Souvenirs de Florence





ルネサンスの栄華を今に伝えるトスカーナの古都、数多の芸術作品を擁し、あらゆる旅人の憧憬を集める花の都フィレンツェ──ミラノからの列車の旅を終え、その中央駅に降り立った白金の髪の少年とその保護者の青年が、まず向かった先が薬局であったといえば、おそらく大抵の人々からは、心配か叱責かのどちらかを受けることになるだろう。「不慣れな旅の途上で体調を崩したのか?」あるいは単純に、「まだ大聖堂も何も観ないうちから、無粋である」との声が聞こえてきそうである。

その進路を取ったのは、旅の主役たる少年──ルーク・盤城・クロスフィールド自身ではなく、その忠実な側近であった。
もちろん、初めてこの地を訪れたならば、まず向かうべきはミケランジェロの丘であり、見事な黄金比の肉体を誇るダヴィデ像のレプリカを背に、この小さくも麗しい都を一望するのが定石であることくらいは、ビショップとて承知している。澄んだ青空の下、緑萌ゆるトスカーナの豊饒の丘陵を遠景に、赤褐色の瓦屋根が寄り集まって街を形作るさまは、いくら映像資料で事前知識を得ていようとも、実際に目の前にして溜息が出るばかりである。
ことに、街の中心に堂々と聳えるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の巨大な円蓋(クーポラ)──街中に這入り、近づいてしまえば、あまりの大きさのために全容を拝むことは叶わない、その優美な姿は是非とも目に焼き付けておきたいものだ。

そこまで承知しておきながら、何故あえて薬局であるのか。幾度かこの街を訪れた経験のあるビショップはともかく、連れの少年にとっては初めて足を踏み入れる地なのだ、普通であれば、第一印象の演出には力を入れたくもなるところである。なにしろ、初心者の観光案内をしてやって、すごいだのきれいだのといった感嘆の言葉を引き出すことが出来たとき、案内役はどこか誇らしい気分を抱くものだ。別段に、その観光名所が美しいのは、自分の手柄でも何でもないのだが。
その意味で、鳶色の髪の青年は、自分が知った顔をして得意になりたいがために、年若い主人を街案内する気は微塵もなかった。さあ観ろ、さあ美しいと言え、そんな風にして、何も知らないルークの無垢な心に、ありふれた凡庸な視点を強要したいとは思わなかった。とはいえ、後々大聖堂は見学するつもりであるし、そこで彼が自ずから感嘆の言葉を口にするならば、それは何より望ましいことである。狭く限られ、支配された世界しか知らなかったルークが、心を動かす対象を見つけること。それが、この旅を通して、ビショップが叶えたいと考えている事項の一つなのだから。

ともあれ、まずは薬局である。一つ、先に断っておくとするならば、彼らは二人とも、特に体調を崩しているということはない。慣れない靴で足を痛めたわけでもない。当初こそ、長旅に不安要素はあったものの、どうやらそれは忠実なる側近の杞憂であり、生気に満ちた少年の健康面は万全である。ただし、ルークはまったく常識というものを知らないから、驚くべきことを平気でやらかしてくれる──神経衰弱といって、航空機内の床一面にトランプをばら撒こうとした記憶も新しい──という面での不安要素は、ビショップの中からまだ消えてはいないのだが。
だから、青年が駅を出て、隣接する薬局へと主人を導いたのは、薬を求めてのことではない。ある意味で、そこが彼にとって、この街の第一印象を良い意味で決定づけることを狙っての演出であったといって間違いではないだろう。

「…………あ」

重厚な扉をくぐり、店内に足を踏み入れるなり、白金の髪の少年は、小さく声をもらした。その反応だけで、ビショップは己の選択が誤りではなかったことを悟り、自然と笑みがこぼれる。
薄闇に、趣深い間接照明。
優美なアーチと神聖なるフレスコ画に飾られた、解放感ある高い天井。
ネオゴシック様式のカウンター。
ショーケース代わりに設えられた、重厚なウォルナットの棚。
そして、空間を優しく包み込む、みずみずしく清廉な花々の香り。
──そこは、静謐な空気を湛えた教会そのものであった。



サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局──清貧と学究を掲げ、「神の犬」(ドミニ・カニス)とも呼ばれたドミニコ修道会の活動を原点とし、現在まで続く世界最古の薬局である。カテリーナ・ディ・メディチのために製作された「王妃の水(アックア・デッラ・レジーナ)」をはじめとするオーデコロン、石鹸、各種ボディケア・ヘアケア製品──トスカーナ大公より王家御用達製錬所の称号を授かった、その圧倒的な伝統と格式を忠実に守り続ける高品質な製品づくりは、今日、ヨーロッパのみならず世界中から愛好されている。

「……この匂い」

かつての修道院内の教会を改装した販売ホールに佇み、ルークは呟くと、傍らに立つ青年を見上げた。不思議そうにこちらを見つめる淡青色の瞳に応えて、ビショップは軽く頷いてみせる。

「ええ。ご入浴の際にお使いの石鹸──あれは、こちらから仕入れております」

そう、と感心したように応じて、ルークは物珍しげに辺りを見回した。ビショップの言葉通り、少年の入浴の際に用いる石鹸は、サンタ・マリア・ノヴェッラのミルクソープが定番であった。伝統的なレシピに基づくソープは、バラやスミレをはじめとする8種類の香りのラインナップがあり、青年は気分でそれらを使い分けていた。
あの頃の──POGジャパン総責任者の座に就いていた頃のルークの、パズル以外に関心を示す数少ない対象が入浴行為であって、忠実なる側近は、その時間を出来るだけ心地良いものにすべく心を砕いたものである。白い少年は石鹸の好みについて何らコメントを紡がなかったし、どうでも良いと思っているようであったが、ビショップは自分の知る限りの良いもの、優しいもの、美しいもので、彼を囲んでやりたかった。清廉な花の香りと、丁寧に立てた泡で、その身体を包んでやりたかった。そうすることで、せめてルークのために、何かを尽くすことが出来るような気がしていた。

果たして、それがどれだけの意味のある行為であったのかは分からない。しかし、ルークはここに足を踏み入れてすぐに、よく知る香りに気付いた。幾種類もの製品の香りが入り混じる店内でも、それを察することが出来る、ルークの細やかな感覚を、ビショップは喜ばしく思った。そして、それをこちらに伝えようとする、拙くも純粋な仕草が、愛しかった。

「シチリア、オレンジフラワー、……カプリフォーリオ、フランジパーネ……」

クラシカルなラベルの瓶や箱詰めの商品が並ぶ棚を眺めるルークの様子は活き活きとして、やはりここへ連れて来て正解であったとビショップは実感した。匂いというものが、それにまつわる記憶や感情を強く呼び覚ます力を持つことは、いわゆるプルースト効果としてよく知られている。入浴という、最も無防備であり、深い安堵に包まれた時間が、ルークの中で石鹸の香りと紐づけられているのならば、その匂いと再会することによって、彼はこの場所、のみならずフィレンツェという街に対して、特別な親しみの情を抱くことが出来るだろう。
かつては牢獄めいた研究所に、その後は絶海の孤島の無機質な執務室に、ルークは外界から隔離して閉じ込められていた。まるで、世界から消し去られたかのように──忘れ去られたかのように。しかし、そうではないことをビショップは知っている。たとえば、石鹸一つを通して、ちゃんとルークは世界と繋がっていたのだと、知っている。

「買い物は?」

そのようなことに思いを馳せていたら、一通り辺りを見学してきたルークに、袖を引かれて問われた。

「……そうですね。折角ですから、少しお土産にしましょうか」

つい感傷的になっていた己に苦笑しつつ、ビショップは少年をいざなってカウンターへと向かった。



カウンター越しに注文を出すと、たとえ石鹸一つであっても、店員は奥の間から、恭しく商品を載せて運んで来るのだった。そうして、彼らが──主に、ビショップがと言った方が精確だが──購入したのは、慣れ親しんだミルクソープ、アーモンドソープ、ザクロソープ、それからオーデコロン、ハーブウォーター、ローズウォーター、リリーウォーター、ボディミルク、ハンドペースト、しまいにはアロマキャンドル、ハチミツと、いつしか「少しお土産に」どころではなくなっていた。あれこれと香りを試してオーデコロンを吟味するビショップの浪費は、適当なところでルークが空腹を訴えなければ、延々と続いていたことであろう。
荷物を抱えて外に出ると、空は薄曇りとなっていた。ジャケットを着てはいるものの、時折の風がやや肌寒い。

「失礼いたします」

傍らの少年の羽織った上着の釦を掛けてやろうと、当然のように手を伸ばしてから、ビショップは、それがあまりに過保護であるとして、今後は手を出さないようにしようと心に決めていたことを思い出した。思い出したが、そこで手を引くことはしなかった。今はまだ猶予期間だ、これが最後だと自分に言い訳を重ねつつ、白のジャケットの前を閉じていく。ルークもまた、当たり前のようにしてそれを受け容れた。
最後に、首もとにあしらわれたベルトを締めてやろうとして、しかし、青年は指を止めた。少年の白い頸部を、首輪のように巡る、それを嵌めてやることは、ビショップには出来なかった。意を問うようにこちらを見つめる淡青色の瞳には応えずに、そっと指を離す。

「……どうぞ」

代わりに、青年は己の首に巻いていたストールを外し、年若い主人の首もとを柔らかく包んだ。ルークは戸惑うように、己に巻かれたものを見つめていたが、しなやかな生地をそっと両手で握ると、何かを感じ取ろうとするように目を閉じる。

「……あたたかい」

それだけ呟いて、少年は軽くストールに頬を擦り寄せた。それは良かったです、とビショップは微笑み、ひとまず荷物を置きにホテルに向かうことと、その途上で昼食のパニーノを買うことを提案した。

「今夜は早速、新しい石鹸を試してみましょう」
「うん」




[ end. ]
















ストールの有効活用。#12ビショルク帰還の前祝いとしてφプチで配布した突発ペーパー小話です。

2012.06.25

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