saihate no henkyo >> 地球へ…小説



自己概念 / Sugito Tatsuki







「我々は、ことさらに結束してしまってはいけないんだよ。こんなこと、皆の前ではとても言えないけれどね、だってそうだろう、意思も情動も記憶も我々は共有出来る。過去に人々が定めた、個の証明、アイデンティティの基幹を成すとされるもの全て、同一にすることも不可能ではない。試した例はないけれど、この船という限られた環境で、同じ記憶を与えられ同じ意思と情動を交換しあい共有して育った子らには個という概念は極めて希薄だろうと思うよ。

最初の僕から300年が経ったけれど、今僕たちは人間と変わりなく、個人個人がそれぞれ違った人格を持っている。共有するものを限っているから。敢えて力を使わずに、人間同様のやり方を採っている。結局それが、今は一番の方法だからだ。僕たち最初の世代は、自分たちのことが何も分からなかったし、力についても手探り状態だった。ラボラトリで蓄積されたデータはあったけれど、それは実験者視点のものに過ぎない。自分たちのことは自分たちでなければ理解し得ない、特にこんな力の場合は。 少しずつ力の使い方を学んでいった。思念波を自由に扱える様になるのはひどく困難だった。制御が上手くいかず、心を共有することで自己概念が崩れてしまう恐れにとりつかれて――元々僕たちにはそういう、内省的で思考を重んじる傾向があったから――他者との境界が曖昧になる己に耐え切れずに、精神障害を起こしたり、命を絶つ者もいた。

我々は新たな種と呼ばれたけれど、だからといってすぐに、人間とは全く違うやり方でいくことは出来なかったんだ。――僕たちは人間でもあるのだから、とこれは個人的感想だけれどね。それで僕たちは無闇に力を使わないように制限規則を設け、個々の人格を維持しているわけだ。 ――そう、力の大きさだけでいうなら、例えば思念波で敵機を撃ち落とそうというのなら、結束は強い程良い。個人差が全く無く、初めから統一された思いが集まれば、その力は現在僕たちが行なうものとは比べ物にならないだろう。それだけの力があれば、敵を殲滅し地球(テラ)へ向かうことなど実に容易い。

けれど、その後はどうだろう?

念願の故郷に立った、破壊のための力はもう必要ない、それから、人々は――いや、個の区別は意味を成さない、一個の『ミュウ』は、地球で何をしようというのだろうね? それ(・・)はきっと、既に僕たちとは全く違うモノ(・・)だ。

だから僕たちはいつも、注意を怠ってはいけない。個性の尊重だとか、感傷ではなくて、――あまり結束し過ぎないように、と」



ソルジャー・ブルーは話を締め括ると、ふと息をついた様にジョミーは思った。観察法に則っていえば、彼は例によって青い間接照明を置いた薄闇の中、寝台に横たわり、静かに目を閉じているだけであって、その身体には本当に血液が流れ絶え間ない代謝活動が行なわれているのか疑わしく思える程に身じろぎ一つせずにいる。呼吸の気配すら感じ取れない、だからきっと先の感想は「こんなに長々と思念波に依るといえ話をして、疲れたことだろう」という自分の思いがそう見せたのだと、いかにも人間らしい考え方の抜けないと自覚しているソルジャー代理は結論づけた。

統率者としての責務の意識からか、あるいは対話によって考えを深める手法を好むからか、ソルジャー・ブルーはよく話す。もっとも、空気振動によって耳から入る声を聞く機会は僅かに限られ、――しかも彼は口を開いたとして言うのはたった一言二言だ――殆どは今回の様な思念に依るものであるが、記憶を引き渡した後でもなお伝え足りないと、己の考えるところを、一瞬にしてではなく言葉を選び時間を割いて話そうとする、その際の手段は声帯であろうと思念であろうと差異はない。

ジョミーは彼と話すのが――どちらかというとただ聞いている一方だが――好きだ。その後を継ぐ者として学びたいという高尚な思いは、無いわけではないがむしろ、彼の声が心地良いだとか、彼の思いに触れていたいだとか、役職を差し置いて個人としての感想がまず表れてしまう。何より、彼が自分のために時間を費やすことが、自分が彼の時間を独占することが、――それはいずれ、そう遠くなく終わりが来るのだと、日増しに痛みが迫るけれど――今だけは、この時間だけは、ただ二人で共にあることが、嬉しいのだ。



「ところで、我々は"感覚を共有出来る"という言い方をするが、これは本当だろうか?そう思い込んでいるだけではないか?これが真であると証明する手だては、無いと言ってしまって良い。

記憶の共有ならば、ある事象を知識として持っているかのテストでその程度を確かめられる。感覚はそうはいかない。事実は等しいのに個々の捉え方により真逆の意味を持ち得るように、たとえ同じ感覚が与えられたとして、それをどう認識し感じるか(・・・・)――これが同じである保障はない。 同じ神経伝達物質が同量、脳の同部位に放出される事実は確認出来る。しかし、過去、哲学から心理学が分かれ、生理学、脳神経科学と共に研究が重ねられたけれど――我々もことごとく関連した実験を繰り返されたけれど――その認知の過程を解き明かすことは未だ叶わない。

我々がそれぞれに自己を持っている限り、真の共有は不可能だ。例えば、全く突然に、己の意識とは関係のない感情が伝えられても、すぐさま同化することは出来ない。そのようなものにはまず抵抗を覚え、拒否反応が働く。自己を守るために。感覚に対し、どう感じるかという自由が未だ残されていると言って良い。 感覚を共有出来るといって、どう感じているか(・・・・・・・・)を――心を、理解出来ることにはならない。その点を見誤っては、危険だ」



ああそれで、とジョミーは目の前が開けた様に感じた。ずっと疑問に思っていたのだ。彼に託されたその記憶は、己が体験したことと同様にジョミーの内に保存されている。それなのに何故、追体験した記憶よりむしろ、彼が今の様に直接に話して伝えたことの方が、強く心に残るのか。

「彼の話」だからだ。

彼の記憶は、彼の視点で、彼の情動と思考と行動がそのままに、しかしながらジョミーの記憶(・・・・・・・)として記されている。そこにジョミーの意思の入る余地はない。 物語の主人公に感情移入していたけれど、納得のいかない行動に住む世界の差異を感じたならば、自分とは切り離して筋を追うか、あるいは放棄してしまえば良い。だが彼の記憶はジョミーの記憶でもあり、物語の様にはいかず、どこか違和感を覚えつつも、ジョミーは彼をそのままになぞることしか出来ない。 一方、彼の話を聞くという行為は、ジョミーの自由だ。思うままに、感じるままにいることが出来る。そうして今に繋がる自分が感じ、考えたことであるから――彼の話は強く胸に刻まれる。



「僕は君に、考えて欲しい。君なりの方法で、道を探って欲しい。 僕の考えを複製するのではなく、理解を経て、君の意志が確固たるものとして創り上げられればと――だから敢えて言葉を用いる。言葉は誤解を生むというけれど、それは逆に、捉え方の多様性を示していると思わないかい?素晴らしいじゃないか。一分の狂いなく伝わるよりも、ずっと創造の可能性が高いと――ああ、いやこの言い方は本来は正しくないんだそうだ、『蓋然性が高い』と思う、と言い直させてくれ――けれど『可能性が高い』の方が言い方としては好きだよ、とてもポジティブな字面で希望が感じられる。

言葉というのは本当に奥深くて面白い、とこう思うようになったのは船長(キャプテン)の影響が大きいのだけど、彼は言葉に結構なこだわりを持っていてね――そう言うとまた、『"こだわり"とは取るに足らないつまらないことを気にする場合にのみ使われる言葉です』なんて教えてくれるわけだ。そう心配しなくても、別に言葉の流動性を頑なに否定して正しい(・・・)一義的な言葉遣いを強要しようという考えの持ち主ではないから――全然大丈夫(・・・・・)だよジョミー。

矢張り300年近く生きていると、それぞれに特化した分野を持つようになる。長老たちの哲学をいずれ聴くと良い。今後のためになるだろう。

どの道が正しいのか、選ぶ以前には判り得ない。選ばれなかった道は、存在しないのだから。君は君の考えに従い、僕の話は捨てても良いし、参考程度に頭の片隅に置いてくれても良い」



君に任せる、と付け加えたソルジャーに、ジョミーは思った。

覚えている。

あなたのことは、きっと全部、覚えていると。




End.















小説というか語り。とにかくブルー至上、ブルーの出番が多ければ多いほど良いと思っていたら主人公が霞みました。どうもジョミーにはブルーの言いたいことの3分の1も伝わっていなさそうです。


2007.05.12


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