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人形を愛した王さまの話 / Sugito Tatsuki







その王さまは、偉い方にしては珍しく、贅沢な暮らしというものに関心をお持ちではありませんでした。熱心に富を集めることも、豪華な美術品で宮殿を飾り立てることも、装飾で壁面を埋め尽くすことも、世界中の美味や珍味を味わうこともありませんでした。王さまにあるのは少しばかり上等のマントと、受け継がれた慎ましい冠だけでした。
思慮深い王さまは、威張り散らすことも大声で怒鳴ることも、厳しいお触れで人々を恐がらせることもありませんでした。そんなものに頼らなくとも、王さまは立派に王さまでした。人々の中にあってひときわ品位ある麗しい姿は、いかなる宝玉にもまして多くの心を引きつけ、輝くばかりの高潔な瞳に潜む強い意志は、見る者全ての心を打ちます。人々はいかなる時も王さまの纏う気高い威厳を感じられましたし、この方こそ(あるじ)だと思って仰いでいました。

およそモノに対して執着する心をお持ちでない王さまは、簡素なお部屋に絵画のひとつも飾っていませんでした。ただ、広いばかりで寒々しく殺風景な空間に、ひとつの像だけ、大事に据えていました。王さまはモノにはこだわりませんでしたが、この像だけは特別でした。
王さまは若くして玉座に就き、ご苦労をなされて人々の信頼を得ましたが、多くの人を従えても、たいへん孤独でありました。王さまがあまりに抜きんでて優れた方なので、誰も王さまと対等に議論を交わすことができなかったのです。気の毒なことに、宮廷には、王さまを崇めて素直につき従う人々はいくらでもありましたが、頼りになる参謀や、迷った時に教えを請える賢者や、親身になって相談に乗ってくれる側近のひとりもありませんでした。治世が平穏ならばまだましでしたが、実際には先代から引き継いだ問題が山積みでした。次から次へと心を悩ませることがあちらこちらで積み重なって、少しの休息もままなりません。王さまの友人といえるのは、長年を共に過ごしたペットの小動物くらいのものでした。

お部屋にひとりで過ごす、僅かばかりの貴重な休息の時間に、王さまは眠るよりも大事なことがありました。ただひとつだけ自室に据えた、自分の背丈くらいの像に、王さまはじっと向かい合うのです。王さまの緑柱石の瞳には、その姿はもう爪の先まで焼きついているのですが、ただ思うのと、ほんとうにかたちがあるというのは違うものです。眺めて鑑賞するだけではなく、王さまは像に語りかけるのでした。
王さまのほんとうの心を知っているのはこの像だけです。王さまは、誰にも言えずに抱え込んだ辛いお気持ちを、この像に向かう時だけは素直に告白することができました。また、難題にぶつかって悩む時、像に問いかけることによって心が鎮まり、不思議と進むべき道を見いだせるのでした。像は王さまの良き対話相手でした。時に励まされ、癒され、助けを借りて、王さまはまた頑張ることができます。王さまはこの像を大事な支えとして、誰よりも信頼し、心を許していました。それを王さまは、格別おかしいことだとは思いませんでした。決して王さまの姿を映してはくれない瞳を見つめて、王さまは今日の出来事を伝え、悩みを打ち明け、最後に跪いて祈りを捧げます。

命を持たないモノであっても、そこに思いを向けて慈しみ続けたら、いつしか心を宿すようになるといいます。王さまは像が命を得ることを望みました。物言わず冷たく固まったそれが、温もりを持ち、しなやかに動いて、こちらに微笑み、麗しい声で名を呼んでくれたら、どれだけ良いだろうかと、王さまは思い描くのでした。そして、その身体をしっかりと抱き締めることが出来たら、どれだけ良いだろうか。想像してみると、王さまは何とも堪らず胸が苦しくなります。他の誰も、冷静な王さまの心をこんなにかき乱すことはありません。王さまは、叶わぬ恋心を抱いていたのです。

王さまは、いくら忙しくしていても、一日だって祈りを欠かしたことがありませんでした。その熱心にはわけがあります。毎日毎夜、王さまが像に祈りを捧げることを千回繰り返したら、きっと願いは叶うでしょうと、宮廷の占い師が申し上げたのです。実はこの占い師は神秘の力を持たず、ただ王さまの心を少しでもお救いできたらという思いから出まかせを申し上げたのですが、王さまはお聞きいれになったのでした。

それから、王さまと像の神聖な儀式が始まりました。モノに心が宿るというのは、考えてみればたいへんなことです。並大抵のことではありません。奇跡には、それに値する対価を支払う必要があります。きっと、普通に千回願うだけで叶うものではないでしょう。愛するもののために心身を捧げ、自分の命を削り与えるくらいの覚悟が求められる筈です。一回一回、王さまは、これ以上できないくらい一心に思いを込めて祈りを捧げました。その度に、これでも足りないのではないかと不安が起こり、次はもっと力を尽くさなくてはいけないように思えて、王さまはいろいろな方法で祈りました。
時には恭しくひれ伏し、爪先に口づけて祈ります。時には冷たい唇や空っぽの胸に直接息を吹き込むようにして祈ります。烈しい生の衝動を注ぐのが一番効果がありそうで、左手で滑らかな像の表面を撫でながら、右手でご自分の熱い昂りを慰める時にも、王さまは情動に乗せた思いの全てで祈るのでした。

そんな調子でしたから、そう簡単に何回も祈りを捧げるというわけにはいきません。これを千回というのは気の遠くなる話で、達成するのが先か、王さまがお疲れのあまり倒れてしまうのが先か、といった具合でした。それでも王さまは、お仕事の場で憔悴のご様子を見せることはなく、黙々と任務にあたられたのでした。



ところで、王さまは戦争をしていました。先代の世から引き継いだもので、楽な戦いとはとても言えず、宮殿にまで火の粉がかかり、王さま自ら出陣する危うい場面もありました。圧倒的な数の敵を前にしながら、王さまは挫けませんでした。

王さまは負けるわけにはいきませんでした。敵を打ち倒しながら、王さまの心には千回の約束が一番にありました。ここで自分が死んでしまったら、あの像に命を与えられなくなってしまう。百、二百と祈りを重ねて、だんだんと生気を宿し、今にも動き出しそうなまでにヒトに近づいた、その像を残していくわけにはいかない。
王さまが負けて、宮殿が敵の手に渡れば、像はきっと打ち砕かれてしまうでしょう。それは王さまにとって、愛しい者が無惨に殺されるのと同じことです。
いや、それならまだ良い。もしかしたら、下賤な敵兵どもがあの像を見つけて、欲望の対象とし、陵辱の限りを尽くすかもしれない。それは王さまにとって、いくら犯人を殺しても足りないくらいに憎いことです。
いや、それならまだ良い。もしかしたら、あの美しい像は戦利品として持ち去られ、敵の王に献上されるかもしれない。魅了された王が千回目の祈りを唱え、像は命を得てしまうかもしれない。そうしたら、自分に向けられる筈だったその微笑みも声も温度も、そっくり奪われてしまうのだ。それは王さまにとって、自分が死ぬより辛いことです。二人が祝福のうちに寝台で睦みあい結ばれる、おぞましい光景が目に浮かびます。そんなことになるくらいなら、いっそ自分の手元にあるうちに、愛しい像を粉々に叩き壊した方がましです。

王さまは敵の王を嫌っているわけではありません。相手が誰であっても同じことです。たとえ像を横取りして自分のものにしてしまったのが、王さまの忠実な臣下の誰かだったとしても、王さまの気持ちに変わりはないでしょう。像は創られた時から王さまの持ち物で、それが命を持っても、やはり王さまの所有物であることに変わりはありません。王さまは多くの人と違って、新たにモノを買い求めたり、他人を羨んで奪ったりすることに関心はありませんが、自分の持ち物には人並みかそれ以上の執着心があります。心配なので、王さまはお部屋を離れる時には像を厳重に護って隠し、もしもの時には内側から砕けて欠片も残らないよう仕掛けを施しておきました。像は自分から歩いて逃げだすことはありませんから、王さまは安心できます。

しかし、願いが叶い、像が命を得て意志を持ったらどうでしょうか。ヒトとなった像は、こんな風に支配できませんし、王さまの言うことを聞かずに勝手にどこかへ行ってしまうかもしれません。いくら王さまが愛を注いでも、王さまを愛してくれるか分かりません。そういう当たり前のことを、王さまは考えませんでした。王さまは、ただ像が命をもって動いてくれれば、何もかもがうまくいくと思っていました。失ったものも、辛く苦しい日々も、みんな取り戻せると思っていました。



王さまが像を愛でていることは、宮殿の人々の皆が知っていました。王さまの行動を不思議に思ったり、気味悪がって止めさせようとする者はありませんでした。むしろ、無理もない、当然だと思い、口にこそしませんが、王さまのお気持ちを察して同情さえしておりました。王さまの悲しい恋心の理由を、人々はよく知っていたからです。そして、王さまの心が像ではなく、そのずっと先に向けられていることも、ちゃんと理解していました。
実のところ、たいへん多くの人々が、王さまと同じように、その像に深い思い入れを抱いていました。彼らは像を見ると、切なく胸が痛むのです。中には涙ぐむ者もあります。像があまりに美しく、見る者の心を奪うからというだけの理由ではありません。その姿が、いなくなってしまった大切な人の記憶を呼び起こすからです。

像は、職人が己の理想美を追求して創作し、王さまに献上したものではありません。作り物めいた幻想のような優美な姿は、かつてちゃんと生けるものとして存在していました。奇跡のようなその存在は、今の王さまの前にその地位にありました。あらゆる刃を防ぎ、攻撃を撥ね退け、圧倒的な力で人々を護る王は、まさしく理想の指導者として敬愛され、その世がいつまでも続くものと思われました。しかし、王にも生身のヒトとしての限界がありました。王は戦の中で傷を負い、血を流し、無惨に倒れて命を落としました。そして、今の王さまに冠が継がれたのです。

王さまは、その人の死を悲しみました。王さまは、自分が位を譲り受けても、ずっとその人が生きて傍にいてくれることを望んでいました。それはいろいろな心得を学び、偉大な先代に追いつきたいという思いは勿論、それだけではなかったことに、王さまはその人を失って初めて気が付きました。
その人との大事な記憶が薄れていくのが嫌で、王さまは像を創りました。記憶をかたちにして留めておくために、王さまは他の方法を知りませんでした。本物と寸分違わぬ、冷たくきれいな像を間近で見つめた時、王さまは自分の思いを確認しました。
もう一度、逢いたい。
強い思いを、王さまは抑えることが出来ませんでした。

人々は、王さまが像を大事にするのは、自分たちと同じように、その人との大切な思い出を守っているからだと解釈しています。像に命を吹き込んで、その人を蘇らせようなんて、王さまが本気で考えているとは夢にも思いません。王さまは真剣でした。愛しい人にもう一度逢えるかもしれないという儚い希望だけが、王さまをぎりぎりのところで支えていたのです。

王さまの愛しいその人を手にかけ殺めたのは、敵の王でした。王さまは、不思議とその敵に憎しみが起こりませんでした。あともう少しで千回の祈りを捧げ終えたら、願いは叶うのです。望み続けた人にもう一度逢えるのです。そう思えば、一時の別れなど些細なことに感じられて、暴虐を為した敵に対しても平穏な心を保つことができました。
王さまは、望みが叶ってその人にもう一度逢うことができたなら、その手を取って、二度と離れまいと誓いました。今度こそ、その人は王さまだけのものです。勝手によそへ行って、それきり帰らぬ人となるなんて悲劇は二度と起こりません。王さまとその人はずっと結ばれるのです。その人と二人ならば、王さまは冠を棄ててもいいし、この身がどこへ堕ちようとも恐れまいと思いました。



ある時、王さまは祈りを捧げました。とても静かな寒い日で、王さまは心に空いた穴がいつになく痛む気がしました。靄でも出ているのか、視界は薄闇に包まれて、肌寒く、どこか寂しく心細い気持ちです。王さまは、体温がどこかから流れ出してしまっているのか、自分の指がうまく動かせないくらい冷えきっていることに気がついて、無性に温もりが恋しくなりました。いつもと同じ言葉に、いつも以上の思いを込めて祈ります。

あなたに逢いたい。もう一度、あなたに逢いたい。

その時、不思議なことが起こりました。ぼんやりと暗闇に呑まれかけた王さまの目の前に、乳白色の光を纏い、優美な線を描く手が差し伸べられたのです。王さまは思わず息を呑みました。そして、ゆっくりと面を上げると、あまりの懐かしさと喜ばしさが胸に溢れ、王さまは何も言うことが出来ませんでした。それでも、こぼれそうな思いを言葉に綴ります。
――ああ。あなただ。
王さまの目には、毎夜語りかけ、祈りを捧げ、愛し続けた、その人が優しくこちらに手を伸べている姿がはっきりと映っていました。望み続けたその姿は、穏やかな光に淡い輪郭を透かし、繊細な指先までが慈愛に満ちて、王さまの求めたその人そのものでした。王さまは、恐る恐る、その人の細い手をとりました。温かく、柔らかい、生ける者の手でした。
とうとう、王さまの澄んだ瞳から、涙がこぼれ落ちました。祈りを捧げ始めてからというもの、流したことのない涙でした。温かい雫が、ずっと重責に張り詰めていた王さまの頑なな心を解き、凍てついた感情を包んで溶かします。それから王さまは、ぎこちなく笑いました。もうずっと忘れていた、穏やかで温かい気持ちが心に満ちました。

無垢な少年の表情で、王さまは静かに瞼を閉じました。ひとりきりで心細い暗闇はもうありません。優しく包み込む心地良い藍色の闇に、王さまは身を任せました。二人ならば、何も恐れることはありません。何もかも受け容れて頷いてくれた、その人の名前を、最後に王さまは呼びました。



それは、実際には声にならなかったかもしれませんし、たとえ口にしていても、轟音でかき消されてしまったでしょう。ここは戦場で、深手を負った王さまは冷たい土に血を染み込ませ、今まさに命尽きようとしていたからです。
その日は、王さまが祈りを捧げ始めてから、ちょうど千回を数える日でした。この夜に祈りを捧げたら、望みが叶う、最後の日でした。




[ おしまい。 ]
















フィギュア好きシン様。あれはホログラムじゃないのか。


2008.08.28


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