Lemonade
──When life gives you lemons, make lemonade.
■
カウンター越しに手渡されたレモネードは、注文どおり、これでもかとばかりにぶち込まれた多量のロックアイスで、よく冷やされていた。空席だらけの閑散とした店内に、暇そうに新聞を広げた無愛想な店主という取り合わせから、当初想像されたほど、質の悪い店ではないらしい。まあ、氷が多ければ、それだけ中身を水増しできるわけだから、お互いに利益は一致するよな、などというせこいことを考えつつ、早くも汗が浮かびつつある2つのグラスを受け取る。厚めにスライスされたレモンの浮かぶ、そいつらを両手に、俺は隅のテーブルへと足を向けた。
「ほら」
所在なさげに席に着き、窓の外を眺めている、あいつの赤く腫れた頬に、俺は片手のグラスを押し付ける。あいつは、ひくりと肩を竦め、眼を瞑った。先ほどは平気そうな顔をしていたが、やはり、痛いことは痛かったらしい。とはいえ、嫌がって抵抗することはなく、大人しくしている。あいつの細い手に、俺はグラスをしっかりと握らせ、暫くそうしていろと指示した。
はじめは、骨まで染み入るような冷たさが、痛みを増幅させるように感じるかもしれないが、感覚神経が鈍磨するとともに、次第に痛みは引いていくはずだ。腫れを最小限に抑えるためにも、少なくとも10分程度は、そうしているのが良い。
指示に従い、素直にグラスを頬に当てている、あいつの向かいに、俺は腰を下ろした。自分の分のレモネードを、とりあえずテーブルに置く。これに口をつけるのは、まだ先だ。グラスを頬に当てている関係上、その中身を飲みたくとも飲めないでいる人間の前で、美味そうに喉を潤してみせるほど、悪趣味ではないつもりだ。
軋む背もたれに身を預けると、俺はようやく、人心地ついた気がした。人心地というか、ひと仕事というべきか、こうして店に入るまでも、一筋縄ではいかなかったからだ。
グラスの中、氷を通して屈折する陽光が、ゆらゆらとテーブルに描く白い模様を、俺は暫し眺めた。
悪漢の制圧後、あいつの殴られて腫れた頬を、俺はすぐさま冷やすべきだと考え、現場からある程度離れたところで適当な店に入り、氷を分けて貰うことを提案した。しかし、あいつは、そんな必要はないなどとほざいて、これ以上、俺の世話になることを拒んだのだった。思わぬ展開である。
普通に考えて、応急処置が必要ないわけがない。男の容赦ない拳を浴びたのだ、それも顔面に。かなり痛むだろうし、精神的ショックも大きいはずだ。荒事に慣れた俺のような野郎ならば、別に顔が腫れ上がろうが痕が残ろうが、さして気にはならないが、まだ子どもとさえ言える年齢の、何ら身を守る術を持たない奴が、目の前でそんなことになっているのは、堪え難い。それが、簡単に押さえ込んでしまえそうな未成熟な体躯で、人形のように白く整った面立ちの、控えめにいって美少女と形容してもまずどこからも文句はつかないであろう相手であるとなれば、なおのことである。
俺はそんな風に考えたのだが、あいつは妙なところで頑なだった。押し問答の末、半ばやけになった俺は、こう言い放った。
「ああ、分かったよ。もう勝手にしろ。でもな、こっちとしても、危険な目に遭わされたんだ。何か、礼をしてくれても良いんじゃないか? 気持ちや言葉なんかじゃなく──お前自身でな」
そんな小悪党めいた下衆な台詞を吐いて、俺は奴の細い手首を掴むと、有無を言わせず、手近な店に連れ込んだのだった──助けた礼として、茶の一杯に付き合って貰うくらいのことは、許されても良いだろう。
俺のグラスの中で、氷が小さく音を立てて崩れる。それを機に、俺は顔を上げ、どうだ、具合は、とあいつに問うた。押し当てていたグラスを、少し離して、あいつは応じる。
「痛みは、だいぶ引いたよ」
「ちょっと見せてみろ」
テーブルに身を乗り出して、俺はあいつの白い顔に片手をあてがった。落ち掛かる長い黒髪をよけて、軽く顔を上げさせる。あらわになった患部を、俺は顔を寄せてじっと検分した。頬の腫れはだいぶ引いて、重度の内出血もみられない。それを確認して、俺は軽く頷いた。
「よし、もういいだろう。ひどい痕にならなくて、良かったな」
そんな俺の診断を経て、あいつはようやく、レモネードにありつくこととなった。人心地ついたのは向こうも同じようで、嬉しそうにグラスを引き寄せる表情は柔らかい。白い指先が軽くストローを摘むと、からんとグラスの中で氷が鳴り、清涼な水面が揺れてきらめく。陽光を閉じ込めたようなグラスを支え持ち、睫を伏せて控えめに唇を寄せる、その姿は、なかなかに絵になっていた。それを向かいで眺めていられるというだけでも、奢った甲斐があるというものだ。
別に、俺とこいつとは、ただの通りすがりの人間同士であって、ここで別れればそれで終わりの関係ではあるが、少なくとも、薄暗い路地裏で蹲って、男どもに足蹴にされている姿しか印象に残らないよりは、ずっと良い。後味の悪い離別というやつは、俺はもう、こりごりだった。
「──美味しい」
口の中に広がる清涼感を、眼を瞑って堪能し、あいつは満足げな息を吐いた。俺のほうを、眩しそうに見上げる。
「ありがとう。この代金は、払うよ」
「いいって。俺が無理やり、付き合わせたんだから」
先ほど、悪漢から巻き上げたばかりの金をポケットから取り出そうとする、あいつを制して、俺は言った。質素な身なり、そして先ほどの状況から推察するに、こいつが金に余裕のある暮らしを送っているようには、とても見えなかった。そういう俺も、人のことを言えた身分ではないとはいえ、どこでも重宝がられる体力と、業務上の必要から身につけた技術でもって、ある程度の稼ぎは確保している。一杯のレモネードを奢ってやるくらい、なんでもないことだ。
俺の言葉に、あいつは細い両手で、グラスを大事そうに包み込んだ。名残りを惜しむように、それを少しずつ味わう、あいつを眺めながら、俺はまた一口、グラスを呷った。
暗くなる前にと、店を出たところで、さて、と俺はさりげなく周囲に目を走らせた。差し迫った脅威のないことを確認した上で、あいつに向き直る。
「また、さっきの奴らみたいなのに絡まれたら厄介だよな……あいつらも、こっちを探してるかもしれねぇし。もし良かったら、途中まで送って、」
俺の提案は、そこで不意に途切れた。あいつが、無言で俺の胸元に身を寄せてきたからだ。もたれかかられるままに、俺は後ろに一歩下がる。肩が、石造りの壁に当たるのを感じた。
俺にぴったりくっついて、あいつの伏せた表情は伺えない。怯えているのだろうか──むやみに怖がらせてしまったのだとしたら、悪いことをした。宥めるように、俺は語り掛ける。
「どうした、大丈夫か? 心配するな、俺がついててやるから。それとも、また痛みだしたか?」
あいつは答えない。縋るように、身体を密着させてくる。こんな弱々しい態度、悪漢に足蹴にされていたときすら、見せなかったはずだが──その薄い肩を、抱いてやりでもしたほうが良いのだろうかと、俺が迷っていると、あいつはぽつりと呟いた。
「──今日のお礼を、したいんだ。気持ちでも、言葉でもないもので」
「え、……」
それは、俺がこいつを強引に店に連れ込んだときの台詞だ。お前自身で礼をしろと、俺は言い放った。その口上を引いて、あいつは礼をしたいという。いったい、何をと、俺は戸惑わざるを得ない。
白い手が、静かに持ち上がって、俺の肩に掛かる。少し背伸びをするようにして、あいつは俺に顔を寄せた。ふっと過ぎる、甘酸っぱい柑橘の匂い。吐息の混じり合うばかりの距離で、あいつは囁き掛ける。
「レモネード2杯分よりは、高値で買われているよ──僕は」
あいつの眼が、黄金色に光って、俺を見据える。しなやかに艶めく闇色の髪が、白い頬に、首に、音もなく落ち掛かる。軽く首を傾げて、あいつは、唇を歪めてみせた──無邪気にレモネードに口をつけていたときとは、まるで違う、挑発的な微笑。きれいに反らされた細い指先が、ひたりと俺の頬に触れ、ゆっくりと輪郭を辿っていく。
獲物を捉え、射竦め、絡め取る──周囲の音が、光が、急に遠のいたような気がした。
「──なんて。冗談だよ。そんな顔しないで」
一瞬の後、あいつは愉快げに眼を眇めて、くすくすと笑い出した。先ほど見せた表情の残滓は、どこにもない。もたれかかっていた身体が離れて、解放された俺は、いつの間にか乾いていた喉を、密かに潤した。
笑えない冗談だ──冗談で言うことではない。言うことといい、やることといい、こいつは本気と冗談の区別が、あまりついていないのではないかと思わせた。冗談だと言ってみせた、その言葉にしても、嘘ではないという保証はどこにもない。固まってしまった俺の反応を見て、あいつは、優しい嘘を吐いたのかもしれなかった。それは分からない。ただ、本人が冗談だというものを、それ以上、俺は追及することができなかった。こいつの生業を暴き立てたところで、何も良いことはないと思った。
それよりも、知りたいと思った。俺を翻弄する、こいつのことを、もっと知りたい。かき立てられる──かき乱される。
思えば、このとき、俺はもう既に──こいつのことを考えずには、いられなくさせられていた。
「明智君」
あいつは俺を、澄んだ声で、そう呼んだ。軽やかな足取りで、気ままに、閑散とした通りを渡りながら。錆びて軋む階段を、リズミカルに上がりながら。あちこちに銃痕の残る、薄暗く入り組んだ路地を、器用に抜けながら。明智君、明智君、と歌うように繰り返す。伸ばしかけた俺の手をすり抜けて、黒髪を揺らし、身を翻す、あいつの細い後姿を、俺は見失わないように、小走りに続いた。はやる鼓動は、運動だけが原因ではないと、自覚していた。
「ここだよ──明智君」
いつの間にか、あいつは民家の外階段を勝手に上がって、一番高い手摺に背中をもたれていた。俺の姿を認めると、あいつは手摺を後ろ手に掴み、軽やかな仕草で、そのまま身体を引き上げた。ベンチ代わりにするには心許ない、細い手摺の上で器用にバランスを取って、両脚を、ふらふらと楽しげに揺らす。それから、あいつはゆっくりと、首を、否、背中を反らしていった。黒髪が、肩をなめらかに滑り落ちる。ぐらりと、上体が傾ぐ。
危ない、と叫ぶことも、忘れた。頼りない手摺を掴む、細い両手だけで上体を支えているあいつは、いつ手を滑らせて、頭から落下しても、おかしくなかったのに。地上7メートルから、重力に従ってくしゃりと墜ちる、その顛末を、スローモーションで、容易く脳裏に思い浮かべることすら、できたのに。
しかし、そうはならなかった。
もう一押ししてやるだけで、今にも簡単に崩れ落ちそうな危うさをはらみながら、あいつは均衡を保っていた。おそろしくしなやかな背筋を、弓なりに反らして、あいつは振り仰ぐ。陽が落ちかかり、藍色に染まりゆく空に、輝き始めた星を。その視界いっぱいに収めて、また、満足げに脚を揺らす。
あいつが見上げるものを、俺も一緒になって、見上げていた。陽が完全に沈むまで、そうしていた。
「明智君──また、会える?」
何事もなかったかのように、体勢を戻したあいつは、こちらを見下ろして、無邪気にそう問い掛ける。俺の答えなど、きっと、もう分かっているのだろう。あいつに俺は、もちろん、と応じたのだった。
ただの通りすがりで終わるはずだった、これが、あいつと俺とを繋いだ瞬間だった。ずっと、繋がり続けている──今に至るまで、途切れることなく、終わることなく。
繋がれている──囚われている。
■
母国を出て、各地を転々としていた俺は、どの土地でも親しい人間関係を作ることのないよう心掛けていた。僅かでもその気配を感じるや、潮時として、また新たな土地へ発つ。俺の名前が、存在が、誰かの記憶に刻み込まれる前に。俺が、誰かに規定される前に。
そんな行動規範は、しかし、あいつに対してだけは、効かなかった。これは例外だと、自分自身に言い訳をしながら、俺はあいつとの逢瀬を重ねた。重ねはしたが、いっこうに、あいつへの理解を深めることはできなかった。
ふざけているのだか、本気なのだか、分からない態度も。不意に、脈絡のない行動をとることも。俺を翻弄して、愉快げに笑うのも。相変わらず、そのままだった。人間関係としては、初対面の状態からほとんど、一歩も前進していないことになる。親しいようで、どこまでも捉え難い、そんなあいつは、俺の言い訳に正当性を保証するのに、とても都合が良かった。
会うとき、いつも俺は、あいつにレモネードを奢る。楽しませて貰っているのだから、当然のことだ。
楽しんで──しかし、そんなことが、俺に、許されるのだろうか。
二人の人間を踏み躙って、のうのうと生き延びた、俺ごときが。
罰ではなく──喜びを求めるなど。
神経を、感覚を、思考を、感情を、費やして。
この生命を、まるで、謳歌するかのように。
そんな──身の程知らずなことが。
「明智君──」
気遣わしげな声とともに、肩に掛かる、軽い感触。その手を、俺は反射的に、振り払っていた。あっけなく跳ね除けてしまえた後で、それが俺よりも小さな、白くほっそりとした手であったことに気付く。目の前にいる、あいつの大きな眼が、驚いたように瞠られていることにも。
一拍遅れて、俺は、今の反応がどう考えても過剰であったことに気付かされた。気まずい思いで、眼を逸らす。
「あ……悪い、ぼうっとしてた」
振り払ったまま硬直していた片手を、俺は引き戻して、隠すように握った。何年経っても、忌まわしくこびりついた条件反射は、拭えない──怯える幼子の肩を、無造作に掴んで、ガラスの灰皿を振り上げる、男の影が、脳裏に蘇る。
もちろん、ここはあの狭く薄暗い、暴力と酒の匂いの染みついた空間ではなく、穏やかな陽光の射し込む軽食屋である。俺の肩に掛かった手は、大きくおそろしいあの手ではなかったし、俺はもはや、無力な幼子ではなかった。自分にそれを言い聞かせるように、ひとつずつ確認して、ようやく、詰めていた息を吐く。
そこで、こちらを案じるように見つめる金色の眼にぶつかった。きっと、ぼんやりとしている俺を案じて、声を掛けてくれただろうに、悪いことをしてしまった。苦いものが、胸の辺りに広がる。
その、と口ごもりながら、俺は言い訳を紡ぐ。
「触れられるのは、……あまり、好きじゃなくてな」
「──そう」
同じだ、と、奴は聞こえるか聞こえないくらいかの声で呟いた。それ以上、言葉を続けようとはせずに、グラスの中へ視線を落とす。
そのとき、俺は初めて、奴の本当の声を聞いたような気がした。いつも捉えどころがなく、本気なのか冗談なのか判別するのが難しい態度を、あえて取っているような節がある、あいつの、無防備な声が、こぼれた気がした。白い横顔を見つめて、俺は思う。
触れられるのは、嫌い──その「嫌いなこと」を我慢する代わりに、奴が日々の糧を得ていることは、なんとなく分かっている。それについて、俺はどういう言える立場にはない。俺はこいつの保護者でも何でもない。こいつに対して、何の責任も負っていない分際で、いったい、何が言えただろうか。
触れられるのが嫌いなこいつは、その割に、自分から他人に触れることについて、躊躇がないという一面もある。それは、あの印象的な出逢いの場面での予想外の行動にしてもそうであったし、今、俺を気遣って、触れてこようとしたことからも伺える。
こんなことを推し量るのは、趣味が悪いと言われそうだが、そこには主導権の有無という、明瞭な違いがあるのだろう。主導権を奪われ、命じられるままに従い、己の身の上に為される行為を、ただ受け容れる。そのとき、感じることを強いられるのは、物理的な身体感覚、それだけではない。
圧倒的な、劣等感。明瞭なる敗北。屈辱を感じる間もなく、引き裂かれる、なけなしの自尊心。これでもかとばかりに、刻み付けられる、教え込まれる、それらをただ、受け容れる以外に許されない。
痛みを堪え、声を殺して──吐き気がする。俺は、いつの間にか拳を握っていたことに気付いて、溜息を吐いた。
とにかく、そんなことをされて嬉しい人間はいない。奴にとって、他人に触れられることは、イコール、従属することだ。支配を受けることだ。それくらいなら、自分から触れるほうを、こいつは選ぶだろう。
そんな接触しか、知らずに育ったこいつを、哀れむつもりは、俺にはない。代わりに、ああ、同じだな、と呟いた。それで、俺たちには、十分だった。
相変わらず、俺の顔が暗いのを見て取ってか、あいつはふっと微笑む。
「元気がないから──慰めてあげようかと、思ったんだけど。キスは嫌い?」
「遠慮しとく。そんな風に慰められたって、空しいだけだろ」
好きでもない男に、すぐにそういうことをしようとするのはやめろと、俺はあのとき説教したつもりなのだが、どうも伝わっていないような気がする。俺がそういうことをされて、単純に喜ぶ人間だと思われているのだとすれば、さらに悲しくなってくる話だ。
もちろん、世の中には、それで喜ぶ野郎が──喜んで金を払う野郎というのが、掃いて捨てるほどいるわけで、だからこいつも、男というのは皆、そういうものだと認識しているのかもしれなかった。それを俺にも適用するのは、できれば、やめてほしいのだが。
折角の申し出を断る奴というのが珍しいのか、あいつは大きな眼で、興味深そうにこちらを見つめる。
「それじゃあ──もしも僕が、明智君に『惚れた』んだとしたら。そういうことを、してもいいのかな」
「あ? あー……どうだろうな。ちょっと、それは、うまく想像できねぇわ」
ごまかすように、俺はレモネードをかき混ぜた。こいつは何でまた、そういう突拍子もないことを言い出すのだろうか。仮定の話だとしても、俺なんかが相手で良いのかよ、と思わず苦言を呈したくなる。どうせなら、もっとましな相手を選んでほしいと思うのは、老婆心が過ぎるだろうか。ともかく、そのような図は、どう頑張っても、想像できそうになかった。
そもそも、してもいいとか、悪いとか、許されるとか、許されないとか、そういったことではないような気もする。条件や許可といった次元の問題ではなく、お互いがそれを望むことによって、自然と──などと、考えていて恥ずかしくなる話だ。元はといえば、俺の撒いた種とはいえ、いつまでも話題を引っ張る奴である。勝手にしろ、と匙を投げるのも、無責任な気がして、つい付き合ってしまう。
「俺は、お前が自分を大切にしてくれれば良いっていうか……つまり、代償だの、打算だの、そういうのじゃなく、お前の気持ちで、誰か特別な相手に対して、そうしたいっていうときのために、そういうことは、大事に取っておけと……だめだ恥ずかしい忘れてくれ忘れろ」
穴があったら入りたい思いで、俺は頭を抱えた。こんなことを真面目に語って、気持ちとしては、罰ゲームを受けているのに限りなく近いものがある。対して、奴は例の澄ました面持ちで、俺が奢ったレモネードを一口啜った。
「気持ちというのは、よく分からないな。したいと思って、したことなんて、ないから──キスにしても、何にしても」
分かってはいても、そう平然と口にされると、こちらの方が、いたたまれない心地になる。あいつの淡々とした物言いに、俺は何も返す言葉がなかった。
思えば、あの初対面の場での俺の発言は、相当に見当違いだった。奴も、笑いもするというものだ。ただ、あのとき、俺はいたって真剣だった。見当違いというなら、こいつだってそうだ。あの場で、あんなことをする人間は、普通いない。見当違いの奴に、見当違いに応じた、というだけのことだ。
確かに、こいつにとって、あんなことは、なんでもない、何の意味も価値も、今更見出せないものなのだろう。それを、後生大事にしている、俺の考えの方が、古めかしいのかも知れない。ただ、そんな古い人間である俺の言葉が、どうしてか、こいつには響いたらしい。奴は続けた。
「でも、惚れた相手としろって、君が言うから。そうしようと思う」
「……そうか」
それでいい。あのとき、俺が思わず、苦言を呈するようなかたちになったのは、別に、あの行為に特別な思い入れや、潔癖な思想があったからではない。何のためらいもない、あの行為、それだけで、俺は分かってしまった。こいつが、自分自身の何についても、価値も、意味も、見出していないということを。まるで、使い捨ての道具のように、自分自身を扱えるということを。
自分を、大事にしていない──それが、分かってしまった。
俺自身、それを叱れるような立場ではない。ただ、言わずにはいられなかった。苦言を呈するだけでは、無責任だと思うから、今もこうして、教えている。その効果は、少しはあったようだ。
「明智君が、僕に何かを望むなら。僕は、どんなことでもするよ」
あいつは、まっすぐに俺を見つめて、そう言ったのだった。随分と勉強熱心な生徒だな、と俺は笑った。あいつの言葉を、そういう風にしか、捉えられなかった。
あいつははじめから、俺にそう予告していたのに──それは予言、あるいは、警告というべきか。
俺をじっと見つめる、あいつの金色の瞳が、何を物語っていたか、それを理解させられたときには、もう、動き始めた物語を止める手立ては──どこにもなかった。
■
あいつが俺についてくると言ったとき、俺は表面的には、思い留まるように説得を試みたものの、内心で、高揚を覚えなかったといえば嘘になる。こうなることを、俺は半ば、予想していた。もしもあいつが違う選択をしていたら、おそらく、俺は失望し、幻滅しただろうとさえいえた。
本当に良いんだなと、俺は最後にもう一度、確認した。
「言っておくが、俺に期待しても、たぶん無駄だからな。お前に、何かしてやれるような──助けてやれるような余裕、俺にはない」
「君に、助けて貰いたいとは、思わないよ。それはもう、十分に、して貰ったから」
あいつは、まっすぐに俺を見つめて、そう言った。金色の瞳には、確かな意志が宿っていた。
「──僕が、君を、助けたいんだ」
一歩も譲らず、一緒に連れて行けと主張する、あいつの頑固さが、正直いって、愛しかった。その眼を見たときから、俺はこいつを連れて行くのだと、もう、心は決まっていた。
正直いって、こいつが俺の旅路において、何かの役に立つという見込みは、どこにもなかった。俺を助けるといったって、具体的に何をどうするつもりなのかも、分からない。しかし、そんなことは、どうでもよかった。何の役に立つかも分からないという意味では、あいつにとっての俺も同じだ。それなのに、あいつは迷いなく、当然のように、俺を選んだ。こいつがそういう意志を持っているというだけで、十分だった。
慕われるとは、こんな感じなのだろうか。そうだとすれば、悪くない。慕われただけ、俺からも何かを返してやりたくなる。ほら、できるじゃないか。俺は、誰かに優しくしてやれる奴なのだと、確認して、安堵する。姑息なことだと、自分でも思う。だが、そうでもしなければ、やっていられなかった。あいつは、ただいるだけで、俺を安心させてくれた。俺は間違っていないのだと、実感させてくれた。だから、手放すことは、考えられなかった。
あいつは俺を、「命の恩人」だと言う。それは、なにも、あの一度、助けに入ったことだけを指しているのではないのだろう。あいつにとって、暴力沙汰は慣れっこであり、命までは取られないと、分かっていた。俺が割って入るまでもなかったかも知れない。
だから、俺は、あいつを連れ出したという意味で、「命の恩人」になったのだろう。ここにいるしかない、こうするしかない、これしかないと、蹲っていたあいつに、手を差し出し、引き上げた。それは、かつて俺自身が、あの人にして貰ったことだった。あの人のように、と意識していたわけではないが、結果的には、そういうことになった。もちろん、何もかもが及ばないが。
俺が救ってやった、こいつには、俺が必要なのだ。
俺は、こいつと一緒にいてやらなくては。
──そんなことを、本気で思っていた。
■
俺の責任なのだろう、と思う。
自惚れなどではない。俺が、あいつが、俺たちが、こんなことになってしまったのは──俺のせい、以外の何物でもない。
あいつが生まれついての異常者だと、決め付けるのは簡単だ。もともと、そういう奴であって、俺は巻き込まれただけなのだと、そう思えば、楽になれる。不幸な事故だったのだと。俺には、どうすることもできなかったのだと。哀れな被害者なのだと。そうして、目を背けることが、出来たならば。
しかし──俺は、騙せない。騙されない。
あいつがああなったのは、俺のせいだ。明瞭に、致命的に──俺の責任だ。
分かっている。だからといって、今更、何ができる。何もできなかった、俺が。何もできずに、あの人を失った、俺は、またしても、何もできずに、あいつを失った。
結局、俺があいつにしてやれることなど、何もなかったのだ。
そんなことにも気付かずに、まるで自分が何者かになったかのように勘違いして、浮かれていた、あの頃の俺は、思い返してみれば、いやになるほど幸せなことで──哀れになるほど、滑稽だった。
誰かにとっての、小さな世界を──変えてやること。
それだけが、俺があの人のように出来たと、確かに言えることで。
あいつに対して、俺がしてやれた、唯一のことだった。
俺はあいつに、かつての俺を投影し、また、あの人の幻影を求めた。救いながら、救われたがっていた。俺はどこまでも、自分のことしか見えていなかった。
あいつを都合よく、利用して。
要らなくなれば、切り捨てる。
──悪であると、言われれば、そうなのだろうと思う。
俺は、そういう人間だった。傷つけられた分、誰かを救える、どころか。傷つけられたことを言い訳に、誰かを傷つける。
俺が、最も軽蔑し、嫌悪し、断絶した、あの男そっくりそのままじゃないかと、思い知らされる。
俺は、酔っていたのだ。都合の良い夢に、妄想に。
俺が、あの人のようになんて──なれるはずもないというのに。名前を借りただけの、偽物の分際で。誰かを──救えるはずもないというのに。思い上がっていた。
俺は、あの人ではないし。
あいつは、俺ではなかった。
“運命がレモンを与えるなら、レモネードを作ってみせろ”
──たとえ、無価値なものしか持っていなくても、自らの工夫と努力で、価値を生み出すことができるという格言。与えられたのが逆境であろうとも、自分自身の手で、それを好機へ変えていけるはずだという、力強い激励。まさしく、あの人が俺に教えてくれたことだった。
それでいえば、俺はレモネードを作るどころか、折角この手の中にある果実すら、握り潰して台無しにしてしまうような奴だった。どうしようもなく、それが、分かってしまった。
俺が最も憎むのは、だから、あいつでも誰でもなく──そんな愚かな俺自身なのだ。
[ end. ]
7話はもっと詳しく描いてくれてもいいのよと思いました。
2016.12.15