シニカル-シアトリカル






招かれざる客人。それが、扉を開けた瞬間に男の頭を満たした第一の印象であった。

誰が叩くこともない筈の扉がノックされた時点で、今宵は珍しいことがあるものだとは思っていた。業務時間外に、いったい何用か。緊急の伝達事項というのならば、回線を使って遣り取りをすれば済む話である。横目で見遣った時計は、間もなく日付が変わろうかという時刻を指している。かような夜更けに、人のプライベートを邪魔しようという礼儀知らずは、いったいどんな顔をしているものか。
つまらぬ用事であった場合、どのような侮蔑の言葉を投げつけてやるのが最も効果的であるか、候補を脳裏にリストアップしつつ、男は半ば苛立ち交じりにデスクから立ち上がった。扉を開けつつ、何の用だと、可能な限りの不愉快を滲ませて高圧的に問うべく息を吸い──そのまま、止まった。

扉を開けた先に佇む者の姿を認めたとき、部屋の主人──POG極東本部長ヘルベルト・ミューラーの胸に抱いていた筈の苛立ちだの、来訪者に対する攻撃的な意図だのは、どこかへ消え去ってしまった。代わりに、ヘルベルトは怜悧に整った面に不可解げな色を浮かべた。あるいは──おそらく本人は頑なに認めようとはしないだろうが──虚を突かれた当惑の表情といった方が、より精確であろうか。常ならば、何者に対しても傲岸不遜な態度を崩さず、他人を見下しきった冷笑を絶やさぬ極東本部長の、かような表情は、彼の配下の者たちにはまず見ることの出来ぬものであった。

「……まさか、本当に来るとはな。どういう風の吹きまわしかね」

一瞬の動揺を押し隠すように、紡いだ言葉の後半では、既に唇の端に皮肉げな笑みを刻んでいる。問い掛けて、ヘルベルトは相対する訪問者を見据えた。

「“階級が上の者の誘いを断ってはならない”──教えてくださったのは、あなただったように記憶していますが」

応える声は、落ち着き払った中にも、どこか気だるげな響きを滲ませていた。慇懃な言葉とは裏腹に、その態度は、上位者の居室を訪ねるにあたっての緊張感や愛想とはおよそ無縁である。

「──それに、今晩、部屋に来るよう仰ったのも」

落ちかかる鳶色の髪を軽く払うと、均整のとれた長身に一分の隙なく黒衣を纏った立ち姿も凛々しい訪問者──ビショップは翠瞳を上げた。



一方は、間接照明が灯る薄闇の室内に溶け込む漆黒の衣装。もう一方は、見事な長髪とのコントラストも映える白の衣装。ローテーブルを挟んで向かい合う両者の間に、友好的な空気は存在しない。
沈黙を守るのは、互いに相手の出方を窺っているのだろうか。その意味では、部屋の主である男の方が、やや優勢であるといえた。リラックスした態度で深く腰掛け脚を組み、軽く頬杖をついて、視線を向ける先は、正面の相手である。探るというよりは、愛でるといった方が適切な視線──それも無理はない。
深い知性を感じさせる翡翠の瞳を慎ましく伏せ、優美なアンティークの椅子に腰掛けた若者の姿は、完璧に計算し尽くされたライティングを受ける舞台上の俳優か、あるいは、ガラスケースの中に収められた美術宝飾品を思わせた。
間接照明の作り出す陰影は、若者の上に落ちかかり、その白皙の美貌をいっそうに引き立たせるのだった。何気なく鳶色の髪をかき上げ、耳朶に触れる、その仕草のひとつひとつを、ヘルベルトは舐めるような眼でもって観察した。若者の耳元を飾る小さな石は、瞳と同じ色合いでもって、てろりと濡れ光るように見えた。照明の僅かな光を受けて、それは、静かな輝きを揺らめかせるのだった。
永久に続くかと思われた沈黙を破ったのは、やはり部屋の主人の方であった。ふと息を吐いて、ヘルベルトは小さく哂う。

「こうしていると、昔を思い出すな。あの頃、君は毎晩のように私の部屋を訪ね、紅茶を淹れてくれたものだ」
「……お淹れしましょうか」

職務に忠実な青年が機械的に腰を上げかけるのを、ヘルベルトは片手で制した。

「構わんよ。そんな嫌そうな顔で淹れられた茶など、飲めたものではないからな」

客人が訪れる前からそこにあった、おそらくはもうすっかり冷めているであろう飲みさしの紅茶を呷るヘルベルトを、黒衣の青年は黙って見つめた。過剰な装飾を施したティーカップは、それなりに値が張るものであろうことは明らかであったが、およそ品格というものが感じられなかった。
変わらない、とビショップは思った。この男は、昔からそうだった。両者の間のローテーブル、その上に据えられたチェス盤を眺めて、密かに溜息を吐く。ゲームの幕は開いたばかりだ。次は、自分の手番であった。
硬質な輝きを纏うチェスセットは、真鍮製の逸品である。優美に細工された眩いばかりの金と銀の駒が、艶消しの黒と金に塗り分けられた盤上に林立する。オーソドックスな競技用のそれより一回り小さくまとまったその華奢な様子は、視認性や操作性といった実用面は二の次に、ただただ鑑賞用の美を追求した結果であるように思われた。
年季の入ったツゲ素材のチェスセットに慣れ親しんできた若者にとって、先達の部屋でこれを初めて目にし、そして、ちょうど今と同じように対局したときには、違和感が隠せなかった。しかし、当時はそれさえも、組織の上位者に対する憧憬に都合よく変換されてしまっていた。けばけばしい金のチェスピースは、男の長く冷酷な指によく似合って見えた。

今となっては、ヘルベルトが日常的にチェスを嗜むような人間ではないことを、ビショップも承知している。メタル製のチェスセットは、この室内において、純然たるインテリア以外の何物でもなかった。部屋の主人は、眠る前にそれでチェス・プロブレムを思案することもなければ、訪れた客人と一戦を交えて親睦を深めることもない。彼は、かつても、そして現在も、僧正の駒の名を冠した若者を相手取るときだけ、この装飾的なチェスセットを持ち出すのだった。
そして、相手が目を伏せて思案し、静かに駒を動かす様子を、向かいの席で満足げに眺め遣る。同等の立場における対戦というよりも、それは、一方的な鑑賞といった方が正しい。実際、何につけてもプライドが高く負けず嫌いなヘルベルトが、ことお気に入りの若者とのチェスに関しては、勝敗にこだわりを見せないのだった。
盤を挟んで向き合うとき、自分もまた、彼にとっては金銀のチェスピースと同じように、部屋に据えて愛でる対象となっているのだと、ビショップは思った。

若者は優雅な所作でもってポーンを摘まみ上げ、敵陣へ前進させる。特別な意図を感じさせぬ、無難な手であった。教科書通りの作法でもって、音もなく据えた駒から、指を離す。沈黙のうちに、相手に手番が交代し──かつん、と金属的な高い音が鳴ったのは、そのときだった。手番を終えて、引き戻しかけた黒衣の袖口が、敵方のナイトを引っ掛けたのだ。装飾性を優先した細いチェスピースは、重みと安定感に欠け、少し掠めただけで簡単に倒れて盤上を転がってしまう。

「──失礼」

小さく呟いて、ビショップは倒した駒を元通りに置き直した。全ての挙動が芝居がかって完璧に統制されているこの若者にしては、珍しい失態である。迂闊なことをしたと、当人も自覚しているのだろう、ぶつかってしまった周囲の駒を手早く直しつつも、微妙に苦い顔をしている。その物憂げな表情を、ヘルベルトはまじまじと眺め遣った。

「酔ってでもいるのか? 珍しい」
「ええ。どなたかのおかげで」

その言葉に含まれた棘を感じ取ってか、ヘルベルトは面白がるように目を細めた。歩兵を一歩前へ進めつつ、世間話のような軽い調子でもって問う。

「そろそろ、本題に入ろうではないか。目的は何だ? ご主人様の人事異動に異議申し立てかね。見上げた忠誠心だな」

POGジャパン総責任者ルーク・盤城・クロスフィールドの更迭──日中、それを直截、彼らに言い渡してきたところである。あの白い子どもは、眉ひとつ動かさずに、黙ってそれを受け容れた。しかし、その隣に控えていた側近は、何か言いたいことを胸の内に溜めこんでいたのだろう。主人が納得している手前、個人的見解を表明するような差し出がましい真似は許されぬ。そこで、いてもたってもいられず、単独行動に出たというわけだ。
からかい半分に誘いをかけていたとはいえ、こうして部屋を訪れてくるということは、その辺りに理由がある筈だとヘルベルトは踏んでいた。だから、ビショップから次の答えが返ってきたのは、内心で意外な感があった。

「……それは、関係がありません」
「ほう。それは残念だ。てっきり、その身を捧げて助命嘆願でもしてくれるのかと思ったのだが。交渉事は得意だろう? 特に、寝台の中では」
「あなたと一緒にしないでください」

上司の意味深な言葉に対して、驚くほどにそっけなく言い放ち、ビショップは騎士の駒を進めた。分かりやすい反応に、ヘルベルトは嘆かわしげに肩を竦めて応じる。

「やれやれ、嫌われたものだ。昔はあんなに素直だったというのに……覚えているかね、初めての夜に、君は何と言ったか。しおらしく目を伏せ、ほのかに頬を染めて──ああ、あれは本当に、傑作だった」
「……あなたこそ。随分と熱心に個人指導してくださったではありませんか」
「無垢で愚かな若者が、悪い大人に弄ばれる前に教育してやったのだ。感謝されても良いくらいだと思うがね」

男の指がクイーンの駒を取り上げるのを見て、ビショップは僅かに瞠目した。この場面において、それは思いもよらぬ大胆な手であった。無謀としか思えぬ手でもって、女王は僧正を捕獲した。ビショップの駒が、盤上から取り払われ、代わりに華々しい王冠のクイーンが据えられる。
取り上げたチェスピースを、ヘルベルトは意味ありげに手中に弄んだ。品位に欠ける所作に、若者は微かに眉を顰める。無言の非難を意にも介さず、男は駒に指を絡めて問うた。

「なにかと、役に立ったのではないかね。私の教えは」
「……さあ。どうだったか」

気のない返事をして、ビショップはその先への追及を避けるように視線を外す。そんな青年の態度さえも愉しむように、ヘルベルトはそれ以上言葉を継ぐことはなしに、手中の駒を盤の脇に置いた。

「さては、新たな教えを乞いに来たか。新入りの下っ端と違って、日本支部中央戦略室付きともなれば、また高等な技術も必要となるだろうからな」
「それは違います」

今度は即座に否定が返ってきた。常に落ち着き払って本心を読ませぬ冷静な態度を通すかと思いきや、存外に熱くなりやすい、この青年の性質をヘルベルトはよく承知していたから、変わらないな、と苦笑する。

「では何故、ここへ来た? 正直になりたまえ」
「暇だったからです。業務が一段落したので、少し、頭を使わないことをしたいと」

仮にも、頭脳戦の代表格であるチェスをプレイしながら言う台詞ではない。お前との戦いでは、頭を使う必要もないという宣言と、それは同じことである。駒を移動させながら、涼しい顔で紡ぎ出されるビショップの挑発的な台詞に、しかし、男は気を悪くした様子を見せることはなかった。腹を立てるどころか、むしろ、皮肉げに唇を歪めてみせる。

「なるほど。確かに、ご主人様の前では一時も気が抜けまい。君のことだから、それはそれは立派な大人を演じているのだろう。身の丈に合わぬ役柄を、ご苦労なことだ」

不意に、ヘルベルトは席を立つと、向かいへとテーブルの脇を回り込んだ。ビショップは不審げな態度を隠しもせずに、視線だけでその動きを追う。沈黙の中にも、それが対局中に断りなく離席するという無礼な行為に対する非難の意図を含んでいることは明らかであった。構わずに、ヘルベルトは歩を進め、青年の椅子の後ろに回った。ビショップは振り返るでもなく、己の背後に立つ男に淡々と問う。

「なんですか」
「指し手の検討に決まっているだろう。視点を変えれば、戦況がよく視えてくるものだ……ふむ、これはいかんな」

言って、男は自然な所作でもってビショップの肩に手を置いた。青年の肩が、微かに強張る。宥めるように、ヘルベルトの手は黒衣の肩をなぞり、そのままゆっくりと首筋を撫で上げた。淫猥な意図を宿した指先が、ビショップの形の良い顎を捉え、掬い上げる。至近距離で翠瞳を覗き込んでやると、若者はいよいよ迷惑そうに眉を顰めた。

「……対局中ですよ」
「構わんだろう。頭を使わないことをしたいのではなかったのかね」
「…………」

何事かを反駁しかけた唇は、結局、言葉を紡ぐことはなかった。聞きわけのない子どもをたしなめるように、そこに押し当てられた唇によって、ビショップの声は奪われた。

「っ……、ふ…」

隙を逃さずに這入り込んだ男の舌が、若者の口腔をこじ開け、蹂躙する。為す術もなく、ビショップはそれを受け容れるほかなかった。微かにこぼれる苦しげな吐息は、行為を咎めるどころか、助長する役にしか立たない。無理に上向かされた姿勢に抗議するように、若者が身を捩りかけるのを、ヘルベルトは慌てずに覆いかぶさるようにして封じた。ぎし、と椅子の脚が鳴る。

「…っん、ぅ……」

濡れた柔肉が擦れ合い、どちらのものともつかぬ熱い吐息が肌を撫でる。そろそろと持ち上がったビショップの腕が、縋るように己の首に回るのを感じて、ヘルベルトは小さく哂った。縮こまっていた舌が、躊躇いがちに男を求め始めていた。絡めてやれば、最早抵抗の気配はない。互いを貪るように、押し当てては離れ、生温い体液をかき混ぜた。

「……、っは…」

執拗に絡ませていた舌を不意に解放してやると、ビショップは唇をわななかせ、乱れた息を継いだ。上品に目を伏せ、濡れた唇を片手で拭う。まるで何事もなかったかのような優雅な所作は、日頃の訓練の賜物であろうか。しかし、唇に寄せたその長い指先が、微かに震えるのを、ヘルベルトは見逃さなかった。伏せた目元に、隠しきれぬ情欲の色が浮かんでいることも。

「そう急かすな、夜は長い」

耳元に囁きかけて揶揄すると、気丈にもこちらを睨めつけてくる。少し潤みを帯びた瞳は、澄んだ色といい、てろりとした艶といい、最高級の翡翠を思わせて美しい。触れればきっと、冷たくなめらかであろうと想像しつつ、ヘルベルトは若者の白い頬を撫でた。

「気乗りがしない、わけではないのだろう」

言って、顔を上向けさせる。薄く開いた唇が、微かに震えるのが分かった。

「──そんな目をしておいて」

返事がないのを、肯定の意図受け取ると、ヘルベルトは無造作に若者の腕をとって立たせた。

「……ひとりで歩けます」
「勘違いするな。勝手に動き回られるのは好かんのだ。若造は黙って、言う通りにしていれば良い」

高圧的な物言いに、ビショップは一瞬、反発しかけたが、結局、堪えて俯いた。従順な態度を受け、それでいい、と男は哂う。改めて、肘の辺りを掴み直すと、ヘルベルトは若者をいざなって、奥の部屋へと通じる扉へ足を向けた。物憂げに翠瞳を伏せて彼に続くビショップの足取りは、どこか重く苦渋に満ちていたが、立ち止まることも、腕を振り払うこともなかった。



寝室に這入ったところで手を離してやると、パーソナル・スペースを確保しようとでもいうのだろう、若者は静かに一歩下がった。掴まれていた腕の辺りにさりげなく片手を添え、気だるげに顔を背ける。

「……服は、自分で? それとも、あなたが脱がせてくださるのですか」
「いちいち可愛げのないことを言わずにはいられないのかね。いつからそんなひねくれ者になってしまったのだか……緊張でもしているのか?」

なだめようというつもりか、馴れ馴れしく肩に手を置こうとする男を避けるように、ビショップは頑なに背を向けた。

「べつに──」

続けようとした声が途切れたのは、耳元を温い吐息が掠めたからだった。反射的にぴくりと背を跳ねる青年の反応を、ヘルベルトは愉快げに目を細めて堪能する。耳の付け根をくすぐるように舐め上げてやると、堪らずビショップは片手を上げて口元を覆った。そのまま膝を折ってしまいかけるのを、腰に回された男の腕が抱き寄せて支える。

「──思い出してきたかね」
「…………っ」

答えを返せる筈もないと知りながら、ヘルベルトは問うた。頑なに声を殺すビショップを煽るように、小さく音を立てて耳元に口づけを落としていく。その間にも、一分の隙なく纏われた漆黒のコートを、慣れた手つきで開き、肩から落とさせる。続いて、ダークグレーのハイネックの裾から片手を潜り込ませたところで、ヘルベルトは一旦、作業を止めた。ビショップの手が、今まさに彼を暴こうとする手首を掴んで止めたからだ。振り払おうと思えば出来なくもない、それは抵抗というにはあまりに控えめな仕草であった。

「なんだ、自分で脱ぎたいか」
「……ええ」

掠れた声で青年は応える。ならば好きにしろと、ヘルベルトはあっさりと身を引いた。寝台に悠然と腰掛けると、腕組をして鑑賞の態勢に入る。向けられる男の視線に、およそ動じることなく、ビショップは中途半端に乱された己の衣服に指を掛けた。淡々と、何ら情緒を感じさせぬ事務的な動作でもって、インナーを脱ぎ捨てる。
禁欲的な美とは、こういったものを指していうのだろう──その上半身は、よく鍛えられて引き締まり、およそ無駄というものがない。日々欠かさぬ身体トレーニングの成果であろう、見事な調和を誇る筋肉と骨格の作り出す陰影は、名匠の手になる大理石の彫像を思わせる。惜しげもなく晒された若々しい肉体を前に、ヘルベルトは酷薄な笑みを浮かべた。

「次は、こちらも頼むぞ」

腰掛けた寝台の上から、ヘルベルトは青年に命じた。ブーツを脱いで裸足となったところで、ビショップは、ゆっくりと寝台に歩み寄る。躊躇いなく男の膝の上に乗り上げ、従順な使用人めいた態度で、黙々と衣装を開いていく。そこに、もどかしさや熱っぽさは欠片も存在しない。ただ命じられるままに動いているだけといった様子を、ヘルベルトは高慢に眺め遣った。

「まるで色気がないな。もう少しロマンチックに出来ないものかね」
「私にそのようなものを求められても困ります」

平坦に返す言葉は冷たく、およそ情緒を感じさせない。何も感じていないかのようなビショップのポーカーフェイスを前に、ヘルベルトは苦笑せざるを得なかった。とはいえ、若者の長く整った指は、止まることなく順調に、ヘルベルトの衣装を落としていくのだった。まあ、これはこれで気分が良い、と男は唇を歪めた。

ビショップに奉仕させつつ、その頬に落ちかかる鳶色の髪を、ヘルベルトは手遊びに絡め取って梳いた。気安く髪に触れられることを、この若者がことのほか嫌っていると、知った上での行為である。

「やはり、今日の件に納得がいかないのだろう。そういう顔をしている」

この場面で話題を蒸し返すのは、いささか無粋であったかも知れない。気を悪くしたわけでもなかろうが、青年は煩わしげに、髪を愛撫するヘルベルトの手を振り払った。

「ルーク様の決められたことです。私ごときに異論など、」
「君自身はどうなのかね」

黙々と作業を続けるビショップの指先が、微妙に揺らいだ。

「私は……すべてに、納得しています」
「『ルーク様』がそう仰るから──か。涙ぐましい献身だな」

男は、芝居がかった所作で詠嘆してみせた。

「そうして何もかもの判断基準を他者に求める。付き従い、手足となって忠誠を果たすことこそが、己の使命であるとみなす。一心に天を仰ぐ、無垢な仔羊のように」
「……いけませんか」
「それは私の知ったことではないな。ただ、哀れでならんのだよ。いつか、あの子どもに捨てられて、何も残らない、君の姿が目に見えるようでね」

とうとうと紡ぎ出されるヘルベルトの台詞が途切れたところで、それ以上を拒むように、ビショップは男の口を塞いだ。ひどく投げやりで、痛々しいほどに積極的な口づけであった。そこには、何もかもを計算し尽くしたような、普段の優雅な振る舞いの面影は僅かにもない。ただただ、勢い任せの行為だった。それはヘルベルトも望むところだったので、応じて舌を絡めてやる。抱き合いながら、二人して柔らかな寝台に倒れ込んだ。

「さて、聖職者殿は、焦らされるのがお好みだったかな」

組み敷いた肢体を、ヘルベルトは念入りに愛でつつ、わざとらしく問うた。

「……それは、あなたのご趣味でしょう」
「口の減らん男だ」

がり、と浮き上がった腰骨に噛みついてやると、青年は小さく声を上げて仰け反った。

「そう、痛い思いをするのも好きだったな。……心配するな、痕は残さんよ」

囁いて、男は慈しむように、そこを柔らかく吸い上げた。
知り尽くした手順でもって施される、男の巧妙な指遣いと舌先での愛撫は、肌に刻まれた記憶を容易に呼び起こす。冷たくしなやかな黒髪が落ちかかって、皮膚を掠めていく度、浅ましくも立ち上る内奥の熱を、抑制する術は無い。
頑なに押し殺した苦鳴はいつしか、もどかしげな切ない吐息に溶け入っていくのだった。



呼吸の度に、汗ばんだ鎖骨の上下する様子は実に艶めかしい。軽く顔を背け、口元を覆う指先、頬に落ちかかる鳶色の髪の一筋までもが、あたかも計算し尽くされた構図でもって、見る者の内に、美なるものへの感嘆を呼び起こす。情欲と、それを抑えんとする理性の、入り混じり絡み合う絶妙な調和──それは、つくりものめいて完璧であるがゆえに、いっそ空々しい。誰もが胸を高鳴らせ、熱い溜息をこぼさずにはいられないであろう、若者のしなやかな肉体の上で、ヘルベルトはあえて小馬鹿にするように鼻で笑った。

「芝居じみているのは相変わらずだな。今更、お上品ぶることもあるまいに──いったい、誰の眼を意識しているのだか」
「…………」

視線だけを動かして、ビショップの翠瞳が男を捉える。その瞳に、常日頃の磨き抜かれた鋭さはなく、熱に浮かされたように潤んでいる。絡んだ視線を、ふいと外して、青年は深く息を吐いた。

「……誰でも。こんなこと、一人遊びと、同じ……」
「嘘だな。観られたいのだろう──あの子どもに」

若者の返答を遮って、ヘルベルトは挑発的に述べた。子ども、という単語が出た瞬間に、反射的に背筋が強張るのを、ビショップは隠すことが出来なかった。その反応を面白がるように喉を鳴らして、男は何でもないことといった軽い調子で続ける。

「押し倒してしまえば良いではないか。少なくとも、思いを遂げることは出来るだろう」
「やめて、ください……あの方を侮辱するのは、」
「『あの方』ではない。君の話をしているのだ」

たしなめるように言って、ヘルベルトは青年の汗ばむ首筋に噛みついた。声も無く仰け反るビショップの耳元に、吐息交じりの優しげな囁きを注ぎ込む。

「あの無感動な瞳の前に、さらけ出したいのだろう? 隠すことなく、己のすべてを。観られる対象である自分を意識して、欲望している。あまり良い趣味とはいえんな。もっとも──美なる者には、ありがちなことだが。傲慢にしろ自己愛にしろ、美しさの前には、いかなる罪業も赦される。否、美しさこそ、最大の罪業であり、それと引き比べれば、すべては些事に過ぎぬというべきか。それは君自身が、一番よく理解しているのではないかね」

何事かを反駁しようというのだろう。は、と苦しげに息を継いで、ビショップは掠れた声を紡ぐ。

「あ──あなたが、」
「『あなたが』『あなたが』──さて、今宵だけで何度目になるかな」

いかにも嘆かわしげな仕草でもって、ヘルベルトは肩をすくめてみせた。何が言いたいのか分からないというように眉を寄せる若者の頤に指を掛け、翠瞳を覗き込んで告げる。

「そろそろ、私を言い訳に使うのはよすのだな。己の行動には己で責任を負いたまえ。大人なのだろう」

茫と熱に浮かされていた瞳が、男の言葉を受けて、僅かに瞠られる。言葉を紡ぎかけた唇からこぼれる吐息は、ひどく頼りない。

「……私、は」

指摘されて初めて、己の無意識の言動に気付かされたのだろう。声を詰まらせる若者に、ヘルベルトはふっと微笑してみせた。

「まあ良い。今夜はそういうことにしておいてやろう」

言って、何事もなかったかのように行為を続ける。返す言葉を持たずに、ビショップは天井を見つめていたが、やがて施されるものに堪えきれずに、瞼を閉ざした。小さく震える睫の間から、一筋の滴が伝い落ちた。



物音一つしない、深夜特有の静まり返った空気は、肺に少し冷たかった。そっと吸って、吐き出す。重い瞼を開いて、青年は薄暗い天井を見るともなしに眺めた。

「…………」

頸部にわだかまる気だるい余韻を、ビショップは緩く首を振って払い落とした。軽く身じろいで、隣に横たわる男の様子を窺う。耳を澄ませると、微かな呼吸音が聞こえた。注意深くそれを聞き取って、相手に目覚める気配がないことを確認してから、ビショップは枕元に手をついた。ここで夜を明かすつもりは、少なくとも自分の側としては、毛頭なかった。纏わりつく男の長い黒髪を引っ掛けぬよう、慎重に払いのけると、鈍く軋む身体を叱咤して、姿勢を起こす。
微かな布擦れの音を伴って、ビショップはそっと寝台を抜け出した。拾い上げた衣服を淡々と身につけていく。肌が覆い隠されていくにつれ、思考が冴えていくのが分かった。定められた己の在りようを、取り戻していく。最後に、漆黒のコートを纏う頃には、それが無遠慮に暴かれたことなど、既に遠い昔のことのように感じられた。部屋の片隅に据えられた全身鏡に向かって、乱れた髪を整える。頭から爪先まで、この部屋を訪れる前の自分と、何一つ変わらぬ姿を鏡の中に確認して、ビショップは小さく頷いた。

背後を見遣れば、寝台の中の男は目覚める様子もなく、すっかり眠り込んでいるようだった。ビショップは一つ溜息を吐くと、足音を潜めて寝台に近づいた。おもむろに身をかがめ、慣れた所作でもって、掛け布を整えてやる。そのまま、すぐに離れることはせずに、ビショップは部屋の主を見下ろした。
無防備にさらされた寝顔は、極東本部長まで登りつめた男の自信のほどを証しているかのようだ。彼は、これを始まりと見做しているに違いなかった。華麗なる己の舞台の幕開けを、信じて疑わずにいる。その先に、望むままの結末のあることを。
だが、そうではない──そうではないのだ。男を見つめる若者の翠瞳が、哀れむように細まる。
既に、ずっと昔から、精緻に組み上げられた脚本は動き始めている。それを、ビショップは知っていた。一介の凡人ふぜいには、書き換えることも、感知することすらかなわない。あたかも運命を司る神のごとく、意のままに未来を記述する、黄金比の脳の所有者──その手の内にある、自分も、彼も、役割通りに踊らされる駒であるに過ぎない。盤上を降ろされるときまで、きっと、気付くことはないのだろう。
始まりなどではない。彼にとって、これは、終わりなのだ。
手遊びに男の黒髪を梳いて、ビショップは自嘲的な笑みを浮かべた。

最後に、眠るヘルベルトの耳元に、若者は触れるばかりに唇を寄せた。

「……あなたは、良い教師でしたよ」

それだけ囁くと、ビショップは長身を起こし、寝台に背を向けた。何ら未練を感じさせぬ、優雅な振る舞いであった。それきり、振り返ることなく、黒衣の裾を翻して、先達の部屋を後にする。

二度と訪れることのない部屋の扉が、背後で閉じて、静寂が戻った。




[ end. ]
















ビショップさんはPOG入りたての頃、なにげにヘルベルトさんのハッタリ大物オーラに騙されて本気で憧れの先輩みたいに思って慕っていた(3日間くらい)って忘れ去りたい忌まわしい過去があったとするとあのおそろしく反抗的な眼差しもむべなるかなって ヘルビショは99.9%のツンと0.1%のデレでできている

2012.07.22

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