クラウ -E-
■Eren
最初は、嗚咽かと思った。どこからか、小さく、押し殺すような息遣いが、聞こえたような気がして、エレンは緩慢に瞼を上げた。薄闇の中、耳を澄ませてみると、僅かに喉を詰まらせるような声が入り混じっている。どうやら、幻聴の類ではない。
いったい何だ、とエレンは粗末な寝床の中で身じろいだ。時刻は、おそらく深夜である。訓練兵たちの寝床は、しんと静まりかえっていた。昼間たっぷりと教官にしごかれた同期たちは、皆、泥のように眠っている。エレンと、そして、どこからか聞こえてくる声の主を除いては。
こんな時間に、妙な奴だ、とエレンは思った。それから、夜中に目を覚ましている自分も、人のことは言えないか、と思い直す。自分が物音によって目を覚ましたのではないということを、エレンは知っていた。このような、聴こえるか聴こえないかの嗚咽ごときで睡眠を妨げられるほど、繊細な神経をしてはいない。そんなことでは、雑魚寝状態の集団生活を営める筈もないだろう。だから、別に声によって起こされたというのではなくて、たまたま目が覚めただけなのだと自己分析する。特に眠りが浅い性質ではないが、今日ならば、思い当たるふしもある。
──少なからず、ショックだったということか。
昼間の講義を思い起こして、エレンは苦々しい心地になった。調査兵団の最新の報告書に基づく、巨人の生態学。覚悟していたとはいえ、教官の話からは、「奴ら」の圧倒的な優位性を思い知らされるばかりであった。
あのとき、教室を覆い尽くしていた、無力感、恐怖心は、同期の誰もの胸に、深く刻み込まれた筈だ。両隣の友人にしても、ミカサはいつも通りの冷静な表情を保ってはいたが、白い面には緊張の色が見て取れたし、アルミンの方は、小刻みに肩を震わせていた。
巨人と、戦う──これまで漠然と思い描いてきたイメージが、過酷な現実に上書きされていくのを感じる。忘れたくとも忘れられない光景が、脳裏に蘇る。ごくり、とエレンは喉を鳴らした。
その不安と緊張が、眠りを浅くしたとしても不思議ではない。そんなことを考えていると、すっかり目が冴えてしまった。妙な声は、相変わらず、途切れ途切れに聞こえてくる。
無視して寝ようとも思ったが、気にするまいとするほどに、耳は鋭敏に、その気配を感じ取ってしまう。そして、時折吐息に混じる、か細く澄んだ声音が、自分にとってごく親しく聞き覚えのあるものであることに、エレンはそろそろ気付いていた。
「……」
周囲の仲間を起こさぬように注意しながら、エレンは静かに毛布を捲り、身を起こした。気付いた以上、放ってはおけない。幼い頃から、それは、エレンの内に変わらず息づく信念だった。
「……おい、どうした? 大丈夫か」
粗末な寝床の中を覗き込んで、エレンは小さく声を掛けた。暗闇の中、ひくりと、何かが動く気配がある。エレンは、そこに寝ている筈の幼馴染の顔を見ようと思ったのだが、それは叶わなかった。アルミンは頭からすっぽりと毛布を被り、身体に巻きつけるようにして、隅で小さく丸まっていたからだ。
ろくな暖房設備がなく、明け方の冷え込みに芯まで凍える冬場ならばまだしも、比較的しのぎやすい今の時期に、その格好はなかろう。エレンは不可解に思うのと同時に、聞こえてくる声が妙にくぐもっていた理由に納得がいった。まさか、毛布の防音性を利用したくてそういう格好になっているとは思わないが、いずれにしても、すっかり中に隠れられてしまっては、いったい何があったのか、見当がつかない。辛うじて、その膨らみの中に友人がいるということが分かるだけだ。
苦しげなのに、声を掛けても、返事が無い。ということは、悪い夢でも見て、うなされているのだろうか。今日の講義のこともある。この繊細で思慮深い友人が受けた衝撃は、並々ならぬものであっただろう。心配になって、エレンは身を乗り出した。
「なあ、アルミン」
「っ……」
友人が包まっていると思しき毛布の塊に呼び掛けると、小さく息を呑む音がする。どうやら、眠っているわけではなく、こちらの声も聞こえているらしい。しかし、一言も返事を寄越さないのは、どうしたことだろうか。
喋れないほど、具合が悪いのかも知れない、という発想にすぐに至ったのは、家業の影響もあるだろう。初夏の陽気の中、寒い、寒いとうわごとを紡ぎながら、毛布に包まり、がくがくと震える病人の姿を、エレンも目にしたことがある。
もしも、返事が出来ないほどに苦しい思いをしているのであれば、事は急を要する。エレンは、畳み掛けるようにして問い掛けた。
「寒いのか、苦しいのか? 待ってろ、すぐに教官に、」
「ちが、……ちがうよ、」
初めて、返事が返ってきた。今にも扉へと駆け出そうとしていたエレンは、そのごく小さな声に、一旦、動きを止める。
「だけど、」
「いいんだ、エレン。病気じゃない……」
「んなこと言っても……」
ならば何故、そんな風に、毛布を頭から被って、丸まっているのだろうか。苦しげに、声を震わせているのだろうか。
疑問に思う内心が通じたのか、アルミンは、毛布越しに、か細い声を紡ぐ。
「ひ、昼間の講義を、思い出して……」
喘ぐようにして紡ぎ出される、友人の言葉に、ああ、やっぱりそうだったのか、とエレンは思った。黙って、続きの言葉を聞く。
「……あんな、奴らと、まともに戦えるのか、って…思ったら……」
ぎゅ、と毛布をかき寄せ、握り締める手が見えた。兵士というにはあまりにも頼りない、非力な拳が、小さく震えている。
元々、思い詰めやすい性質のアルミンである。あんな話を聞かされて、どんどん悪い方へと、考えが転がっていってしまったのだろう。エレンは推測した。実際、夕食の席では、いつになく食欲がないようだった。彼に与えられたパンとスープの半分ほどは、結局、エレンとミカサが貰い受けている。
それでも、アルミンは、怖いとは決して口に出して言わなかった。就寝前のひとときまでは、気丈に振る舞い、何ということもないような顔をしていた。そして、皆が寝静まった頃に、まざまざと恐怖が蘇って、ひとりで震えていたのだ。
「……アルミン」
「は、は……情けないだろ。怖いのは、皆、一緒なのに……巨人に、遭ったわけでもないのに。……ごめん、心配掛けた……」
大丈夫だから、放っておいてくれという声は、か細く、とても大丈夫そうには聞こえない。周囲を憚って声を潜めているというだけではなく、それは、何かを必死に押し殺すような、痛々しい声音だった。
アルミンはいつもこうだ、とエレンは思う。この親友は、一番辛くて苦しい筈のときに、大丈夫だ、と言う。絶対に、それ以外の言葉を口にしない。
実戦さながらの訓練の最中、立体機動の目測を誤ったアルミンが、高所から地面に叩きつけられたときのことを覚えている。思わず、名前を叫んで駆け寄ったエレンに、アルミンは血反吐を吐きそうな声で、大丈夫だ、と言ったのだ。実際には、大丈夫なわけがなく、戦線に復帰するどころか、ひとりで起き上がることも出来ないくせに、悲鳴のような呼吸を継ぎながら、そう言った。
馬鹿野郎だ、とエレンは思った。思うだけではなく、口に出して怒鳴っていたような気もする。こいつは、座学では教官をうならせるほど頭が良いというのに、あきれるほどの馬鹿だ。そう思ったら、歯止めが利かなかった。ミカサが素早く間に割って入ってくれていなければ、頭に血が上った勢いに任せて、怪我人の胸倉を掴み上げるくらいのことは、してしまったかも知れない。あれは、自分も馬鹿だったと、一応反省している。
後から冷静になって考えてみれば、エレンも少しだけ、彼の気持ちが分かるような気がした。アルミンだって、エレンと同じ志を抱いた、一人の兵士だ。いじめっ子たちにいいようにされていた、幼い頃とは違う。体力がないからといって、特別に心配されたり、手を貸されたり、守られたりするのは、もう卒業だ、と思っているのだろう。
その親友の気持ちは、エレンも大事にしてやりたいと思う。エレンにしても、もし対人格闘訓練で、体格の優れた同期に手加減をされたら、猛然と抗議する。甘くみられるのはごめんなのだ。
今、ここでこうして訓練を受けているのは、何のためか? 巨人と戦う力を手に入れるためだ。そして、奴らは手加減などはしてくれない。生きるか、死ぬか。ただシンプルに、それだけなのだ。
だから、決して、自分自身や仲間に甘えることはしない。アルミンも、きっとそうなのだろう。ただ、エレンと違って、決意と現実の間に、困難な壁が立ちはだかっている。それで、無理をして強がりを言うようなことになってしまうのだ。一番、もどかしい思いをしているのは、アルミン自身に違いない。
「エレン、……もう、戻って。明日も早い、…」
音量を抑えた友人の台詞は、途中で途切れた。毛布に包まった、肩の辺りに、エレンの片手が、そっと置かれていた。毛布越しに、小さく、息を呑む音がする。
「エレ、」
「……こうしたら、ちょっとは安心だろ。父さんに教わったことがある。人間は、生き物の温度に触れないと、寂しくて、考えが悪い方にいって、不安になるんだって」
ぎし、と寝台が軋んで、密やかな音を立てる。膝でにじり寄ったエレンは、縮こまって丸まっている友人の背中と思しき辺りを、毛布の上から撫でてやった。
「俺は、お前みたいに頭が良くないから、間違ってるかも知れないけど……。確かに、巨人は脅威だ……だけど、人類も、すごいと思わないか」
「……ぁ、」
察しの良いアルミンは、エレンが何を言わんとしているのか、もう理解してしまったらしい。それでも、エレンは、はっきりと言い聞かせるように、言葉を紡ぐ。
「あいつらの弱点が分かっているなんて、すごいことじゃないか。人類は、ただ蹂躙されるばかりの獲物なんかじゃない。奴らに、立ち向かう力がある。それは、人類が過酷な戦いの中で勝ち得て、少しずつ、確実に積み上げてきた戦果だ……俺たちは、その最前線にいる。最新鋭の武器、研究し尽くされた戦術、蓄えられた知識、有能な人材……すべてが揃っている。俺たちは、史上、最も力ある兵士だ!」
力強く、友人の肩を叩いて、エレンは言い切った。その声は、潜めていても、隠しおおせない強靭な意志と、滾る情熱に裏打ちされていた。もしも、ここが戦場であれば、それを耳にした者、誰しもの腕を力強く引き上げ、闘志を蘇らせ、今一度、地を踏みしめて立ち上がらせるであろう、烈しい力を秘めた声だった。
「……」
これで、少しは、親友の不安を紛らわせることが出来ただろうか。背中を撫でてやりながら、エレンはアルミンの反応を窺った。
正直なところ、今日の講義は、エレンにとっても、少なからぬショックをもたらした。無理かも知れない、という思いが、ちらりと頭の片隅を過ぎらなかったといえば嘘になる。圧倒的な力の差を見せつけられて、それからすぐさま、ポジティブな思考に切り替えられる筈もない。
だから、今アルミンに語ったことは、エレン自身、己を鼓舞するためという意図もあった。こんなときだからこそ、人類の力のほどを、信じなくてはならないと思った。勝利を信じて、戦う。自分たちは、ただそれだけだと思った。
エレンは、何も、新しいことを言ったのではない。人類がいかにして巨人に対抗してきたか、その戦いの歴史は、アルミンにしても重々承知している筈だ。今更、エレンに諭されるまでもない。巨人の生態、対抗手段の開発の歴史、有効な攻撃方法、技術革新。それらの本に記された知識を、アルミンは同期の誰より豊富に、精確に、頭の中に蓄えている。その彼が、総合的に巨人と人類の戦力を比較検討した結果、不安に震えているのだ。おそらくは、知識があればあるほどに、楽観視は出来なくなっていくのだろう。安心出来る材料を探して資料にあたるのに、逆に、見つかるのは過酷な事実ばかりで、ますます道が閉ざされていく──それは、なんと恐ろしいことだろうか。論理的弁舌で、彼の不安を和らげてやることは、エレンには出来ない。
だから、自分に出来る方法で、今だけでも、親友を安堵させてやりたかった。それが、触れることと、話すことだった。隣に自分がいることを、一番伝わる方法で、伝えたいと思った。
アルミンはいつも、エレンを見つけると、どこかほっとした表情を浮かべる。誰かに絡まれて困っている、というときだけではなく、たとえば別々の班で行動をしているときや、他の仲間と談笑しているときでも、そうだ。エレンとミカサに対してのみ見せる、無防備な表情がある。
長い付き合いならではの気安さというのも、勿論あるのだろうが、エレンとしては、自分が頼りにされている証であるように感じられて、少しくすぐったい。もしも、自分がいることで、アルミンが安心するというのならば、エレンはいくらでも、傍にいてやりたかった。大切な親友のために、自分の出来ることをするのは、当然だと思った。
エレン、とくぐもった声が聞こえた。沈黙を守っていたアルミンが、友人の名を呼んだのだ。声を聞き取りやすいように、エレンは、毛布に包まった友人に身を近づけた。半ば、覆い被さるような格好になる。
「どうした、アルミン?」
毛布から覗く金髪の辺りに、エレンは呼び掛けた。もぞもぞと動く気配があって、毛布が少しだけ捲れる。そこから、ぎこちなく伸ばされた手が、エレンの袖を摘んだ。
「ごめん……ありがとう」
声は、殆ど聞こえるか聞こえないかの、小さなものであった。それでも、エレンは聞き逃すことなく、微かな声を捉えた。声は、やはり、何かを堪えるように苦しげではあったが、最初に耳にしたそれとは、違って感じられた。今は、溢れ出すものを、静かに受け止めるような響きがあった。
ああ、良かった、安心出来たのだろう、とエレンは推測した。ぎりぎりまで追い詰められた緊張状態では、涙も出ない。泣くことによって、人は、心身の痛みを和らげることが出来る。そのままでは、砕けて、潰れてしまいそうな、限界のところから、脱することが出来る。泣くことで、人は、自分を守っているのだ。過酷な試練を課す、残酷なこの世界への、ささやかな反逆なのだ。
だから、アルミンを泣かせて、エレンは満足だった。僅かなりとも、自分は友人の役に立ったらしいと分かって、一つ息を吐く。こちらまで、ほっと安堵の笑みがこぼれるようだった。
「泣き虫だな、アルミンは」
「っ…エレンに、言われたく、ない……」
「あぁ、そうかよ」
袖口に引っ掛けられた指を、上から包み込むように握る。アルミンの手は、彼のきめ細かく温和な気質を象徴するように、ふっくらとして柔らかく、温かい。
訓練を積む中で、余計な肉が削ぎ落とされて、手指は筋張り、掌の皮膚も硬化していくものだと信じていた彼は、期待を裏切っていつまでも子どもっぽい己の手を恥じているようであるが、エレンとしては、別に構わないんじゃないかと思う。自分とは違う手触りのアルミンの手は、触れていて純粋に、気持ちが良い。
いつの間にか、じゃれるように、互いの指を絡めていた。ささやかな温もりを、離してしまうのが、惜しまれた。繋いでいたかった。これは、とても大切なものなのだと感じた。大切に──守られなくては、いけない。
「なんか……眠くなっちゃったな」
ふあ、と欠伸を噛み殺して、エレンは呟いた。うん、と毛布の中から、控えめに応じる声がある。明日も早いのだ、お互い、早く寝てしまうのが良いだろう。
「……じゃあ、また明日。エレン」
「面倒だから、ここで寝させて貰うか」
アルミンの小さな声に被せて、エレンは言うと、相手の許可も得ずに、そのまま横になった。隣に横たわる友人を、毛布ごと抱き締めるように、腕を回す。決して大柄ではないエレンだが、アルミンくらいならば、丁度よく腕の中に収めてしまえる。
「エ、エレン……っ」
毛布の下で、もぞもぞと抵抗の気配があるが、腕を払いのけるまでには至らない。離して貰えないと悟ってか、すぐに大人しくなる。等身大の抱き枕を得て、エレンは満足げに目を閉じた。
「ああ、……なんか、落ち着く」
「……落ち着かないよ……」
お互いの呼吸を、すぐ傍に感じる。温度を、身体を感じる。ああ、ここにいるんだな、とエレンは思った。自分も、アルミンも、ここに生きている。うとうととして、鈍磨していく意識の中で、それだけを、はっきりと感じた。
「ん……」
腕の中の身体が動く気配があって、僅かに意識を引き戻される。逃げるつもりだろうかとエレンは思ったが、そうではなかった。邪魔だとでもいうように、アルミンは、包まっていた毛布を解いた。少しずつ、剥いでいくごとに、頭、首、肩と、あらわになっていく。
いつの間にか、二人の間を隔てていた毛布が取り払われて、直に抱き締めるような格好になっている。
「……アルミン? 冷えるだろ、被ってろよ」
「……」
毛布を手繰り寄せて、友人にかけてやろうとするエレンの腕を、アルミンは押し止めた。代わりに、ゆっくりと姿勢を動かして、エレンに向き合う格好を取る。
暗さと、近すぎる距離もあって、表情は分からない。無言のままに、相手の呼気を感じ取る。毛布越しには感じられなかった、互いの微かな身じろぎと、布擦れの音が、明瞭に伝達する。触れ合わせた箇所から、じわりと伝達する体温を、妙に熱く感じた。
「……はは、なんか、変な感じ──」
気まずい沈黙を追い払うように、エレンは笑い飛ばそうとした。本当だね、と小さく笑って返してくれることを期待したのだが、残念ながら、アルミンは何も反応をしてくれなかった。黙って、エレンに身を寄せている。どうしたのだろう、とエレンは友人が何か言ってくれるのを待つ。すぐ傍にある唇が、微かに開いて、震える。
「……エレン、──」
紡ぎ出された声は、殆ど吐息に溶けかけていた。こんな声で、名前を呼ばれたことが、未だかつてあっただろうか。何故だか、心臓が大きく跳ねた。首の辺りが、じわりと熱くなる。
本当に、変な感じだ──わけがわからない。うるさい鼓動に邪魔されて、アルミンの声を聞き逃さないよう、エレンは耳の神経を集中した。
「……ぁ──」
しかし、友人がいったい何を告げようとしていたのか、それは、結局分からずじまいだった。今まさに、それが発せられようとした瞬間に、けたたましく打ち鳴らされる警鐘が、少年たちの背骨に電撃を走らせたからだ。
「っ敵襲!!」
それを認識するや、少年たちは弾かれたように身を起こしていた。エレンとアルミンだけではない。それまで安らかに熟睡していた同期たちは、残らず跳ね起きていた。考えるより先に、身体に叩き込まれた反射でもって、枕元の装備に腕が伸びる。
寝惚けている者は、ひとりもいない。寝巻を脱ぎ捨て、ジャケットに袖を通す。暗闇であっても、靴を履くのに手間取ることはない。静寂の宿舎が、にわかに熱気と焦燥に満ちる。そこには、温かなまどろみの残滓は、一欠片も存在しなかった。
鐘が鳴ってから、一分後には、身支度を整えて訓練場に整列──訓練兵に課せられた、鉄の掟である。装備を固めた少年たちは、我先にと、宿舎から飛び出していった。
「行くぞ、アルミン!」
「あ、ああ!」
幼馴染を振り返りつつ、エレンもまた、薄闇の中を駆け出す。周囲では、慌ただしい足音に混じって、あちこちで混乱と不安の声が上がっている。
「奴ら、夜には活動しないんじゃ……」
「そんなこと、言ってる場合じゃねぇ!」
エレンは、がむしゃらに走った。
早鐘を打つ心臓は、熔解せんばかりに熱せられ、興奮と焦燥を乗せた血液が全身を駆け巡る。
まさか、奴が──!
ぎり、とエレンは唇を噛み締めた。既に、全身は臨戦態勢に入っている。奴を、奴らを、一匹残らず、駆逐する。それだけを胸に、これまで、訓練に励んできた。だが、今の自分に力が足りないことも、よく理解している。与えられる役割にしても、住民の避難誘導の補佐程度が、精々であろう。それでも、ひとりの兵士として、役割を全うする。覚悟はとうに、固めている。
「人類の……勝利のために!」
靄がかった月を仰いで、少年は吠えた。
「……そこまでえっ!」
六十秒を数えたところで、キース・シャーディス教官は、勢いよく手を振り上げて宣言した。
「ま、間に合った……」
「危なかったよな……」
ぎりぎりで滑り込んだ者たちは、息を切らしながら、額の汗を拭っている。訓練場に整列した少年兵たちは、皆一様に、不安と緊張で身を固くしていた。いったい何が始まるものかと、息を詰めて居並ぶ彼らを、教官はゆっくりと見渡した。
「これで全員、か」
固唾を呑んで状況の推移を見守る少年たちの視線を浴びながら、教官は何かを悟ったように、小さく頷く。そして、常日頃の訓練時と同様に、それ自体が衝撃波に似た、よく通る声を張り上げる。
「よろしい。ひとまず、合格としよう。解散!」
「か……解散…?」
思わぬ指示に、少年たちは戸惑いを隠せなかった。エレンにしても同じである。自分たちはこれから、戦闘支援に駆り出されるのではなかったのか? こんな夜中に叩き起こされて、何もないままに解散とは、いったい、どうしたわけだろうか。
「……抜き打ち検査だ」
隣のアルミンが、小さく呟く。
「どういうことだ?」
同期の中でも抜きん出て頭の回転が速い、この友人を、エレンは説明を求めるように見遣った。まだ少し息を切らしながらも、アルミンは簡潔に説明してくれた。
「何の準備も想定もない状況でこそ、冷静に、確実に行動出来るかどうか。……実際に、巨人との戦闘場面は、突発的なケースばかりだろう? 奇行種の件もある。戦場では、思い通りにいくことのほうが少ない……現場に応じた、柔軟な対応力は、兵士には不可欠な素養だ。たとえば、夜襲があったとして、一分以内に飛び出していけるかどうかは、その後の戦局を大きく左右するんじゃないかな」
それを、テストされた──エレンはようやく、状況に理解が追いつくのを感じた。身体はすっかり臨戦態勢に入っていたため、まるで肩透かしを食らったようで、足がふらつきかけた。この烈しく暴れる心臓を、いったいどうしてくれるのだ、とやり場のない怒りがこみ上げる。
否、怒りとは、少し違ったかも知れない。ちっとも鳴りやまない、うるさいほどの鼓動は、決して、気分の悪いものではなかったからだ。
そうだ──日々の訓練に精一杯で、こんな気持ちは、久しく感じる余裕がなかった。この自分を貫く、ただ一つの、行動原理や信念というよりずっとシンプルな、衝動。全身を熱し、どくどくと脈打つ鼓動を、エレンは逃すまいとするように、目を閉じて感じた。それから、深々と息を吐く。儀式めいたエレンの行動を、アルミンは隣で見守るように眺めていた。
幾度か深呼吸したところで、エレンは顔を上げる。
「……戻るか」
「うん」
見れば、周囲の仲間たちも、徐々に状況を理解したらしい。気持ち良く眠っていたところを、何の用もなく叩き起こされたことについて、おそらく胸の内に思うところはあれど、この場で口にする勇気のある者はいない。それぞれ、己の宿舎へと足を向ける。
連れ立って、先程駆けてきた道を引き返す途中、アルミンはぽつりと呟いた。
「多分……今後、演習にも、抜き打ちの要素が含まれるようになるんじゃないかな。情報が伏せられていたり、誤っていたり……厳密には、『抜き打ちがある』と分かっている時点で、『抜き打ち』は成立しなくなるけれど……」
「気を抜くな、覚悟しろ、ってことか」
胸の前で、エレンは軽く拳を打ち合わせる。言われるままに訓練をこなす日々を、物足りなく感じ始めていたところだった。奴らとの戦闘で、上官の言う通りにしていれば勝てる、などと甘い考えは、とうに抱いていない。己の判断で動き、成果を上げられる、ひとりの兵士になるのだ──一刻も早く。輝く緑瞳には、固い決意が宿っていた。それを横目で見ていたアルミンは、ゆっくりと頷く。
「そうだね。そう思えるなら、エレンはきっと、大丈夫」
アルミンのお墨付きか、そいつは心強い、とエレンは笑った。話しているうちに、寝床へ辿りつく。慌てて飛び出したがために、毛布や脱ぎ散らかした衣服が散乱し、ひどい有様である。悪態をつく同期たちと共に、エレンは無造作に寝床を整えていたが、ふと思うところあって、友人に向けて首を伸ばす。
「そういやアルミン、さっき、なんて言おうと、」
したんだ、と最後まで言い切ることは、出来なかった。エレンの問い掛けに、アルミンは小さく肩を跳ねると、慌てた様子で、声を被せてきたからだ。
「な──なんでも、ない……忘れて」
おやすみ、と短く言って、アルミンはエレンの返事も待たず、逃げるようにして寝床に入ってしまった。
「……なんなんだ?」
結局、警鐘が鳴る直前、互いの吐息の混じり合う距離で、アルミンが何を言いかけたのかは、分からずじまいだった。抜き打ち検査とやらも、なにもこんなときにやらなくても良いじゃないか、とエレンはやり場のない理不尽な思いを抱いた。
蘇るのは、あのとき、すぐ近くに感じたアルミンの温度と、息遣い、そして、最後に何か言い掛けて、エレンの名を呼んだ、密やかな声。いったい、何だったのか、気になって仕方がない。妙に鼓動が早まって、落ち着かない心地にさせられてしまう。しかも、いくら考えたところで、分かる筈もないのだから、始末に悪い。
くそ、と小さく悪態を吐く。それが耳に入ったのか、隣の布団の同期が、顔を覗かせる。
「どうしたよ、エレン?」
「……アルミンが分からない」
その答えが、予想していたものとは違ったのだろう。てっきり、教官に対する愚痴でも飛び出すものと期待していたのかも知れない。はあ、と同期はあきれたような声をもらした。
「お前ら、幼馴染なんだろ? いつも一緒にいるのに、分からないことなんて、あるのかよ」
確かに、幼い頃からずっと一緒の友人の考えが分からないとは、とエレンは少しばかり落ち込んだ。それを隠すように、無造作に毛布を被り直す。
「うるさい。俺はあいつほど頭が良くないんだ、しょうがない」
言っておきながら、その実、そういう問題ではない、というのは、エレンも承知の上であった。
アルミンが、エレンには想像もつかないような、独創的な考えを披露するのは、いつものことで、そういった意味では、エレンはあの親友の非凡な頭の中身などとうてい、理解出来ない。それでも、それ以外の面──彼が困っているとか、我慢しているとか、そういった変化は、逃さず気付いているつもりだった。
その上で、今夜のアルミンの様子は、エレンには何とも判断し難かった。初めて、友人のことが、分からない、と思った。
しかし──とはいえ。
忘れてくれと言ったアルミンの様子からするに、それは、分からないままのほうが、良いのかも知れない。それが彼の希望ならば、こちらとしても、あまり追及するのは悪いだろう。
もし何か言いたいことがあるならば、親友なのだ、いつでも、好きなときに言ってくれれば良いことだ。無理に聞き出すことはない。そうして、エレンはひとまず、己を納得させた。
ともかく、明日に備えて、今は眠ることにしよう。そう決めると、途端に緊張の糸が途切れたのか、エレンの意識は急速に沈んでいった。