ヘイトクライム / Sugito Tatsuki
※暴力描写・猟奇的およびグロテスクな表現を含みます。ご注意ください。
ブルー、と口にしたつもりだった。けれど実際にジョミーの唇からこぼれたのはただの呼気だけであった。思念体をメギドへ跳ばしたジョミーは、正に崩壊のただ中にあるその中枢に、求める姿を見出した。
「……ああ、だめだ、早く皆のところへ。ジョミー」
どうして、いつもと変わらぬ調子で話せるというのだろう。ジョミーは目の当たりにしたそのひどい有様と、微かに疲労を感じさせるものの極めて落ち着き払った声の差異に暫し声を失った。
何も言えなかった。
何を言うことがあるだろう。
彼は、傷一つなかった彼は、最早瓦礫の中、倒れ伏し、防壁たる蒼の輝きを纏いもせずに身を投げ出している。その象徴たる意匠を凝らした純白の衣装は赤黒く染まり、なお床面にまで体液を滴らせる。破れたマントは煤に汚れ、吸い上げた血液が凝固してぐしゃぐしゃになって、風に靡くあの軽やかさは疾うに失われている。彼の髪はひどいものだった。本当はとても心地良い指通りをして、ややくせのあっておさまりの悪い、つややかで、いつまでも撫でていたい、あのきれいな、色素の欠落した、汚れなき彼の髪は、今やすっかり乱れ、また多量の血液がこびりついて奇妙にねじくれ、頬に張り付いている。
それのことは、見た瞬間に分かってしまった。嘘だと、何かの間違いだと思う暇もなく、まざまざと突きつけられた。彼の頬から頤、また首筋へ伝うもの──
いつも見ていた、
飽きず眺めていた、
大好きだった、
赤色、
彼の赤、
彼の生命、
──血液と、ちぎれた眼球の組織が、混じりあい、伝い落ちて、彼を汚していた。
ジョミーは震える腕を彼へ伸ばした。連れていかないと、いけないと思った。何としてでも、ここから連れ出さないといけない。
今は嘆いている余裕はない。早く、彼をここから転移させなくてはいけない。
確かに自分も既に限界まで能力を使い果たして、これほど実体から遠く離れて思念を跳ばすのは刻一刻と残された体力を削り、ともすれば意識が奪われそうになるけれど、それでも、帰る時は彼を伴わなくてはならない。
──出来る筈だ。
自分の能力の限界容量とその割り振りを見積もると、ジョミーは意志を固くした。
「そんなことに君の力を浪費させたくはない──まるで無駄だ、だから」
「嫌だ!」
囁き程度にまで音量の落ちた彼の声を、ジョミーは遮って叫んだ。
また、為す術なく、目の前で命を奪われるのはもう沢山だった。思念体では触感は得られなくとも、彼の身体をしっかりと抱き込むイメージを想起し、一気に跳ぼうと試みた。
しかし──上手くいかない。
焦るごとに集中を欠き、その間にも周囲の崩壊は広がる。次第に、彼に残された力が失われていく。
質量が限界を超えているのだと、ジョミーは思い至った。どう足掻いても、彼を運ぶことが出来ない──このままでは。
ジョミーは彼から少し離れた。目を走らせる。彼の左脚は、いつの間にか瓦礫の下敷きになっていた。ジョミーはそれを見つめ、数瞬にして概算を行い、結論を導き出した。
おもむろに思念を集約し、狙いを定めると、一気に放出して、ジョミーは、
ブルーの左大腿骨を叩き割った(。
はじめて彼から苦鳴が上がった。
けれどジョミーは構わずに、今度は鋭く研ぎ澄ませた思念でもって、今しがた骨を割った地点をめがけて幾度も刃を放った。その度に彼の身体が衝撃に跳ね、鮮血が飛び散る。
少しでも苦痛を和らげてやれるような思念を流し込んでやる余裕すらない。必死だった。
完全に繋ぎとめられないというのなら、為す術なく全てを失うしかないのだろうか。違う、完全じゃなくてもいい、一部を失ってもただ出来るだけ多く、彼を留めたい。
「……愚かだ、僕はもう滅ぶのに」
「うるさい、あなたの意志なんて聞いてない」
あなたの生き死にだって問題ではない、僕が僕に必要だから僕のためにしていることだ、黙っていろ!
余計な雑念に囚われぬよう、ジョミーはひたすらに、そのもう使い物にならない脚を切り落とすことだけに集中した。
躊躇うな、仕方ないんだ、考えるな!
このままでは彼のかたちは何も残らない、それは嫌だ。もう、あちこち傷ついて、損なわれて、それでも彼はまだここにある。後は崩壊して塵となるばかりのここに、彼をひとり置き去りにするのは絶対に嫌だ。連れて行くのだ。共に、帰るのだ。
これはただの蛋白質の塊だ。
同時に、大好きな彼の脚だ。
何度も愛し、慈しんだ、きれいな脚だ。
とても大切な彼を、どうあっても護りたかった彼のかたちを、こうして自分が壊してしまう。
その損失していく過程のひとつひとつを詳細に目の当たりにしては、どうしても思い切ることが出来ずに、躊躇いを捨てきれない。しっかり定めた筈の狙いは毎度微妙に外れて、いたずらに周辺の肉を抉って爆ぜては、赤黒い液体をまとった黄色の脂肪がぶつ切りに弾けて撒き散らされる。切りやすいようにと割った骨が逆に引っかかり、しなやかな筋線維が目的を阻害する。断ち切れない。
──足りない。
脚を落としきる前に、ジョミーは予想外に手間取った作業の分の修正を加えて再度行なった計算の非情な結果に愕然とした。こうして、あともう少しで断ち切れる片脚を犠牲にしても、残りを転送する力が、もう、自分には残っていない。このままでは思念体の己の帰艦すら危うい。『加速』をかけてある自分にとって、メギドに降りてからの非常に長く感じられるこの時間も、艦に残した仲間たちにとっては僅か数秒といえ、これ以上の時間をかけるわけにはいかない。──時間が、力が、足りない!
見遣れば、彼の力なく投げ出された指先が、炎に巻かれている。長手袋に護られた、細くまっすぐで、度々頬を撫でてくれた、いつも少し冷たい、あの指先が、みるみるうちにかたちを失っていく。思念体では捉えられる筈もないのに、その空間に充満した熱と、蛋白質の焦げるすさまじい臭気とを、ジョミーはリアルに感じ取った。
「ジョミー、もういい、……帰ってくれ」
立ち尽くすジョミーに、ブルーは苦痛を感じさせぬ声で静かに囁いた。
我に返ったジョミーは、膝を折ると、彼に覆いかぶさってうずくまった。どうしようもなく己の無力が悔しくて、背中が震えた。
「ごめん、なさい……」
勝手なことをして、最後まで心配させて、余計に苦しませて、いくら謝っても足りない。間接的に、また直接的に、彼をこんなにしてしまった自分自身が憎くて、嫌で嫌で仕方なかった。
さっきの行為と、そしてこれからしようとしていること(と、赦して貰うにはどれだけ言葉を尽くせば良いのだろう。
彼と心中したくて来たのではないのだ。たとえ彼を失っても、そうして埋められぬ決定的な欠落を負っても、だからこそ、自分は死ぬわけにはいかない。已まぬ痛みを受けて、生き続けなくてはいけない。帰らなくてはいけないのだ、仲間たちのもとへ、そしてその先へ──約束の、かの地へと。
だけど、とジョミーは小さく呟いた。
「ひとりは、嫌だ」
彼の血に塗れた頬に指を沿えて、頭を抱く。彼がこんな目に遭わなくてはいけないなんて、あまりに不条理で、悲しくて、堪えきれず、ジョミーは嗚咽をこぼした。
「嫌、なんだ」
ブルーの頭を抱いたジョミーの手に、力が込められた。
◇ ◇ ◇
あなたは僕だけのあなたではない。
──そんな当たり前のことが、僕は、許せなかったんだ。
彼を初めて知ったのは自分ではない。
彼を初めて愛したのは自分ではない。
彼を初めて抱いたのは自分ではない。
彼を初めて奪ったのは自分ではない。
彼を初めて犯したのは自分ではない。
彼を初めて傷つけたのは自分ではない。
彼を初めて泣かせたのは自分ではない。
彼を初めて悲しませたのは自分ではない。
彼を初めて怒らせたのは自分ではない。
彼を初めて悦ばせたのは自分ではない。
彼を初めて愉しませたのは自分ではない。
彼を初めて乱したのは自分ではない。
彼を初めて撃ったのは自分ではない。
彼を初めて殺したのは自分ではない。
彼が初めて知ったのは自分ではない。
彼が初めて愛したのは自分ではない。
彼が初めて憎んだのは自分ではない。
彼が初めて蔑んだのは自分ではない。
彼が初めて選んだのは自分ではない。
彼が初めて呼んだのは自分ではない。
彼が初めて見たのは自分ではない。
彼が初めて触れたのは自分ではない。
彼が初めて味わったのは自分ではない。
およそ考えられる彼の全ては、既に自分でない誰かのものだ。
未だ他の征服を逃れた、自分の手で初めて染め上げられる、無垢なる彼の部分は、出逢った時にはもう、どこにも見つけることが出来なかった。
ずっと自分は、この世に生れ落ちてから、彼の世界に生きて、彼の支配を受けている。
けれど逆は違う。
──僕は、彼に這入り込めない。
彼を圧倒的に、専有したかったのだ。
既に後継者として、自分は彼に専有され、またその分だけ、彼の内の特別な部分を占めている。
それだけで満足すべきだった。
これ以上に独占したいだなんて、そんな思いを持ってはいけないと、我慢して、低俗な欲望を抑圧しようとした。
けれど、足りないのだ。
もっと欲しい、欲しくて堪らない。
自分だけの、
彼の、
絶対的な証が──欲しい。
◇ ◇ ◇
ジョミーは青の間に立っていた。脇に抱えた、元々の地の色は紫であったとかろうじて知れる、赤黒く染まった布に包んだそれを、丁寧に開く。中から現れたそれに、ジョミーは安心しきった笑みを浮かべた。愛おしく指をすべらせ、そして、それが色々なもので汚れてしまって、美しさを損ねていることに気付いた。都合よく大量の水の湛えられた水路へ赴き、長手袋の濡れることにも構わずに、両手で支えたそれをひたす。水面に色が広がり、物理法則に従って拡散していった。軽く揺らして、それから思い直して引き上げた。淡い照明に水滴がきらめいて、それをつやめかせるのが、まるで夢みたいにきれいだとジョミーは思った。
伝い落ちる液体で床に跡を描きながら、ジョミーはそれを寝台へと運び、そっと定位置に据えた。自らも寝台に上がり、それに寄り添う。清潔なシーツで大体の水分を吸い取り、邪魔な長手袋は外して、それに直に触れる。まだ水気が残り、ひやりとして心地良い。
洗い流しきれず残っていた煤を指で拭う。それから、舌を這わせた。苦い味が広がり、思わず眉が寄る。少しずつ位置を移動して、やがて味が変わっていく。その液体の源を求めて舐め上げ、至ったところを丁寧になぞる。むせかえる位に濃厚な鉄錆の味が、脳にまで浸透して、甘く痺れるようだった。そして衝動のままに吸い上げる。何か柔らかくて、つるつるした感触のものが喉に流れ込む、生ぬるい感覚を捉える。汁気のある音を立てて呑み下したそれが一体何だったのか、もうどうだっていいとジョミーは思った。更に求めて、丁寧に、丁寧に、唇で拭っていく。愛しくて愛しくて、胸の内より熱が込み上げる。
すっかりきれいになったそれに、ジョミーは満足した。
そして、正面から、静かに恭しく口づけた。
これでいい。
ほら、こうしてシーツに包んで、切断面を隠してしまえば、まるであなたが眠っているようだ。とても穏やかに、安らかに、何の苦しみからも解放されて、幼い表情をして。
あなたは僕のものだ。
あなたを、保存しておかなくてはいけない。
分解しないように、変質しないように、あなたを留めたい。
ちゃんと組織固定をして、変わらないように、大事にとっておかなくてはいけない。
精神は身体に宿る。心は物質だ。
だから、あなたを繋ぎとめるには、あなたのかたちを留めておくほかない。
それ以外のあなたは、本当のあなたではない。
僕の記憶するあなたは本当のあなたではない。
皆の胸にあるあなたは本当のあなたではない。
僕が欲しいのは、本当のあなた(なのだから。
腕の中に、欲しかった、あなたが!
ブルー、ああ、
僕はあなたに口づける。
あなたの首に口づける!
End.
夢の#17。テーマは接触というより摂食そしてクビキリ・リサイクル。サロメなジョミー、漫画で表現するのに効果的な話だった気がしますが私は絵が描けないのでガクリ。
2007.08.30
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