、この町の風景を象徴した文章になっているみたいだから……指示に従って進んでいくと、ゴールにたどり着ける。疑問形のところは、現地で調べろってことかな? スタート地点は、きっと、あの広場だよ。そこから、『二匹の魚』が見える方向に進んで、『赤い円』で右に曲がって……」
「とりあえず、行けば分かるんだろ。ほら、出発だ」
放っておくと、頭の中だけで町をめぐって謎を解きかねない、アルミンの手を引いて立たせ、エレンは歩き出した。
手紙で示された情景に従って、目印を追いながら進んでいく。靴屋の看板に描かれている数字、広場の椅子の数、裏道の階段の段数を、二人で調べては、書き込んでいった。こんなところに、こんなものがあったのだなと、普段は素通りしているものに目を留めることで、見慣れた風景が新鮮に感じられた。生まれたときから住んでいる、囲われた、何も起こらない、小さな町の中で、自分たち二人だけが、違うものを見ているのだと思った。このまま、誰も知らない場所にまで、行けるような気がした。
やがて行きついた石段の陰に、次なる手紙は、隠されていた。
「今度は、何だろう。わくわくするね」
一通目が謎の文字だったことから、きっとまた、普通の文字で書かれたものではないだろうと、二人は予想した。それは、半分正解で、半分外れた。開いた便箋に記されていたのは、見慣れた普通の字だった──ただし、文字ではなく、数字だった。
几帳面な線で引かれた升目はほとんど空白で、ところどころに、数字が入っている。小さな絵や、色のついた升目もある。その下には、南、東、などの方位が、なぜか一文字ずつ異なる色のインクで記され、並んでいる。一目見ただけで、アルミンは、それが何を意味しているか理解したようだった。早速、石段を机代わりに、ペンを走らせる。
「ここに、さっきの数字を入れて……そうすると、ここの和から、こっちに入る可能性のある数は……」
エレンは暫し、その様子を眺めていたが、何やってんだ、と訊くと、アルミンは我に返ったように顔を上げた。つい、自分だけが問題に没頭してしまったことに気付いたのだろう、エレンにも分かるように、丁寧に説明してくれた。
「これは、ある法則によって、数字を並べるものだと思う。たとえば、縦の列、横の列、斜めの列の、どれを足しても同じ数になる、とか……この升目には、ほら、小さな絵が描いてあるから、さっき調べたものの数字を入れて、最後にこの違う色で囲まれたところに入る数字が、きっと、次のヒントになる。それで、この方針が間違っていないか、少し試していたところだよ」
その結果、どうやらこれで解けそうだということが分かったという。その過程は、エレンの理解の及ばぬところだったが、アルミンがそうだと言うのなら、間違いないはずだと思った。じゃあ、任せたぞ、とエレンは傍観を決め込もうとしたが、それより早く、「エレンも、一緒に考えてくれる? 違った目で見てくれたら、解けるのも、早くなると思う」というアルミンの言葉で、一緒に頭を絞ることとなった。
結局、アルミンはほとんど自力で升目を埋めてしまって、エレンが指摘できたのは、ひとつの数字だけだった。それも、計算から導き出したのではなく、当てずっぽうがたまたま当たっていたというだけだ。それでも、アルミンは喜び、すごいと言ってくれたし、エレンも悪い気はしなかった。全て埋まった升目を前に、アルミンは満足げに嘆息する。
「魔方陣、って言うんだよ。とてもきれいで、不思議だよね」
「ああ、面白いな」
でしょ、とアルミンは声を弾ませる。友人に、同じ感想を持って貰えたことが嬉しいらしい。しかし、精確には、エレンのコメントは、アルミンのそれとは、少々意味を異にしていた。アルミンの言うような、数の世界の神秘について、エレンは残念ながら、さして心を動かされなかった。数の合計が一致したところで、それがいったい、自分たちにとって何か良いことがあるのか、と思うし、美しいという感覚もよく分からない。
ただ、面白い、と言ったのは、決して、友人と調子を合わせるための嘘ではない。相手に合わせて愛想よく振舞う、そんな器用なことができたならば、今ごろ、遊び相手には事欠かなかったことだろう。
単純に、面白いと思ったのだ──こんなことに夢中になる、アルミンのことが。自分とは違っている、それが、嫌なのではなく、面白い。こいつは、こうでなくてはならないとさえ思う。出来上がった魔方陣から、次のヒントを書き写しているアルミンを、エレンは見守った。
「南、15……ここから、南に15歩、ということかな。次に、東……」
黒い升目に入った数字は、黒で記された方位と組み合わせ、同様に赤い升目は赤い方位、青い升目は青い方位と組み合わせていくことで、アルミンによると、次なる目標への道すじが明らかになるということだった。どうしてそういうことになるのか、という素朴な疑問に、アルミンは困った顔をした。「根拠はないけれど、そうするのが一番、しっくりと収まる」というのが、その説明だった。似たような謎解きを経験するうちに、これはそういうものだというパターンが、意識するまでもなく身についているのだろう。そういうものなんだな、とエレンは素直に納得した。
数をこなせばこなすほど、考えなくても、どうすれば正解か分かるようになる。父は患者を一目見るや、詳しく調べる前に病状の見当をつけることができるし、母は朝の限られた時間で、何品もの料理を手際よく同時に仕上げることができる。どうしてそれができるのかと、聞かれれば逆に困ってしまうだろう。できるものはできる、としか言いようがない。エレンにしても、どうして服を着るような複雑な手順を、寝惚けながらでもこなせるのかと問われて、答えられる自信はない。考えなくてもできるようになるのが、慣れというものであり、そうすると時間と労力の節約になって、ますます経験をこなせるから、精度も磨かれていく。好きなものは得意になるし、苦手なものはいつまでたってもできないのは、そういうわけだと、以前に父から諭されたものだ。
友人を見ていると、その意味がよく分かる。たぶん、これからアルミンが、もっと才能を生かして、得意になっていくだろう方面も、想像がつく。それでは、自分にとって、何かそういうものはあるのだろうかと、エレンは少し考えてみたが、答えは出せなかった。まあ、そのうち、自然に何とかなるだろう、ということにして、自分探しよりも、宝探しのほうに意識を戻した。
解き明かした答えは、また次の謎へとつながり、二人はその先を追い求めた。町中をぐるぐると歩き回り、時に手分けして、お互いの調査結果を報告しあった。この「宝探し」を、アルミンの祖父は、二人で一緒に遊べるように作ったと言っていた。自分とアルミンとでは、知識の量も、頭の回転の良さも違うのに、一緒に楽しめるものだろうかと、エレンは当初、疑いを抱かなかったといえば嘘になる。アルミンに合わせれば、きっとエレンはついていけないし、エレンに合わせれば、アルミンは退屈してしまうだろう。だが、その心配は無用だった。間違いなく、今、二人は一緒に宝探しを楽しんでいた。より精確にいえば、最終的に宝を見つけるという目的は忘れて、ただ、目の前に現れる謎を解くことに夢中になっていた。次は何が出てくる、どこへ行ける、何を見つけられる。
「知らないことだらけだ」
二つの塔が重なって、まるで一つに見える、不思議な景色を眺められる唯一の地点を、謎解きの中で初めて知ったアルミンは、一言、そう呟いた。エレンにとっては、何でも知っているアルミンが、そんなことを言う、世界はどれだけ広いのかと、思うと途方もない心地がした。ただ、おそろしいとは感じなかった。こんなにも知らないことがあって、良かったと思った。何が良かったのかと訊かれても、うまく言えない。だが、今日、二人で新たに見つけたものが、すべて、もともと知っていたとしたら、楽しくもなんともなかっただろうことは確かだ。それは、退屈な、ただの作業でしかない。
新しいことが何も起こらない、毎日を退屈に感じていたとき、まるで、自分は何でも知っているような気になっていた。そうではなかったと、今ならば分かる。この壁の中のことすら、自分は何も知らない。
「だから、知りたいと思う」
ああ、その通りだなと、エレンは胸の内で同意した。二人が同じ気持ちであること、それだけは、今の自分が確かに知っていることだといえた。
丸一日、シガンシナ中を歩き回って、最後に行き着いたのは、アルミンにとって、最もよく知る場所だった。具体的には、アルミンの家の、小さな庭だった。最終的には、あの卵探しをしていた子どもたちと同じ格好になったことが、可笑しかった。
これで、卵が隠されていたらどうしよう、と言いながら、二人で「宝物」が隠されていそうな場所を探した。
「あっ……何かあるよ、これかな?」
茂みの奥から、アルミンが引っ張り出したのは、細長い包みだった。茶色い蝋紙に麻紐を掛けただけの、素っ気ない包装で、中身が何であるかは分からない。少なくとも、卵でないことだけは確かだった。
「いいのかな、開けても……」
「いいに決まってるだろ。アルミンが見つけたんだから、アルミンのものだ」
うん、と頷いて、アルミンは紐を解いた。がさがさと、蝋紙を開いていく。中から出てきた、薄い箱を開く段階になっても、まだ、中身の見当はつかなかった。また手紙じゃないだろうな、とエレンが軽口を叩くと、アルミンは笑うかと思ったが、それもあり得るね、と真面目に返してきた。そうなれば、続きはまた明日だ。
箱を開ける──その中身は、今度こそ、誰にも一目で分かるものだった。ペンと同じくらいに細長く、持ち手から鋭利な先端にかけて薄く平たく、刃のようでありながら、触れても切れることはない、書斎のデスクに置かれるのが似合いの、それは──
「ペーパーナイフだ!」
ペーパーナイフ──決して、生活に必需の品ではない。ただ封を開けるだけの用途しか持たないくせに、立派な外見をして場所をとる、不経済なものだというのが、それを使う機会などないエレンの正直な認識だ。
父は、手紙を受け取ると、デスクに腰を下ろし、優雅な所作でペーパーナイフを取り上げて、おもむろに封を切る。母は、時折、内地に嫁いだ友人からの手紙が届くのを、待ち遠しいとばかりに端から手で千切って開ける。だから、小箱の中に大事に仕舞ってある封筒は、どれも端がぎざぎざに裂けたものばかりで、時には、中の便箋まで被害が及んでいることもあるが、彼女は自分のやり方を改める気はないらしい。
そんな二人を見るに、エレンは自分がペーパーナイフを使う未来を想像できず、きっと、手で破くことになるのだろうな、と思った。この世には、二種類の人間がいる。ペーパーナイフを使う人間と、使わない人間だ。エレンが後者だとすると、アルミンは前者だ。実際には、お互い、まだそれを使う機会などないので、どうだか分からないが、なんとなく、そう思えた。
そんなペーパーナイフが、目の前にある。銀色に光る、小ぶりな刃。シンプルな形状だが、柄からブレードにかけて、植物の蔓のような模様が彫り込まれていて、優美な印象を与える。持ち手の部分に、小さな石が埋め込まれていて、それは角度を変えると、きらきらと光った。星みたいだ、とアルミンは声を弾ませる。それから、ふと、気付いたように眉を寄せた。
「あれ? でも、これが宝物ってことは……二人で分けられないよ、どうしよう」
これは困ったとばかりに、アルミンは深刻な顔をする。何を悩む必要があるのか、エレンには分からなかった。
「なんで、分けなきゃいけないんだ? それはもう、アルミンのものだろ」
「でも、二人で一緒に探したんだよ。僕だけが貰ったら、不公平じゃないか」
「いいんだ。オレじゃ、どうせ使うことなんてない。アルミンが持つべきだ」
それで何の問題もないと、エレンは思ったのだが、アルミンにとっては、そうではなかったらしい。そこからの双方の言い分は、平行線を辿った。自分が貰うわけにはいかないと、頑なに主張するアルミンの意向を変えさせるのは、困難を極めた。そもそも、まともに理屈をこねて、アルミンを言い負かすなど、エレンには不可能だ。そんな試みは、誰でも、相当にてこずるに違いない。
最終的には、「アルミンが持ってるなら、オレが持ってるみたいなものだ」という、よくわからない理論で押し通し、半ば無理やり、押し付けるかたちとなった。アルミンは、でもまだ僕のものと決まったわけじゃないよ、と最後まで抵抗を続け、妥協案として一時的に、共有財産として彼の祖父の管理下に置くということで、双方合意した。そのまま、なし崩し的にアルミンの持ち物になることを、エレンは密かに願った。ペーパーナイフにとっても、それが一番の幸せというものだ。箱の中からこれが出てきたとき、アルミンは歓声を上げ、嘆息し、じっと見入っていた。エレンと違って、アルミンは明らかに、それを使うことに憧れているから、宝物として、大事にするに違いない。
仮の持ち主となったことに、躊躇いつつも喜びを抑えられない面持ちで、アルミンは気恥ずかしげに紡ぐ。
「おじいちゃんが、手紙を開けるところ、見るのが好きなんだ。気持ち良いくらい、きれいに開けるんだよ」
先ほどの分類に従っていえば、アルミンの祖父は、ペーパーナイフを使うほうの人間になる。それも、エレンにはなんとなく、納得できることだった。
「内地のあちこちに、知り合いがいるんだっけ」
「うん。よく分からないけど、細かなリストみたいなものが入っていることがあるよ。古本の注文書かな? あれは、きっと、破けたらまずいものなんだろうね」
あんな風に、僕も大きくなったら、いつか、誰かから手紙が届いたりするのかな、とアルミンはペーパーナイフを見つめて呟く。それを使う日のことを、遠く思い描いているのだろう。
アルミンがペーパーナイフで封を切るというのは、いかにもふさわしいように思えた。その手は、紙を大切に愛でる手だ。彼はインクをつけたペンを、さらさらと紙面に走らせる。几帳面に整った文字は、エレンなどの無秩序なそれより、随分と大人びて見える。もしも誰かに手紙を書いたなら、紙を丁寧に角を合わせて折り畳み、時間をかけて蝋を垂らして封印するだろう。届いた手紙は、勿論、ペーパーナイフで封切られるのだ。
思い描いてはみたものの、残念ながら、今のアルミンに届く手紙はない。ペーパーナイフをすぐに活用できないのが、もどかしげな友人を励ますつもりで、エレンは提案した。
「そんなの待たなくても、オレが今、書いてやるよ。どんな手紙がいいんだ?」
「うーん……それは、なんだか違うような……」
提案に、アルミンは困ったように首を傾げる。手紙というのは、何かを知らせるためのものなのだから、はじめから中身が分かっていては、意味がないという。ならば、相談せずに自力で何か書いてみようかとエレンは思ったが、しかし、改めて考えてみると、何を書けば良いのか分からない。毎日のように顔を合わせている友人に、いったい、何を書くことがあるだろう。言いたいことがあるなら、面と向かって言えばいい。手紙が役に立つことがあるとすれば、たとえば、どちらかが何らかの都合で遠くへ引っ越すなどの場合が考えられるが、今のところそんな予定はない。これは無理だな、とエレンはあっさり、提案を取り下げた。
「でも、もしエレンから手紙が来たらって思うと、なんだかわくわくするよ。今は無理でも、いつか、書いてくれる?」
「ああ。そのうちな」
約束だよ、と微笑むアルミンを前に、そのときまでにもう少し、自分は字を上達したほうが良さそうだなとエレンは思った。手紙を書くからには、自分は離れた場所にいるのだろうから、アルミンが知らないようなことを書いて、驚かせてやりたい。ペーパーナイフを使うのが待ち遠しく思えるような、そんな手紙を、きっと送ってやろうと思った。
「中身が分からなくて、知らないことが書かれているから、手紙は面白い……本を読む楽しみと、同じだね」
それから、今でこそ本というのは、手に取ってすぐにぱらぱらと中を読めるものであるが、昔は頁が袋状に閉じられていて、それを切り開きながら読むものであったらしいということも、アルミンは教えてくれた。面倒なことだとエレンは思ったが、きっとアルミンであれば、はやる気持ちを抑えきれずにペーパーナイフを握る手に力が入ってしまいがちになりながら、そうして丁寧に一頁一頁を読み進める工程も、楽しんでしまうに違いない。そうして、次々に、未だ見ぬ世界を、切り開いていく。細い手に握った、小さな刃ひとつで。その手の中に、世界が広がるのを見た。
最後に、手に取らせてもらったペーパーナイフは、自分にはあまり似合わないというのが、エレンの正直な感想だった。この手に握り締めるものは、何か、もっと違うもののような気がした。やはり、これはアルミンのものだと、自然に納得して、ふさわしい持ち主に返した。
これは、きっと、アルミンの役に立つものだ。数知れない、重要な手紙を封切るために、使われることになるのだろう。彼の祖父も、それを見越して、贈り物として選んだに違いない。誰から便りが届くわけでもない子どもには、少し早すぎたかもしれないが、使う日を待つのも、アルミンにとっては楽しみなことだろう。
「今日は、つきあってくれて、ありがとう。つまらなくなかった?」
「ああ。オレにはよく分からなかったけど、楽しかった。お宝も見つかったことだしな」
なら良かった、とアルミンはほっとしたように微笑む。
厳密には、エレンは宝物を手に入れたわけではないのだが、それは何ら、今日一日の楽しみを損ねるものではなかった。発案者たるアルミンの祖父の創造性には、ただただ圧倒されるばかりだ。子ども相手だからといって、一切の妥協や手抜きは感じさせない、見事な仕上がりだった。何もないところから、自分の頭だけで、これほどの娯楽を作り出してしまう。それに触れさせてもらったことこそ、エレンにとって、今日の収穫といってよかった。むしろ礼を言いたいくらいで、これ以上の「宝物」を求めるつもりなど、どこにもない。
ペーパーナイフ一本あれば、十分だ。
■エレンの話(2)
ペーパーナイフ一本あれば、十分だ。
たとえば、軽く勢いをつけて、眼球に突き入れて掻き回し、その奥に仕舞われた脳髄を直に破壊すれば、事足りる。あまり薄く華奢なものだと、心もとないから、できればある程度重厚で、ごてごてと悪趣味な装飾が施された頑丈なものであると、なお良い。
もっとも、それが致命傷となり得るのは、人類サイズの生物に限った話であって、眼球だけで人の頭以上もあるような連中に対しては、時間稼ぎにもならないのだが。
物騒な思考を完璧に覆い隠し、傍目にはただぼんやりと日向ぼっこをしているだけにしか見えない無害げな面持ちで、エレン・クルーガー──を名乗る青年──は、眼帯に覆われていない片目を僅かに眇めた。視線の先、病院の前庭に並んだ向かいのベンチでは、同じく療養中の男が、ペーパーナイフで今まさに手紙を封切ったところだった。家族からの便りだろうか、包帯だらけの顔に浮かぶ表情は、無邪気なほどに明るい。読みながら、頷き、噛み締めるようにし、やや涙ぐむ。それから、急いで手紙を畳み、松葉杖に頼りながら腰を上げるのは、きっと、早く部屋に戻って返事を書きたいのだろう。気が急いたせいか、男はベンチにペーパーナイフを置いたままに、その場を去ろうとする。
「おーい。忘れ物だぞ」
呼びかけてやると、男は不思議そうに振り返った。手にはしっかりと手紙を握っていて、その他に忘れるようなものが何かあっただろうか、とでも言いたげである。ベンチを指差されて、ようやく男は、ああ、と声を上げた。
「うっかりしていたよ、ありがとう」
ペーパーナイフを拾い上げ、ポケットに仕舞おうとしたところで、男はエレンの手元に目を留めた。仕舞いかけた道具を反転して、軽く差し出す。
「あんたも、家族からか? 使うかい?」
「いや。こいつは、これから出すやつだ」
手にした封書を、軽く振って、エレンは苦笑した。そうか、と男はペーパーナイフを戻した。
「俺もこれから、返事を書くんだ。心配ないって、伝えないとな。まあ、お互い、こんな身体になっちまったが、こうして家族と遣り取りができるってだけでも、ありがたいことだ──」
それじゃ、と男は不自由そうな足取りで、院内に戻っていった。その後姿を見送りつつ、エレンは今の遣り取りを反芻し、特に不審に思われる点はなかっただろうことを確認した。こちらが、ペーパーナイフから何を連想していたのかも、悟られてはいまい。内心と切り離した、嘘偽りで己を覆い隠す技術は、随分と上達したことを自覚していて、だからこうして、身分を隠して塀の中で呑気にひなたぼっこをしてもいられるというものだ。
見破られてはならない──今後の計画のためにも。とはいえ、人は見たいものだけを見るし、知っている範囲の世界だけでものを考える生き物であるから、まず素性が疑われることはないだろう。異物が紛れ込んでいるなど、思いもしないに違いない。かつて、逆の立場として、そんな間抜けの一人であった経験上、よく理解している。
今の男にとって、ペーパーナイフは、封書を開けるためのものであって、それ以上でもそれ以下でもなかった。そう思えるのは、平和なことだと思う。少なくとも、誰かから手紙が届く状況にあるという点と、それを本来の用途以外で使う予定がないという点においてだ。
誰からの手紙も届く予定のない者にとって、それは無用の長物だ。一方で、いざというとき、殺傷用途に使えそうか否かという観点で値踏みをする価値なら、なくはない。もっとも、丸腰かつペーパーナイフだけは手元にある、などという状況は想定しにくいのだが、いかなる事態にも対処できてこその兵士である。叩き込まれた訓練の成果は、無意識の内にも、最適な選択と行動を可能にする。
いつでも、その準備はできている──ことなど、微塵も伺わせない、気だるげな態度で、エレンは片手に視線を落とした。手の中にあるのは、刃ではなく、一通の手紙だ。ここへ届けられたものではない、というのは、先ほど口にした通りだ。これから差し出す予定のもの──「家族」への手紙である。何の変哲も無い簡素な封書、しかし、その存在感は、かつて命懸けで振るっていた刃の重みに匹敵した。
この手紙は──この刃は、何を切り開くのだろう。
肉を切り裂き、血に塗れた先に、歪んだ視界で、何を視るのだろう。
あるいは、その先には、何も無いのかもしれない。
病院という場所の良さといえば、仮に奇妙な行動をしていたとしても、それが自他に危害の及ぶものでない限り、日常風景として見逃してもらえるということだ。日がな一日、庭の片隅で膝を抱えていようと、木々とお喋りをしていようと、不審に思われることはない。おかげで、こうして、手にした封筒をじっと眺めて、物思いに耽っていられる。どれほどそうしていたか、ふと見れば、先ほどの男が、再びベンチに戻ってきていた。手紙を書きに行ったはずだが、もう済んだのだろうか。その手には、一通の封書が握られている。男は、ペーパーナイフで、それを待ち遠しいとばかりに封切った。中身を取り出し、感じ入ったように頷きながら、読み進める。数分前と、寸分違わぬ光景だった。
そして、男は手紙を畳むと、いそいそと立ち上がり、院内へと戻る。ペーパーナイフを置き忘れていることを、今度はエレンは指摘しなかった。どうせ、数分後には、また戻ってきて、同じことを繰り返すのだ。手紙を新しい封筒に入れ直し、家族からの手紙だといって、封切り、嬉しそうに読む。それが、あの男の日課だ。娯楽の少ないここでは、本人以外にとって、それは繰り返し上演される喜劇として認識されている。
「精が出ることだねぇ。あれで何回目だろう?」
独演を、同じく眺めていたらしい一人が、エレンの脇を通りながら苦笑する。彼は男に哀れみの視線を遣りながら、掠れ声で続ける。
「もう、家族もいないっていうのにさ。だが、気持ちは分かるよ。誰からも手紙が届かないなんて奴は、死んじまってるのと、同じだからな」
一人で喋って満足し、返事も求めずに立ち去っていく、彼は発作が起きると、脳裏に焼き付いた戦場の凄惨な光景が蘇り、その詳細な様子を、辺り構わずうわ言のように描写し続けてしまうことから、他の患者に悪影響だとして普段は隔離されているのだが、今日は調子が良いらしい。
こういう場所に身を置いていると、記憶障害の振りをしているだけの自分など、かわいいものに思えてくる。それとも、まともだと思っているのは自分だけで、他人からみれば、やはり病んで、歪んで、壊れているのだろうか。まあ、今更、自分がまともな人間だなどと主張する気はない。とうの昔に、やめている──まともであることも、ヒトであることも。その意味で、この隠れ場所は、異形の自分には、なかなかに似合いなのではないだろうかと、エレンは小さく笑った。
ベンチに残されたペーパーナイフ──男は、それをあくまでもペーパーナイフとして扱っていたし、エレンもそれに倣ったが、精確にいえば、それはペーパーナイフではなかった。そもそも、文房具とはいえ、使いようによっては十分に凶器になり得る、あのような鋭利な道具を、心身を病んだ患者に無防備に持たせてやるほど、この病院は寛大ではない。
だから、彼が使っていたのは、ペーパーナイフという名の、携帯用の靴べらだ。そんなものを使うくらいながら、手で千切ったほうが楽だと思うが、彼は器用にも、毎回それで封を開ける。見ている側も、あれは本当にペーパーナイフなのではないかと錯覚しそうになるほど、手慣れたものだ。繰り返す行為は、彼にとって、必要な儀式であるから、手順や道具が省略されることは、決して、あってはならない。これからも、男は粛々と、靴べらで手紙を開封し続けることだろう。親切な誰かが、ペーパーナイフを貸してやろうとしても、彼にそれを持ち替えさせることは、きっとできない。
忘れ物を眺めているうちに、久しぶりに、昔のことを思い出した。世界のことなど、何も知らなかった頃。聳え立つ壁に囲まれて、ぼんやりと空を眺めていた日々。宝探しに夢中になった春の日。二人で見つけた、あのペーパーナイフは、今も故郷の家で、持ち主の帰りを待っているのだろう。未だ見ぬ世界を切り開く、その日のために。おそらくは、二度と手にすることはないというのに、エレンの記憶の中では、その重みと輝きは、あの日のまま、今なお失われていない。友人にとっても、同じだろうか。ここにはいない、幼馴染の麦藁色の頭を思い浮かべる。
あのときのエレンは、本当は、宝物が見つからなくてもいいと思っていた。
難問を解けたときの、アルミンの輝くばかりの瞳。弾んだ声。考えをめぐらす、真剣な面持ち。そうして、アルミンが楽しそうにしているというだけで、エレンにとっては、価値があることだった。普通なら、最初から考えることを放棄するようなややこしい問題も、根気良く取り組み、見事に解いてしまう、アルミンは立派だと思った。こんな友人を持っている、自分が、誇らしく思えた。
アルミンと一緒に、宝物を探したい。目指すものは、何だっていい。何であれ、掴み取るために、夢中になれるものであれば。思えば、そんな無邪気な欲求が、幼い頃からエレンの内に息づいていた。それに突き動かされるようにして、気付けばこんなところにまで、やってきてしまった。
探し求めるのは、きっと良いものが見つかるはずだと、信じているからだ。誰も、悪いものを見つけるために、好き好んで探索活動はしない。医者は病巣を探すわけだが、それも、治療という良い結果を期待しての探しものだ。「宝探し」はあっても、「がらくた探し」は聞いたことがないように、どうも自分たちは、探せばどこかに良いものが見つかることを期待しがちだ。
まだ見つかっていないだけで、どこかに必ず、真の宝物はあると。きっと、それを見つけるのだと。何の根拠もなく、信じることができる。信念を糧に、走り続けられる。それは、一種の才能だ。
見たことのない世界が、素晴らしいものだと、どうして言い切れる。
壁の向こうにある海が、美しく澄んでいると、どうして想像できる。
そこには、ここにはない自由があるはずだと、どうして信じられる。
──実際には。
探しものの結果、救いようのない、より悪いものしか、見つからないことだってある。いっそはじめから、探し求めなければ良かったと、後悔したところで、取り返しはつかない。幾度となく、繰り返し、絶望を再確認するだけの、無益な行為。もう、十分に思い知らされた。
溜息を吐いて、エレンはこめかみを押さえた。折角、懐かしい記憶に思いを馳せていたというのに、どうやら、明るい気分にはさせて貰えないらしい。そんな心の動きは、感じなくなって久しく、そうしているうちに、それがどんなものだったのかという手触りも、次第に薄れていくようだった。
この身の内なる≪誰か≫が言う。だから言ったじゃないか、と。
君は知らなくていい。君を厭う者のことなど、君を嫌う者のことなど、君を憎む者のことなど、君を蔑む者のことなど。この世の悪意など、君は知らなくていい。
世界は、君を望まない。
世界は、君を傷つける。
世界は、君を排除する。
君は誰にも理解されず、受け容れられず、どこへ行こうと忌み嫌われ、訴えに耳を貸す者はなく、差し伸べられる手はなく、存在自体を否定され、すべての罪を着せられる。君が生きている限り、それは続く。悪夢と違って、終わりはない。
君の怒りは、君の憎悪は、君の悲嘆は、君の抵抗は、君の反逆は、どこにも届かず、君に跳ね返ってくるばかりだ。君は君を傷つけ、血を流し、苦しみの中で、呪詛を吐きながら息絶える。
君はひとりだ。
どこまでもひとりだ。
そうまでして、君は生きなくていい。
──だから。
君の目を鎖してあげよう。何も見なくて済むように。己の本当の姿を知らずにいれば、化け物でも、まるでヒトのように振舞えるだろう。
君の耳を塞いであげよう。何も聞かなくて済むように。糾弾の声を聞かずにいれば、自らを無垢な民だと思い込めるだろう。
君の記憶を封じてあげよう。何も考えなくて済むように。忌まわしい過去を忘れ去れば、疑問を抱かずに生きていけるだろう。
──そうだ。
世界の本当の姿を、君は知らなくていい。
自ら認識したものだけが、君の世界となる。サルを知らない君にとっての世界に、サルが存在しないのと、同じように。絶望を知らない君にとっての世界に、絶望は存在しない。
忌まわしいものからは、目を背ければ、耳を塞げば、口を噤めば、それは、地上に存在しないことになる。
壁を作り、光を遮り、何も入ってこないように。良い知らせも、悪い知らせも、届かないように。閉ざした扉を、決して、開けてはならない。
知る必要などない、この世に満ちる、恐怖も、憎悪も、絶望も。
壁の外に、何があるのかも。
この狭い世界で、十分だろう?
目を潰され、羽をもがれて、囚われた、哀れで、この上なく幸せな君。
その鳥籠の名は──
──楽園というなら、そうだったのだろう。煩わしい幻聴を追い払うべく、だいぶ長く伸びた黒髪を払って、エレンは目元に指先を寄せた。思い起こすのは、何も知らずにいた頃、この眼に映っていた、平凡な日常。籠に山盛りになった、真白い卵。窓辺に吊るされた、色とりどりの卵飾り。夢中になって、卵探しに興じる子どもたち。
それは、あたかも、安全で快適な殻に覆われ鎖された、卵の中の世界での出来事だった。決して破られることなく、何も生まれることなく、眠りに就いたまま、緩慢に滅びゆくための世界。
俯いていた面を緩慢に上げて、エレンは空を仰いだ。この上なく平穏に澄んだ青空。鳥たちが、悠然と視界を横切っていく。壁だろうと、海だろうと、ものともしない。何に遮られることもなく飛んでいく、その自由な姿に、いつも憧れていた。痛いほどの風を切り裂き、重力に逆らって、限界まで飛ぶことで、ちっぽけな自分でも、巨大なものと渡り合えることを信じていたけれど、その飛翔は真似事でしかなく、その翼は作り物でしかなく、奴らの蠢くこの地上から、手の届かぬところまで、逃れることはできないと知った。
鳥のようには飛べない。だから、不完全に、不格好に、無遠慮に、自分たちのやりかたで、飛ぶことにした。俯き、地に這い蹲るという選択肢は、存在しなかった。
鳥の雛は、あんなにもか弱い身体で、小さな嘴を頼りに、誰に教えられるでもなく、堅牢な殻に繰り返し挑み、やがてこれを破る。美しく囲まれた完璧な世界を、自ら破壊し、外界へと踏み出す。
死と再生。
破壊と創造。
すべては、その繰り返しだ。
楽園は、二度と還らない。
かすり傷をつけることさえできない、小さな刃で、十分だったのだ。幾重にも鎖され、仕舞い込まれ、覆い隠されていたものを、切り裂き、引き摺り出して、光の下に晒すには。
ペーパーナイフのように、美しく鮮やかでもなければ、楽しく軽やかでもなかった。しかし、その明瞭さだけは、同じだった。封切ってしまえば、二度と、元には戻せない。砂上に組み上げられた精緻な箱庭は、脆くも崩落する。
疑いようなく、眼前につきつける。知らないとは、関係ないとは、最早、言わせないとばかりに。綴じられ、閉じられ、鎖された、途方もなく膨大な頁を、切り開いてしまった、お前にはその責任があると、叫び、責め立て、圧し掛かる。
彼方へと繋がる記憶の扉を開いた、あのときか。
冷たい土の下に隠された記述を手にした、あのときか。
あるいは──誰かが最初に、壁の外へ出た、あのときか。
壁の外へと出なければ、何も知らずに済んだのだ。無垢なる者でいられたのだ。
それでも、読まなければ良かったと、知らない方が良かったと、後悔はしない。後悔し、反省し、大人しく従順にしていられるようであれば、今の自分はここにない。失敗から学ばぬ愚か者というなら、その通りだ。数多の愚か者たちによって、道は紡がれてきた。その道を辿り、その先へと進む、課せられた役割は今や、己と一体化している。
良い知らせであろうと、悪い知らせであろうと。封じたままになど、しておけず、手を伸ばし、掴みとってしまう。
誰も、それを止めることはできない。求めずには──進まずには、いられない。
鍵を、開けたのだから。
頁を、読んだのだから。
壁を、越えたのだから。
人を、喰ったのだから。
海を、渡ったのだから。
選択する度に、加速していく、残された時間の、迫る刻を突き付ける、喉元に寄り添う冷ややかな刃から、逃れる術はない。ならば、続く限り、ひた走るだけだ。逃れるためではなく、帰るためではなく。後悔も未練も怨嗟も、何も残すことなく、一欠片に至るまで、己を使い切るために。
いつの間にか、指先に力が入ってしまっていた。封筒に寄った皺を、適当に伸ばす。
さて──そろそろ、あの少年が顔を見せる頃だ。小さな秘密を共有する間柄、利害関係なく本心を打ち明けられる相談相手、理解ある良き先達、無害な弱者たるエレン・クルーガーの頼みごとを、彼は疑いもせずに、快く引き受けるだろう。託されたものの重さにも、そこから赤く滴り落ちるものにも、気付くことなく。招かれざる客への招待状を送り出し、此方と彼方とを、結び付ける。役割を果たしたあかつきには、心からの礼を述べるとしようと、淡々とエレンは思った。
かつて、たった一人の友人に、手紙が欲しいなら書いてやると言った、あの日から、もう随分と年月が経ってしまった。まさか、海の向こうで手紙をしたためることになろうとは、それも、このような内容になろうとは、さすがの幼馴染も、想定していなかったことだろう。驚かせてやる、という目的だけは達成できそうだが、決して望ましいベクトルのそれではないという点が、さらに悪質だと、エレンは自嘲した。
子どもの頃、手紙は、何か特別な輝きを感じられるものだった。外からやってくるものには、無条件で憧れ、好奇心を掻き立てられた。それが、いつも心躍る知らせをもたらすばかりのものではないということを、今の自分たちは、もう知っている。手紙は、手記は、伝言は、時に鋭利な刃となって眼前に迫り、鉄槌となって心臓を叩き潰す。それ自体、何の温度も力も持たぬものでありながら、ある者に希望を与え、ある者を絶望に葬る。ある者を生かし、ある者を殺す。
片手に握る、これは、福音か、あるいは、滅亡の予言か。記した本人さえ、まだ評価を下せる段階にない。それが良い知らせか、悪い知らせか、結論づけられるのは、書き手が記した時点でもなければ、読み手が開いた時点でもなく、仮に確定したと思われたところで、容易に反転する、曖昧なものだ。
手紙そのものに、答えがあるのではない。
そこに、何を見出すのか。何を選ぶのか。何を決めるのか。
ただ、僅かばかりの自由が、繋がる光の道の存在を、信じて追い求める。
進む者で、あり続けるために。
手紙が──誰かに伝える目的で遺されたものの、すべてが。
連綿と紡がれ続けてきた記憶が、書き足され続けてきた記述が、手から手へと、血から血へと、魂から魂へと、受け渡されていく。この心臓から滴る、赤き血で綴られた、膨大な記録。それに連なる、自分もまた、いずれどこかの誰かへと、伝えられる名もなき≪誰か≫となる。やがて、いつの日か、残されたそれを、人は、神話と呼ぶだろう。
≪誰か≫が言った。
君は苦しむ。
君は呪う。
君は恨む。
君は嘆く。
君は抗う。
君は叫ぶ。
君は走る。
君は戦う。
君は壊す。
君は殺す。
君は斃れる。
そうして、進み続ける、君は、繰り返す。
二千年前の君から、二千年後の君へ。
[ end. ]
卵推しなのはイースター合わせのつもりだった名残です。
2018.6.2