コミケで会おうね!






「いやー、まさかお前が地堂先生のスペースの売り子とはな。驚いたぜ」

黒髪の少年は、そんな台詞でもって、心からの感嘆の意を示してみせた。
今をときめく人気パズル作家・地堂刹は、いかなるメディアにも姿を晒すことのない覆面作家である。顔写真をはじめ、プロフィールが一切伏せられているのは勿論、作品コメントや新作インタビューも、必要最低限に抑えられ、具体的な人格を掴めるまでには至らない。パズルを絡めた芸能活動が当たり前のこの時代において、純粋に作品そのものでもって勝負しようという、そのストイックな姿勢は、殆ど絶滅危惧種といってよい。しかし、それもパズルを愛好する人々にとっては、謎に包まれたミステリアスな魅力として映るのだろう。地堂刹のファンたちは、それぞれに彼あるいは彼女の素性を想像し、理想のイメージを付与しては、今日もネットワーク上で熱い議論を戦わせている。
本日、12月31日は、年末恒例のオールジャンル同人誌即売イベント『冬コミック・ロケーション』──通称コミケの開催3日目である。地堂刹は、今回もパズル創作ジャンルの壁配置であり、新作パズルおよび過去の人気パズルの設定資料、アイデア出しのメモからラフ画、没案までたっぷりと盛り込んだ全200ページ内フルカラー10ページA4版箱入り特殊装丁の新刊に限定パズル模型とパズルタオルと立体パズルマウスパッドを合わせた豪華セットを用意している。ファンにとっては、商業誌には載らない地堂刹の独創的なパズルを見られるとあって、貴重な機会である。もしかしたら、本人とスペースで会えるかも知れない、と夢見る者もいる。
しかし、残念ながら、このようなイベントの場にあっても、覆面作家のスタンスが崩れることはない。代理の売り子を立て、本人は決して、スペースに現れないのだ──ということに、表向きはなっている。

「お前がそこに立ってるのを見たときは、幻覚かと思ったけどよ。そんなバイト、どこから紹介して貰ったんだ? なあ、ギャモン」

言って、我が学友にして腐れ縁のパズルバカ──大門カイトは心底、羨ましそうにこちらを見上げた。パズルプリンス読者アンケートでダントツのトップを獲り続けるカリスマパズル作家を、こいつは熱烈に敬愛しているらしい。
頒布物を並べた長机越しにこいつと出くわしたときこそ、俺は柄にもなく動揺し、すわ覆面作家の正体見破られたり、と焦ったが、向こうは勝手に、俺が雇われバイトであると解釈してくれた。ありがたいことである。考えてみれば、今朝だってTwitterの地堂刹公式アカウントで「私は会場へは行けないのですが、新刊には力を入れましたので、お楽しみいただけましたら幸いです」とアナウンスをしてきたのだ(勿論、暗号パズルを使って)。こいつのことだから、ちゃんとそちらもチェックしてから、ここへ来たのだろう。
スペースにいるのが本人ではないということになっている以上、いくら知り合いに顔を見られたところで、構いはしない。どうやら俺は、思いがけないところで思いがけない奴に出くわしたせいで、そんな簡単なことにも思い至らないほどに焦っていたらしい。不覚である。
内心の動揺を隠して、俺は余裕の態度で腕を組んでみせた。

「まァ、俺様ほどの大人物となりゃ、いろんなツテがあんだよ。……それよりお前、他の買い物はいいのか? 早く行かねぇと売り切れちまうぜ」
「他なんてねぇよ。俺は、地堂先生の新刊のためだけに、今日ここまで来たんだからな」

当たり前のことのように、カイトはさらりと言った。親愛の情のこもったその台詞に、俺ははからずも、鼓動が高鳴るのを感じた。
俺の本のためだけに、こいつは年末のこのくそ寒い中、朝っぱらから電車を乗り継ぎ、潮風の吹きすさぶ中で大行列に加わり、人ごみにもみくちゃにされながら、ここまで辿りついたのだ。見れば、その表情にはどことなく疲弊の色が見て取れる。無理もない、こいつは普段から、人出の多いところで遊ぶというよりは、一人でゆっくりパズルをする方が好きなのだ。こういうお祭り状態のイベントの人ごみには慣れていない。
そんな奴が、そうまでして俺の本を買い求めに来てくれたなんて、これはパズル作家冥利に尽きるというものだろう。もし、俺が覆面作家ではなくて、こいつが生意気な学友ではなかったら、しっかと握手をして感謝の意を述べ伝えたかったところだ。勿論、今の俺は地堂刹ではなくてただの逆之上ギャモンであるから、実際にはそのようなことはしない。だが、悪くない気分である。
こちらの内心などは知りもせず、それに、と言ってカイトは少しばかり、声を潜めた。

「他っつっても、なんかちらっと見た感じ、パズル関係ねぇ裸のねーちゃんの本とかばっかで──」

なんで皆、もっとパズルの本出さねぇんだろうな、とカイトは訝しげに首を傾げた。裸のねーちゃんよりも、専らパズルに夢中というのは、いかにもこいつらしい。というか、こいつがパズル以外に情熱を向ける先があるものかどうか、俺は知らない。多分、無いのだろうと思う。良いことだ。どうかそのまま、健全な少年であって欲しいと思う。はたして、パズルにしか興味を示せないのが健全なことであるかどうかは、俺の知ったことではないが。

「あっちの島のほう、ジーニアスのおっさんとか、パズル部の連中も出てるぜ」
「あぁ、さっき通りすがりに、どうしても貰ってくれっつってコピー本、押しつけられたぜ。その場で解いちまったら、なんか泣いてたけど」

哀れなことである。否、それとも、この生粋のソルヴァーに自作パズルを解いて貰えたというのは、出題者としては喜ぶべきことであるのかも知れない。
ギヴァーの心情とは複雑なものだ。簡単に解かれるのはプライドが許さないが、同時に、誰かに解いて貰いたくてヒントを散りばめ、それが存在意義を発揮する瞬間を期待している。誰にも解いて貰えないパズルほど、哀しい存在はないのだ。
ギヴァーとソルヴァー、双方の立場の分かる俺が、しみじみと思いを馳せている間にも、カイトは活き活きとした表情で、いかに己が覆面パズル作家を尊敬しているかを語る。

「周りに流されて、軽薄な受け狙いに走ったりしねぇでさ、ちゃんと子どもにも見せられるような、真面目なパズルで勝負する──それで、壁にまでなってる、地堂先生ってマジすげぇよな」
「……ああ。そうだな」

出来る限りそっけなく、俺は応じたつもりだったが、くすぐったいような気持ちは隠しきれずに、顔に出てしまったらしい。カイトは不審げに目を眇める。

「何でお前が自慢げなんだよ、ただのバイトのくせに」
「うるせぇ、そのただのバイト口も紹介して貰えねぇお子様は、さっさとおうちに帰ってパズル解いてろ」

カイトはむっとして口を噤んだが、確かに、言われた通りだと思ったらしい。新刊セットを大事そうに胸に抱えて、言われなくても帰るぜ、と呟く。
きっと、こいつのことだから、紅白の結果が出る前には、新刊に収録したすべてのパズルを解き終えてしまうことだろう。そして、ひと仕事を終えたような、すっきりとした気分で新年を迎え、のんびりと『ゆく年くる年』を観ながらミカンでも食うに違いない。多分、ノノハの家で──否、断じて羨ましいわけではない。俺だって、愛する妹と、水入らずの時間を過ごすのだ。あいつは今年も、年越しの瞬間に椅子からジャンプするんだと可愛らしい計画を語っていた。ちなみに俺はその瞬間を撮影してやる予定である。我が家の恒例行事だ。
よいしょ、と新刊セットの紙袋を肩に掛けて、カイトはすっかり帰り支度に入っている。

「じゃあな。最後までしっかり、地堂先生の本、売ってろよ。さぼんなよ」
「言われるまでもねぇよ」

やれやれ──去っていく奴の後姿を眺めて、俺は深く息を吐いた。いつの日か、「憧れの地堂先生」の正体を知ったとき、あいつはどんな顔をするのだろうか。俺に向かって、これまでも非礼を詫び、あなたのファンですといって平伏し、輝く瞳でサインを求めるだろうか。そんな展開は、間違っても起こるまい。我ながら、くだらない想像に、俺は苦笑した。



それにしても、と俺は左右を見渡した。──『奴』は、どこにいるのだろうか。
先日、年末の挨拶に、俺は一年間いろいろと世話になったPOGジャパンを訪れた。その際、世間話の中で、そいつも3日目にサークル参加の予定であると聞いたのだ。スペースナンバーを教えてくれようとしたが、俺は別にいいといって断った。奴が出るなら、創作パズルスペースに決まっている。それも、誕生日席か、あるいは壁か、いずれにしても、それなりの配置であることは疑いが無い。なにしろ、世界に名だたる頭脳集団のギヴァーである。実力的には申し分ない。ならば、適当に付近を捜索すれば見つけられる筈だと、俺は踏んだのだ。
しかし、いざ当日となってみれば、その当ては外れてしまった。一応、パズルプリンス担当編集者に一時的に売り子を代わって貰ったとき、周囲は巡回してみたのであるが、奴の姿を見つけることは出来なかった。居れば絶対に見逃す筈のない、いろいろな意味で目立つ奴なので、俺は戸惑わざるを得なかった。
別に、見つけなくてはならないと義務付けられているわけではないが、同じ日程で参加している以上、知り合いに一言挨拶に行かないというのも不自然である。しかも、向こうがスペースナンバーを教えてくれようとしていたのに、分かるからいいと言ったのはこちらのほうだ。これで、もし行かなければ、あの厭味ったらしい微笑で、やはりあなたには無理でしたか、情けないものですね、クズ星程度が虚勢を張るからですよ、などといった台詞が形の良い唇から淀みなく紡ぎ出されるであろうことに疑いはない。

「いったい、どこにいやがんだ……あのおっさん」

──POGジャパン中央戦略室付きギヴァー、黒衣の青年を思い浮かべて、俺は吐き捨てた。
午後となってもぱらぱらと訪れる地堂刹ファンたちを捌きつつ、俺の頭の中は、訪ね人のことで一杯であった。人の波が途切れれば、また売り子を誰かに替わって貰い、捜索範囲を拡大してみようと思うのだが──そんなことを思いながら新刊セットを詰める俺の耳を、のんびりとした声が打つ。

「新刊セット、ひとつ欲しいんだな〜」
「はい、ありがとうございます! ……って、」

顔を上げた俺が目にしたのは、少女のように整った面立ちだった。鈴を振るような声、穏やかな微笑は、まさに絵の中の理想の少女が三次元に飛び出してきたかのようだ。男性参加者の多い中にあって、その存在は、ひときわ輝いて見える。実際、先程から周囲の熱い視線を引き寄せていることを、果たしてこいつは自覚しているだろうか。
だが、俺は知っている。こいつが、決して、「可愛らしい女の子」ではないということを。

「なんだよ、お前も来てたのか……アナ」

学友の「少年」は、花の咲くような笑顔でもって、やぁと無邪気に手を上げた。

「うん。アナ、お姉ちゃんと合同サークルなんだな〜」
「なに? サークル参加なのか?」

俺は少々、意外な気がした。確かに、こいつは美術室にこもりっきりで絵を描いている、根っからの創作者だ。だが、その活動の場は、個展だとかギャラリーだとか、そういうところばかりであると思っていた。コミケにも参加していたとは、予想外である。姉弟揃って、というのも面白い。彼らの間にあった確執も、共同の創作活動を通して溶け消え、絆を取り戻すことが出来たのであれば、それはなによりである。
いったい、彼らはどのような創作をしているのだろう。興味が湧いて、俺は気軽に問うた。

「で、ジャンルは?」
「男の娘だよ〜!」
「…………」

予想外である。否、ある意味、予想通りである。予想通り過ぎて、極めて反応に困る。こちらの沈黙を、自分の言葉不足のゆえであると思ったのか、アナは可愛らしく小首を傾げて説明を追加する。

「がっつり男性向けだよ」
「聞いてねぇよ」

結局、半ば流されるようなかたちでもって、アナの新刊と、こちらの新刊を交換することとなった。表紙はなにやら、前衛的で芸術的な何かが描かれていたが、絵のことはさっぱりである俺にはよく分からなかった。それより、中を見るのが怖い。この姉弟が、いったいどんなつもりで男の娘本を描いているのかを想像するのも怖い。俺の複雑な心境など知ったことではないのだろう、アナは満足げに小躍りをしている。

「今日はカイトにも会えたし、ルクルクにも会えたし、パズルの本も貰えたし、アナ、大満足なんだな〜」

そうか、と俺は聞き流しかけ、しかし、その中に、聞き逃せない名前のあることに気付いた。

「ルクルク……おい、ルークの野郎も来てるのか」
「そうだよ。ビショビショのところ」

俺は、ここでアナと出会えた幸運に感謝した。話を聞けば、アナは依頼を受けて、ビショップの新刊──アナの言によると、「たんびなぶんがく」らしい──の表紙を描いてやったのだという。いつの間に、そんな人的ネットワークが構築されていたものかと、俺は驚くような、あきれるような心地がした。

「で、ビショビショ……あのおっさんのスペースは、」
「えっとね……ここ!」

俺の広げた会場地図の一点を、アナは元気良く指差した。その位置を確認して、俺は声を詰まらせる。パズル創作ジャンルとは、正反対に位置する、その近辺は確か──

「肌色のポスターがいっぱいなんだな〜」
「あのおっさん……いったいどんな本、出してやがんだよ……!」

ちょうど人波も途絶えた頃合いである。留守番を申し出てくれたアナにスペースを任せ、俺は教えられたスペースまで早足で向かった。



「どうぞ、見ていってくださーい……おや、誰かと思えば、ツンツン頭じゃないか。奇遇だね」
「お前……こんなとこで、何してんだ!」

俺は思わず、声を荒げていた。なにしろ、周囲の風景を描写するのもはばかられるような、ピンクと肌色の氾濫する官能の洪水の真っただ中である。仮にも高校生の身分としては、なんとか目に入れぬようにしてここまで辿りつく苦労は、並大抵のものではなかった。そんな中で、360度全方位にわたって放射状のツンツン白まりも頭──ルークの奴は、平然として店番をしていたのだ。

「何って、売り子さんだよ。不肖の部下が本を出すというのでね、僕も一肌脱いでやろうと」
「一肌……」

おかしな想像をしそうになって、俺は慌てて頭を振った。いけない、周囲の環境に感化されて、つい思考がそちら方面へ行ってしまう。そうしている間にも、ルークは慣れた様子で、訪れた客を捌いている。人波の途切れたところで、俺は勢い込んで叫んだ。

「お前、自分がどんな本売ってるのか分かってるのかよ!」
「ああ。表紙はダ・ヴィンチが飾り、中身はビショップ……否、ペンネーム『青年B』の書いた文……残念ながら、これは18歳未満には閲覧禁止なんだ。だから、中身は読んでいないけれど、僕とビショップが沢山出てくる話らしいよ」

俺は眩暈を覚えた。表紙を見た限りでは、先程のアナの新刊と同様に、なにやら抽象的で芸術的な白いまりものようなものが描き出されており、さほどいかがわしいものではない。しかし、表紙の隅に入った「R-18」の表示と、そしてなにより、そのタイトルが、本の性質をあからさまに教えていた。

「『ルーク陵辱』……って、なんなんだよこのタイトルは!」
「それはね、古代ローマを舞台とした、ウィリアム・シェイクスピアの物語詩『ルークリース陵辱』をもじっているんだ。芸術的だし、面白いだろう?」

面白くない。少しも面白くない。まったくもって、笑えないではないか。
こちらの内心に関わらず、ルークは穏やかな微笑を浮かべているが、意味を分かっているのだろうか。否、中身を読めない以上、それは分かるまい。ルークはあくまでも、このタイトルはシェイクスピアにインスパイアされた高尚なものであると信じているし、中身もまた、自分と側近の旅行記かなにかだと思っているに違いない。そうではない、ただのタイトルそのまま、名は体を表すのルーク陵辱本であるなどとは、露とも思っていまい。
そんな、何も知らない少年──それも、敬愛すべき上司である──に、こんないかがわしい本を売らせるなど、いったいあいつはどんな神経をしているのだ。一言、物申してやりたくなったところで、

「おや、これはこれは、ガリレオのギャモンさん。ようこそ、拙スペースへ」

まろやかな男の声が耳を打って、俺は弾かれたように顔を上げた。目の前に立っていたのは、黒衣に身を包んだ、鳶色の髪の優男──ルークの忠実なる側近、ビショップである。どうやら、出先から丁度、戻ってきたところらしい。

「さすがですね。スペースナンバーもお教えしていないというのに、よくぞここまで辿りつかれました」

気だるげに髪をかき上げて、奴は、僅かばかりも心のこもっていない賛辞を述べた。

「──否、それとも、私がどんな本を出すかなど、あなたには分かり切ったことでしたか」
「知るかよ、んなもん──それより、こいつはどういうつもりだ!」

俺は、奴の新刊を勢いよく指差した。タイトルを読み上げるのは、憚られたためである。ビショップは暫し、沈黙を守ったが、「ここでお話するのも、何ですから」と言って、俺をその場から連れ出した。留守のスペースは、ルークとダイスマンに任せてある。ルークはともかく、こんな年末に駆り出される部下の青年に、俺は同情を禁じ得なかったが、本人は楽しそうであったので、別に構わないだろう。



案内された先は、会場の一角に設けられた、業者用の控室であった。こんなところ、入って良いのかよと俺は躊躇ったが、ビショップによると、これもPOG特権というものなのだという。コミケ会場にまで権力が及んでいるとは、恐るべき頭脳集団である。少しばかり、その使いどころを誤っているような気がしないでもない。

「どうぞ、お掛けください」

促されて、俺はソファに腰を下ろした。ビショップもまた、向いに座る。何故か、その片手には奴の新刊を携えているが、いったい何のつもりであろうか。重要な商談でも始めようかといった風情で、彼は膝の上で優雅に指を組んだ。

「……この本の内容が、気になると仰るのですね」
「言ってねぇよ」

まるで、俺がエロ本に興味津々であるかのように言われては堪らない。俺は即座に否定してやったが、相手は気の毒そうな面持ちで、緩く首を振ってみせる。

「しかし、残念ながらこの本は、高校生にはまだ早いのです」
「だから、別に読みたくねぇって、」
「ですので、私が特別に、健全ver.を読み聞かせて差し上げましょう」

まったくもって、人の話を聴かない輩である。こちらが止める間もなく、彼は新刊の中ほどを開くと、朗々と声を紡ぎ始めた。

「──『チェック・メイトだ』そう言って、赤毛の挑戦者は、冷酷な灰色の瞳で敗者を睥睨した。大破したバイクの傍らで、鳶色の髪の青年は、苦痛と屈辱にその白皙の美貌を歪めた。煤けた黒衣の肩に、ギャリレオは愉悦の表情で靴底をなすりつける。『さあ、ルークのところへ、案内して貰おうか』『……だ、誰が……っ』敬愛する主人のもとへ、この野獣のような男を連れていくことなど、出来るわけがない。ビショップは最上級の翡翠を思わせる瞳に鋭い光を宿し、無慈悲な少年を睨め上げた。しかし、それは相手の嗜虐心に火を点ける結果としかならなかった。彼の投げ出された美しい手の甲を、ギャリレオは容赦なく、ブーツの踵で踏み躙った。『っく……!』指の骨の軋む激痛に、ビショップは堪らずに呻いた。『おっさん、頭だけじゃなく、耳まで悪くなっちまったかァ?』嘲笑を浮かべて、少年は片足にぐ、と体重を乗せた。『うっ、あぁ…!』青年は大きく仰け反り、堪えきれない苦鳴をもらす。『さあ、残らず折ってやるよ──パズルも、ご主人様のお世話も、二度と出来ねぇようにな!』……ここから、少々暴力描写が入りますので省略します……身も心もぼろぼろに引き裂かれ、ビショップは己の大切に護ってきたものを、残らず喪失した。彼は声を堪えてうち震え、一切の希望を失ってなおも艶めく翠瞳から、一粒の涙を落とした。扉の向こうでは、今まさに、仔羊が狼に取り押さえられたところである。夜着の引き裂かれる音に、悲痛な叫びが重なる。『助けて……いや、いやぁ! ビショップ、ビショップ…!』『はっ、いくら呼んでも無駄だぜ。観念するんだな』『っんぐ、ん、ぅ……!』くぐもった悲鳴は、口の中に丸めた布を押し込まれたのだろう。男の荒い呼吸に合わせて、寝台がリズミカルに軋む。ルークが一突きされるごとに、ビショップは、己の心臓に刃が突き立てられるかのようだった。絶望と苦痛の中で、青年はとうとう、意識を手放した──」

無駄に良い声をしているだけに、朗読はなかなか、聴き応えのあるものであった。劇的な場面の緊張感が、こちらにまで伝わって来るかのようだ。登場人物三者の声音を、きちんと使い分けているところも評価出来る。物憂げな青年から、悪魔のような少年、哀れな仔羊まで演技出来るとは、POGをクビになっても、声の仕事でやっていけそうな潜在能力を感じさせる。
──などといって、感心をしている場合ではなかった。

「待ちやがれ、こいつは誰のことだ! ふざけんな!」

俺はローテーブルを両手で叩いて怒鳴った。対して、何が気に入らなかったのか分からない、というように、ビショップは訝しげに眉を顰める。

「何故、あなたが立腹なさるのですか……実在の人物・団体とは、一切、関係がありませんよ」
「ギャリレオっつってるだろうが!」
「ギャリレオ×ルーク──省略したとき、ちゃんとギャルクとなるでしょう。我ながら、上手い発案だと思いました」

そこで誇らしげな顔をしてみせる神経は、俺には到底、理解出来ない。ルーク陵辱本というから、当然、主従もの、あるいはモブ×ルークであると理解していたのに、他人を巻き込むのはやめてくれと言いたい。あのバイクレースの一件が、こいつの中ではこんな風に脚色されており、しかもそれが本となって不特定多数にばらまかれてしまったとは、容易には立ち直り難いことである。違う、そうじゃない、誤解だといって回りたいくらいだ。
こちらの内心を知ってか知らずか、相手は平然たるものである。

「そういえば、コミケ一日目には、ヘルルク・ビショルク・ギャルクのルーク総受難R-18本があったそうです。私もチェックしてみましたが、個人的には描写が手ぬるいかと……やはり、これくらいのことは書かねば」
「お前はご主人様を何だと思ってるんだよ!」
「勿論、相手の都合も考えずに、ただ自分が寂しくないようにというだけで無人島に『持っていきたい』ものであり、勝手に全裸姿を公式ビジュアルファンブックに公開しても誰からのお咎めもない、『私の趣味』ですよ」
「平然とした顔で言うんじゃねぇよ。敬愛の心はどこに行ったんだ!」
「キャラクター紹介文が『心から敬愛しているらしい』から『絶対の忠誠を誓っている』になっただけでこれですから、3期ではいったいどうなってしまうのか、私としても、今から期待と不安で胸が一杯です」

慎ましく目を伏せ、新入生挨拶のようなしおらしいことを言っているが、実際には期待しかあるまい。今でさえ限りなくアウトに近いというのに、こいつがこれ以上おかしな方面へ開花してしまったら、いったいどうなってしまうのか。放送禁止になるんじゃないか。3期になったら、そんなキャラいなかったことにされる、あるいは、長い修行の旅に出てしまったという設定で出番なしということになるのではなかろうか。もしも、日曜午後5時30分から深夜へと番組枠が移動したとしたら、それはこいつのせいだ。俺の胸も不安で一杯である。
と、そのとき、背後で扉の開く音がした。続いて、少年の声が小さく耳を打つ。

「ビショップ……ここ?」

見れば、少し開いた扉の合間から、白い頭が覗いている。呼び掛けられるや、すぐさま、忠実なる側近は席を立った。

「どうされました、ルーク様。なにか、お困りのことでも? 脂ぎったモブに『この売り子は売り物じゃねぇのかい、へっへ』などと絡まれたのですか?」

その具体的な妄想はなんだ。むしろ、お前の願望じゃないのか。などといった茶々は挟まずに、俺は二人を見守る体勢に入った。ルークは戸惑うような表情でもって、困ったことじゃないんだけど、と呟く。

「本、完売したから……やることが、なくなって」

それはめでたいことだ。否、本の内容を考えれば、ルークにとって良いことなのか悪いことなのか、判断しかねる部分があるが、とりあえず、在庫を抱えて途方に暮れる羽目にならなかったことは喜ばしい。
作者であるビショップにとっては勿論、嬉しいニュースであるに他ならない。彼は感嘆の息を吐いた。

「そうでしたか……ありがとうございます。これも、ルーク様のお力あってこそ。多くの人々に、ルーク様の魅力をお伝えすることが出来て、私はとても嬉しく思います」

ビショップは愛おしげに微笑んで、主人の前に恭しく一礼を施し、ルークもまた、満足げな表情である。その様子を見ていると、俺は一人で熱くなっていたのが、なんとも馬鹿らしく思えてきた。勝手にやっていろ、という気分である。俺の存在を無視して、二人の甘ったるい会話は、なおも続く。

「でも、お前の本を読めないのは、ちょっと残念だな……」
「大丈夫ですよ。2年後のお楽しみに、取っておかれれば良いだけのことです」

そんなタイムカプセルは嫌だ、と俺は心の中で呟いておいた。いったいそのとき、あの本を読んだルークは、どんな反応を示すことだろうか。案外、こんなこともあったなあ、などといって軽く流してしまうだろうか。懐かしい思い出の扱いとなっているのだろうか。それはそれで、恐ろしいことである。
主従は完全に二人の世界といった様相で微笑みあい、そのまま部屋を出て行こうとする。その前に、ふと、部外者の存在を思い出したのか、ビショップはこちらへ向き直った。

「そうそう、これから打ち上げ兼、年越しパーティーを行なうのですが、あなたもいかがですか」
「遠慮しとくぜ。家で、可愛い妹が待ってるんでな」

いかにも社交辞令的な誘いを、俺は謹んで辞退した。年越しの瞬間は、家でゆっくりと迎えるというのが、俺の信条である。誘いを断られて、ビショップは少し残念そうな表情を見せたが、それ以上食い下がることはなかった。

「そうですか……それでは、私たちはこれで」
「良いお年を、ガリレオ君。また、コミケで会おうね」
「ああ。来年も、よろしく頼むぜ」

連れ立って控室を後にする彼らを、俺は軽く片手を上げて見送った。やれやれ──一気に疲れが襲って、深くソファに身を沈める。
まるで良い話みたいに終わっちまったな、と俺は小さく溜息を吐いた。なんだかいろいろと誤魔化されたような気がしないでもないが、年末の最後の一日だ、良い話で締め括るに越したことはない。俺もさっさとスペースに戻り、長々と留守番を頼んでしまったアナに礼をし、編集者とともに撤収作業を完了したら、スーパーで正月用の縁起ものを買って、妹の待つ温かい家に帰るとしよう。
ミハルにやる分の、サイン入りの新刊セットは、忘れずに取り分けておかなくてはならない。あいつはパズルがさほど得意ではないが、いつも俺のパズルを楽しみにしてくれていて、時間をかけて懸命に取り組んでくれるのだ。正月休みは、そんな妹の可愛い姿を、隣でずっと見ていられる。思うと、俺はなんとも心が和むのだった。
そのためにも、今は、持ち場で最後の仕事である。俺は気合いを入れて、ソファから立ち上がった。
人波を避けつつ、会場を横切っていく。ずらりと規則的に並んだ机と、その間を行き交う人々は、なんだかパズルのようだと思った。年明けと同時に、地堂刹はTwitterで、初パズルをお披露目の予定である。新年を祝うメッセージを隠した、高度な暗号パズルだ。今年はパズルに始まり、パズルに終わった一年であったが、来年もまた、懲りずにパズルの世界に生きたいと思う。俺は早速、新作パズルの構想を練り始めた。



そして、帰宅後。アナに店番を任せていた間に、スペースを訪れたファンたちの興奮気味のツイートによって、「地堂刹美少女説」がネットワーク上で急速に勢力を増しているのを見て、俺は頭を抱えたのだった。




[ end. ]
















12/30「今週の一枚」を受けて。良いお年を!
2012.12.31

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