『彼女は聖母のようなひとだった』
……この日記には、続きがあってね。
最期のときまで、彼女はこれを書きつけ続けたんだ。ソリティアは、自分の死期が近いことを悟っていた。刻一刻と、己の心身が蝕まれつつあることを、よく知っていた。
腕輪の影響──もちろん、それもあった。優秀な研究者であった彼女は、自分の心身がどれだけもつか、冷静に計算し、把握していたことだろう。だが、それだけじゃない。
かかりつけの医師からの宣告。そうだね。それも重要なヒントだ。
もともと身体が強くなく、腕輪を嵌めてからは絶えずその負荷にさらされることになったソリティアは、クロスフィールド学院の庇護下に入ってからも、定期的な医師の診察を必要としていた。その医師の顔ぶれが、次第に入れ替わっていくことを、彼女は不審に思った。そして、小康状態を保っていた容体が加速的に悪化しはじめたタイミングが、それと重なっていることに、聡明な彼女ならば簡単に気付いた筈だ。
そう、医師たちは、オルペウス・オーダーの追手と入れ替わっていたんだよ。
……ここからは、推論になるけどね。
何故、クロンダイクは最初の被験者として彼女を選んだのか?
一般に、知能検査の結果と年齢を軸にして描いたグラフを追ってみると、発達が著しいのは、10歳前後の少年期だ。それ以降、次第に知能の伸びは緩やかになり、そして成人後は、横ばいか、あるいは下降していく。もちろん、知能検査で測れるものは、脳のはたらきの一部であるにすぎない。とはいえ、指針としては有効だ。
どうだろう、刺激を与えて伸ばしてやろうと試みるならば、子どもにリングを嵌めるのが、一番効果的であるように思えるよね。成人にリングをつけて、脳を活性化したところで、得られる結果はたかが知れている。
つまり、クロンダイクがデータを得ようとしていたのは、彼女自身の能力の向上についてなどではなかった。彼は、確かめたかったんだ。リングによって能力を引き上げられた人類は、はたして、その形質を子孫へと受け継ぐことが出来るのか、とね。
だって、そうだろう?
たとえリングを量産し、全人類にそれをつけてやったところで、一代限りであれば、また新たに生まれた子どものために、リングをつけてやらねばならない。これでは、人類が進化したとは言い難いよね。それをつける人間自体は、まったく前に進んでいないことになるのだから。
優れた形質を、後世に遺したい、受け継がせたいと思うのは、人間のサガだ。
誰しもの脳にリミッターが掛けられているいま、生まれながらにしてそれから解放された在りようこそが、人類のあるべき自由な姿である。それでこそ、人類を神々のくびきから解放することが出来る。それが、当時のオルペウス・オーダーの掲げる信念だった。
人類初の、レプリカリングをつけた女性。彼女は、聖母といっても良い存在だ。神の子を産むという大役を、天にまします主から仰せつかったのだから。
そう思えば、ソリティアという名前も、なかなか意味深じゃあないかい。相手を必要としない、一人遊びのゲーム、とはね。
リングをつけた後、ソリティアは身籠り、そして、フリーセルを産んだ。たいへんに祝福を受けたそうだよ。もっとも、よくぞ後々の実験材料を提供してくれた、という意味合いで、だけど。
いずれ我が子がいい実験体にされるということは、彼女も分かっていた。どれだけの能力を備えて生まれたものか、限界まで使い切られて、そして、捨てられる。そんな結末は、目に見えていた。
人類のために我が身を差し出し、被験者となったとき、彼女は我が子までも、オルペウス・オーダーの理想のために捧げる覚悟が出来ていた。ただ、それも、子どもが生まれてくるまでの間だけのことだった。その頃には、彼女も腕輪の危険性を身をもって知っていたし、組織の崇高なる目的とは異なる、クロンダイクの個人的野心にも気付き始めていた。
ひとりの母親としてのソリティアは、我が子をクロンダイクの野望のために捧げるつもりはなかった。だから、逃げた。オルペウス・オーダーの手の及ばぬ、対向組織──頭脳集団POGの流れを汲む、クロスフィールド学院の門を叩いたんだ。
これで、親子二人、ひっそりと穏やかに暮らしていける。
森の中にささやかな住まいを得て、ソリティアは心から安堵したことだろう。
組織の手を逃れさえすれば、何も心を煩わせるものはない。たとえ、リングの影響で感情が増幅されようとも、さしたる問題はないと思えた。
……しかし、ね。
そんな穏やかな暮らしの中で、彼女は、気付いてしまった。
我が子を世話し、慈しみ、触れ合う中で、ふと自分の胸の内に芽生える感情に。
愛情ではない、もっと違う、考えるのも恐ろしい衝動に。
……話は変わるけど、リングをつけた人間がなにかひどいことをしても、それはリングのせいだから仕方が無かったといって、赦して貰えることになるのかな。
感情が歪められていたのだから、仕方がないと。
本心じゃなかったのだから、仕方がないと。
本当はこんなことをしたくなかったのに、強いられていただけなのだから、仕方がないと。
そうなのかな。
それは、本当に、本心じゃ、なかったのかな。
元から存在しないものを、無からひねり出すのは、リングには無理じゃないかな。歪められた、増幅された、……どんな言い方をしても、それはやはり、元から心の中に材料があったんだよ。
当たり前のことだ。何も糾弾されるべきことじゃない。
ひとつの対象に、愛情も憎悪も抱いてしまうのは、当たり前のことだ。ある面は好きで、ある面は嫌い。いつもは好きだけど、今は嫌い。そんな例、日常生活でいくらでも経験があるだろう?
どちらか片方しかない、なんてことはない。その方が、むしろ異常だ。
母親が、子どもを愛しながら憎んだところで、それは非難されるべきことじゃないよ。表立って言うことでもないけれどね。
ここにきて、きれいごとを言っていても仕方ないさ。
ソリティアは、どうか我が子が、組織に目を付けられて利用されることのないようにと願っていた。飛び抜けた頭脳も、稀有な才能も、何も要らない。どうか凡庸な子であって欲しいと、望んでいた。自分と同じ運命を辿らせることだけは、したくなかった。
そして、その願いは叶った。フリーセルは、パズルに何も特異な才能を発揮しなかった。
ピグマリオン効果、というやつかな。子どもは、親や教師に期待された通りになっていく、というよね。彼は優秀な子だ、と思って大人が接すれば、実際、子どもは優秀になっていく。逆に、彼はどうしたって出来が悪い、と思って接すれば、子どもは落ちこぼれていく。
たとえ言葉に出さなくても、内に抱いている期待、レッテル、先入観、それはあらゆる行動に表れてくるものだからね。子どもにも、伝わってしまうさ。
凡庸な子どもであることを期待されたフリーセルは、無意識に、自分の能力を封じ込めてしまったのかも知れない。パズルを解くと、ママは悲しそうな顔をして、解けないでいると、安堵したように笑う。そんな状況で、いったい、子どもがどうなっていくか。もっとも、これも推測にすぎないんだけど。
さて、望んだとおりの凡庸な子どもを得て、ソリティアは心から安堵した。
ある意味で、恐怖でもあったのだろうね。腕輪によって強制的に能力を引き上げられた自分の子が、それこそ驚異的な頭脳を備えた怪物だったら、なんて考えるだけでも恐ろしいことだ。生まれながらにして、その腕に黄金のリングを嵌めた子ども、なんてね。
しかし──しかし、だよ。
それは、表向きの感情だけだ。母親として望ましいとされる態度、優しい愛情に満ちた、彼女の半分だけ。
もう半分は、きっと、……失望だったんだ。
我が子に対する、失望だ。
脱退したとはいえ、彼女も一度は、オルペウス・オーダーの掲げる理念に共鳴し、その身を捧げた人間だ。選ばれし人間である自分たちが、愚鈍な人類を導くという構図を、当たり前のこととして受け容れてきた人間だ。
まだ効果も分からない腕輪の最初の被験者となることは、もちろん不安も大きかっただろうが、彼女にとっては、人類から一歩先んじる栄誉の方が勝っていた。人類が次なるステージへと進む、その新たなる歴史の最初の一歩を刻むのだという使命感、全能感と恍惚。聖女としての自覚。それは、彼女も日記の中で、悔恨とともに認めていることだ。
そういう彼女が、たとえ組織を離反したところで、思想を完全に書き換えることが出来ただろうか。
己の分身ともいえる我が子に、期待を抱かずにいられるだろうか。
「神の子」としての能力を。
何度も否定しただろうね。
子どもの幸せを願うならば、自分と同じ道を歩ませてはいけないという自戒。
しかし、リングによって増幅された感情は、抑えきることが出来なかった。
フリーセルに向ける憎悪を、彼女自身、こう書きつけている。
──あなたは選ばれた子ども、特別な子ども、神の子ども。
なのに、どうして、こんなことも出来ないの。
どうして、不安そうに、こちらを見るの。
私の子どもが、こんな出来損ないのわけがない。
どうして、この子は、生まれてきたの──
悲しいね。とても悲しい。
凡庸な子であって欲しいと彼女は望み、子どももそれに応えていたのに、もう一面では、それを認められないといって憎む。
どちらも、同じ母親としての気持ちなのに。
苦しかっただろうね。ソリティアも、フリーセルも。
自分たちが、いったい、どうしたらいいのか分からない。
二人でいても、まるで、ひとりぼっちだ。どんどん悪くなるしかない。
そんなの、救いがないじゃないか。
悪いことは続く。
絶対に安心と思えたクロスフィールド学院の内部にまで、オルペウス・オーダーは這入り込みつつあった。
彼らにとって、最初の被験者であったソリティアは、まだデータを回収する価値があるとみなされていた。
より精確にいうならば、処分する必要があった、ということになるのかな。無慈悲なことだけどね。
どちらかといえば、組織が欲していたのは、子どものデータだ。もしもその子が、生まれながらにして特殊な能力を備えていたならば、大いに興味深い研究試料となるだろう。
親子が逃げたであろう先は、クロンダイクには大体の目星がついていた。なにしろ、神を目指した男だからね。他人の思考パターンを読むことくらい、朝飯前だろうさ。
ソリティアとしても、そこは覚悟していた筈だよ。永遠に逃げ続けることなど出来ない、ってね。
フリーセルをクロスフィールド学院に入学させたのは、英国の誇る名門校の生徒となれば、オルペウス・オーダーとしても手出しし難いだろうと考えてのことだった。その保護者である自分までは、きっと、守っては貰えないだろうが、我が子だけでも、学院の保護と監視の下に置いて貰えれば、という思いだったんだろう。
彼女の予想していた通り、組織は親子の周囲から、じわじわと侵食してきた。
医者の行為が、純粋なる治療行為ではないと、聡明な彼女は気付いたが、どうすることも出来なかった。彼女が助けを求められる範囲は、すべて組織の追手に押さえられていることが明らかだったからだ。
彼女は何も気付いていない振りをした。どうか、自分たち親子から興味を失って、放っておいてくれるようにと願った。
実際、彼女からは大したデータは取れなかったのだろう。組織は、彼女の処分を決めた。
ある、雨の日曜日のことだ。その日、彼女の息子は、学友と遊ぶ約束をして、一日留守にしている筈だった。医師と看護師を装ったオルペウス・オーダーの始末屋は、速やかに彼女を永遠の眠りに就かせた。
そう、そのときだ。
いつまで経っても現れない友達を待つのを諦めて、帰宅した息子が、寝室のドアを開けたのは。
フリーセルは、何も気付かなかった。まだ6歳の子どもだ。たったひとりの家族の死を目の当たりにして、何も考えることは出来なかっただろう。
オルペウス・オーダーは、遺された息子の動向を注意深く観察していた。そして、どうやらこれはデータを取る価値もない出来損ないらしい、と判断し、静かに退いていった。
その意味で、ソリティアの読みは当たっていたといえるだろう。願った通り、フリーセルは組織に狙われることなく済んだ。
それも、やがては覆されることになるとはいえ──やれやれ、まったく、運命の輪というのは強固なものだね。一度は回避しても、いずれまた、今度はより強靭になって、圧し掛かってくるのだから。まさしく、人類を束縛するくびきだよ。とはいえ、それを創り上げているのは、神々なんかではなくて、人間そのものなんだろうけどね。
結局のところ、ソリティアは、二つの母の顔に心を引き裂かれ、苦悩していた。
ひとつは、我が子に無償の愛を注ぎ、ひとりの人間としての穏やかな幸せを願う母の顔。
もうひとつは、たとえその身を犠牲に果てようとも、「神の子」としての使命を果たすことを望む母の顔。
さて、そうして望まれた彼女の子どもは、どちらになるんだろうね。
……本当に。聖母のようなひとだったんだと、僕は思ったよ。
それが、深い森の中、打ち捨てられた廃屋で、この日記を読んだときの感想さ。
[ おしまい。 ]
ママはフリたんの髪を梳きながら「あなたは神の子なのよ」って言ってたらいいなってところから夢が膨らむ過去話の自由度。
2012.09.12