クラウ -A-








そこで警鐘が鳴らなければ、いったい、どういうことになっていただろうか。闇の中で過ごした濃密な時間を回想して、アルミンは嘆息した。
あのとき、アルミンは殆ど、エレンに全てを打ち明けようとしかけていた。今からでも、彼に、残りのパンを差し出そうとしていた。
そうしたら、どれだけ楽になれただろう。
きっとエレンは、アルミンの望むようにしてくれた筈だ。彼の優しい慰めの声を聞きながら、その強くて温かな腕に抱かれながら、アルミンは腹を満たして、安寧の内に、眠ることが出来ただろう。
しかし、実際には、そうはならなかった。淡い夢は、夜の静寂とともに、警鐘によって引き裂かれた。手の中に残ったのは、食べ掛けのパンだけだ。先ほどまで、肌で感じていた体温も、息遣いも、腕の重さも、とうにかき消えて、感じられない。
それが、アルミンは辛くはなかった。むしろ、こうなって良かったとさえ思う。エレンに打ち明けることなく、パンを分け合うことなく済んで、本当に良かった。
二人で半分こだなんて──その展開を想像して、アルミンは自嘲気味に笑った。そこにあるのは、子どもらしい可愛らしさなどではない。どこまでも冷静な計算だ。なるほど、そうすれば、アルミンはパンを残りの半分も食べることが出来るし、罪悪感からも解放される。いやになるほど貪欲で、浅ましい考えではないか。
そんなかたちで、エレンを利用しては、いけない。自分の都合で、友情を振り翳すなんて、間違っている。己の浅知恵を、アルミンは固く戒めた。
このパンの罪は、自分ひとりが、最後まで、引き受ける。そう、決意した。
手の中のものを、ぎゅっと握り締める。本来は、自分に与えられるべきではなかったものを、奪い取って食っている。そうすることを選択したのは、アルミン自身だ。他の誰の責任でもない。与えられたから、受け取るしかない、などという言い訳は、最早、通用しない。誰でもない、自分が、認めない。弱いから、施しを受けるしかないのだと、諦めた風情で頭を垂れたいとは、思わない。
自分で選んだ──自分で決めた。
弱いから、選ぶことも、決めることも出来ないなんて、諦めたくはなかった。

大切な友人に、隠し事は、出来れば、したくない。しかし、どうしても言えないことだってある。パンの一件を打ち明ければ、どうしてそんなことで泣いたり、嘘を吐いてごまかしたりしたのかという話になる。それは、自分がエレンを食いものにする化け物のようだと思ったからだと、説明しなくてはいけなくなる。優しい誰かから、手を差し伸べられ、何かを与えられるほどに、罪の意識に苛まれていたことを、告白しなくてはいけなくなる。
幼い頃から感じてきた、そんな引け目を、エレンにだけは、悟られてはいけなかった。彼にいつも助けられながら、それを、堪え難く感じていたなどと、どうして言えるだろうか。差し出された、その優しい手に縋る度に、エレンを喰らってしまう恐怖と、罪悪感に苛まれていたなどと、どうして言える。
それは、エレンの信念を踏み躙る行為だ。大切な友人であるアルミンのためを思えばこそ、エレンはそうして、手を差し伸べ続けてくれた。ありのままの本心を伝えれば、優しい彼は、きっと気に病む。たとえ、アルミンが勝手に、卑屈な思い込みに囚われていたせいだといっても、責任を感じずにはいられないだろう。そんな風に、エレンを悲しませたくはなかった。自分のせいで、これ以上、友人を煩わせてはいけないと思った。それが、せめて、助けられてばかりのちっぽけな自分に出来る、精一杯だと思った。
──それくらいのことは、しなくてはいけない。
弱さに甘えて、何も出来ないといって、もたれかかって、足手まといになるのは──死んでもごめんだった。
だから、これは、秘密にする。ずっと抱いていた、自罰意識も。今宵のエレンのおかげで、それが少し、変わったことも。
ささやかな秘密は、友人の庇護下から一歩踏み出すための、最初の小さな足掛かりだ。エレンはアルミンを守るためにいるのではないし、アルミンはエレンに守られるためにいるのではない。
そうではなく、生きる。
食って──生きるのだ。

──ああ、そうか。不意に、アルミンは、理解したような気がした。
生きるために喰らうのではなく、殺して食い散らかすために喰らう、巨人の姿に、人は恐怖し、嫌悪感を覚える。それは、生きることは喰らうことだという、壁の中では当たり前のルールを、奴らがあっさりと打ち砕き、蹂躙していくからだ。
生きることと、喰らうことは、分かち難く、密に結びついてあるべきだ。それが、人間だ。生きるためでもなしに喰らう、巨人とは違う。
それでは──と、アルミンはもう一つの段階へ、思いを馳せる。
──喰らうことなく、生きることは、どうなるだろうか。何も喰らわずに、生きることが、出来るとすれば。誰からも、いかなる施しも受けず、誰の力も借りず、誰の影響も受けず、誰と行動することもなく、誰にも記憶されずに、生きるとすれば。
それは──生きていると、いえるのか。
何も喰らうことがないとは、そういうことだ。一切の他者との、関係性の排除だ。
それもまた──同じように、ルールに背く行為ではないか。恐怖し、嫌悪すべき対象ではないか。
だから、自分たちは、喰らい、生きる。
アルミンにしても、エレンにしても、誰も、喰らうことなくして、生きてはいけない。アルミンが、エレンを食い物にしていたというのならば、エレンもまた、アルミンを喰っていたのだ。
外の世界を夢見ることを、エレンに教えたのはアルミンだ。あの禁書を、二人して紐解くことがなければ、彼は大多数の人々と同様、牙を抜かれた家畜の安寧に甘んじていたかも知れない。
アルミンの話を、エレンは馬鹿にすることも、気味悪がることもなく、まっすぐな瞳で聞いてくれた。もっと、もっと教えてくれといって、求めてくれた。決して世間に歓迎されず、ただ自分の内側だけで夢想し、完結するだけだと思っていた、アルミンの考えを、エレンが外へと引き出して、光を当て、輝かせてくれた。
自分の話したことを、エレンが吸収し、己のものとして発展させていく。それを、すぐ傍で見つめることが出来て、アルミンは嬉しかった。もっと、彼に与えたいと思った。自分の知る限りのことを、エレンと分かち合いたかった。
彼に話すことが出来るというだけで、読書の時間は、以前の何倍も刺激的になった。祖父の目を盗んでは、外界に関する書物を読みあさった。人類はいずれ外へ向かうべきだという考えを、他人に表明するのも、躊躇わなくなった。異端者と罵られ、不当な暴力を受けようとも、決して、持論を曲げるつもりはなかった。
エレンが、いるから。彼に、話したいことが、まだ、たくさんあるから。未だ見ぬ書物の中に、世界の中に、それは、きっと無数に眠っているのだから。それを、ひとつひとつ、丁寧に拾い上げて、彼と一緒に眺めたいのだ。
──思い出した。確かに、そうだった。自分からは何も与えることが出来ず、ただ、与えられたものを貪るばかりなのだと、思い込んでしまっていたから、見えなかった。
差し出せるだけのものを差し出して、相手を想う。大切なものを分け与え、相手の喜ぶ姿に、自分も喜ぶ。当たり前のことだった──当たり前にして、知っていた。大切な人に、そうすることを、もうずっと前から、知っていた。
いつもそうして、アルミンは、エレンに与えていたのだ。そして、エレンから、与えられていた。決して、一方的な関係ではない。お互いを、お互いの中に取り込んで、そうして二人、生きていた──今も、生きている。
生きることは、喰らうことだ。
生きるものは、喰らうべきだ。
喰うものであり、喰われるものでありべきだ。
それが、自分であり、自分たちだ。諦念ではない。傲慢でもない。ただ、そういうものとして、存在している──生きている。

静寂の中に、確かに息づく鼓動を感じる。己の指先を、アルミンは胸元で小さく握った。
あのとき、絡めた指の温かさを、間近に感じた呼吸と鼓動を、思い返す。一時も休むことなく動き続ける、この身体は、同じように動く身体との触れ合いを渇望する。人の温もりに触れなければ、人は不安になって、おかしくなってしまうのだと、エレンは言っていた。生きるものに触れ、生きるものを喰らうことで、初めて、確かに自分を認識出来る。生きるものに、なることが出来る。
彼も、自分も、生きている。最後に残ったのは、その実感だけだった。その実感のためにこそ、自分は生き、そして──喰らう。

手の中のパンは、石のように硬く、しかし、確かな温もりをはらんでいた。
その、最後の一欠片を、アルミンは、そっと口に押し込んだ。




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アニメ版におけるおじいちゃんの存在感そしてパンの大切さに全力で泣かされました

2013.6.17

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