パズル・オブ・ガレット
あるところに、POGという頭脳集団がありました。かつては、誰にでも解かれるほど気安くはないけれど、凄腕の相手になら好きにして貰って構わないわ、という微妙な乙女心に基づき、危険なパズル作りに勤しむ秘密組織でしたが、いろいろあって、今は平和的なパズル推進団体となっています。
その本部の奥まった一室に、幾人かのメンバーが集まり、テーブルを囲んでいました。いずれも、POGジャパンの有能なるギヴァーたちです。ちらりと時計を確認して、司会役の青年が口火を切りました。
「皆さん、お集まりのようですね」
「はーい」
作戦会議が始まるのでしょうか。いいえ、そうではありません。皆が座っているのは、いつもの会議机ではなく、真っ白なテーブルクロスを敷いた円卓でした。それぞれの前には、繊細な白磁の皿に銀のフォーク、それから、磨き上げられた背の高いグラスが準備されています。
今日は、ある伝統的なお菓子をいただく、特別なパーティーの日なのです。そのお菓子の名を、ガレット・デ・ロワといいます。
ガレット・デ・ロワとは、王様のガレットという意味で、一種のパイ菓子です。その中には、一つだけ、ソラマメ(フェーヴ)が入っています。皆で切り分け、食べたとき、フェーヴが当たった人は、一日だけ、王様となることが出来るのです。王様になった人は、周りの皆に、何でも命じることが出来ます。
フランスでは、公現祭の日に食べることで有名ですが、POGでは春の訪れを記念して、毎年2月末の時期に、そのイベントを執り行うことになっているのでした。
今日、ここに集まり、テーブルを囲んでいるのは、組織でも一目置かれる主要なメンバーたちです。
総責任者のルークをはじめ、側近のビショップ、三人の幹部、ニュートンの称号を持つ若者、アントワネットの少女。7人が勢揃いしました。本当は、総勢8人の予定でしたが、残念ながら、一人は都合が合わなかったのです。
上手くすれば、皆に何でも命令出来るとあって、参加者もどこか、気合が入っています。特に、普段、上司に抑圧されている下っ端にとって、これはまたとない機会です。
「僕、当たったらどうしようかなあ。皆にご飯おごってもらうとか? いやぁ、楽しみっすねぇ」
「私は、憧れのあのかたと一日、買い物に付き合って頂きたいわ……なんてね」
まだガレットを切り分けるより前から、人々はあれこれと夢を思い描いては、わくわくと期待を募らせるのでした。
「皆さん、『贈り物』はお忘れではありませんね」
黒衣の青年の呼び掛けに応えて、人々はそれぞれ、持ち寄った荷物を取り出しました。パーティーでは各自、手土産を持参するというのが、古くからのしきたりなのです。これは、おそらくは異教の伝承を取り入れた例といえるでしょう。かつて、神の子である救い主の誕生を祝うために、遠方より訪れた三人の賢者が、それぞれに貴重な贈り物を携えていたというのは、よく知られたエピソードです。ガレット・デ・ロワのロワ(王様)とは、この三賢者を表しているともいわれています。
「私たちからは、ガレットを」
ビショップが言い、ルークもそれに頷きます。青年が長い指を鳴らすと、それを合図に、円卓の中央が沈み込みます。再び、せり上がったとき、その上には、王様が被るためのおもちゃの冠、そして、こんがりとキツネ色に焼き上がったガレットが姿を表していました。いかにも彼らしい、芝居がかった演出です。香ばしいバターの香りが、辺りにふわりと漂い、艶々ときらめく表面が食欲をそそります。
「私たちからは、シードルを」
きらきらと輝く黄金色の液体を満たしたボトルを、フンガが開け、ダイスマンとメイズが手分けして中身を注いでいきます。
「僕らからは、リンゴジュースを」
未成年者のグラスには、ソウジとエレナが、秘蔵の生搾りジュースを注ぎました。これで、準備はすっかり、万端です。
お菓子と飲み物を前に、こんな明るく楽しいパーティーが催されるなんて、つい先ごろまでのPOGでは考えられなかったことです。皆もそれを思ってか、はしゃぐ気分を抑えきれないようです。
「今日だけは、POGはPOGでも、Puzzle of Galette、お菓子集団POGですね」
いつもは冗談など言わないビショップも、この通りです。それは平和そうな組織ですね、と皆は笑いました。青年は優雅な微笑を浮かべて、更に付け加えます。
「お菓子頭脳集団、イコール、スイーツ脳集団ということですね」
「そんな集団は嫌です」
「あるいは、Pie of Godの略という説もあります。ファイ・ブレインが訛ってパイ・ブレインです」
「ははぁ。でしたらその場合、パスワードは3.141592653589793238462643383279……」
これには、一同大笑いでした。パズルに特化した人々の笑いのツボというのは、よく分からないものです。そんな談笑を経て、いよいよ、本日のメインイベントです。
「さあ、それでは早速、切り分けましょう」
場を取り仕切るのは、執事めいた立ち居振る舞いも優雅な、黒衣の青年です。すらりと整った手の中に銀のナイフを携えた姿は、それだけで一枚の絵画のように完璧な調和を誇っていました。
さて、ここで問題です。丸いパイが一つと、客人が7人。喧嘩にならないよう、パイを7等分するには、どうしたら良いでしょう。子どもじゃないのだから、一切れの大きさで喧嘩になんて、ならないと思いますか。しかし、これはフェーヴを賭けた戦いでもあるのです。サイズが大きければ、それだけ、フェーヴを引き当てる確率も高まるというものです。事は慎重に運ばねばなりませんよね。
等分に切り分けるのも、一苦労といったところでしょうか。しかし、彼らはいやしくも頭脳集団POGの凄腕ギヴァーです。切り分けパズルは、まさにお手のもの。
「ケーキといえば、私よね。試してみたい方法があるの。皆様、よろしくって?」
芝居がかった口調で、挑戦的に同席者を見渡すのは、アントワネットの少女でした。皆は彼女の優れた実力を知っていましたから、賛成、賛成、と快くその提案を受け容れました。
そして、数分後。期待通り、少女は鮮やかな手並みで、しかも楽しく、ガレットを分割しました。
「さすがエレナさん」
「女王様に切っていただいたケーキなんて、これはありがたい」
エレガントな手際に、皆も大満足です。
それでは、エレナのやり方をみてみましょう。用意するものは、折紙です。まず、これを半分の三角形に折り、その半分、そのまた半分に折ります。広げると、中心から8本の放射状の折れ目が入っているでしょう。すなわち、8つの三角形が出来ています。
ここから、1つの三角形を取り除いて再び繋ぎ合せると、頂点から7本の筋が伸びるテント状になります。頂点をケーキの中心に重ね合わせたとき、7本の筋がケーキと交わる点、それがケーキを7等分する目印になります。ケーキの中心から、その点をめがけて切っていきましょう。ほら、見事に7ピースのケーキの出来上がりです。
「前に、Eテレの実験番組で観たことがあるの。女の子たちが、一生懸命、やり方を工夫して考え出した方法よ。素晴らしい柔軟な発想だと思って、感動しちゃった」
さりげなく、自分が番組を持つ公共放送局のPRを織り込むという、エレナのテクニックはさすがです。まさに、パズルアイドルの鑑といえるでしょう。
さて、それでは、パイが楕円形だったらどうなるか、三角形だったらどうなるか、パズルピース形だったらどうなるか、刃を入れて良い回数を制限したらどうなるか、と敏腕ギヴァーたちは暫し、パイをネタにしてパズル談議を愉しみました。本当は、誰もが早くガレットを口にしたいと思っていましたが、お楽しみは後回し、あえて焦らすというのが大人の作法です。
そうして回り道をした挙句、ようやく、乾杯の運びとなりました。
「では、ルーク様。乾杯の音頭を」
ビショップが促します。彼が「乾杯」と言うと、どうしてもバイクレースの「完敗」を思い出してしまうな、とは誰もが心の内で思ったことですが、口に出す勇気のある者はありませんでした。後で、どんな陰湿な制裁が待っているか、分かりませんからね。
側近の言葉に、こくりと頷いて、白い少年はグラスを持ち上げました。皆もそれに倣い、7つのグラスが、高く掲げられます。今ばかりは、儀式めいた厳粛な空気が食卓に満ちました。崇高なる指導者は、ゆっくりと口を開きます。
「新生POGの王を祝して──乾杯」
乾杯、と人々は声を揃えました。そのまま、グラスに唇を寄せます。
パイと共にいただく飲み物といえば、シードルと相場が決まっています。薄い琥珀色の液体を、紳士淑女らは、優雅に口に含みました。未成年者は、国産高級リンゴの生搾りジュースで、気分だけ味わいます。
一口含めば、みずみずしく爽やかな香りが鼻に抜け、下には甘味が広がります。よく冷やされた液体が喉を通過していく清涼感は、心身をすっきりと目覚めさせるようです。今ならば、パズルのアイデアもすらすらと湧いてくるように思えました。しかし、業務より優先すべきものが、目の前に待っています。
「さて、それでは……」
「いただくとしましょうか」
皆は、少しばかり気恥ずかしげに微笑みながら、各々のフォークを手に取りました。さく、さく、とあちらこちらで、パイ生地の切り分けられる軽やかな音が響きます。
パイの中には、たっぷりのカスタードとアーモンドクリームが詰め込まれています。クリームのなめらかな口どけと、幾重にも重なりあった繊細なパイの層が織り成す絶妙な舌触りは、素朴ながら唸らされる味わいです。口いっぱいに広がる豊かな風味は、誰しもを笑顔にしてやまないでしょう。
「美味しい!」
「伝統の味ですからね。受け継がれてきた製法を遵守するよう、実際に私が厨房に赴いて指導にあたりました」
「さすがビショップ様」
皆は、笑顔でパイを頬張ります。日々の仕事の鬱屈から解放された、暫しの憩いのひとときでした。
ところで、ソラマメといえば、古代の賢人ピタゴラスが、弟子たちに食べるのを禁じたことでも有名です。伝説によれば、彼は敵勢力からの逃亡の途中、ソラマメ畑に行く手を阻まれ、そこに足を踏み入れることを拒んだために、逃げ切れずに亡くなったといいます。
何故、そこまでソラマメを厭うたのでしょうか。理由は諸説ありますが、その一つが、ソラマメは寡頭制を象徴するから、という説です。昔から、人々は選挙の際に、豆を使って投票していたためです。
今のようなガレット・デ・ロワのパーティーの起源は、古代ローマに遡ります。農耕神の祝祭では、普段の社会的階級による秩序が破壊され、無礼講が許されました。この期間ばかりは、主人は奴隷になり、奴隷は主人となって、役割交換を愉しんだのです。その饗宴の王様を選ぶために、使われたのがフェーヴでした。
また、かつて教会においては、司祭の選出のため、やはり豆入りのガレットを用いることがありました。このように、選挙と豆は、深い関係があるのです。
古代ギリシャに起源を持ち、今や全世界に影響力を有する頭脳集団POGは、その長い歴史において、各地の伝統行事や風俗、信仰を吸収して発展し続けてきました。その過程で、いつしか生まれたイベントが、こうして皆で楽しくガレットを切り分けるパーティなのです。
特に、「ヒトとパズルと明るい未来」をモットーに掲げ、皆さまに愛される善良な組織を目指す新生POGジャパンでは、原点に立ち返り、こうした伝統行事を見直す機運が高まっていました。細々と引き継がれてきた行事を、若者を中心としたメンバーが、大々的に復活させた記念すべき日として、きっと、今日のことは後々まで語り継がれることでしょう。
さて、本題のフェーヴです。今年の王様を引き当てたのは、誰でしょう。うっかり噛み砕いてしまわないよう慎重に、皆はパイを食べ進めていましたが、
「あれぇ、僕の、入ってなかったや」
「私も。残念ね」
「アップルパイなら、確実に引き当てる自信があったんですけどね、僕」
皆それぞれに、外れだったといって悔し顔です。そこへ、物静かな声がゆっくりと響きます。
「……どうやら、今年の王様は、私のようです」
その厳かな宣言を聞いて、皆は一斉に振り返りました。視線の先には、ひとりの青年が、背筋を伸ばして座しています。しなやかな鳶色の髪が艶めき、長い睫に縁取られた瞳は翡翠のよう、穏やかな微笑を湛えた表情は天の御使いを思わせ、誰もが息を呑まずにはいられぬ美青年です。
彼は優雅な所作で、パイ切れの中から小さな豆を取り上げました。最早、説明するまでもありませんね。これだけの美辞麗句を並べ立てて描写される男といえば、一人しかいません。フェーヴを引き当てたのは、なんと、ビショップでした。
こういうとき、普通の大人というのは、王様の権利を子どもに譲ってあげるものです。大人が権力を持っても、ろくなことにはなりません。それくらいならば、無邪気な子どもを喜ばせてやることこそ、人生の先輩としての心構えというものでしょう。
しかし、ビショップは当然のようにして、黄金の王冠を取り上げると、自分の頭に載せました。戴冠式です。しなやかな鳶色の髪に、王冠は眩く映えました。ボール紙を切り貼りして作った、ただのおもちゃですが、彼が身につけただけで、それはいかなる豪奢な宝玉をあしらった王冠にも優る輝きを放つのでした。絶大な権力を誇り、栄華を極めた歴史上の王たちの中にあったとしても、彼ならば、いささかも見劣りがすることはなかったでしょう。
「お、おめでとうございます、王様」
「王様、万歳!」
人々は、はっと我に返ったようにして、王の戴冠を祝いました。拍手をし、愛想笑いを浮かべつつ、皆は内心、気が気ではありませんでした。
今日は、彼が一日、POGの王様なのです。王様の言葉は絶対です。皆は、ただただ平伏して、彼に従わなくてはなりません。
いったい、王様はどんな命令を下すのでしょうか。なにしろ、若くしてPOGジャパン総責任者の右腕にまで上り詰めた、有能な青年です。大事な話はお風呂でするものだという、不思議な習慣を、ルークに教えた張本人です。何を言いだすことか、凡人には想像がつきません。その一挙一動に、皆は注目しました。
一同をゆっくりと見渡して、黄金の冠の青年は、満足げな微笑を湛えました。人々は、その気品溢れる美貌に釘付けです。彼ならば、何も言わずとも、その麗しさだけで、人々の頂点に立ち、意のままに従わせることが出来るでしょう。
かたちの良い唇が開いて、静かに言葉を紡ぎ出します。
「私の望みは、ただひとつです」
なんとも魅惑的な声でした。決して張り上げているわけではない、むしろ、気だるげですらある吐息混じりに発せられたというのに、その声を聞き逃す者はひとりもいませんでした。上品に紡ぎ出される、落ち着き払った声音は、憂いを帯びた彼の表情によく似合います。それは、ひとりひとりの耳元に囁きかけるように、甘く響くのです。
彼の微かな息遣いまでも聞き逃すまいとするように、人々は口をつぐみ、息を殺し、室内は静寂に包まれました。ここはまさしく、彼のための舞台にほかなりません。
王様は、ふと、席を立ちました。
すらりと背筋の伸びた長身は、ただ歩くだけで、さまになります。高潔な靴音を響かせて、王様は人々の間を歩みました。
どこへ向かうのでしょう。演説でもしようというのでしょうか。いいえ、そうではありません。
青年は、白い少年の前に立ちました。次の瞬間に起こったのは、驚くべきことでした。王様が、少年の足元に恭しく跪いたのです。何の躊躇いも感じさせない、優雅ですらある振る舞いでした。
「ルーク様」
王様は、愛おしげに、その少年の名を呼びました。天上の美酒を舌の上に転がして、陶然と吐く溜息とは、きっと、これくらい甘やかなことでしょう。白い手を、丁重な扱いでそっと取って、青年はいよいよ、「命令」を口にしました。
「私と、ひとつになってください──最強の駒に、なりましょう」
思いがけない命令に、誰も口を開くことは出来ませんでした。ある者は、顔を青ざめさせ、またある者は、逆に赤らめます。美しい言葉に包み隠されてはいましたが、王様の命令は、それだけ衝撃的なものでした。遠回しの表現をしようとも、あらゆるパズルや暗号解読の術を心得たPOGメンバーにとっては、最初から同じことです。チェス駒に託した、王様の欲望を、誰もが精確に汲み取っていました。
ルークは、盤上を十字に支配する駒です。一方のビショップは、盤上をX字に支配します。その二つを合わせた、八方向を支配するのが、最強の大駒──クイーンです。
つまり、王様は、あなたと合体したい、私と遺伝子パズルをしてください、とルークに告白したのです。これが、驚かずにいられるものでしょうか。
「そうと決まれば、早速、お風呂に参りましょう。さあ」
王様の命令は絶対です。誰であろうと、断ることは出来ません。それでなくとも、こんな美青年に甘く囁かれたならば、誘いを断れる人間などいません。普通の人であれば、喜んでほいほいとつき従ってしまうでしょう。
これまでの経験上、ビショップは老若男女を問わず大多数の人間を魅了することの出来る自分の外見の効果を、十分に知り尽くしていました。今日は、それに王冠まで加わっているのですから、完璧です。
「命令ですよ──ルーク様」
「……」
ビショップは、己の言葉に絶対の自信を持っていました。ルークはどうしたでしょうか。王冠と美貌に目が眩んで、みだらな誘いに乗ってしまったのでしょうか。少年の可憐な唇が震えて、何か、言葉を紡ぎ出そうとしました。
ちょうど、そのときです。
「やあ、遅れてしまいました。皆さん、もう、始められているのですか」
皆の背後から、のんびりと響く声がありました。思わず振り返って、人々は目を丸くしました。
「学園長!」
驚きの声を上げたのは、ニュートンの少年です。張り詰めた室内の空気を、ふっと緩和するように佇む、落ち着き払った男性の姿が、そこにはありました。スーツを着こなした、丸眼鏡の彼は、誰あろう、√学園の解道学園長でした。そう、今回のパーティーには、「POGジャパンの主要なメンバー」が呼ばれているのです。学園長のもとへも、当然、今日の誘いは届けられていました。
ただ、彼は忙しい身の上のため、一度はそれを断ったのです。だから、皆は、本当は8等分する筈だったガレットを、中途半端に7等分しなくてはいけませんでした。
「学園長、確か今日は、欠席とのことでは……」
「なんとか、都合がつきましてね。行って来い、とジンも言ってくれているようでしたので……遅ればせながら、参上したのです」
ともかく、彼が来てくれたのは、大きな救いです。王様の圧政に困っていた人々は、学園長に経緯を説明し、どうしたら良いのでしょうかと意見を仰ぎました。この場において、頼りになる常識人は、彼しかいないとの判断からでした。
その期待を裏切らず、学園長は、丸眼鏡の奥の瞳を穏やかに細めます。
「なるほど、話は分かりました」
そして、黄金の冠の青年へと、その眼差しを向けます。それは、手のかかる反抗的な生徒をどうやって宥めたものか、精緻に観察する教育者の眼でした。
自分の独壇場を挫かれて、当然、ビショップは良い気がしません。翡翠の瞳に、あからさまな敵対の意図を込めて、招かれざる客を見据えます。
「状況を理解されたのであれば、あなたも黙っていていただけますか。王は私です」
己の胸に手を置き、ビショップは堂々と宣言しました。普通であれば、気圧されて言葉を失ってしまうでしょう。しかし、学園長は何事もなかったかのように、静かな眼差しで青年を見つめ続けました。そして、聞きわけのない生徒に根気よく接する教師の態度でもって、言葉を紡ぎだします。
「ガレットを切り分けるとき、私は席に着いていませんでした。王の命令が有効なのは、場を囲んだ者たちの間のみ」
ですので、私は適用外です、と学園長はいたずらめいた微笑みを浮かべました。確かに、学園長の言うことにも、一理あります。いくら、皆の間で王様になったからといって、その権力がよそでも通用すると思ったら大間違いです。
悔しいことですが、ビショップは何も言い返すことが出来ませんでした。せめて、唇を美しく歪めて、皮肉の一つでも紡ぐのが精一杯です。
「……それで、あなたは私に、ありがたい教育的指導をしてくださるというのですか。光栄ですね、学園長殿」
「いえいえ、そんなつもりはありません。私は、ただ見守るだけですよ。生徒の自主性を重んじ、介入は最小限に──それが、我が学園の方針です。私のことは、部外者と思って、お気になさらずに」
その部外者が、いつの間にか、この場を取り仕切っているという不思議な事態に、人々は気付きませんでした。彼は、いとも容易く、若者たちをまとめ上げてしまったのです。これも、積み重ねてきた人生経験の差というものでしょうか。
次に学園長は、ずっと沈黙を守る、いまひとりのほうへと顔を向けました。
「さて、その部外者である私の見るところによると、ルークくんは何か、言いたいことがあるようですよ。さあ、どうしますか、王様。いくら命令は絶対とはいえ、相手の気持ちも聞かずに強制執行というのは、どうかと思いますね」
腕を広げて、そう語る学園長の振る舞いは、慈父の温もりに満ちていました。自分にはない、成熟した男の器というものを見せつけられて、ビショップは忌々しく歯噛みしました。
このままでは、自分は血も涙もない暴君にされてしまいます。後々の世まで、歴史書に悪名を残すことになるでしょう。一つ溜息を吐いて、ビショップは条件を呑みました。
「……良いでしょう。お返事を、伺います。とはいえ、何の意味があるとも思えませんが──王の命令は、絶対なのですから」
色よい返事ならば合意の上で、そうでない場合は力ずくでも、思いを遂げるつもりであるという宣言でした。暴君以外の何ものでもありません。
いつもは誰よりも冷静で、分別ある大人の態度を通す彼が、いったい、どうしてしまったのでしょうか。これも、絶大な権力の象徴たる、黄金の王冠の魔力でしょうか。そういえば、王冠だって、腕輪と同様に、リングの一種です。
そんな筈もないというのに、人々は、彼の冠が禍々しく輝くのを見たような気がしました。物静かな翡翠の瞳が、禍々しい真紅に染まったとしても、おかしくはないように思えました。
「さあ──お返事を。ルーク様」
かつてない気迫を纏って、ビショップは促します。皆が固唾をのんで見守る中、ルークは、伏せていた面を上げました。とても、諍いの渦中にあるとは思えない、落ち着き払った表情でした。
青年をじっと見つめるルークの淡青色の瞳には、思慮深い光が宿っています。なんと透明に澄み切っていることでしょう。無理を言う側近に対する、嫌悪も、軽蔑も、非難も、その視線には含まれてはいませんでした。
そして、みずみずしい唇が開いたと思うと、よく通る声が、こう告げたのです。
「確かに、王様の命令は絶対だ。僕はビショップと、ひとつにならなくてはいけない」
ああ、と人々の口から溜息が洩れます。やはり、ルークであっても、王の命令を覆すことは出来なかったのか──そんな絶望感が、場を覆い尽くします。
聞き分けの良い少年の態度に満足して、ビショップはふっと唇を歪めました。それでは、と純白の衣装の襟元に手を伸ばします。まさか、この場で遺伝子パズルの儀式を執り行うつもりなのでしょうか。周りの皆は、慌ててその場を後にしようとします。それを、学園長は、まあお待ちなさい、と片手を上げて宥めました。
そうしている間にも、王様の狼藉は止まるところを知りません。長い指先は、慣れた手つきでもって、ルークの細い首を廻る革ベルトを外してしまいます。そして、襟元を大きく開こうとしたときでした。
「しかし、」
少年の唇から発せられた一言は、小さくも、強い意志を感じさせました。今にも主人の白い肌を暴こうとしていたビショップの手が、思わず止まります。その機会を逃さずに、ルークは言葉を続けます。
「今のお前はビショップではなく、キングだ。キングとルークでは、クイーンになることは出来ない──よって、この命令は、無効である」
どこからともなく、息を呑む音が聞こえました。
そうです。今日一日、ビショップはビショップではありません──王様なのです。そして、キングの駒が動ける範囲は、自分の周囲を囲む8マスのみ。ルークの駒の移動可能範囲と併せても、最強の駒にはなれないのです。
明日になれば、ビショップはキングではなくなりますが、それは同時に、王様の権力が失効する時でもあります。いずれにしても、命令を完遂することは出来ません。ルークはその智慧によって、見事、王様の無理な命令を撥ね退けたのです。
ルークの聡明さに、人々は快哉を叫ばずにはいられませんでした。
「その発想はありませんでした」
「さすがはルーク様!」
これにて一件落着とばかりに、歓声を上げる人々の中にあって、ビショップはひとり、肩を震わせました。自分の命令が拒まれ、皆の前で恥をかかされたという怒りのゆえではありません。
青年の胸を支配するもの、それは、打ち震えるばかりの感動でした。ルークの鮮やかな切り返しに、誰よりも強く胸を打たれたのは、他でもない、ビショップ自身だったのです。それは、精魂込めた自信作のパズルを、凄腕のソルヴァーに見事に解かれてしまったときの、あの喪失感と充実感の入り混じった感動によく似ていました。
眩しく輝くばかりの智慧を前にして、自分の命令は、なんと浅ましく、ちっぽけなものであったかと、ビショップは深く恥入ります。己の過ちに気付いた青年を、ルークは責めるでもなく、ただ、じっと見守りました。その淡青色の瞳に見つめられて、これ以上、ビショップは偽りの王冠を被り続けることは出来ませんでした。かつて自らの手で掴んだ王冠を、苦々しい面持ちでもって、頭から脱ぎ捨てます。
くず折れるようにして、その場に膝をついたビショップを、人々は遠巻きに見守ります。美しい眉を顰めて、ビショップは痛ましげに言葉を紡ぎ出しました。
「実は……あのガレットにははじめから、フェーヴなんて、入っていなかったのです」
なんということでしょう。皆がどよめきます。どういうことか、と気色ばんで説明を求める部下たちを、学園長はそっと押し止めました。まずは、彼の話を聞いてやりましょう、と視線で合図します。
ぐ、と拳を握り締めて、ビショップは訥々と、事の真相を打ち明けました。
「今日のパーティーのため、私は見回りと称して、ガレットを調理中の厨房に入り込みました。そして、料理人の目を盗んで、生地の中からフェーヴを取り出し、持ち去ったのです。あとは、それを懐に忍ばせてパーティーに参加し、まるでガレットの中から見つけ出したように、頃合いを見て皆さんに示すだけでした」
己の犯した罪を、青年は涙ながらに告白しました。がくりと膝を折り、肩を震わせて嗚咽を堪える、その真摯な姿に、人々は強く心を打たれました。不正によって、彼らは見事に騙されたのですが、この青年を責める気にはなれませんでした。
彼も、黄金の王冠の魔力にとり憑かれ、心を呑み込まれてしまった、哀れな被害者なのです。その証拠に、これほどまでに、己の悪行を悔いているではありませんか。すべては、ルークを強く想うからこそ、起こってしまった悲劇です。彼が悪いのではありません。皆の心は、青年への同情へと、次第に傾いていきました。
「罪深い私を、どうか、罰してください。ルーク様」
少年の爪先に口づけるばかりに平伏して、ビショップは懇願しました。その様子を、ルークは透明な眼差しでじっと見つめていましたが、やがて、一つ頷きました。細い手を、青年の頭上に翳します。柔らかな光の粒子を纏うかのような、疵一つない白い手は、夜空に浮かぶ白銀の天体の淡い輪郭を思わせました。そして、純白の指導者は、判決を告げます。
「赦そう」
告げた一言は、短くはありましたが、無償の慈愛に満ちていました。今一度、ビショップは深々と頭を垂れました。それから、差し出された手をそっと取り、恭しく口づけます。繊細な指先に、瞑目して唇を触れさせる青年の姿は、もうどこにも、よこしまな欲望を感じさせませんでした。それは、ただただ、美しい主従の情景でした。
「──失礼いたします」
ビショップは、己の脱いだ黄金の冠を、もう一度手に取りました。それを、少年の頭の上に、そっと捧げます。そして、彼は言いました。
「あなたが、私の主です」
それで良い、というように、学園長は静かに頷きました。皆も、二人を祝福します。
「さあ、それでは皆さん、ルークくんにビショップくんも、席に戻って、パーティーを続けましょう」
「学園長も、残念ながらガレットはありませんが、どうぞとっておきのリンゴジュースを召し上がってください」
そして、人々は遅くまで、飲めや歌えの宴会を愉しんだのでした。
勿論、この私──√学園学園長、解道バロンも、若者たちと共に、ひとときの宴を満喫したのですよ。年甲斐もなく、少々はしゃぎすぎてしまいました。なにしろ、一旦は欠席の返事をした手前、どう言って登場したものかと、私は健気にもパーティーの最初から、こっそり部屋の様子を窺っていたのですから、その輪の中に加えて貰える喜びはひとしおです。そのことは、ここまで話にお付き合いくださったかたには、もうお分かりですね。パーティーの様子を、冒頭から描写し続けてきたのは、私なのですから。
タイミングを窺っている間に、パイも7つに切り分けられてしまったことですし、今更登場するのも、ただ彼らを恐縮させるだけ。楽しげな若者たちの会合に、水を差すのは本意ではありません。くたびれた中年男は、空気を読んで、一度はそっと立ち去ろうとしかけました。しかし、そこでビショップくんの暴走が始まったとあれば、見過ごすわけにはまいりません。あたかも、たった今到着したかのような、何食わぬ顔でもって、私は皆の前に姿を現したというわけです。実際、飲み食いはしていないのですから、何食わぬ顔を装うのは文字通り、朝飯前です。
私の登場によって、少しでも事を穏便に治める手伝いが出来たのであれば、なによりです。おこぼれのガレットをいただき、生徒にとっておきのリンゴジュースを注いで貰い、彼らと楽しくお喋りをする。普段と何も変わらない、当たり前で、平凡で、この上なく幸せな誕生日ではないでしょうか。
2月28日、POGジャパンで催されたガレットパーティーの話は、これでおしまいです。折角ですので、おとぎ話のように、なにか教訓を一つ、最後に付け加えてみましょうか。未来ある若者には、是非ひとつ、覚えておいていただきたい教訓です。
この話からいえることは、たとえ破廉恥な言動をしても、美形でさえあれば、皆に赦して貰えるということです。
めでたしめでたし。
[ end. ]
バロン・ビショップ・バトンタッチ・バースデー(BBBB)記念に。
2013.2.28