Flight-光の彼方に-




──こうして、ルーク管理官と小職は日本を発った。
願わくは、この旅が彼に、世界の歓びと彩りを教える一助とならんことを──



本日の業務日誌は、やや感傷的な文言によって締め括られることとなった。ビジネス文書としては褒められたものではないが、どうせどこへ提出するわけでもない覚書だ。主観が入り乱れていようと、構いはしないだろう。
業務日誌をつけ終えた端末を閉じると、私は隣のシートに座る少年の様子を窺った。
小窓にかじりついて外の景色を眺めていたかと思えば、懐から取り出した手製のパズルの欠片を愛おしげに見つめ、まるで初めて海外旅行に出掛けるかのように、浮き浮きとした空気を惜しげもなく振り撒く。そんな少年の態度からは、かつて頭脳集団を統べる玉座に在った、白く崇高な指導者の姿を想起することは難しかった。

機体が雲の上に出てしまうと、代わり映えのしない景色に飽きたのだろう。ルークはこちらの袖を、軽く摘まんで引っ張ってくる。

「ね、トランプしようよ。退屈でしょ」

可愛らしい提案をする淡青色の瞳は活き活きと輝き、屈託のない笑みを浮かべる。その手に握る真新しいトランプは、出発前、これから何かと入り用になるだろうと見越して購入しておいたものである。こうした移動中の時間潰しに、あるいは、これから訪れる世界各地での人々とのコミュニケーションに、カードゲームの存在はきっと役立ってくれる。
チェスセットという案もあったのであるが、そちらは携帯用セットにしてもやや嵩が張るし、なにより、ずっとそれに慣れ親しんできたルークにとっては今更、新しい楽しみを与えられるものではない。これからの時代はトランプである、というのが、彼と私の共通認識であった。
少年の無邪気な笑顔に、私もまた、穏やかな微笑を返す。

「良いですよ。何にしましょうか」

んー、と暫く考えて、ルークはにっこりと微笑んだ。

「神経衰弱!」

──可憐な唇から紡がれたゲームの名称は、およそ私の理解の範疇を越えていた。
てっきり、ポーカーやページワン、変則ダウトといった辺りが出てくるかと思っていたら、まさかのリクエストである。
私の浅薄な知識に基づいていえば、それは、裏返しに伏せて並べたカードをめくってペアを揃えていくゲームであった筈だ。52枚のカードを、いったい、どこに並べようというのだろうか。いかにビジネスクラスの座席といえど、二人分のテーブルを合わせても、その必要とする面積には足りないだろう。
こちらの困惑をよそに、ルークは器用にカードを切りながら、楽しげに続ける。

「広い場所がないから、一カ所じゃ出来ないけど、逆に面白いんじゃないかな。機内中を使った神経衰弱だ」

そうと決まればと、ルークは早速席を立ち、止める間もなく私の前をすり抜けている。足取りも軽く、裏返しにしたトランプをあちこちにばら撒きながら進む彼を、何事かと周囲の座席の人々が驚きの表情で振り返る。

「お待ちください、ルーク様……ルーク様!」

他の乗客もいる機内ゆえ、私は声を潜めて注意したが、それが徒となった。控えめな制止の声は、去り行く少年の耳には到底、届く筈もなかった。
私は咄嗟に、周囲の乗客に頭を下げながら、トランプを拾い集めようとして跪いた。しかし、カードを拾い上げようと手を伸ばしかけたところで、ふと思いとどまる。そのまま手を引き戻して、私はおもむろに立ち上がった。
既にルークは、ヘンゼルとグレーテルの童話よろしく、トランプを通り道に残しつつ順調に機首へと向かっている。その細い背中を、私は睨めつけて覚悟を決めた。一つ、息を吐いて、それから大きく吸うと、

「──待ちなさい、ルーク!」

一喝の効果はてきめんであった。己の名前を呼ばれたのに反応したのか、あるいは単に、一直線に向けられた鋭い声に驚いたのか、ルークはびくりと身を竦めて立ち止まった。緩慢な動作でこちらを振り向いた、その瞳は大きく瞠られ、驚愕に満ちている。
付け加えて言うなれば、その表情をしたのは周辺の乗客も同様で、目を丸くした人々の注目を浴びながら、私はゆっくりと通路へ歩み出た。周辺の乗客一人ずつに無礼を詫びながら、少年の撒き散らしたカードを踏まぬように避けて進む。
やがて、立ち尽くすルークの前に辿りつくと、私は腕を組んで彼を見下ろした。頭一つ分低い位置にある少年の顔は困惑に満ち、淡青色の瞳が不安げに揺れている。私は思わず、その細い肩を抱き寄せて慰めてやりたくなったが、ここで情にほだされてはならないと、己を戒めた。
代わりに、軽く肩に手を置き、よく言い聞かせるように静かに告げる。

「……拾いなさい。自分で」

これまでの自分であれば、不躾であるとして躊躇ったであろうほどに、私はまっすぐに淡青色の瞳を見つめた。ルークは何か言いたげな瞳で、しかし結局、不平を述べることはなかった。己の行為を反省したのだろう、しょんぼりと肩を落とす。
返事は、と促してやると、少し迷った後に、可憐な唇が小さく開く。

「……はーい。ごめんなさい、パパ」

上目遣いで、妙に舌足らずな甘い口調で紡がれた台詞は、今度こそ私を凍りつかせた。咄嗟に言葉もない同行者を前に、ルークは、何かおかしなことを言っただろうかという表情で、きょとんと首を傾げている。
私はいつから、彼の親になったのだ。確かに、かつての絶対的な主従関係とは異なり、現在は彼の保護者としての身分にあることを否定はしないが、しかし、養子縁組までした覚えはない。
混乱する頭で、私は辛うじて問うた。

「……何ですか、それは」

こちらも困惑した様子で、軽く眉を寄せたルークはもどかしげに答える。

「だって……叱られたときは、こう言うんでしょ。皆、そうしてるよ」

皆とは誰だ。ルークの視線を追って、私は機内に何組かの家族連れの姿を見出した。5、6歳の子どもたちが、あれこれと我が儘を言っては、静かになさいと親にたしなめられ、しぶしぶと詫びている。どうやら、先程のルークの台詞は、それを参考にしてみたものらしい。
この少年が、そんな風に他人の挙動に関心を持ち、自ら率先して行動様式に取り入れていくなどと、これまでであれば考えられなかったことだ。台詞の内容の是非はともかくとして、私は少なからず、感心していた──否、感動といった方が正しいだろうか。なによりそれは、ずっと崇高なるパズルにのみ向けられていた彼の眼が、身近な世界へと向けられるようになったということの証だったからだ。
ルークは、これまで触れずにいた世界へと、一歩ずつ着実に、歩み寄りつつある。ルークの中で、凍てついて止まっていた時間が、今まさに動き出し始めているのだ。そんな彼の成長を、ずっと傍に仕えて見守ってきた人間が、どうして喜ばずにいられるだろうか。
静かに打ち震える胸の内が、今にも溢れんとするのを堪えて、私は穏やかに声を紡いだ。

「なるほど……そうして周囲の人々から学び、視野を広げ、新たな表現を身につけていく、それはとても素晴らしいことです。ただ、あなたの年齢を考慮すると、そこは『父上』あたりが相応しいのではないかと」

「分かりました。父上」

「よろしい」

私は内なる満足を覚えつつ、重々しく頷いてみせた。神妙な面持ちで素直に言うことを聞く、ルークは実に良い生徒だ。常識知らずゆえに、突飛な行動をしてしまうこともあるが、それはこれから一つずつ、教え導いてやっていけば良い。
通路にしゃがみこみ、黙々とトランプを拾っていく少年を見守りつつ、私は彼の後に続いた。席に戻り、枚数を二度、数えさせて、不足のないことを確認する。カードをシャッフルしながら、ルークは改めて、声を潜めて問うた。

「……ね、それじゃ、何して遊ぼう?」

一人でフリーセルでもして時間を潰して貰っても、こちらとしては一向に構わなかったのであるが、どうやらルークは、一緒に遊んで欲しいような顔である。これもまた、新たな一面だ──彼はこれまでずっと、ゲームといえば、独りでチェスボードに向かうばかりで、相手をしてくれなどといってねだることは一度もなかった。周囲の人間は、それを彼が孤独を好む性質なのであるという風に理解し、また、彼と対等にチェスの出来る相手もなかったことから、その状況を当たり前のように捉えていた。しかし、いかに聡明な少年といえど、相手はまだ十代の子どもである。誰かと競い合って興じたいと、そうした望みを抱かぬ筈もない。

チェスとパズルについては、彼の能力が突出しているがゆえに、その望みを叶えてやることは難しいとしても、トランプであれば、それも可能であろう。誰かとゲームに興じるという、普通の少年であれば当たり前のようにして経験してきたであろうことを、僭越ながら、これから私が彼に与えていくのだ。
あるいは、これは希望的観測に過ぎないが、もしかしたらルークは、自分ひとりだけがトランプ遊びで楽しむのは悪いと思って、彼なりにこちらを気遣ってくれているのかも知れない。そうだとすれば、これは驚くべき成長である。私は温かな思いが胸に満ちるのを感じた。
さて、それでは、どんなゲームをするとしようか──思案しかけた、そのときだった。

「──楽しそうですね。よろしければ、私たちも仲間に入れて貰えませんか」

隣から穏やかな声が掛かって、私は一旦、そちらへ向き直った。声の主は、通路を挟んだ向こうの席に座する、スーツ姿の青年であった。黒縁眼鏡の奥の瞳は温和そのもので、穏やかな物腰は、よく訓練された良家の運転手か、子女の家庭教師を彷彿とさせる。
その隣からは、大きなシルクハットをちょこんと被った少女が顔を覗かせ、小さく手を振る。年の頃は12、3といったところか。どうやら、向こうも二人連れであるらしい。

「ええ、もちろんです。先程、ご迷惑もお掛けしてしまったことですし」

「いえいえ、お気になさらず。彼にも悪気は無かったのですから」

そうでしょう、と問い掛けるように、青年はルークに向けて微笑んだ。まだ知らない人間との接触に不慣れなルークは、突然に会話の矛先を向けられて驚いたのか、さっと私の陰に隠れてしまう。

「……失敬。彼は少々、人見知りをするのです」

「ああ、それはこちらこそ、失礼を。お話ではなく、ゲームなら大丈夫でしょうか?」

気を悪くした様子もなく、眼鏡の青年はにこやかに応えた。まだ年若いだろうに、随分と人間の出来たことである。のほほんとした人の良い笑顔は、一見するとやや頼りなくも見えるが、その実、何事にも動じぬ器の大きさを醸し出す。
彼ならば、先のような事態が発生しても、冷静かつ穏やかな対処でもって、上手く立ち回れるのではないだろうかと私は思った。きっと普段から、家族か教え子か、手のかかる子どもの世話でもしているのだろう。何も根拠があるわけでもない、ただの推測である。

青年の提案を受けて、どうですか、と問うと、ルークは私の裾を小さく握ったまま、無言で頷いた。ルークとしても、彼なりに少しずつ、人々との交流に慣れていこうという気持ちは持っているのだ。はじめはゲームの力を借りながら、そうして次第に、コミュニケーションの仕方というものを覚えていけば良い。これは、その練習の第一段階だ。
こちらにしがみつく手に、安心させるようにそっと手を重ねてやりながら、私は隣の紳士へと向き直った。

「……良いそうです」

「それは良かった」

メンバーが4人揃ったところで、改めて、トランプの有効活用について議論を交わす。2人のときと比べて、頭数が増えた分、ブリッジ、ホイスト、ハーツやスペードといったゲームも選択肢に入ってくることになる。残念ながらトランプは一組しかないので、ピノクルはその中には含まれないが、だいぶ幅が広がることは確かである。

「ミゼルカは?」

割って入ったのは、青年の膝の上に乗り出した少女である。ストロベリーブロンドの巻き毛も愛らしい少女は、利発そうな瞳を輝かせて提案する。

「私、好きよ。神経衰弱(メランコリィ)と同じくらい、ね」

「それは……このような場で行なうには、少々、煩雑かも知れませんね」

さすがに、初対面の相手との18回ものディールを要するゲームの渦中に、いきなりルークを放りこむわけにはいかない。もっと気軽なゲームにしてはどうかと、私は丁重に進言した。えー、と少女は不服げであったが、それを宥めつつ、眼鏡の青年は一つ指を立てる。

「それでは、いっそババ抜きなんてどうでしょう」

「ええ、その辺りが良さそうですね」

無難な提案に、私も賛同の意を表した。あまり複雑な頭脳戦の様相を呈するゲームとなると、「選ばれし脳」を有するルークの特異性を晒す結果となりかねない。そうした事態は、出来れば避けたかった。ババ抜きであれば、その心配はまずあるまい。
そうと決まればと、私はルークのシャッフルしたカードを受け取り、4つの山に配分した。腕を伸ばして、各々に渡しつつ、今更ながら一つの懸念に思い至る。

「ああ──しかし、こう席が遠くては、やりにくいでしょうか」

前後の席ならばまだしも、4名は横並びの状態である。隣同士でのカードの遣り取りであれば、通路を挟んだ私と青年の間であっても十分に可能であるが、両端のルークと少女の遣り取りが、これでは少々面倒である。毎回、仲介役を通すというのも、あまりスマートな手続きではない。
私もあまりこのような場面でカードゲームに興じた経験がないだけに、その欠陥に気付くのが遅れてしまった。さて、どうしたものか──

「大丈夫よ。こうすれば」

私の呟きに答えたのは、シルクハットの少女である。どうするつもりかと見ていると、彼女は当たり前のような顔で躊躇いなく、隣の青年の膝の上に座った。良家の子女としては、ややはしたないその行為を、しかし、眼鏡の青年は咎めることはしなかった。ただ、困ったように苦笑するばかりである。

「ほら、あなたもこうすればいいのよ」

近くなった距離で、少女はこちらに身を乗り出すと、そう言ってルークを促した。どうしたものかと、ルークは迷うようにこちらの顔を見上げてくる。
いちいち意向を問うようなことではないだろうにと、私は内心で苦笑した。少し考えれば、簡単に分かることだ。膝の上に乗るなど、小さな少女がするから可愛らしいとして許されるのであって、16歳にもなる男子のすることではない──という意味ではない。もしかすると、世間一般的には、そちらの方が正しかったのかも知れないが、残念ながら、私の心は最初から決まっていた。
心細げにこちらを見上げる少年に、私は自然とこぼれる微笑でもって応えた。

「どうぞ。こんな椅子でよろしければ」

腕を取って導くと、ルークは気恥ずかしげにはにかみながら身を起こした。促されるままに、私の膝にそっと腰を下ろす。その細い腰に、私は軽く腕を回して支えた。伝い感じられる温もりと重さは、これまでどれほど近く寄り添っていたときよりも、私に少年の存在感をはっきりと教えた。

「それでは、始めましょうか」

眼鏡の青年が穏やかに告げる。巻き毛の少女は挑戦的な瞳を上げ、ルークは抑えきれない期待感を表情に滲ませる。その横顔に、私は密かに心を躍らせながら、新たなゲームの開始を宣言する青年へと小さく頷いた。




[ ──Let's play up! ]
















今まで一緒にいてくれて、ありがとう。  これからも、よろしくね。

2012.04.02

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