Le souvenir
暫くの間をおいて訪れたセントクレイオは、およそ変わりなく、その隔離された敷地内に静謐にして高尚な雰囲気を湛えていた。幾人かの生徒が、こちらに気付いて、軽い会釈をする。それに片手を上げて応えながら、黒江は校舎へと足を向けた。変わらない──目の前のいかにも重厚な歴史を感じさせる学び舎は、訪れる度に、決まってそんな同じ感想を抱かせる。
大半の生徒は、既に授業を終えて、各々自由に余暇に励んでいるらしい。人気のない校舎を、黒江は緩慢な足取りで散策した。高い天井、クラシカルな装飾の施された柱と大窓が均等に並ぶ廊下は、射し込む陽光によって荘厳な雰囲気すら醸し出している。学園では、この時代に珍しく、未だに紙と筆記具による学習活動が行なわれていることからも、徹底した懐古趣味が感じられるが、中に入ってしまえば、意外なほどにすんなりと受け容れられる。
そもそも、偉人クローンというコンセプト自体が、連綿と続く人類の歴史を想起させるものだからだろうか。時代錯誤的な学び舎は、それはそれで、歴史を司る女神の名を冠したこの学園に集められた子どもたちには、相応しいようにも思える。
渡り廊下で、向こうの建屋から姿を現した一人の生徒に出くわしたのは、そんなときだった。歩いて来た方角と、脇に携えた書籍を見るに、どうやら図書館からの帰りらしい。こちらと同時に、向こうも気付いたようで、その歩みが一旦止まる。
黒江さん、と確かめるように呟く少年の声は、静謐な廊下ということもあろう、この距離であってもはっきりと聞きとることが出来た。挨拶代わりに片手を振ると、それを合図に、小走りに駆け寄ってくる。きれいに切り揃えられた髪が揺れ、木漏れ日を受けて銀色に輝くのを、黒江は目を細めて見つめた。
黒江の前に立つと、少年──フロイトは、改めて学園監査に歓迎の眼差しを向けた。
「こんにちは。お久し振りです」
「やあ。元気だったかい」
こちらも柔らかく問い掛けると、はい、おかげさまで、と言って表情を緩める。
およそ教師を尊敬するということがなく、誰に対しても不遜な態度を通すと専らの評判であるこの少年は、しかし、彼の認めたごく何人かの大人に対しては、素直で礼儀正しい振る舞いをする。その内の一人に自分が含まれているというのは、黒江にとっては判断基準がよく分からないが、少なくとも悪い気はしない。本来ならば一番の敬意を受けてしかるべき、理事長たる人物は、ちなみにその中には含まれておらず、その意味でもささやかに安堵するものである。
「今日は、会議ですか」
「ああ。いま終わったところだ」
朝方に到着するなり、長々と研究棟に拘束されて、毎度ながら疲れることである。とはいえ、その後にこうして生徒たちと触れ合う時間がとれるのだから、そう思えば、いちいち呼び出されるのも、さして気が進まぬばかりというわけでもない。順調に成長していく子どもたちの活き活きとした姿を見るのは、純粋に心が落ち着いて良い。殺伐とした話し合いの後の、一服の清涼剤である。
一人一人が異なる個性を持ち、それぞれに才覚を現していく彼らの様子は、こちらまで誇らしい気持ちにさせ、見守ってやりたいと思わせる。何より、彼らが自分を慕ってくれているということが、黒江にとってはこの職務の大きなやりがいの一つとなっており、それに応えて、自分は出来るだけのことをしてやりたいと思うのだ。
たとえば、目の前の少年、フロイトに対しては暫く前から、ある決まったことをしてやるのが定例となっている。それは、数多の学生たちの中でも、彼にだけ特別に与えてやっているものだから、平等と公平を是とする教師などには、ともすれば不公平だと非難されてしかるべきなのかもしれない。
とはいえ、黒江としては、別段にこれはやましい贔屓でも何でもなくて、ただ単に、それぞれの生徒に合わせて、それぞれに一番良いように接しているだけなのだと自覚している。一人一人の生徒には、それぞれに違う接し方というものがあってしかるべきだ。その行動を、改めようとは思わない。
偶々良いところで会ったから、その用事も済ませてしまおうと、黒江はふと思い出したように何気なく言った。
「そうだ、ちょうど渡したいものが」
切り出して、携えた鞄の中を探ろうとしたところで、今日に限ってそれを朝方、職員寮の自室に置いたままにしてきてしまったことを思い起こす。一泊限りの滞在であるから、目的の人物に出くわす確率は低いだろうと見積もり、また、持ち歩いて落としたり壊したりしては元も子もないからと判断してのことであるが、やれやれ、タイミングの悪いことだ、と黒江は苦笑した。
土産と聞いて、興味を引かれたようにこちらに向けた瞳に、フロイトは一瞬だけ残念そうな色をよぎらせて、しかし何事もなかったかのように淡々と、またの機会でいいですよなどと殊勝なことを言う。いつもであれば、黒江の方も、すまないなとでも言って、その言葉に甘えさせて貰ったことだろう。
ただ、今日に限っては、そうしてあっけなく別れてしまうことが、何故だか躊躇われた。じっと黒江を見つめる、フロイトの瞳が、何か言いたげであるように感じられたからかもしれない。根拠などない、ただの直感だ。なにしろ、ここの生徒たちをどれだけ見てきたか知れない黒江である。経験上、子どもたちに対する己の直感というものには、それなりの信頼を置いている。その直感が、少年を独りにしてはいけないと、脳裏に小さな警告を発していた。
今から自分がしようとしていることを、確か禁止するような規定は無かった筈だと黒江は暫し思案してから、フロイトに向き合った。
「……部屋、来るか」
試しに訊いてみると、少し驚いたように瞬きをして、それから少年はこくりと頷いた。
■
学生寮に職員が立ち入らず、彼ら生徒たちの自主性に任せているのと同じように、職員寮に学生が立ち入るというシチュエーションは、まず考えられないといっていい。良くも悪くも、偉人クローンとしての自覚に事欠かない彼らにとって、興味関心があるのは専ら同じ立場の生徒たちであり、「一般人」であるところの教師たちに個人的に接触しようとは、そもそも思わないらしい。
初めて足を踏み入れたのだろう、物珍しそうに辺りを見回しながらついて来るフロイトに微笑ましい思いを抱きつつ、黒江は少年を自室に招き入れた。何ということはない、つまらぬ部屋の筈であるが、フロイトはどこか躊躇いがちに、失礼します、と断って一歩中へと足を進めた。教師たちと違って、ここに常駐しているわけではない黒江の部屋は、私物の数も限られ、がらんとして生活感がない。そこそこの広さが確保されているだけに、それは寒々しいようにも見て取れた。
目的のものを引き出しの中から取り出すと、気に入ってくれるといいんだが、と言いつつ、黒江は入口近くに佇むフロイトにそれを差し出した。黒江の手の中の物を、少年の瞳は瞬きもせずにじっと見つめる。それから、引き込まれるようにして、そろそろと両手を伸ばした。
仕草は遠慮がちながら、それを一目見た瞬間からの、輝くばかりの眼差しは、彼の内心を明瞭に表してやまない。思った通りの反応に、黒江は微笑を浮かべ、少年の細い手にそれを乗せてやった。慎重な手つきで、フロイトはそれを受け取って胸元へ引き寄せる。
「ありがとう、ございます。……嬉しい」
高さ10センチメートルほどの、異国の神をかたどったミニチュアの彫像を、大事そうに両手に包んで、気恥ずかしげに目を伏せて微笑む。その素直な態度は、いつもの大人びた振る舞いによって覆い隠された、本来の少年らしさを垣間見るようで、黒江はささやかに心が満たされるのを感じた。
折を見ては、黒江がフロイトに渡している手土産というのは、いつもこのような彫像や、装飾された器、仮面といった、考古学資料の小さなレプリカだ。少年のオリジナルたる偉大な心理学者は、こうした発掘品や切手といった品々の熱心な収集家であったという。どうやら、その資質はクローンにも受け継がれたものらしい。試しにプレゼントしてやった最初の頃こそ、微妙な表情で、オリジナルの趣味は我ながら理解出来ない、とでも言いたげな様子だったのに、今やすっかり魅入られてしまったようだ。
まるで物で釣っているようで、あまり褒められたことではないのかも知れないが、黒江はこのフロイトの嬉しそうな表情を見たくて、小さな贈り物を続けている。普段、感情の振れ幅が小さく、淡々としているフロイトが、こうして素直に気持ちを表現する機会はめったにない。だから、その様子を見ると、黒江は安堵の心地を覚えるのだ。
議論や口喧嘩の場面においては、感心するほどすらすらと淀みなく精密に、論理的かつ鋭く毒のある言葉を紡ぎ出すというのに、自分の感情を表現するとなると、フロイトは途端に不器用になってしまう。ありがとう、嬉しい、大切にします。この三パターン以外のコメントが、自分の土産物に対して発せられるのを、黒江は一度たりとも聞いたことがない。本当にそう思っているのかと、相手によっては、疑わしく思われたとしても仕方のない反応である。
もう少しは、こなれた返しを覚えた方が、後々のために良いような気がしないでもないが、浅からぬ付き合いのある黒江としては、フロイトのそんな素っ気無い言葉も、別段に気分を害するものではない。言葉の上で、いくら大げさな感謝をされようとも、その通りに受け取って喜べるほど自分は純粋ではないし、それに、拙い言葉であるだけに、それがフロイトの精一杯の表現であることが、言われなくとも分かるからだ。
恐縮するような、恥ずかしがるような控えめな態度と、そこに抑えきれないでこぼれる喜び、それらは些細な挙動の端々から、ちゃんと黒江には伝わっている。フロイトの変わらぬ、いつも通りの反応を見ることで、黒江もまた、変わらぬものを確かめて、安堵しているのだ。
「気に入ってくれて良かった。それじゃ」
目的の物を受け取った以上、彼も長居は無用であろう。扉を開けて送り出してやろうと、部屋の入口に向かう。しかし、フロイトは、その後に続こうとはしなかった。逡巡するように、その場に立ったままだ。どうしたのかと、黒江は少年に向き直り、視線で問うた。
言葉を返さずに、フロイトは力なくうなだれる。貰ったばかりの彫像は、胸元でしっかりと握られたままだ。暫し、そうして己の爪先を見つめていたかと思うと、意を決したように、静かに顔を上げる。
「帰りたく、ない……です」
自分でも、どうしたものか分からない、といった困惑気味の表情で、フロイトは黒江を見上げて言った。その手は、何かを堪えるように、心細げに異教の神の像を握り直す。拙くも、強い訴えを宿した瞳を前に、黒江は、先の自分の直感が正しかったことを悟った。
どうやら、扉を開けるのは、まだ暫く後になりそうだ。
ともかく、ソファへ座るよう促すと、フロイトはあからさまに安堵の息を吐いた。
■
「友達と喧嘩でもしたか」
「いいえ」
会話の糸口として、この年代によくありそうなシチュエーションを口にしてみたが、フロイトはあっさりとそれを否定した。もとより、黒江としても、これが正解であろうとは思ってもいない。糸口はあくまでも糸口である。
言い争いとなると、フロイトは平然として徹底的に相手を叩きのめすことを躊躇わないし、後から己の言動を悔やむこともない。我が道を行くことでは、個性派揃いの偉人クローンの中でも相当に際立っているといっていい。友人と喧嘩して気まずい、などという感傷的な態度は、彼にはおよそ縁遠いといえよう。
ならば、課題に行き詰まってでもいるのか、と問うと、これも首を横に振る。研究者系クローンや、芸術家系クローンといった、何かを造り出すことを使命とする生徒たちは、日々の努力の成果が、論文あるいは作品といった、明瞭に評価可能な形で表れてくる。そこで思うような結果を出せずに苦悩し、──壊れてしまった、かつての卒業生たちの苦い記憶が脳裏に蘇る。しかし、幸い、今のところのフロイトはそういった悩み事とは無縁であるらしかった。
それでは、いったい、何が彼にこんな沈んだ表情をさせているのか。黒江は暫し思案してから、一つの可能性に思い至った。内容が内容だけに、今度は少しばかり、慎重に問い掛ける。
「何か、言われたのか」
「……そう、ですね」
今度は、小さく頷いて、物憂げに視線を落とす。なるほどな、と黒江は心の中で溜息を吐いた。
他人から何かを言われたといって、それがクラスメイトなどからであれば、気にするフロイトではない。同じ立場の身内の言うことだ、深刻に捉えたところで、さしたる意味は無い。だから、考えられるのは、生徒同士ではないところで、何かがあったということだ。例えば、彼ら生徒の管理者たる、「一般人」の教師などから。
この少年のことだから、日中、教師陣と烈しい議論を戦わせでもしたのだろう。そして、望むような結果は得られなかったのだと考えれば、いつになく気弱なこの態度も理解できる。
水を向けると、案の定、教師との間に交わした遣り取りを、ぽつりぽつりと語り出した。
「同じ遺伝子を持つ者は、同じ者になる。そんな考え方に、僕は賛同することは出来ないと、そう言ったんです」
セントクレイオの理念を、真っ向から否定することを言う。そうくるか、と黒江は苦笑せざるを得なかった。「同じ遺伝子を持つ者は、同じ者になる」──偉人クローニング事業の根幹ともいえる大前提だ。言うまでもなく、この思想が認められていなかったならば、クローン・フロイト自体、存在しなかったことになる。
己の出自を否定してみせるとは、なかなかに度胸があるではないか。怖いもの知らずの子どもっぽい反抗といえばそれまでだが、強烈な個性を持つ偉人クローンたちの中でも、ひときわに己の意志というものを確立している、彼らしい主張だと思った。
膝の上に置いた両手の指を組み替えて、フロイトは溜息を吐いた。
「細胞の情報だけで、全てが決まってしまうのなら、心理学者なんて要らないんです。何のために、僕はここにいて、オリジナル・フロイトの理論を学んでいるのか。まるで無意味じゃないかと、そう思ったら、堪えられなくて……」
「……彼らは、何と?」
そこで、少年は自嘲するように唇を歪めた。
「それでこそ、クローン・フロイトだ、と」
周囲を取り巻く、多数派の思想におもねることなく、あくまでも己の主張を通すこと。その、頑ななまでの強い意志は、まさにオリジナルから受け継いだものであって、オリジナルと同じものではないかと、諭すように教師は言ったという。
それに対して、フロイトは、返す言葉を持たなかった。彼らの言うことを、認めて受け容れたわけでは、もちろんない。ただ、感情的に認め難いというだけの理由で、不毛な議論を継続するには、彼は少々頭が良過ぎた。この時点で、既に悟ってしまっていたのだろう──これ以上、何を言っても、何を為しても、無駄なのだということを。
生徒を、偉人の忠実な複製品としてしか見ようとしない彼らに、いったい何を言えるだろう。彼らの中では、生徒たちはこの世に造り出された瞬間から、全てが決まっていて、分かりきっていて、完成された、一個の商品である。容姿にしても、性格にしても、行動にしても。全ては、最初から、二重螺旋のコードに──プリセットされている。
違う、これは遺伝子によって定められた生得的なものなどではなく、オリジナルとは関係がなく、この自分だけが身につけた性質であり、行動様式であると、いったい、どうして証明することが出来るだろう。
どうあろうとも、過去の偉人の名前に束縛され、そこから逃れることが──出来ない。
「僕は、どこにも行けないのだと。それで、理解してしまった」
だから、帰りたくない、と呟く。自分を規定して、閉じ込めるばかりの、あの寮の部屋には、戻りたくないのだと。
おそらくは、それが子どもじみたわがままで、何ら意味のない反抗であることを、本人が一番よく分かっている。どこに行くことも出来ない、何になることも出来ない──そんなことは、改めて宣告されるまでもなく、ここの生徒であれば、幼い頃から理解っていたことだ。理解して、諦めた筈のことだ。
ただ、だからといって、そう簡単に割り切れるものだとは、黒江も思ってはいない。たとえ一度諦めたとしても、頭で理解していようとも、その残滓が時折、胸の底から浮き上がって煩わしい思いをすることになるのは、仕方がない。どうしようもなく、無性に何かから逃げたくて、振り払いたくて、隠れてしまいたくなるのは、仕方がない。
そういう、曖昧で、変わりやすく、弱く、愚かなものが、人間であると、黒江は思うからだ。たとえ、複製された者であろうとも、人間なのだから──仕方がない。
諭したところで、これはどうにもならない。論理以前の、気持ちの折り合いのつけ方の問題なのだ。いま、まさに葛藤を胸の内に抱えて俯く少年の面持ちを、黒江は目を細めて見つめた。
フロイトは、暫し膝の上で固く組んだ己の両手に視線を注いでいたが、ふと数秒間、目を閉じた後、静かに顔を上げる。
「ここに、いてもいいですか」
控えめな声で問うて、真摯にこちらを見つめてくる少年は、いつもの大人を馬鹿にしたような不遜な態度を欠片も感じさせずに、その年相応の頼りない弱さを無防備にさらしている。庇護されるべき存在なのだと、否が応でも実感させられて、黒江は戸惑わざるを得なかった。
こんな風に、弱音を吐いて他人に縋るなど、フロイトが一番、嫌っていたことだ。気位の高い彼は、学友や教師らに対して、少しでも自らの弱みとなり得ることは、徹底して隠蔽する。見下されることも、同情されることも、等しく堪え難いといって、常に完璧なように自分を形作って演じる。
その彼が、こうして他人に縋らねばならないまでに、追い詰められている。何とかして力になってやるのが、己の役目なのだと、黒江は分かっていながらも、だからといって、どんな言葉を掛けてやればいいのか、見つけることが出来なかった。どんな言葉を吐いたところで、少年の僅かな慰めになる筈もないのだと、分かっていた。
助けを、求められたところで、自分には何もしてやることは出来ない。やめてしまいたい、逃げ出したいと、泣きつかれたところで、それを認めてやることは出来ない。
彼らを造り出し、彼らの苦悩を造り出し、檻で囲い、脱落する者は処分し、残った者は売り飛ばす。紛れもなく、自分たちがやっているのは、そういうことなのだと、黒江は承知している。結局のところ、クローンの生徒たちを一人前の人間扱いし、憐憫の情を持っているといっても、学園組織の一員である以上、その枠組みを超えて彼らに救いの手を差し伸べることは──出来ない。
「俺は、明日の朝には発たないと」
だから、側にいてやることは出来ないのだ、と分からせるつもりで言った。部屋に戻りなさい、と続ける筈だった台詞は、しかし、そのまま紡ぐことは出来なかった。
瞬間、何を言われたか意味を解した少年の、感情表現の希薄な白い顔に、怯えの色が走ったからだ。こちらに対するものではない。自室に戻って、独りになるということ、それ自体への怯えであり、不安感だ。
帰りたくない、と今にもその唇を震わせて訴えそうな切ない表情で、しかし、フロイトは何も言わなかった。そこにあるのは、ひとえに、彼の頑ななまでの、己に対する厳しさだ。自分のわがままで、相手を困らせるわけにはいかないという、子どもらしからぬ自律の意志だ。
だから、口をつぐむ。それでも、そこはまだ年若いということか、抑え込んだ思いを隠しきることはまるで出来ていなくて、こちらをまっすぐに見つめる物言いたげな瞳に相対すれば、誰だって、この少年の望んでいることはあからさまに理解できてしまうだろう。こんな瞳を向けられて、それを突き放すことが、出来るわけがなかった。
「──だから、今夜だけだったら、構わないよ」
檻から出してやることは、出来ない。出来るのは、外敵に襲われぬよう強化した檻の中で、せめて生きやすいように、手を貸してやることくらいだ。自分の役割は、たとえればそういうことであると、黒江は正しく認識している。
どうする、と視線で問うと、フロイトは言葉を失ったように黒江を見つめ、それから、俯いて顔を隠してしまう。ありがとうございます、と、殆ど消えかけの小さな声だけが聴こえた。その響きに滲んだ情動には、気付かぬ振りをして、黒江は少年の震える肩を、そっと撫でてやった。
■
少年にとって、囲われた世界であるこの学園において、唯一の外界との接点が、学園監査たる自分なのだということは、黒江にはよく分かっていた。教師ら管理者には言いづらい、言えないことであっても、打ち明けられる中立的な存在として、黒江は多くの生徒たちから慕われている。そこには、未だ知ることのない「外の世界」への憧れや希望といったものが多分に含まれ、脚色されていることも確かだ。
自分はそんな羨望の眼差しで見られるような、立派な人間ではないことを、黒江は重々承知しているが、しかし、少年たちの無垢な期待をあえて裏切ろうとは思わない。彼らが、閉塞した退屈な世界に小さな変化をもたらす「外の人間」を望むのならば、たとえ虚飾であろうとも、そのように振舞うことに、抵抗は感じない。常に監視され、評価される対象でしかない彼らが、息苦しく押し潰されてしまわないための、一種の装置としての役割も、自分の責務であるというのが、黒江の考えだ。
もちろん、自室に生徒を招いたり、ましてや泊めてやるなどというのは、そうそうあることではない。業務の範疇を超えて、行き過ぎた真似であると、咎められたとしてもおかしくはない行為だ。ただ、自分を頼ってきた一人の子どもに今、そう接することについて、黒江は不思議と抵抗を感じなかった。側にいてやることが、むしろ、自然であるような気さえした。
とはいえ、何も特別に気遣ったりサービスをしたりといったわけではない。わがままを聞いて貰っているということを、十分に自覚してのことだろう、フロイトはずっとソファの隅で、大人しく本を読んでいた。静謐な室内に、時折、ページを捲る微かな音だけが聞こえる。会話をするでもなく、本当にただ部屋に置いてやっているというだけで、はたしてこんなことで満足なのだろうかと黒江は思ったが、下手にこちらから働き掛けるのもどうかという気がして、様子をうかがいながらも放っておくことにした。
してやったことといえば、一緒に簡素な夕食を摂ったことと、制服姿の彼に部屋着を提供してやったことくらいだ。それだけのことでも、フロイトはいたく恐縮しているようで、そんな様子を見るにつけても、この子はもっと自分に甘くなってもいいんじゃないか、と黒江は思った。
夜が更け、ベッドを勧めたときも、当然のごとく、少年は頑なに固辞した。無理を言って居座っている以上、ソファでいいといって聞かない。この生徒の、一度決めたら曲げない頑固な性質を、黒江はよく承知していたが、かといってこちらが折れるつもりもなかった。
大事な生徒なのだから、と苦笑気味に諌めると、フロイトはようやく、少しばかり考えるそぶりを見せた。困ったような顔をして、しかし結局、小さく頷く。尊重されていると分かって、喜ぶ表情では、それはなくて、少しばかり寂しげであった。聡明なこの少年のことだから、おそらくは、黒江の言葉に隠された意味を、精確に読み取ってしまったのかもしれない。
すなわち、黒江がフロイトに寝台を譲ったのは、個人的な厚意だとか、生徒を思い遣る気持ちだとか、そんな微笑ましいものに由来するのではない。言葉通り、管理者たる学園側の人間である黒江にとって、クローン・フロイトは、損なわれてはならない大切な商品だから、という、ただそれだけが理由だった。無事にここを卒業させ、買い手のもとに届けるまで、生徒たちの心身は、健全に品質管理されていなくてはならない。ソファで寝かせて、風邪でもひかせてしまったら一大事である。
そういう、ある意味で厳しく線引きした態度を、黒江はあえて隠そうとは思わなかったし、フロイトの方も、気付いていながら、特別に何も言うことはなかった。悲しい目をして、視線を逸らすだけだった。
その横顔を見つめながら、黒江はどうしても、もう一人の少年を思わずにはいられない。十年以上前に、ほんの僅かだけ関わった、──もう一人のフロイトのことだ。
それがクローン技術というものだと、言われてしまえばそれまでであるが、目の前にいる少年の姿は、あの頃ここにいた彼と寸分も違わぬもので、こうして見つめていると、脳が軽い混乱状態に陥るのだろう、重なり合ってはぶれるような、奇妙な違和感に囚われる。
他のどの生徒に接するときも、黒江は、その眩暈のような感覚を覚える。それは、ひどく精神を疲弊させるものだ。だから、あまり長い間、学園内に留まる気には、どうしてもなれない。たとえば、この学園でずっと教鞭を執っている教師陣などは、きっと、その辺りを上手く割り切れているのだろう。未だ、この囲われた世界に馴染めていない、異端たる自分を実感して、黒江は軽く苦笑した。
もちろん、頭では、前世代の彼と、今目の前にいる彼が、まったく別の個人であるということを理解している。なにしろ、姿かたちは同じだけれど、性格といったら、まるで方向性が違うのだ。
こうして引き比べられること自体、もし当人たちが知ったら嫌がりそうであるが、黒江がこの二人目のフロイトについて抱いた第一印象というのは、大人しくなったものだな、という実感だった。彼の兄とでもいうべき少年は、実に多弁な調子者で、いつも仲間たちと共にふざけて笑い合い、精力的にくだらないいたずらを試み、教師たちからあきれられつつも、どこか憎めないキャラクター性を確立していた。会話でその名前が出る度に、あいつはまた何をやらかしたのかと、黒江も幾度となく肩をすくめたものである。
それが、世代が変われば、こんな手のかからない優等生になるとはと、黒江は改めて目の前の少年を見遣った。遺伝子の振る舞いがどこまで支配的であるのか、未だ明快な結論は出されていないといえ、こうした実例を見れば、ヒトの性格形成がいかに後天的な環境に左右されるものであるか、誰にだって分かろうというものだ。へ理屈を捏ね回すところだけは、兄弟そっくりであるが、それはおそらく、遺伝というよりは、同じようにオリジナル・フロイトの理論を学び、身に付けたという経験から生じているものであろう。
自分が生み出された背景と、存在意義との間の、決して調和することのない解離。以前の君も、同じことを言っていたと、教えてやったら目の前の少年はどんな顔をするだろうか。黒江は、仕舞い込んでいた記憶に思いを馳せた。
『偉人クローニング・プロジェクト自体には、別に反対はしませんけどね。希少動物の保護と、やってることは一緒でしょう。ただ、心理学者まで造ってしまうのは、どうなんでしょう? 矛盾しているようにしか思えないな、僕は。ヒトの全ては二重螺旋に刻まれているという主張と、ヒトの全ては認知の方法次第で変えていけるという主張と。いわば、商売敵じゃないですか』
果たして卒業後、僕の就職先はあるのかどうか心配ですね、と言って、かつての世代のフロイトは、シニカルに笑っていた。
その、同じことを言いながら、軽く笑ってのけることも出来ずに、今にも折れそうにうずくまる、この少年の現状を導いたのは、遺伝子なのだろうか、それとも、環境だったのだろうか。
少なくとも、こうして彼を苦悩に突き落としている、原因の一端が自分にあることは確かだと、黒江はそう思う。この学園の関係者、生徒たちの管理者、その全てが、彼ら子どもたちに対する責任を負っているのだ。こうなることは、もう十年も前から、分かり切っていたことだ。それなのに、生徒たちをどうケアしていけばいいのか、そんなことをいちいち配慮するのは面倒事でしかないとして、破綻するばかりのシステムを無理矢理に動かし続けてきた。
学園にとって、生徒たちは、いくらでも造り直せる商品である。結果的に、競売にかけられて値がついたクローンだけが、世に出て認知されることになるのだから、それら上手く出来たものだけを、看板商品として華々しく送り出せば良い。個体差で、いくらか失敗作が出るかもしれないが、それらは破棄すれば済むことだ。やり直しは何度だって出来る。一体の成功例さえあれば、その陰にいくつの失敗例があろうとも、十分にカバーし得るだけの栄誉と利益がもたらされる仕組みである。
同じ遺伝子、同じ名前を持つ、複数の個体は、管理者側にとっては、同一の存在とみなされる。
どれか一人が生き残れれば──いいだろう?
そのために自分が処分されたって──嬉しいだろう?
同じ存在、なのだから。
何人いようと、同じ、一人でしかないのだから。
そういって、掲げた理念を疑うことなく、セントクレイオはこれまでやってきたし、きっと、これからも続けていくのだろう。想像して、黒江は暗澹たる心地となった。頭を振って、気分の悪い考えを追い払う。
どうしたのかと、気遣わしげに見つめてくる少年から視線を外すと、俺はもう少し仕事があるから、気にせず寝てくれ、と言い残して、黒江は逃げるように寝台に背を向けた。
■
商品として造り出された存在である生徒たちに、いちいち命であるとか、心であるとか、そんなものを見出すのは、愚かなセンチメンタリズムに過ぎないと、人は言うだろう。それは、自己中心的な擬人化だとでもいって、笑うかもしれない。それでも──そうだとしても。
小一時間の作業を終えた後、黒江は少年の様子を見に、足音を潜めて寝台に向かった。慣れない環境というのに、案外寝付きが良いようで、フロイトは既に夢の中にあるらしかった。小さく寝息を立てる、その幼い寝顔を、黒江は目を細めて見つめた。
今、この少年は、理不尽な世界に直面してなお、自分で懸命に考えている。自分の意思で、紡げる声を持っている。規則的に呼吸をして、心臓から熱い血液を送り出す、一つの身体を持っている。
それが、失われていいものだとは、黒江はどうしても、思えない。健気に自分を慕ってくれる、この少年が、やり直しのきく造り物に過ぎないのだとは、どうしても、割り切れない。
それは、何もほだされた感傷だとか、倫理観とかだけに由来するのではなくて、根底にあるのは、隠しようもない、陰鬱な罪悪感だ。ともすれば、少年の頼りない身体に縋りついて、大声で赦しを請いたいほどの、途方もない、罪の意識だ。
だから、自分は駄目なのだ、と黒江は思う。甘いと、言われてしまうのだ。他でもない、自分に──甘すぎる、と。
こんな自分では、何一つ、応えてやれないのだと思った。あの真摯な瞳で、フロイトは、問うていたのに。ここにいてもいいかという問い掛け、それは、今この時に黒江の部屋に留まることだけを指していたのではない。もっと他の意味があると、そう思うのは、考え過ぎであろうか。
ここに──この世界に、存在してもいいのかと、少年の瞳は、その答を欲しがっていたように、黒江には思えてならない。はたして、それに自分は、どれだけ応えてやることが出来ただろうか。
ああ、まったく、なんてずるい大人だと思いながら、黒江は眠る少年の頭にそっと片手を乗せた。しなやかなその髪のひとすじさえも、巨大な資産価値を持つ遺伝情報の集積であることを、今ばかりは考えの外に置いて、ゆっくりと撫でてやる。君はここにいていい、ここにいてくれと、言い聞かせるように。
ここの他には、彼に生きる道はない。どうしようもないほどの、それが現実だ。かつて、それを外れようとした子どもたちは、皆例外なく、まともなヒトとしての道すら、踏み外してしまった。あんな哀しいことは、二度と繰り返してはならない。強く誓うけれど、その度に、それでは自分に何が出来るといって、黒江は途方に暮れてしまう。自分は、子どもたちに新しい道を示してやることも、護ることも、救うことも出来ない。何も出来ないで、ただ、彼らを信じて、願っている。それは、なんて無責任で、身勝手な態度だろうか。それでも、他にどうしたら良いのか、黒江には分からない。哀れな子どもたちの、味方を気取ることの他に、どうしたら良いのか、分からない。
ここにいる限り、彼らは少なくとも、一番安全なのだ。生きていてくれる確率が、一番高いのだ。それも、納得のいかないやり方で、いつ奪われてしまうかも知れない、儚いものにすぎないといえ、今は、ただ信じるほかはない。
「どうか、もう、……死なないでくれ」
誰に届く筈もない、祈りを一つ、眠る少年の額に残した。それで、自分が何らかの責任を果たしたものとは、少しも思えないが、見て見ぬ振りをして何もしないよりは、ずっと良いと思った。無力な者には、それとしてそれなりの、出来ることをすれば良いのだと思った。
最後にもう一度、安らかな少年の寝顔を視界に収めてから、黒江は静かに寝台を後にした。明日は早い、自分もさっさと眠ってしまうとしよう。時間が合えば、フロイトも起こして、また一緒に朝食を摂っても良い。
慣れない寝心地のソファの上で、黒江は深く呼吸をすると、明日に備えて目を閉じた。
■
ふと、意識が浮上したのは、誰かに呼ばれたような気がしたからだ。薄眼を開けると、室内は真っ暗で、未だ夜明けには遠いことを知る。見慣れた自室の、珍しい角度からの景色を認識すると同時に、そういえばソファで寝ることにしたのだったかと昨夜の経緯に思い至る。夜中に目を覚ますなど、普段はあまりない経験であるが、慣れない寝床のせいで、眠りが浅くなっていたのだろう。そう結論付けて、再び瞼を閉じようとしたときだった。
「黒江、さん」
囁き程度に抑えられた声は、今度は気のせいなどではなく、はっきりと耳に捉えることが出来た。姿を確認するまでもない、少年の──フロイトの声だ。そこで、黒江は初めて、ソファから離れて佇む、小さな気配に気がついた。
こんな夜中に、いったい、どうしたというのだろう。呼び掛けておきながら、フロイトは逡巡するように、所在なさげに立ち尽くしたままだ。そんなところにいないで、朝までゆっくり寝ていればいいのに──どこかぼんやりとした頭で、黒江はフロイトの次の言葉を待った。頼りない足取りで、一歩ずつ近づいてくる少年を、辛抱強く見守る。
ソファまで至ると、フロイトは、横たわる部屋の主を見下ろした。影になって、黒江からはその表情は読み取れない。どうしたのかと、口にしようとしたとき、ふと糸が切れるように、少年はその場にしゃがみこんだ。
「……ごめんなさい」
黒江の首の辺りで、ソファに顔を伏せたフロイトは、か細い声を紡いだ。何かを堪えるように、押し殺した声でもって、もう一度、ごめんなさいと繰り返す。
ああ、泣かないでくれ、と黒江は思った。その涙を見たわけでもないし、嗚咽が漏れ聞こえたわけでもないのに、この少年が泣いていることはすぐに分かった。静かに、頑なに、抑え込みながら──心の内で、泣き叫んでいる。そして、それを、謝らなくてはならない、悪いことだと思い込んでいる。
何も謝ることなんて、ないじゃないかと、声を掛けてやりたかった。何も悪いことなんて、ないのだと、言い聞かせてやりたかった。けれど、未だ眠気の残る喉は、まるで役立たずで、何も伝えられずに、黒江は少年をただ見つめていることしか出来なかった。
座り込んだ上体をソファに預けて、フロイトは伏せた頭を力なく振った。
「嫌なんです。こんな風に、面倒を掛けることで、あなたの気を引こうだなんて。馬鹿なことをしていると、思うのに、その一方で、無邪気に喜んでいる……自分に、あきれる」
訥々と言葉を継いで、ぐ、と拳を握る。思い通りにならない、浅ましい己に苛立ち、嘆く、その烈しい情動のほどが、痛ましいまでに伝い感じられた。
少年の細い指が、震えるほどに強く握り締められて、今にも壊れてしまうのではないかと思った。精緻な白い指先が、そうして傷んでしまうのは、とても見ていられなかった。気付けば、引き寄せられるように自然と、黒江はそこに己の手のひらを重ねていた。触れた瞬間、びくりと手首が跳ねるのが分かった。そのまま、包み込むようにして重ねていると、次第に、頑なだった拳が緩んでいく。
ゆっくりと、言い聞かせるようにして、黒江は少年に問わずにはいられなかった。
「これで、いいのか。……君は」
今にも溢れ出して泣き叫びそうなまでに、ぎりぎりまで追い詰められていながら、こんなことでごまかされて、その情動を仕舞いこんでしまう。握った拳を、解いてしまう。管理者側にとって、これほど容易いことはない。けれど、少年にとって、それは、はたして良いことなのだろうか。
どこにもぶつけることが出来ずに、壊れることも崩れ落ちることも出来ずに、その細い身体に抱え込んで、ただ現状を引き延ばして続けていく。そんなことで、いいのだろうか。それは、彼自身が、望んだことなのだろうか。
こんな風に、少し優しくされただけで、満たされてしまうなんて、哀れだと黒江は思った。この手のひらに、そんな価値などないのだと、教えてやりたかった。慈愛に満ちた、大いなる創造主の御手などにはほど遠い、こんな手に縋らないで欲しかった。触れるのも嫌だ、汚れているといって振り払われる方が、まだいいと思った。
こうしてごまかされ、懐柔されることが、少年自身にとって、良いことだとはとても思えなかった。温もりや接触に飢えた子どもに、まやかしの優しさを与えて、その感覚を麻痺させるのは簡単なことだ。そうして、折角の彼の真摯な意志を、この手は無情にも、摘み取ってしまうような気がした。
だからといって、他にどうすればいいという考えがあるわけでもない。それでも、黒江は問わずにはいられなかった。あるいは、それは警告だったのかもしれない。フロイトに対する、そして、自分自身に対する、警告だ。
黒江の言いたいことを、おそらくはすべて理解して、フロイトは緩く首を振った。まるで大事なものにするように、両手でもって、黒江の手を胸元に握り締める。
「いい。これで、いいです。今夜だけ、だから。もう、二度と、こんなことであなたを困らせない……」
言って、少年の腕が、背中に回される。布擦れの音がして、静かに身を寄せてくるのを、黒江は最早、突き放すことが出来なかった。その細い身体が、可哀想なくらいに震えていることを、触れあった箇所から否応なしに教えられる。
慰めるように、片腕でゆっくりと背中を撫でてやりながら、おやすみ、と耳元に呟いた。
■
目覚めた翌朝、既に部屋に少年の姿はなかった。果たして昨日の記憶がどこまで精確であったか、黒江としても、やや心もとない。特に、深夜の一件については、もしかしたら夢であったかもしれない、とさえ思える。ただ、抱き締めた細い身体の感触、その儚い重みだけは、腕の中に残っていた。暗闇の中で見せた、あの折れそうな姿──彼はその後、ちゃんと眠れたのだろうか。
授業で居眠りなどということになっていなければ良いのだが、と思ったところで、あの生真面目な彼に限って、そのような心配は無用であることに気付いて苦笑する。見れば、寝台はまるで使われなかったかのように、皺ひとつなく整えられており、貸した部屋着はきれいに畳んで枕元に置かれている。何も言葉がなくとも、黒江はそれで十分に、フロイトが残していった思いを知ることが出来た。ここで過ごした一晩が、苦悩に翻弄される少年の心を、少しでも落ち着ける役に立ったのならば、何よりだと思う。
身支度を整えた後、ふと思い出して、念のため引き出しの奥を確認する。昨日、フロイトに渡した彫像を仕舞っていた引き出しだ。見られて困るものなど何もないので、気楽に泊めてしまったが、よく考えてみれば、この引き出しを開けられていたら少々面倒なことになっていた筈だ。見たところ、その形跡は無かったので、ほっと息を吐く。そもそも、フロイトが他人の持ち物を勝手に探るわけがないと、黒江も承知してはいるが、念のためである。
引き出しを開けた、その奥に入っているのは──同じような、古代遺物のミニチュアの数々だ。どうやら、『土産物』はまだまだ十分なストックがあるようだった。確かめて、さて次回はどれを渡してやろうかと思案する。あたかも、出張先から買って帰ったかのような振りを装って、一つずつを少年に贈る、これを見るとどうしても懐かしい感傷に囚われてしまう。
これは、誰にも話していないことであるし、これから打ち明けるつもりもない、ささやかな秘密だ。少し気恥ずかしい表現が許されるならば、約束、と言ってもいいかもしれない。もう、十年以上前の、色褪せた昔話だ。
卒業を目前にしたある日、黒江のもとに珍しく、フロイトが訪れた。在学中の悪行の数々を詫びるのかと思えば、そういうことではないらしく、なにやら悪だくみの顔で、ひと抱えの箱を差し出す。訝しむ黒江の前で、彼はその蓋を開けてみせた。中に入っていたのは、エジプトだかギリシャだかの考古学的資料を思わせる、小さな彫像の数々であった。
「なんだこれは」
「今まで、部屋に飾っていたんです。いつの間にか、こんなに集まってしまって。で、持っていくのも何だし、良かったら預かってもらえないかなあと」
いっこうに悪びれた様子もなしに、平然として厚かましいことを言う。俺は倉庫じゃないぞ、と黒江は深々と溜息を吐いた。
「そんなもの、捨てていけばいいだろう。だいたい、預かるっていうのは何なんだ。いつか取りに来るつもりか」
「そういうわけじゃないですけど。……あれ? そういうことになるのかな?」
言って、フロイトは、どう説明したものかといった風に腕を組んで唸った。いったい何なんだ、と苛立ちをそろそろ隠せなくなってきた黒江は小さく舌打ちをする。
「なら捨てるぞ」
「いや、いや、待ってくださいよ」
無造作に箱を持ち上げようとすると、フロイトは腕に縋ってそれを止めさせた。分かりました、説明します、と神妙な面持ちで宣言する。どうやら、このままでは本当に捨てられてしまうと危機感を覚えたらしい。一応、話だけは聞いてやろうか、と黒江は無言で続きを促した。
「いえね、つまり、僕はもう必要ないんですけど、あっちの僕──ええと、何ていうんでしょう、弟、かな。あいつには、これから要るんじゃないかって。折角だし、何か、遺していってやろうかな、なんて」
気恥ずかしいのか、微妙に言い淀みながら、フロイトは意図をそのように説明した。弟、と発音するとき、言い慣れていない単語ということもあろう、自身なさげに拙く言うものだから、黒江は少し可笑しかった。どうやら、学術研究発表会の場で対面した自分の分身に、少年はことのほか心を動かされたものらしい。それも当然か──なにしろ、あの幼子こそが、彼にとっては生まれて初めて出会った唯一の血縁であり、誰より近しい、家族なのだから。
照れたように頭をかいて、フロイトは箱の中、一つずつ丁寧に緩衝材を巻かれた彫像を指した。
「オリジナルも、僕も好きだったんだから。あいつもきっと好きだと思うんです、こういうの。少しずつ贈られたら、絶対喜ぶ。嫌なことがあっても、やっていける。だから」
あなたから、渡してやってくれないか、とフロイトは真摯な眼差しで黒江を見つめた。それが、あまりにまっすぐに向けられたものだから、黒江は思わずたじろいで、視線を逸らしてしまった。あさっての方向を向いて、悔し紛れに呟く。
「……捨てるかもしれないぞ」
「ひどいなあ」
でも、信じてますから、と言ってフロイトは無邪気に笑った。
そうして預かったものを、結局、十数年の空白を置いて、律儀に『本人』に返してやっているのだから、自分も相当に義理固いことだ、と黒江は苦笑した。兄の予言した通り、弟はこの贈り物を、いたく気に入っているらしい。殺風景な自室のあちこちに並べて飾って、いつ見ても塵一つない、とあきれ半分に教えてくれたのは、彼の親友の英雄クローンである。そこまで大切に取り扱って貰えるものならば、こちらも贈り甲斐のあるというものだ。
今はあくまでも海外出張の土産ということにしてある、これらの彫像の本当の由来を、教えてやったら、彼はどんなに驚くだろう。それとも、怒るだろうか。笑うだろうか。そして、そんな風にして、誰より近く、自分を想ってくれていた人の存在を知れば、その瞳の奥の寂しさが、少しは救われるのだろうか。
暫し考えて、それから、黒江は緩く首を振った。今はまだ、その時ではないと思った。いつか、訪れるだろう日のために、それは自分の胸の内に仕舞いこんでおけばいい。
荷造りをして、部屋を出る。それじゃ、また、と声には出さずに小さく呟いた。また、そう遠くなく、自分はここを訪れるだろう。そして、また、子どもたちに出会うだろう。何度も、そうして──繰り返し。
今度出会う時、また少し成長した少年は、同じように歓迎の眼差しで出迎えてくれるだろうか。土産物に、いつまで無邪気に喜んでくれるだろうか。いつか、自分の心に折り合いをつけることが──出来るだろうか。
出来ることならば、その行く末を、見届けたいと思う。手の届かぬところで壊れ、目の届かぬところで失われてしまった、かつての彼らとは、違う行く末を。最後まで、見守りたい──それが、己の責務であり、贖罪であると、黒江は思う。
自分は、自分の出来るだけのことをしたいと、ずっと、そう思ってきた。それが、どれだけ叶えられてきたかというと、およそ自信がない。ただ、ほんのささやかでも、彼らに贈りたいものがある。
この、囲われ閉塞した世界の中で、懸命に生きる、彼らのために。
これからも生きていく、彼らのための、外の世界を、贈りたい。
子どもたちの生きる世界を造るのは、自分たち、大人の役割だ。それを、誇りに思う。
振り返ることなく、そうして一歩を、踏み出した。
[ fin. ]
フロイトは黒江さんの前だと素直な子だなあ、という感想と、Twitterの診断ネタ【あなたを売ってみたー】から出来た話でした。ちなみに診断結果→「クローン・フロイト ¥500 購入者の感想:質問なのですが、キスや愛撫などはこの子なりの愛情表現なのでしょうか?少々度が過ぎている気がします…。(30代・男性)」
2011.09.23