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いかにして15年の空白は夢見る少年に十分な痕跡を残し得たか / Sugito Tatsuki






◇   ◇   ◇








手紙を書くことにしました。
本当は、こんなもどかしい手段ではなくて、直接に伝えたいのだけれど、已むを得ません。考えた末、きっとこれが一番だと思いました。

あなたが昏睡状態に陥って、180日が過ぎようとしています。いや――正確に言えば、昨日までは、あなたはただ深く眠っているだけで、昏睡状態とはみなされていなかった。きっと明日には目覚めるだろう、そう希望を抱いて、この船の誰もが皆、日々を重ねてきました。そして、六ヶ月目の今日、いよいよ目覚める気配のないあなたは、正式に、昏睡状態と認定されたわけです。
思えばおかしな話ではありませんか。あなたは昨日までのあなたと何も変わらない。けれど、僕たちの心にあった小さな希望は、今日という日をもって、無慈悲にも踏み躙られてしまったのだから。

あなたは、たまたま長く眠りに就いているだけで、190日目に静かに目覚めるかも知れない。昏睡状態扱いされていたことを知って、笑うかも知れない。そんなことは誰にも予測できません。先のことなんて分からない。何だって後から知れることばかりです。今の時点で言えるのは、あなたの目覚める時について、何ら確かなことは言えない、ということです。呆れてしまいますよね。なにしろ何も分からないのだから、仕方ありません。希望的観測に則れば、絶対に今日中に目覚めることはないと言い切ることもできない、というわけで、――だからこそ、可能性はあるといっていいのです。
それでも、いくらあり得ることだといっても、確率は極めて低い。明日や明後日には、きっと目覚めまい。180日間眠り続けた者は、190日目にもまず眠っている筈で、そこで異常は正常に反転する。今やあなたは、目覚めずにいることの方が当たり前で、正当で、自然であるという風に、はっきりと定義づけられてしまった。それが、あなたに下された、昏睡状態という所見であり、その根拠が、今日までの180日なのです。

いや、いや、いや。
こんなことは、別に改めて書かなくていいことでした。説明するまでもないことでした。あなたは、自発行動こそ見せないけれど、その実、意識を明瞭に保って、状況の全てを理解しているかも知れない。本当は、今も僕の声を聞いているのではないでしょうか。それは是非とも知りたいところです。
けれど、問いかけてみても無意味なことだとも分かっている。たとえ聞こえていたとして、応える術を、あなたは持っていない。はがゆい思いをしているのは、きっとお互い様です。
だから僕は、信じるだけです。きっとあなたは分かってくれていると、信じて今日も、声で、心で、語りかけるだけです。

僕は不安です。あなたに語りかける、この声は、ちゃんと届いているのだろうか。触れる手の感触を、あなたは感じてくれているのだろうか。僕に確かめる術はありません。あなたに捧げているつもりで、儚く静寂に溶け消えてしまっているかも知れない。そうしたら、何の意味もありません。あなたに届かない行為に、いったいどれだけ価値があるでしょうか。
その場限りで消えていってしまうものは、どうも信用なりません。声も、温もりも、感触も。だから、かたちに留めて残すことにしました。
手紙です。
これなら、もしもあなたに届いていないとしても、僕が伝えようとした意思だけは残る――なんて、保険みたいな計算も少しだけ入っています。その場合、つまり、あなたが眠っている間のことを何も覚えていなかった場合、目覚めたあなたに、これを読んで貰いたい。どれくらいの量になっているか分からないけれど、書きためた僕の思いを。

僕が手紙という少々アナクロニズムな手段をとるに至った経緯は、だいたいこんなところです。こうしていると、今現在のあなたに向かっているような、いつの日か目覚めるあなたに向かっているような、何とも不思議な心持ちになります。あるいは、自分自身を確かめているのかも知れないとさえ思います。我ながら、ふらふらと頼りないけれど、これから書き連ねるうちに、ちゃんと分かっていくことでしょう。

今日の船内の出来事については、先ほどお話した通りです。こちらは多分、誰かが日誌にでもつけているだろうから、ここに書くことはしません。僕は僕で、代用のきかないことを書き残したい。つまらなくて、くだらなくて、けれど大切な、そんな話を、あなたに聞いて欲しいんだ。

こうやって、あなたに伝える術ができて、少しほっとしています。続きはまた。おやすみなさい。

◇   ◇   ◇


あなたに伝えることを前提としている点で、これは日記とは違います。僕だけに分かればいいのではなくて、あなたに分かって貰わなければ、何にもなりません。ここに書き記すのは、気紛れに浮かぶ身勝手な心の声のいちいちなどではなくて、僕があなたに伝えたいこと、ただそれだけです。
読んで貰えないならば、書くことに意味なんてないと思います。頭の中にしまい込んで、自己完結すればいい。書こうと思い立つ時点で、いつか誰かに読まれることを期待している。その誰かに向けて、伝えるために、言葉を選ぶ。いつだって、語りかける先には、そういう「あなた」がいる。少し時間軸を先行する自分自身さえ、対象化して「あなた」となる。その意味で、書かれたものは日記だろうと何だろうと、全ては手紙だといっていい。

今更ながら、僕が手紙を書くという奇妙なシチュエーションが、むしろ正当であるように感じられてきました。そうだ、僕はあなたに伝えたいのだから。あなたのために書くんです。手紙なんて柄にもないことをやっているのも、あなたのためです。あなたに届くと確信するから、伝えたいことを今日も綴る。まるで疑いなく未来を信じきっている幸せな子どものようで、気恥ずかしい。でも、あなたもこういうのは嫌いじゃないでしょう。それで十分です。
結局のところ、僕は様々な方法を使って、あらゆる方面から、あなたの気を引きたい。そのいくつもの手段のうち、今選べる中で適当だったのが、たまたま手紙だったと、それだけのことです。

ここに連ねた言葉が、あなたがどう届くのだろうかと、想像しては心が高揚します。

これを読むあなたは、どういう風に受け止めるのだろうか。
かつての自分として、あるいは、リアルタイムの自分として、向けられた言葉を受け止めるのか。自分として、あるいは、第三者として。手紙という手段は、その辺りが微妙です。例えば僕は自分の書いたものを読み返してみたりする。あなたに向けた言葉を、そっくりそのまま、もう一度自分の手元に取り戻すことが出来る。かたちがあるということは、つまり、これを読む者は、誰であっても、僕があなたに向けた言葉を受け取ることが出来るということです。

これまで僕は、告げた言葉はその相手にしか残らないものだと思っていました。かたちがないから、その場限りだから、渡してしまったら後はどうしようもない、そういうものだと。こんな風に、僕の手元に残したままで伝えられる、何度でも繰り返すことが出来るなんて、本当に奇妙だ。
書き綴る時は、あなたに語りかけるつもりで思いを込める。読み直す時は、これを受け取るあなたの側に立っている。その意味で、ここに記録されるのは、いつでも過去の自分なのです。
過去の自分が、あなたに宛てた言葉。
どこにも行けなかった言葉。
それが確かにあったことだけ、証として書き留められた言葉。

書き記された言葉は、誰でも読めるのだけれど、僕にとって「あなた」はあなただけです。あなたのこと以外、僕は書きません。他に何も、必要ない。あなたのことしか、考えたくないんだ。ただあなたを待つことで時間をやり過ごせたら、どれほど良いだろう。

あなたは、僕のことを考えてくれているだろうか。
夢の中で、少しばかりでも、思ってくれているだろうか。
あなたを見つめては、過ぎた望みを抱いてしまう。
けれど、それがあなたの心を煩わせることになるのだったら、僕は欲しません。
そんなかたちであなたを独占しても仕方がない。

あなたが悪夢に囚われているのでなければ、それでいい。
何も出来ないから、願うだけです。
捉えられない意識の底で、あなたが苦しんでいないように。
束縛を離れ、心穏やかであるように。

どうか、おやすみなさい。

◇   ◇   ◇


今の僕が願うこと、それは、あなたと再び言葉を交わすことです。あなたに聞きたいことが、あなたに聞いて欲しいことが、たくさんある。それは、あなたじゃないといけないんだ。
ここへ来てからというもの、あなたと話すことが、いつも心の拠り所でした。僕たちは緩やかに繋がっている。おかしな力のおかげで、顔を見なくても心が分かる。特に、僕の思っていることなんて、隠そうとしたところで全て筒抜けの筈だ。だから、改めて話をする必要なんて無いのかも知れない。それは、あなたにとって、冗長過ぎる手続きかも知れない。と、そう思わないでもない。
それでも、これはただ無力なヒトとしての習慣が抜けないためだろうか、あなたと話したい。あなたの声が、聞きたいんです。

あなたが僕に応えてくれることが嬉しい。あなたの中に、僕が届いたんだと分かるから。あなたの心に、僕がひととき、留まるスペースを作ってくれたことが、知れるから。そんなことが、僕は何より嬉しいと感じます。出来ることなら、あなたにはずっと、僕のことを考えていて欲しいとさえ思います。知っていましたか? 多分知らないでしょう。だから、言わなくては分からないだろうと思ったんです。
僕はあなたの中にいたい。たとえ、眠っている間でも。あなたをいつでも縛っておきたい。それなのに、実際には、束縛されて動けないのは僕の方なんだ。
あなたはいつも僕の中にいる。あなたの姿をすっかり覚えてしまった。あなたが深い眠りに就いても、僕の中で、あなたを見つめることが出来る。だけど、それは僕の知っているあなただけだ。僕の中にあるあなたの言葉は、あなたが既に語った言葉だけだ。過去の残骸を、僕は拾い集めて、飢えをしのぐしかない。

リアルタイムのあなたを、未だ知らないあなたを、僕は欲している。記憶だけでは、思い出だけでは、足りないのだ。次々と、僕に、新たなあなたをください。僕のために、語ってください。あなたから、もう何も引き出せなくなったとき、あなたが僕の中で固定されたとき、それがあなたの墓標となる。
あなたは、滅ぶには早過ぎるんです。
まだ、あなたのことを殆ど知らない。僕に何も残さずに、このまま静かに消えることは許さない。あなたにだって、きっと、言い足りないことがある筈です。僕たちは、いくら語り明かしても足りない。

待っているから、戻ってきてください。
もう一度、あなたをください。

◇   ◇   ◇


伝えるばかりで、応えて貰えないというのは、悲しいことです。仕方のないことだと分かっている。僕はいろいろな手段を試すことが出来るけれど、あなたには何も為す術がないことも、よく分かっている。
変な言い方になりますが、これはある意味、ちょっとした救いでもあります。あなたは本当は僕に応えたいけれど、出来ずにいるだけなのだと、そう理解して、ささやかな慰めとすることが出来るから。確かに伝わっていて、応えられる状況にあるのに、返事どころか反応も貰えない、そんな救いようのない場面に直面するよりは、いくらかはましです。こういう逃げ道を用意するのは卑怯でしょうか。けれど、僕はそうして、なんとかこの現状を受け容れるしかない。
たとえ、臆病であっても。
妄想であっても。
ねじ曲がっていても。
間違っていますか? だったら、教えてください。正しいやり方を。そんなものが、あるのなら。

手紙という手段は便利です。返事への期待が薄いから。相槌もなしに、独りで喋っていることを自覚するほど、空しいことはありません。その点、手紙なら、気付かずに済む。滑稽な独り芝居だと、気付かずに済む。
すぐに反応が返ってこないことは分かっています。落ち着いて、忘れたころに、ふと届けばいい。なんなら、忘れてしまってもいい。書いたことも、伝えたことも、言いたかったことも、思いも何もかも。それらは、言葉を綴った時点で、既に達成されている。届けることすら、しなくてもいいくらいです。
いつか、あなたが応えてくれることを、小さな期待で心の隅に留めたまま、守っていくことが出来る。押し潰されるほどには重くなく、消え失せるほどには儚くない。これくらいがちょうどいい。あなたはいつ目覚めるか分からないのだから、それを待つ側としては、途中で息切れしないように、慎重すぎるくらいでいい。

意外と――どうにかなるものだなと思います。最初は致命的なくらいに感じた、あなたの不在、その事実に変わりはないのに、今は状況に適応した自分がいる。思念すら交わせなくなって、180日を数えるまでの間にあった、あらゆる種類の嘆きと、戸惑いと、祈りと、絶望と。ずっと心臓に刻み続けるのだと思った、あの痛みを、もう忘れかけている。
すっかり慣れて、麻痺してしまったのか、あるいは、失くしていったのか。いずれにせよ、これは一般的に、望ましいことだとされています。いつまでも悲しみに沈んでいては、仕事にならない。ある程度の期間でもって、適当に折り合いをつけなくてはならない。あなたが昏睡状態と認定された日は、その段階のひとつであったのだと思います。
こうして、少しずつ――忘れていくのでしょうか。あなたがいなくても、どうにかなると、思うようになるのでしょうか。それは――僕の中で、あなたの重要性が薄れていくことと、何が違うでしょうか。あれほど待ち望んだ、あなたの目覚めに、いつか、僅かな期待も抱かぬようになるのでしょうか。あなたを、――諦めるのだろうか。

それは嫌だ。
あなたを忘れるのは嫌だ。あなたに抱いた思いを失うのは嫌だ。
どうか、僕に覚えたままでいさせてください。

……全然、本当の気持ちなんかじゃなかったよ。無理に繋いでいただけで、嘘ばかりだ。こうして言葉にしていると、勘違いしてしまいそうになる。これが僕のありのままの心の内なのだと、自分でも間違えそうになる。

違うんだ。どうかこんなもので僕を判断しないで欲しい。もっと、違って、言葉にも出来ない。
いっそ、あなたに全て明け渡したい、けれど、見せたくもないんだ。
多分それが、最後の矜持だと思うから。

あなたは、どちらが欲しい。
目を背けたくなる、グロテスクな情動と。きれいに整えられた、心温まる言葉と。どうしたらいい。

あなたに逢いたい。応えてください。あなたと僕が、こうしていても、ちゃんと繋がっているのだと、分からせてください。

◇   ◇   ◇


あなたの夢を見ました。記憶のどこにもない言葉を紡いで、知らない場所を歩くあなたは、睡眠中に記憶を整理する、この脳内で、繋ぎ合わされ創り上げられた紛い物でしょうか。僕はそうだとは思いません。いや、そうだとしても構いません、僕はあなたに出逢えるだけで嬉しいのだから。それで、紛い物ではなく本物だとしたら、より嬉しく思います。

あなたはかつて、度々僕の夢に現れました。まだ何も知らず、アタラクシアの家にいた頃です。あれには悩まされたけれど、思い返してみれば、いっそ羨ましいほどです。何度もあなたを見つめることが出来るから。
そうして、あなたは僕の夢にアクセスしていた。だから、今もそうしているのではないかと思うのです。身体が自由にならない代わりに、夢の中で、あなたは僕に伝えようとしている。僕たちの夢は繋がっている。そう思うと納得がいきます。眠ることで、あなたの意識と繋がることが出来る。僕たちの備える未知なる力を思えば、別段に不思議なことではありません。
覚醒レベルがあなたと同調したとき、出逢えるのだとすれば、夜はあなたのために、意識を沈めて待っています。あなたのどんなに小さな声も、儚い気配も、逃すことのないように。そして僕はまた、あなたを知ることが出来る。

どうか、応えて欲しいと、願った僕の思いが、あなたに届いた。あなたは応えてくれた。僕はあなたを確信しました。あなたは確かに、僕を分かってくれている。やはり、こんな状態でも、あなたは僕の声を聞いて、思いを受け止めて、返してくれているのだ。それが嬉しい。

きっとまた、逢えるのだと思います。
そう思うと、眠ることが楽しみで仕方がありません。
良い夢を。おやすみなさい。

◇   ◇   ◇


夢で出逢うあなたは素晴らしかった。夢心地で現実味がないのに、しっかりと抱き締めた時の充実感で一杯になる。この上なく近づいて、境界が融けていくのを喜びながら触れ合い、奥底まで交わる感覚。強烈な焦燥が脊髄を駆け昇って、脳を麻痺させる甘い熱。上りつめた緊張が解放され、ゆっくりと落ちながら浮遊する、気を失いそうな多幸感。重力と肉体に縛られる限り、決して得ることの出来ない歓喜。
こんな夢、まるで夢のようだ――なんて、トートロジーでしか言い表せない。負けを認めます。僕はあれを言葉で表現するには力不足というものだ。言葉を失うほどの素晴らしさ、という陳腐で便利な決まり文句の使用制限を、今だけ解除します。

僕はこうして、あなたに伝えることしか出来ない。けれど、それを不幸には思いません。無力な己を嘆いたり、寂しさに耐えきれなくなったりすることもありません。あなたと直接に言葉を交わすことが出来たなら、どれほど良いことかと思うけれど、だからといって、現状を厭うものではありません。
あなたにちゃんと通じている。
あなたは応えてくれている。
それを知って、僕は満ち足ります。あなたに逢うことが出来て、呼吸を忘れるほどに喜ばしい。

だから、正しい。
これが嘘偽りである筈がない。
夢幻であるわけがない。
これが、間違いのない、本当なんだ。

◇   ◇   ◇


おやすみなさい。
この言葉は不思議です。眠っているあなたに対して、この挨拶は適切でしょうか。
僕は、あなたに対して言っているというよりも、自分に向けて発しているような気になります。おやすみなさいと、言って別れた後は、大抵すぐに眠ることになるから。休むのは自分自身の方なのです。
だから、これは、あなたに告げるのと同時に、僕にも返ってくる挨拶なのだと思います。もしもあなたに、その術があるならば、きっと僕に同じ言葉を返して応えてくれただろうことを承知して、僕はいつも最後に告げる。

おやすみなさい。

◇   ◇   ◇


あなたと繋がる術が分かった。それだけで僕は、いくら感謝を捧げても足りない。ただ残念なのは、所詮は夢の世界の出来事だからでしょうか、味気ない目覚めと同時に、束の間のひとときは急速に色褪せてしまう。留めておきたくて、守ろうとする両手の間から、かたちを失ってさらさらとこぼれ落ちてしまう。確かに掴んだ筈なのに、残るのはささやかな喪失感だけ。

夢の内容を覚えているのは、良くないことだとも聞きました。それらは元来、忘れるべきものたちなのだと。確かに、それが正当でしょう。夢が、脳内の記憶処理の副産物にしろ廃棄物にしろ、そんなつまらないもの、覚えておくような価値なんてありません。
この頭の中で出来上がったものは、既に知っていることの欠片の寄せ集めであって、紛い物であって、二番煎じであって、新奇さなんて存在せず、極めて自己完結的です。そこに価値を見出すのは、余程物忘れが激しく、同じものを何度見ても初めてのように感動出来る幸せな人間か、あるいは、同じ材料を少し組み替えただけで何かしらの創造的な仕事を成し遂げたと思い上がっている傲慢な輩です。
そんな風に、くだらない妄想を大事なもののように取り扱うことを、僕は嫌います。だから、夢なんてさっさと忘れてしまう方が良いのです。

ただし、あなたと出逢う夢の場合、話が別です。これは妄想でも何でもなく、そこにあなたが居て、確かに僕と言葉を交わしているのだから。夢というシチュエーションに場を借りているだけで、紛れもない現実なのです。
現実に、あなたと僕の意識が繋がって、自由に交わっている。夢という呼び方さえ、不適切であるかも知れません。これは僕の閉じた頭の中で繰り広げられる映像とは違う。忘れていいような廃棄物なんかじゃない。かつて、あなたが僕にかけてくれた言葉の一つ一つと同程度の重みでもって、覚えていなくてはいけないことです。
だから、目覚める度に、僕は今しがたの夢の内容を急いで反芻します。あなたが、どんな風に振る舞い、どんな風に優しく、どんな姿で、どんな声で、どんな仕草で、僕に呼びかけてくれたか。あなたは何を伝えようとしていたか。僕は何を応えたか。
忘れるわけにはいきません。それは、かけがえのない、僕の糧なのだから。数少ない、僕が生き続けられる理由の根源なのだから。

◇   ◇   ◇


眠ることで、深く水底へ沈んだあなたの意識と同じレベルまで降下して、そして再び、出逢うことが出来るならば。僕はずっと、覚めることない夢にたゆたいたい。目も耳も塞いで、身体も感覚も存在しない、心地良い安らぎにまどろみたい。そうして鼓動を止めてしまえたら、どんなに良いだろう。
あなたに逢うために、僕は眠ります。幸いなことに、僕は殆ど自室にひきこもっていても、誰からも窘められるということがありません。働けと、あなたは叱咤するかも知れない。けれど、僕はあなたのような責任ある仕事を請け負うには、まだ未熟過ぎる。周囲の皆も、口に出さなくても内心、そう思っています。あなたの声があれば、また違ったかも知れない。ともかく今、僕の立場は非常に曖昧です。あなたに導いて貰わなくては、戸惑いが募るばかりで、どちらへ向かったらいいか分からない。
僕の後ろだてはあなただけです。どうか、教えてください。僕の声を、聞いてください。

◇   ◇   ◇


不思議なことがあります。どうして僕は、あなたの声が聞こえないのでしょう。僕はあなたと夢で出逢い、確かに会話を交わしています。そこであなたが何と言ったかは、ちゃんと記憶に留まって、その一つ一つを諳んじることが出来ます。
ただ、何故か、あなたの声を思い出せない。あなたがどういう風に、その言葉を口にしたのか、思い出せない。これも、夢だから仕方のないことでしょうか。どうやら、僕の夢には音というものが欠落しているとみえます。心地良いあなたの声を、もう一度、耳に響かせたいと思うのに、それにはあなたの目覚めを待つしかないようです。
あなたは、音声を使えない代わりに、別の手段で僕に意思を伝えているのですね。思えば当然のことです。音声、あるいはそれに準ずる思念波で僕に呼びかける術があるならば、あなたはとっくにそうしているでしょう。それが叶わないから、夢を繋げて、直接僕に思いを読み取らせる方法を採っている。
分かっています。声が聞きたいなんて、無理は言いません。出逢えるだけで、僕は満ち足ります。深く沈んで、あなたの思いの中心に触れられることを、喜ばしく思います。こんな風にあなたと交歓出来るのは僕だけです。心の底から、光栄に思っています。

◇   ◇   ◇


寂しい。壊れてしまいそうだ。

◇   ◇   ◇


睡眠導入剤が、効かなくなってきました。もっと強くしなくてはいけないかも知れない。
そのせいでしょうか、この頃あなたの夢を見ません。多分、忘れてしまっているだけなのだと思います。そうだとしても、あなたに逢っておきながら、目覚めたらすっかり忘れているなど、実に情けなく、申し訳ないことです。ごめんなさい。

最近おかしいんです。目が覚めると、とても空しい気分になります。今朝もまた起きてしまったことを後悔し、恐ろしくつまらない一日を思って、溜息が出ます。身体は重くて煩わしい。目覚めとはこんなに不快なものだっただろうか。
覚醒の感覚を忘れて久しい。増殖する喪失感が、頭の中を覆い尽くしてしまいそうだ。振り払うことはもう諦めた。どうせ気分は晴れない。重苦しく纏わりつく、思考は不明瞭なままで、とりとめなく循環している。
起きていたって仕方がない。何もやりたいことがない。僕はただ、あなたに逢いたいだけなんだ。現実は限りなく味気ない。つまらなくて、下らなくて、仕方ない。

僕はあなたの隣がいい。あなたと同じ眠りに落ちたい。
あなたに逢えるところこそ、信じるに値する世界だ。僕のあるべき場所だ。

指が震えて上手く書けない。もう寝ます。おやすみなさい。

◇   ◇   ◇


あの気持ちを、どうして忘れてしまうのだろう。
心が震えるほどに、確かに感じていた筈なのに。
……すぐに、通り過ぎてしまうんだ。だから、繋ぎとめなくてはいけない。

それはもう、自動的なルーチンワークでしかなくて、何のためにしているのか、理由も忘れた。
最初の気持ちは、やはりずっと前のもので、覚えてなんていられなかった。
あとはもう、急かされるままに、記述するだけだ。
誰に向けて。何のために。何を求めて。
一つだって分からないまま、それでも問題なく進行する。
止めてしまうことを恐れて、終わることに怯えて、無理やりに繋ぎ続けるしかない。

いったい、何を掴んだつもりになっている。
捕まえたとでも思っているのか? 
やり直せるとでも思っているのか? 
そうして、言い聞かせているだけじゃないか。

本当は分かっている筈だ。

失くさずにいることなど、出来ないというのに。
それは、立ち尽くしたまま、緩慢に朽ち果てるのと同義だというのに。
忘れてしまったのか? そんな簡単なことすら、認めることを拒んで、僕は。

◇   ◇   ◇


………………………………

◇   ◇   ◇


つい先程、書いたのですが、棄ててしまいました。とてもあなたに伝える内容ではなかったから。でも、何があったのかくらいは報告しておきたいと思います。僕にとって、なにか大事なことのような気がするんだ。
思えば、あれこそが本当の意味で、あなたへの手紙だったのかも知れない。棄ててしまったから、もう分からないけれど。

今日もまた、いつものように書こうとしたところまでは同じだった。そこで、手が止まった。
何を書いたらいいか、分からなかった。急に、分からなくなったんだ。
暫く考えた後、一つ、あなたの名前を書いた。そうしたら、堪らなくなった。空白の中に、ぽつりと浮かぶ、あなたの名前。たったそれだけの、ちっぽけな文字列。それは何とも頼りなくて、不安定で、危うくて、心を掻き乱した。
このままでは、いけないと思った。取り消し線を引いて、なかったことにすることも出来た。何も見なかったことにして、何も感じなかったことにして、自分をごまかし、やり過ごすことも出来た。けれど、選んだのは違う方法だった。あなたの名前を消し去ることなんて出来ない。

だから、書いた。

書き連ねた。ただ、無心になって、書き殴った。
あなたの名前を。あなたへの訴えを。あなたへの憤りを。あなたへの願いを。あなたへの祈りを。
何も考える必要などない。あなたの名前が引鉄になって、次から次へと、追いつけない程の加速度で溢れ出す。その全てを、逃さず刻みつけるために、手を動かす。動かす。動かす。嗚咽が込み上げて、視界が滲んで、息が切れて、それでも止めなかった。止めるわけにはいかなかった。驚くくらいに荒々しく、最早意味なんて為さない言葉を、腹の底から引きずり出しては刻みつけた。それでも足りずに、拳を振り上げ、天板に叩きつけた。何度も、繰り返し、骨の髄まで痺れて神経が感覚を失うまで。声にならない声で叫び、訴えた。
逢いたい。あなたに逢いたい。逢いたい、逢いたい。
震えて上手く動かない手で、拙く綴る毎に、また情動が昂って溢れ出す。こんなのは、苦しいばかりだ。呼吸もままならず、ひどく息苦しい。敢えて自らを追い詰めていくような感覚。
どうして、こんなに烈しい情動を飼って、平然としていられた。一度解放したら、どうやって鎮めたらいいか分からない。
多分、止められないのだ。
書き尽くすまで。
もう何も、書くことがなくなってしまうまで。
これ以上、あなたに何も語れなくなる、その時まで。

声を上げること、泣き叫ぶこと、どちらにも逃げ場はない。
どこにも行けない、思いをあなたに、ぶつけることが出来たらよかった。
本当に、届けることが、出来たらよかった。

一度、書いたことはもう、取り戻せない。
僕は、あの時をいつまでも留めておきたくて、固定して保存しておきたくて、書き記すけれど、その時にはもう、大部分が忘れ去られている。思い返すことはできても、もう一度同じものを感じることはできない。ただ一度だけしか、感じることを許されないのに、未練がましくもしがみついて、何度も繰り返したがっている。そうして、言葉に落とし込んで記した、不完全な記録を、なぞっては蘇らせようとする。それはもう、殆ど元のかたちを留めていない、熱を失った抜け殻に過ぎない。それでも、そんなつまらないものを、大事に守っていくしかない。

手紙を、未来にこれを読む誰かに向けて書くけれど、常に過去しか記録できない。僅かな過去を、移しとって、書き記して、届くころには幾らかの残留思念の趣を湛える。

◇   ◇   ◇


返事なんて、貰えないのに。

あなたはもう、いないのだから。

◇   ◇   ◇


気付いていましたか。最初の手紙は、あなたが昏睡状態に陥ったから書いたものではない。そう書いてあるけれど、そうではない。そもそも本当は、あなたが昏睡状態にあった間に、手紙など書いていなかった。そんなこと、思いつきもしなかった。なにしろ、実際にあなたは、手の届くところで眠っているのだから。傍らに座って、いくらでも、触れて、語りかけることが出来た。わざわざ手紙などという回りくどい手段をとる必然がない。

すなわち、あれは、僕があなたを亡くした時に書いた。勿論、その後の手紙も、全て。宇宙に散った、あなたに向けて、届く筈もない言葉を綴った。
僕はあなたを都合2回、失ったことになる。あなたが昏睡に陥ったのは、いずれ来る別れの予行演習だったのかも知れない。実際に僕は、あなたの不在に直面した今、こうして、かつての体験と照らすことになった。まだ無知で、未熟で、幼かった、あの時と、同じ過程を同じようになぞって、言葉で綴って、確かめた。そうして、今度こそ、決定的に、絶対的に、あなたを失った。一回目は15年間もかかったが、二回目は15日間もかからずに、これも慣れというものだろうか、少々申し訳なくさえある。
設定は虚構でも、内容は基本的に正直な心境を記したつもりだ。少年時代の己に重ねて。手紙などという手段をとるのに、今の自分ではあまりにノスタルジックに過ぎる。昔の自分がやらかしたことにすれば、一応は許容範囲だろう。ところどころ、設定を忘れて、今の自分しか知り得ない筈のことも混ざっていたかも知れないが、なにしろ我々は新種族だ。未来視能力があっても不思議ではない、ということにしておこう。

いくつかの箇所で述べた、手紙の利点――その最上位については、改めて記しておく必要がある。すなわち、手紙は時間を操ることが出来る、ということだ。この機能のおかげで、僕は通常なら15年間かけて喪に服さねば使い物にならなかっただろうところを、ほんの僅かな期間で回復することが出来た。手紙の設定の中で、15年間を疑似的に通過したことになるためだ。実を言うと、これに要した時間は、15日間と言わず、たった一晩だった。15年間分の手紙にしてはあまりに量が少ないように思われるが、一晩ならば許されてもいいだろう。――1時間でも惜しかったのだ。あなたのことだけを考えて過ごせたのは、たった一晩が限度だった。

そうして、あなたに捧げた、花の代わりのこの手紙。
事実と虚構の境界線上。
夢見る少年が、空白の15年間を刻みつけた、その痕跡。

だから、これは15年の空白を埋めるための言葉たちだ。失われた時間の清算だ。あなたのいない15年間は、物語でいえば、一回の暗転で事足りるほどの、味気ないものだった。その中でも、いくつかの波はあったけれど、今にして思えば、どれも小さな事だった。その後のことと比べたら、僕の苦悩なんて、取るに足らないものだった。あなたが眠っていた間は、正にあなたの言う通り、一瞬のことのようで、つまり、何もなかったといっていい。あなたなしでは、何も動かなかった。目覚めたあなたが、止まっていた時間を無理やり動かして、そして僕たちは別たれた。あなたを失くしても、最早、止まることは許されない。あなたの不在にも構うことなく、世界は動き続ける。

あなたを夢見ることは、もうあるまい。僕は二度と夢を見ないだろう。届くことない手紙を書くのも、これで最後だ。
あなたを失うと同時に切り捨てた、かつての自分自身。あなたに伝えきることが出来なかったもの全て。僕の遺書であり、あなたへの追悼だ。

言うなれば、あなたは僕が正常であり続けるためにこそ存在したといえる。物言わぬ、鏡としての存在。僕が僕を映し込んで、己を理解するための、都合良い鏡像。その中身は空洞で、その意味はがらんどうだ。なんという自己完結。虚構に語りかける独り芝居。しかし、今や鏡は砕けた。投影する先も、その必要も、最早ない。

さあ、これが最後だ。最後の手紙を、一番上に乗せて、そして灰に帰そう。役割は終えた。僕も、あなたも、誰も、もう読むことはない。燃え尽きれば、きれいに忘れるだけだ。たとえ同じ宙に散ったとして、あなたのところへなんて、行けないのだと、分かっている。

最後に相応しい、別れの言葉で終わるとしよう。さようなら――いや。

おやすみなさい。




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センチメンタル・シン様。船長のアナクロニズムに変な影響を受けたみたいです。


2009.01.30


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