単純接触効果(プレビュー)









重々しい石造りの壁に囲まれた一室は、会議室という体になっていたが、中央にテーブル一式がなければ、地下牢とさして印象に違いはなかった。自ら拭き清めた、そのテーブルを囲んで、少年少女たちは顔を突き合わせていた。
リヴァイ兵長たち上官は、これから執り行われる「尋問」のため、地下にこもっている。その間、彼の班員たちには、待機と見張り番の任務が命じられていた。
これから、自分たちは、どこへ進もうとしているのか。少年たちはテーブルを囲み、現状を整理した。
否、それほどの明確な目的意識があっての集会をしたのではなかった。ただ、このまま、それぞれの寝床に散らばっていくのが、何となく躊躇われたといったほうが正しい。互いが、同じ気分であることを、確かめたかっただけのことだ。
それも、地の底から響くような、男の絶叫が、石壁に反射しながら塔内を覆い尽くすに至って、お開きとなった。自分たちの足元で、今まさに何が執り行われているか、否応なしに意識させられながら、椅子に座り続けることは難しかった。
「じゃあ……見張りの順番は、さっき決めた通りにな」
テーブルの中心にいたジャンの言葉に、面々は頷く。
「私たちは、先に休ませて貰いますね。行きましょう、ヒストリア」
口数少なく、ひっそりと座していた少女に、サシャは声を掛け、共に席を立つ。その遣り取りに、エレンは、隣に佇む幼馴染を見遣った。
「ミカサ、お前も、活躍だったんだろ。ゆっくり寝て休めよ」
「私は問題ない……けれど、エレンがそう言うなら」
緩く首を振って言う、ミカサの漆黒の瞳は、エレンをまっすぐに見つめ、それから、ふっと横に動いた。彼女の視線を追って、エレンはテーブルの向かいに顔を向けた。
そちらでは、ジャンの隣に座していたアルミンが、黙って席を立とうとしていた。顔色は戻ったが、青灰色の瞳を伏せた表情は、どこか物憂げである。彼の言葉に従っていえば、もう「良い人」ではなくなってしまった、自分たちの今後の見通しで頭が一杯なのだろう。
励ますように、エレンはそちらにも声を掛けた。
「アルミンも、今日は大変だったな。いろいろ、気疲れしちまっただろ」
「ううん……僕は、何もしてないから」
振り返ったアルミンは、そう言って、困ったように微笑んだ。何もしていないというのは言い過ぎだろう、アルミンはちゃんと替え玉の役目を果たしたではないかとエレンは思うが、本人にとっては、取るに足らないことという認識らしい。
今夜の見張り番を数名、選出してローテーションを決める際にも、アルミンは、自分が戦闘に参加しておらず、消耗していないことを理由に、率先して手を挙げた。
何もしていないというなら、すべてを影武者に任せて待機していた自分こそがそうだから、オレがやるとエレンは申し出たのだが、「エレンは掃除を頑張った」というよく分からない理由で却下されたのだった。
どうやら、先の巨人化実験の後に寝込んでしまった件で、要らぬ気遣いをされているらしい。あるいは、単に、頼りない奴と見做されているのだろうか。そうだとすれば、情けないことであるが、寝込んでいたのは事実なので仕方がない。
ここは友人の意思を通して、借りはいずれ返すことにしようと、エレンは身を引いた。平気だと言っているアルミンを、無理に寝床に押し込めようとしたところで、聞くわけがないというのは、掃除の一件で既に分かっている。
「アルミン。行こう」
「……うん」
ミカサに促され、それじゃ、とアルミンは部屋を後にする。その背中を、あれなら大丈夫そうだな、とエレンは見送った。替え玉として、己の身を危険に晒し、心身共に疲れきっていない筈もないだろうに、弱音も吐かず、健気に振る舞っている。
女と見られたことで、攫われた際に嫌な思いをしたらしく、合流した当初には気落ちした様子であったが、それも、もう吹っ切れたのだろう。調査兵団の今後進むべき道について、自分なりの見解を、とうとうと披露していたくらいである。すっかり調子を取り戻しているといっていい。
壮大な妄想を語るのは、幼い頃からのアルミンの癖であった。話しているうちに、アルミンはどんどん、自分の想像した世界に這入り込んで、放っておけば、いつまでも言葉を紡ぎ続ける。
たぶん、そういうときのアルミンは、考えることと喋ることの境界が、曖昧になっているのだろう。先ほどの発言からも、その癖が垣間見えて、変わらないものだな、とエレンは感想を抱いた。
子どもの頃、アルミンは沢山の「もしも」を語った。それは、二人で密かに船の積荷の中に身を隠して、内地の町まで旅する計画であったり、不運な事故に見せかけて、いじめっ子連中に報復する作戦であったりと、まだ世迷言の域を出ない、可愛らしいものであった。出来るわけがないと知りながら、それでも、暫し現実を忘れて心を遊ばせるための、脆い夢物語だった。
一方で、作戦立案能力を開花させた現在のアルミンの語るそれは、妙な真実味がある。下手に実現可能性があるだけに、同期たちは、やや彼の発言に気圧された様子であった。
そうか、あいつらは、アルミンのそういう面をあまり知らないのだな、とエレンは新鮮に感じた。
それも当然だろう。普通であれば、常識や倫理観に基づいて、無意識に考えることを避けてしまうようなことでも、冷静に計算して導き出し、利用してしまう、そういう己の側面を、アルミンは自覚していて、この三年間、極力それを他人に見せまいとしてきた。
見せてしまえば、周囲からの反発を招き、集団生活に支障をきたすことは、火を見るより明らかだったからだ。幼い頃は、そうして異端者と呼ばれ、排斥されたとしても構わなかったが、兵団ではそうはいかないということを、エレンにしろ、アルミンにしろ、早々に知っていた。
だから、それより以前の、自分の考えを包み隠さぬアルミンを知っているのは、同郷の幼馴染で、同じ夢を語り合った、エレンしかいない。陰湿で姑息であると評しはしたものの、エレンは、そんなアルミンが嫌いではなかった。
突飛で、聡明で、苛烈で、ときに、おそろしい。
そういうアルミンを、自分以外の誰も知らない。思いがけず、エレンはそれを確認することになった。
誰も、エレン以上に、アルミンを知ることはない。故郷を失い、家族を奪われた、今となっては、お互いだけが、最も長い付き合いの存在なのだから、それも当たり前のことだろう。
その、かけがえのない仲間であり、家族ともいえる友人が、無事に任務を果たして戻ってきたのは、何よりであった。リヴァイ兵長たちがついていたとはいえ、丸腰で敵の手に落ちて、何事もなしに済む保証は、どこにもなかったのだ。
特に、途中でジャン辺りがへまをして、変装が明らかになってしまえば、二人揃ってどのような目に遭わされることかと、エレンは万が一の不安が拭えなかった。まして、その当人は道中、どれだけ心細かったことだろうか。
それでも、アルミンは、やり遂げた。刃を振るって肉を削ぐことだけが、戦いではない。己の役割を承知して、アルミンは戦いに臨んだ。その勇気を、エレンは、称えてやりたかった。
本作戦は、アルミンが替え玉を見事に務め上げたからこそ、成功に至ったといえる。それは、彼にしか出来ない、誇るべきことだとエレンは思う。アルミンは、もっと胸を張って良い筈だ。
後で、もう一度労ってやろうと考えつつ、エレンは軽く伸びをした。まだ居残っていたジャンに、何とはなしに話し掛ける。
「しかし、何事もなくて良かったな。お前の変装じゃ、すぐバレちまうだろうって、オレは踏んでたが。うまくやったな」
「……ああ。何事もなく、な」
ぼそりと、ジャンは呟く。妙な反応だな、とエレンは思った。普段であれば、もっと突っ掛かってきて、皮肉の一つでも口にする筈だ。自分が身代わりを務めてやった、その本人に向けて、何か恩着せがましい一言でも言いたくはないのだろうか。
しかし、その反応を、エレンは深く気に留めることなく、続けた。
「アルミンの方は、もともと、心配要らねぇと思ってたし……すげぇよ、触られても気付かれなかったんだろ? 案外、こういう任務に向いているのか──」
「……おい」
エレンの何気ない独白を、険しい声が遮る。見れば、腕組をしたジャンが、忌々しげにこちらを睨んでいる。あからさまに敵意のこもった視線を突きつけて、彼は、吐き捨てるように言った。
「お前、明日の朝まで、その口、開くんじゃねぇ。なんなら、ここで一人で寝ろ」
「……は? 何言ってんだ……?」
突然、妙なことを言い出す同期に、エレンは眉を顰めた。一晩中、地下から響くおぞましい叫び声を子守歌にして、冷え切った床で眠るなど、冗談にしても趣味が悪い。
笑い飛ばしてやろうかとも思ったが、ジャンの面持ちは、いたって真剣であった。視線が真正面からかち合うが、その険しい表情が何を意味しているのか、エレンは推測しかねた。
改めて顔を眺めてみても、替え玉が出来るほど自分に似ているものとは思えないな、とどうでもいい感想を抱きつつ、相手の出方を待つ。
暫し、どうしたものかと躊躇うような素振りを見せてから、ジャンは続けた。
「気遣え、っつったって、どうせお前には不可能だろ。……だったら、離れておくしかない。そっとしておけ、何も喋るな」
「……何がだ? わけ分からねぇぞ……」
敵を作りやすい、率直な言動を常とする同期にしては珍しい、要領を得ない言葉であった。その態度を訝しんで、エレンは首を捻った。
ジャンは、苛立ちを隠そうともせずに舌打ちをする。
「アルミンのことだ」
とうとう、我慢出来ないというように、彼は短く言い捨てた。それは、エレンにとっては、予想外の答えだった。
何故、アルミンについて、ジャンから物申されなければならない。その内容にしても、そっとしておけ、何も言うなと、まるで腫れ物に触るかのような扱いである。
そういえば、気落ちした様子のアルミンを、こいつはずっと気遣って、慰めてやっているようだった、とエレンは記憶を手繰り寄せた。
同じ役割を果たしおおせたという、一体感のようなものがあったのだろう。緊張の糸が解けて、涙ぐんでしまったアルミンの震える肩に、ジャンは庇うように手を回し、ぎこちなく撫でてやっていた。少し大げさではないかと、それを横目に見ながら、エレンは思ったものだ。
確かに、大変な役割を果たしたことは事実であるが、あまり気遣いすぎるというのも、アルミンを半人前扱いするようなもので、適切ではない。たとえ良かれと思ってのことにしても、アルミンは特別扱いを受けることを、何より嫌うのだ。
自分が他人より劣った、哀れむべきものと見做されて、喜ぶ人間はいない。訓練所でも、小柄で子どもっぽい容姿のアルミンは、周囲から世話を焼かれがちで、厚意から出ている以上、無下にもし難いといって、本人もそれを嘆いていた。
付き合いが浅いから、その辺りの距離感を、こいつはまだ分かっていないのだ。エレンはジャンの深刻げな態度を、そう解釈した。むしろ、こちらが教えてやるつもりで、言葉を返す。
「……女と思われて、抱きつかれたって話か? そりゃあ、災難だったが……心配ねぇだろ。あの様子じゃ、もう、」
「手が、震えてた」
「……は?」
こちらを遮って、発せられたジャンの言葉に、エレンは声を失った。
相手が何を言っているのか、咄嗟に、理解することが出来なかった。茫然としているうちに、さらに畳み掛けるような言葉が襲う。
「震える手、自分で握って、堪えてた。昔からの、癖なんだってな。治ってねぇぞ、あいつ」
ジャンは冷めた瞳で、こちらを見据えている。哀れみさえも、その視線には、込められているかのようだった。
怯えたとき、手を小刻みに震わせるのは、幼い頃から、アルミンの癖だった。それを隠そうとして、彼はいつも、胸の前できつく手を握り締めるのだった。治まれ、治まれと、ぎゅ、と目を瞑って言い聞かせる姿を、何度、目にしたことか知れない。
エレンがそれを最後に見たのは、解散式の翌日、トロスト区にて初陣に臨んだときのことである。訓練所で毎日のように繰り返し、無意識にでも出来るよう叩き込まれた筈の、ガス補給の手順さえ、動揺したアルミンは、まともに完了することが出来なかった。彼の身体が、目の前の作業を拒絶していた。
この手順が完了すれば、装備を整えた一人の兵士として、出陣しなければならない。このガスと刃を使って、巨人どもに挑まねばならない。
そうしたら、いったい自分はどういうことになるか、聡いアルミンには、既に結末が見えてしまっていた。エレンが、その手首を掴んで、落ち着かせてやらなければ、彼はいつまでも、立ち上がれなかっただろう。
あの長く、目まぐるしい一日を経て、アルミンはもう、怯えることをしなくなった。茫然と立ち尽くすことも、無力に涙を落とすこともない。エレンがこの手で掴んで、止めてやった、手の震えは、そのまま二度と、息を吹き返すことはない筈だった。
それが──治っていない、という。


[中略]


風呂桶は、子ども二人が一緒に這入ると、手足を伸ばすには窮屈であったが、その狭さがかえって心地良い。腰までの湯に浸かって、エレンは人心地をついた。
その一方で、アルミンの面持ちは晴れない。お互いに裸になったというのに、妙によそよそしく、頑なな雰囲気を纏っている。
やはり、どこか具合が悪いのだろうか。実は、見えないところでケガをしていたのかも知れない。一緒の湯に浸かったアルミンの身体を、エレンはしげしげと見つめた。
白っぽい身体は、肉が薄く、ほっそりとした手足は棒きれのようで、いかにも頼りない。ところどころの擦り傷や痣は、数日前、違う連中に絡まれたときについたものだ。
そこに、真新しい傷が増えてはいないかと、エレンは友人の身体を、丹念に視線で辿った。
「エレン……あんまり、見ないで……」
言って、アルミンは膝を抱える体勢で縮こまった。青灰色の瞳は、先ほどからずっと、揺れる水面を見つめたままで、顔を上げる素振りもない。
妙なことを言う、とエレンは思った。見ないでくれというが、いったい、何を躊躇うことがあるだろう。
一緒に風呂に入るのは、これが初めてのことではない。友人同士、隠すべきものは何もないというのに、急にどうしてしまったのか。エレンには不思議だった。不服であることを表現すべく、首を傾げて問う。
「なんでだ」
「……恥ずかしいから」
「なにが」
「……」
なんで、どうしてと問われると、生真面目なアルミンは、何かしらの答えを返さずにはいられない。その答えは、いつもエレンを納得させ、満足させる。
今回も、それを期待して、エレンは問うた。案の定、アルミンは小さく呟く。
「……笑わない?」
「ああ。約束する」
はっきり言い切ってやると、アルミンは顔を上げ、眩しげにエレンを見つめた。それから、躊躇うようにしながらも、ぽつぽつと語ってくれた。
どうやら、アルミンはこのところ、同い年の子どもたちの中でも、小柄で貧弱な自分の身体というものが、気になりだしてきたらしかった。
活発な運動も、取っ組み合いの喧嘩も、あまり身体の強くないアルミンは不向きで、他の子どもたちと交わることがない。静かに本を読んだり、植物を観察したり、空を眺めて、物思いに耽りながら一日を過ごす。
そんなアルミンを、心ない連中は、本当に男かよといってからかう。
「それで、さっき、あいつらが……確かめてやろう、って」
囲まれ、押さえ込まれて、服を脱がされていたのだと、アルミンはぼそぼそと語った。
てっきり、裸にした上で直に暴力を振るうことが、連中の意図であるとエレンは思っていたが、そうではなく、脱がせてやること自体が目的であったらしい。本人は具体的には口にしなかったが、相当に嫌なことも言われたのだろう。ぐ、と唇を噛み締めている。
「あの野郎ども……」
エレンは吐き捨てた。今度会ったら、ただでは済ますまいと心に決める。同じように、胸の内で認定した敵は、既に何人もいたので、そこへ新たに付け足す格好である。
正直なところ、たとえ自分が服を脱がされたところで、エレンはさして気にならないだろうと想像出来る。だからといって、アルミンの反応が大げさだとしてあきれるつもりもなかった。
アルミンにとって、それがいかに重要な問題であるのかは、こうして気に病んでいる様子で、十分に理解出来る。何をされたか語る中で、細い声は、隠し切れずに震えていた。殴る蹴るの暴行よりも、嘲弄されたことの方が、よほど、こたえたのだろう。
思うと、何とかしてやらなくてはいけない、とエレンは心に決めた。
「あんな奴らの言うことなんて、気にしなくていいだろ」
「でも……」
励ますようなエレンの言葉にも、アルミンの反応は鈍い。常日頃、理由にもならない言いがかりをつけられて、喧嘩を売られたのならば、毅然と反論して立ち向かうというのに、その意気はどこへいってしまったのか、アルミンはすっかり肩を落としている。
「実際、僕は小さいし、弱いし……足は遅いし、逆立ちも出来ない……」
「そんなの、これからいくらでも変わっていくもんだ」
そうだろ、とエレンはアルミンの薄い肩を叩いた。自分は決して、アルミンを笑ったり、からかったりなんてしないと、伝えたかった。
アルミンがそんな風に、引け目を感じて、おどおどとする必要はないと思った。それを、自分が教えてやらなくてはいけないと思った。だから、躊躇わずに言った。
「……オレが、見てやる」
「え、……」
ざば、と音を立てて、身を寄せると、アルミンはひくりと肩を跳ねた。宥めるように、エレンは続ける。
「なにも、馬鹿にされるようなことなんて、ねぇんだって。確かめてやるから。そうしたら、安心だろ」
友人を思うエレンの言葉に、アルミンは、少しばかり迷う様子を見せた。エレンは辛抱強く、アルミンが何か言ってくれるのを待った。ぽた、ぽたと、滴り落ちた滴が、水面を打つ。
「……うん。エレンなら……いいよ」
まだ少々不安そうな面持ちで、アルミンはそう言って、組んでいた腕を解いた。縮こまっていた身体を、温かな湯に委ねる。
普段は服に隠されて目にすることのない、友人の痩せた身体を、エレンは上の方から、入念に見つめた。
これまで、体調を崩したり、ケガを負っては、アルミンはしょっちゅう、医者の世話になっていた。父の診療について、エレンもよく、その様子を眺めていたが、邪魔になってはいけないから、あまり近くで覗き込むことは出来なかった。
アルミンの服を捲り、色々な格好をさせながら、父が見ているものを、自分も見てみたいと思った。そんなことを、アルミンに頼んでも、戸惑わせてしまうと思ったから、密かに思うだけに留めていたのだ。
父に身体を診て貰った後、アルミンはいつも、ほっとした表情を見せる。診察の前には、緊張を隠せず、神妙な面持ちで、時には泣きそうな顔をしているのに、診て貰うだけで、随分と安心するらしい。
あんな風に、自分も、アルミンを安心させてやれたら良いと思った。医者であるという理由で、父に出来ることならば、一番の友人である自分にだって、出来る筈だとエレンは思った。


[中略]


「エレン……もう、戻って。何も、見なかったことにして、……休めるうちに、休んでおいたほうがいい」
助けてくれと、アルミンは言わなかった。その代わりに、どうか、放っておいてくれと、アルミンは懇願する。見ないでくれ、見なかったことにしてくれと望む。
小さく丸まって、震えている、友人の背中から、エレンは視線を外した。顔を背け、背を向ける。
このまま、見ていたところで、アルミンにとっては辛いばかりであると思った。弱さをさらけ出した姿を、アルミンは誰にも、見られたくない筈だった。その相手がエレンであれば、なおのことである。
見ないでくれ、とアルミンは言った。ならば、エレンは、それを聞き入れるだけだった。背中を撫でてやろうと、差し出した手も、引き戻した。余韻を振り払うように、ぐ、と握り込む。
溜息を吐いて、エレンは、羽織った己の毛布に手を掛けた。そして、それを広げて、前触れなく、アルミンの上へと放り投げた。
「わ、っ……」
小さな悲鳴は、折り重なった毛布の合間に吸い込まれた。突然のことに驚いたのだろう、アルミンは、被せられたものから這い出ようとして身じろぐ。
それを遮って、エレンは上から、慎重に押さえ込んだ。殆ど覆い被さるかたちで、自由を奪う。友人の頭と思しき膨らみの辺りに、エレンは顔を寄せた。
「……その中にいろ。オレが、見張っててやる。この中なら、見られない、聞かれない……何も、絶対、寄せつけねぇから」
「でも、それじゃエレンが、」
「オレは平気だ。昼寝もしたから、一晩くらい、どうってことない」
「……」
それ以上、拒絶の言葉を続けようとはせずに、アルミンは押し黙った。沈黙は合意の証であると、エレンは勝手に解釈させて貰うことにした。頷いて、姿勢を起こしかける。
エレン、と小さく呼ぶ声がする。声のした辺りに、エレンは耳を押し当てた。毛布越しに、高く澄んだ友人の声が、少しくぐもって聞こえる。
「……ごめん。いつも、面倒掛けてばかりだ、……」
恐縮したように言う、アルミンの声は、先ほどまでの切迫した様子とは違って、少し落ち着きを取り戻していた。
物理的に、守られているという感覚が、安堵を誘ったのかも知れない。友人のために、何かしてやることが出来たのだと分かって、エレンは一つ息を吐いた。
「いい。面倒なんかじゃない。これで、アルミンが楽になるっていうなら、それでいい」
毛布の円い膨らみを、ぽんと軽く叩いて、エレンは姿勢を起こした。あぐらをかいて、毛布の小山に、静かに背中を預ける。
柔らかな感触越しに、その中に包まっている友人を感じる。息遣いや、小さな身じろぎが、ほんの僅かな揺らぎとなって、背中に伝達する。ただそれだけのことで、アルミンを感じることが出来た。毛布越しのアルミンも、同じように、背中に感じているだろうかと思った。
ここで、ちゃんと見張っていると、中の友人にも分かるようにと、ゆっくりと背後にもたれた。微かな衣擦れの後はもう、静寂に包まれた。闇の下りた室内で、見るともなしに、天井の隅の暗がりを見つめていた。
「……エレン」
「ん。重いか、」
毛布の中から、躊躇いがちに発せられた声に、エレンはもたれていた背中を起こしかけた。
あまり体重をかけては、友人の頼りない身体を、押し潰してしまいかねない。安心させてやりたかったのに、苦しい思いをさせては、何をやっているのだか分からない。
しかし、次にアルミンから返ってきたのは、エレンの想像とは異なる反応だった。
毛布の中で、身じろぐ気配があって、袖口に、何かが引っ掛かるのが分かった。離れようとしたエレンを留めるように、アルミンの指先が、そこを小さく摘んでいた。軽く腕を振るうだけで、外れてしまいそうなくらいに、微かな接触だった。
「……アルミン」
その手の上に、エレンは、窘めるように片手を置いた。ひくりと跳ねて、臆病に引っ込んでしまいかけるのを、許さずに、指先をまとめて握る。二重の毛布に包まっていたというのに、その指先は、少しも温まっていなかった。
最初に少し抵抗しただけで、アルミンはもう、手を振りほどこうとはしなかった。改めて、エレンは、その手を握り直す。掌を重ね合わせて、外れないよう、指先を一本ずつ絡める。以前に、アルミンが安心すると言っていた繋ぎ方だ。
「こうしたら……ちょっとは、安心か、」
「……う、ん……」
掠れた声で、アルミンは応じた。ただ、いつもであれば、アルミンの方からも指を絡めてくるのに、今日は、力なくエレンに任せるばかりだった。握り返してくる力も、弱々しい。
もう片手を、エレンは毛布に掛けた。上に乗っていた方の一枚を、そっと捲り上げる。
気配を感じたのだろう、繋いだアルミンの手が、怯えたように、小さく跳ねる。安心させてやるように、握ってやると、躊躇いがちに握り返してくるのが分かった。それを確認してから、下に重なったもう一枚にも、手を掛ける。アルミンは、やめてくれとは言わなかった。
少しだけ捲って、出来た隙間から、エレンはゆっくりと、身体を潜り込ませた。
拒まれれば、いつでも、出て行くつもりだった。毛布から、あるいは、部屋から出て行くことも、アルミンがそう望むのならば、構いはしない。そうすれば、「見ないでくれ」というアルミンの望みを、確実に叶えてやることが出来る。
ただ、そうして友人をひとりきりにすることが、今、正しい対処であるものとは、エレンには思えなかった。声を殺して嗚咽をこぼす友人を、何も見なかった振りをして、朝までひとりにさせておくことは、エレンには出来なかった。
今しか、ないのだと思った。朝になれば、アルミンは何もかもを、仕舞い込んで、隠して、己の内に固く封じてしまうだろう。そうなれば、どんな言葉も行為も、届かない。
アルミンの受けた傷に触れるには、それがまだ塞がっていない、今しか、時間がなかった。
「エレ、……見ない、で……」
引き摺り出されて、暴かれてしまうと思ったのだろう、アルミンは、か細い声で訴えた。その一方で、繋いだ手は、震えるほどにきつく握り締めている。どうか、ここを離れないでくれという叫びが、聞こえるようだった。
自分自身を抱くようにして、アルミンは身を小さくしている。自分を守ろうとしているのか、それとも、押さえ込もうとしているのだろうか。おそらくは、そのどちらでもあるということが、エレンは分かった。
「……アルミン」
狭い暗がりの中、手探りで腕を伸ばす。そこに蹲っているものを、エレンは、無造作に引き寄せた。小さく息を呑む気配があったが、構うことなく、腕に抱え込んだ。
その上で、一言だけ、短く紡ぐ。
「見てない」
友人の柔らかな髪に、エレンは指を差し入れ、頭を起こさないように押さえた。ぐ、と押し付けるように、こちらの肩に、額を預けさせる。
「……見てない。これじゃ、何も、見えない……だから、大丈夫だ」
後頭部を包むように、ゆっくりと手を動かす。慣れ親しんだ、柔らかな手触りが、指先をすり抜け、掌を撫でていくのを感じた。
たとえ闇の中でなくとも、これでは近すぎて、アルミンの姿を見ることは出来ない。どんな顔をしているのかも分からないが、触れ合わせた箇所から、何より明瞭に、アルミンを感じる。
見られることを拒むアルミンに、エレンがしてやれることは、距離を置いて離れるか、あるいは、こうして、距離がなくなるまで踏み込むことしか、考えつかなかった。そしてエレンは、ここを離れて、アルミンを一人、置き去りにすることだけは、したくなかった。
だから、腕の中に、引き寄せた。
もし、この身体が巨人であったならば、砲弾からだって、友人を守ってやることが出来る。手の中に包んで、あるいは、体内に匿って、あらゆるものを、寄せ付けない。
脆く、小さく、簡単に喰われてしまうものは、そうして守ってやらなくてはならない。己の有する、この力で、この身体で、大切なものを、守るのだ。
しかし、今のエレンは、巨人ではなかった。友人と同じ、脆く、小さく、簡単に喰われてしまう、一人の人間に過ぎなかった。
どれだけ腕を広げても、アルミンを匿い、守ってやるには、到底足りない。力も、大きさも、何も持っていないのだと思った。もどかしさのままに、エレンは、友人の頼りない身体をきつく抱いた。
同じ大きさで、出来ることは、ほんの僅かだ。手を繋ぐこと、抱き締めること。そうやって、せめて、温めてやることしか出来ない。
自分が、無力な子どもに還ってしまったように、エレンは感じた。あの頃から、随分と成長して、力を得た気になっていて、しかし、こんなときに出来ることといえば、驚くほどに、拙いままだった。お互いに触れながら、自分と、相手とを確かめていた、あの頃と同じだ。
頭から被った毛布の中で、二人、身を寄せ合った。二重の毛布の中に、二人分の体温が包み込まれて、温かだった。




[ to be continued... ]
















SCC新刊『単純接触効果』プレビュー(→offline

2014.04.29

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