牙のある夢(プレビュー)









牙のある、夢を見た。

■Chapter 1



オレの名を呼ぶ、声がする。意識の底まで沈み込んで、優しく響き、緩やかにオレを引き上げる声だった。軽く肩を揺さぶられる感覚に、オレは緩慢に身じろいだ。
「エレン……エレン、起きて」
少し困ったような声は、耳に柔らかく、心地良い。オレを無条件で安心させる声だ。温めたミルクのように、とろりと甘く、懐かしい。
声は、オレに呼び掛け続ける。それを子守唄に、オレは再び、夢の世界へと戻ろうと試みた。しかし、相手もなかなかに諦めが悪く、繰り返し、肩を揺すられる。
「聞こえてるだろ、エレン……僕、もう行くよ」
どこに行くっていうんだよ、と思いながら、オレは小さく呻く。残念ながら、このまま、だらだらと寝かせては貰えないらしい。諦めて、オレはゆっくりと瞼を上げた。
最初に目に入ったのは、堅牢そうな石壁だった。四方を隙間なく囲まれている。それに、心許ない灯りの揺れる天井。ぼんやりと照らし出されているのは、簡素なテーブル、古びたソファや寝台といった、飾り気のない最小限の家具、それから、分厚い扉。
「おはよう、エレン。朝だよ」
傍らからの声につられて、首を巡らせる。そこには、脇に立ってこちらを覗きこむ友人の姿があった。麦藁色の髪の輪郭が、橙の灯に滲んでいる。
幾度か瞬きをすると、視界は冴えた。起きたね、と我が友人──アルミンは、仕事がひと段落したというように、ほっと息を吐く。
あくびを噛み殺しながら、オレはソファの上で、のそのそと上体を起こした。朝だというのなら、起きねばなるまい。たとえ、この部屋が、窓を一つも持たず、わだかまる薄闇に決して朝陽の差し込むことのない、地下深くに設けられた住処であったとしても。
ここで暮らし始めてから、陽の光で目覚めるということがない。アルミンの言葉で、オレは新しい一日の訪れと、その終わりを知る。
遠く聞こえる鐘の音は、時刻を知る大切な目安であるが、オレは何の予定も有してはいないから、それに注意を向ける必要がない。それを必要とするのは、専らアルミンだ。彼には、オレと違って、為すべき一日の仕事というものがある。今も、少し急いだ様子で、オレの分の朝食を皿に盛りつけている。
「ごはん、ここに置いておくね。適当に食べて」
そう言うと、アルミンはジャケットを羽織り、手早く身支度を整える。新たな一日を迎えるに相応しく、緊張感をもって背筋を正した姿。ジャケットの背中に縫い取られた、勇壮な双翼の紋章。それを、オレはだらしなくソファに寝そべって眺める。
かつてはオレもああして、最小限の時間で装備を整え、食いはぐれることのないよう、駆け足で食堂へと向かうアルミンの隣に並んで、共に訓練兵としての日々を繰り返したものだ。
オレもアルミンも、他の連中も、皆が決められた行動を決められた通りに実行することで、集団の意思を成立させていた。これからも、そうあり続けることを、当たり前のように思っていた。
それが、今はどうだろうか。オレはもう、寝惚け眼のアルミンを急かしながら身支度をする必要もない。並んで食堂へ走る必要もない。血反吐を吐く思いをしながら、共に訓練に励む必要もない。
毎日、アルミンはオレを置いて、一人でどこかへ行ってしまう。オレは、それを見送るだけだ。
「それじゃあ、エレン。行ってくるね。留守番、よろしく」
オレは返事をしない。朝はいつもこうだ。アルミンがオレから離れていってしまうことが、歓迎出来る筈がない。どうして行ってしまうのか、と理不尽に思うばかりだ。
いいじゃないか、オレとずっと、ここにいればいい。それがアルミンにとっても、一番楽しい筈なのだ。しかし、毎朝アルミンは、オレを置いて、ひとりで出掛ける。オレを、ひとりきりにする。
「エレン……そんな顔しないで」
明らかにオレが機嫌を損ねていることを見て取って、アルミンは困ったように眉を寄せる。オレは少しばかり、胸が痛む。オレだって、好きで彼を困らせたいわけではない。アルミンが、ひとりで行ってしまうから、いけないのだ。
さすがに、そう主張して喚くのは、聞き分けのない子どものすることだから、口にはしないが、アルミンにはオレの気持ちが過不足なく伝わっている。扉へ向かいかけていた彼は、踵を返して、オレに歩み寄った。
不機嫌に顔を背けるオレに、アルミンはそっと腕を回す。肩に額を預け、背中を撫でる。ごめんね、と呟く、微かな声が聞こえた。
オレは相変わらず黙って、アルミンを抱き返すこともしなかったが、その優しい手に背中を撫でられて、うなじ辺りのほのかに甘い匂いに包まれていると、波立った気分が鎮まっていくのを感じた。
構って貰えれば、すぐに機嫌を直す。我ながら、単純なことだと思う。こうして、アルミンが埋め合わせをしてくれることを期待して、不機嫌を装っているのではないかと指摘されても、否定は出来ない。
オレとて、本気でアルミンが仕事へ向かうのを妨害するような真似はしない。これは、いわば、オレたちの間に了解された、毎朝の儀式なのだ。
俯いた金髪の頭に、オレは頬を擦り寄せた。それで、アルミンには、オレの思いが通じた筈だ。許してやる、という仲直りのしるしは、オレたちにとって、言葉にするまでもない。
「……大丈夫だね」
少し名残惜しそうに、と感じるのはオレの思い込みかも知れないが、アルミンは身体を離した。彼の小さな重みと温もりが、オレから取り去られる。離れていく、その手首を掴んで、引き戻してやりたい思いを、オレはかろうじて堪えた。
行ってくるよ、ともう一度言って、アルミンは今度こそ、扉を出た。錠を掛ける、鈍い音が聞こえた。
アルミンは階段を上り、光溢れる外の世界へと歩き出していくだろう。取り残された、オレにとっては、長く、退屈な一日の始まりだった。



[ 中略 ]



「アルミンが、今日は遅くなるというので……あなたの食事を、頼まれた」
言って、無駄のない動作で、皿を並べていく。オレは、がっかりと肩を落とすと同時に、隠し切れない喜びに沸いた。なんだ、アルミンは戻ってきてくれないのかという落胆と、食事にありつけるという期待とが、オレの中で入り混じってせめぎ合う。
そして、結局は、目の前の食欲の方が勝利した。食べることと寝ることくらいしか、今のオレの味わえる楽しみはないのだから、仕方あるまい。
ミカサに出されたスープは、いつもより具が豊富で、しかも、干し肉までついてきた。オレは喜び勇んで、それを食い千切り、じっくりと咀嚼した。貴重な肉の旨味を、味がしなくなるまで、丹念に噛み締める。
そんなオレの様子を、向かいに座ったミカサは、どこか満足そうに、目を細めて見つめていた。オレが食事をきれいに平らげたところで、彼女はぽつりと呟く。
「こんな風に……私が、あなたと一緒に暮らすというのも、良いものだと思う。きっと、寂しい思いはさせない」
真摯な面持ちで、ミカサはオレをじっと見つめる。揺るぎない視線に、オレは思わず、たじろいでしまう。これと決めたら、己を曲げずに突き進む彼女のことだ。その瞳は、生半可な気持ちで言っているのではない、という、ある種の決意を感じさせた。
それから、彼女は、ふっと視線を外した。
「……けれど、エレンには、アルミンでなければいけないことも、あるのだろう。私は、アルミンのようには、あなたを宥められない……取り戻せない。誰も、アルミンの代わりは、出来ない」
膝の上に置いた手を、ミカサはきつく握った。何かを堪えるような表情。
アルミンも時々、こんな顔をすることがある。オレの周りの人間は、どうも何かしら、悩みを抱えているものらしい。オレは知らないが、地上では、いろいろと厄介事があるのだろう。
オレに聞かせているのか、独り言なのか、ミカサは訥々と続ける。
「だから、任せきりになってしまう。少しでも、楽にしてあげられたら良いのに……これでは、アルミンの方も、心配だ」
心配とは、何のことだろうか。彼がオレを世話しながら、一緒に暮らしていることについて、ミカサは異議でもあるのだろうか。
まるで、オレの存在が、アルミンの負担になっているとでも咎められたようで、あまり良い気はしない。そんなオレの不満に、ミカサは気付いたように、顔を上げた。喋りすぎたとでも思ったのか、緩く首を振る。
「エレン……いや、そうじゃない。自分自身で決めたことなのだから……きっと、これで良い、筈」
そう呟いて、ミカサは立ち上がった。その手が、オレの方へと伸ばされかけて、しかし、触れることはなく、そのまま引き戻された。彼女は皿を片づけると、また来る、と言い残して、静かに扉を出た。
ミカサのおかげで、腹を満たしたオレは、少しばかり余裕をもって、アルミンの帰りを待てるようになっていた。彼が戻ってきたら、こんな時間まで働いていたことを、存分に労ってやろうと思った。

ただいま、という声と共に、扉が再び開いたのは、それから数時間後のことだった。
腹を満たしたオレは、良い気分でまどろんでいたところだった。そこへ、帰宅を告げる声が聞こえて、オレはすぐさま、身を起こした。
アルミンが帰って来た。オレは、いつものように、脇目もふらずに彼に駆け寄ろうとした。夕食を共に楽しめなかった分も、存分に触れ合いたいと思った。
それを邪魔したのは、アルミンのすぐ後ろから顔を出した、長身の影だ。
「ご主人様のお帰りを待って、おりこうさんだな。なぁ?」
そう言って、踏み込んできたのは、オレもよく知る、馬面野郎だ。小馬鹿にしきった態度で、折角のオレの喜びを台無しにしやがる。
「ジャン……からかわないでよ」
オレ達の不仲を知るアルミンは、とりなすように言う。その手が、無意識なのか、ジャンの奴の腕に触れていることが、オレは気に食わない。そんな奴に触る暇があるのなら、オレに触って欲しい。アルミンの仲裁は結果として、ますますオレを苛つかせるばかりだった。
なんだよ、何しに来やがった、勝手に上がりこむんじゃねぇよ、とオレは盛大に不満を表明してみせた。しかしながら、ジャンの野郎に応えた様子はなく、面倒そうに手を振る。
「うるせぇ、吠えるな。こっちは仕事なんだ、大人しくしてろ」
そう言って、オレを追い払うと、奴はテーブルに陣取った。二人して、神妙な面持ちで、作戦会議といった様相である。
仕事というならば、仕方がない。暫くの間、オレは大人しく、それが終わって、さっさと邪魔な野郎が立ち去ってくれるのを待った。しかし、話は一向に終わりそうにない。アルミンは難しそうな顔で、筆記具を弄うばかりだ。
退屈してきたオレは、アルミンの背中にもたれかかってみたり、髪をくしゃくしゃにしてみたりして、己の存在を主張することにした。そんな奴との面白くない話なんて、どうでもいいじゃないか、それよりオレと遊んだ方がずっと楽しい、と言いたかった。
ジャンの奴が、あきれたような、疲れたような顔で、深く溜息を吐く。
「なぁ……こいつ、いつもこうなのか? 同情するぜ」
「うん、まあ……いつもなら、一緒に出歩く時間だし。ずっと家の中じゃ、息が詰まるよね。外、行きたいでしょ、エレン?」
オレは、ここぞとばかりに同意してみせた。何でもいいから、早くアルミンと二人きりになりたかった。その望みは、これでようやく、果たされる筈だった。
馬面のあいつが、「じゃあ、歩きながら話すか」などと、余計なことを言いさえしなければ。



[ 中略 ]



■Chapter 2



衣擦れの気配に、オレは薄く目を開けた。視界の隅に、アルミンの後姿が目に入った。彼が起き出しているということは、今は朝なのだろう。
とはいえ、オレはアルミンに優しく揺り起こされるまで、自分から起き上がる必要はないと思っている。彼が起こしに来てくれるまで、引き続き、寝そべることにする。
オレの眠りを邪魔しないようにと気遣いでもしているのか、アルミンは音を立てずに、そろそろと何かの作業をしている。ぼんやりと、オレはその後ろ姿を見つめていたが、ふと彼が姿勢を動かして、様子を窺い知ることが出来た。
彼が静かに蓋を閉めたのは、治療器具一式を収めた木箱だ。そして、シャツの袖を捲り上げた細い腕に、真新しい包帯が巻かれている。
オレは、一瞬にして、意識を覚醒させた。アルミンがケガをしている。何があった、誰かにいじめられでもしたのか。
オレはすぐさま身を起こし、駆け寄った。アルミンは、小さく背を跳ねて、驚いたようにこちらを振り返る。
「エレン……何でも、ないよ。心配しないで、大丈夫だから」
ちっとも大丈夫そうではない顔で、アルミンはそんなことを言い、弱々しく微笑んでみせる。大丈夫だから、ともう一度言って、アルミンは背を向けた。オレの目を避けるように、シャツの袖を下ろして、腕を隠す。
大丈夫なわけがあるか、とオレは奥歯を噛み締めた。隠れるように、こそこそと手当をしていたこと、詳しい事情をまったく話そうとしないことが、その証だ。
オレに言えない事情があるなど、ただごとではない。オレは、詳しく問い詰めたかったが、そうすることは出来なかった。これと決めると、アルミンは頑固なもので、いくら問い詰めても、絶対に口を割らない。これまでの付き合いで、そんなことは、もう十分に分かり切っていた。
なんだよ、とオレは呻いた。どんな事情があるにせよ、除け者にされて、良い気分はしない。そんなにも、オレは信用ならないだろうか。オレに言っても、仕方ないと思われているのだろうか。
確かに、オレは扉の外の世界から切り離されて、狭い地下室に囚われている。地上で何があろうとも、関わりを持つことは出来ない。
しかし、それは、オレがルールを遵守している限りにおいての話である。必要とあれば、オレは、それを破ることも厭わない。
アルミンをいじめる奴がいたら、オレが赦さない。誰かがアルミンを苦しめ、傷つけ、泣かせるのだとすれば、オレはそいつを食い殺してやる。躊躇いなどするものか。弁明の猶予も与えまい。憤怒のままに、噛み千切る。
そんなことをすれば、オレはいよいよ、有害の認定を受けて、問答無用で処分されることになるのだろう。正しいことをしたのだから、後悔はしない。刺し違えてでも、鉄槌を下すことが出来るのであれば、本望だ。
そんなことを思っていると、こちらの考えを読んだかのように、アルミンが振り向く。憤るオレを見て、彼はますます、表情を曇らせた。
「エレン、おかしなこと、考えてないよね? ……僕なんかのために、君が、怒ったり、戦ったりすることなんて、ないんだ」
言って、アルミンは、そっとオレに触れた。柔らかな手の感触が、心地良い。落ち着かせるように、繰り返し、背中を撫でてくれる。
「ここに、いてくれたら……それで、十分なんだよ」
祈りにも似た、か細い声だった。波立つオレの感情を、静かに宥め、治める声。
アルミンを傷つける奴は、許せない。しかし、オレがいなくなることで、アルミンを傷つけ、悲しい思いをさせてしまうのだとすれば、それはそれで気が咎める。
オレは、湧き起こりつつあった激情を押しとどめた。一時の感情任せに行動して、結果、アルミンと引き離されてしまっては意味がない。出来るだけ、アルミンの傍にいてやること、それが、オレの第一の役割なのだ。
アルミンは無言で、ぎゅ、とオレにしがみついてくる。細い手は、何かをおそれるように、きつく力が込められている。どうか、いなくならないでくれという、無言の叫びが、痛いほどに伝わってきた。
「……戻ってきて、くれるよね。エレン……」
か細い声で、アルミンは祈るように、そんなことを言う。アルミンは、オレがどこかへ行ってしまうとでも思っているのだろうか。行ってしまうのも、戻ってくるのも、アルミンの方だというのに。そんなにも、不安なのだろうか。
オレはどこにも行かない。アルミンは、オレがいなくては、だめなのだ。こんなアルミンを、オレが置いていけるわけがない。
慰めるように、オレは身体を押し当てた。アルミンが、少しでも、寒くないように、寂しくないように。オレは味方だ、ちゃんと傍にいると、伝えたかった。
オレの気持ちが、伝わったのかどうかは、分からない。アルミンは、伏せていた面を上げて、静かに身体を離した。
「じゃあ……行ってくるね」
ケガをしたというのなら、今日くらい休めば良いものを、そうはいかないらしい。アルミンが行くというものを、オレが止めることは出来ない。
オレを置いて、出て行くアルミンの背中を、見送ることしか出来なかった。




[ to be continued... ]
















壁博5新刊『牙のある夢』プレビュー(→offline

2015.01.24

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