myth or physics / Sugito Tatsuki
怒ってわたしを責めないでください
憤って懲らしめないでください
憐れんでください
わたしは嘆き悲しんでいます
癒してください
わたしの骨は恐れ
わたしの魂は恐れおののいています
いつまでなのでしょう
わたしは嘆き疲れました
夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです
苦悩にわたしの目は衰えて行き
わたしを苦しめる者のゆえに
老いてしまいました
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ソルジャー・ブルーがそうなったのは、理由をつけようとすればいくらでも可能だけれど、とにかく本人にも掴めない何らかのきっかけがあって、そういう状態に陥ったのだとしか言いようがない、というのがハーレイを含め長老たちの共通認識だった。
彼らのうちの誰もが困惑していた。
敬愛するソルジャーを、どうしたらその(状態から速やかに脱せしめることが可能であるか、誰にも明言することが出来なかったのである。
為したことといえば、せめて、長老以下の者たちに事態を察せられぬよう努める程度であり、とはいえその仕事も骨の折れるものであったことは確かであるから、彼らは事態によく対処したと評価されるべきだろう。
寝台から身を起こすことも難題であるように、うつ伏せて、うずくまり、ただ時間をやり過ごす。
酷く沈んだ面持ちで、口を開けば自己否定を繰り返し、何度も何度も、誰にともなく懺悔することをやめない。
それが目下のところのソルジャー・ブルーだった。これまで皆の先頭に立って道を切り拓いてきた強い指導者の姿は微かにも感じさせない。その心は重苦しさに今にも折れてしまいそうだと、彼に接した者は例外なく同じ感想を抱いた。
救えなくて、すまないと、そう呟く相手は過去に失っていった仲間たちか、それとも、今ここに生きる者たちか。
ソルジャーは延々と、敢えて己に煩悶を与えんとでもするが如く、思考を繰り返し辿る。
努力したところで、無駄なのだと、
全てを空しく感じ、未来に絶望する。
過去には失敗ばかりを重ね、
為すことはことごとく悪い結果を招いたと、
誰も頼れはしないと、
そうして自分を否定する思考の循環は何も生まず、
ただ己を押し潰すだけだと知っている、
けれど制御することは出来ない。
全て、自分のせいだと。
自分が、それを駄目にしたのだと。
全て、自分が悪いと。
ソルジャーは食事はおろか水分摂取すらしようとしなかったので、長老たちは更に困り果てた。
「お願いですから、召し上がって下さい。このままでは」
言って出される皿に、はじめのうちこそ彼は緩慢に手を伸ばし、口に入れようと試みていたが――それは言われるままにする方が、抵抗するより力を使わずに済むからだ――しかし結局いつも、身体がそれを摂りいれることを拒絶すると判って、もう今では彼に摂食を強要することは余計にその苦しみを増すだけだと、長老らには為す術がなくなっていた。
だから、その身体症状が収まるまで、非常手段として、必要な水分と栄養分を――直接血中に流し込む他ないということになったのも自然な成り行きだった。
孤高の戦士の腕は、この結論に至るまでの間に既に幾度も行われた薬物投与によって損傷が激しく、とても新たな注射針を固定出来る状態ではなかった。
薬液が皮下に漏れ出し、破れた血管からの組織液とともに染み込んだ皮膚は、無残にも黒ずんだ紫と暗緑色の斑に染まり、その周囲はところどころ、冗談のように鮮やかな黄のグラデーションを呈し、見るに堪えない姿だった。
その様は、神聖なものが末端から侵食されていくのを描きとめたようで、感傷的な者が目にすれば、彼の精神もまた、同様の状態にあるのだ、何か恐ろしいものに(食い荒らされてしまっているのだ、何といたわしい! と評しただろう。
留置針挿入の役割を半ば他の者に押し付けられるかたちで任されたハーレイはやむを得ず、ソルジャーの華奢な手をとり、その甲に――決して細くない針を沿わせる。
血管の透け見える確実な位置に先端を定め皮膚に押し当てると、弾力ある抵抗が僅かに伝わり、更に挿入を進めると、血管を押し破る感覚を得る。沈めた針を固定、そして動いて外してしまわぬよう、念のためその手首をベッドのフレームにベルトで固定する。
針の根元に、点滴パックからのびる管を差し入れ、動作を確認し――ひとまず終了だ。
その作業の間、ソルジャーが返した反応は、針が皮膚を突き破った時の指先の強張りだけで、本来ならば見る者をたじろがせる程にこちらに迫る力を感じさせる鮮やかな赤を映す瞳は、何を見つめるでもなく、それこそただ――開かれていただけだった。
特殊能力を持つといえ、精神の細やかさをその特性とするミュウが心に不安を覚えたときの対処は、別段に人間のそれと変わりない。
子どもが相手ならば、落ち着いた成人が宥め、その精神に感応させることで、不安を軽減し容易に安定させることが出来る。
自我の発達した成人相手となるとなかなかそうはいかない。どうしても心を委ねられない場合は、薬物投与や各学派の推進する心理療法により同等の効果を得させることになる。
ましてソルジャーの強靭な意志は、自己を開示し他者に心を預けて安らぐことを徹底して拒絶する。だから、心の安寧は、――強制的に薬物によって与える他ない。
ハーレイは、規則的に滴る薬液を視界に留めつつ、本当は自分も、きっと他の長老たちも分かっている筈だ、と思った。
我らが仰ぐソルジャー・ブルーは一本の兇刃によって打ちのめされたのではない。彼を少しずつ、確実に追い詰めていったのは、善良なる彼の子どもたち(、すなわち我々全員に他ならない。
彼は我々の悲しみまでも、代わりに負っているのだ。
彼は、本来は他の対象に向けるべき怒りも、憎しみも、嫌悪も、全てを自分自身に還元してしまう。それは止まぬ悲しみとなって、彼を苛み続ける。
強い責任感のあまり、彼は未だ皆を約束の地へ導くことの叶わぬ己の非力を嘆き、憂う思いを悟られぬよう、それでも一層、無理矢理にでも務めを果たそうとする。弱い自分は要らないのだと、己の情動を拒み、こんな自分はあってはならないのだと、自らを否定する。
それが長い年月の内に堆積し、とうとう破綻してしまった、こんな無気力の状態でも彼は、見事な能力を──無意識に於いて自動的に──発揮し、皆に不安が伝播しないよう、精神の遮蔽、偽りの情動の操作に留意する。
そうしているうちに、投薬の効果によって彼は心の平穏を取り戻す。
再び、人々の前に崇高な姿を現す。
だから――誰も気付かない。
彼の精神も、彼に導かれし弱き子らと同様、傷つきもするし打ちのめされもすると。
彼もまた、皆と変わらず、欠落を抱えていると。
人々は彼を絶対視し、崇拝し讃美する。
彼に全てを託し、委ね、偶像とする。
偶像に人格など不要なのだ。
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あなたを讃えます
あなたに従います
あなたを愛します
あなたに仕えます
あなたの名を褒め讃えます!
あなたがわたしのために(生きていて下さることを喜びます!
あなたがわたしを救うために(来て下さったことが嬉しいのです!
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ソルジャー・ブルーの信念は、不当に虐げられし人々を絶望の淵より救ったが、それと同時に、彼自身は、決して救いようのない苦悩の渦に陥れられた。
彼は今なお、自らを人間であるとみなし、それゆえに、生あるものの根底に当然に備えられるべき、己の存在の肯定、自己受容に欠落を抱える。
人間とは明らかに異なる、けれど人間であると強く信じる。
どれほど否定されようと、誰にも理解され得なくとも、決して叶わぬと知る望みを振り払うことが出来ずに。
崇高なる指導者を仰ぎ従う人々、彼らには確かな道標がある。導き、先を歩く存在がある。だから地上を追われた身でありながらも己の存在を疑いなく信じられる。人間でない、己を。
だが、その道標だとされているソルジャー・ブルー、彼自身は──信ずべきものを何も持たない。最初の存在である、彼が一体何者であるのか、指し示して光を与えてくれる創り主はない。
人間とは違う。けれど、人間だと、そうでありたいと願う。人間への羨望を捨てきれず、彼は矛盾に引き裂かれる。
自分たちに非道な仕打ちをした、誤った行いで自分たちを発見(した、地球の恵みを受けながらその在りようを取り返しのつかないまでに歪めた、どうしようもない──人間、しかし、己が人間でないことが、──耐え難い。
何の機会にだったか、その前後の話の流れは忘れてしまったが、文脈を超越して、今なおハーレイの記憶に残るソルジャーのふと零した言葉が、その本心を表しているといえよう。彼は言った。
地球(を懐かしむのは、人間だからなのだろうか、螺旋に刻まれた無意識の集合たる記憶が、遠き故郷を望むのだろうか、いや──逆なのかも知れない。ともすれば、自分は、地球を止めようがなく求め地球へ向かうことを欲する、そうすることで、そういう自分を演じきることで、自分が人間であるという証にしたいのかも知れない、と。
また、彼は己を揶揄して言った。
──全く、人間みたい(なことを、と思うだろう。諦めきれない、まだどこか望み続けている。未練がましくも空想を止められない、もし人間だったら、人間であり続けられたら──良かったのに、と。割り切れない、違うモノだと思いたくない。おかしなものだ、皆を導き人間に相対する指導者が、よりによって自分自身の存在を──絶対的に認めてはいないだなんて。
一心にソルジャーを信じて仰ぐ大多数の人々とは異なり、自分は彼が救世主でないことを知っている、だから一人の人間としての彼があまりに不憫でならないと、ハーレイは密かに思う。
我々は、自分が助かるために、この孤独の苦しみから解放されるために、彼を――何より優しい彼を、犠牲としたのだ。
彼は独りだ。彼は、彼(である限り、孤独から逃れる術を持たない。
……仕方がなかった。彼は、我々がどれ程努力しようとも到達し得ない程に突出した力を持っていた。
その力が必要だった。強いその意志、思念、皆を統率し導く力は、彼以外持ち得ない。彼に、頼らざるを得なかった。
その望むと望まざるとにかかわらず、我々の指導者――ソルジャーに奉りあげ、冠を与え、重すぎる運命を背負わせた。
彼が決して、それを投げ打つことが出来ないと知っていた。
彼は自分ひとりが他の誰かを差し置いて救われることに耐えられない。
己を代償にして"皆"を助けようとする、その優しさにつけ入った。だから、誰も皆この楽園(にある者は、等しく彼に贖われた──罪人なのだ。
ソルジャーの導く人々は、いずれ救われる希望を抱く。彼は人々の望みを叶えるために尽力する。
だが、彼自身が救われる日は――最早、いかなる未来にも存在しない。彼が救われるのは、彼の導く人々総てが救われた後だ。そんな日は来ない。
彼がどれ程の代償を払おうと、叶わない――知りながら、生き続ける他ない。
叶わないと知ってなお、求めることを止められないのは何と酷だろうか。
地球を目指すことで彼は、何を手に入れただろう。
自分自身に戸惑い、生きることに迷う人々に、希望と、使命と、存在意義を与えた。
それは確かに、救いの光だった。
だが彼は――ソルジャー・ブルーだけは、解っていた筈だ。
決して、それが、誰の救いにもならないということを。
皆、生きるためには、叶うことない夢に身を委ねるしかないのだと。
何も知らない振りをして、
何も疑わない振りをして、
耳を塞ぎ、目を閉じて、
それでは一体、何が正しかっただろう。
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あなたは道を示し、苦しみを贖い、地に堕とされてなお永遠に、わたしたちの心によみがえる。
あなたの名を、わたしは掲げる。
あなただけを、わたしは信じる。
あなただけが、わたしを救ってくださる方。
その翼の下に、わたしを隠し、護り、慈しみ、限りない愛を注いでくださる。
あなたはわたしの全てを赦し、受け容れ、共に歩んでくださる。
その右手はわたしを恐れのただ中からひき上げ、わたしをかの地へと導く。
わたしは、あなたを讃える。
あなただけを愛します!
End.
分かった振りを装っても一番ブルーを神格化して崇め奉った前科があるのはハーレイじゃないか。
シャングリラの中庭にはブルーの銅像、各部屋には肖像画がきっと飾られています。
(引用・参考文献...日本基督教団出版局『交読詩編』, 1990, p.12-13.)
2007.06.02