心臓に触れる手
うわ、と、口に出してしまったかどうかは、定かではなかった。
一瞬の、重力から解き放たれた、浮遊感。それから、がくりと大きく上体が揺れる衝撃で、唐突に意識が覚めた、その瞬間のことである。
反射的に、全身が強張る。同時に、アルミンは、椅子に座した格好の自分を認識した。咄嗟に状況が掴めず、混乱しながらも、身を縮めて防御態勢を取りつつ、素早く周囲に目を走らせたのは、三年間の訓練の賜物といえよう。
冷静な状況判断、という意味ではない。少年の脳裏に、真っ先に浮かんだのは、まずい、という、冷静とは対極にある焦燥であった。具体的には、講義の最中に居眠りをした罪を問われ、教官の厳しい叱責にさらされるだろうことに対する、身構えである。
またやってしまったのか、もう二度としないと、前回固く胸に誓ったというのに、これだから体力のない劣等生はいけない、昨日の疲れが抜けていなかったのか、決して講義に退屈していたのではなく、むしろ楽しみにしていたのに、なんという非礼だろう、きっと失望された、恥ずかしい。そんな思考が、一瞬のうちに紡がれ、アルミンは飛んでくるであろう厳しい叱責の言葉、あるいは容赦のない拳に備えた。
「……あれ……?」
しかし、結果的に、アルミンの予想したような罰が下されることはなかった。
少年の前に、肩を怒らせた教官の姿はなかった。隣に幼馴染の姿はなく、周囲には、気の毒げに、あるいは、にやついてこちらを眺める同期の姿はなかった。そもそも、座しているのは、訓練兵団の講義室の、古びてがたつく長机ではなかった。
その時点で、混乱していたアルミンの頭は、今一度、はっきりと覚醒した。ここはどこで、自分は何をしていたのか、唐突に、記憶が繋がる。
昼間の講義中に、居眠りをしていたのではない。無数の書棚に囲まれた、ここは、図書室だ。辺りは闇に包まれ、ほかの人間の気配はなく、手元だけが、小さな灯りに照らされている。
そして、無造作に積み重ねられた書物は、訓練兵の身分では、とうてい閲覧不可能なタイトルばかりである。それが、アルミンに、己の進路として選び、所属することとなった兵団を実感させた。すなわち、今現在の少年は、訓練期間を修了し、正式に自由の翼を背負うこととなった、調査兵団の初々しい新兵であった。
環境の変化に、未だ脳が追い付いていないのか、寝惚けて状況を勘違いしてしまった。とはいえ、居眠りをしていた、という事実だけは変わりがない。本の頁を開いたまま、一瞬だけ、睡魔に意識を明け渡してしまったのだ。
危うく、机に額を盛大にぶつけるところだった。誰に叱責されることもないものの、決まりが悪いことは確かである。
「……そんなに、疲れてたかな」
溜息とともに、アルミンは緩く首を振って、独りごちた。どこまで読み進めたのだったか、手元の本に視線を落とす。
兵法の講義で、居眠りをするのが言語道断であるのと同様に、貴重な文献を前に舟を漕ぐなど、平素のアルミンであれば、考えられぬことである。訓練兵の、狭苦しく質素な寝床で、眠る前のひととき、頁を捲っていたような本とは、わけが違う。
トロスト区調査兵団本部に設置された図書室は、訓練兵団における申し訳程度のそれとは、まるで規模が異なっていた。なにしろ、壁外の領域に赴き、貴重な情報を収集することを主眼とした兵団ゆえ、あらゆる方面における「情報」が重要視されるのも、当然のことであろう。自然、資料も膨大な量となる。
一面の書棚を目にした当初、いったい、どこから手を付けたら良いのか分からないほどの本の山を前に、アルミンは圧倒され、感動と興奮を覚えた後に、途方に暮れた。
これまでの自分の知る、ちっぽけな世界が、その何倍とも知れぬ大きさとなって、眼前に開けたのである。意気揚々と探検に乗り出す前に、まずは、その広大な領域を、アルミンは畏敬の念をもって、全身で感じていた。一つの扉の、外側へと、自分が足を踏み出したことを実感した。
現在は、そのショックからも立ち直り、夜な夜な、通い詰めては、少しずつ、貴重な文献に目を通している。同期たちからは、そんなに根を詰めるなと言われることもあるが、アルミンにとって、これは自主的訓練という以上に、息抜きという側面がある。
本の世界に没頭するとき、アルミンは自由だった。
日中、調査兵団の先達から学ぶ、これまで訓練所で教わってきた基礎を覆すような、実戦的戦法への戸惑い。初めての壁外調査への不安。姿を掴めぬ、敵の存在。会えずにいる親友への、届かぬ思い。
それらに乱される思考が、ひととき、静けさを取り戻す。今ばかりは、自分の意思のままに、頁を繰り、深く呼吸し、己の歩幅で進むことが出来ることを実感する。めまぐるしい日々に押し流されかける中で、これは、アルミンにとって不可欠の、重要な時間だった。
とはいえ、その時間が、役割をまっとう出来ていなければ、ただの浪費である。
先ほど呟いたとおり、疲れているか、疲れていないかといえば、間違いなく、アルミンは疲れている。朝から晩まで酷使された肉体が、休息を欲し、隙あらば、強制的に寝床へ就かせようと仕向けてくる。
居眠りから目覚め、心を入れ替えたところで、残念ながら、蓄積した疲労感まで、入れ替えることは叶わなかった。先ほどから、頁を捲る手が止まって、動かない。何度も同じ行に、繰り返し視線を這わせている。
ひとつひとつの単語の意味は明快なのに、文意がちっとも頭に入って来ないのだ。そうしているうちに、視界はぼやけ、読んでいる行を見失い、また先頭へと戻る。
「……何、やってるんだろう……」
深々と溜息を吐いて、アルミンは天井を仰いだ。込み上げる欠伸を、噛み殺す。
この調子で続けていても、非効率であること、この上ない。本を手に持っているだけで、何も読んだことにはなっていない。貴重な睡眠時間を削って、それに見合うだけの効果を得られないならば、速やかに活動を中止すべきであろう。
一ヶ月後の壁外調査に向けて、アルミンを含む調査兵団の新兵達は現在、実戦経験豊富な先達らから、知識と技術を叩き込まれている最中であり、訓練兵団での日々以上の緊張感をもって、日々、それらの習得に励んでいる。まさか、寝不足で翌日の講義に集中出来ない、あるいは、戦闘訓練に支障をきたすといった、ふざけた事態が許されるわけがない。
訓練兵一年目には、慣れない環境で、度々そういうことがあり、実際に痛い目を見てきたアルミンである。同じ過ちを繰り返してはならない。
身体が痛むのは、動かずに休むべきであるからだし、眠くなるのは、眠るべきであるからだ。ならば、ここは大人しく、宿舎に戻って休むべきであろうか。
アルミンは名残惜しく、手元の本を見つめた。壁外調査の度に目撃された、奇行種の多様な行動と、その類型化の試みが記された一冊である。
初めての壁外調査へ出立するにあたり、敵のいかなる予想外の行動に直面しようと、惑わされることなく、己の任務を果たすべく、心構えとして、目を通しておこうと思い、手に取った。
軽く頁を繰っただけでも、同じテーマに関して、訓練所で学んだのは、ごく一部にすぎないということが実感できる。半分以上は読み進めたところであり、出来れば、今夜のうちに、読了してしまいたい。
こと読書に関して、アルミンは、「後の楽しみに取っておく」ということが出来ない。一度読み始めたら、読み終えるまで、たとえ辺りが暗くなろうと、腹が減ろうと、本から離れられない性質である。
本はその一冊として、一つの完結した世界であり、一度手を出したからには、全容を知らないことには、続きが気になって、ほかのことが手につかない。子どもの頃から、そうだった。
自分の意思で、読書を中断したのは、これはすぐさまエレンに知らせなくてはという興奮に駆られて、取るものもとりあえず、本を抱えて彼のもとへと走り出したときくらいのものだ。
読みたい、しかし、眠い。
「……よし、」
この相反する状況を打開すべく、アルミンはすぐさま、画期的な案を見出した。仮眠である。
中途半端な居眠りでは、問題の解決には至らず、同じ過ちを繰り返して、一晩を無駄にするばかりである。そこで、少しの間、集中的に、仮眠をとることにする。
あくまでも一時的な睡眠であり、十五分もすれば、目を覚ますつもりである。集中して、深い眠りを摂ることにより、目覚めた暁には気持ちを新たにして、すっきりとした頭で、本の続きを読むのだ。それは、素晴らしく魅力的な計画に思えた。
読みかけの頁に、かろうじて栞を挟み、アルミンはそのまま、倒れるように机に突っ伏した。木製の机は冷ややかであったが、暖かな眠りに身を委ねる妨げにはならなかった。
瞬くうちに、とろとろと意識が蕩け、身体感覚を失った。
■
身体が重さを失い、漂っていた。
奇妙な浮遊感だった。暖かく、全身を包み込まれている。一定のリズムで、身体が揺れる。
ゆらゆらと、地に足もついていないのに、不思議と、おそろしいとは感じなかった。この感覚を味わうのは、初めてではなかったからだ。
ああ、また、祖父のベッドで本を読みながら、眠り込んでしまったのだなと思う。眠る前のひととき、祖父のベッドに潜り込み、一緒に本を読むのは、アルミンの小さな頃からの習慣だった。
大好きな祖父の身体は大きく、暖かい。彼の腕にもたれるようにして、お気に入りの本を読んでいると、次第に物語の内容よりも、伝わってくる体温の心地よさに意識を奪われて、こくりこくりと頭を揺らがせている。そして、いつの間にか、本を取り落とし、眠りに落ちてしまうのだ。
寝息を立てる孫を、祖父はそっと抱き上げて、本来の寝床へと運んでくれる。起こさないようにと気遣いながら進む、ゆっくりとした足運びのリズムを、夢うつつにも、アルミンは心地よく伝い感じていた。
面倒を掛けてしまって、いけないな、と思うのに、また次の夜も、同じことを繰り返してしまう。それは、祖父に優しく抱き上げて貰うための、格好の口実だったからだ。
ベッドからベッドへと運搬される、その間だけは、寝惚けていることを言い訳にして、思うさま、祖父の胸に身を預けていられる。甘えるように、頬ずりも出来る。それを、何度でも味わいたくて、夜ごと、彼のベッドに潜り込むのだった。
祖父の側も、アルミンの意図は、おそらく分かっていた。仕方のない子だ、というように、彼は優しく微笑んで、どんなときも、アルミンを迎え入れてくれた。
眠りに落ちた孫を、彼は揺り起こして自分で歩かせることはせずに、アルミンの期待に応えて、いつも抱き抱えて運んでくれる。他の子どもに比べて、発育が悪く、貧弱な身体も、このときだけは、祖父の足腰にあまり負担を掛けずに済むと思うと、ありがたかった。
自分がもっと大きくなったら、こうして貰うことも、出来なくなってしまうのだろうと思うと、アルミンは、少し寂しかった。その分、今をいっそう、大切に感じた。
あのリズムを、久し振りに感じていた。肩を包むように抱き、膝裏を支える、大きな手。子どもひとりという、大荷物を抱えていながらも、危うげのない、安定感のある足取り。もたれかかる胸の、逞しい硬度。
温もりを求めて、アルミンはそっと、頬を摺り寄せた。あやすように、優しく抱え直されるのが分かった。
やがて、扉の軋む音がして、ささやかな旅の終着点を教える。下ろされた寝台は、腕の中に比べて、柔らかく身体を受け止めてはくれたが、シーツは冷ややかだった。背中から温もりを奪われて、アルミンは、小さく身体を震わせた。
おやすみ、と耳元で囁く声がする。暖かな手が、頭を撫でる。それから、頬にキスをしてくれるのが、いつものおやすみの挨拶だった。
それなのに、今日は、毛布を掛けただけで、傍らから立ち上がる気配がある。それを感じるや、アルミンは咄嗟に、手を伸ばしていた。やみくもに伸ばしたのだが、指先が袖口か何かに引っ掛かり、相手はそれに気づいてくれた。
どうした、と低く囁く声。また、傍らに戻ってきてくれたのが嬉しくて、自然と顔がほろこぶ。自分のして欲しいことを、アルミンは、素直にお願いした。
「……一緒に、寝て……寒いよ、」
うまく舌が回らずに、甘えるような声になってしまった。同年代の子どもたちから馬鹿にされる、女の子のような、高く細い声を、アルミンは好きではなかったが、おかげで、まだ子どもなんだと言い訳をして、こんなおねだりをすることも許される。
自分の「お願い」は、きっと聞き入れて貰えるだろうことを、アルミンは知っていた。祖父の大きな身体が寝台を軋ませたら、温かな身体にしがみつくのだ。骨ばった手は、アルミンの頭を優しくさすってくれるだろう。そして、かさついた唇で、小さなキスをくれるのだ。当たり前の手順を、アルミンはまどろみながら待った。
しかし、いつまで経っても、その気配がない。どうしたのだろうと思い始めた頃、耳を打ったのは、男の苦笑だった。
「困ったな……そうするまで、私は解放して貰えないのか、アルミン?」
「……!」
一瞬にして、眠気が吹き飛んだ。当然だろう。耳元で受けた、深みある円熟した男の低音は、思い出の中の祖父のそれではない。
知らない──否、知っている。混乱を経て、それが誰であるのか、アルミンはようやく悟った。慌てて跳ね起きる。果たして、見開いた眼に映ったのは、頭に浮かんだ通りの人物であった。
「エ、エルヴィン団長!」
「ああ、そのままで構わない」
上体を起こした少年の肩を、厚みのある手のひらが包み込み、もう一度、寝台へと寝かしつける。茫然として、アルミンはそれに従うほかはなかった。
夢ではないかと、ある種の期待をもって、アルミンは瞬きを繰り返したが、目の前の景色が変わることはなかった。いよいよ、現実を受け容れ、認めるしかあるまい。
薄闇の中ではあるが、間違えようがない。四人部屋の、アルミンに与えられた寝台の傍らで長身を屈めているのは、紛れもなく、自由の翼を背負う兵団を率いる長、エルヴィン・スミス団長その人である。
最早、アルミンは声もなかった。この上官に対して、自分はどのような振る舞いをして、何を言ったか。出来れば、思い出したくはなかったが、頭の回転の速さには定評のあるアルミンである。不幸なことに、混乱した頭でも、ありありと明瞭に、記憶をたどることが出来た。一挙一動を、思い返すほどに、血の気が引き、眩暈がするようだった。
哀れに硬直しきっているアルミンの頭を、団長は子ども相手にするように、優しく撫でた。
「起こさないよう、気をつけたつもりだったが……無駄になってしまったな」
「も、申し訳ありませ……っぼく、いや、私は、……」
上ずった声で、懸命に非礼を詫びようとする、少年の唇は、そっと触れるものによって封じられた。
「静かに。皆が起きてしまう」
軽く曲げられた、男の人差し指の背が、唇の合間に沿って、押し当てられていた。それ以上、言葉を紡ぐことは出来ずに、アルミンは茫然として、組織の長を見上げた。
彼は声を潜めて、アルミンの耳元に囁く。
「おやすみと、言っただろう。上司の言うことは聞くものだ」
「は、……」
口がふさがれているので、代わりにこくりと首を動かしてみせると、それでいい、というようにエルヴィンは頷いた。唇に押し当てていた手を、引き戻す。
几帳面に、毛布を掛け直すと、微かな衣擦れの音と共に、長身の影は、暗闇に紛れていった。
残されたアルミンは、暫しそのまま、動くことが出来なかった。仲間の微かな寝息が聞こえるばかりの静寂の中、どれほどの時間、天井を見つめていただろうか。
まだ現実感の追いつかないままに、アルミンは、そろそろと唇に指をやった。指先が掠めるや否や、男の指の、硬くざらついた感触が、柔肉の上に蘇る。
「っ……」
きゅ、と胸が縮こまる。押さえ込まれていた心臓が、途端に働きを取り戻したように、大きく脈打つ。みるみるうちに、頬が熱く、火照っていく。
堪らずに、アルミンは頭から毛布を被った。叫び出してしまいそうになるのを堪え、自分自身を抱くようにして、身体を丸める。
とくとくと鳴る鼓動は、痛いほどに速く、吐く息は熱をはらんでいた。どうして、こんなことになってしまったのか、考えたくもなかった。これ以上、思い出したり、考えたりしては、どうにかなってしまいそうだった。
懸命に、思考を逸らす。息苦しいのも、熱っぽいのも、こんな毛布の中に包まっているからだ。そう、繰り返し言い聞かせる。
結局、その夜は、明け方まで一睡も出来なかった。
■
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
朝、短い眠りからの目覚めは、決して心地の良いものではなかった。昨夜の記憶が蘇るなり、アルミンは頭を抱えた。
出来ることならば、夢だと思いたい。エルヴィン団長への敬愛の念が、妙なかたちでもって、夢に現れてしまったのだ。それが、もっとも納得のいく説明である。
しかし、図書室から宿舎まで、自分の足で歩いて帰った記憶は、どう頑張っても、掘り起こすことが出来なかった。覚えているのは、夢ではありえない、明瞭な感覚だ。逞しい腕に身を任せた、心地よい浮遊感や、唇に押し当てられた、硬い指の感触は、今も、ありありと思い出すことが出来る。
思い起こして、あまりの恥ずかしさに、頬が熱く火照ったかと思えば、畏れ多さに背筋が凍りつくのを、落ち着きなく繰り返す。ああ、とアルミンはうなだれた。
「会わせる顔がない……恥ずかしい、恥ずかしい、消えたい……きっと、失望された、落胆させてしまった……折角、入ってきた新兵が、こんなで、さぞかし残念に思われた……あの勧誘式での敬礼は何だったんだ、何が本物の敬礼だ……格好つけても、半人前の子どもじゃないか、うう、恥ずかしい……」
「おい、大丈夫か、アルミン? 具合でも悪いのか?」
ぽん、と肩を叩いて、気遣わしげに問うてきたのは、コニーだった。朝から、外階段の隅に座り込み、頭を抱えてぶつぶつと呻いている仲間がいれば、不審にも思うだろう。
とはいえ、不調なのは精神面であり、身体面では、特に問題はない。同期に余計な心配を掛けぬよう、アルミンは首を振った。
「いや……何も問題ないよ、うん……」
「とてもそうは見えねぇけど……」
意図に反して、余計に心配を掛ける結果となってしまった。たいてい、自分が言う「大丈夫」は信用して貰えないということを、アルミンは三年間の訓練過程において、嫌というほど思い知らされていた。卒業したところで、それに変わりはないらしい。
隣に腰を下ろして、コニーは首を傾げる。
「お前、このところ、夜に苦しそうにしてただろ。よく、眠れてねぇんじゃね?」
「うん……環境が変わって、ちょっと気管をやられたかな。情けないけど……」
少し空気が冷え込んだり、あるいは、埃っぽい場所にいると、アルミンは簡単に喉を痛めてしまう。三年間を共に過ごした同期は、それをよく知っていた。
そいつはいけねぇ、とコニーは気の毒そうに眉を寄せる。
「図書室も、埃っぽいんだしよ。あんまり、根を詰めんなよ」
「うん。ありがとう」
同期と話をすることで、少しばかり、気を紛らわすことが出来た。気持ちを切り替えて、今日も講義を受けねばならない。
行こうぜ、というコニーに続いて、昨夜の残滓を振り払うように、よし、とアルミンは立ち上がった。
■
「……けほ、っこほ、……は、ぁ」
冷えた夜風が、シャツの隙間から胸を撫でて、アルミンはひくりと背筋を震わせた。身を縮めて、せめて体温を逃がすまいと試みる。
中庭に面した外廊下で、アルミンは先ほどから、所在なく佇んでいた。辺りに人気はない。夜の静寂が、一帯を包んでいる。
所在がないのも当然のことで、アルミンは特に用事があって、ここに立っているわけではなかった。人探し、待ち合わせ、見張りなど、そういった理由は一つもない。あるのは、いたって個人的な事情のみである。
先ほどから、しつこく込み上げてくる、小さな咳。これが、同室の仲間の気に障るのではないかと、アルミンは案じていた。
彼らは、特に気にしないと言ってくれたが、それに甘えるわけにはいかなかった。少し、外の新鮮な空気を吸って、落ち着いたら戻る、と言い残して、部屋を後にした。
暫くは、ここにいなければいけないが、これほど冷えるものとは、考えていなかった。今更ながら、何か羽織り物を持ってくるべきだったと後悔する。小さな咳は一向にやまず、まるで逆効果のようだった。
冷えた腕をさすりながら、思い出すのは、子どもの頃の記憶だ。アルミンの呼吸が苦しいとき、祖父は温かな手で、丸めた背中をゆっくりと撫でてくれた。それだけで、呼吸が落ち着くような気がした。
大切な友人たちも、冬になると決まって体調を崩すアルミンを気遣い、火のないときには、寄り添って温もりを分け合ってくれた。幼い体温に、どれほど救われたことか知れない。
あれから、背丈は伸び、少しは逞しく成長したというのに、どうして、あの頃よりも、この身体を心許なく感じるのだろうか。冷え切った肩は、いくら擦っても、温まることはないようだった。
「っは、かは、……はぁ、……」
咳に誘発されたか、それ以外の理由か、目元がじわりと熱い。きゅ、とアルミンはシャツを握り締めた。
そのときだった。咳き込む少年の上に、音もなく、ふっと影が落ちかかった。おや、と思うより先に、背中から何かが覆い被さる。
「わ、……」
「そろそろ、中に戻れ。ここは冷える」
落ち着き払った、深みある男の声が、耳を打つ。反射的に、アルミンは姿勢を正した。すぐさま、背後を振り返る。そこに佇んでいたのは、昨夜、さんざんアルミンを悩ませた人物であった。
「団長……っいえ、私のことはお気になさらず、上着も……お持ちください」
言って、アルミンは、肩に掛けられたジャケットを取り去ろうとした。団長の上着を拝借するなど、畏れ多いことこの上ない。
しかし、結局、その意図を達成することは出来なかった。肩のジャケットに、手を掛けたところで、アルミンは二、三度、続けざまに咳き込んだ。
「っ申し訳、ありませ……」
非礼を詫びる言葉も、まともに紡げない。息が苦しい。どうして、こんなときに限って、こうなってしまうのか、情けなくてたまらない。昨夜に引き続きの失態に、頬が熱くなる。息苦しさのゆえか、あるいは羞恥のゆえか、目が潤んだ。
背を折って口元を覆うアルミンを、団長は吟味するように見据えた。
「昨夜から、気になっていた。気管を痛めているようだな。ならばいっそう、こんなところに置いてはいけない」
昨夜、という言葉に、アルミンの肩は、ひくりと跳ね上がった。やはり、あれは夢ではなかったのだと、団長本人の口から、教えられたようだった。
肩で息をする少年に、エルヴィンは一歩、歩み寄り、自然な所作で背中を撫でてやった。厚みのある掌の重みを覚えて、アルミンは、背筋を緊張させた。その反応に構うこともなく、団長はアルミンを促す。
「部屋まで、送ろう」
すっかり固まっている少年の肩を支えてやるようにしながら、団長は新兵たちの宿舎へと、歩き出そうとする。アルミンは、口を覆う指の合間から、躊躇いがちに訴えた。
「皆の、眠る邪魔になってしまいます……」
「ならば、私の部屋に行こう」
「……は?」
アルミンの返事を待たず、団長は進路を変更し、ゆっくりと階段を上った。
「今、暖を取れる場所といったら、他にないだろう」
言って、エルヴィンは少年の縮こまった肩を撫でる。彼の手の温もりに、アルミンは、自分の身体がどれだけ熱を奪われていたのかを知った。
それを意識するや、閉め切られた室内の温度が恋しい。促されるままに、彼に従って足を運んだ。
室内に足を踏み入れると、ほのかなインクの匂いが鼻をくすぐった。揺れるランプの橙色の灯に照らされたデスクは、重厚な光沢を放ち、調査兵団を束ねる長が座するに相応しい風格を醸し出している。その上には、処理中と思しき書類が山積していた。
応接用の革張りのソファを勧められ、アルミンはいたく恐縮しながら、腰を下ろした。
「そう緊張することはない。私も仕事の合間に、よく、そこに寝転がって休憩している」
こちらの緊張を解きほぐそうというのか、団長は珍しく冗談を言った。山積みの書類を、やっていられるかと投げ出して、茶菓子片手にソファでごろごろしている団長の姿を想像して、アルミンは思わず笑ってしまう。ソファはだいぶ大きなつくりになっているので、長身の彼でも、寝転がる余裕は十分にありそうだった。
使いこまれたソファは、だいぶくたびれてはいるものの、手入れが行き届いているためか、みすぼらしさを感じさせることはなかった。ほどよい柔らかさで、少年の身体を包み、沈み込ませる。
腰を落ち着けたところで、柔らかな温もりを含んだ空気を、肌に感じる。温まるまで、ここでゆっくりしていくといい、というエルヴィンの勧めに、アルミンは、ありがたく従うことにした。
そういえば、上着を借りたままであったことに思い至って、アルミンはそれを肩から外そうとしたが、団長の手によって押し止められた。
「冷えてしまっただろう。そのままで構わない」
エルヴィンは、まだ少し強張っているアルミンの薄い肩に手を置き、楽にするようにと、そっと背もたれへと押し付ける。少しも力を込めているようには見えないのに、彼の手にかかると、アルミンの身体は、驚くほど容易く取り扱われてしまうのだった。
「団長、……」
「暫く、横になるといい」
大きな手に支えられながら、更に、ゆっくりと身体を倒されていく。アルミンは大人しく、それに任せた。肩に掛けられたままの上着を、背中の下に敷いてしまうことが気に掛かったが、持ち主であるエルヴィンは、それを気に留めてもいないようだった。
柔らかなソファに、頼りなく細い身体が沈み込む。いつの間にか、靴は脱がされていて、両脚までもが、ソファの上にあった。完全に、寝る体勢である。
上官の前で、このような格好をとるとは、考えられないことであるが、確かに呼吸は楽になった。天井を見上げて、深く、ゆっくりと息を継ぐ。
見られていては落ち着かないだろうという配慮だろうか、エルヴィンはすぐにソファを離れたので、アルミンはようやく、まともに呼吸が出来た気がした。借りた上着から、微かに、雨上がりの深い森の匂いを感じた。
「君は、体調不良は喉に出るタイプか?」
ガラス戸の棚の前で、エルヴィンは手を動かしながら問い掛ける。アルミンは、素直に頷いた。
「はい……子どもの頃から、こうなんです。もともと、あまり丈夫な方ではありませんが、特に気管が弱くて……冬の間、祖父には毎晩のように、ハーブの軟膏を塗って貰っていました」
懐かしい故郷を思い起こしつつ、そこまで語ったところで、アルミンは、はっと我に返った。口を噤むが、既に遅い。こんな格好をしているせいで、気が緩んだのか、要らぬことまで喋ってしまった。
なにも、自ら兵士としての価値を下げるようなことまで、正直に申告する必要は、どこにもなかったではないか。慌てて、付け加える。
「し、しかし、それも遠い昔のことです。今は、三年間の鍛練の甲斐あって、基礎体力は向上しましたし、決して、そのような軟弱なことは、」
「分かっている。無理をするな」
掠れた声で懸命に訴える少年に、エルヴィンは鷹揚に頷いてみせた。落ち着き払ったその態度は、アルミンが口にしようとしなかろうとも、この人には、何もかもが知れてしまっているのだろうと思わせた。
「確か、この辺りに……ああ、これだ」
ガラス戸の棚を探っていた団長は、目的のものを見つけたらしく、そこから何かを取り上げた。平らな円形の缶のように見える。
エルヴィンは、その蓋を少し開けて鼻を寄せ、小さく頷く。
「祖父君の手製には、敵わないかも知れないが……」
言って、エルヴィンは少年を寝かせたソファへと歩み寄った。上官の意図を読み取って、アルミンは、出来るだけ背もたれの方へと、行儀よく身を寄せる。アルミンの大腿の辺りの、空いたスペースに、団長は浅く腰を下ろした。ソファが沈み込み、きしり、と音を立てた。
近くで見ると、エルヴィンの持つ缶の蓋には、繊細な文様に彩られたラベルが貼られ、装飾的な文字が記されている。アルミンにはおよそ縁のない、高級化粧品店の店先に、このような凝ったラベルをつけた小さな壜だの缶だのチューブだのが並んでいるのを、通りすがりに見たことがあるような気がする。
金属の擦れ合う、さりさりという音を立てて、エルヴィンが蓋を開けると、すっとするような薬草と、甘やかな花の香りが、ふわりと鼻腔をくすぐった。彼の手の中で傾けられた缶の中には、上品な薄黄色の軟膏が詰められていた。
「それは……?」
「こういったものは、よく贈られるのだが、なかなか活用する機会が無い。君さえよければ、使ってくれないか」
上官からの、思いもしない言葉に、アルミンは急いで首を振った。
「そこまで、お世話になるわけには……まいりません。ただの、新兵風情が、」
「世話をして当然だろう。期待すべき、大事な部下の一人なのだから」
何でもないことのように、エルヴィンはそう言う。期待されている、ということは、アルミンとしては喜ばしい限りであったが、それとこれとは、話が別である。躊躇いがちに、問い掛ける。
「しかし……高級なものなのでは、」
「それほどでもない。確か、一缶あたり──」
そこで、エルヴィンが口にした金額は、およそ新兵の初任給の半分に相当した。手の中に収まるほどの、小さな缶入りの軟膏一つの値段が、である。にわかには信じ難く、アルミンは、思わず目を瞠った。
「い、いただけません、そんな……」
「このまま腐らせてしまうよりは、有意義な使い道だと思うが」
「そうは仰いましても……」
いよいよ、アルミンは困り果ててしまった。聞けば聞くほど、受け取るわけにはいかないという思いは強まり、同時に、上官の厚意を無下にしてはならないという義務感が起こって、両者の板挟みとなる。
どうしたものかと、途方に暮れるアルミンを見つめて、それならば、と団長は提案する。
「譲るのではなく、試す、ということにしてはどうだろう」
「は、……」
「贈り物とはいえ、何か、よからぬものが仕込まれていないとも限らない。残念ながら、そういったこともあるので、鼻の利く者にチェックはさせているが、完璧ではない……そこでだ。私が使用する前に、試しに君が、自分の身体で、その効能のほどを試す……つまりは、毒見役だ」
おどけた調子で、エルヴィンは、名案だろう、と問い掛ける。アルミンは、すぐには、返答を紡ぐことが出来なかった。そうまでして、こちらの抵抗を和らげようとしてくれている、彼の気遣いに、深く感じ入っていたのである。
決して押しつけがましいものではなく、さりげなく、団長はアルミンの背中を押してくれた。人の上に立つ者としての、器の大きさを見せられた思いであった。ここまで促して貰いながら、その厚意を無駄にするような無礼が、あってはならないと思う。いよいよ、アルミンは心を決めた。
「毒見役……謹んで、務めさせていただきます」
神妙にそう述べると、団長はふっと微笑んだ。
アルミンは、当然のように、自分に缶が受け渡されるのを待ったが、エルヴィンがそれを手放す気配はなかった。不思議に思っていると、片手にそれを携えたまま、エルヴィンは、もう片手を、横たわるアルミンの襟元に伸ばした。上まできちんと留められたシャツに、軽く指先を触れる。
まだ事態を掴めずにいるアルミンが、目を瞬いて手元を見つめている前で、エルヴィンは、少年のシャツの釦を外した。
「あ、……」
思い掛けないことに、アルミンは小さく声をもらした。エルヴィンの耳に、それは届いたのか、届かなかったのか、彼は、当たり前のことをしているだけといった、平然たる面持ちで、一つ、二つと難なく外していく。
ここにいたって、アルミンはようやく、自分が何をされているかを理解した。慌てて、声を上げる。
「待っ……あ、あのっ……」
「うん?」
少年の切迫した声に応じて、エルヴィンは一旦、手を休めた。何か気になることでもあるのか、とでもいうように、アルミンの瞳を覗き込む。
深く、感情を読ませない、その瞳に見据えられると、アルミンは何も言えなくなってしまう。こなしてきた場数が、経験が違うのだと、思い知らされるのだ。もしかすると、自分の方が、何かたいへんな勘違いをして、間違った主張を抱いているのではないかと、不安にさせられる。
それでも、言わなくてはならないことがある。勇気を振り絞るように、きゅ、と手を握って、アルミンは喉を叱咤した。か細い声を紡ぐ。
「……せめて、自分で、させてください……」
「分かった、いいだろう。それでは、手を離して貰えないか」
「え?」
彼の視線を追って、自分の胸元、握り締めた手の辺りに視線を落としたアルミンは、あ、と息を呑んだ。気づかぬうちに、その手は、エルヴィンの手を、しっかりと握り締めていた。
「し、失礼いたしました!」
慌てて、振り払うようにして手を離し、胸元に引き戻す。骨ばった男の手の感触が、明瞭に、手の中に残っていた。子どもっぽい柔らかさを残した、細く頼りない自分の手とは、まるで異なる、誇り高き兵士の手だった。
「構わない。さあ、それでは、続きを──君自身で」
はい、と消え入りそうな声で応じて、アルミンは、そろそろと襟元に指を伸ばした。
釦を外すことくらい、毎日繰り返している、何ということもない日常動作である。わざわざ、手順を意識するようなものではなく、寝惚けながらでも出来るし、少しも難しいことはない。
その筈なのに、いざとなると、どう指を動かしたら良いのか、アルミンは、まるで分からなくなってしまった。何もかもが、不確かだった。そこに、団長の目があるというだけで、自分が無知で、無防備な子どもになってしまったような気がしてくる。
こんな貧相な身体を見て、エルヴィン団長は何を思うだろうか。やはり、兵士には不適格だとして、訓練兵団に送り返されはしないだろうか。
思うと、何もかも見透かすような、団長の怜悧な眼差しが、おそろしかった。こくりと喉を鳴らして、ぎこちなく指を動かす。指先が震えそうになっていることを、どうか、気づかれないようにと祈った。
やっとの思いで、一つ釦を外すほどに、指先の動きは重く、拙くなっていく。血の気の引いた悲愴な面持ちで、肌を晒していく少年を、エルヴィンは何も言わずに見つめた。
正しいとも、間違っているとも、評価を下さずに、精確に事象を見つめようとする、それは、観察者の眼だった。静まり返った水面の内に、研ぎ澄まされた刃を感じさせる、その瞳は、アルミンのどんな些細な指の振る舞いも、見逃すことはないだろう。
男の視線は、冷静にアルミンを評価し、吟味する。うまくやらなくてはいけないと、意識するほどに、アルミンの指は強張り、臆病に震えた。鬼教官の前での、立体機動術の実技試験のときでさえ、これほど心をかき乱されることはなかった。
揶揄されるでもなく、ただ静かに見つめられているだけなのに、こんな風になってしまう、自分はおかしいのではないかと、アルミンは泣きたくなった。そう思ったときには、もう、目が潤んでいる。こみ上げたものが、こぼれ落ちそうになるのを、アルミンはかろうじて堪えた。息を詰めて、なんとか、やり過ごそうと試みる。感情に負けて、押し流されること、それだけは、避けねばならなかった。
ここで泣いてしまえば、それこそ、おかしいと思われてしまう。何も、弁明が出来なくなってしまう。自分にそう言い聞かせて、懸命に平静を保とうとした。
しかし、平静を保とうとしている時点で、最早、平静さは失われており、いくらあがいたところで、取り戻すことは出来なかった。臍の上辺りで、とうとう、指が止まる。降参だった。これ以上は、どう頑張っても、指を動かすことが出来ない。
それに気づいたエルヴィンは、どうしたのか、と落ち着き払った声で問う。できません、という一言が、アルミンはどうしても紡ぎ出せなかった。それを言えば、敬愛すべき相手に、失望を味わわせることになるのは、明らかだったからだ。
喘ぐようにして、唇を震わせるが、そこからこぼれるのは、か細い息ばかりだ。団長の期待に、何も応えることが出来ない。こんな簡単なことさえ、満足にはこなせない。そんな自分が、あまりに情けなく、惨めだった。
青灰色の瞳に、一杯に涙を浮かべて、アルミンは、平然たる面持ちの上官を見上げた。ふるふると瞳を震わせ、いよいよアルミンが、降参を口にしようとしたときだった。その唇が、優しく塞がれた。
「ん、ぅ……」
あの夜と同じように、少年の柔肉に指を押し当てて、エルヴィンは囁く。
「すまない。困らせるつもりはなかった……もういい」
小さく震えたまま、シャツに掛かっていたアルミンの指を、エルヴィンは宥めるように握って、外させた。後は私がやろう、と代わりに釦に指を掛ける。ぼんやりと、アルミンはそれを見つめた。
アルミンがあれほどてこずった釦を、彼は易々と思うままにし、とうとう、すべてを外した。シャツと肌の間に、男の指が優しく滑り込み、アルミンは、こくりと喉を鳴らした。
「見、ないで……くださ、い……」
「もっと広げなければ、シャツが汚れてしまう」
「あっ……」
はだけたシャツの前を、エルヴィンは大きく広げ、少年の素肌を晒した。胸と腹、それに、肩の付け根までが、あらわになる。
アルミンは、堪え難いというように、顔を背けた。骨の浮き上がった、自分の貧相な身体など、見たくもなかった。敬愛する団長の目の前ともなれば、なおのことである。
均整の取れた長身、服の上からでも分かる、無駄なく鍛え抜かれたしなやかな筋肉を纏い、馬と一体となって、輝かしく戦場を駆けるに相応しい、調査兵団を束ねる長たる男の眼前に、こんな、見るべきものの何一つない、貧弱な身体を晒している。それは、いっそ罪深いとさえ感じられるのだった。
ぐ、と唇を噛み締めている少年の横顔を見て、エルヴィンは一つ息を吐いた。それから、淡々と、揃えた二本の指に軟膏を掬い取り、アルミンの鎖骨の中央に置いた。
「っふ、……」
ひたり、と張り付く冷ややかな感触に、アルミンは反射的に肩を竦める。宥めるように、ゆっくりと、エルヴィンの指は円を描き、それを塗り広げた。
はじめのうち、冷たく固まっていた軟膏は、アルミンの体温ですぐに温まって蕩け、肌の上によく伸びた。薬草の独特の匂いと、それを和らげるような、甘い花の香りが、複雑に入り混じって、立ち昇る。
軟膏は、すっとするような冷涼感があるのに、それを塗りつけて滑る男の手は暖かい。その対比を、アルミンは明瞭に感じた。胸の上をなめらかになぞる、男の指先を、努めて感じまいと、少年はきつく唇を噛んだ。しかし、意識するまいとすればするほどに、それは明瞭に、アルミンの頭を支配するのだった。
緩く蕩けた軟膏を、エルヴィンは手のひらを使って、大きく塗り広げる。その軌跡を、アルミンの肌は、その必要もないのに記憶して、繰り返し、感覚を再現した。彼の大きな手のひらに、貧相な胸の全体を、すっかり覆われたような心地だった。
少年の胸を撫でつつ、エルヴィンは、生徒に言い聞かせるように静かに紡ぐ。
「確かに、体格は華奢だが……よく鍛えられている。これだけの筋肉がついていれば、立体機動には十分だ。身体が軽い分、小回りも利くだろう」
指先で丹念に胸元をなぞりながら、団長がそこまで見て、合格点をくれたのだということを、アルミンは遅れて理解した。己の貧弱な身体を気に病んでいた少年にとって、それは、救済の灯ともいえる言葉だった。
ありがとうございます、と言いたかったが、ずっと息を殺していたせいで、ひどく掠れた声になってしまった。それでも、団長は聞き取ってくれたようで、手のひらで大きく胸を撫でてくれた。恥ずかしかったが、嬉しかった。
「さて……調子はどうだ?」
「はい……もう随分、良いようです」
ハーブの入り混じった、少し苦味のある香りが、肺の重みを取り除いてくれるようで、アルミンの呼吸は、一時期より、だいぶ楽になっていた。
それは良かった、とエルヴィンは頷き、念のため、もう少し塗り広げておこうと言った。アルミンは従順に、その決定に従う。世話になるばかりで、心苦しいが、折角の厚意を受け取らないというのも、また非礼なことである。
胸の中心線に沿って、エルヴィンは軟膏を塗りつけ、指先と掌によって、その範囲を左右に広げていった。ここまでは、特別なことは、何も起こらなかった。
しかし、その指先が、小さく膨らんだ一点を掠めたときだった。アルミンは思わず、息を詰めていた。ひくりと、身体が強張る。施されるものにも慣れてきたところで、刺激に対して無防備であったがために、咄嗟の反応を堪えることが出来なかった。
触れた指先に伝わる、身体の強張りから、異変を感じ取ったのだろう。エルヴィンは手を止めて、どうかしたのかと問う。
「いいえ……何でも、ありません」
平静を装って、アルミンは応じた。そうか、とエルヴィンはそれ以上追及しようとはせずに、作業を再開する。暫く、アルミンは呼吸を整えるべく、努めていたが、どこか落ち着かない。肌を伝うエルヴィンの指遣いを、いっそう鋭敏に感じてしまう。
そして、先ほど触れられた、胸の尖端の一点が、切なく疼いている。放っておけば、自然に収まるものかと思われたが、予想に反して、次第にもどかしさが募っていく。
肌に心地良い筈の、軟膏の冷涼感が、その箇所には、違った刺激として感じられていた。意識を逸らそうとしても、最早、ごまかしきれない。
不意に、エルヴィンは少年の胸の中央に手のひらを置いた。あ、とアルミンは微かな息をこぼす。そこは、ちょうど、心臓の真上だと分かった。
とくとくと、いつもより早い鼓動が、肌を通じて、団長の手のひらを押し上げている。己の内なる乱れが、ありありと伝い知れてしまうようで、アルミンは堪らず、顔を背けた。
落ち着け、と自分に言い聞かせるも、置かれた手のざらついた感触、骨ばった指先の硬度を、より明瞭に感じるばかりで、ますます頬が熱くなる。
エルヴィンが気まぐれに、ほんの少し体重を掛けて押し込めば、少年の薄い胸は、簡単に、くしゃりと潰れてしまうだろう。小さな生き物の標本を作製するときのように、それは、速やかに完了する作業だ。想像して、アルミンは、ふる、と肩を震わせた。
いっそ、そうして、このうるさい心臓を黙らせて欲しかった。鼓動を通じて、きっと、自分ごときの頭の中は、何もかも団長に見通されているのだと思った。彼によって、意のままにされている。ならば、こんなに苦しい思いはさせずに、今すぐにでも、鎮めて欲しい。
アルミンにしてみれば、随分と長い時間、エルヴィンは心臓の上に、手を重ねていた。一つの鼓動さえ、彼から逃れて刻むことは、許されなかった。ただ触れられているというだけで、何もされていないというのに、アルミンは、鼓動を打つごとに、追い詰められていく感覚に陥った。
アルミンの心臓を掌握しつつ、エルヴィンはおもむろに口を開く。
「鼓動が、随分と早い。頬も火照っている……何故だか、分かるか、アルミン」
「わ、かりませ……」
あくまでも冷静に、患者を診る医師のような態度で、エルヴィンは淡々と語る。そうされると、ひとりで興奮している自分が、ばかみたいだとアルミンは思った。
どうして、こんな風になってしまったのかと訊かれても、そんなことは、自分でも分からない。あなたのせいだ、などとは、言える筈もなかった。それは、自分の負うべき責任を放棄して、彼に押しつけているに過ぎない。こうなってしまったのは、アルミンの責任以外の、何物でもない筈だ。
ただ、少し優しくして貰っただけで、こんな風になってしまう、自分が情けなかった。どうして、こんな身体なのだろうと、泣きたくなった。
少年の胸の内を悟ったかのように、エルヴィンは穏やかに紡ぐ。
「どうした。何も隠すことはない。何か、気になることがあれば、教えてくれないか」
「いえ……しかし、」
「……それとも、私では、信用ならないか」
「それは、……」
そこまで言われては、最早、アルミンには、黙っていることは許されなかった。心から団長を信じているのならば、どんなことであれ、打ち明けられる筈である。黙り込むことは、不信の念を表明することに他ならない。
団長は、あくまでも、親身になって、新入りの部下を案じているのだ。ここまで世話になっておきながら、己の身体に起こっていることを、恥ずかしいから、などというくだらない理由で隠匿するのは、彼に対する裏切り行為である。
そう考えて、とうとう、アルミンは口を開いた。
「あの、……団長、」
「なんだ?」
「その……軟膏が、しみる、というか……ひりつくところが、あって、……」
「それはいけない。傷がついていたのかも知れない……どの辺りだ?」
そう訊かれるだろうことは、十分に予測出来ていたというのに、アルミンは、すぐに返事を返すことが出来なかった。促すように、団長は静かにこちらを見つめている。後戻りは、出来ない。
ある種の諦めに似た思いで、そろそろと指先を上げて、アルミンは、その箇所を指した。
「ここ、が……変、なんです……」
指し示すまでもなく、ここを摘んで欲しいと主張するように、その箇所は鮮やかに色づき、小さく立ち上がっている。自分で言い出したことだというのに、今の自分がどんな格好で、どこを指差して、何を言っているかを思うと、とてつもなく恥ずかしかった。
しかし、エルヴィンは笑うでもなく、あきれるでもなく、真摯にアルミンの指差した辺りを見据える。その視線にさえ、アルミンは、小さな疼きを覚えた。
「ここか?」
小さく呟いて、男の指は、前触れなく、アルミンの指した箇所を摘んだ。
「あ、ぅっ……!」
不意に与えられた、無造作な刺激に、アルミンは大きく仰け反って、上ずった声をもらした。ほとんど、悲鳴といってもよかった。それから、なんという声を上げてしまったのかと、慌てて両手で口をふさいだが、何もかもが遅すぎた。
エルヴィンはと見れば、戸惑ったように、手を引き戻している。軽く触れただけで叫ばれては、戸惑いもするだろう。
彼が厚意からしてくれたことに、とんだ醜態を晒してしまった。震える声で、アルミンは非礼を詫びた。
「あ……ご、ごめん、なさい……」
「いや、私の配慮が足りなかった。突然に、驚かせてしまったな。すまない」
エルヴィンは緩く首を振って応じた。どうやら、気分を害してしまってはいないらしい。それを小さな慰めとして、アルミンは胸を撫で下ろした。
良い方向に考えれば、これで、何がおかしいのかということは、団長にも、よく伝わったことだろう。摘まれた箇所は、まだ衝撃が抜けずに、鼓動に合わせて、小さな痺れが走った。
「成分がきつすぎたのかも知れない。君のような、若く敏感な身体にとっては」
敏感、と評されるや、アルミンは頬が熱くなるのを感じた。ただ、臆病で、過剰反応してしまうだけなのに、そんな言葉で言い換えられるのは、いたたまれなかった。
団長は、更に続ける。
「痛みを感じたら、すぐに言ってくれ」
え、と問い返す間もなかった。エルヴィンの指は、再び、その箇所に触れた。ただ、今度は、無造作に摘むようなことはしない。慎重に、丁寧に、少しずつかたちを探るように、まずは周辺を、くるりとなぞる。
「ん、」
「痛むか」
「いいえ……痛くは、ありません……」
もどかしいほどの時間をかけて、エルヴィンは少年の淡い乳暈をなぞった。そこではないのに、とアルミンは訴えたかったが、言える筈もなく、遠い刺激に耐えた。
円を描きながら、その指遣いは次第に、中心に近づき、とうとう、尖端を掠めた。
「ぁ……ん」
軽い痺れに似た感覚に、アルミンは切ない吐息をもらした。先ほどの、背筋を駆け上がる一瞬の電流とは異なって、それは、じわりと肌を伝って、穏やかにアルミンを包んだ。とくん、と心臓が鳴る。
ふに、ふにと、男の指先は、そこを優しく揉み解す。アルミンの小さな箇所は、かさついた指の合間で、みるみるうちに、ぷっくりと赤く膨らんだ。
「ご覧。こんなに、充血してしまっている」
促されるままに、アルミンは、おそるおそる、己の胸元を見下ろした。彼の言うとおり、弄られていた側の尖端が、鮮やかな肉色を呈しているのが見て取れる。それは、もっと触れて欲しいとねだるように、みずみずしく膨れて、明瞭に立ち上がっている。
その浅ましい尖端を窘めるように、男は、こりこりと引っ掻いた。ひ、とアルミンは息を詰める。情けない声がもれてしまわないようにと、片手を口元に、ぐ、と押し当てた。
「っん……ぅ、」
恥ずかしいことではないのだと、声を堪えながら、懸命に自分に言い聞かせた。エルヴィン団長は、思わぬところに付着してしまった軟膏を、丁寧に拭ってくださっているのだ。ただそれだけの行為でしかない。恥ずかしいことではないし、ましてや、快感を覚えるなど、ありえない。
そう言い聞かせても、吐く息は熱を帯び、もどかしくソファに身体を擦りつけている自分がいる。火照った頬は、きっと、真っ赤になってしまっているだろうことが分かった。
短く整えられた爪の先が、緻密に薄皮の溝を広げては、掻き出すように、筋をなぞる。何も見逃しはしないというばかりに、念入りに探ることを繰り返されて、アルミンは、息が上がっていくのを隠すことが出来なかった。このまま、触られ続けたら、自分はどうなってしまうのかと、不安がよぎる。
その胸の内を読んだかのように、エルヴィンは呟く。
「これでは、すべて拭うのは難しいな」
「も、ぅ……、十分です……我慢、しますから、大丈夫、」
「いや、まだだ」
低く呟いて、エルヴィンは少年の上に覆いかぶさる格好をとると、胸元に顔を伏せた、何を、と問うべく、開いたアルミンの口は、次の瞬間、悲鳴のかたちに変わっていた。
ようやく解放されたかと思われた、その箇所を、エルヴィンが口に含んだのだ。ただでさえ、軟膏の刺激に加え、弄り回されて過敏になった箇所に、それは、あまりに強烈な刺激だった。
「あっ……や、ぁう……!」
小さな乳首を、エルヴィンは、くちゅくちゅと嘗め回し、吸い上げる。拭いきれずにいた軟膏の冷涼感が、水分を得ることによって蘇り、明瞭に神経を刺激する。息つく間もない男の舌遣いに、アルミンは一方的に翻弄された。
「や、ぅ……やめて、くださ……団長……っ」
上ずった声で訴えても、聞き入れては貰えない。まるで体格の違う男に圧し掛かられて、逃げられる筈もなかった。
まさか、団長ともあろう相手の頭を叩いたり、押しやるような真似が、出来るわけもない。せめて、手足をばたつかせての懸命な抵抗も、易々と押さえ込まれてしまう。
「ん、くぅ……!」
舌先で突かれ、捏ね回されるたびに、アルミンは仰け反って過敏に応じた。指で弄られるのとは、まるで感覚が違っていた。ほんの小さな箇所に与えられた刺激を、全身に与えられたように感じて、爪先が跳ねる。
脳裏をよぎるのは、どこまでも深く暗い奥底、ずらりと並ぶ巨大な歯列、ぬるつく生温い肉壁、血肉の臭気、全身が唾液に塗れて、伸ばした手は、ざらついた舌の上をずるずると滑り、落ちれば二度と戻れぬ闇へと落ちていく、あの恐怖、絶望。
アルミンの悲鳴めいた懇願は、いつからか、嗚咽に変わっていた。
「や、……もぅ、ゆるし、て、っう……」
ようやく、解放されたときには、少年の四肢は、すっかり力が抜け、抵抗する気力も失われて、くたりと横たわっていた。ひく、ひくと薄い肩が震え、きつく閉ざした瞳からは、生温い滴が伝い落ちる。
エルヴィンはそれを指先に受け止め、濡れた頬を優しく拭った。
「アルミン。もう、終わった……安心していい」
「う、……」
「きれいに拭い取ったから、しみることもないだろう」
ほら、と促されるままに、アルミンは息を切らしながら、己の胸元へ視線を向けた。弄り回されて硬く立ち上がった尖端は、男の唾液に濡れ光って、いっそうに鮮やかに色づいていた。自分のものではないように、ぼんやりとそれを見つめる。
「あ、りがとう、ございます……」
何か答えなければ、という反射だけで、アルミンは感謝の言葉を紡いだ。それが、この場に相応しい言葉であるのかどうか、吟味するだけの思考は、とうに失われていた。
エルヴィンは、ふっと微笑む。大きな手が、静かに少年の頭を包み、優しく撫でた。そうされると、少しずつ、気分が落ち着いていく。深く息を吐いて、アルミンは、掠れた声を紡ぐ。
「僕、こんなこと、初めてで、……どうしたら、……」
「こんなこと、とは?」
「……ここに、触れられたり、口で……」
それ以上は、言葉を紡ぐことが出来ずに、少年は俯いた。安心させてやるように、エルヴィンはその麦藁色の髪を梳く。
「気にすることはない。共に戦う者としての、ひとつのコミュニケーションだ」
そう言って、彼は立ち上がる素振りを見せた。あ、とアルミンは追い縋るように団長を見上げる。
自分でも、どうしてそんな反応をしてしまったものか、分からない。ただ、気付いたときには、訴えるような目で、彼を見つめてしまっていた。
それから、それが浅ましく、物欲しげな行為であることに思い至って、アルミンは急いで顔を背けた。どうか、気付かないで欲しかったし、気付いて欲しかった。
果たして、エルヴィンは、アルミンの密かな期待に気付き、それに応えた。何か言いたげな少年を気遣うように、ソファに座り直す。
「どうか、したのか」
「……」
問い掛けに、アルミンは、きゅ、とシャツを握り締めた。一つ息を吐くと、おずおずと、己の胸元の片側に指を伸ばす。触れられていたのとは反対の、もう一つの小さな尖端である。
「……教えて、いただけますか? 触られていないのに、こっちも、なんだか、変なんです……」
こんなことを願い出て、あきれられてしまうかもしれないと、分かっていながらも、自制することは出来なかった。どうすれば良いのか分からずに、指示を仰ぐ。未熟な新入りにだけ、許された特権である。それだけのことだと、自分に言い聞かせる。
アルミンの拙い言葉を、エルヴィンは笑うことはしなかった。承知した、というように、姿勢を低くする。覆い被さられるアルミンの内に、最早、恐怖心はなかった。あるのは、抑え難い好奇心と、危うい期待だけだった。
先ほどまで、夜風に凍えていたというのに、今や、アルミンの身体はほのかに紅潮し、しっとりと汗ばんでいる。折角、塗り込んだ軟膏が、汗で流れてしまうのではないかと、アルミンは、息を乱しながら案じた。
鎖骨から胸元にかけては、つやつやと濡れ光ったようになり、橙色の灯が揺れる度、変化する陰影を映した。滑りの良くなった肌は、施される指遣いを鋭敏に捉え、律儀に反応を示す。肌を伝う、己の汗の軌跡にさえ、感じていた。
「ふ、ぁ……んぅ、」
放っておいた片側を、十分に慰めるように、エルヴィンは念入りにそこを揉み込み、かりかりと擦っては、押し潰した。刺激に慣れる猶予も与えられず、アルミンは、男の指と舌に翻弄された。
一方に構われては、触れられていない方の乳首が、小さく疼き出す。それを悟ったかのように、エルヴィンは両手でそれぞれの尖端を摘んだ。ひくん、とアルミンの背が跳ねる。
「ぁ、あ……んっ……」
ゆっくりと捏ね回され、硬い指の腹が、敏感な尖端に擦りつけられる。押し寄せる焦燥、募るもどかしさに、アルミンは忙しく息喘いだ。
彼の指先から、何か毒薬でも、流し込まれているようだった。そうでなければ、どうしてこんなにも、身体が痺れるだろうか。意思に関わらず、背が跳ね上がるだろうか。甘ったるい声が、こぼれるだろうか。
「や、ぁう……ぁ、あっ……」
息を継ぎながら、切なく喘ぐ、己の声に、耳を犯される。それは、とてつもない羞恥を伴ったが、不快ではなかった。
聞くに堪えない声が、アルミンの熱を煽り、神経を鋭敏にし、肌を貪欲にさせる。自分自身の声に、興奮している。
それは、あまりに罪深いことに思われて、アルミンは、懸命に声を堪えた。ぐ、と唇を噛み締める。そんな努力を笑うように、与えられる刺激は、アルミンを追い詰めていく。
変化をつけながら、指先を小刻みに動かし、エルヴィンは囁く。
「どうだ? 感想を教えてくれないか」
「っ……」
今、口を開けば、間違いなく、余計な声がもれてしまう。上官の命令とはいえ、アルミンは躊躇せざるを得なかった。
そうしている間にも、エルヴィンは様子を探るように指先を動かしていたが、ふと、僅かに眉を寄せる。
「良く、なかったか?」
その言葉に、アルミンは、小さく喉を鳴らした。閉ざしていた唇を、おずおずと開く。はぁ、と吐息とも喘ぎともつかぬものが、こぼれ落ちる。
「あ、ぁ……すご、く、んぅ……」
「うん?」
「っは、すごく、あぅ、ぴりぴりして、んぅ……気持ち、い……っ」
途切れ途切れの答えに、エルヴィンは、よくできたとでもいうように、表情を緩めた。両の親指で、小さな乳首を、ぐ、と押し込む。
「あ、ぁんっ……!」
思わぬ刺激に、身を捩るアルミンに構わずに、男は緩急をつけて、円を描くように揉み込む。鈍い痛みと快楽の合間で、アルミンは泣き出しそうな声をこぼした。
「い、ぃ……っ、気持ち、い、です……っ」
感想を教えろという上官の言葉を律儀に守って、アルミンは、いい、いいとうわ言のように繰り返した。自分が何を言っているのか、言葉の意味は、とうに失われ、ただ、そうすれば続けて貰えるという期待だけで、上ずった声を紡ぐ。
このままでは、どうにかなってしまう、という警鐘は、ずっと脳裏で鳴っていた。しかし、最早アルミンは、自分の意思で身を引くことは、出来なくなっていた。
思考は、ばらばらに崩れていく。誰に、何をされているのかも、見失って、どうでもよくなっていく。あるのは、感覚だけだ。一瞬の快感と、強まる一方の、焦燥と渇望。
そうして、自分自身さえも、手放しかける、直前だった。不意に、与えられ続けていた刺激が、途切れた。
「あ、……」
「この辺りにしておこう。あまり、疲れさせてしまってもいけない」
冷静な男の声が鼓膜を叩いて、アルミンは、遠のきかけていた現実感を取り戻した。忙しい呼吸、高まった鼓動、力の入らぬ身体を、己のものとして認識する。
熱を煽るだけ煽られたところで、放り出されたというのに、さほど辛さを感じずにいられるのは、アルミンの内に高まるもののリズムを、エルヴィンが巧みに読んで、うまく手を引いてくれたおかげであろう。
その線引きは、揺るぎなく明瞭であった。何ら躊躇も、未練も、感じさせることがない。彼は、これ以上、アルミンに触れるつもりはない様子だった。
やめないでくれと、まさか、口に出して言える筈もなく、アルミンは、少しでも鼓動が落ち着くようにと、深く呼吸を繰り返した。全身にしつこく絡みつき、隙あれば煽り立てようとする、気だるい痺れから、なんとか意識を逸らす。もう少しの間、堪えれば、内に籠った熱も、引いていってくれる筈だった。
そんな少年の様子を、間近で観察するように眺めつつ、エルヴィンは世間話の延長といった風情で呟く。
「先ほどの言葉だが──初めて、ではないだろう」
「……は、」
「エレンか?」
親友の名を挙げられた瞬間、アルミンは、息が止まった。どくん、と心臓が鳴る。
突然のことに、アルミンは何も答えられなかったが、その反応こそが、すべてを物語っていた。そうか、とエルヴィンは納得したように小さく頷く。
「初めてにしては、よく感じると思った。お互いに、慰め合っていたんだな」
「ちが、……違います。そんなんじゃ、ありませ、……」
「何が違う?」
何と言って表現すれば良いのか、アルミンは、すぐには考えをまとめることが出来なかった。しかし、自分たちの関係は、彼の想像したようなものとは違う、ということだけは、この場にいない友人の名誉のためにも、明瞭に伝えなければいけない。正直に、打ち明けるのだ。こくりと、アルミンは喉を鳴らした。
「触れ合うことは、確かに、ありました……寮の寝床が、隣同士で、自然と、抱き合ったり、擦り合わせたり……でも、」
どうして、団長相手に、このような、極めて個人的なことを告白しているのだろうと思いつつ、アルミンは、喘ぐように紡いだ。
「エレンは、友達で、……じゃれあって遊んでいた、子どもの頃の、ままで、……そのまま、続けているだけで、エレンはそうなのに、僕が、おかしい……」
自分自身を守るように、あるいは、縛るように、アルミンは、ぎゅ、と肩を抱いた。きつく目を瞑り、声を震わせる。
「もっと、触って欲しいと、感じてしまう、なんて……おかしいん、です。エレンに、そんなこと、させてはいけない……だから、自分で、」
それが、訓練兵の頃のアルミンの、エレンには決して知られてはならない秘密であった。
周囲が寝静まった夜更けに、その行為は始まる。こんなことをしては、いけないのにと躊躇いながら、寝台の中で、アルミンは密かに、胸元に手を伸ばす。隣に眠る友人を思いながら、目を閉じて、ゆっくりと指を這わせる。
エレン、エレンと、胸の内で切なく名を呼ぶと、まるで、彼に触れられているように思い込むことが出来た。はじめのうちは、何もかもが、手探りだった。ぎゅ、と自分自身を抱きしめたり、優しく身体を撫でてみたり、おそるおそる、胸の尖端を摘んでみたりした。
エレンならば、こんな風にするだろうと、想像して、わざと無造作に触れてみたり、本当に触れられたい箇所から、あえて外してみたりすると、ますます良いのだと分かった。そうして試しながら、少しずつ、自分の感じるところを覚えていった。
気付かれないように、音を立てないように、すべては密やかに執り行われた。想う相手が、すぐ隣で寝息を立てているという、危うい状況、そのものが、アルミンを煽り立てていた。
身体を静かに撫でているだけでは、最後まで行きつくことは出来なかったが、ある程度の満足を得ることは出来た。むしろ、体力に自信のないアルミンとしては、最後までするのは疲れるだけであったので、この程度で留めるのが適当であった。
ひとしきり、そうして楽しんだ後、決まって、とてつもない罪悪感が胸を押し潰した。自分の手も、身体も、心も、なんて汚いことだろうかと思った。
なにより、こうして練習を重ねることで、いつか、本当にエレンに触れて貰えたとき、上手に反応することが出来るのではないかと、浅ましい期待をどこかに抱いている、自分は最低だと思った。
もう、二度とするまいと誓って、胸の内で、何も知らない友人に、何度も詫びていた。ごめんなさい、ごめんなさいと、泣きながら、眠りに落ちた。
「だから……エレンは、違うんです……」
「分かった、もういい。すまなかった」
いつの間にか、震えるほどに強く、肩を掴んでいたアルミンの手に、厚みのある手が重ねられる。慰めるように、ゆっくりと擦って、エルヴィンはその手を緩めさせた。アルミンが落ち着くのを待って、静かに紡ぐ。
「これほどの期間、彼と引き離されるのは、君にとって、初めてのことだろう。それが、体調不良とも関係しているのかも知れない」
「そんな、ことは、……」
友人と離れ離れになったからといって、己の職務に支障をきたすなど、年若いとはいえ、ひとりの兵士として、あってはならぬことである。自分は、そこまで、友人に頼りきりの、脆弱な人間ではない。反射的に、アルミンは否定の言葉を紡ぎ掛けたが、思い直して、口を閉ざす。
「……いいえ。そのとおり、なのかも知れません……」
再び、口を開いたとき、アルミンは、自分でも驚くほどに、素直にそれを認めていた。誰にも見せたことのない、正直な胸の内を、初めて、打ち明ける。
「離れてから、とても、寒くて……寒くて、寂しい、」
今夜にしても、他にいくらでも居場所はあったのに、あえて夜風に身を晒していた。冷えた胸の内と、身体感覚を重ね合わせることによって、バランスを保っていた。こんなにも、寒いのは、風に当たっているせいなのだと、自分に言い聞かせて、本当の理由から、目を背けた。
「でも、それは……当たり前なんです。ずっと、お互いを、温め合っていたから……僕だけ、温かくなることなんて、……出来ない」
許されない、とアルミンは緩く首を振った。これは、自分が受け容れなければいけない寒さなのだと、知っていた。
エルヴィンは、横たわる少年の身体を見下ろした。見られていることが分かっていても、アルミンは、乱れたシャツの前を合わせようとは思わなかった。隠しているものは、もう、何もない。こんな風になってしまった、自分を、どうか、見て欲しかった。
おもむろに、大きな手が、服の上から、アルミンの下腹部に重ねられる。ひくりと、アルミンは背筋を強張らせた。
そこは、解放を期待しながらも、中途半端に高められ、留め置かれた状態のままだった。軽く撫でられて、アルミンは居心地悪く身じろぐ。
「ぁ……そこ、は……」
「君をここまでしてしまった。責任は、最後まで取らせて貰おう」
君を友人から引き離してしまったことも、埋め合わせてやりたい、と団長は付け加えた。その言葉の意味するところを知って、アルミンはうろたえた。
「じ、自分で、その……出来ます、から、」
「先ほども聞いた台詞だ。そう言って、結局どうだったか、覚えているだろう?」
「……それは、」
アルミンは声を詰まらせ、俯いた。己の世話もままならない、自分がまるで未熟者で、情けなかった。
「ここならば、他人の目や耳を気にすることはない。君と、私だけだ」
集団生活における、その類の苦労は、団長も身に覚えがあることだろう。確かに、この室内以上に、アルミンが落ち着いて、事を済ませることの出来そうな場所の心当たりはなかった。
沈黙を、了承と取ったのだろう、エルヴィンは、より動きやすいようにと、ソファに腰掛け直す。スプリングの軋む音に紛れて、アルミンは、ごめんなさい、と掠れた声を紡いだ。
「なぜ、謝る? 何も、咎められるようなことはしていないだろう」
そんな風に言ってくれる、団長の懐の深さを感じて、アルミンはますます、いたたまれなくなった。自分ごときが、極めて個人的な事情のゆえに、この人の貴重な時間を独占し、手を掛けさせている。それだけで、咎められるには十分であると思った。
「こんな、お手間を取らせるばかりの、厄介者で……っごめん、なさ……」
しゃくりあげるアルミンを宥めるように、大きな手が、ゆっくりと髪を梳いた。
「私は、少しも手間だとは思わないが。むしろ、こちらの勝手に、君を付き合せているんだ。謝られては、困ってしまう」
苦笑して、エルヴィンは、少年の頬をそっと包み込んだ。一筋、こぼれ落ちた滴を、指先で拭い去る。
「……続けても?」
これから行なわれることには、似つかわしくないほどの、労わるような、静かな問い掛けだった。ぎゅ、と瞼を閉じて、アルミンは、ぎこちなく頷いた。
団長の長く骨ばった指は、几帳面な所作でもって、アルミンの下衣をくつろげた。彼はアルミンを、あたかも、机の上に置いた装備をこれから分解点検しようかというような手つきで扱う。膝の上に抱き上げることも、唇や髪に口づけることもしない。
なにより、彼は一切の感情に流されていなかった。すべての手順は、明瞭な目的に沿って、段階的に進んだ。それは、アルミンを安堵させ、敬愛の念を新たにさせた。
そう、勘違いをしてはいけない。上官に、多少世話をして貰ったからといって、そこに、何らかの感傷的な温もりを見出すようなことが、あってはならない。
それなのに、どうしてか、寝かされたソファの冷たさが、背中にしみて感じられる。どこか物足りないような感覚が、胸に留まっている。振り払うように、アルミンはソファに頬を擦りつけた。
「ふ、ぁ……っは、……」
広げた手の、親指と小指を器用に使って、男はアルミンの胸元を刺激する。もう片手は、少年の下腹部の熱を、優しく導いた。背中の下に敷いた、大きな上着を、いつしかアルミンは、縋りつくように握り締めていた。
初めての感覚だった。周りを気にすることなく、思うさま、身じろぎ、声を上げることが出来るからだろうか。危ういほどに、感度が高まっている。
「っは、ぁん、っ……!」
エルヴィンの指先が、緩急をつけて滑り、その小さな動きが、アルミンの内で何倍にも増幅され、震えるほどに響き渡る。それは、アルミンの濡れた唇から、切ない音となって、吐息とともにこぼれ落ちる。
自分自身の意思で、それを押し止めることは出来ない。身体は、既に、アルミン自身のものではなくなっていた。
道具を手入れし、微調整をするようだ、と感じたのは、的外れでもなかった。銃や刃というほどに、硬く研ぎ澄まされてはいない。あえていうならば、楽器だった。
自分は、彼によって奏でられる楽器なのだと思った。どのような加減で、どこをどうすれば、よく震え、よく啼くのか、自分でも知らずにいたことが、彼の手によって、明らかにされていく。その指が意図したとおりに、呼応して、背を跳ね、声を上げる。
自分の意思はどこにもなく、彼の意思に寄り添って、思いのままに、動かされている。否、あるいは、それこそが、心臓を捧げた己の意思であっただろうか。
「エ、ルヴィン、……団長、ぅ……」
かろうじて瞼をこじ開け、揺れる視界で、傍らの男を見上げる。
エルヴィンは襟元を乱しもせず、常と変わらぬ冷静な面持ちで、淡々と作業する。彼がアルミンに対して割いているのは、ほんの僅かな指先の動き、それだけだ。その指遣いにしても、緻密に統制され、いささかも感情に流されるということがない。
彼にとって、これは、山積した書類にサインを書き入れるのと、何も変わらぬ行為なのだ。唐突に、アルミンはそれを理解した。目を通し、確認し、印を入れて片付ける、事務処理の一つであるにすぎない。
「……っあ、もう、あぁ……」
足先が、ひく、ひくと跳ね上がる。限界が近い。身体は着実に煽り立てられ、上り詰めつつあるというのに、無性に哀しかった。彼に何かを重ねて、求めていた自分が、惨めだった。
いったい、何を期待していただろう。これでは、彼の手を借りた自慰も同じだと思った。ほろほろと、目元から、生温いものがこぼれ落ちる。
分かっていた筈なのに、どうしようもなく、胸が痛んだ。心は置いていかれたままに、身体に内包する熱だけが、彼の手によって、高められていく。
「ひぅ、んぅっ……!」
泣きじゃくりながら、アルミンは達した。それは、充足ではなく、虚脱だった。何もかも、明け渡して、空っぽにさせられてしまった、と思った。わけもなく、哀しくて堪らなかった。
くたりと脱力しきった身体を、男の手が、優しく撫でていく。力ない手首、それから、足首が軽く持ち上げられるのを、アルミンは他人事のように、ぼんやりと眺めた。厚みのある掌が、足先を静かに包み込む。
「すっかり温まった。このまま、おやすみ。アルミン」
心身ともに、疲弊の限界だった。温かな何かが、額に押しあてられるのを合図に、ふっと身体の軽くなる感覚とともに、アルミンの意識は閉じた。
■
奇妙な浮遊感。ああ、また、祖父に運ばれている。彼のベッドの中で、本を読みながら、眠ってしまったのだ。一歩一歩進んでいく、危うげのないリズムが心地よい。逞しい胸に、そっと頬を摺り寄せた。
「ん、ぅ……」
「おお、目が覚めたか? それじゃ、ここからは自分で歩くんだな」
頭上から降ってきたのは、祖父のそれとは違う、どこか聞き覚えのある、気さくな声であった。一瞬にして、アルミンの意識は覚醒し、大きく目を瞠った。
「っ……ネス班長!」
こちらを覗き込む、頭部にバンダナを巻いた先達を認めて、文字通り、アルミンは跳ね起きた。否、起きようとしたところで、抱き上げられた格好では、手足が空しく宙をかくだけであった。ぐらりと身体が揺らいで、おっと、と抱き直される。
「急に暴れるなって、危ないだろ」
「も、申し訳ありません……」
小さく身を竦めて、アルミンはおずおずと視線を動かした。見覚えのある風景は、アルミンたち、新兵が寝床としている宿舎の廊下である。どこからか、自分は眠ったまま、ここまで運ばれてきたらしい。
よいせ、とネスは腕の中の少年の身体を静かに下ろした。もっと、荷物のように扱って貰って構わないのだがと思いつつ、アルミンは床に両足をつけた。頭は回転を始めたが、未だ、状況は掴めていない。
肩を回している先達に、おずおずと問い掛ける。
「……あの、失礼ながら、なぜ班長が……」
「ん? いや、見回りの途中で、図書室から灯りがもれてるのが見えたもんだから。覗いてみたら、新兵が机に突っ伏してる。上着もなしに、あんなところに朝まで寝てたら、凍えちまうだろ。……余計な世話だったか?」
困ったように頭をかくネスに、アルミンは慌てて、首を横に振った。
「い、いいえ! 感謝しております。お手数をお掛けいたしました。以後、このようなことのないよう、注意いたします」
背筋を正して述べつつ、アルミンは思考を巡らせる。
そうだ、確か今夜は、咳が止まらずに、皆に迷惑を掛けてはいけないからと、部屋を出た。それから、ひとりで落ち着ける場所を探して、勝手知ったる図書室に赴き、そのまま寝入ってしまった。そうだった筈だ。それ以外にない。
曖昧だった記憶が、次第に固まっていく。一瞬、何かが頭をよぎり掛けたが、掴むことは出来ぬまま、アルミンはそれを振り払った。
居ずまいを正した少年に、それでいいというように、ネスは頷いた。
「本もいいけどな、俺はお前たちに、実地で教えなきゃならんことが、山ほどあるんだ。明日は、特にみっちりたたき込むからな。しっかり寝て、備えておけよ」
言って、励ますように、力強く肩に手を乗せる。それから、彼は少々、声を潜めた。
「俺は正直、お前に期待してるんだ。やっぱり、熱心に聞いてくれる奴ほど、可愛いってもんだろ」
贔屓はいけねぇけどな、とネスは苦笑した。つられて、アルミンも表情を緩める。
「さて、それじゃあな。難しそうな顔して寝てたが、大丈夫か?」
「はい。少し……おかしな夢を、見ていたみたいです。でも、もう、忘れてしまいました。よく眠れそうな気がします」
ありがとうございました、とアルミンは姿勢を正し、一礼した。また明日な、とネスは気さくに手を挙げて、踵を返した。
仲間の睡眠を阻害することのないよう、足音を忍ばせて、アルミンは己の寝床へ向かった。潜り込んだ布団は、冷え切っていたが、身体は温かだった。
そっと、アルミンは腕を回して、自分自身を抱いた。いつも、触れると芯まで冷え切っていた手足が、今は温かい。いつの間にか、悩まされていた咳は落ち着いて、心なしか、呼吸も楽になっている気がする。これならば、明日も訓練に集中出来ることだろう。掛けられた期待にも、応えられる。今は、それが何より、自分の為すべきことであった。
規則正しい鼓動を刻む胸元に、片手を置く。繰り返す、心地良いリズムが、アルミンを眠りへと誘う。
心臓に触れる手の、知らない筈の感触を抱いて、目を閉じた。
[ end. ]
団長お誕生日記念で、SPARKの無料配布本でした(→offline)
2014.10.14