Mondschatten
慣れ親しんだ、いつもの煙草の煙を、深々と吐き出す。同時に、親愛なる弟子に容赦なく狙撃されて爆ぜた左大腿の熱と痛みも、いくらか追い出されていくような気がした。まったく、最後にとんだ餞別をくれたものだと、俺は小さく苦笑した。
見上げると、藍色の空には、見事な満月が白く輝いている。遠く地上を離れ、視界を遮る無粋な建造物の一切存在しない、こんなところで月見とは、贅沢な船旅だ。美味い酒があれば、最高なのだが。
成層圏プレーンで満月と輝く星々を独り占めおもてなしツアー──などと、ふざけたことを考えるのはこの辺にして、俺は傍らを見遣った。精確にいえば、俺はこの景色を独り占めにしているわけではない。もうひとりの乗客──ほっそりとした長身を優美な衣装に包み、月光を受けて佇む、あいつもまた、頭上に浮かぶ天体を見上げていた。薄闇にあって、淡く照らされたその姿は、水面に映る月に似て、およそ現実味というものを欠いている。少し目を離しているうちに、夢幻のように、忽然と姿を消していても、不思議ではなかった。
「なあ、……こっち、来てくれよ」
手招きすると、あいつは従順にこちらへ歩み寄って、俺の傍らに座り込んだ。次は何をすれば良いのかと、問うように、金の眼がこちらを見つめる。戸惑うような、心細げな表情は、俺も初めて目にするもので、こいつにこんな顔をさせてやったというだけでも、ささやかな満足を覚えた。
月光を受けて、端正な面立ちはいよいよ白く、色素の抜けきった髪は、細やかに煌いて見える。きれいだな、と何の気なしに呟くと、あいつは困ったように首を傾げた。
「君は、いつもそう言うね。他には、ないの?」
「悪かったな、語彙が貧困で」
片手を上げて、白い頬へと、指先を伸ばす。逃げられてしまうかもしれない、という予感は、頭の片隅にあった。こいつはいつも、捕らえようとする俺の手をすり抜けて、手の届かないところへ行ってしまう。捕まえておくことが、かつての俺には、できなかった。
もう逃げないと宣言した俺であるが、それでこいつに逃げられていては、世話がない。しかし、懸念に反して、あいつは逃げなかった。その頬に、俺はゆっくりと、手のひらを沿わせた。見た目の通り、細やかに整ったなめらかな肌の手触りを、軽く撫でて確かめる。
何かを堪えるように、あいつは眼を伏せる。頬に落ち掛かる、しなやかな髪を梳いてやりながら、こいつにこうやって触れるのは、いつ以来になるだろうかと、俺は思いを馳せた。あの頃、長く艶やかな漆黒の髪は、あいつの自慢で、指の間を水のように流れ落ちるその手触りを、俺は今でも明瞭に思い出せる。色や長さは変わってしまったが、冷たく指の合間を撫でる、あの感触は、俺が覚えているそのままだった。
そんなことを思っていると、あいつは小さく身じろいで、俺の手に、そっと自ら頬を擦り寄せた。細い手が、俺の手に重なり、大切そうに支え持つ。触れ合った部分から伝わるものを感じ取ろうとするように、あいつは眼を閉じた。
暫しそうして、あいつは、明智くん、と呟いた。
「──ひとつ、お願いがある」
あいつは顔を上げ、少し眩しそうに、こちらを見つめた。躊躇いがちに、口を開く。
「覚えてる? 『そういうことは、惚れた奴とするもの』──あのとき、君が言ってくれたこと。僕はずっと、守れずにいたけれど──今、初めて、君の言うとおりにしたいんだ」
そう言って、あいつは、俺の判断を待つように、口を噤んだ。何を言い出すかと思えば、あまりにささやかな、可愛らしい「お願い」だった。これまで、さんざん好き勝手をして、大胆不敵な行動で派手に騒ぎを起こしては、俺をいいように弄んでくれたくせに、今更、そんなことに許可を求める、そのアンバランスさが、可笑しかった。
もしも、俺が拒めば、こいつは食い下がることなく、それですんなりと諦めるのだろうと思われた。いつだって、こいつは俺に、どうしたいのかと意思を問い、俺の望むとおりにしてきたのだ。今ならば、それが分かる。神妙な面持ちで、こちらを見つめて返事を待つ、あいつはいつになく頼りなげで、まるで無力な子どものようだった。
俺は煙草を揉み消し、深々と息を吐いた。
「仕方ねぇな。偉そうに説教したのは、俺だもんな」
もちろん、忘れてはいない。忘れられるはずもない──俺があのとき、あいつにこの手を差し出していなければ、今の俺たちはないのだから。
若造だった俺の恥ずかしい説教を聞いて、奴は大笑いしていたように記憶しているが、ようやく、そのありがたみを分かってくれたというのなら、なによりのことだ。協力してやるのも、やぶさかではない。こいつが珍しく、俺に何かをねだってくれているという、それだけで、お願いとやらを聞いてやるには、十分だった。
かすかな衣擦れと共に、あいつはこちらへにじり寄った。細く整った両手が、俺の頬を包み込み、軽く引き寄せる。腐れ縁とさえいって良い、こいつを相手に、まさかこんなことになるとはなと、俺は奴の整った面立ちを間近に眺めた。お願いとやらを聞いてやることになって、こいつは手放しで喜んでくれるものとばかり思っていたのだが、予想に反して、その表情は浮かない。俺を見つめる金色の眼は、物憂げで、躊躇いを教えるように、小さく揺れる。明智くん、と囁く声は、少しかすれていた。
「──本当に、良いんだね」
「そう言ってるだろ。さっさとしろよ、恥ずかしい」
いつまでも、こうして至近距離で見つめ合っているなど、気恥ずかしくてやっていられない。そう言ってやると、あいつは、安心したように、ふっと微笑んだ。眠りに落ちるように、眼を閉じて、最後の距離を縮めていく。俺も瞼を下ろし、あいつを待つ。ほどなくして、柔らかなものが、唇に押し当てられるのを感じた。
いったい、どんなに熟練した刺激的な手管で、熱っぽく官能的に籠絡してくれるのだろうかと、やや身構えていた俺としては、それは、正直いって、あっけないとさえいえるものだった。確かに、触れた唇は感嘆するほどみずみずしく、しっとりとした心地良さで俺を受け止めたが、それを除いては、驚くほどに、普通だった。少なくとも、食い殺される心配は、しなくて良さそうだった。
軽く押し当ててくるばかりの、静かな接触だった。こちらから、強引にこじ開けて、無防備な内奥に侵入してやったら、どんな反応をするだろうかと、悪戯心が頭をもたげたが、実行に移すのはやめておいた。静寂の中、触れ合わせた敏感な箇所から、あいつが感じ取っているだろうものを、台無しにしたくはなかった。俺もまた、あいつの感触だけで意識を満たし、それを堪能した。
押し当てられていたものが、ふと、離れる。そろそろと瞼を上げると、金色の眼にぶつかった。奥底までも覗き込むような、その眼から、逃れるすべを、俺は知らない。正面からこちらを見据えて、奴はおもむろに、口を開いた。
「──君は、痛みを忘れる。何も案じることなく、眠りに落ちる──良い夢を」
囁く声は、耳に甘く注ぎ込まれて、優しく手ほどきするように、俺をいざなう。触れた感触もまだ記憶に新しい、その唇から紡ぎ出される麗しい声に、そのまま身を任せてしまいたいという誘惑に、いったいどれほどの人間が抗えることだろう。俺とて、その例外ではない。抵抗する理由は、どこにもなかった。意識的に、四肢の力を抜く──あいつの意のままに、なってやろうじゃないか。
しかし、待っていても一向に、あいつの言葉が実現することはなかった。相変わらず、大腿は熱をもって痛んだし、安らかな眠りが訪れることもなかった。
「……効いてねぇぞ」
「みたいだね」
話が違うじゃねぇかとばかりに、不平を申し立てる俺に対して、くすくすと、あいつは無邪気に笑った。その妙な力を、あいつは授かりもの(ギフト)と誇らしげに呼んで、まるでアイデンティティの中核であるかのように重視してきたはずだが、それが効かないことに、少しもうろたえる様子を見せなかった。あるいは、本人にはどこかで、こうなる予感があったのかもしれない。
「どうやら──私のギフトは、尽きてしまったらしい」
語る表情は、どこか安堵したように穏やかで、少しばかり、寂しげだった。その顔を見て、俺は思う──ああ、こいつはようやく、自由になれたのだと。こいつの在りようを、縛りつけて強要する、きつく絡みついた鎖から、ようやく、解放された。
特異な能力を、すっかり意のままにして、自在に行使していたように見えるこいつも、その実、囚われていたことに変わりはなかったのだ。それは、俺に言わせれば、贈り物を授かったというよりは、災厄に降り掛かられた、あるいは、もっと単純に、呪いを掛けられたといったほうが、より的確に事情を表している。
呪いを解くのは、王子のキスと、相場は決まっている──よりによって、俺が王子役を務めることになるとは、人生、何が起こるか分からないものである。あいつはあいつで、思うところがあるのだろう、眼を伏せて、しみじみと呟く。
「不思議だね。君に、贈り物を上げたいと、ずっと思っていたのに──こうしたら、それが叶うと、思ったのに。まるで、君から何かを、貰ったみたいだ」
そう言って、あいつは、ふっと微笑んだ。少し首を傾げて、しなやかな白銀の髪を揺らす。
「やっぱり、君は正しかったよ、明智くん。これは──惚れた相手とするのが、一番良い」
「やっと分かったか。笑い飛ばしやがったこと、反省しろよ」
もちろんだよ、とあいつは応じたが、少しも反省などしていないことは、顔を見れば明らかだった。いつものことなので、俺も別に、期待はしていない。ずっと、こいつから与えられる一方で、際限なく求め欲することしか知らなかった俺が、逆に、何かを贈ってやることができたというのならば、それ以上に、何も望むことはなかった。
慈しむように、あいつは精緻な指先で、そっと己の唇をなぞった。
「僕のこれは、いつだって、見返りを得るための手段でしか、なかったけれど。君を魅了することも、操ることも、できないと分かっているのに、それでも──もっと、したいと思うのは、おかしなことかな」
「お前がおかしいのは、昔からだろ」
それはそうだね、とあいつは柔らかく微笑する。怜悧な美貌の、つくりものめいた印象を和らげる、その無防備な笑顔に、俺もつられて、表情を緩めた。そんな顔で、あいつは、あくまでも当然のことのように、何気なく、一言を付け加える。
「それじゃあ──良いよね、明智くん」
何が、と、聞き返す暇は、与えられなかった。
俊敏な身のこなしで、あいつは俺の脚の間に割り入り、しなだれかかるようにして覆いかぶさった。細くしなやかな手が、俺の頬を撫で、首を伝い下りると、シャツの襟元に掛かって、ネクタイを弄う。
「……何やってんだよ、お前」
「今、やることといったら、ひとつしかないよ──分かっているくせに」
触れるばかりに顔を寄せて、あいつはそう告げると、美しく唇をゆがめた。俺がまだ戸惑っているうちにも、だらしなく結んでいたネクタイは、手品めいた優雅な所作で、あっさりと解かれてしまう。待てよ、と俺は奴の腕を掴もうとしたが、簡単にすり抜けられて、叶わない。もちろん、本気で抵抗すれば、いくら若かりし頃よりは衰えた俺とはいえ、こいつに取っ組み合いで負ける気は、まったくしないとはいえ、今は片足の負傷という大きなハンデがある。むやみに暴れるのは、自殺行為というものだ。
「っ、う……」
あいつの白い手が、胸元から腹、腰の辺りへと、焦らすように、俺の身体を伝い下りていく。きれいに反らされた指先によって、否応なく生起させられかける感覚を、俺は振り払って声を上げた。
「おいおい……勘弁してくれよ。こっちは怪我人なんだ、無茶すんな」
「任せて。大人しくしていれば、悪いようにはしないよ」
情に訴えようという俺の作戦は、どうやら、まったく響いていないようだった。こいつに、そんなものを期待しようというのが、間違いだった。任せろと言ったとおり、奴は俺の膝に手を掛け、容易く両脚を押し広げる。慣れた仕草で、内股を際どく撫で上げられて、軽く背筋が震える。
「待てよ、せめて心の準備ってものを、」
「──待てない」
俺の情けない哀願を、奴は一言で切り捨てた。血も涙もないとは、このことだ。俺の脚の間で、あいつは姿勢を低くし、顔を寄せる。何をしようとしているのか想像がついて、俺は思わず後ずさりかけたが、残念ながら、どこにも逃げ場はなかった。さっき初めて唇を交わしたところだというのに、これは段階を飛ばしすぎではなかろうか。刺激的にも、ほどがある。ごくりと、喉が鳴るのが分かった。
俺の大腿を、あいつは愛しげに撫で、顔を伏せる。そして、そこに──手早く、ネクタイを巻きつけた。鮮やかな手つきで、負傷した部位をきつく締め付け、圧迫する。俺があっけにとられている間に、奴は的確に、止血の応急処置を完了していた。
「思い出すね、あの頃を──明智くん? どうしたの?」
かつての戦場で身につけた技術を有効活用して、満足げにしているあいつを前に、俺はがっくりと肩を落とした。妙な勘違いをしていた、大馬鹿野郎である自分に、あきれはてる。奴の言ったとおり、今この状況で、やることなど、決まっているではないか。何を考えているんだ、俺は。多量の血液を失って、頭の回転が鈍っていたとしか思えない。
自己嫌悪に陥っている俺の顔を、あいつはしげしげと覗き込み、こちらの勘違いを悟ったらしい。さも傑作だとでもいうように、笑い出しやがった。挑発的な眼で、こちらを見つめて、ねぇ、と囁き掛ける。
「──期待したことと、違ってた?」
「うるせぇよ」
俺は無愛想に応じたが、奴は何がそんなにおかしいのか、くすくすと笑い続けている。
「残念だけど、今は大人しくしていないとね──これで、我慢してよ」
そう言って、あいつは俺の首に両腕を回して、音も無く身を寄せた。俺がせがんでるみたいに言うんじゃねぇよ、と少々癪であったが、俺もまた、奴の腰に腕を回して、細い身体を抱き寄せた。明智くん、とあいつが吐息混じりに、甘くねだる。その唇が、何を求めているか、今は聞かなくても分かった。薄く開かれた柔肉を、もう一度、塞いでやる。そうして、互いを味わった。
喪失したものを、埋め合わせるように、唇を重ね、舌を絡めては、離れ、また押し付けることを、俺たちは飽きず、繰り返した。与えながら、与えられていた。求めながら、求められていた。満たしながら、満たされていた。
「ん……ぅ、ぁ──」
あいつの息が、僅かに上がって、時折入り混じる、切なげな声、かすかに身じろぎ、ひくりと震える薄い肩、そんな小さな発見のひとつひとつを、俺は逃すことなく、捉えておきたかった。
俺の身を気遣ってか、あまり熱中しすぎない程度のところで、あいつはうまく身を引いてみせる。こちらとしても、むやみに貪りつくような若造ではない。俺という人間を知り尽くした、奴とのそんな駆け引きが、愉快だった。
何度目かに顔を離したところで、俺は、あいつの耳元に唇を寄せた。
「俺を、満足させられないって、お前は言ってたけどな。俺は今、満足してるぜ。もう、他には何も、要らねぇくらいに」
「そう──良かった」
良かったよ、と、あいつは自分に言い聞かせるように、もう一度、小さく呟いた。俯いてしまって、表情は伺えない。なんとなく、どんな顔をしているか想像できて、俺は片手であいつの頭を撫でた。冷たく、しなやかな白髪の感触を覚えながら、あやすように、そうしていると、あいつが次第に、こちらに身を任せてくるのが分かった。胸にもたれる、その感触が、温度が、重みが、無性に懐かしかった。何もなくとも、それだけで、満たされていた。あるいは、それは、愛しさというものだったのかもしれない。その確かな実感を追い求めるように、俺は奴を抱く腕に力を込めた。
ようやく、俺は、こいつを取り戻したのだと思った。こいつが、俺を捨て去り、逃げていったかのように思っていたのは、間違いで、逃げていたのは俺だった。こいつを手放したのは、俺だった。
俺は、こいつを否定し、憎悪し、この手で殺め、塗り潰し、埋葬し、なかったことにして、記憶の底に沈め、忘れようとした。あいつに向き合い、理解し、受け入れて、認めることができずに、そうやって、ここまで逃げ続けてきた。
俺を、誰より、理解っていたのは、あいつだったのに。いつだって、真実は、あいつの手の内にあったのに。あいつを否定することは、俺自身を否定することと、同義だった。それで、俺は自分自身、認め難い己の姿から、目を背けようとした。
それも、もう仕舞いだ。
もう二度と、逃げることはない──手放すことはない。決して、ひとりにはしない。
あいつの細く、しなやかな指に、指を絡めて、しっかりと握った。
欠落だらけの、こいつには、欠陥だらけの、俺が相応しい。たぶん、俺たちは、お互いでしか満たされることを知らない。押し付けあった、心臓の鼓動が、重なり響く。それはやがて、互いの区別なく、ひとつとなるだろう。
随分と長い時間をかけて、ようやく俺は、あいつを──愚かで、哀れで、愛しい、俺の半身を、取り戻したのだった。
[ end. ]
月だけが見ていた明二十。最終話ありがとうございました。
2017.4.1