ただのユンフロ
「ユング、君は本当に馬鹿だな」
教室の大窓に優雅に背をもたれさせて、物憂げに腕を組み、ガラス越しの曇り空を目を細めて振り仰いで、暗雲の切れ間から射し込む陽光の神々しさに感嘆するかのように薄く開いた唇から、いったいどんな詩的な言葉が紡がれるのかと思えば、これである。
全てを悟った哲学者めいて落ち着き払った声は、まるで深遠な格言を引用するかの調子でよどみなく、目の前の学友を誹謗中傷した。
暴言を吐いておきながら、視線は相変わらず曇天に向けられていて、ともすれば、人は自分の耳の方が何かを間違って聞き取ってしまったのかと疑うだろう。だが、断言して、それが幻聴でも聞き間違いでもないことを知る人間が、ちょうど今ここに存在した。
「……君にそんな評価をされるいわれはないよ。フロイト」
机に広げた紙の束から嫌々ながら顔を上げて、忌々しい思いを精一杯に視線に込めながら、努めて冷静な口調でもってユングは言葉を返した。
何の前振りもなく馬鹿呼ばわりされて、本来ならば反射的に頭に血を昇らせて詰め寄るくらいの反応をしても無理はないというのに、我ながらよく感情を統制したものである。ユングは心の内で、自らの冷静な対応を称賛した。
呼吸をするように自然に他人を挑発する、厄介な性癖を持つフロイトに対して、まともに相手をしていては精神がもたない。感情的になったが最後、悠々と腕を組んだ彼の、決して冷笑を絶やさぬ唇から紡がれる鋭利な言葉の暴力によって、反撃の余地なく打ちのめされることは火を見るより明らかだ。そのこと自体は、物心ついた頃から重々承知している。
とはいえ、分かってはいてもなかなか行動には結び付かず、幾度となく同じ轍を踏んでは、痛い目に遭わされ、腹立たしい思い出を刻みながら、最近になってようやく、理性的な対応が出来るようになってきたところである。
そのユングの応答を、聞いているのだかいないのだか、およそ注意を払わぬ無礼な態度でもって相変わらず窓の外を眺めつつ、
「前々から、思っていたのだけど」
と言って、フロイトは深く息を吐いた。ようやく顔を動かすと、冷めた視線でもって、学友に相対する。
「君に気安く呼び捨てられるのが、僕はどうも生理的に受け付けなくてね。出来れば、あまり下らないことで話し掛けないでくれないか」
「そっちから話し掛けたんだろうが!」
自分のおこないを棚に上げて、あまりといえばあまりな暴言である。むしろ、話し掛けないで貰いたいのはこちらの方だ、とユングは胸の内で呟いた。
それは、何も憎まれ口としてだけ言っているのではなくて、今現在の状況に大いに依拠している。放課後の教室の、がらんとした空間に、決して仲のよろしいわけでもない二人だけが、なぜ居残っているかといえば、課題に取り組んでいるからだ。
より精確に言うならば、フロイトの抱える課題に、同じ学問領域の心理学者クローンとして、ユングが強制的に協力させられている、ということになる。
今、ユングの机の上に広げられた、記入しかけの用紙がそれだ。平たく言えばアンケート、具体的に言えば、自らの性格特性に関する多様な角度からの数十個の質問に、どれだけ当てはまるかを五件法で回答する質問紙だ。
一日の授業を終え、さっさと寮に帰ろうとしていたところを捕まって、ユングは有無を言わさず、このフロイトが作成したという質問紙調査に協力させられることになった。何で僕が、そんな義理はない、面倒くさい、と一通りの不平不満は申し立てたのであるが、「それでも心理屋か」という一言と氷のような視線を向けられると、しぶしぶながら黙って従うほかなかった。
よく考えると、フロイトの言っていることも滅茶苦茶な論法なのであるが、これはプライドの問題である。ユングにしてみれば、何であれ自分の専門分野において、フロイトに見下されるような事態は絶対に避けたいという、悲壮な決意を抱いている。心理屋のくせに、お前は心理検査から逃げるのか、それを面倒な手続きだというのか、と暗に非難されては、黙って引き下がるわけにはいくまい。
上手く乗せられただけのような気もするが、ともかく、こうした事情があって、延々と続く単調な質問に答えて丸をつけている最中である。見ていろ、今度自分が何か面倒な実験手続きを考えたら、絶対に協力させてやるからな、と胸に誓いつつ、また次の質問に目を走らせる。
人にそういうことをさせておきながら、当の調査計画者である筈のフロイトはあまりに真剣味に欠ける態度で、室内をうろついたり、ぼんやり窓の外を眺めていたかと思えば、あろうことか回答中の人間に話し掛けるなど、もしこれが本調査であったなら、心理屋失格のひどい振舞いようである。
対抗して、嘘だらけの回答をしてやろうかとも一瞬思ったが、根が生真面目な心理学者であるユングは、これまでのところ、ひたすら誠実に回答を続けている。
「気が散る。黙っていてくれ」
それだけ言って、ユングはうっとうしげに追い払うように手を振った。だが、こちらは根からのひねくれ者のフロイトである。苦言に対して、むしろ逆らうように、優雅に無視して言葉を続ける。
「ごめん、これは言うつもりはなかったんだ、あまりに救いようがなくて、君に申し訳ないから。けれど、いつかは言わなくてはいけないことだろうし、それが今であっても良いのかも知れない。だから言わせて貰うけれど、どうか、自分を責めないでくれたまえよ。いいかい、これは誰が悪いという問題ではないんだ。偶々、不幸なめぐり合わせだった、としか言いようがない。つまり、僕は君の声が嫌いなんだよ。聞きたくないんだ。聞くと頭痛がひどくなる気がする」
「……おい」
何を言い出すのかと、低く非難するユングに構わず、フロイトは緩く首を振った。
「そして更に残念なことに、僕は君の顔も嫌いなんだ。出来ることなら、見ずにすませたい。見ると憂鬱な気分になるから。いや、もちろん、これは君を責めているわけではないのだよ、勘違いしないで欲しい。何も、君にこれこれこう変わって欲しい、なんて注文があるわけではないのだから。そんなものがあるわけがない。君はどうしようもないよ。そういう、僕の嫌いな君を──ユングを、続けていくしか、ない。僕が、フロイトを続けていくのと、同じようにね」
こうまで言われて、何故ユングが激昂しないものか、人は不思議に思うかもしれない。むしろユングは、怒りというよりは、ああまたか、といったあきれ顔で、フロイトの暴言を聞き流した。
時にフロイトは、誰かを皮肉ったり挑発したりする意図ではなく、自らの思索を深めるためだけに、意味深なことを呟いてみせる癖がある。そういうときは、いつもの冷笑や癇に障る口調が影を潜めて、淡々と遠くを見るような様子になるから、ある程度の付き合いのある人間には、それと知れる。
そうして紡がれた発言というのは、多くの場合、本人以外にとって大して深い意味は無いので、真に受けず適当に受け流すに限る。こんな冷静な対応が出来るなんて、やはり自分は、どこかの誰かと違って人間が出来ている、とユングは密やかな矜持を覚えた。
とはいえ、たとえ戯言の類であろうとも、こうもはっきりと、声だの顔だのを否定されて、気分の良いものではもちろんないというのも、一面で確かである。
だから、続けてフロイトが、やはり淡々とした調子で、
「それで、僕に黙っていろと言う君は、いったい、僕のどこが気に入らないと、そう言うんだい」
と問うたとき、ユングは考えるまでもなく、普段からの正直な思いを吐露していた。
「言うことの全部が気に入らないな。そもそも、思考回路からして相容れない。偉そうな態度も癇に障るし、いつも傍観者を気取って、むかつく」
質問紙に回答しつつも、学友に対する苦情は、よどみなくすらすらと口をついて出た。率直な感想に、さすがのフロイトも暫し沈黙して、いい気味だ、とユングは少々胸のすく思いをしながら、手元の新たなページをめくった。
そして、邪魔者を黙らせたことでスムーズに進んでいく筈だった回答の途中、記した丸が唐突に大きく乱れ、そうなったのは、思わずユングが顔を上げて手元がおろそかになったからなのであるが、更にその原因は、フロイトがぽつりと呟いた一言だった。
「そうか。この外見は、嫌いではないというわけだ」
言うと、フロイトは喉元に指をやり、一分の隙なく纏った制服の襟を開いた。気だるげな動作で、釦を上から一つ一つ、外していく。
あまりに唐突な展開に、慌てたのはユングである。
「何故脱ぐ!」
「僕の衣服をどうしようと、僕の勝手だろう」
それはその通りであって、何も咎めだてされるべきことではなく、ともすれば過剰に反応する方こそ、何を考えているのかとあきれられてしかるべきなのかも知れない。
ユングは言葉を抑えて黙ったが、しかし、一度動揺した精神状態を元のように鎮めるのは、なかなかに困難な仕事のように思えた。意識すまいと、顔を背けるのだが、完全に視界から外してしまうことは出来ずに、目の端に映る姿にどうしても注意を奪われてしまう。
見るものかと言いながら、横目で盗み見るなど、あきれた卑怯な行為だ。己のプライドと現状とのギャップに苦悩しつつも、結局ユングは、フロイトから目を離すことが出来なかった。
整った白い指が、緩慢に絡んでは、僅かな布擦れの音をたてて上衣を開いていく、その動きから、目を逸らせない。潔癖に着こなされることを前提とした堅苦しい制服が、中途半端に乱される様は、なにか見てはいけないものを見ているような心地にさせられる。
わざとらしいほど、ゆっくりと時間をかけて、フロイトは釦を外し終えると、肩から落としてそれを脱ぎ、無造作に腕に抱えた。その下の白いシャツまで脱ぎだしたら、さすがに止めに入るべきだろうか、とユングは若干気を揉んだが、どうやらそれは杞憂であったらしい。
丸めて抱えた腕の中の制服に視線を落として、フロイトは溜息を吐くような調子で唇を開いた。
「僕の脱衣シーンに欲情したのか?」
「するか馬鹿!」
さすがにこれは、即座に否定した。語尾にやや感情的すぎる単語がついて出てしまったが、いたしかたあるまい。
悪いのはフロイトの側である。高尚にして緻密な哲学的議論を展開するのが何より似つかわしい、いかにも冷静で潔癖な、その同じ外見で、時折平然と下世話なことを口にするから、ユングとしては頭を抱えるほかはない。口を利かずに、窓辺で大人しく学術書でも読んでいてくれれば、それなりに見られたものなのに、と嘆かわしい思いを抱きもするというものだ。
「それで、そっちはもう終わったのかい。僕は早く帰りたいのだけど」
そうであった。こんな下らない会話を交わしている場合ではない。あらゆる面で、およそ考えの相容れない両名であるが、早く帰りたいという点でだけは、求めるところが一致している。ああ、と応えて、ユングは記入した質問紙を掲げて示した。
もたれていた窓辺から身を起こすと、フロイトは隣の席の椅子を引いて腰掛け、差し出された質問紙の束を受け取った。ぱらぱらと、さして興味もなさそうに回答を流し見て、指先を口元に遣ると、最後に小さく頷く。あたかも自分が何かを査定されているかの心地になって、こういうところが癇に障るのだ、とユングは思った。
紙面から顔を上げず、フロイトは問う。
「感想は?」
「別に。まあまあなんじゃないか。一つ言うなら、調査協力者が真摯に回答している間に話しかけたり、服を脱いだりといった態度は感心出来ないな」
「まったくもってその通りだよ。実は今のは、質問紙調査というのは名目だけで、真の目的は、君の集中度がいかなる要因で阻害されるかという観察実験だったんだ」
淡々と告げられた言葉の調子に似つかわしくない、衝撃的な内容に、ユングは危うく思考および呼吸が停止するのを感じた。
真の目的を隠し、人の行動を測るという、時に倫理面で眉を顰められそうな「実験」方法は、心理学にはつきものである。特に、こういう性格のフロイトであれば、いかにも見事な手腕を発揮して、被験者を弄びそうに思える。
観察実験、と言った。ということは、さきほどの、フロイトの気だるげな仕草を盗み見ていた様子も、どこかに仕掛けられた記録装置に、しっかりと証拠を押さえられているとでもいうのだろうか。後ほど、仔細に分析され、研究論文に仕立て上げられるとでもいうのだろうか。想像して、ユングは血の気が引いた。
悪い想像を膨らませるのに手一杯で、何の返答も寄越さないユングを、フロイトは不審げに覗きこんで、首を傾げる。
「……君には少々、高尚すぎる冗談だっただろうか」
なんだ。冗談だったのか。考えてみれば当然である。そんな意味不明な実験が、そうそうあってはたまらない。
「下らない。話にならないな」
思わず冷静さを欠いていた己を恥じながら、密かな安堵は顔に出さず、ユングは虚勢でせせら笑った。
ちなみに、とどうでもよさそうに付け加えて、フロイトは続ける。
「観察結果から考察するに、君は他人の挙動に対して、少々神経が過敏なところがある。僕の友人などは、こちらが上着を脱ぎだそうと、特に何の反応も示さないものだよ」
友人の前で脱ぐな、という指摘はともかく置いておいて、そう言われると、ユングには返す言葉がなかった。自分の反応が過剰であるということは、確かにその通りだと思うからだ。
そして、より精確にいうならば、ユングが気になって仕方がないのは、他人全般の挙動というわけではなくて、もっと限られた対象についてのみだ。フロイトはまだ気付いていないらしいことが幸いであるが、そこだけは、どうあっても悟られてはならないと、ユングは固く心に誓った。
「それだから、君は友達が少ないのではないだろうか」
「余計なお世話だ」
これまた痛いところを衝かれて、ユングはせめてもの反抗に、そっぽを向いて言い捨てた。ついでとばかりに、憎まれ口を叩いておくことも忘れない。
「だいたい、恩師だったからといって、偉そうな態度なのが気に入らない。オリジナルの威光を笠に着て、何様のつもりだ」
「残念ながら、君は二つの意味で勘違いをしているな。一つには、僕は別段に、オリジナルを意識して君に相対しているわけではない。少なくとも、君ほどにはね。そしてもう一つ、僕は誰に対しても、等しく同じように、偉そうな態度なのだ」
胸を張って宣言されると、最早ユングは、何も言い返す気が起きなかった。こいつには何を言っても駄目だという、これまでにも幾度となく思い知らされておきながら、いつの間にか忘れて同じことを繰り返してしまう、無意味な教訓が、改めて胸に刻まれた。
自分自身か、あるいはフロイトに対してか、深く溜息を吐くと、ユングは眉間に指を当てた。
「……そういう態度はよくない」
自然体で偉そうなフロイトが、その不遜な態度のために、要らぬ反感を買ったり誤解を引き寄せたりしている様子は、見ていてこちらがはらはらとする。だから、素直に思うところを口にしてしまったが、しかし、それが他ならぬ自分自身、先程言われたばかりの「余計なお世話」であることに、気付いたときには既に遅かった。
不可解そうに首をひねると、フロイトは呟く。
「別に、心配して貰う義理はないと思うのだけど」
「心配、などしていない!」
反射的に、声を荒げて言い返す。それは、ただの強がり以外の何物でもなかったが、普段ならば皮肉げにそれを指摘して煽ってくる筈のフロイトは、そうか、と応じるだけだった。どこかぼんやりとした、淡白な反応が、むしろ不安を誘う。
居心地の悪い沈黙に、どうしたものかとユングが気を揉んでいると、心の内を伺わせない冷めた瞳を向けて、フロイトはゆっくりと口を開いた。
「僕がこうだと、多少の縁のある君の方まで、おかしな風に見られてしまって困る、と。そういうことか」
「……いや」
まるで、己の保身しか考えていない、矮小な人間の烙印を押されたようで、ユングは唾を呑んだ。口を出すべきでないところに出してしまったと、今更に後悔するが、どうしようもない。
おそらく、ユングの何気ない指摘は、フロイトにとって、余計なお世話以上に触れられたくない、余計な何かだったのだろう。むやみやたらに他人を見下すような態度が、褒められたものではないことなど、本人が一番よく分かっている筈だ。分かっていて、しかし、改めようとせずに、継続している。
はたから見て不安になるほどであるから、そこには小さからぬリスクも存在するだろうに、それでもあえて選び取るからには、相応の意義があるということだ──フロイトとしての、それなりの意志があるということだ。
どうして、そんなことにも思い至らずに、考えなしに諭すようなことを言ってしまったのかと、ユングは先ほどの自分を殴り倒したくなった。己の浅はかさが招いた失言は、悔やんでも悔やみきれるものではない。
気難しく、ひねくれていて、近寄り難い。そういう風に、フロイトは自分自身を規定して、分かりやすい「フロイト像」を確立して、忠実にそれに従って振舞う。クローン・フロイトとしての、それが譲れないアイデンティティであって、良い悪いなどと、誰にも批評することは出来ない。この学園の生徒であれば、程度の差こそあれ、皆がそうしていることだ。
意識的に、あるいは無意識のうちに、コピーは本物「らしく」なっていく。それを否定するのは、彼らの存在意義を根底から否定するに等しい。オリジナルを想起させることこそが価値である複製品から、「それらしさ」を取り除いたら、いったい、何が残るというのか。
他ならぬ、同じように「イメージ」を求められる立場にあって、よく分かっていた筈なのにと、ユングは苦々しい思いを噛み締めて俯いた。
「……ふむ。どうやら、誠実に回答されているようだ。この回答者は生真面目だな」
いつの間にか、再び質問紙に目を通していたフロイトは、何事もなかったかのように、感想を口にした。面白みには欠けるがね、と付け加えて、小さく笑う。あえて話題を変えようとしたのだろうことは、明らかだった。
ユングは心の内で安堵の息をもらした。何より恐れたのは、フロイトに軽蔑され、彼の中で少なくとも話をしてやってもいい程度の学友として位置づけられている筈の自分の立場を失うことだったからだ。
フロイトと無駄口の応酬が出来なくなることは、向こうにとってどうであるかは知らないが、ユングにとっては、それこそアイデンティティの危機である。だから、それが回避されたらしいことには、ひとまずほっとするが、もちろん、相手が相手である。これで終わるわけがなかった。
用件を終えて、さっさと帰ろうというのだろう、フロイトは抱えていた制服の上を軽く羽織りながら言う。
「そうそう、実は今度、人はいかにして罵詈雑言を浴びせられることに性的興奮を覚えるに至るのか、実験してみたいと思うんだ。もちろん、協力してくれるね」
「するわけがないだろう」
「……君、それでも心理屋」
「何と言われようと絶対しない!」
厳しい拒絶に、フロイトは驚いたようにユングを見つめた。何だ、喜んで貰えると思ったのに心外だ、とでも言いたげなその顔は。お前はいったい、僕をどういう人間と思っているんだ。ユングは、追及してやりたいような、やはり聞きたくないような、複雑な気分に陥った。
いずれにしても、その気はないという固い意志が伝わったのだろう、フロイトは深く息を吐いて、あたかも聞き分けのない生徒を担当する教師の態度でもって、やれやれと肩を竦めた。
「君が僕を嫌いなのは、知っているけれどね」
そういう問題ではない。どうして、こちらが道理に合わぬ我が儘を言って困らせている、とでもいうような流れになっているのか。己の正当性を確保すべく、ユングは言い返さずにはいられなかった。
「嫌いだと? 決めつけるな。君のことなど、何とも思うものか。自惚れるな」
「何とも思わない相手に、理由にもならない理由をつけてはしつこく絡むのが君の主義か。暇人だな。そして、非生産的だ」
至極もっともである。そして、もっともなことを言われると、人は反感を覚えるものである。かっとなって、ユングは腰を浮かせかけた。
「僕が君を好きだとでもいうのか!」
「誰もそんなことは言っていない」
あきれたような、冷めた目で見られて、ユングはますます頭に血が上るのを感じた。同時に、熱くなった思考の片隅で、僅か残った冷静な部分が、これはいけない兆候だ、と警告する。
ユングが熱くなればなるほど、フロイトは冷え切って研ぎ澄まされた言葉で応じる。興奮した人間が、議論で冷静な人間に打ち勝てる道理はない。
泥沼にはまっていくばかりなのだと、分かっていながら、ユングは自分を抑えることが出来なかった。どうやら、感傷的になった流れの後だけに、無事に通常運転に戻れたことで、安堵する思いが暴走しているらしい。
事情はフロイトも同じようで、いきりたつユングに対し、ふっと揶揄するような皮肉げな微笑を浮かべる。
「ああ、そういえば君は先程、随分と熱心にこちらを盗み見ていたじゃないか。無関心とはとても思えないけれど、あれはいったい、どういう心理状態の表れであるのか、解説して貰えるかな。個人的に興味深い」
「別に君を見ていたんじゃない! 窓枠を見ていたんだ!」
自分でも苦しい言い訳だと思いつつ、ユングは問題の大窓を勢いよく指し示した。それによって、見つめていたという行為自体は認めてしまったこと、加えて、見事にツンデレの定型に則った反応をしてしまったことに気付いたときには、後の祭りであった。
それはそれは、と、わざとらしいにも程があるリアクションで、フロイトは感心したように大きく二度頷いてみせる。
「なるほどね。ところで、窓枠というのは何の象徴であるか、知っての発言かな」
「なっ……知るか汚らわしい!」
「汚れているのは君の思考回路だ」
「君にだけは言われたくない!」
不毛な言い合いを続けて、いい加減らちがあかず、とうとうフロイトの毒舌に忍耐の緒を切らして腰を上げたユングが、思わず腕を伸ばしてその肩を掴んでやったとき、
「あーあ、めんどくせえー……」
盛大な溜息とともに、教室の扉が無造作に開け放たれた。室内が無人であることに何の疑いも持っていないような、躊躇いのない足取りで侵入してきた生徒は、二、三歩進んだところで、ようやく眼前の光景に気付いたか、その場に立ちつくす。あ、と間抜けな声を出したきり、目を瞠って動かない。
硬直したのは、ユングの側も同じである。制服をはだけて椅子に座ったフロイトと、その逃げ道を塞ぐように、肩に手を掛けて立つ自分。果たしてこの状況が、はたから見てどう判断され得るものか、想像すると咄嗟に頭が真っ白になる。
痛いほどの沈黙を破ったのは、状況にそぐわないフロイトの呑気な問い掛けだった。
「……やあ、ナポレオン。忘れものかい」
そこでようやく我に返ったユングは、慌てて手を離したが、客観的にいって、余計にやましいことがあるようにしか見えなかっただろう。妙に真摯な面持ちでこちらを見る、ナポレオンのまっすぐな視線が辛い。
どうやら、正義感あふれるこの英雄クローンは、果たしてこれが親友にとっての厄介な事態であり、自分が介入して助けてやるべき場面であるかどうかを、慎重に審議しているとみえる。そして、何らかの結論が出たのか、ユングに対して、やれやれというように肩を竦める。
「お前な、いくら相手にして貰えなくて悔しいからって、こんなところでそれはないだろ。そう思いつめるなよ」
「誤解だ!」
真摯な面持ちで考えた結論がそれか、と思うとユングは泣きたいような心地だった。少なくとも、早合点で殴り飛ばされなかっただけありがたいとはいえ、そんな解釈であっさりと納得されるのは困る。ユングが誰もいない教室でフロイトに迫ったなどと、噂にでもなったらどうしてくれる。間違いなく、まっとうな学生生命は絶たれよう。考えただけで気が遠くなる。
こちらの気も知らずに、ナポレオンは遠慮もなしに歩み寄ってくると、馴れ馴れしい態度で、フロイトの肩に手を置いてみせた。振り払われるぞ、と思ったが、フロイトは別段に嫌がる素振りを見せない。
それどころか、跪いたナポレオンが、乱れた上衣を甲斐甲斐しく整え、その釦を一つ一つ掛けていくのを、当たり前のように享受している。その態度に、何故だかユングは不服を覚えたが、どうしてそこで自分が不機嫌にならなくてはいけないのかは、よく分からなかった。
眉を寄せた険しい表情をどう受け取ったのか、最後まで釦を留め終えたナポレオンはユングに向かって、軽く諭すようにひらひらと手を振った。
「こいつは誰にだって、つれない態度がデフォルトなんだ。お前の努力が足りないわけじゃないさ、気にすんな」
「慰められた!」
これはショックである。別段に、ユングはフロイトに親しくして貰いたいなどと思ったことはこれっぽっちもないとはいえ、同じ学生の身でありながら、自分には出来ないことを平然とやってのけている人物を目の前にするのは、やはり複雑な心境であることに変わりはない。
改めて言われるまでもなく、フロイトが一筋縄ではいかない性質であることは、ユング自身よく知っている。これが通常運転だと知っているから、たとえば、その態度にいちいち腹を立てるような連中に対しては、分かっていないな、と多少の優越意識を覚えることもしばしばである。
理解され難いフロイトを、自分は理解している数少ない人間の一人だと、そう自負しないでもない。なにしろ、オリジナルからして、浅からぬ縁があるのだから、相当なアドバンテージだといってよい。
それにも関わらず、目の前にいる調子者の英雄クローンは、あっさりと、ユングの越えられなかった壁を越えてみせている。きっと、オリジナル・フロイトの理論を理解するどころか、その著作を手に取ったこともないだろうに、当たり前のようにして、自ら口にした「誰にだってつれない態度」の適用範囲を、自分だけは例外に位置づけることに成功している。
躊躇いも気負いもなく、自然な態度で、フロイトのパーソナル・スペースに這入り込み、拒絶されないこと。それがどれだけ困難な仕事であるか、知らぬユングではない。
分かっていたことだ、フロイトの周りの、限られた親しい仲間たち──その範疇に、ユングは含まれてはいない。これからも、含まれることはないのだろう。そうなるように、いつも喧嘩腰に絡んでいったのはユングの方であるし、今更これを改めるつもりもない。
ただ、調子に乗ったナポレオンがしているように、フロイトの両肩に手を置いたり、後ろから腕を回したりといった様子を、見ているのがどうして、悔しいのだろう。さすがに迷惑そうな顔をして、軽く抗議を込めた視線で親友を見遣るフロイトの様子さえも、どうして、胸を締め付けるのだろう。その瞳の先にいるのが、自分であったらと、他愛のない空想をせずには、いられないのだろう。
いや、いや、いや。不可解な感傷に捕らわれそうになって、ユングは首を振った。何をおかしなことを考えている。ああなりたい、誰かになり代わりたいなど、滑稽な妄想の筆頭ではないか。
全てが、生まれる前の段階から決められていて、それ以外の選択肢のないここでは、羨望や嫉妬は何の役にも立たない、無用な感情に他ならない。羨んだところで、憧れたところで、自分もそれになることは──出来ないのだから。自分は、自分になることしか──出来ないのだから。それが、不自由な枷であると同時に、代え難い誇りなのだから。
胸の奥の痛みには気付かぬ振りをして、ユングは、そう自分に言い聞かせた。
じゃ、後でな、と言い残して立ち去ったナポレオンの後を追うように、フロイトは手早く帰り支度をすると、席を立つ。一緒に教室を出る気にはなれなくて、ユングはわざとゆっくりと荷物を仕舞った。
「ユング」
去り際に、フロイトはふと振り向いて、こちらに呼び掛けた。
「君の考えを、また聞かせて貰うから」
「……他の奴でもいいだろう」
宿題だ、と当たり前のように言う、その偉そうな態度が気に入らなくて、ユングは顔を背けた。
どうして、親友でも何でもないのに、いちいち付き合わされなくてはいけないのだ。議論を深めたいのなら、いつもつるんでいる仲間たちとすればいい。子どもじみた意地で、道理に合わないことを言っている自覚はあったが、ユングとしても一言、言わずには気が治まらなかった。
つまらない八つ当たりに対して、フロイトは真面目に審議するように、暫し腕を組んで佇む。だから、そうやって何もかも見通すような観察者の目を向けられると、こちらの幼稚性が思い知らされて、いたたまれなくなるというのだ。ユングは、今すぐ消え去ってしまいたい心地がした。
早く行ってくれ、との願いもむなしく、フロイトは何か考え込むように俯いていたが、そう経たずにおもむろに顔を上げる。
「それは無理だ。僕とこういう話を出来るのは、君しかいない」
淡々と返された応えに、ユングは思わず、目を瞠った。まじまじと発言者を見つめるが、決まって辛辣な皮肉を飛ばさずにはいられない筈のその口からは、続く言葉が紡がれることはなかった。
信じ難い、という思いでいると、よほど面白い顔に見えたのだろう、フロイトはふっと微笑を浮かべた。いつものような、人をからかった、けれど本当に傷つけるものではない、あきれたような面持ちで言う。
「ユング。君は本当に、馬鹿だな」
「うるさい」
言われなくとも分かっている。本人に自覚があるのだから、黙っているのが優しさだと思うのだが、この相手にはそんな理屈は通用しない。途方もない気恥ずかしさで、ユングはせめて一言返すのがやっとであった。
最後まで上段に構えた余裕の態度で立ち去っていく、犬猿の仲の筈の「同業者」の背中を見送って、ユングは机に突っ伏した。
どうかしている、と思う。二度にもわたって馬鹿と言われておきながら、怒るどころか、それを居心地良く感じる自分は、相当にどうかしている。一度、専門家にでも頭の中を診て貰った方が良いのではないかと真剣に思うが、その専門家といって思い浮かぶ相手が一人しかいないというのだから、また性質が悪い。
どうあっても、断ち切れないで、繋がれていることを実感する。それは最早、運命に似て、とうに心の奥底では分かっていたことだ。
親しげな言葉を交わしたこともなければ、打ち解けて笑いあったこともない。口を開けば、憎らしいばかりの言葉の応酬になるというのに、懲りずに同じことを繰り返す。それは、ひとえに、ユングがフロイトから離れられないからだ。フロイトと関わることによって、ユングは初めて、自分の居場所のようなものを確認するからだ。
ユングはことあるごとに、フロイトに苦言を呈する。だからといって、それが素直に受け容れられるものとは、はじめから思っていないし、むしろ、受け容れられてしまったら困るというのが本音のところだ。ひねくれたやり方を選ぶのは、そうして工夫を凝らさなければ、こちらもまた相当にひねくれた性質のフロイトの興味を引けないと思うからだ。だから、専門分野の知識を総動員して、思わず彼が乗ってきそうな話題でもって、挑むのだ。
絶対に、皮肉めいた反応が返ってくると、分かっているから、ユングはフロイトにちょっかいを掛ける。そうして、フロイトが、何かを言ってくることを期待する。癇に障って、むかつくけれど、同時にどこか安堵する、そういう言葉が投げ返されるのを、待っている。
フロイトの方からユングに話し掛けるというシチュエーションが、滅多にないということが、その証だ。考えてみれば、両者が何らかの刺々しい言葉の応酬をしているとき、その発端はたいてい、ユングによる苦言なのだ。
他に、どういう方法で、この厄介な相手に関われば良いのか、ユングには分からない。ただ、少なくとも、これが自分だけに許された、特別な方法だというのは確かだ。
生まれる前から──造られる前からの、ほんのささやかな繋がり。
およそクローンにとって、オリジナルという存在は、誇りであると同時に重く葛藤を引き起こす元凶であるが、この点においてだけは、ユングはオリジナルの自分に感謝している。こうして日常の中、フロイトと他愛のない言葉を交わす、その下地を敷いておいてくれた彼に、感謝している。
だから、自分は他でもない、C.G.ユングであって、この名を誰にも譲ることは出来ないと思う。
「正しい答え、間違った答えというものはありません。あまり深く考え込まずに、思ったままに、さっさと答えてください」、質問紙を手渡しながら、投げやりにフロイトが読み上げて、こちらも適当に聞き流した、調査冒頭の形式的な決まり文句を、胸の内に反芻する。こういう学問を専攻していて、さんざん目にして聞き飽きたお約束のフレーズが、何故だか今は少しだけ、心強いものであるように感じられた。
今度は自分がフロイトに、これを言ってやろう。そして、洗練された実験手法でもって、驚嘆させてやるのだ。
考えただけで、わくわくと高揚する気持ちを抑えられない。やはり自分は、根からの心理屋なのだな、と苦笑すると、ユングは早速、新たな研究計画を思案し始めた。
[ ende. ]
ユングが乙女すぎて困る。夏コミ無配本再録でした。
2011.09.01