クラウ -A-
■Armin
──なんとか、ごまかせたみたいだ。
訓練場から戻り、エレンの追及を振り切って再び毛布に包まったアルミンは、密かに溜息を吐いた。一時はもう駄目かと思ったが、危ういところで、うまくごまかすことが出来た。多少、不審に思われたとしても、エレンのことだ、明日にはもう気にしているまい。それよりも、抜き打ち訓練のことで、頭がいっぱいの筈だ。
まったく、慌ただしい夜だった──速まった鼓動が、未だに治まらない。
本当ならば、誰にも気付かれることのないまま、密かに初めて、密かに終える筈だったのだ。そのために、毛布に包まって、音を立てないようにしていた。それを、まさか、他でもないエレンに見つかるとは、なんという皮肉だっただろうか。小さく声を掛けられた瞬間、心臓が跳ねて、ああ、終わった、と思ったのを覚えている。今にも毛布が捲られて、言い訳のしようのない、この姿が晒されてしまうのだと思った。
しかし、エレンは、アルミンが毛布の中で何をしているのかまでは、分かっていないようだった。想像もつかないだろう──アルミン自身、まさか自分がこんな行為に及ぶものとは、ほんの数時間前まで、考えてもいなかったのだ。
皆の寝静まった頃を見計らって、おもむろに始めた、今宵の密やかな行為は、甘美であった。時折、夢想したことはあったが、そんな、口に出すのも憚られるような行為に及んだのは、これが初めてだった。最初は、勝手が分からずにおそるおそる、それから、次第に大胆に、アルミンは行為に溺れていた。こんなことをしてはいけない、駄目だ、と思うほどに、危うい高揚が背骨を這い上がる。腹の底から込み上げる安寧は、殺伐とした日常で、久しく、感じることのなかった、深い悦びだった。泣き出したくなるほどの感情の奔流に、アルミンは声を抑えるのが精一杯だった。
それから、欲望のままに行為に耽っている自分自身を嘆いて、アルミンは嗚咽をこぼした。厳しい訓練についていくだけで精一杯の落ちこぼれのくせに、こんな悦びだけは、浅ましく享受しようとする。そんな資格が、自分のどこにある、と思った。
──エレンならば、どうするだろう。アルミンがこんなことになっていると知ったら、何と言うだろう。思いを馳せかけて、アルミンは鼓動が速まるのを感じた。眩しく、強い、あの友人に打ち明ければ、きっと、あきれたり馬鹿にしたりなんてせずに、いつものように慰め、励ましてくれるのだろう。想像するだけで、身体が熱くなり、息苦しかった。
だから、その当人が、こちらの寝床までやってきたときには、心底驚いた。抑えきれなかった声を聞かれてしまったのは、とても恥ずかしかった。しかし、同時に、気付いて貰えて、嬉しかった──などというのは、あまりに倒錯的だろうか。しかし、それがアルミンの正直な実感だった。
胸の内で呼び掛けていた相手が、まるで、引き寄せられたかのように、やってくるなんて、話が出来過ぎている。けれど、エレンならば、そんなこともあるかも知れない、と思えるのだ。
昔から、そうだった。エレンはいつも、アルミンの異変に真っ先に気付いて、真摯に気遣ってくれる。そんな世話焼きな友人だから、大丈夫だと言ったところで、引き下がる筈がないというのは、アルミンも承知していた。それを口にすることで、彼がますます、こちらを放っておけなくなるのを知っていた。
毛布を剥ぎ取られれば、何もかもが晒されてしまうところであったが、幸い、エレンはそのような乱暴なことはしなかった。巨人を怖がるアルミンの言葉を信じて、安心させるように、優しく肩を撫でてくれた。大丈夫だ、人類は巨人なんかに負けない、といって、励ましてくれた。
──嘘なのに。
昼間の講義を思い出して泣いていたなんて、嘘だ。すらすらと、虚偽の理由を並べ立て、まるで、奴らの脅威に怯えているかのように装った。
ごまかしかたとしては、上等な部類であったと思う。誰しも、巨人は恐ろしい。それを、意気地なしだ、弱虫だといって詰れる人間は、ここには誰ひとりとしていない。期待通り、エレンは、友人の言葉をすっかり信じ込み、こちらに同情してくれた。
──なんて、罪深いことだろう。
本当は、そんなことでは、なかったのに。真実を打ち明けるのが怖い、というだけの理由で、アルミンは、吐いてはならない嘘を吐いたのだ。
こんな嘘吐き相手にも、エレンは優しくしてくれる。それが、温かくて、痛くてならなかった。絡めた指先から伝わる、彼の惜しみない優しさに、アルミンはただ、涙を落とすことしか出来なかった。
毛布ごと抱き寄せられれば、もう、隠しようがなかった。間近に感じる、彼の呼吸が、体温が、アルミンを苛む。
──エレンと、一緒に。
気遣われるほどに、その思いは、ますますアルミンの内に膨らみ、既に、理性で抑えられるものではなくなっていた。エレンだって、いけない、とアルミンは相手に責任の一端を押しつけた。
あんなふうに、触れるから。腕を回すから。身を寄せるから。だから、いけない。
ああまでされて、どうして、平常心を保っていられるだろうか。最早、アルミンは冷静な思考を紡げなくなっていた。身を守る毛布を、静かに下ろして、エレンに秘密を打ち明けようとした。何かに衝き動かされていたとしか、言いようがない。毛布の下のすべてを、見せたかった。そして、同じことを、二人でしたかった。
エレンなら、きっと、分かってくれる。そんな、勝手な思い込みを、疑おうともしなかった。
今にして思えば、実行に移す前に邪魔が入って、本当に良かった。あのタイミングで、抜き打ちの訓練があったのは、幸運であったとしか言いようがない。もしも、あのまま、何事もなければ、その場の雰囲気に流されて、何を仕出かしてしまったか分からない。
あのときの自分は、どうかしていた。少し身を寄り添っただけで、親友に対して、そんな意図を抱いてしまうなんて──アルミンは胸が潰れそうだった。
エレンは優しいから、きっと、真実を知っても、こちらを責めなかっただろうし、誘えば、乗ってくれたことだろうと思う。アルミンが言うなら、といって、エレンはいつも、こちらの提案を聞いてくれる。多少、躊躇われることであっても、最終的には、一歩を踏み出してくれる。二人の間には、それだけの信頼関係が結ばれている。
ただ、そうしたとして──秘密を共有し、二人して一線を越えてしまえば、これまで通りとは、いかないだろう。確実に、幼馴染の関係は、変わってしまうだろう。そうしたら、もう、幼い日の無邪気な思い出は、取り戻せない。失われた故郷と、同じように。あの頃には──戻れない。
結果的には、そうしてエレンを失わずに済んで、本当に良かったとアルミンは思う。一時の感情に流されて、取り返しのつかないことをするところであった。
こんな思いに苛まれるのは、自分だけで十分だ。あの、強く、優しく、輝かしく、まっすぐに前だけを見つめている、自慢の友人を、こんなことで煩わせてはいけない。今宵の一件は、自分ひとりで、抱えていく。
心配を掛けたこと、嘘を吐いたことへの、それが、せめてもの贖いだ──ぐ、とアルミンは唇を噛み締めた。
エレン、と胸の内で、大切な友人の名を呼ぶ。こみ上げる、やるせない思いを堪えて、アルミンは毛布を手繰りよせた。どうしたら、この浮ついた熱を鎮められるのか、分からなかった。
──赦されることは、ないだろう。
罪の証が、布団の中に、転がっている。そっと手を伸ばして、アルミンはそれを拾い上げた。鼻を寄せれば、ほのかに甘酸っぱい香りがする──それは、一切れのパンだった。内側まで硬く引き締まり、しっかりと焼き上げられた、素朴なライ麦パン。その、食べかけの切れ端だ。
本来であれば、定められた食事の時間に、規定の量が配布され、その場で残さず食すべきものである。それが何故、こんなところに存在しているのか。厳しく管理統率されるべき、下っ端の訓練兵が、かような規律違反を犯したとあれば、厳罰は免れ得ない。分かっていながら、これをここへ持ち込んだのは、他ならぬアルミン自身だ。ぎゅ、と目を瞑って、懺悔する。
──盗んだパンを、夜中に隠れて、食べるなんて。