プライマリ(プレビュー)
■収録内容
1.『銃声の後』Armin
59話アルミンの苦悩。
2.『ともだちのはなし』Eren×Armin
幼少期、アルミンにネズミの友達を紹介されて複雑な心境のエレン。
3.『プライマリ』Eren×Armin
訓練兵時代、噛みたがるエレンと噛まれたいアルミンが夜な夜な溺れる歪な行為。
■『銃声の後』Armin
僕が殺しました。
巨人を一体仕留めるより、簡単なことでした。研ぎ澄まされた超硬質刃も、強靭な立体機動装置も、意識を失う限界の全身運動も、必要ありません。指先の僅かな屈曲、それだけで、意図を達成できました。
人間とは、あまりに弱く、ちっぽけなものです。地獄と化した戦場で、なす術もなく、巨人に食われる人々の姿を見て、否応なしに、それを実感させられました。
しかし、それを悟るのに、本当は、巨人なんて、必要なかったのです。この手で引き金を引くだけで、それは、理解できることでした。
巨人を一体仕留めるより、とても、とても、簡単に。
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各々の馬房へと馬を導いたところで、アルミンは額に張りつく前髪を払い、汗を拭った。両腰の装備は重く、張り巡らされた固定ベルトが、全身を締め付ける。外してしまえば、どれほど楽になることだろうか。
しかし今は、その前にやるべきことがある。疲弊した肉体が解放と休息を欲しているのは、馬も同じだ。繰り返し学んだ手順の通りに、考えるまでもなく、手際よく馬具を外していく。
ここまで逃げ切れたのも、恐慌に陥ることなく駆け続けてくれた、彼らのおかげだ。よくやってくれたと、アルミンは改めて、二頭の頸を軽く叩いて労った。
「兵長、傷の手当を……」
サシャは物資の中から救急袋を取り出し、負傷した上官の傍らに跪く。コニーは空いたスペースを食事場所や寝床として利用できるようにと、背丈ほどもあるフォークで、せっせと藁をかき寄せている。ミカサは追手を警戒して、小銃を抱えて哨戒に出た。それぞれが、班の一員として、己の役目を果たそうとしていた。
なんとか、持ち直すことが出来たようだ、とアルミンは詰めていた息を吐いた。ストヘス区にて、僅かな可能性に賭けて張り込みを行なっていたのが、随分と遠い日のことのように感じられた。
敵を背後から追い詰めるつもりが、逆に、狙い撃たれ、当初の計画はあっさりと無に帰した。エレンたちを奪還するどころか、手練の先達らをいちどきに失い、命からがら、逃げ出すのが精一杯だった。
その機能を対人戦闘に特化させたと思われる、見たこともない構造の立体機動装置を操る追手が迫る中、それでも、班員の誰一人、失うことなく、こうして生き延びることが出来たのは、幸運といってよかった。
最悪の事態には陥っていない。態勢を立て直せば、まだ、希望はある。そう思って、己を奮い立たせることが出来た。
馬の汗を拭ってやろうとしたところで、傍らに座り込んでいる同期に気付いて、アルミンはそちらに声を掛けた。
「ジャン……大丈夫? どこか、痛むの?」
「……いや」
彼は短く応じて、首を振った。怪我を負っているのならば、リヴァイ兵長と共に手当てを、と思ったのだが、その心配は必要がないようだ。
しかし、相変わらず、ジャンは座り込んだまま、立ち上がろうとしない。強張った面持ちで、唇を噛み、下を向いている。それを、アルミンは、責めようとは思わなかった。無理もないことだ、とだけ思う。
丸腰の状態で、眼前に銃口を突きつけられたばかりなのだ。平常心でいろという方が、無理がある。一歩間違えば、あの場で命を落としていた。それも、同じ人間の手によって、である。
もともと、人間同士で戦うことをよしとせず、躊躇いを見せていたジャンである。眉間に定められた銃口と向き合うのは、巨人を相手取るのとは、別種の恐怖があったことだろう。そのような体験をして、すぐに立ち直れというのは、酷というものだ。
そんなことを考えて、アルミンはそれ以上、何も言わなかった。黙々と、馬の毛にブラシを掛ける。一方のジャンは、まだ、少し青ざめた面持ちで、ぽつりと呟く。
「……お前は?」
「え……」
不意に掛けられた言葉に、アルミンは手を休めた。何を言われたのか、一瞬、判断に迷う。
それが、先ほど自分が彼を案じて声を掛けたように、今度は彼がこちらに問うているのだということに、遅れて思い至った。しかし、今度は、なぜそんなことを訊くのだろうか、という新たな疑問が浮かぶ。思い当たる節はない。
確かに、御者として真っ先に敵に狙われ、銃口を向けられた、危うい場面もあったが、見ての通り、ここまで無事に、手綱を握って役目を果たしおおせた。本作戦にあたり、頭の中に叩き込んだ市街地図から、最適のルートを算出し、敵の包囲網を抜けるまで、仲間たちを先導した。
うまくやった──だから、自分たちは、ここにいる。そのことは、荷台に乗っていたジャンが、一番よく理解している筈だった。
その自分が、どうして、こんな状態のジャンから気遣われることになるのか、アルミンは理解しかねた。彼が、何か言葉を続けてくれるのを待つ。
ジャンは、何かを言おうとして、しかし、何と言ったらよいのか分からない、というように、視線を彷徨わせる。こちらを見ようとしては、辛そうに逸らす、その視線に込められたものは、傷ついた仲間を案じるときのそれとは、微妙に異なっているように感じられた。
何が違うのだろうかと、アルミンは気になって、じっと彼の目を見つめた。そうすると、ジャンは明らかに、たじろいだようだった。とうとう、耐え難い、というように、顔を背ける。その唇が、小さく動く。
「お前は、……大丈夫、なのか」
やっと、搾り出すようにして、彼はそれだけ呟いた。決して、大きな声ではなかった。聞き逃してしまいそうなほどの、一言は、しかし、アルミンの耳には、明瞭に届いた。
──大丈夫か。
それは、いつも過酷な訓練についていけずに、足が止まりそうになるアルミンに、エレンが励ますように肩を叩きながら問うていたのと、言葉としては、同じだった。
しかし、声音に込められた感情は、まるで異なっていた。もう幾度となく繰り返した遣り取りと同じように、反射的に、大丈夫、と答えかけたところで、アルミンは、それに気付いて、声を詰まらせた。期待されている答えが、それではないと、悟ったからだ。
何も言うことが出来ずに、アルミンは仲間の顔を見遣った。躊躇いがちに面を上げる、ジャンと真正面から、視線がかち合う。
今度は、はっきりと分かった。ジャンが、本当は何を言いたかったのか、分かった。
──大丈夫なのか。
「大丈夫ではなさそうに見える」から、案じて、そう問うているのではない。
「大丈夫なように見える」から、問うているのだと、分かった。
──どうして、お前は、大丈夫でいられるんだ。
あんなことがあったのに、どうしてだ、と。こちらに向けられた彼の視線は、そう問うていた。大丈夫でいられる、わけがないだろう、と訴える。彼の、そんな、押し殺した叫びが、聞こえた気がした。
瞬間、アルミンは気付く。ジャンだけではない。サシャ、コニー、リヴァイ兵長。周囲の仲間たちから、自分へと向けられる視線に。戦闘の疲弊によるだけではない、その、強張った面持ちに。
何事もなかったかのようにして、彼らの輪に入ろうとしていた、アルミンの足が、止まる。一歩も、踏み出すことが、出来なかった。そこには、明瞭な境界があった。少なくとも、アルミンの目には、それがありありと映っていた。
「僕、は……」
掠れる声で、アルミンは、それだけ紡ぐのがやっとだった。言ってから、自分が続ける言葉を持っていないことに気付く。
僕は──何だ?
僕は──何をした?
答えることが、出来ない。声を失って、立ち尽くす。これ以上、考えては、いけないと、どこかで警鐘が鳴った。視界が揺らぐ、地に足の着いていない感覚。
傾く視界の隅に、ここまでずっと引いてきた馬車の荷台があった。否応なしに、アルミンは、そちらに意識を引き寄せられる。
暗がりに紛れて、はっきりとは見えないが、その荷台には確かに、何かが飛び散ったような、黒い染みが、点々とついていた。それが、どのようにして付着したものか、アルミンはよく知っていた。馬車を汚したのも、それをここまで牽引してきたのも、アルミン自身にほかならなかった。
この手で──何をしたか。
右手を、ぐ、と押さえ込んだ。そうでもしなければ、叫び出してしまいそうだった。
心臓が、大きく鳴った。頸から、額から、汗が滲み出る。息苦しい。これまで気にしていなかった筈の、獣の汗と糞尿の臭いが、生々しく鼻をつく。
こみ上げるものを、無理やり飲み下したのは、仲間の前で無様な姿を晒して、彼らの気分を害してはならないという、最後の矜持だった。それも、いつまでも耐えられるものではない。
「……っ」
仲間たちに背を向けるようにして、アルミンは足早に扉へと向かった。焦燥のままに、殆ど、逃げ出すのと変わりがなかった。その背中に、誰も、声を掛けることはなかった。
■『ともだちのはなし』Eren×Armin
思い切って、エレンは騎士の駒を進めました。読みが間違っていなければ、この駒は、後方に控えるアルミンの女王の進軍を阻む役割を果たす筈です。
この一手に、いったい、アルミンはどんな反応を示すでしょうか。なかなかやるな、と感心してくれるでしょうか。
しかし、エレンがそれを確かめることは出来ませんでした。どうだ、とエレンが盤上から顔を上げたとき、アルミンは、エレンの指した手ではなく、天井を仰ぎ見ていました。ふっと呼ばれでもしたかのように、顔を上向けて、そのまま、じっとしています。
どうしたのだろうかと、エレンも視線を追ってそちらを見上げましたが、特に変わったものは見受けられません。どうしたんだよ、とエレンが言い掛けたとき、アルミンの唇が、小さく動きました。
「……あの子かな」
ぽつりと呟かれた、それは小さな独り言でしたが、すぐ目の前にいるエレンには、はっきりと聞こえました。あの子、と確かにアルミンは言いました。それは、これまでに、アルミンの口から聞いたことのない言葉でした。
アルミンに、きょうだいはいません。仲の良い友達も、いないと聞いています。それでは、アルミンの言う「あの子」とは、誰のことでしょうか。エレンは首を傾げました。
「なんだよ、あの子って」
訊くと、アルミンは、あ、というように、大きな目を瞠りました。つい、口が滑ってしまった、とでもいうような表情でした。たぶん、心の中で呟いただけで、声に出して言っていた自覚はなかったのでしょう。
アルミンは、時々そういうことがあって、自分の考えに夢中になると、周りが目に入らずに、内と外の区切りが曖昧になって、頭に思い浮かぶことをそのまま、口に出して紡ぎ続けてしまうのです。
エレンも人のことは言えませんが、友達がおらず、あまりお喋りというものに慣れていないから、そういうことになってしまうのかも知れません。またやってしまった、というように、アルミンは気まずげに身を縮めます。
そんな態度を取られると、エレンはますます、アルミンの発した言葉が気になるのでした。ぐ、と身を乗り出して、チェス盤越しに、顔を近寄せます。
「じいさんのほかにも、誰か、家にいるのか? いつかも、オレが寝てる間、誰かと喋ってただろ。同じ奴か?」
どうなんだ、とエレンは問い詰めます。よく分からないことを、そのままにしておくのは、性に合わないのです。はっきりさせてくれなければ、気が済みません。
しかし、いつもならば、物を訊けば、すぐに分かりやすく教えてくれるアルミンが、今回ばかりは、なにやら口ごもっています。
「……あんまり、よその人に、言っちゃだめだって、おじいちゃんが……」
困ったように眉を寄せて、アルミンは言いました。なにか、秘密があるようです。
そんな風に言われると、余計に気になってしまうものであることを、アルミンは分かっていないのでしょうか。エレンとて、その例外ではありませんでした。
「いいだろ。誰にも言わない。黙ってるから」
エレンはあくまでも、引き下がりません。他の人たちが知っているのに、自分だけ、知らないことがあるというのは、納得のいかないものです。前々から、気になっていたことでもあったので、ここぞとばかりに押し切ります。
よその人に言ってはいけないことだとしても、アルミンの家に上がって、一緒に遊ぶような自分は、「よその人」には含まれないので、大丈夫だと思いました。
それに、どんなことであれ、エレンが噂話や悪口を言いふらすような性格でないことは、アルミンもよく知っている筈です。そもそも、アルミンしか友達がいないエレンには、秘密をばらす、手ごろな相手もいないのです。
どうしたものかと、アルミンは迷っているようでした。エレンの主張を、きっぱりと退けるだけの根拠がないのでしょう。また、アルミンとしても、本当は、誰かに話してしまいたかったのかも知れません。
秘密なんだけど、と神妙な顔で前置きをしたうえで、とうとうアルミンは、教えてくれました。
「屋根裏に棲みついている、ネズミなんだ。僕が本を読んでいると、ほら、そこの壁の穴から、そろそろ顔を覗かせる。こっちを見て、目をくりくりさせるんだよ」
アルミンの言う「あの子」とは、ネズミだったのです。これには、エレンも驚いてしまいました。
ネズミといえば、姿を見せずに、屋根裏や床下を我が物顔で走りまわって、食べ物を食い荒らし、お母さんに嫌な顔をさせる、家の厄介者です。エレンの家でも、罠に掛けて捕まえては、水に沈めていますが、一向にいなくなりません。
そんな害獣のことを、アルミンは、友達か何かのように親しげに話すのでした。エレンは首を捻ります。
「でも、ネズミって、悪い奴だろ。駆除しねぇと」
「あの子は、悪さはしないよ。そんなことしたら、もう、家に置いて貰えなくなるでしょ。ちゃんと、それを分かって、大人しくしているんだ」
なるほど、アルミンの言うことにも一理ある、とエレンは思いました。ネズミが好き勝手に家を荒らすから、人間は、問答無用でそれを駆除しなければいけないのです。相手が大人しくしているのであれば、そこまで強硬な態度に出なくても良いかも知れません。
これまで、人間とネズミは、それぞれの生活のために戦う以外にないとばかり思っていましたが、こんな関係もあるのだと、アルミンが教えてくれたようでした。エレンは少し、そのネズミとやらに興味が湧きました。
「姿を見せるってことは、人間を怖がったり、しねぇのか」
「はじめのうちは、遠くから、様子を伺ってたみたい。それで、怖くないって、分かったんだろうね。だんだん、こっちに近づいてくるようになった。今じゃ、一緒に本を読むし、お喋りもするよ。なんとなく、彼の言いたいことが、分かる気がするんだ」
そんなものだろうか、とエレンは思いました。同時に、あのとき、アルミンが誰かとこっそりお喋りをしているのに、相手の声が聞こえてこなかった理由が分かりました。アルミンは、ネズミの言いたいことを、言葉ではなく、その仕草や表情から感じ取って、会話をしていたのです。
そんなネズミとのお喋りとは、いったい、どのようなものでしょう。エレンには、想像がつきませんでした。
「何の話をするんだ」
「その日、新しく知ったこと。もっと、知りたいこと。驚いたこと。すごいね、って」
「ネズミも、そんなこと考えるんだなあ」
「彼は、頭が良いよ。そこらの子どもより、ずっと」
アルミンと話が合うということは、そういうことになるのでしょう。徒党を組んでアルミンをいじめる、そこらの連中が馬鹿ばっかりだというのは、エレンも同意見でした。ネズミのほうが、まだしも話が通じるというものです。
たとえばね、とアルミンは天井を指しました。
「屋根裏には、たくさん、本が積んであるでしょ。その上に、ちょこんと座ってみせるんだ。これを読んで、っていう風に。それで、読んでみると、ちょうどこんな本が読みたかった、っていうような、面白い本なんだよ。僕の気持ちを、分かってるみたいだ」
アルミンは、誇らしげに、ネズミの友達の話をします。最初は、いつもアルミンが世界の不思議を話してくれるのを聞くのと同じように、驚きをもって聞いていたエレンですが、あまりアルミンがネズミを褒めるので、なんとなく、面白くありませんでした。
「お前は、どんな本を読んでも、面白いっていうだろ」
「……それはそうだけど」
アルミンは、困ったような顔をして俯きます。アルミンが、あまり楽しそうに、そのネズミの話をするので、エレンは、ちょっといじわるを言ってみたのでした。
けれど、アルミンを困らせたかったわけではありません。悪いことをしてしまったかも知れない、と思いました。気分を切り替えるように、エレンは一つ、気になっていたことを訊きました。
「それで……なんで、秘密なんだ。別に、隠すようなことじゃねぇだろ」
「でも、ネズミは嫌われ者だから……仲良くしてるなんて言ったら、笑われたり、変に思われたりして、良くないだろうって、おじいちゃんが」
「良いと思うけどな、オレは。アルミンが、そうしたいっていうんだから。他の奴が、とやかく言うことじゃねぇよ」
「……エレンなら、そう言うと思ったよ。だから、話したんだ」
アルミンは、少しはにかむようにして、そう言いました。おじいさんの言いつけをちゃんと守って、これまでアルミンは、秘密を一人の胸に仕舞い込んでいたのでしょう。
しかし、秘密というのは、重いものです。誰かと、分かち合いたくなるものです。アルミンも、なんとなく、話せてほっとした、というような表情でした。
そういえば、エレンとしても、誰かから秘密の話を打ち明けられたのは、これが初めてのことでした。なんだか、自分が信頼されているようで、エレンは照れてしまいました。二人の間で、何かを分かち合う、くすぐったい感覚がしました。
そのとき、ふと、何かに気付いたように、アルミンは、あ、と顔を上げます。そして、先ほど言っていた、壁の小さな穴を指しました。
「ほら、来たでしょ。あの、真っ白なネズミだよ」
■『プライマリ』Eren×Armin
同じようなことは、それから、何度かあって、その度に、アルミンは妙な気分にさせられては、なかなか寝付けずに苦労するのだった。
だからといって、エレンを拒絶することは出来なかった。エレンとて、必要に迫られているからこそ、このような行為に及ぶのである。これが、エレンなりに気分良く眠るための儀式なのだとすれば、それを妨げる権利は、アルミンにはなかった。
だいたい、幼い頃は、よくこんな風に身を寄せ合って眠ったものであって、それと同じことをしているだけなのだから、何ら咎め立てされるいわれもない。ただの、親愛の情の表現だ。それ以外の、何物でもない。それで、何か浮ついた心地になってしまう、自分のほうが間違っている、とアルミンは思った。
ひとりで、こんな風に感じてしまう、自分を、エレンには知られたくなかった。拒んだりすれば、やましいことがあると見做されても仕方がない。だから、これまで通りの友人関係を続けていくためにも、なんでもないような振りをして、アルミンはエレンを受け容れ続けた。
しかし、それは、そう長くは続かなかった。
このままでは、いられない。いずれ、向き合わざるを得ないことは、はじめから分かっていた筈だった。考えることを、拒んで、目を背けていただけだ。しかし、見ない振りをしたところで、それは、なかったことにはならない。見逃しては、貰えない。
その夜が、訪れたのは、だから、必然だった。
いつものように、エレンの腕の中で、アルミンは友人の体温と鼓動を感じていた。そう力を込められてはいない筈なのに、いつもよりも、少し息苦しかった。エレンは何も言わない。アルミンの首筋に顔を埋めて、じっと、何かを思案しているようだった。
暫くそうして、気が済んだのだろう、その腕が解かれる。いつものように、アルミンは、ほっと息を吐いて、眠りに就こうとした。
いつものように出来たのは、そこまでだった。大人しく丸まろうとする、アルミンの肩を、エレンの手が無造作に掴んだ。
「あっ……」
ぐ、と背後に引かれたと思うや、アルミンは仰向けにされていた。その両肩を、エレンは素早く押さえ込んで覆い被さる。ぎし、と寝台が鳴った。
身じろぎすることも出来ずに、アルミンは、自分に圧し掛かる友人を見上げた。いつもと違う。こんなのは、知らない。どういうつもりなのかと、アルミンは戸惑いを隠せなかった。
困惑のままに、友人を見上げれば、こちらを射抜くかのようにまっすぐに見つめるエレンの瞳とぶつかった。眉を寄せ、口を引き結んだ、真剣な面持ちに、アルミンは思わず、こくりと喉を鳴らした。エレンの表情は、何かを堪えているようにも見えた。
「アルミン。もっと、したい」
音量を落としているせいか、そう告げるエレンの声は、少し掠れた。思わぬことに、アルミンは何と応じれば良いのか分からなかった。
「……なに? 何、するの……」
先ほど、していたようなことだろうか。これ以上続けたら、どうなってしまうのかと、アルミンがふと不安を覚えた、あの続きを、しようというのだろうか。
あれだけ身体を寄せ合って、この上なく近くなったというのに、これ以上、何が出来るというのだろう。それを言いだしたエレン自身、明瞭な答えは持っていないらしかった。
「分からねぇけど……したいんだ」
もどかしげに、そんなことを訴える。アルミンは、あきれ気味に溜息を吐いた。
「……分からなきゃ、出来ないよ……何、言ってるんだ」
「そんなの、やれば何とかなる。とにかく、このままじゃ……収まらねぇんだ」
アルミンに何を言われても、エレンは諦めるつもりがないらしかった。
知識にないことだから、出来ない、という発想はエレンにはない。行動が、情動が、思考に先行するのがエレンだった。思考の迷路に陥りがちなアルミンには、エレンのそういうところが、眩しく感じられて、好ましいものだった。
切迫した、その表情を見つめていると、アルミンとしても、いい加減にしろと言って突き放すのは忍びなくなってしまった。それに、収まりがつかない、というのは、アルミンもどこかで感じていた。エレンに抱き締められた後、眠れなくなる、あの感覚は、収まりがつかない、と表現すると、しっくりくるようだった。
それは、アルミンの側だけが感じていることだと思っていたが、エレンとしても、同じように、物足りない何かを感じていたのだろうか。なんとなく、それを嬉しく感じた。
自分だけが、おかしいのでは、なかったのだと思った。二人して、やるせない思いを抱えている。だとすれば、それは、何によって満たされるのだろう。
身体は十分に昂っているのに、それをどうぶつけたら良いのか、どちらにも分からなかった。自然と身体を寄せ合ったり、気持ちの良い箇所に触れ合ったりするように、教えられなくても出来ることでは、なさそうだった。
そうしたことならば、もう、二人は試した後だった。エレンは、それ以上の何かを求めている。それが、何であるのかは、いくら考えても分からない。
しかし、何らかの解放するあてがあるからこそ、焦燥は募るのだ。人間の身体反応は、そういう風に、何らかの理由あって、必要の上に成り立っている。
腹が減るのは、喰うべきだからだ。眠くなるのは、眠るべきだからだ。傷が痛むのは、処置すべきだからだ。何であれ、理由のないことなどはない。そうである筈だった。
それならば、やはり、この欲求は、何かをすべきであると示すシグナルなのだろう。それが、どうすれば収まりがつくのかと問われれば、アルミンは答えに困ってしまうのだが、やれば出来る筈だと主張するエレンが何をするつもりなのか、少なからず興味はあった。
結局、好奇心に負けるかたちでもって、アルミンは、エレンに付き合うことに決めた。
「じゃあ……出来るだけ、協力はするけど……」
まるで、やましいいたずらの相談をするかのような心地で、アルミンは声を潜めた。
それを聞いて、エレンは顔を輝かせて喜ぶものかと思われたが、しかし、彼は相変わらず、難しい表情のままだった。自分から言い出したことながら、勝手が分からず、不安を覚えているのは、エレンも同じなのだった。
その手が、おもむろにアルミンの頬に触れる。そのまま、手を滑らせて、エレンは、麦藁色の髪をくしゃりとかき混ぜた。
「たぶん……お前に、痛い思い、させることになる気がする。それでも、いいか」
確かめるように、そんなことを言う。こういうところが、エレンは正直者だと思う。自分の利益を考えるなら、黙っていればいいのに、わざわざそんなことを口に出してしまう。友人の不器用な気遣いに、アルミンは苦笑いをした。
「……そう言われると、いいとは言い難いな……誰だって、痛いのは、嫌だよ」
「……だよな」
これから、痛いことをすると宣告されて、それを黙って受け入れる愚か者はいない。友人同士とはいえ、許容出来ることと、出来ないことがある。考えるまでもない、当たり前のことだった。
変なこと言って、悪かった、とエレンは顔を背けて言った。はっきりと言われたことで、諦めがついたというような表情だった。
おそらく、アルミンがそのまま、背を向けて寝床に入れば、もうそれ以上、追ってはこないだろう様子だった。友人の意思に反して、無理強いするような真似を、エレンはしない。一時の気の迷いとして、封じ込めて、忘れて、なかったことにするだろう。
気を紛らわせようと、深呼吸を繰り返すエレンを、アルミンは目を細めて見つめた。
辛い、とエレンは言わなかったが、言われるまでもなく、アルミンには分かった。どこかへぶつける前提で沸き起こる衝動は、そう長く抑え込んではおけない。抱え込むほどに、暴れ回って、身体を内側から食い荒らすだろう。
想像するだけで、アルミンは、自分の胸が締め付けられるようだった。エレンに、そんな辛い思いをさせたくはなかった。そんなエレンは、見ていられなかった。
ここが、引き返せる最後なのだろうと、なんとなく分かった。今ならば、まだ、引き返せる。何事もなかったとして、済ませられる。これまでのままでいられる。
しかし、そうやって、エレンひとりに辛い思いをさせるのが、正しいことであるとは、思えなかった。アルミンが痛い思いをしたくないというだけの理由で、エレンを拒絶するのは、自分さえよければそれでいいという、身勝手な行為であるように思えた。そんなものは、最早、友人とはいえないと思った。
痛いのは嫌ではあるが、自分が少し我慢さえすれば、エレンは楽になれる。ならば、そうしてやるのが当たり前だと思った。もしもエレンであれば、間違いなく、アルミンのために、そうしてくれるだろう。目の前に、友人を救う方法があるのに、それを試しもしないのは、ただの臆病者だ。
幸い、アルミンは、痛いことには慣れている。幼い頃、故郷の街で、悪意を持った連中に殴られ、足蹴にされたことを思えば、エレンに何をされるにしても、耐えられる気がした。
エレンがそんなひどいことをする筈がないし、たとえ同じ行為であっても、エレンにされるのであれば、赦せることもある。自分自身に、そう言い聞かせた。
「……いいよ」
ともすれば、怖気づく喉を叱咤して、声を紡ぐ。震えないようにと、アルミンはそれだけ、気を払った。
エレンに余計な気後れを感じさせたくはなかった。どうせ同じことになるのであれば、少しでも気分良く、して貰うほうが良いに決まっている。
「……アルミン?」
驚いたように、こちらを見つめるエレンに、もう一度、はっきりと告げる。
「エレンなら、……いいよ」
微笑んだつもりだったけれど、うまく出来ていたかは分からない。アルミン、とエレンはもう一度、泣き出しそうな声で呻いて、それから、姿勢を低くした。
エレンの息遣いが、耳を掠める。エレンの手が、シャツの上から、アルミンの身体をなぞって伝い下りる。行きあたった裾から、手を滑り込ませて、性急に捲り上げようとする。
その手を、咄嗟に、アルミンは掴んだ。エレンの動きが止まる。どうしたのか、というように、覗き込んでくる、エレンの瞳から逃れるようにして顔を背け、アルミンは、途切れがちに紡ぐ。
「ごめ、……やっぱり、こわい……」
言っていて、アルミンは自分自身が情けなかった。心を決めた筈なのに、いざとなると、身体が竦んでしまう。
仕方あるまい、初めてのことで、何もかも、勝手が分からないのだ。思ったよりも、エレンは性急であったし、肌を暴かれるのは、心細かった。ぎゅ、とエレンの手首を握る、その手は、微かに震えている。
「……それじゃあ、」
「だから、……泣くかも、しれないけど……気にしないで、いいから。やめないで、いいから、……」
エレンが何か、おそらくは、やめておくか、などといった類の言葉を口にする前に、アルミンは急いで、そう付け加えた。
そんな風に気遣われては、元も子もない。やはり自分は、こんなことでも役立たずなのだと、思い知らされるだけだ。そんな惨めな思いをするのは、ごめんだった。なにより、エレンの邪魔をしたくはなかった。
「……分かった」
眉を寄せて、彼自身、痛そうな顔で、エレンは頷いた。手首を掴んだまま、強張ってしまったアルミンの手を、エレンのもう片手が、ゆっくりと外させた。
[ to be continued... ]
夏コミ新刊『プライマリ』プレビュー(→offline)
2014.08.10