密室の青年
「ファイ・ブレインの世界にね。……楽しみだね」
白金の髪をかき上げられ、あらわになった両目でもって、ルーク・盤城・クロスフィールドは真方ジンを見据えた。相手は何とも言葉を返すことはなく、茫とした瞳は何を見つめているものかも判然としない。果たして、少年の発した言葉が正しくその脳まで届いているものかどうかは定かではないが、ジンは、ゆっくりと手を引き戻した。緋色に輝く少年の片目が、再び落ちかかる柔らかな髪の下に隠れる。それきり関心を失ったように、ジンは対局中の盤上へと向き直った。
少しばかり物足りなげに、ルークは眉を寄せたが、すぐに無邪気な笑顔を取り戻す。脇で跪いた体勢から、少年は卓へ向かうジンの正面へと、膝立ちでにじり寄った。チェス盤に向けられたジンの視線を遮るように、両脚の間に身を入れて、そっとその膝に手を置く。ねだるような眼差しに、しかし青年は応えずに、眼鏡の奥の瞳は遠く盤上を見つめて動かない。
「ジン……」
吐息交じりの呼び掛けと共に、ルークは青年の大腿の上に顔を伏せた。うっとりと目を閉じて、膝に置いた手を滑らせる。少年の白い手は、ジンの大腿をなぞり、腰の辺りまでを、繰り返し慈しむようにゆっくりと撫でさすった。
何度か繰り返したところで、それまで無反応に長椅子の背に身を預けていたジンが、おもむろに姿勢を起こす気配を感じて、ルークはすぐさま顔を上げた。期待を隠しきれない瞳でもって、青年を見つめる。
ふらりと、ジンは前傾して腕を伸ばし、あたかも目の前の少年を抱擁しようかという体勢で──しかし、その腕はルークの背中を優しく抱き寄せることも、頭を撫でてやることもなかった。
自分を素通りして、背後の盤上へと伸ばされる手を振り返ることもなく、ルークは分かり切ったことのように溜息を吐いた。どこか諦めの滲む表情で、緩く首を振ってみせる。
「……チェスは、もういいんだよ。ジン」
気だるげに上げた腕を背後へやると、ルークは盤上の駒を見もせずに無造作になぎ倒した。いくつかはそのまま床に転がり落ちるが、たとえ傷がつこうと割れようと、別段に構うことはなかった。
それでも卓上に手を伸ばそうと身を屈めるジンの膝の上に、ルークは素早く乗り上げると、その頬を両手で包んで、愛おしげに口づけた。反応の一つも返されないのを、特に気にした様子もなく、押し当てては離れ、丁寧に舌を這わせる。
「ん、……ふ、ぁ」
上ずった声をもらして、ルークはジンの無反応の唇を貪った。しなやかな手が、焦燥交じりに青年の肩を掴み、しなだれかかるように自重をかけると、促されるままに、二人して長椅子に倒れ込む。
「ね、もっと違う遊び、しよう」
純白の衣装が乱れるのにも構わずに、青年の腹の上にまたがって、ルークは心から楽しそうに笑った。返ってくる筈もない返事を待つことはせずに、「それじゃ、僕からね」と宣言して、己の下の身体に身を擦り寄せる。
ジンの首筋に、白い少年は丁寧に口づけては、小さく吸い上げ、舌先でなぞり上げた。喉元、鎖骨へと少しずつ場所を変えて唇での愛撫を施す合間にも、細い手は器用に動いて、青年の胸から脇腹を愛おしげに辿る。
「ここ、噛まれるの、気持ちいいよね……どうかな、ジン。僕、上手に出来てる? 教えてよ」
青年の鎖骨に軽く歯を立てては舌先でくすぐりつつ、ルークは熱っぽい囁きをこぼした。
ジンの腕が持ち上がり、少年の白い面を覆い隠す柔らかな髪に触れる。気付いて、ルークは一旦唇を離した。硬い感触の指先が、髪を絡めてかき上げるのを、気持ち良さそうに目を細めて受け容れる。
あらわになった左目で、少年は陶然と青年を見下ろした。ジンの指先が確かめるように目元を辿ると、もう堪えられないというように睫を震わせ、切ない息をこぼす。
「……もっと。触って」
輪郭を包むように添えられた手に、そっと手を重ねて、ルークは頬を擦り寄せた。白い肌にほのかに紅潮の色を浮かべ、夢見るようにうっとりと目を閉じる。
青年の骨ばった手を大切に捧げ持つようにして、ルークは己の襟元へと移動させた。その首に嵌められたベルトの金具へと指先をいざない、期待に満ちた表情でもってジンを見つめる。淡青色の瞳を潤ませた少年の、切なげに懇願するような視線は、たとえその気のない相手であろうとも、誰しも見る者の胸の内を大いにかき乱してやまないものの筈であったが、しかし、あからさまな欲望の目を向けられていながら、眼鏡の青年は茫としておよそ反応らしい反応を示さなかった。
少年のか細い両手の中から、支えていた手がずるりと抜け落ちる。眉をひそめて、ルークはもう一度、力ない青年の手をとった。分かるように胸元に押し付けるが、いくら促しても、その指先がベルトの金具に掛かることはなかった。
「……今日は、解いてくれないの」
幼子のような不満げな表情を隠しもせずに、ルークは呟いた。ぎゅ、と青年の手を握り締める。
暫しそうして、白い指先が微かに震え始めたところで、ルークはふと溜息をこぼした。ぎこちない微笑を浮かべて、青年の手を解放する。
「そう、だよね……ジン」
掠れた声は頼りなく震えて、およそ常日頃の組織の頂点に立つ者としての無感動な振る舞いには程遠い。そんな少年の縋るような呼び掛けにも、ジンは応えることはせずに、ぼんやりと宙を見つめていた。
今にも泣き出して、思うさまに感情をぶつけたいのに、どうしたらいいのか分からないような表情で、ルークは笑った。そのまま、支えを失ったように、くたりと身を折って青年の上に覆いかぶさる。
ぎゅ、と粗末な衣服を掴んでしがみつく様子は、それしか頼るものを知らない幼子の在りようそのものであった。
「カイトが、もうすぐ、来てくれるんだから…ね。また、3人でいられるよ。……こんな世界じゃない、僕たち、だけの。もう、哀しい思いも、寂しい思いも、しなくていいんだよね。何も視えなくていい、何も聴こえなくていい……僕は、何も、要らない」
声に出して言うのは、応答を求めているのではなく、自分自身に言い聞かせるためであるらしかった。訥々と、少年は言葉を紡いだ。
「早く、還りたいよ。あの頃みたいに、また。いつまでも、一緒。……変わってしまうのは、嫌だ。新しいものなんて、要らない。ずっと、同じでいたい……だって、いくら待っても、良いことなんて、一つも起こらないんだよ。失くして、壊れて、どんどん、悪くなっていくだけなんだ。そんな悲しいこと、嫌だよね。……変わらない、僕たちだけが、いられたらいいんだ。……こんな僕じゃなくて。永遠に、あの頃の僕で、……いたかったんだ」
青年の肩口に顔を埋めて、ルークは肩を震わせた。抑えきれない嗚咽が、小さくこぼれては、静寂の室内に折り重なっていく。
「カイト……カイト、カイト……」
無抵抗の青年の身体に腕を回して、ルークは繰り返し、今はここにはいない少年の名を呼んだ。それさえ唱えていれば、まるで、何かから護って貰えるとでも、いうように。すべてが望むように、うまくいくのだとでも、いうように。嗚咽交じりに、幾度も繰り返す。
ルークが泣き疲れてそのまま眠ってしまうまで、それは、普段であれば続けられる筈の儀式であった。それが、前触れなく、ふと途切れる。
ぴくんと身を竦めて、ルークは声を詰まらせた。もう、縋りつく力も疲れて抜けかけた右腕に、そっと添えられているものがあった。撫でるでもなく、掴むでもなく、それは包み込むようにあてがわれた、ジンの手のひらだった。
「……あ、ぁ」
顔を上げることもせずに、それを認識するや、ルークは掠れた悲鳴めいた声をこぼした。小さく震える手でもって、ジンの手首を握り、己の背中へと回すようにする。もう片腕も、何度も失敗して取り落としながら、同じように交差させる。
だらりと力の抜けた腕は、ただ少年の背中に乗っているというだけで、少し動けば簡単に滑り落ちてしまいそうだった。そんな不安定な、何の思いも意味もない抱擁の中で、ルークは子どものように泣きじゃくった。
「……やく、そく…きっと、守るから、……待ってて」
嗚咽の中で、途切れ途切れに、なんとか言葉を紡ぐ。
作り物の空間に響く、悲痛な慟哭は、今はまだどこへ届くこともなく、閉ざされた扉の内に消え失せるのだった。
[ end. ]
あの#21ラストシーンは不健全すぎてエロすぎてどうしようかと思いましたねまったく…!
2012.02.27