Marionettenspieler
「紅茶を淹れ直そうか。それとも、レモネードでも飲むかい?」
「……要らねぇよ」
俺を拘束椅子から解放するなり、親しげにそんなことを尋ねてくる、奴の誘いに乗る気分には、とてもなれそうになかった。優雅なお茶会なら、ひとりで勝手にやっていればいいと思う。
そうかい、と奴はさして残念そうな素振りも見せずに、あっさりと誘いを引っ込めた。代わりに、片手を俺の額にあてがう。その手の冷ややかな感触に、俺が眉を顰める様子を、奴は黄金色の眼でじっと見つめた。
「疲れているみたいだね。少し、休むといい」
誰のせいだ、と俺は内心で呟いたつもりだったが、どうやら顔に出ていたらしく、奴は小さく笑った。むかつく野郎だ──しかし、休息が必要というのは、俺も同意見だった。とにかく、疲れた──なにもかもに。
運動をしすぎてくたびれたときの、あの節々が痛み、重く足を引き摺るような疲労感ではない。そうではなく、むしろ、地に足がついていないような感覚だった。現実感が、鈍く、遠い。この身体の中身が、突然に奪い去られて、空っぽになってしまったようだった。軽すぎて、空すぎて、うまく歩けない。心許ない足取りで、俺は導かれるまま、ぼんやりと奴の背中に続いた。
奴に伴われて、至った先には、簡素な寝台が用意されていた。その状況に、今更、疑問を感じる余力も、俺には残されていなかった。何もかも投げ出して、眼を瞑ってしまいたい──何も、見なくて済むように。誰からも、見られずに済むように。
そんな俺の肩に、背後から、奴の手が掛かる。思わず、俺は身構えたが、奴はそれを宥めるように、優しげに肩から腕を撫で下ろした。長身をかがめて、耳元に囁く。
「本当に──愚かで、かわいい子だね。君は」
そう言って、お気に入りの人形にでもするように、緩く抱き寄せようとする、奴の腕を、俺は力任せに振り払った。鈍磨していた感覚が、一瞬にして、屈辱感とともに、呼び戻される。
なにもかも、めちゃくちゃにしたのは──こいつだ。こいつのせいだ。
知らずにいれば、気付かずにいれば、考えずにいれば、良かったものを。
暴いて、引きずり出して、見せつけた。
見たいものだけ見ていられたら、それで、良かったのに。
俺は──愚かでも、良かったのに。
「まだ、気持ちの整理がつかないか。それも、当然のことだろうね」
奴は腕組をして、冷静に俺を観察する。分かったような口を利く、そいつに俺は、迷わず掴み掛かって、組み付いた。身体に叩き込まれた、犯人確保のための格闘術は、考えるまでもなく適用できる。もつれあう中で、あっけないほど簡単に、奴は体勢を崩し、よろめいたところを、俺の手で寝台に押し倒される。
奴が身を起こす前に、俺はその腹の上に跨って自重をかけ、両手と膝で腕の関節を押さえ込み、動きを封じた。容易に成し遂げられた、その結果を、俺は目の当たりにしながらも、まだ信じられない思いで見下ろした。確かに相手は見たところ、屈強な大男にはほど遠い、病的なまでに肉の薄い体躯の優男である。しかし、見た目に惑わされるほど、愚かなことはない──その正体は、世間を賑わす、あの怪人なのだ。奇術や飛び道具、何を隠し持っていることか知れない。それを、俺ごときの力で、どうにかできるものとは正直、思ってもみなかった。だが、確かに奴は今、俺の下で、抵抗を試みるでもなく、無防備に仰向けている。
自由を奪われながら、奴は狼狽した様子もなく、乱れた白髪の下からこちらを見上げる。
「随分と、元気があるようじゃないか。さすがだね──花崎君」
挑発的に唇を歪めて、奴は首を傾げてみせる。つくりものめいて白い、ほっそりとした首が、眼前に晒される──惨めで、哀れな俺を、嘲笑うかのように。
──こんな奴。
奴の両腕を封じる手に、ぐ、と力を込めて、それから、離した。反撃を受けるリスクを、考慮すらしなかった。ただ、目の前に差し出されたものを、俺は、奪わなくてはならないという、衝動だけだった。
奴が身を起こす隙も与えずに、その首を、両手で押さえ込む。ぎし、と寝台が軋んで、俺と奴を、沈み込ませる。
沈めてやる──このまま、永遠に。
前傾し、体重をかけて、ぎりぎりと締めつける──ことが、しかし、できなかった。抵抗されたわけではない。逃げられたわけではない。奴は俺を振り払うでもなく、身じろぎひとつせずに、ただ、温度のない眼で、じっとこちらを見上げていた。
視線を切りたいのに、近接しすぎて、それも叶わない。その眼に見据えられただけで、俺は、もう意図を達成することができなくさせられていた。心臓が、嫌な音を立てる。手汗が滲む。指先が、震えて、力が入らない。
そんな俺を見つめて、奴は、首に手を掛けられた人間としてはおよそ似つかわしくない、落ち着き払った態度で、淡々と紡ぐ。
「ヒトは、ヒトを殺せない──特に、無防備な相手を、至近距離で一方的に、素手で殺そうというのは、心理面の訓練を受けてでもいない限り、まともな神経でできることではないよ」
本能に、そして倫理観に、強力に刻み込まれた同族殺しの禁忌は、容易には犯せない。奴の白い指先が上がって、俺の手首から肘へと、ゆっくりと伝い上がる。
「君は、私を殺せない」
慈愛すら感じさせる微笑を浮かべて、奴の告げた言葉は、明瞭に、致命的に、俺の内に響き鳴った。先ほど、奴が俺の前で晒してみせた、生々しい銃痕が、脳裏にまざまざと蘇る。あの人は──否、あの男は、そうやって、こいつを殺そうとしたのだ。消えることのない、その証を、刻み込んだ。
対して、俺は、奴の白い首に、手形ひとつ残すことができなかった。殺すことが──できなかった。俺は、あの男とは違う。それを、はっきりと示され、線引きされたようだった。
そんな俺の内心までを見透かすように、奴は黄金の眼を眇める。
「──本当に、そのつもりなら。悠長に、首を絞めている場合ではないだろう?」
奴の手が重ねられると、俺の片手は簡単に、喉元から外れた。それを取り上げ、奴は己の頬に引き寄せた。強張った俺の手のひらに、そっと頬を擦り寄せる。俺の指先が、導かれるまま、奴の目元に触れさせられる。黄金色の光を映す眼を、奴が瞬くと、睫毛が指先をくすぐるのが分かった。
「──眼球を、潰して。深く、突き入れて。脳を、直にかき回して、引き摺り出せば良い」
俺の指先を、愛しげに撫でながら、奴は何でもないことのように淡々と告げた。そのグロテスク、かつ極めて合理的な内容に、俺は思わず、息を詰める。
金色の眼が、愉快げに光って、俺を見上げる。どうするのかと、問い掛けるように。俺を、試験するように。
「できるよね──花崎君。それとも、手を貸してあげないといけないかな?」
「っ……やめ、」
奴に絡め取られた、俺の指先が、触れるばかりに眼球に近寄せられる。あともう瞼一枚の距離、近づけたならば、爪は奴の眼に届き、その表層を削り取るだろう。俺は懸命に、手を振り払って引き戻そうと試みたが、どうしたわけか、奴に囚われた手は、少しも言うことをきいてくれなかった。
「私を、殺したいんじゃなかったのかい」
微笑を刻んだ、奴の唇が囁く。威勢ばかりが良いくせに、いざとなると怖気づいて逃げ出そうとする、俺の滑稽な姿を、揶揄するように。
「初めてではないと、もう分かっているだろう? 自分の行動によって、ヒトの生命を奪うのは。今更、どうってことないじゃないか」
黙れよ、と俺は声を震わせた。心臓が脈打つ。うるさい、鼓動に、奴の愉悦交じりの声が重なる。
「手柄を立てれば──明智君に、褒めて貰えるかもしれないよ。存在を認めて、愛して貰えるかも──」
うるさい、うるさい、うるさい──もう喋るな、黙れ!
俺にできることは、ひとつだった。その首を絞めて、喉を塞いでやることは、できないのだと、もう分かっていた。だから、よく動く唇を、強制的に塞いでやった。手は、奴に掴まれて動かせなかったから、この唇でもって塞いだ。手近で自由になるものといえば、咄嗟にそれしか、思いつかなかった。
不思議な感覚だった。思いのほか、しっとりとして、柔らかなものに、受け止められるのを感じた。俺の頭をおかしくさせる、奴の声がようやく途切れたことで、静寂と、大きな安堵に包まれる。
「っ……!」
俺が僅かに気を緩めた、その瞬間を、狙いすましたかのようだった。温くぬめるものが、唇をなぞって、俺は危うく、悲鳴を上げるところだった。反射的に身体を離そうとするが、それより、奴の両手が俺の顔を引き寄せるほうが、早かった。頭を包み込むように、しっかりと固定されて、動けない。その上で、奴はゆっくりと、俺の唇の合間に舌を這わせ、軽く歯を立てた。足元から立ち上ってくる、痺れるような感覚に、よろめきかけるのを、かろうじて堪える。背筋を叱咤しなくては、そのまま崩れ落ちてしまいそうだった。
頭が熱く、茫とするのは、酸素不足のせいだろうか。駄目だと思うのに、俺は促されるままに、口内に奴を受け容れていた。柔らかなものが、絡み合う。ぞくりと、背筋が震えた。
「ぅ、……っは、ぁ……」
まともに息を継ぐことも許されずに、緩急をつけて、口腔をかき回される。それこそ、脳までかき回されている気分だった。何も隠すことができない──何もかも、知り尽くされてしまう。舌の裏の、柔らかな箇所まで入念に探られる感覚に、意識が飛びそうになる。
熱い、苦しい──涙が出る。どうにかなりそうだ。
限界に達する直前、奴は不意に、俺を解放した。俺は無様に床に尻餅をつくや、咳き込み、息喘ぐ。
肩で息をしている俺に対して、奴はといえば、涼しい顔だった。細い手で口元を拭うと、気だるげに身を起こす。乱れた白髪をかき上げながら、黄金の眼で、奴は悠然と俺を見下ろす。
「駄目じゃないか、花崎君──こういうことは、惚れた相手とするものだよ」
「な、……」
「もっとも、練習したいというなら、付き合って遊んであげるのも、やぶさかではないけれど──なんてね」
長い裾を翻して、奴は俺に歩み寄り、傍らに膝をつく。冗談はさておき、と前置きしてから、奴は視線の高さを合わせて、俺の顔を覗き込んだ。
「君が、したいと思うこと。すべて私に、見せてごらん。隠すことも、偽ることもない──私は、どんな君も受け容れる。君の望みを、叶えてあげる。無力で、愚かで、かわいそうな、ひとりぼっちの、かわいい君を、私は──とても、気に入ってしまったからね」
奴は俺の頬を撫でると、そんなことを言って、微笑してみせた。まだ涙ぐんでいる俺を、軽く抱き寄せ、労わるように、ゆっくりと背中をさする。奴の薄い肩に頭を預けて、そのとき、俺が感じたのは──そんなことが、あってはならないのに、俺はこんな奴に、否、この人に──
「楽しくやろう──花崎君」
──ああ。
こんな風に、俺に接する人が──俺をまっすぐに見つめて、優しく触れてくる人が。
俺を子ども扱いせず、すべてを見せて、語ってくれる人が。
俺に、嘘を吐かず、ごまかさず、向き合ってくれる人が。
俺を──理解ってくれる人が。
ここに、いたのだ。
差し出された、白くしなやかな手を、俺は取った。俺をここから引き上げてくれる──あるいは、底知れない奈落へと、引き摺り下ろす手を。
[ end. ]
10話の二十面相さんはお願いしたら何でもしてくれそうな気がしました。
2016.12.7