雑煮さんへ捧ぐビショルク




夜半の月の光も届かぬ、薄闇の室内を僅かに照らすのは青白い人工の灯であった。壁面に据えられた大型モニタは、黄金螺旋を描くシンボルマークを、飽きず繰り返し映し出す。そこに音はない。静寂の室内に、時折響くのは、ただ布擦れの音と、密やかな息遣いに乗せた途切れ途切れの遣り取りだった。
「──こう、ですか。ルーク様」
吐息交じりに囁く青年の声は、憂いを帯びつつも、同時にどこか愉悦の色を含んでいる。黒衣の布擦れの音とともに、優雅な所作で指先を動かして、ビショップは行為の相手に問い掛けた。
「違っ……ぁ、そんな、とこ……だめ……」
応える少年の声は、掠れがちでいかにも頼りない。どこか焦燥に駆られた様子でもって綴られた、拙い否定の言葉を受けて、ビショップはふと微笑を浮かべた。
「ああ、こちらの方がよろしいですか」
言って、不意に手首を返す。焦らして弄ぶようなその動きに、ルークは小さく息を呑んだ。
「……っ」
「教えていただけませんか、ちゃんと声に出して」
ゆっくりと言い聞かせるように囁く青年の声は、優しげなことこの上なかったが、なにも己の年若い主人のためを思っての台詞ではないということは明らかだった。ただの気まぐれ、余興といって間違いではない。
無視することも出来たというのに、ルークはそれを口にしたものか、暫し迷う様子を見せた。逡巡の後、可憐な唇が小さく開く。
「……そこ、が……いい、」
端的に告げられた言葉は、およそ情緒に欠ける簡素なものであった。趣きも何もあったものではない少年の物言いに、これではまるでマッサージでもしているかのようですね、とビショップは軽く苦笑した。とはいえ、自ら問うた以上、律義にリクエストに応えることは忘れない。白い少年の方へと、静かに手を伸ばす。
「……、そう…」
微かに喉を震わせて、ルークは青年の手探りの行為に応えた。

ビショップのしなやかな指の黒影が揺らめき落ちるごとに、ルークは切なげに、あるいはもどかしげに吐息をこぼした。時折、堪らずに上げる声は、頭脳集団の頂点たる玉座から指示を下すときの冷徹なそれとは違って、どこか脆く儚い。
「あ、そこ……もっと……奥に、」
「大胆ですね」
吐息混じりに、ビショップは感想を呟いた。揶揄するかの言葉を受けて、少年は、どうしていちいちそんなことを言うのかと、相手を責めるように目を眇める。そんな反応さえも、青年にとっては快い刺激でしかないのか、ビショップはわざとらしくも首を傾げてみせる。
「どうされましたか。……何か、気になることでも?」
「だ、って……いつもと、ちがう」
何と言ったら良いのか分からないといった風に、もどかしげにルークは言葉を紡いだ。違和感はあるものの、具体的にそれが何であるのかを指摘することは出来ないらしい。とはいえ、ささやかな異変に気付いたこと、それ自体は、さすが調和を愛し、不協和音を嫌う繊細な脳の持ち主であるといったところか──感心するかのように嘆息して、青年は応える。
「あぁ──実は、このところ、末端の人員整理のために徹夜続きで。違うとすれば、そのせいかも知れません」
それならば、このようなことに無駄な時間をかけず、さっさと寝れば良いのにと言わんばかりの瞳で、ルークは職務に忠実な己の側近を見つめた。その淡青色の瞳に、ビショップは優しげに微笑みかけて、一言、告げる。
「──それでも、あなたを愉しませるくらいのことは出来ますよ」

結論から言うと、彼のその自負は、いささか己の技量を過信した、身のほど知らずのものであったかも知れない。行為を進めれば進めるほどに、それは次第に明瞭になっていった。
「そこじゃ…なっ……ビショップ……」
小さな悲鳴めいた声が上がって、青年は一度、手を休めた。
「いかがなさいました? そんな、はしたない声を出されて」
落ち着き払った風情で問うビショップの態度は、今こうして信じられないといったように目を瞠るルークに相対するには、およそ相応しからぬ不適切なものであった。不遜とさえいえるその態度が、更に混乱を呼んだのだろう、ルークは無力にも唇を震わせ、微かな声を紡ぐ。
「……手、が…っ」
「……良かったですか」
「ちがっ……」
慌てたように首を振って否定する少年に、ビショップは穏やかな眼差しを遣った。指示を待たずに、自らの思惑でもって、指を動かす。あ、と上ずった声が上がったときには、もう遅い。
「そこ……っだめ、動かしちゃ……あ、」
どこか焦燥を帯びた声でもって、ルークは喘いだ。あくまでも柔和な青年の表情を、きっと睨めつける。
「っへたくそ……!」
もう幾度となく交わしている行為だというのに、少しも上達しない、と糾弾するようにルークは短く言った。
「……傷つきますね。本当のこととはいえ、そう正直に言われますと」
少しも傷ついてなどいなさそうな平然たる表情で、ビショップは悠々と応えた。まるで取り合う気のない態度に、ばかにされたと感じたのだろう、ルークは唇を噛んで俯く。それでも、ぼそりと新たな憎まれ口を叩くのは忘れない。
「……役立たず」
「……それは、さすがにお言葉が過ぎるのでは」
今度は僅かに自尊心を傷つけられたように、端正な面を曇らせつつ、ビショップは少年の暴言をたしなめた。こんな状況にも関わらず、普段通りに落ち着き払った側近の態度とは対照的に、最早、堪え難いといったように、ルークは頭を振って抗う。
「も、う……やだ、嫌だ、こんな……っ」
「──逃げるのですか」
柔らかな光を灯していた碧眼が、すっと細まったときには、素早く伸びたその手が少年の腕を捉えている。
「お付き合いいただきますよ、最後まで。ここまでされた責任を、取っていただかなくては」
「そん、な……知らない……」
少し掠れた声でもって、ルークは側近の不躾な言葉に抗った。しかし、それは抵抗というには、あまりにささやか過ぎたかも知れない。己の主たる少年の主張を、まるで聞き入れる振りも見せずに、ビショップはやれやれと首を振る。
「仕方がありませんね。……失礼いたします」
丁重に、しかし抵抗を許さずに、ビショップはルークの白い手を取った。その意図を知って、少年はひくりと肩を竦める。怯えたような反応に構わず、ビショップは握った繊手を、その意図するところへと導いた。
いやだ、と言ってルークは身を捩るが、青年に優雅なまでの所作で握られた手首は、びくとも動かない。とうとう、中央へといざなわれた指先がそれに触れて、あぁ、とルークは微かに喉を震わせた。
茫然とするような少年の様子を見遣ると、あえて気のない風を装って、ビショップは声を紡いだ。
「このままでは、終わりません。……あなたが降参されるというなら、話は別ですが」
「誰が……っ」
降参、という単語が出た瞬間に、ルークは反射的に顔を上げ、無礼な側近を睨めつけた。ガラス玉めいた瞳には、鋭い光が宿り、その奥底の強靭な意志を証する。気丈な態度を受け、そうでなくては面白くない、というようにビショップは美しく唇をゆがめた。



「……やー、でも、そいつはちょっとハードル上げすぎっていうか。僕としては、ここの仕掛けは3つだからこそ、完成されてるって思うわけで」
端末上に表示された立体図を、白手袋を嵌めた指で指し示しつつ、ダイスマンは納得がいかないというように己の見解を主張した。その声には、あからさまに不平不満の色が滲んでいる。相対するフンガは、いかにも嘆かわしげに首を振ると、聞き分けのない生徒を受け持つ教師の態度でもって、青年をたしなめた。
「だから、先程から言っているだろう。そんなことでは甘いというのだ……審査基準改定の話を知らないわけではあるまい。念には念を入れておくに越したことはないだろう」
「えー、でも僕、別に本部のためにパズル作ってるわけじゃないし? 何より、制作者としてのプライドってもんがあるでしょ。大人の事情は置いといて、まず、自分が納得出来るもんじゃないとね。そもそも、僕の美学的には」
「……ああ、もう!」
同僚二名の間に交わされる、まだるっこしいパズル談義に、とうとうメイズは両手で机を叩いた。いったい、いつまでこうして3人、会議室で顔を突き合わせていれば良いのか──時間も時間だけに、いい加減、飽き飽きとしてくる。
本部へ提出するパズル新案の方向性を巡っての攻防は、先程から平行線の一途を辿っていた。三者三様、それぞれに己の理想とするパズル像があり、それを互いに一歩も譲る気は無い。協調性だの柔軟性だのといった人柄よりなにより、パズルの才こそが重要視される、個性派揃いの頭脳集団の幹部ともなれば、そのこだわりは、より頑迷であるといってよい。毎度のことながら、メイズは軽い苛立ちを覚えずにはいられなかった。
思いは皆、同じだったようで、他の二人もそれぞれに肩を竦め、あるいは溜息を吐く。話し合いは、完全に行き詰まっていた。自らも額に指を当てながら、事態を打開すべく、メイズは一つ提案をした。
「ここでいくら話し合っていてもしょうがないわ。上の方にお伺いを立てましょう。それが確実よ」
「や、でも、そんなことでわざわざ……」
大胆な提案に、ダイスマンは怖気づいたように小さく異論を唱えた。余計なことをして上司の機嫌を損ねてしまわないかと危惧しているのだろう、情けないことだ──内心で溜息を吐いて、メイズは頼りない同僚を見据えた。
「何を言うの。業務の一環だもの、何も気後れすることなんてないわ」
「そうだな。どうせならば、早いうちに軌道修正していただいた方が良い」
言うと、早速フンガは内線に手を伸ばした。丁度この会議室の真上に位置する、日本支部総責任者の執務室をコールする。しかし、いつもならばワンコールで呼び出し音が止み、どこか気だるげな青年の声が応える筈の回線は、一向に繋がる気配がなかった。
耳に当てた端末から空しく繰り返される電子音の響きに、フンガは小さく独りごちる。
「……お出にならないな」
隣で息を詰め、聴き耳を立てていた二人も、これには首を傾げた。
「……おかしいわね。この時間、外出も会合の予定も入ってらっしゃらないのに」
端末上のスケジュール表をチェックして、メイズは呟いた。三幹部の上司たるビショップの所在は、画面上では現在、総責任者の執務室となっている。
「直接、お伺いに行くしかないかしら……」
「いいじゃないっすか、そこまでしなくても。行ったところで、どうせググレカスって言われるのがオチっすよ。つか、口に出さなくても、あの方の目はいっつもそう言ってるっすからね。おお怖い」
「それは、相手がお前だからだろう」
あきれ顔でたしなめるフンガであるが、そういう彼もまた、自ら席を立とうとしない点は同じであった。自分は内線を掛けたことで、何らかの役割を果たしたものとみなし、次は他の誰かが行動すべきだとでも考えているのだろう──特に、言いだしっぺの誰かが。
本日で何度目になるか分からない溜息を吐くと、メイズは毅然たる態度で面を上げた。
「いいわ。私が行ってきましょう」
彼女の決断に、途端に態度を翻して軽薄な拍手を贈るのは、もちろんダイスマンである。
「さっすが。勇者っすね」
「頼んだぞ」
まったく、ふがいない輩ばかり──呑気な声援を背に、胸の内で密かに憤慨しながら、メイズは足早に通路を進んだ。



「さあ。一度手に触れてしまったならば、進めるのがルール──どうぞ、ご自身で続きを」
少年のか細い手を、ビショップはゆっくりと撫でさすった。優しく促そうとするその手を、しかし、ルークは拒んで振り払う。どういうつもりかと、訝しげに目を細める青年を、その淡青色の瞳で一瞥してから、白い少年は手元に視線を戻した。
「……キャスリング」
宣言すると、ルークは、側近によって無理やり手に触れさせられたキングの駒を、盤上で音もなく移動させた。
「──ああ。その手がありましたか……さすがです」
キングの駒にしろ、その入城する塔を模したルークの駒にしろ、未だ初期配置から一度も動かしていなかったことが、少年にとっては功を奏した。一度、手に触れた駒は必ず動かさねばならない──半ば強引に触れさせられたとはいえ、ルールはルールだ。キングに触れた以上、どうあっても、移動させるか、あるいは、それを倒すことによって降参の意思を示さねばならない。それが、ルークの追いやられた状況であった。
その状況下で、彼はもちろん、キングを倒すことはなかったし、かといって、隣接するいずれの箇所へ移動させるでもなく、王の入城(キャスリング)という第三の選択肢によって、鮮やかに相手の思惑を切り抜けたのだった。
二つの駒の移動を済ませると、視線はチェスボードに向けたままに、ルークは向かいの対戦相手へ淡々と言葉を紡いだ。
「こんなことにも、気付けないなら……続けたって、仕方がない」
「……そうですか。しかし、せめてはっきりとした勝敗がつくまでは、ご指導願えませんか。勝負事を途中で投げ出すというのは、性に合わないもので」
部下からの嘆願に答えを返すことはせずに、ルークは無言で、己の黒の駒を進めた。

POGジャパン総責任者ルーク・盤城・クロスフィールドが、夜毎、彼の忠実なる側近とチェスボード上の一戦を交えるのは、一日の終わりの儀式として、既に習慣化されて久しい行為であった。とはいえ、それは勝敗を競うゲームとしての性質とは、やや異なる。特異なる頭脳を有するこの少年が、本気で勝負を愉しむことが出来る相手など、この世に一人しかいない。そして、彼の忠実なる側近は、その一人ではなかった。
勝負にもならない、圧倒的な実力差がある格下の相手と対戦するのが、ルークにとって楽しかろう筈もない。それにも関わらず、毎晩チェス盤を挟んで向かい合うのは、これが儀式だからだ。こうして、手順に則って滞りなく儀式を済ませなくては、ルークの一日は終わらず、眠ることも出来ない。そこには、当人の意思や望みの入り込む余地はない。ただ、最初からそういう風に定められているからというだけの理由でもって、二人は粛々と儀式を執り行うのだった。
白の駒を担当するビショップの手筋について、ルークがコメントを紡ぐのは、いつものことだった。曰く、そこは動かすべきではない、ここへ進めろ、こちらの方が良い、など──感想戦でもない、本番の最中にそのような行為は、本来マナー違反も甚だしいことである。
とはいえ、これは公式戦でも何でもなく、そもそも勝負ですらない。己の年若い主の圧倒的優位を心得ているがゆえに、青年としても別段に、批評に気を悪くすることもなかった。むしろ、積極的に教えを請い、助言されるままに駒を進めることもしばしばである。そうすることで、上位者の視点を得て己の技量を磨くとともに、少しでもルークを楽しませてやることが出来るのであれば、それはビショップにとっては、願ってもないことであった。

それゆえに、今宵の彼の、忠告を聞きもしない上に戦略も何もない支離滅裂な手筋は、ルークを戸惑わせた。いつもと違うといって、糾弾するような声を上げてしまったのも、無理はないだろう。連日の夜を徹しての作業を経て疲弊した人間の脳が、どれほどパフォーマンスを低下させることか、そんなことは、この選ばれし頭脳を抱く少年の知るところではない。
ともかく、早く終わらせてしまおうと、ルークは黒の司教の駒を取ると、滑るような動きで前線へと移動させた。
「……これでもう、白に勝ち目はない。終わりだ」
小さく告げて、ルークはそれきり、関心を失ったように盤上から顔を背けた。椅子を立ち、今にも寝室へと足を向けかける。その背中に、青年は咎めるような声を掛けた。
「お待ちください。チェックも掛けずに、まだ勝敗が決まったわけでは、」
「この盤面を見て、どうして結末が分からない? そんなこと、少しでも頭が働いているのなら、すぐにシミュレーション──」
淡々と紡がれた少年の声は、中途半端なところで途切れることとなった。主人の後を追って席を立ったビショップの長身が揺らいだと思うと、次の瞬間には、大きく足をもつれさせている。
「…………!」
異変に気付いたルークが、その場で振り返り、淡青色の瞳を思わず瞠ったときには、既に遅かった。咄嗟に避けることも出来ずに立ち尽くす少年の視界を、黒衣の影が覆った。



執務室の扉の前に立って、メイズは一度、深呼吸をした。これから行なう質疑の内容は、既にここまでの道すがら、入念に予行演習してある。上司の貴重な時間を割いて貰うからには、こちらとしても過不足なく端的な説明を心がけねばならない。そういった場面での手際の良さというものも、優秀なギヴァーとしての要件の一つである。
よし、と己を奮い立たせて面を上げると、彼女は壁面の静脈認証パネルに手のひらを触れかけ──
その瞬間、扉の向こうで鳴ったけたたましい音に、思わず肩を竦める。何かが連続的に落下し、ばらばらと床へ打ちつけるような無秩序な音は、静寂をもって常とする執務室には、似つかわしくないことこの上なかった。
いったい、何が──視線を彷徨わせて逡巡した後、メイズは覚悟を決めると、パネルに強く手のひらを押し当てた。
「し、失礼いたします! 今の音は……ッ!?」
入室時の挨拶、用件の切り出し方、質問内容──用意してきたすべては、今や、頭の中から消し飛んでいた。焦燥のままに、室内に一歩足を踏み入れるや、彼女は目の前に広がる光景に言葉を失った。
部屋の中央、いつもならば、潔癖なまでの角度でもって机上に据えられているべきチェスボードが、今は大きく位置をずらしている。当然、その上に並ぶ駒はない。いったいいかなる事態のゆえか、チェスピースは、白も黒も入り混じって、無秩序に床に転がっていた。
そして、何より来訪者の目を釘付けにしたのは、その中央。散らばるピースに囲まれるようにして倒れ伏す──黒衣の青年と、その腕に抱かれた白衣の少年の姿だった。

ビショップはうつ伏せて倒れ、ルークはその腕の中に囚われ、メイズはあまりの事態を前に硬直している。三人が三人とも、それぞれの事情でもって声を失い、身体を動かせないまま、無為に時間が経過していく。
その均衡を、最初に破ったのは、床に倒れ伏していたビショップであった。腕の中に護るように抱いた己の主人を、そっと解放しながら、小さく呻いて身を起こす。
「……失礼いたしました。お怪我はありませんか、ルーク様」
囁くようなその言葉を耳に捉えて、はっとメイズは我に返った。いったい何がどうしてこうなったものか、その経緯は知る由もないが、どうやら黒衣の青年が己の主を護ろうと試みた結果であることは確からしい。きっと、少年が蹴躓くか何かしたところを、忠実なる側近が身を呈して庇い、その際にチェスセットも引っ掛けてしまったのだろう。押し倒された総責任者の姿を前に、一瞬でも、下剋上だの叛逆だのを疑った己の浅はかさを恥じながら、彼女はともかく、二人の元へと駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか、お二人とも……!」
「ええ、ご心配なく。ただ、少しばかり眩暈が……」
苦しげに眉を寄せて、抑えた息を吐く青年の在りようは、その部下にしても初めて目にするものであった。常日頃の、余裕に満ちた微笑を湛える優雅な姿とは異なって、痛々しくも高潔な印象を与える横顔に、思わず見惚れかけて、メイズは慌てて首を振った。どうやら、蹴躓いたのはルークではなく、ビショップの方であったらしい。黒衣の青年は、跪く体勢でもって、ひとまず己の年若い主人の上体を抱き起こした。それから、手を引いてやりつつ立ち上がろうとしたところで、ぐらりと長身が揺らぐ。
傍らのチェスボードを載せたテーブルに片手をかけて、ビショップはかろうじて姿勢を保った。咄嗟にメイズも手を差し伸べ、隣でその肩を支える。ああ、すみません、と青年は礼を述べたが、その声もおよそ覇気が無く、足元はあからさまにふらついている。
「なんてこと……! こんな状態で、今まで…!?」
声を失う部下に、微苦笑で応えると、ビショップは床に座り込んだままの少年に恭しく手を差し伸べた。黒衣の青年の手に、白い繊手が重なり、縋るように軽く掴む。
「……内線のコール音も聞こえないくらいなら、さっさと休むべきだ。まったく、役に立たない」
無感動な在りようそのままに、ルークは当たり前のように側近の手を借りて立ち上がりながら言った。冷たいガラス玉めいた瞳には、心身を尽くして彼に仕える青年を労わる感情など、微塵も宿ってはいない。忠実なる側近に対して、それはあまりに冷たい態度ではないか──いったい、誰のために、この青年がかような負荷を掛けられていると思っているのか。己の立場も忘れて、メイズは思わず口を挟みかけた。
しかし、ビショップの身骨を砕いての真摯なる働きのほどを、彼女が弁護する機会は、ついに訪れることはなかった。それより前に、ルークが短く、言葉を付け足したからだ。
「そこで、寝ればいい」
顎をしゃくって指し示した先は、執務室の隅の扉である。その奥は、総責任者の寝室へと続いている筈だ。そこで休むことを、ルークが許可したのだと、理解するのにメイズは数秒間の沈黙を要した。目を丸くする彼女をよそに、ビショップは上司の提案に対して、場違いなほどに恭しく一礼を施している。
「それでは……お言葉に甘えて」
ご一緒させていただきます、と穏やかに微笑する側近に、ルークはほんの僅かな角度でもって、小さく頷いた。



扉の向こうへと消えていく二人の後姿を見送って、メイズは踵を返した。ここを訪れた本来の目的であるところの相談事項は、また明日へ持ち越しとしよう。今は、あの扉の先で少しでも、疲れた心身を休めていただければ良い。考えつつ、自然と頬が緩んでいる自分に気付いて、彼女は慌てて表情を引き締めた。
他の二人には、ビショップ様は何か手が離せないようだったとでも伝えるのが良いだろう。三人でもう少し、互いに歩み寄りつつ、自分たちの頭を捻るのだ──己の役割を、果たすのだ。
そうと決まれば、早速戻って、ミーティングの再開である。普段ならば、憂鬱な作業でしかないそれが、今は何故だか、高揚感を誘う挑戦であるように感じられた。軽やかな足取りでもって、メイズは己の在るべき場所へと向かうのだった。




[ end. ]
















いつもお世話になっております雑煮さんへのハッピーバースデーの捧げ物ヽ('〜')ノ

2012.03.19

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