単純接触効果 プロトコル -slave- / Sugito Tatsuki
彼は我々の象徴であり、偉大な指導者であり、決して汚されぬ誇りだ。強固な意志を抱いた戦士、もう長い間、彼に従う者として共に過ごした。彼は強い。だが――何故だろうか、時折、彼が――自分より長い時を生き、幾多の苦難を身に刻み乗り越えた強者たる彼が、とても無防備で、儚く、庇護されるべき存在のように感じられる。
細く頼りない少年の身体のまま姿を保っているためだろうか。
彼が、近しい者とある時に限ってのみ、繊細な精神ゆえに抑えられず垣間見せる、深い、深い悲しみのせいだろうか。
さざ波ひとつない静まりかえった湖の面の様な、表情を見せないその瞳に、一瞬、陰が落ちるからだろうか。
その様は、彼に仕える者としての立場をわきまえぬ、しかし抗い難い情動を自らの内に沸き起こらせる。
――過ぎた想いだ。知られてはならない、このままでありたい。それ以上は望まない、だから隠し通さなくてはならない。
そうして自らを律して、何とかやってきたのだ。
けれどその意志も結局、とても脆いものに過ぎなかった。
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ある時、もう後のことはどうなっても構わないと、理性を投げ捨てて、彼を押し倒した。たとえ拒まれ、非難され、軽蔑されて居場所を失おうとも、むしろ望むところだった。彼に、示して貰いたかったのだ。道を、定めて貰いたかったのだ。この中途半端な立ち位置を、彼がはっきりさせてくれるのならば、結果などどうでも良かった。
細い手首を掴み押さえつける。組み敷かれた彼は、多少は驚いたようだったけれど、――その情動はあくまでも静かだった。僅かにも揺らぎがない。
だから、彼の反応に答を求めようとしていた自分は――どうしたら良いのか、分からなくなってしまった。
「状況が、お分かりですか。私がこれから、あなたに行おうとすることも」
彼は、ああ、と言って頷いた。
「構わない。好きにして良い。そうしたいなら、それが――正しい」
違う。
そうではない。
そんなことを聞きたいのではない。 彼がいつも言う、行動への意志だとか信念だとか、そんな講釈はどうだって良い。欲しいのは明らかな態度、確かな言葉だ。
自分は、彼に、拒絶して貰いたかったのだ。こんな情動を持つお前はおかしいと、汚らわしいと、近寄るなと、――彼の情動を、どんな形でも良い、自分に向かせたかった。自分が彼に心乱されるように、彼の心を自分が動かすことが出来たらと、本当の心を力ずくでも顕わにしたいと、愚かにも欲していた。
彼の一分の隙なく着込んだ衣服に手をかける。もう行為に意味は無いと、目論みは無に帰したと解っていて、葛藤に震える指を無理矢理動かして、手荒く留金を外し、衣をはだける。
そして――そこから、進めなくなった。彼の目は、いつも通りの深みある色で、こちらを見据えている。それは、つまり、彼の瞳のその奥には自分など、僅かにも捉えられていないということだ。彼にとって、自分は取るに足らない、注意を向けるにも値しない、ほんの些細なものに過ぎない。思い知らされて、――あまりに惨めだった。
彼は、自分を咎めようとさえしていない――
「……どうして、抵抗して下さらない(のですか」
掴んでいた手首を解放する。自由になった手で、彼は乱れた衣服を直しもせず――ただこちらを見つめている。細い指が、のばされる。それが頬に触れ、目元を拭う感覚を得て、そこで初めて――自分が、泣いていると知った。止めどなく零れる涙を、彼は指に伝わせたまま、言った。
「お前は、優しい子だね」
――何も、言葉を返すことが出来なかった。
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自分は特別なのだと思っていた。
彼の一番近くにいて、一番長く共にいて、だからその全てを独占しても許されるのだと、
勘違いをしたのだ。
そうではなかった。思い上がりだった。彼は誰に対してだって同じように優しさを注ぎ慈しむ。
一時の過ちでしかない。あの時、思い知らされた筈だ。自分の尺度で彼を測ることの愚かさを、承知した筈だ。
だから、彼との間のこの距離は、変わり得ない。
自分の一方的な感情をぶつけてはならない、それは卑怯だ。
彼を困らせて気を引いて、その優しさにつけ込んで、傷を利用して、
――拒まないと確信する彼に這入り込もうなどと。
だから、この距離を、保ち続け得た。
それなのに、彼は、何故――いや、理由など探ったところで無意味だ。
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彼の思念の微妙な変化には気付いていた。
常に安定した思念の波を保つ彼にしては珍しいことだとは思ったけれど、それは不安や乱れを感じさせるものではなく、むしろ無感動なまでに静か過ぎるということだったから、別段問題視していなかった。
その静寂こそ、彼の苦悩の源であるなど、思いもしなかったのだ。
思い返してみれば、兆候はあった。
「ソルジャー、爪をどうされたのです」
長手袋を外した彼は、驚いたような部下の問いかけに対して、何のことだろうかとその意味を推し量るように僅かに首を傾げると、ふと手元に目をやり、初めて合点がいったように、ああ何だ、と言った。
「気付かなかった。どうりで物が持ち辛いと思った」
彼は呑気にも手を目の前にかざし、開いたり閉じたりしながら、それを自分のものでないように不思議そうに眺める。
やりとりを聞き、慌ててその手をとって見れば、彼の利き手の人差指と薬指の爪に亀裂が入り、部分的に剥がれ落ちて、既に茶色の薄膜が出来かけた赤みある肉が剥き出しになっていた。医療セクションに連絡をとりつつ、何故放っておいたのかと諫言する。貧血気味の彼の薄い爪は脆く、補強剤を塗って保護していなければ、柔らかなそれは少しの衝撃で簡単に裂けてしまう。
爪に護られるべき指先は、生理学の教科書で必ず体性感覚の章に引用されるホムンクルスの絵を持ち出すまでもなく、唇や舌と同様に敏感で重要な器官だから、痛みや違和感は当然に捉えられた筈だ。けれども彼は自分の追及に対して、困ったように、「本当に気付かなかったんだ」と言うので、納得はいかなかったが、では今後は気を付けてくださいとだけ告げた。
聞いているのかいないのか、彼は、手当てのなされた指先を、じっと見つめていた。
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そんなことのあった後だった。 彼が改まって、頼みがあると言うから、何だろうかと思った。
「ただの頼みごとだ。拒んだとして立場が悪くなる心配は要らない。勿論対価は払う、出来る限るの望みを聞こう、だから」
「あなたの頼みを聞くのに対価など不要です。あなたの働きに障りないよう力を尽くすのは当然の役目」
その時、彼の僅かに揺れ動く瞳に映っていた感情は、自分には"痛ましさ"と呼んで良いものととれた。けれど、何故彼がそんな表情をするのか、そこまでは読み取ることが出来なかった。
「まだ、僕に触れたいと思っているか」
一瞬、言葉を失う。
だがその間にも、隠しきれなかった激しい情動の揺らぎが、全てを物語っていた。
「――はい」
彼の手が、自分の腕をとらえる。俯いたまま、彼は掠れた声で告げた。
「では――頼む、もう、耐えられない」
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彼は、我々ミュウも、言語を用いることや、五感で感じ取ることを忘れてはならないという信念を持つ。
それに対し、思念波を用いればそんなもの必要ないと考える者は多く存在する。我々同士ならばそれで事足りるかも知れないが、それでは思念波の扱えない者と意思を通わせられなくなってしまう、我々は今後とも、人間と話し合っていかねばならないのだから、と諌めるものの――彼らは既に、人間と和解する道をとるつもりはないらしいことが明らかに感じられる。思念波の使えない者、そんな劣った者と思いを通わせようなどと――馬鹿げていると、その道をとるソルジャーに従い仰ぎつつも、内心不満を抱いている。直接に非道な扱いを受けた体験のある彼よりむしろ、若い世代の者たちの方が、人間に対する憎悪を強くするのは何故だろうか。彼らはあたかも、当然そうである(様に、自らの存在証明である様に、人間を嫌悪し、強く憎む。
当人たちは気付いていない、あるいは気付かぬ振りをしている――その強烈なまでの人間に対する優越意識は、我々がそれぞれの存在の根底に拭えず抱いている、劣等感の裏返しに他ならないのだと。
彼は、目を逸らすことが出来ない。目を背けることを許されない。
彼は、人々の、そして己の、底知れぬ劣等感と否応なく向き合わざるを得ない。
その拭い難い自己存在に対する不安と疑念による精神の揺らぎは、「接触」の渇望という形をとって表れた。
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生来、視覚と聴覚に欠落を抱える彼は、残された感覚が離れていくことに、異常な程の恐怖心を持っていた。
触れないでいると、実感を失い、自身が希薄で、世界が遠のくようなのだと、言っていた。自分自身を、繋ぎとめておかなくてはいけないのだと。
要するに、抵抗がない(のだという。
例えば手を広げ、空を切っても、空気抵抗が実感出来ない。
腕を交差させ、自分自身の肩を掴み、力を込めて抱いても、まるで他人事なのだ。
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繰り返す停滞した日々は習慣化し、自動化してゆく。
感覚は鈍麻し、現実感が遠ざかる。
希薄な自己の行動は、すなわち行動しなかったのと同義だ。
存在が、無へと還る。
必要なのは、感覚だ。生を異化し、ともすれば通り過ぎてしまうそれを、つかみ取る。
過程においてこそ、手法は――意味を持つのだ。
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だから、彼は忘れまいとする。人間らしい、感覚を。仲間たちはそれを忌み嫌い、自分たちこそが優れているのだと、ことさらに種の差異を明らかにしようとするけれど、
たとえ伝わってしまうことでも、口に出して言いたい、耳で聞き取りたい、そして――触れたいと望む。
彼は言った。
――精神だけで生きているのではない、欠落を抱えて、埋めることはどうあっても出来ないのだけれど、それでもほんの一時でいい、この身体がまだ、ちゃんとある(ことを確かめたい。それが人間だと思うから。――自分は、人間だと、思うから――
だから、原始的な方法を捨てたくはない。感覚を――忘れない様、刻んでおきたい。痛みさえ、復讐の糧とするためではなくて、自分のために。――人間であるために。あたかも、欠落を埋めて、存在の証明が出来るかのように。
そして、彼は願うのだ。触れて欲しい、感覚を与えて欲しいと。
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「……それは本気で? よく考えた方が――」
「いい、……いいから」
彼の願いは切実だった。
しかし彼の立場が、それを叶えんとすることを許さない。
皆に敬愛されてやまない偉大な指導者たる彼は、そうであればある程、誰に触れることも、触れられることも、許されない。
孤高の存在とみなされ、またそうであるように振る舞い、その裏の渇望は不要な個人的感情とともに抑圧される。
どうすれば良い、と彼は呟いた。
どうすれば触れ合えるのかと。
また、今度は自分で爪を剥がせば良いのか、それで足りなければ腕の一本でも折れば良いのか、それとも高熱を出して寝込めば良いのか、そうしたら治療の名目で触れて貰えるのか。
だが、そんな者にソルジャーとしての役割が務まる筈もないことも承知している。
彼の手は隠しようもなく震えていて、抑えるように強く握られたそれに自分の手を重ねる。
「本当に、後悔なさいませんか」
卑怯な問いと知っていた。戸惑いや思い遣りなどに由来するのではなく、その行為に正当性を確保したいがためだけの最終確認だった。思った通り、彼はゆるく首を振った。
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今だけでも、と彼は言った。今だけで良い、と。
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利害の一致――などとは思えない。
明らかに彼に負担が大きすぎる。
それで相殺される程の何らかの精神的充足を彼が得られるのかは知る由もないが、――彼は自身よりむしろ、情動に苛まれる部下の鬱屈を晴らしてやるためにこんな自己犠牲的な手段をとるのではないかとさえ思える。
――いや、彼が何を思っていようと、どうせ心の全てを共有は出来ないのだから、問い詰めて何らかの答えを得ようと、全く知らなかろうと変わりはない。
彼の言葉が全てだ。
彼が自分を通して、何を得ようとして、その瞳に何を映していようとも、構わなかった。
はじめから分かっていたことだ。彼が求めているのは、その欠落を埋める存在であって――欠けた者などではない。
それでも、代替可能であっても、構わなかった。彼が望むのなら。一時でもその悲しみを散らせるなら。――その魂に、触れることを許されるなら。欠落が、埋められるような、気がしていた。
ただの錯覚でしかなかったのに、その時は、本当にそれが、自分の本心だと思い込んでいた。
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接触することで、不安定な心を懸命に紛らわせているのが、よく分かってしまった。勿論、指摘などしないし、つとめて意識にものぼらせないようにして、気付かぬ振りを装うけれど、肩にかける指や背中に立てる爪には相当強く力が込められている。
彼は、こんな風に耳元で名を呼ばれたことがあっただろうか。
こうして、自ら腕を背に回すことがあっただろうか。
苦悶して目を閉じ、時に堪えきれず悲痛な声をもらす彼は、酷く低俗な行為の犠牲となった過去を想像させた。
その様は、より一層の征服欲を掻き立てた。
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離したくないと、情動のままにずっと押さえつけていた手首には、その痕が惨たらしく残っていた。
誰より大切にしたいと、何をおいても守りたいと思っている彼に、思い遣りの欠片もない行いを為した事実に愕然とした。矛盾している――ならば間違っていたのは己の認識の方だ。
そもそも、本当に、ただ純粋に敬い愛しく思っているのなら、懇願されたとして、こんな行為を了承するわけがなかった。
彼に、与えたかったのではない。
そうではなく――奪いたかったのだ。
守りたい、そして同時に傷つけたい。
仰ぎながらも汚したい。
深く己の思考を突き詰める程に、未だ知り得ずにいた歪んだ情欲が見出される。
自分は彼に仕えるけれど、彼を救いたい――わけではないのだ。自分が望むのは、傷つけられ、打ちのめされ、悲しみに沈む彼を"守る"ことであって、逆に言えば、そうして不安定になった彼を支える場面においてこそ、自らの存在意義を感じる。
彼が救われてしまって――その欠落を取り戻し、完全な存在となってしまえば、自分はもう、要らないのだ。
時に彼に頼られ、必要とされるから――己の生の意味を信じられる。
だから、彼は――傷つけられなくてはならない。
欠落を抱え悲しみを負って、生き続けなくてはならない。
そして、本当に優しい彼は、自分がその欠落を利用してつけ入る隙を提供してくれるのだ。
彼はどこまで、他者に優しさを注ぐのだろう。
あなたがもっと傷つけば良いと、
あなたがもっと汚されれば良いと、
こんな醜い思いに囚われる愚かな弱者に、どうして逃げ道を与えてしまうのだろう。
彼が望んだのだから、と。
彼のためを思っただけだ、と。
乱れた髪を、可能な限りそっと撫でる。赦しを請うように。
それが最初で、後は同じことの繰り返しだった。
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偶々、自分だっただけだ。
ある意味、仕方なく、他に適当な選択肢がなかったからであって、そこに何らかの思いを期待してはならない。
本当の心など、知らない方が良い。
そんなもの、探り合うのは互いに望まぬことだ。
形、だけなのだから。
必要なのはただそれだけだ。
繰り返される言葉も、自動的な記号に過ぎない。
彼はいつも願う。こんなことに付き合わせてと、謝り、そして請う。自分はいつも、それに応える。
いつも、こうなってしまう。傷つけるばかりだ、お互いを。彼を失いたくない、繋ぎとめなくてはいけないと、必死になって、――自分のことだけで精一杯なのだ。
確かに実感を得ようと、貪欲に求めてやまない。満たされることはないと知りながら、全身でその存在を感じる程に、離れ難くなる。彼と自分が求めているものは、似ているけれど、明らかに異なるものだ。
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足りない。
もっと過剰でなければ。
彼の限界までつのり重なった焦燥を吐き出させて、一時の解放を得させなければ。
涙をもっと──流させなければ。
それが出来ることを、忘れてしまわぬように。
情動を突き動かし、激しい生の感覚をその身に刻みつける。
彼が望む程に強く、求める程に手酷く。
偽りの充足へ至るに手を貸して、そして幾度も同じことを繰り返す。
他に術はないのだから。
何の解決にもならぬ代替行為と解りきっていても構わない。
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その瞳が、自分でないものを捉えていても、許せるのか?
行為の際、彼は決して目を合わせない。
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いつもこうだ。上手く言えず、何も伝わらず、同じようにただ繰り返す、自分たちは、何度も、一体何をそこまでして求めるのだろう。
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どうして涙が止まらないのだろう。
どうして、少しも満たされないのだろう。
End.
テーマ『届かぬ思い』で! 駄目な具合に話が切れ切れなので、点線部分で切り取って順番を入れ替えて遊べます。むしろそうやって作りました。(その様子→背景画像)
2007.05.28
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