正しいお風呂の入りかた
「ルーク様。ご入浴の準備が整っております……お支度を」
失礼いたします、と断って、忠実なる側近は主人の襟元に指を掛けた。少年の首に廻らされた大仰な革ベルトを、慣れた手つきで外してやる。器用に動く長い指先は、殆ど布擦れの音も立てずに、崇高なる指導者の純白の衣装を解いていった。
「本日の湯は、ラベンダーをベースにミルラ、カルダモンのブレンドを──」
上衣を肩から滑り落としてやろうとしたところで、ビショップはなめらかに紡いでいた説明の言葉を途切れさせた。淡青色の瞳が、どこか戸惑うような表情でもって、こちらを見上げていたからだ。ガラス玉のように澄みきっていながら、映す光は不思議と柔らかい。冷ややかに凍てついた硬度は、どこにも感じられなかった。今はただ、抜けるような青空を映す清廉なる水面に似て、穏やかな輝きを宿している。
その瞳を瞬かせると、ルークは僅かばかり、首を傾げた。おそらくは、それで「困っている」という気持ちを表明したつもりなのだろう。可憐な唇が、少し躊躇うようにした後、薄く開く。
「……あの、さ、」
何と言ったら良いだろうかと、それは己の内に言葉を探しながら紡ぐ、拙い声音だった。それを言ってしまって良いものかと、少年は暫し迷っていたようだが、口を開いてしまったものは仕方が無い。極めて言い難そうに、ルークは続きを口にした。
「僕、もう、ひとりで風呂……入れるよ」
ぱさり、と乾いた音がした。忠実なる側近の手を離れた純白の衣装が、少年のなめらかな肩を滑り、床へ落ちた音だった。佇むルークのしなやかな上腕に、かつて嵌められていた黄金の枷は、どこにも見当たらなかった。
「……失礼いたしました」
一瞬の間を置いて、ビショップは音もなく、その場に跪いた。それが、衣装を取り落としてしまった非礼を詫びているのか、それとも、先のルークの言葉に対する返答なのかは、本人以外の知るところではなかった。主人の衣装を拾い上げ、丁寧に畳んで腕に掛けると、忠実なる側近は長身を起こした。端正な面には、微苦笑が浮かんでいる。
「とんだご無礼を。……なかなか抜けないものですね、過去の習慣というものは」
一つ息を吐いて、ビショップは年若い主人を見つめた。POGジャパン総責任者、ルーク・盤城・クロスフィールド。その肩書も名前も、職務も、衣装も、執務室も、かつてと何ひとつ違わない。自分もまた、幹部としての漆黒の衣装を身に纏えば、あたかも何もかもが元の通りに戻ったかのような錯覚に囚われる。
すなわち、ルークがPOGトップとしての立場を捨て、絶海の孤島で命を賭したパズルを繰り広げたこと。
忌まわしき腕輪の呪縛から解放され、再び光を得たこと。
側近を連れて、世界を旅して回ったこと。
そんな日々など、夢幻だったのではないかと感じてしまうことがある。勿論、それは消えていくだけの儚い幻などではなく、実際の月日に刻まれた記憶である。ビショップとしても、頭ではそれを承知している。
ここにいるルークは、かつてのルークとは違う。彼を縛る腕輪は、もうどこにもない。彼の欲した永遠は、もう必要がない。ルークは変わった──否、元通りになった、というべきだろうか。凍てつき、静止していたものが、ようやく動き始めた──それが、ビショップには最も適切なたとえであるように感じられた。
日々の職務内容にしても、かつてルークの望みのままに、大門カイトを孤立させるために策略を練っていたあの頃とは、180度異なっている。だから、業務をこなしている限り、ビショップも現在と過去を混同するような過ちは犯さない。
それが、ふっと浮き上がってきてしまうのは、もっと些細な場面である。頭で考えている限りは、心配がない──逆にいえば、それが「考えるまでもない、当たり前」のルーチンワークとなると、途端に、己が信用ならなくなるのだ。
「既に、一続きの手順として、考えるまでもなく成立している行動パターン。身体で覚えている、という言い方が的確かな。日常生活場面におけるヒトの行動は、それら既得のパターンの活用の上に成り立っている。……脳は自分の働きを節約したがるから。ある行動を繰り返すほどに、考えなくても、それが出来るようになっていく……自動的に、なっていく」
側近の思考を読んだかのように、ルークは静かに言葉を紡いだ。仰る通りです、とビショップは頭を垂れる。
世界を知る旅は、ルークが自分自身を知る旅にほかならなかった。彼は、それまで側近に任せきりであった、着替えや入浴といった身の回りの仕事を、まず覚えることから始めた。何度も手を出して助けてやりたくなる気持ちを堪えて、ビショップは少年の拙い動作を見守ったものだ。その甲斐あってか、異国の地でひとり買い物に出掛けて、トラブルなく目的を果たすことが出来たときの感動はひとしおだった。感極まって目元を押さえる青年を前に、ルークは案じるような、あきれたような目を向けていた。
ひとりで風呂に入れる、という先のルークの発言は、正にその通りである。もう、服を脱がせてやることも、手を引いて浴槽まで導いてやることも、身体を洗ってやることも、ルークには必要が無い。誰よりそれを分かっている筈の側近が、かつてと同じように服を脱がせ始めたのだから、ルークが戸惑いの表情を向けてくるのも当然である。
「……これまで、ずっと、そうしてきたんだ。条件反射みたいなもの。簡単には、書き換えられない」
慰めのつもりだろうか、ルークはそう言って、緩く首を振ってみせた。
彼の言う通り、短くない年月を年若い主人の側近として仕えてきたビショップは、いったい何回、ルークの服を脱がせ、風呂に入れてやることを繰り返したか知れない。湯上がりの身体からそっと水滴を拭い、必要に応じてクリームを塗り込み、髪を柔らかく乾かしてやり、元通りに服を着せる。そこまでが、目を瞑っていても身体が勝手に動くほどに、一連の手順として、青年の内に隅々まで刻み込まれている。自分の身体を洗うのと同じくらいに、ルークの身体を洗う手順も、力加減も、手のひらと指先が覚えている。
POGジャパン中央戦略室付きギヴァーとしての高い職務意識に定評のあった青年は、ルークの入浴までも、同じように誠実にこなした。彼にとってそれは、崇高なる職務の一環であったからだ。少なくとも当時は、そこに疑いを差し挟む余地は無かった。
そこまで身についた行動を、いきなり捨てろと言われて捨てられるものではない。同じような場面になれば、また、同じ行動を繰り返してしまう。すなわち、ここPOGジャパンに身を置いている限り、ビショップは無意識のうちにルークの風呂を用意してしまうし、気付けば彼の服を脱がせている自分に気がつくのだ。
それを変えるには、どうするのが効果的か。暫し考える素振りを見せてから、ルークはぽつりと呟く。
「……就業中に風呂に入るのは、やめた方がいいのかな」
「それは……」
反射的に、己に都合のよい答えを返してしまいかけるところを、ビショップはかろうじて自制した。自分の大事な仕事の一つが取り上げられてしまうようで寂しい、などとは口が裂けても言えない。ここは、改めて検討することとしよう。まず、社会常識に則っていうならば、当然、やめるべきだ。世の大多数の社会人は、そういう振る舞いをしないということを、ルークはわきまえなくてはならない。それは、彼がこれから失われた時間を取り戻し、ひとりの少年として世界に漕ぎ出していくためには、欠くことの出来ないステップだ。
しかし、だからといって、ビショップは常識を振りかざして正論を吐くつもりはなかった。この特異なる頭脳集団において、そんなものは何の権威も持たない。常識、ルール、当たり前のこと。それらに縛られて、どうして自分たちの業務が出来ようか──パズルが、出来ようか。
やはり、自分に都合のよい考えに持っていこうとしていることを自覚して、ビショップは小さく苦笑した。これでは、まるで時間稼ぎだ。はじめから決まっている解を、少しでも正当化したいだけではないかと、そう言われれば返す言葉もない。かといって、改めるつもりもないのだが。
答えを待ってこちらを見上げてくるルークに、青年は穏やかに微笑みかけた。
「よろしいのではないですか、おやめにならなくとも。……入浴によって、心身の緊張を解きほぐし、思考を自由に遊ばせる。根を詰めていても浮かばなかったアイデアが、ふと息抜きをしたことで閃く。そう思えば、我々の業務にとって、あながち無益なことでもないかと」
腕輪から解放された、自由の身になった──だからといって、これまでの生活習慣をすっかり変えてしまわなくてはならないという法はない。慣れ親しんで、すっかりルークの一部分となっているものを、無理やり取り外すことはない。そんな思いを込めて、ビショップは紡いだ。
側近の意見に、ルークは素直に頷いてみせる。
「そう……そうだね、」
その表情が、どこかほっと安堵したように見えたのは、観察者側の気のせいであっただろうか。まるで、眠るときにいつまでもお気に入りのタオルを手放せない子どもが、これを捨てたほうが良いの、捨てなくちゃいけないのと親に問うて、そのままで良いとのお墨付きを得たかのような──そんな見方は、あまりに感傷的に過ぎるだろうか。
それじゃあ、とルークは新しいパズルを思いついたように楽しげな声で提案した。
「この業務は、今後も引き続き、執り行うとしよう。大事な話は、風呂で。そう、それがいい」
年若い主人の無垢な笑顔につられるかたちで、ビショップは表情を緩めた。かしこまりました、と恭しく一礼し、早速、業務の続きに──ルークの衣服を脱がせる仕事に、取り掛かった。ひとりで出来るよ、という声は、今度は掛からなかった。
■
昔の話だ。何も視えていないような、何も聴こえていないような、何も喋らないでパズルを作るばかりの白い子どもの世話を任されたとき、ビショップは何とかしてこの子どもとコミュニケーションを取ろうと、地道な努力を続けた。
容易な道であったとは言い難い。
語り掛ける言葉はことごとく無視され、差し出した手は振り払われ、捧げた忠誠はかえりみられなかった。
それでも、ビショップは根気強く、ルークに接することをやめなかった。この子は、このままではいけないと思った。この子のために、してやれることがあると思った。それは、ただの身勝手な思い込みで、単なる自己満足に過ぎなかったのかも知れない。だとしても、見て見ぬ振りをして、当たり障りなくやり過ごすことは、出来なかった。
続けていれば、きっといつか、伝わる筈だと信じていた。
子どもを入浴させるときは、特に丁寧に触れ合うことを、ビショップは一つの信条としていた。
それまで、ルークは半ば、流れ作業のようにして身体を洗浄されるばかりで、そこにくつろぎや安らぎなどといったものが入り込む余地は無かった。ただの作業でしかなかった、ルークの入浴に、ビショップは温もりと安らぎを与えた。清潔で広々としたバスルームを用意し、たっぷりの湯に肩まで浸かり、優しい花の香りに包まれて、全身をリラックスさせることを教えた。
最初は、ただ湯に浸かっている時間というのを、ルークはどう過ごしたら良いのか、分からないらしかった。常に組織の監視下に置かれ、あれをしろこれをしろと命じられるばかりであった白い子どもは、自由な時間などというものを知らない。落ち着かない様子で、すぐにでも湯から上がりかけようとしてしまう。その度に、ビショップは子どもの小さな肩をそっと押さえて、浴槽に押し戻す。何度か繰り返して、ルークは諦めたのか、大人しく浴槽に収まった。それでも、まだ納得のいかない様子でもって、側近を見上げてくる。
「……何をすればいいの」
「何も、なさらなくて良いのですよ。入浴は、心身をくつろがせるための時間ですから」
ガラス玉めいた無感動な瞳に、どこか戸惑うような色が過ぎったのは、気のせいだっただろうか。「何もしなくて良い」という、おそらくは初めて掛けられたのであろう言葉を、子どもはうまく理解出来ないようだった。
「……では、数を数えてみましょうか」
一つの思いつきを、ビショップは年若い主人に提案した。
「……数、」
「ええ。1から順番に、100まで」
何か作業を与えてやれば、気にすることなく、浴槽に身を沈めていられるだろう。そんな思いつきだった。数え上げる速度はどうしたらいいのかと問うてくる少年に、目安として脈拍を教えたら、ルークは生真面目に己の手首を握って、数を数え始めた。
「1、2、3、……」
まるで抑揚が無く、精確に刻まれるカウントはリラックスと呼ぶには程遠かったが、それで湯に浸かっていてくれるなら構わなかった。
それから、ビショップはルークを湯に浸からせておくために、手を変え品を変え、あれこれと「作業」を教えていった。道具が要らず、場所を問わない、それは発想のゲームであったり、言葉遊びであったり、あるいは、詩の暗唱であったりした。湯船の中で子どもがする遊び、というのも、その一つだ。
「こうして、指を組んで……そう、いいですよ」
背後から腕を回して、小さな手を組ませてやると、ビショップはそっとそれを握った。
「……ぁ、」
小さな声と同時に、指の間から勢いよく、水鉄砲が飛んでいる。続けて、もう一度。空中に描かれる見事な放物線を、ルークは惚けたように眺めた。
「……いかがでしょう」
囁いて、忠実なる側近は静かに手を離した。ルークは、なにか未知の存在に相対するように、まじまじと己の指を見つめている。先程の手本を真似て、ぎこちなく指を握ってみても、水は飛ばない。ぱしゃ、ばしゃ、と水面を波立たせるばかりである。そうこうしているうちに、自分の顔に盛大に湯をかぶって、子どもは小さく身を竦めた。
どうして上手く出来ないのか不思議そうな少年の様子を、ビショップは微笑ましく見守った。これでまた、暫くは彼を湯船に入れておくことが出来る。立ち上がって、青年は主人の足もとの方へと浴槽を回り込んだ。
「よろしければ、私を的に」
恭しく一礼して申し出ると、ルークは訝しげに目を眇めた。そんなところまで飛ばせるものかと、疑問に思っているのかも知れない。
「出来ますよ、先程お見せした通り。……では、それを宿題としましょう」
目標を明瞭に設定してやることが、この少年とコミュニケーションをとる上で効果的であるということを、ビショップは承知していた。主人に対して「宿題」とはなにごとかと叱責されてしまうかも知れないが、ビショップは別段に、教師を気取るつもりなどはない。言うなれば、更なる上位者から、ビショップとルークに与えられた、二人のための「宿題」といった方が正しいだろう。ガラス玉めいた瞳で、側近を見上げて、白い少年はこくりと頷いてみせた。
結果からいうと、この宿題は、あっけなく解かれてしまった。ルークは実に物覚えの良い優秀な生徒で、一度コツを掴んでしまうと、寸分の狂いもない精度でもって、美しい放物線を生み出すことが出来た。
浴槽の傍らに佇む「的」にも、見事に命中させることが出来たときには、ビショップは胸が打ち震える思いだった。お見事です、と心の底からの賛辞を述べ、湧き起こる歓びに心身を委ねる。
自分が教えなければ、きっと知ることがないままであった筈の行為を、今まさにルークが習得した。外界の何も受け付けないかのように思われた白い子どもの内に、ひとつの新たな行動様式が取り込まれ、書き込まれた。いくら語り掛けても、手を差し伸べても、返ってこないかのように思われたものが、こうして今、確かにひとつの実を結んだのだ。
頬を伝い落ちる生温いものが、飛ばされた湯なのか、それとも違う何かなのか、そんな区別はつかなかった。ただ、青年の全身は歓びに満ちていた。こうして、ルークにひとつずつ教えて、覚えさせていくためになら、自分はいくらでも、その的になろうと思った。どうか、踏み台にして、使い捨てて欲しいと思った。
浴槽の傍らに、音もなく跪く。何かと思ってこちらを向くルークの細い手首を、青年は恭しく引き寄せた。器用に水鉄砲を飛ばしてみせた、か細い指先に、そっと唇を触れさせる。
──あなたのために、私は。
祈るように瞑目して、ビショップは吐息交じりに告げた。
「私を、使ってください。……私は、あなたのものです」
■
懐かしい記憶に胸が温まるのを感じつつ、ビショップはゆっくりと手の中の泡を滑らせた。辺りには、上品な甘い花の香りがゆったりと満ち、日常を離れた安らぎの空間を演出する。やはり、石鹸はフィレンツェが世界に誇る名門サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局のミルク石鹸に限る。少しでもルークの心の慰めになればと、かつてビショップはあちこちからボディソープだのクリームだのを取り寄せては、主人に献上したものである。無感動な少年は、特にどれが良いとも悪いとも言わなかったので、結局はビショップの主観で選出したものだけが、ルークの肌に触れるものとして残っている。
「──失礼いたします」
小さく囁いて、忠実なる側近は主人の手首をとった。少年らしい伸びやかな腕を、軽く持ち上げて、白い肌の上にそっと泡を乗せる。一流の職人か演奏家を思わせる繊細さでもって、ビショップはルークの肌を泡で包んだ。
直截に擦ることはせずに、ただただ優しく、包み込むようにして、全身を撫でる。それが、もう何年も前からの、ビショップの流儀だった。べたべたと触れて汚してしまうことを恐れ、柔らかく、優しく磨き上げて、光らせる。ビショップにとって、ルークはそうして取り扱われるのが相応しい、珠玉の財にほかならなかった。
「……やっぱり、落ち着くな」
側近の手に、されるがままに任せていたルークが、ぽつりと呟いた。湯気にあてられて、白い頬がほのかに紅潮している。
「浴室、それに、浴槽……外界から閉じた、狭い空間。自分を規定する制服も脱いでしまって、ああ、それに今は、リングもない」
小さく笑って、ルークは続けた。
「風呂を重要な会議の場としたのは、正解だったと思う。他の場所では、僕は……たぶん、あまり、口を利かなかった」
俯いて紡いだ声は、少し掠れた。かつての己の在りようを思い起こして、割り切れない感情に苛まれているのだろうことは、ビショップにも分かった。
「……確かに、お風呂に入られているとき、ルーク様は普段よりも沢山のお考えを、私に聞かせてくださいました。だから私は、この時間が好きでした。……少しでも、あなたに近付けるような気がしていた」
有能なる三幹部らとの会議にしても、事前に風呂場でルークの意思を入念に確認していたからこそ、ビショップは物言わぬルークに代わって、議題をスムーズに進行することが出来た。会議の場面だけ見ていれば、まるで、白い少年をお飾りの人形として玉座に据え、その背後で側近が全てを仕切っているかのような印象を与えたかも知れないが、実際はそうでない。ルークが既に組み上げた盤上の一手を、ビショップはその忠実なる駒として、寸分違わず実現させることだけを己の使命と心得ていた。ルークの声を聞けるのは自分しかいない、ルークの意思が分かるのは自分しかいない、ルークの望みを叶えられるのは自分しかいない。そんな自負でもって、崇高なる白の塔と、この世界との橋渡しに徹していた。
振り返ってみれば、愚かなことだったと思う。しかし、間違っていたとは思わない。そんな側近の心情を知ってか知らずか、ルークは一つ溜息を落とした。
「大事な話は、風呂でするに限るよ。……お前から教わったんだ。『お話の続きは、お風呂でいくらでも伺います』──そう、言ったよね」
瞳を上げたルークの問い掛けに、ビショップは、僅かに肩を強張らせた。主人の背中に滑らせていた手の動きが、不意に止まる。不自然にならない程度の間を置いて、ビショップは慎ましく答えを返した。
「……ええ」
青年の声には、どこか諦念の色合いが滲んでいた。何かを思い出してのことか、物憂げに翠瞳を伏せる。側近の様子を、ルークは澄んだ眼で、じっと見つめた。
「今も、そう思う?」
少年の声は、何もかもを透過して、ビショップの胸の奥まで突き通った。微かな痛みに、青年は眉を顰めて瞑目した。静寂に包まれた室内で、どこかから水の滴る小さな音だけが、耳に響いた。
まるで懺悔だと自嘲しながら、忠実なる側近は答えを寄越した。
「……勿論です」
■
この世のものとは、思えぬ音だった。少なくとも、それはビショップにとって、人生の他のどの場面においても、およそ耳にしたことのない響きだった。
「…………、……、!! ……! ──…………!!」
その音が、「声」であるという認識は、とうに捨てていた。こんなものが、声である筈がなかった。ましてや、言葉である筈がなかった。
確かに、音は、目の前にいる白い子どもの唇からほとばしっていた。床に這いつくばって、散らばったパズルにまだ幼い手を力任せに叩きつけて、小さな身体を震わせている。だからといって、その子どもが何かを訴えて絶叫しているものとは、ビショップは思わなかった。その音は、他者に伝えようという意思を何一つ感じさせなかった。理解されることを徹底的に拒み、あらゆる働きかけを撥ねつける。それは、純然たる衝動以外のなにものでもなかった。
ヒトの喉が、このような音を立てて、良いわけがなかった。
ヒトの唇が、このような音を紡ぎ出して、赦されるわけがなかった。
こんな音を上げるために、ヒトの身体はかたちづくられているのではない。生きとし生けるものの創造主に対する、それは冒涜に等しかった。
「……、……、……!! ……──、──!」
その肺は、こんな音のためにあるのではない。
その喉は、こんな音のためにあるのではない。
その舌は、こんな音のためにあるのではない。
その唇は、こんな音のためにあるのではない。
その身体は、こんな音のためにあるのではない。
ヒトは──この子どもは、こんな音のために、あるのではない。
だから、ビショップは、その音を止めさせなくてはならなかった。それが、彼に与えられた使命だった。こんな音のためにあるのではない、その白い子どもを、助け出さなくてはならなかった。
たとえ、その魂だけは、こんな音のために、あるのだとしても。
「ルーク様、聞こえますか、ルーク様! いいですか、落ち着いて……っ、ルーク様、」
「──!! …………、……! ……!! ………………………………………、……!」
ひときわ烈しい音の波に、鼓膜が破れるのではないかと思った。自分の心配ではない、ルークの耳のことだ。それとも、先に喉が裂けるだろうか。いずれにしても、ビショップは早急に、この音を止めなくてはならなかった。
「お願いです、ルーク様! どうか、……っ」
「……! ……、……………!! ……、……!!」
羽交い締めにして押さえ込んでも、子どもは抵抗をやめない。手足を振り回して、がむしゃらにもがく。己を拘束する腕を殴り、爪を立てて容赦なく引っ掻く。既に、衣服に護られていないビショップの手の甲には、いくつもの赤い筋が走っていた。いよいよ、青年は覚悟を決めた。
「……!! …………! ……、…………!! ……、────」
もう後は壊れるしかない限界まで、音が高まったところで、不意にそれが途切れた。代わりに聞こえてきたのは、くぐもった不明瞭な音だ。
「…………、……、……──」
音は、既に恐ろしい音ではなくなっていた。それを発する器官が、物理的に塞がれてしまっては、これまでのようにはいくまい。もがくルークの口を、背後からのビショップの手が、しっかりと塞いでいた。より精確にいえば、安全なやり方で上手く塞ぐことは出来ずに、半ば口腔に指を突っ込む格好になっている。
押し込まれたものを食い千切らんばかりに、ルークは何度も歯を立て、烈しく首を振る。骨が砕けるかの激痛に耐えつつ、ビショップは強引に子どもを抱きかかえた。
「お話の、続きは……っ、お風呂で、いくらでも伺います!」
宣言して、青年は浴室への扉を蹴り開けると、迷わずシャワーコックを捻った。勢いよく噴出した冷水を、問答無用で、暴れる腕の中の子どもに浴びせかける。
「…………!」
しっかりと押さえ込んだ腕の中で、小さな身体が跳ね上がるのが分かった。嫌がるようにもがいてみせるが、その抵抗も、衣服がぐっしょりと濡れていくごとに、次第に大人しくなっていく。
これでいい、もう大丈夫だ──いつもの儀式を一段落させて、ビショップは安堵の息をもらした。
こうしてルークが取り乱すのは、もう何度目になるか分からない。その度に、ビショップは彼を羽交い締めにし、口の中に指を突っ込み、頭から冷水をぶちまけてやる。一連の流れは、定められた儀式であるかのように、毎回決まって同じだ。他にもっと上手いやり方があるのではないかと思うこともあるが、何か新しい方法を試して「失敗」してしまえば、取り返しがつかない。それくらいならば、あえて冒険はせずに、実績のある方法を採用するのが妥当であろう。
降り注ぐ冷水に身を晒し、自分までずぶ濡れになりながら、ビショップはぼんやりと時間を数えた。1から始めて、順番に、100まで。浴槽の中の時間潰しに、ルークに教えてやったのと同じだ。95、96、97。ふと、その腕の中で、小さく身じろぐ気配がある。ああ、戻って来たのだな、と青年はシャワーを止め、拘束の腕を緩めてやった。
解放されても、白い子どもはもう、暴れようとはしない。支えておいてやらないと倒れてしまいかねないため、片腕は腰に回したまま、ビショップはもう片手でもって、濡れそぼる白金の髪を梳いた。刺激を与えぬよう、可能な限りに穏やかな声でもって、耳元に囁きかける。
「……今日は、何がありましたか」
俯いたルークの表情は、髪に隠れて見えない。問い掛けが、はたして届いたのか、届いていないのか、答えはなかなか返ってこなかった。慰めるように頭を撫でてやりつつ、ビショップは根気強く、少年が口を開いてくれるのを待った。
濡れた衣装が肌に纏わりつき、そろそろ身震いを感じ始めた頃、ルークはようやく、唇を動かした。
「何も……何も、視えなかった……真っ暗、誰もいない、僕も」
訥々と綴る言葉は切れ切れで、何かを説明しようというには、あまりに材料が不足している。しかし、ビショップは問いを重ねようとはしなかった。勿論、こんな説明ともいえぬ言葉で、先の錯乱状態を納得出来たわけではない。正直なところ、ビショップには、己の年若い主人が何を考えてどういう結論に至るのかなど、さっぱり分からない。だから、何があったのかと問うたのは、自分が理解するためなどではなかった。ルークに語らせ、自覚して貰うためだけの問いだった。
真っ暗で、誰もいない──そんな状況は、たとえば就寝時など、いくらでもあり得る。ルークが、いちいちそれを恐れて取り乱すものとは思えない。彼が言っているのは、もっと違う次元の話なのだろう。たとえば、オルペウスの腕輪を装着した者だけに視えるという、この世ならざる世界の風景であるかも知れない。それこそ、凡人であるビショップには、届かぬ領域の話だった。
少年がそれ以上の言葉を紡ぐことなく、ふる、と身を震わせたのを見て、ビショップは小さく頷いた。
「そうでしたか。……さあ、お疲れでしょう。すぐに、温かいお風呂のご用意を」
己とは違う世界のことを聞いて、まるで自分まで分かったつもりになりたいとは、ビショップは思わなかった。自分は、ルークの駒としての立場をわきまえている。彼から言葉を引き出し、それを世に伝えることこそが、ビショップの役割だ。選ばれし頭脳を有するルークに比べれば、あまりにちっぽけな存在。しかし、冷えた身体を温めてやるくらいならば、出来ることがある。ぐしゃぐしゃになってしまった衣装を脱がせてやるべく、忠実なる側近は、少年の襟元に指を掛けた。
声ならぬ声で、いったい、ルークは何を叫んでいたのか。
それは結局、分からずじまいだった。ぽつ、ぽつと、ルークが浴室で己の考えを話すようになるにつれて、あの音を聞く頻度は減っていった。いくら泣き叫んでも、望みは達せられない。ならば、違った方法で、それを叶えよう。おそらくは、ルークの中のやり場のない衝動は、そうしてかたちを変えた。組織の崇高なる目的を達成すべく、ルークは加速を続ける己の頭脳を捧げた。
「いくらでも話を聞く」と誓った忠実なる側近に、白い少年は浴槽の中から、大切な話を聞かせてやったのだった。
──崇高なる、盤上の計画を。
■
「ビショップ」
「……っ、は、」
小さな呼び声が、青年の意識を引き戻した。否、実際には、それより一瞬早く、顔に浴びせかけられた湯の方が、その役割を果たしていたといった方が精確だろうか。避ける間などある筈もなく、ビショップは真正面から盛大に湯を浴びる羽目となった。とはいえ、たとえ気付いたところで、避けるという選択肢など、はじめから存在しない。不意をつかれて、間抜けな声を上げてしまわなかっただけ、まだよしとしよう。
水鉄砲のかたちに指を組んだまま、ルークは小さく首を傾げている。
「どうしたの」
「いえ……失礼いたしました」
人にいきなり水鉄砲をくらわせておいて、「どうしたの」はない。などと、説教をする気はもとよりなく、ビショップは慇懃に頭を垂れた。
入浴の付き添いをしながら、過去の追憶に思考を奪われるなど、側近としてあるまじき失態である。目を覚ませといって、叱責代わりに水をかけられても当然だ。むしろ、そうしてルークがこちらの様子に気付き、呼び掛けてくれたことが、ビショップには喜ばしく感じられた。寂しい思いをさせてしまったことへの謝罪と、目を覚まさせてくれたことへの感謝の思いが胸に満ち、忠実なる側近はますます畏まった。しなやかな鳶色の髪から、水滴がぽたり、と滴り落ちる。
その様子を、ルークは暫し見つめていたが、何かに気付いたように、あ、と小さく声をもらす。
「そうか……ああ、きっとそうだ!」
ぱしゃ、と軽い水音を立てて、少年はもたれていた浴槽の縁から身を起こした。頬が上気しているのは、熱い湯に浸かっていたことだけが理由ではあるまい。とっておきの秘密を教えるときの、はしゃいだ子どもの表情で、ルークは未だ事態を掴めずにいる側近を見上げた。
「ね、分かったよ、僕」
目を輝かせて、そんなことを言う。いったい、どんな驚きの発見をしたというのだろう。気になって、ビショップは問うた。
「何でしょう、教えていただけますか」
「うん。分かったんだよ。お前は、あのとき、僕を笑わせようとしてくれたんだ」
そうだよね、とルークは無邪気な笑顔を浮かべる。つられて、曖昧な微笑を拵えつつ、ビショップは内心の戸惑いを隠せなかった。なんのことだろうか──いったい、ルークが何を指して喜んでいるのか、分からない。どうやら、かつて忠実なる側近が主人を笑わせようとした、何らかの出来事があったということらしいが、心当たりは無い。
確かに、主人が日々を快く過ごせるようにと気を配るのが、側近としてのビショップの職務ではあったが、なにも、笑わせてやろうなどという意図のもとに行なっていたことではなかった。ルークの無感動な在りようは、はじめからそういうものとして、ビショップの前に提示されていた。笑わない子ども──それを、青年もまた、なにか計り知れない畏怖すべき象徴のように感じていた。ひとつ笑わせてやろうなどと、そんな出過ぎた真似を思いつく筈もない。
ルークの言う、「あのとき」とは、それではいったい、何のことなのか。ますます困惑して、ビショップは、なにやら上機嫌の少年を見守るほかなかった。そんな青年の内心を知るよしもなく、ルークはくすくすと笑声をもらす。
「だって、お前、そんなにびしょ濡れで……ははっ、可笑しいや」
顔面を濡らしたままに立ち尽くす側近を指して、ルークはとうとう、可笑しくて堪らないといった様子で腹を抱えた。ここにいたって、ビショップはようやく、ルークが何を笑っているのかを理解した。
確かに、一分の隙なく漆黒のコートを纏い、いかなる場面においても気取った振る舞いを欠かさぬ、端正な面立ちの青年が、頭から水浸しになっている図というのは、喜劇的である。その滑稽さに、笑い出したくもなるだろう。
「あのとき」とは、すなわち、ビショップがルークに水鉄砲を指導してやったときのことを指していたのだ。他のどんな作業でも良かった筈なのに、何故それを教えたのか。そして、何故、自分から的になるなどと言い出したのか。当時は分からなかったが、今にして思えば、それは、大人が頭から水をかぶった滑稽な様子を見せて、子どもを笑わせてやろうとしたからだ──と、ルークの頭の中では、そういう結論に達したらしい。
己の推論を疑いもせずにいるルークを前に、ビショップは、何と言ったら良いのか分からなかった。当時のビショップとしては、別に自ら道化になって、ルークを笑わせようなどという意図を持っていたわけではなかった。そんな大それた望みが、抱ける筈もなかった。実際、水鉄砲を教えても、ルークがこんな風に笑顔になってくれたことは、一度もなかったのだ。ビショップは、ただルークがゆっくりと大人しく風呂に入ってくれれば、それで良かった。自分が教えた遊びを、淡々とこなしている姿を見つめていると、胸の内に密やかな喜びが満ちる。それだけで、十分だった。
聡明であるがゆえに、少しばかり飛躍した発想をしてしまうルークだから、ときにこういう突飛な勘違いをしてくれる。しかし、ビショップはあえて、それを訂正しなかった。ルークがそう言うのなら、それで構わない。笑顔を忘れた子どもを楽しませるべく、身体を張って笑いを取りに行った愉快な大人の称号ならば、いくらでも受けよう。なにより、そのために今、ルークがこうして面白がってくれているのだ。無邪気な笑顔を、見せてくれているのだ。ビショップにとって、これ以上に望むことはなかった。
心の底から可笑しかったのだろう、笑いすぎて、ルークは軽く息を切らしている。
「そう、……どうして、あのとき、気付かなかったのかな……はは、本当、おかしい……、」
水面を静かに波打たせて、紡ぎ出されるルークの声は、僅かに震えていた。それが、笑っているためだけではないことに、ビショップはそろそろ気付いていた。
「……ルーク様」
頭から滴る水滴を拭うのもそこそこに、ビショップは浴槽の傍らに跪いた。そっと、指を伸ばして、年若い主人の頬に触れる。しっとりと潤い、愛らしく紅潮した肌は、指先に吸いつくような質感を与えた。誘われるままに、軽く押し込んでみると、心地の良い弾力が返ってくる。ん、とルークはくすぐったそうに首を竦めた。
たっぷりと水分を含んで貼りつく白金の髪を、ビショップの指は優しくかき上げた。あらわになった少年の目元を、一粒の水滴が伝い落ちる。その軌跡を、忠実なる側近は丁重に指を這わせて拭った。たとえ、毛先から伝い落ちる水滴が顔を濡らしても、隠せない。この絡め取った一滴が、淡青色の瞳からこぼれ落ちた特別なものであることを、ビショップは知っていた。
滴を絡め取った指先を、青年は、静かに己の唇へ触れさせた。祈りを捧げる敬虔な信徒のごとく、頭を垂れて瞑目する。唇から伝い感じられるものは、天上の美酒を思わせて、一滴にしてビショップを甘美な陶酔へと誘った。それは、閉ざしていた唇を優しく押し開き、舌を震わせずにはいられなくさせる。
──私は、あなたのものです。
胸の内で、青年はそう呟いた。忠誠を誓う主人に捧げるのに、これ以外の言葉を、ビショップは持たない。かつて何度となく繰り返した誓いを、今もう一度、伝えたかった。変わることなく、胸に置いて、守り続けたいと思った。
静かに息を吐き、顔を上げる。浴槽の中から、ルークがまじまじとこちらを見つめているのと目が合った。何か言いたげな様子であるのは、ひと目でわかる。どうやら気付かぬ間に、胸の内だけでなく、声にも出してしまっていたらしい。ビショップは小さく苦笑した。
面と向かって言うのは、今では少しばかり気恥ずかしいが、知られて困ることでもない。むしろ、ルークには、知っておいて欲しかった。忠実なる側近を、どうか自分のものとして、傍に置いて欲しかった。
私は、あなたのものです──あなたのもので、いさせてください。ビショップにとって、それは誓いであり、同時に、祈りだった。これまでずっと続けてきたし、これからだっていくらでも、きっと最期の時まで、欠かすことなく捧げるだろう、祈りだった。
「じゃあ……、業務の続きに、戻ろうか」
「承知いたしました」
計ったように同じタイミングで、一方は浴槽の中から軽い水音とともに片手を持ち上げ、もう一方は、浴槽の外から片手を差し伸べる。何度もそうして繰り返した通り、互いの手は惹かれ合い、一番心地良いかたちに結びつく。側近に手を引かれるままに、ルークは身を起こし、風呂から上がった。ぽたぽたと水滴を落としつつ、歌うように呟く。
「身体を拭いて、髪を乾かして、……着替え。どうする、『業務』の続きは」
淡青色の瞳に、どこか愉快げな光を宿して、ルークは問い掛けた。応えるようにして、ビショップもまた、柔らかく微笑する。
「勿論。最後まで、責任を持って取り組ませていただきます」
[ end. ]
たくさんの(お風呂での)初めて 側近とみつけた♪ マルコーニ最終回はとんでもないものを残していきました
2012.09.20