helplessness / Sugito Tatsuki
我々は、いくら自分を取り巻く環境を変えようと試みたところで、決して何を為すことも叶わないのだと、ラボラトリで過ぎ行く日々の中、すっかり思い知らされ、最早変えようという気力すら失っていた。古典的実験の、部屋に閉じ込められ避け道のない電気ショックを与えられ続けたイヌが、扉を開けられ逃げ道を用意された後もなお、じっとその場にうずくまったまま、電撃を受けるに甘んじるように。
己の力を知るより前に存在を全否定されて、自分はそういうものなのだと、何ひとつ望む様にはいかず、理由無く忌み嫌われる、それが当然なのだと思い込んでいた。そうならざるを得なかった。自分が自分をそうであると思えば、そう(なのだから。無力であると思ってしまえば、たとえ我々には人間の恐れる力があり、だからこそこんな扱いを受けていると理解していようとも――力は無いのだ。我々はそういうものだ。
故事に名をとったシステムによるあの『殲滅作戦』の時、厳重にロックされた厚い扉を、その細い腕にいくつも鬱血を作りながらも声を上げ叩き続けていたのは彼だけだった。誰もがその色素を持たぬ銀髪の少年の行動を無駄だと、愚かだと思っていた。光源の遠い闇の中にあっても目を引く赤い瞳から涙がこぼれる様を虚ろに眺めていた自分もまた、その内の一人だった。同胞の殆どが、己の力を知らず、為す術なく、崩壊する地上で炎に巻かれ、惨たらしく命を落とした。自分が今もこうして在るのは、あの時偶々彼の隣にいたからに過ぎない。
彼は――彼だけは、己がその様に、当然に虐げられるべき存在であるとは決して認めなかったのだ。ラボラトリで彼が得たのは、何をしても状況を変えられず苦痛を受け続ける他ないという無力感ではなく、――痛みに、耐えることが出来る、まだ生きていけるという信念だった。
彼の意志は、彼を、そして自分も含めた同胞を、ひいては今後生まれる仲間たちをも、葬り去られると決められた運命から救った。
けれど、その強い彼であっても、あの時ただ絶望の中に生かされていた他の者たちと同様に、傷を、あるいは――欠落を、負わされたことに変わりはなかった。むしろ、表に出さないだけ一層、彼はその奥底を――蹂躙され、抵抗する程に深く、侵されていた。
あたかも完全な存在である彼が、その内に抱く欠落を目の当たりにしたのは突然のことで――正直、驚くあまり適切な対処も何も分からず立ち尽くした。
それは全く、突然に襲った。
奪取した船の資料室で幾台もの機器を起動させ、新たに入手したデータの引き出しを行なっている時だった。共に作業をしていた彼が、その手からディスクを取り落とし――珍しいことだ、どうしたのかと見遣れば、彼は既に常の彼ではなかった。見開いた瞳が何かを探す様にさ迷い、宙に固定されたかと思うと――身体を強張らせ、息を呑む鋭い音が聞こえた。
次の瞬間、激しい空気振動と思念波の衝撃が、広くない部屋中に吹き荒れた。耳を裂くかの叫び声、容赦なく胸に迫る悲痛な情動、それを発しているのが彼であるとは、目の前にしても受け容れ難かった。膝を折り、両耳を塞ぎ、固く世界を拒絶する様に目を閉じて、彼は制御を失った感情を周囲に叩きつける。その思念の衝撃に体勢を崩し、壁に身体を打ちつける段になって自分はようやく事態の異常性に気付き、とにかく彼を止めるよう試みる。既に声は届かず、手を伸ばしても衝撃波に阻まれる彼に思念を送る。だがそれさえも、彼の混沌とした逆巻く情動に呑まれて意味を成さない。
彼の背後の扉に嵌められた窓が振動に耐え切れずに音をたてて砕け散った。
――仕方がない。
本来、許されるべきではない、相手を攻撃するための思念波に集中する。
危険な手段を用いてでも、早く止めなくては被害が拡大する、何より、これだけのエネルギーを放出して彼自身の精神が耐え切れなくなってしまう。咎めは後からいくらでも受けよう――躊躇う思いを振り切って、集中した意識を彼に向け――放つ、瞬間、
――……!
衝撃に身を庇い、瞳を刺す光の交錯がおさまり静寂が戻ったことを感じて、恐る恐る目を開けた。
剥がれ落ちた内装の破片が散らばる床に、意識を失い身を投げ出している彼を茫然と見つめた。
――今のは、あれは――
騒ぎを感じ、遅れて仲間たちがやって来てからが慌ただしかった。
多くの者がショックを受け、彼の身を案じ、涙した。
――どういうことだ!
勿論、自分は厳しく詰問された。
――彼は未だ目覚めない、たとえ急を要すといえ、ともすれば精神活動を永遠に停止させてしまう程の思念波を使う必要があったか?
だが、非難する彼らの言葉をよそに、自分は、あの時彼に思念を放とうとした瞬間を、回想していた。
あの一瞬、不意に彼の嵐の海の様な思念の波が静まったと思うと、彼の記憶が――ラボラトリで彼が日夜受けた扱い、苦痛、彼が決して誰にも読まれぬ様に封じた筈の、ただ深い悲しみの記憶が、表層に垣間見え、自分は思念を放つのも忘れてそれを追っていた。だから――彼を攻撃した強大な思念波は、彼が彼自身に向けたものだ。そもそも自分には、いくら錯乱状態にあり思考の統制がとれていないといえ、彼相手にこれ程のダメージを負わせるだけの力は無い。
結局、彼の右腕となり支えていく決意が固かろうと、自分は――何も出来なかったのだ。それが受け容れ難く辛い現実として、まざまざと突きつけられた様に思った。
数日の後、彼は意識を回復したが、そう喜んでばかりはいられなかった。彼はひどく己を責めていた。自分自身を制御出来ないと思い知らされ、苦悩する様が感じ取られた。そんな必要は無いと、あなたが目を覚ましてくれただけで十分だと、心から述べる人々に深く謝罪の意を告げ、特に場に居合わせた自分に対しては、本当にすまなかったと、驚かせて、危険に晒して、思念波を使わせかけて――その件に関しては全く責任を感じる必要は無い、僕はむしろ、止めようとしてくれて嬉しい――ありがとう、そして――すまない、と告げた。
それから彼は、二度と同じことを為さぬよう、己の内に原因を探っている様だった。それは大変に辛い筈だ。原因を探るということは、あれ程の過剰な反応を引き起こす何かを、自らの深みに降り、記憶を掘り起こし、目を背け逃れたいそれと向き合うことに他ならないからだ。
心は――閉じられていなくてはいけない。他人に知られたくないことを密かに持つのと同様に、自分自身さえ触れてはならない領域には――厳重に、幾重もの封印がなされていなくてはいけない。
自らの意思に反して、己の内面を制御出来ずにさらけ出し、見たくないものを呼び起こしてしまう苦痛は――他者に精神を蹂躙されることに等しい。欠落は、心に負った傷それ自体というよりむしろ、正常に働かなくなった、傷ついた心を守る機構にある。あらがいながらも、閉じられているべき扉を自らこじ開けて、より一層傷口を深める。
自分自身すら自由には出来ない。
こんな自分は嫌なのに、
こんなもの、見たくはないのに、
欠落を負った、その心ではもう既に、自らを守ることが出来ない。
原因は、音だった。
あの時、彼はまず耳を塞いだ。意識を失ってから腕をとり確かめた、その指の爪には赤黒く血がこびりついて――外耳を引きちぎろうとしたのだ。資料室の機器の発する音の相互干渉パターンと、彼の記憶にあったラボラトリの忌まわしい実験装置のそれとを比較し、結果、ある波長の音が引き鉄であると推測された。
彼のあの反応――錯乱し叫びを上げ思念波をあたり構わず放出する――それは正に、ラボラトリで我々が実験を受ける度に引き起こされていた反応を更に極化したものだ。
彼の記憶しているその装置を、自分も含め我々の誰も知らなかった。恐らくは我々に使用されたものより数段高い出力を持つであろうその装置で実験を繰り返され、なお精神崩壊を逃れ生き延びたのは――彼だけだったのだろう。
禍々しい装置の起動音が、彼に刻まれた苦痛の記憶を呼び覚ます。
あの音は――危険だ
あの音を――聞いたら死んでしまうかも知れない
あの音が――怖い
生命に関わる恐怖の条件づけは根が深い。
またいつ、ああなるか分からない、だったらいっそ永遠に耳を塞いでしまえ――そう思っているんだろう?
彼は言った。
思念波が扱える我々にとって、それは別段に不都合でないから。けれど、僕は、こんな己の弱さのために、備え持った感覚を捨ててしまいたくはない。たとえ思念波で補えるといえ――自ら能力を、放棄してはならない。
それが彼の信念だった。
彼は、自らの『治療』を試みた。一定の音を発生させ、徐々に引き鉄たる波形に近づけていく。ここはもうラボラトリではない、もうあの装置はない、音自体に害なす力は無いのだから、恐怖することはないのだと、音と反応の関係を断ち切るために。
本来なら、抵抗出来ない様に周囲に身体を押さえ込んで貰うのだけれど、そんな嫌な役目を誰にもやらせるわけにはいかないからと彼は言い――全くその通りだろう、敬愛する彼にそんなまねが出来る者などいない、皆頼まれても必死で免除を請うに違いない――独り、時間をとっては課題に取り組んだ。
ともすれば耳を押さえようとするのを堪えて下げた手を握り締め、緊張状態にある心拍に呼応し早まる呼吸を落ち着かせようと努め、汗を伝わせながら。
それでも彼は、どうしてもあの音を聞けるまでには至らなかった。
彼自身よりむしろ、密かに様子を伺っていた周囲の者が、彼の苦しみに耐える姿をこれ以上見るに忍びなかったのだ。問題の音に近接した音を聞いても平静を保とうと耐える彼は痛々しく、どれほどセッションを重ねれば効果が表れるのか保証もないのに何故敢えてこんなことをしなくてはならないのかという思いが生じるのも止むを得ない。
どれだけ彼を想っても、想うだけでなく行動を許されたとして、例えば手を重ね、例えば守るように抱いて、あたかも接触によって共有する心の平穏が傷をすっかり癒してしまうとでもいうように、ここは安全であると言い聞かせたところで、自己満足は得られようが、彼を『治す』ことは出来ない。何者も彼の心には触れられない、無力さを見せつけられる様で耐え難かった。
根本的解決にならなくて良い、『治療』はもう止めてくれという人々の嘆願に、彼は内心どうあれ、リーダーとして――同意した。
代案として上がったのが、今なお彼が常に用いている、"補聴器"だ。それは特定の音に対し、相反する波形を与えることでキャンセリングする機構を備える。これを装着している限り、彼の聴覚にあの音が認識されることはない。
何だか大仰だね、と苦笑しつつ、彼はそれを装着した。
以来彼は再びああなる(ことなく、皆は『強い』彼に付き従った。今は聴力を殆ど失い、いわゆる補聴器と記憶装置としての役割を果たしているそれは、しかし、あの時あの場で心乱す彼を目の当たりにし、その傷に触れた自分にとっては――彼の欠落の象徴に他ならない。
現在の技術をもってすれば、もっと小型軽量で目立たぬタイプの器具に代用出来るというのに、物資も技術も限られたあの時期に何とか作り上げられたそれを、彼は用い続ける。
あるいはそれは、彼にとってもまた――過去の痛みを忘れ得ぬ象徴であるのかも知れない。
End.
ハーレイ視点だと非常にブルーを讃えられて楽しいです。彼はブルーを崇め奉っていれば良いと思いました。そして何故かこの話のブルーのビジュアルイメージ、映画版です。何故だろう。
2007.05.16
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