クラウ -A-








それをアルミンに分けてくれたのは、いつも食べ物のことばかりを口にしている、あの陽気な少女であった。間もなく消灯時間という頃、また厨房から食料をくすねてきたらしい彼女は、宿舎へ向かう途中のアルミンを捕まえると、
「アルミンは細すぎですよー。もっと、ちゃんと食べないと。はい、半分どうぞ!」
と、気前よく戦利品を分け与えてくれたのだった。別に、物欲しげな目を向けていたつもりもなかったアルミンは、思わぬ展開に戸惑いながらも、押しつけられたものを受け取ってしまった。人が折角、くれると言っているものを、無下にするのは申し訳ない。また、サシャに限って、恩を売ろうだのといった魂胆はないだろう。純粋な厚意であると信じたい。
受け取ったパンは、これから教官の夜食にでも提供される予定であったのだろうか、ほのかに温かい。微かに鼻をくすぐる、穀物由来の甘酸っぱい芳香に、アルミンは小さく喉を鳴らした。
「さて、次はクリスタに分けてあげますよー」
意気込むと、サシャは軽やかな足取りで、己の宿舎へと戻っていった。どうやら、彼女からみて、小食と思われる人間に対して、施しを与えるという慈善活動中らしい。名前の出たもう一人──土埃と血と汗の世界には、およそ似つかわしくない育ちの良さを窺わせ、その容姿の可憐さと、慈愛に満ちた高貴な人格から、一種の崇拝対象となっている、小柄な少女。彼女と自分が、サシャの中で同列に扱われているらしいというのは、アルミンとしては思うところがないでもなかったが、相手に悪気がないことは分かっている。戦利品片手に元気良く駆けていく背中に、自然と微笑ましい思いを抱きかけたところで、アルミンははっと気付いて、パンを服の下に隠した。
厳密に規定された食事の時間以外に、食物を口にすることは、原則として禁じられている。定められた時間に、定められた分量だけ、定められた食物を摂取することが、訓練兵の望ましい生活態度の基本である。個人が勝手に食料を備蓄することは、私有財産の概念に通じ、兵の士気に悪影響をもたらす。ゆえに、上官に露見すれば、厳罰に処されることとなる。
食事も睡眠も、個人の自由にはならず、あくまでも組織の管理下にあり、命令の下に享受するもの──その原則を心身に叩き込まれることで、子どもたちは、滅私奉公の兵士へと、立派に成長を遂げるのである。
まして、このパンは盗品だ。決して、教官に見咎められるわけにはいかない。無理やり押し付けられただけだ、という言い訳が通用しないことは、アルミンも承知している。連帯責任の名のもとに、非情なる審判が待っていることは、疑いようがない。罰として食事を抜かれることは、まだ我慢出来るとしても、5時間の持久走に耐えられる自信はなかった。
──隠さなければ。
決意すると、アルミンは努めて平静な足取りでもって、宿舎へと向かった。そう長くない距離が、今ばかりはもどかしく感じられる。いつ誰にばれてしまうか、気が気ではない。中までしっかりと生地の詰まったパンの、ずしりとした重みは、まるで石を抱えて歩いているかのようだった。
幸い、目立たないように背を丸めて、通路の隅を歩く大人しい少年を、誰も気に留めることはなかった。無事に目的地に到着し、自分の寝床の中にそれを隠して、ひとまず、アルミンは安堵の息を吐いたのだった。

「……どうするかな……」
消灯後、布団の中で、パンと向き合いながら、アルミンは思い悩んだ。この小さな出来事を、少年は、誰にも打ち明けることが出来なかった。
一番の親友にさえ、黙っていることを選択したのは、彼を面倒事に巻き込みたくなかったからだ。もしも罪が発覚しても、裁かれるのは自分だけでいい、とアルミンは思った。共犯者を増やすことで、自分の罪を軽くしたいとは思わなかったし、より現実的にいえば、誰かに話せばそれだけ、教官の耳に入りやすくなるだろうという危惧もあった。そんな、姑息な計算を働かせることが出来るくらいの頭はある。リスクを冒してまで、これを分け与えてくれた少女に迷惑を掛けないためにも、事は慎重に運ばねばならない。
捨てる、という選択肢は、もとより存在しなかった。市民の税で食わせて貰っている身分にありながら、貴重な食料を無駄にするなど、考えられないことだ。訓練兵たちの日々の食事は、成長期の肉体に必要な栄養バランスを辛うじて満たしてはいるものの、分量としては、腹一杯というにはほど遠い。中まで硬く詰まった小さなライ麦パンと、豆ばかりの質素なスープのありがたみを、少年たちは身体で知っている。
それまで、日々、当たり前のようにして食していたパンの意味は、「あの日」を境に変わった。バターをふんだんに用い、甘ったるい匂いを漂わせ、空気をたっぷりと含んだ柔らかな生地の、軽やかでとろけるような舌触りのパンは、今や遠い夢の世界の産物である。一日に一個の、干からびた酸っぱいパン切れで、倒れる寸前まで働かされ続けた、開拓地での日々は、未だ記憶に新しい。思い出すのは、あの寒さとひもじさ、それでも生き続けたがる、身体の叫び──手の中のパンを、アルミンはそっと握り直した。

そもそも、今日のアルミンは食欲がなく、夕食も普段の半分程度しか、摂ることが出来なかった。巨人の生態に関する、昼間の講義は、少年の繊細な神経に、それだけの重苦しい負荷を掛けていた。
自分もいずれ立体機動を自在に操り、刃を振り翳して巨人を狩れるのだという、期待に満ちた高揚感。そして同時に、果たして実際、奴らの脅威を前にして、自分にどれほどの働きが出来るだろうかという、竦み上がるような不安感。決着のつく筈もない、両者のせめぎ合いが、アルミンを疲弊させていた。
隣で食事を口に運んでいたエレンは、そんな友人の様子にすぐに気付いて、声を掛けてくる。
「どうした、アルミン? 冷めちゃうぞ」
「う、うん……」
促されるままに、アルミンは、のろのろとスプーンを手に取った。時間を稼ぐように、スープをかき混ぜる。演習後の疲労と空腹を抱えた普段であれば、立ち昇る温かな芳香に誘われて、もどかしく口に運ぶのに、今ばかりは、驚くほどに指が重かった。無意味に水面をかき混ぜていると、豆や根菜の切れ端が、浮かび上がっては沈んでいく。それらが、なにか違うもののように見えて、アルミンは込み上げるものを堪えた。
この、ちっぽけな欠片を、スプーンで掬って口に流し込むのは、誰にとっても、容易なことだ。するりと逃げてしまうかも知れないが、追い詰めて掬い上げれば、後は咀嚼するだけである。二、三度噛み砕けば、嚥下するのに、何も、難しいことはない。喉につかえることもなく、簡単に滑り落ちていくことだろう。
──巨人にとっての、人間が、そうであるように。
そこまで考えたら、もう、無理だった。辛うじてスプーンに絡んでいた指が外れ、からん、と食器が小さな音を立てる。もう一度手に取ろうとはせずに、アルミンは力なくうなだれた。
「ごめん、食欲ない……良かったら、貰ってくれないかな」
「え? あぁ…良いけど。……大丈夫か?」
声を潜めて、こちらを案じてくるエレンに、アルミンは、大丈夫だ、と無理やり微笑んでみせた。きっと、ぎこちなくなってしまっただろうことは、自覚している。しかし、エレンは、それ以上、追及しようとはしなかった。
大丈夫だという言葉を、信じたわけではあるまいが、彼も昼間の講義を、共に並んで受けていたのだ。アルミンが何を考えているか、大体のところを察したのだろう。黙って、友人の食器を手元に引き寄せる。
「……」
二人の遣り取りを、向かいに座したミカサは、パンを千切りながら、じっと見つめていた。何を思ったか、彼女はおもむろに、自分のスープ皿を差し出す。
「エレン。良かったら、私のも」
「そんなに要らねぇよ。むしろ、お前も手伝え」
言って、エレンは手早く、アルミンの食器の中身を掬い、自分とミカサの皿に移した。すべてを取り分けることはせずに、半分ほどの量を残したのは、これだけは食っておけ、という意味だろうか。侘しい内容になったスープ皿を、エレンはアルミンの目の前に置いた。パンも同様に、3つに割いて分け合った。何も訊かずにそうしてくれる幼馴染の存在は、アルミンにはこの上なく、心強い味方だった。
「……ありがとう」
「ん」
短い遣り取りを交わして、再び黙々と、皿に向き合う。相変わらず食欲はなかったが、アルミンは己を叱咤して、スプーンを手にした。これ以上、友人を頼るわけにはいかなかった。
エレンにしても、内心では、巨人の恐ろしさを痛感しているのに違いない。その上で、脅威に怯えるのではなく、上手く怒りに変換して、己の原動力にしているようだった。険しい表情で、無造作に食事を喉に流し込んでいくエレンの横顔を、アルミンは暫し、茫として眺めた。
身を灼き尽くすばかりの闘争の意思を宿してなお、痛々しいまでに曇りなく輝く緑瞳は、なんて美しいだろうと思った。そして、なんて遠いだろう、と思った。さりげなく、アルミンは友人から視線を外した。
普段の半分の量の食事も、呑み込むのには、それなりに苦労を要した。味わいもせずに、苦行のように、胃に詰め込む。味わうもなにも、もとより、食事に大した味は付いていないのだが──それは、一日の終わりのささやかな楽しみでも何でもなく、ただ、義務として行なうだけの作業でしかなかった。

そのときは、勿論、空腹など感じなかったし、感じないままに眠りに就くことだろうと思っていた。一晩明ければ、少しは食欲が回復していると良いのだが、と案じてさえいた。ただでさえ、他人より体格的に劣る自分にとって、適切な食事と訓練で地道に体力をつけていくことは、一つの義務であると、アルミンは承知していた。気が進まないからといって、またエレンやミカサに処理を任せるわけにはいかない。無理やりにでも、喉に流し込まねばならないだろう。思うと、なんとも気が重かった。
しかし、その心配は無用であった。たとえ、そういう気分でなかったとしても、時間が経てば、腹は減る。自然の摂理には、そうそう抗えるものではない。夕食から数時間後、アルミンの身体は、早くも、何か胃に入れるものを欲していた。本人が気付くより先に、いったいどうしたわけか、それを察知し、食べ物を分け与えてくれたサシャの動物的な勘の良さには、驚嘆するばかりである。今回に限っては、肉片ではなく、パンという選択も、彼女なりの気遣いであったのかも知れない。胸の内で、密かに感謝しておいた。
そうしたわけで──腹が減っている。小一時間、睨み合い続けたパンを前に、アルミンは、こくりと喉を鳴らした。
さあ──喰らえ。
そんな声が、聞こえた気がした。熱く、脈打つ鼓動を感じる。これ以上は、堪えられそうにない。震える唇を開いて、少年は、それを口に含んだ。
周囲に漏れ聞こえないよう、気を付けながら、アルミンはパンを咀嚼した。夕食の席で出されたものには、口をつける気も起こらず、味のしない塊を無理やり喉に押し込んでいたというのに、暗闇の中で食べるそれは、驚くほどに美味かった。
視覚が利かず、頼りになるのは、掌と鼻先、舌の感覚だけだ。硬く、ざらざらとした表面の舌触りと、噛み応えのある内側の生地。噛み締めるほどに、穀物の甘みが滲み出る、素朴な味わい。鼻腔に広がる、慣れ親しんだ甘酸っぱい香り。
気付けば、夢中になって、齧りついていた。これが、盗んだものであること、本来ならば罰せられてしかるべき行為に耽っていることは、頭の片隅に追いやられていた。ただ、味わうことだけが、すべてだった。感覚のすべてが、それを追い求めていた。外界から隔絶された毛布の中には、喰うものと喰われるもの、その二つしか、存在しなかった。

「……、っふ…」
いつしか、アルミンは涙を落としていた。空腹が満たされていく、抗い難い原初的な多幸感に酔いしれたことだけが理由ではない。身体を覆い尽くしていく甘さの中に、微かな痛みが、少年の胸を噛んでいた。
──さあ、食べなさい。
温かく、慈愛に満ちた声だった。疲れきって腹を減らし、寒さに震える子どもを、いつも優しく包み込んでくれた声だ。それも、今となっては、二度と聞くことが出来ない。
開拓地で配給されたパンの、自分の分を削ってまで、幼い孫に与えてくれた、祖父の優しい手を思い出す。かつて故郷で穏やかに暮らしていたときから、同年代の子どもたちの中でも、小柄で貧弱であったアルミンを、彼は心配して、いつも食事の中から、栄養価の高い部分を優先して分け与えてくれていた。帰る家を失い、小さなパン一つで食い繋ぐばかりの生活となっても、それは変わらなかった。
大量の避難民に与えられる食料といえば、配給の効率という観点から、数か月の保存が利き、腹もちの良い、ライ麦パンばかりであった。末端の開拓民の手元に届く頃には、すっかり日数が経って古び、表面のみならず、中身までも硬く乾燥しきっている。そのままでは、とても噛み切れず、子どもの柔らかな口腔は簡単に傷ついてしまう。水分を含ませて柔らかくすると、多少は食べやすいが、最早、一皿のスープも、一杯のワインも、手には入らぬ状況であった。
祖父はパンを千切っては、欠けたコップの水に浸して、アルミンに手渡した。薄暗い納屋の隅で、少年は冷たく湿ったパンを口にした。噛み締める度、まるで布が絞られるように、微かに苦みを帯びた水分が、生地から滲み出してくる。雑穀混じりの、じゃりじゃりとした砂のような食感を、いくら咀嚼したところで、感じるられるのは、鼻に抜ける独特の酸味だけだった。
俯いて咀嚼を続ける、少年の瞳から、知らず、涙が溢れ出す。
──ああ、ほら、泣くな。どうしたんだ、アルミン。
それを、祖父は、ひもじさと惨めさのゆえであると解釈したことだろう。帰れぬ家を思い、穏やかな暮らしを懐かしんで、現状との落差に打ちひしがれているものと思っただろう。しかし、実際は、そうではない。
少年は、悟ったのだ。生きることは、食べることは、──他の命を奪うことだと。
それは、食料となるべく、収穫された農作物や、狩られた鳥獣、解体された家畜のみを指すのではない。それらの命に対する感謝と畏敬の念は、この閉ざされた世界に生きる者であれば、誰もが胸に抱いていることだろう。改めて指摘されるまでもない。だから、幼い少年の胸を衝いたのは、もっと違う、一つの真実であった。
生きることは、食べることは──他の『誰か』の命を奪うことだ。他人の命を、喰らうことだ。
自分が食べるということは、同時に、他の誰かが、食べられないということを意味する。両者は、表裏一体だ。この壁の中で生産供給される食物が有限である以上、そういうことになる。
潤んで滲む視界で、アルミンは、手の中のパンを見つめた。自分が今、口にしているもの、それを、他の誰かは、食べられなかった。祖父も、エレンも、ミカサも、食べられなかった。誰かの食物を奪って、自分は食べている。
それは、すなわち、誰かの命を奪って、生きているということだ。食べ物を譲り受けるとき、喰っているのは、その食べ物だけではない。施してくれた、相手の生命までも、喰らっているのだ。
誰かの──否。曖昧な言葉で一般化し、ごまかすことは出来ない。アルミンは、その相手の顔も名前も、よく知っている。自分が、今まさに喰らっている相手を、よく知っている。
──大好きな祖父の、命を奪って、生きている。
それを、幼い少年は、思い知らされた。そうしなくては、生きられない、ちっぽけな自分を知った。
己の無力が、悔しかった。なにより、泣きながら、それでも腹が減って、無心でパンに齧りついてしまう自分を、嫌悪した。腹が満たされて、嬉しいと感じてしまう自分を、憎悪した。頭を撫でてくれる大きな手が、いっそうに辛かった。こんなに優しくて温かい手から、奪い取って食べる、自分はなんて、醜悪だろうかと思った。
──美味しいかい。
愛しげに目を細めて、自ら名付けた孫の姿を見守りながら、祖父は問う。ざらついて頬の内側を擦る硬いパンを、懸命に咀嚼しながら、アルミンは何度も頷いた。それ以外に、与えられたものに報いる術を知らなかった。ちゃんと食べているところを見せて、祖父を少しでも安心させてやることくらいしか、自分には出来ない。あまりに無力で、滑稽だと思った。
冷たく濡れたパンを噛み締める度に、繰り返し、一つの願いを抱いた。どうか、こんなことをしなくても、生きていけますように。どこへともなく、捧げた祈りだった。与えられる側ではなくて、与える側になりたかった。強くなれば、それが出来る筈だと、信じていた。大きくなって、武器を持って、強くなれば、今度は自分の方が、大切な家族を、きっと守ってやれる。それだけを支えに、日々をやり過ごしていた。
しかし、その願いが果たされるまで、世界は待ってはくれなかった。結局、祖父はその命でもって、アルミンを生かした。祖父だけではない。ウォール・マリア奪還作戦に動員された25万人の人々が、他の誰かを生かすために、その命を散らした。無力な少年は、そうして、またも生かされた。
最後まで、与えられる一方であったことが悔しくて、哀しくて、アルミンは膝を抱えて泣いていた。ただ一つだけ手元に残された、祖父のくたびれた帽子を、きつく握り締めた。
どうして、自分は生かされたのだろう。とうとう祖父を犠牲にして生き延びた、この命を、いったいこれから、どうすればいい。どうすれば、与えられたものに報いることが出来る。どうすれば、奪い取ったものを、贖える。
考えて、考えて、考えた。考えることだけは、得意だった。考えることしか、出来なかった。
祖父のことを。友人のことを。人々のことを。巨人のことを。自分のことを。考えた。
そして──心臓を、捧げることにしたのだ。

あの頃と、今でも自分は、何も変わっていないとアルミンは思う。相変わらず、自分は貧弱な子どものままだ。相変わらず、誰かの食べるべきであったものを、横取りして生きている。嗚咽を堪えながら、塩味のパンを、アルミンは丁寧に咀嚼した。
以前に少しだけ、自分の思いを、エレンに話してみたことがある。そうしたら、余計に心配されてしまった。そんなこと、気にしなくていいんだ、と慰められ、逆に励まされてしまった。
「今まで貰ってきた分は、これから、死ぬほど働いて、何倍にもして、返せばいい」
エレンは当たり前のことのようにそう言って、アルミンの肩を力強く叩いた。自分には、自分たちには、絶対にそれが出来ると、信じて疑わない瞳だった。更に力づけるように、エレンは続ける。
「お前が元気に、メシ食ってれば、じいさんには一番、嬉しいことなんじゃないか」
「……そう、だね」
親友の言葉に、アルミンは緩慢に頷いた。そのときは、それで話が終わった。おそらく、エレンの側は、そんな遣り取りがあったことも、覚えてはいまい。
確かに、エレンの言う通り、自分は思い詰めすぎる面があると、アルミンは自覚している。そんなことを、いちいち気にしていたら、生きてはいけない、というのも分かる。いくら悩んだところで、抗ってみせたところで、何が出来るわけでもない。変わらずに、繰り返し繰り返し、奪い、喰らい、生きていくことに、変わりは無いのだから。
ただ──アルミンは思う。考えたところで仕方が無いから、考えなくて良いものであるとは、思わない。たとえ、誰も気に留めないことだとしても、自分だけは、それを、気にしなくてはいけないのだと思う。弱く、ちっぽけで、誰かの力を借りなければ生きられなかった、自分だけは。
そうでなければ──報われない。喰われていった人々が、報われない。
エレンは気付いているだろうか。その考えは、他ならぬエレン自身が、強く抱いている信念であると。彼が調査兵団を志すのは、自分が外の世界に出たいから、巨人どもに復讐したいから、というだけが理由ではない。受け継ぎたい、とエレンは言う。受け継がなければいけない──もしも、他に誰もいないとしても、自分が受け継ぐ。
人類の反撃の歴史を。斃れた人々の切望を。長きにわたり連綿と紡がれた物語を背負い、その最前線、集約された切っ先に、立つ覚悟があると言い切れる人間が、どれだけいるだろう。エレンには、それがある。
強靭な意志を有し、努力によって着実に成長を続けるエレンと、何をやっても人並み以下の自分とでは、まったく方向性が異なると、アルミンは承知している。しかし、根幹にあるものだけは、同じなのだ。
過去を忘れて、生きることなんて、出来ない。
失われた人々のことを、考えずに生きることなんて、出来ない。
心臓を捧げて、彼らに──報いねばならない。

「……」
また一口を齧りかけて、しかし、アルミンは、手の中のものから口を離した。半分ほど残ったパンを、茫として見つめる。
エレンならば、と思う。エレンならば、彼の言葉通り、これまでに与えられたパンの分を、いずれその働きでもって、世の人々に還元することが出来るだろう。立体起動装置を自在に操り、巨人を鮮やかに駆逐する術を身につければ、それこそ、何倍にだって出来る筈だ。だから、彼が与えられたパンを喰うのは正しい。それは、彼の将来に対する、必要な投資なのだといえる。
翻って、自分の身を思うと、アルミンは胸が重苦しくなる。それは、明瞭なる罪悪感だ。喰らうばかりで、何の役にも立たない、自分自身への失望だ。いくら志を抱いていようとも、いったいどうすれば、与えられてきたものに報いることが出来る。力もないくせに、それを語るのは──ただの、言い訳ではなかろうか。こんなにも悩み、苦しんでいるのだから、赦して欲しいという、都合の良い身勝手な提案に過ぎないのではないか。
元気に食事をすることが、祖父には一番嬉しいことの筈だと、エレンは言った。かつて、祖父からパンを与えられたアルミンも、そう思っていた。しかし──本当に、そうなのだろうか。そんな、都合の良いことが、許されるのだろうか。ただ食べることしか、出来ないなんて──それは、あまりにも──
──ああ、駄目だ。
思い詰め過ぎると自覚したそばからこれだ、とアルミンは自嘲した。ひとりでいると、どうしても、こうなってしまう。エレンやミカサと行動を共にすることで、なんとか自分を調整し、均衡をとっているというのが、実際のところだ。自分自身の心さえ、ままならない──自分の中にしっかりと芯を持ったエレンとは、大違いだと、実感させられる。
こんなことを打ち明けたら、彼はどう思うだろう。また、慰めてくれるのだろうか。真摯な眼差しで、励ましてくれるのだろうか。
「……エレン、」
知らず、友人の名を呟いていた。そのときだった。
「……おい、どうした? 大丈夫か」
ごく間近に、密やかな声が聞こえて、アルミンはひくりと身を竦めた。まさか──否、そんな筈はない、と即座に否定する。幻聴だろうか? 声はごく小さかったが、親友のそれに似ているように聞こえた。彼のことを考えるあまり、ありもしない声を聞いてしまったのかも知れない。それ以外に、何が考えられるだろうか。こんな夜更けに、エレンがこちらの寝床にやって来る理由など、一つもないのだ。
それでも、息を潜めて気配を窺おうと試みるが、なにぶん、毛布越しではよく分からない。聞き間違いだ、そうに違いない──そう思ったところで、
「なあ、アルミン」
「っ……」
今度こそ、聞き間違いではなかった。先ほどよりも近くで、名前を呼ばれて、アルミンは小さく息を呑んだ。気付かれた──それも、他ならぬエレンに。一瞬、思考が真っ白に飛ぶ。次に、烈しく己を責めた。きっと、声が漏れ聞こえていたのだ。何故、もっと徹底的に音を消さなかったのか。食べることに夢中になって、その努力を怠ったのか。いつの間にか、気が緩んで、声を殺すことを忘れていたのではないか。エレンが起きるほどの、嗚咽をこぼしていたのではないか。
どんな風に聞こえただろう、何を思われただろう、怖い、恥ずかしい──このまま転げ回って、逃げ去りたい心地だった。
しかし、後悔したところで、既に遅い。こうなっては、逃げ場はない。真冬でもないのに、頭から厳重に毛布を被っているのだ、中で不審なことをしていると言っているようなものである。今にも毛布を剥ぎ取られ、己の所業がさらけ出される。こそこそ隠れてパンを齧る、みっともない姿を、エレンに、見られてしまう。
何をやっているんだと、きっと、あきれられるだろう。哀れまれるだろう。想像するだけで、涙が滲んだ。覚悟を決めて、アルミンはパンを抱きかかえた。
「……?」
しかし、予想したような衝撃は、いくら待っても、やってこなかった。むしろエレンは、どこか切迫した様子で、寒いのか、苦しいのか、と問うてくる。そこでアルミンは、どうやら自分は具合が悪いと思われているらしいということに思い至った。
考えてみれば、それはごく自然な反応である。毛布に包まって呻いている者がいれば、誰でもまず、体調不良を疑うだろう。中でパンを食べているという発想に至るのは、よほどの変人だ。そんな当たり前の視点さえ抜け落ちてしまうほどに、動揺していたらしいことを、アルミンは自覚した。自覚すると、少しだけ、冷静さを取り戻すことが出来た。
一方で、返事が無いことを案じてか、呼び掛けてくるエレンの声に、焦燥の色が混じる。
「待ってろ、すぐに教官に、」
「ちが、……ちがうよ、」
今にも、人を呼びに飛び出していきそうに勢い込んだエレンを、アルミンは辛うじて引き留めた。間違っても、教官を呼ばれるわけにはいかない。パンの残りは、まだ、この手の中にあるのだ。仮に、急いで呑み込んで証拠隠滅に成功したとしても、その後、教官相手にどのように状況説明が出来ようか。仮病の通じる相手ではない。下手をすれば、夜中に寝惚けて騒ぎを起こしたとして、アルミンのみならず、エレンまでも懲罰を受けることになるかも知れない。そうして、自分のために友人や教官に迷惑を掛けるのは、アルミンが最も避けたいことのひとつであった。
病気ではないから、大丈夫なのだと言って、アルミンはエレンの説得を試みた。しかし、またいつものように、無理をして虚勢を張っていると思われているのか、なかなか納得して貰えない。大丈夫だ、平気だと言葉を重ねるほどに、逆に、大丈夫ではなさそうに聞こえてしまう。なんという皮肉だろうか。いつもこうだ、とアルミンは胸の内で嘆いた。
それは、アルミンの言葉が、こうした場面においては、エレンにおよそ信用されていないということを意味する。本から得た外の世界の知識だの、対巨人戦術概論だのであれば、エレンは幼子のように素直に話を聞き、惜しみない尊敬の念を表し、すっかり信じ込んでしまうくせに、アルミン自身のこととなると、途端に態度が変わるのだ。
大丈夫だと言えば、大丈夫じゃないと言って食い下がり、放っておいてくれと言えば、決して傍を離れずに、放っておいてくれない。どうやらエレンは、アルミン自身よりも、アルミンをよく分かっているという自負があるらしい。確かに、本人よりも他人の目から見た方がよく分かることもある、というのも道理であるが、とはいえ、いかに自分が信用されていないかを、こうして度々思い知らされるのは、辛いものがある。
これでは本当に、ちょっと顔を見せてみろとでもいって、いつ毛布を剥ぎ取られるか、分かったものではない。危機は、まだ去っていないのだ。布一枚を隔てた、すぐそこに迫っている。いかにして、この状況を無理なく説明し、切り抜けるか──アルミンは思考を高速で回転させた。やがて、一つの結論に至ると、こくりと喉を鳴らす。
「ひ、昼間の講義を、思い出して……」
巨人の恐ろしさに怯え、震えていたことにする──それが、アルミンの辿り着いた結論だった。
少なくとも、夕食時には、それが原因で本当に食欲が失せていた。そのことは、隣にいたエレンが、よく知っている。それほどのショックを受けたのならば、眠る段になって、再び、恐怖が蘇ってきたとしても、おかしくはない筈だ。実際、パンの一件で気が紛れることがなければ、アルミンは引き続き巨人の恐怖に震えながら、一夜を明かしたかも知れない。これが一番、無理のない説明であるように思えた。
エレンは黙り込む。きっと、ありそうな話だと思って、神妙に聞いているのだろう。疑うことを知らない親友を、自分は、今まさに、騙している──彼の、巨人に対する憤怒と闘争の意思を、利用している。思うと、アルミンは心臓の辺りが痛んだ。上手く声が紡げずに、掠れてしまう。
「……あんな、奴らと、まともに戦えるのか、って…思ったら……」
喘ぐようにして声を絞り出しながら、アルミンは、現在進行形で取り返しのつかない過ちを犯しつつあることを、痛いほどに感じていた。最善策とは、必ずしも、道徳に適うものであるとは限らない。時に卑劣で、悲惨で、非情なものだ。分かっていて、アルミンは、それを選んだ。
巨人が恐ろしいなどと──真実を隠し、うまい言い逃れをするために、アルミンは、エレンの純粋なる信念を、闘志を、魂を、利用したのだ。それは、エレンだけではない、この壁の中で、巨人に脅かされながらも必死に生きる、すべての人々、そして、死んでいった人々に対する、重大な裏切りにほかならない。決して汚してはならないものを、汚してしまったのだ──ただ、隠したいという、自分ひとりの都合で。
優しく、温かく、大きかった、祖父の手を思い起こす。彼が最後に、頭を撫でてくれたときの、離れていった掌の重みと、温度を、覚えている。ごめんなさい、とアルミンは喉の奥で呻いた。こんな美しい思い出を、自分のような汚れた者が、抱いていてはいけないと思った。こんな自分は、エレンに優しい言葉なんて、掛けて貰ってはいけないのだと思った。
「……ごめん、心配掛けた……もう、大丈夫だから、」
放っておいて欲しい、とアルミンは途切れ途切れに告げた。これ以上、エレンに嘘を吐きたくはなかった。最低限、状況に説明をつけてみせたのだから、彼も納得した筈だ。何か言えば言うほどに、友人に余計な心配を掛けてしまうことは、分かっていた。吐いてしまった嘘は、取り返しがつかないが、せめて、傷の浅いうちに撤退することが、お互いにとって、望ましい。
どうか、離れて欲しい──アルミンは懸命に祈った。しかし、思いに反して、エレンは押し黙り、動こうとしない。大丈夫だ、というアルミンの言葉を、決して、そのままの意味で捉えてはいないのだろう。エレンの性格を思えば、ここで引き下がる可能性は無いに等しい。放っておいてくれ、と言ったところで、本当に放っておかれたことなど、これまでに一度もないのだ。それは、エレンのまっすぐな正義感と、情の篤さを意味していて、そんな風に大切に扱われているというのは、喜ぶべきことかも知れなかったが、今ばかりは、差し出されるものを、振り払いたかった。
いくら平気だと言っても、信じて貰えずに、逆に案じられてしまう、己の無力と、いかにも頼りない外見が、アルミンは情けなかった。どんな言葉を口にしても、どこか甘えるような響きになってしまう、高く澄んだ子どもっぽい声も、好きではなかった。
守られるべき弱者の記号を、全身で表現している自分が、周囲からそういうものとして扱われるのは、当たり前の道理だ。頭では分かっていても、その立場を受け容れることは、出来なかった。無力で臆病な自分を、決して、認めたくはなかった。そうして扱われることを、拒み続けてきた。
──否。
そうではない。拒み続けてきた──振りをしていただけだ。
どうして思うようにならないのか、こんな風にしか生きられない自分が、嫌だ、嫌だと言いながら、その実、そういう立場に甘んじているのは、他ならぬ己の咎であることを、アルミンは知っていた。忌むべきは、弱さを盾にして、無意識のうちに、浅ましい計算をして、友人の気を引こうとしている自分だった。彼に心配して貰えることを、どこかで嬉しく感じずにはいられない、その逃れ難い甘さに酔いつつある、自分自身だった。
──だから、怖い。
いったい、自分は本当は、何に震えていたのか。何に怯え、何を恐れていたのか。壁の外からやってくる異形の者なのか、それとも──本当に、恐れているのは──
手の中のパンの存在感が、急に、ありありと感じられた。かつて、祖父から与えられたように、今でも自分は、一番身近な相手から、与えられていることを痛感する。今、この瞬間にも、アルミンはエレンを──喰らっているのだ。
エレンは、考えてもいないだろう。こんな風に、弱々しく震えるアルミンが、エレンを喰らっているとは、思いもしないのだろう。もし、そんなことを口に出して言えば、まず間違いなく、頭は大丈夫かと心配されることになる。だが、アルミンは、至って正気である。
幼い頃から、エレンは当たり前のようにしてアルミンを気遣い、助けてきてくれた。彼の厚意を受けることによって、アルミンはこれまで、生かされてきたのだといって、過言ではない。それは、パンを分け与えられる行為と、何が違うだろう。祖父の手から、パンを奪い取ったのと同じように、アルミンはエレンから、奪い続けている。彼の手から与えられるものを、喰らい続けている。
満足を知ることなく、どこまでも追い掛けて、貪欲に。
それは、まるで──ぐ、とアルミンは嗚咽を堪えた。
思い出すのは、古の書物にあった、幾枚もの挿絵だ。醜悪な姿をした人型の化物が、びっしりと鋭い歯の並ぶ口を大きく開け、だらだらと涎を垂らしている。ある者は、指先に獲物を摘み上げて、今まさに口元に運ぼうとし、またある者は、片手に握ったそれを、頭から齧っている。
──これが、巨人。
アルミンは実際に、巨人の脅威を目の当たりにしたことはない。故郷の陥落に際しても、早期に避難出来たため、遠く離れた安全な場所から、辛うじてシルエットを掴んだ程度だ。奴らが、どのような動きで、どのような手順で、どのような音で、どのような表情で、人間を喰らうのか、それは知らない。
知っているのは、本と講義で得た知識だけだ。奴らは、人を咀嚼嚥下するが、消化吸収はしない。それが、最も衝撃的な事実だった。何もかもが受け容れ難い、巨人の特性において、これが、拒絶と恐怖を呼び起こす最たるものであった。
生命維持のために捕食が必要なのであれば、同じ生ける者として──他の命を奪って生きている者として──まだ理解も出来よう。それは、この地上に生ける、すべての者が組み込まれ、行なっている営みだ。しかし、そうではない。まるで遊びのように、奴らはいたずらに、人間を喰い殺す。
食べ物を粗末にしてはいけない、とは、誰もが幼いうちから、家庭の食卓で教わるルールだ。それが貴重品であるからという面も勿論あるが、他の命への感謝の念を忘れてはならない、というほうが本筋であろう。命を奪って、生きている。生かされている。それが、人間だ。
一度口に入れた食べ物を、そのまま吐き出すという行為が、最上級の侮辱的行為であるということは、議論するまでもない。同じ食べ物を分け合うことが、相互理解や友愛を示すならば、食べ物を吐き棄てることは、致命的な敵対と断絶を意味する。
吐き棄てられた物は、最早、何になることも出来ない。何の栄養にもならず、何の役にも立たず、ただ殺されて、ただ汚されて、ただ捨てられて、ただ腐るだけだ。
──それが、巨人にとっての、人間だ。
おぞましく、忌まわしく、恐ろしい。理性が通用せずに、まともにやりあうことも出来ない。
──巨人だ。
そして──アルミンは思う。祖父、エレン、ミカサ。周囲の人々から、温かな優しさを分け与えられながら、それを吸収することも、生かすことも、出来ていない。己の糧にすることが、出来ていない。それは、彼らの厚意を喰い散らかすことと、何が違うだろう。奪い取って、食い千切り、噛み締めて、粉々にして、吐き棄てる。自分がやっているのは、そういうことだ。
──僕は、
おぞましく、忌まわしく、恐ろしい。理性が通用せずに、まともにやりあうことも出来ない。
──巨人みたいだ。
自分自身をきつく抱き締めて、声にならない声で、糾弾した。恐れていたのは、巨人ではない。巨人に重ね合わせて、醜悪な自分自身こそを、アルミンは、恐れていた。
──だから、いけない。
己の内に湧き起こる渇望を、懸命に抑え込む。エレンを喰ってはいけない──これ以上、醜悪な巨人に、なりたくない。アルミンは更に、言葉を続けた。
「エレン、……もう、戻って。明日も早い、…」
明日の訓練を思えば、きっと、寝床に戻ってくれるだろうと期待しての台詞であった。エレンにとって、何より優先すべきは、巨人を駆逐する力の獲得だ。訓練には人一倍、熱心に取り組んでいる。こんな夜更けに、泣きごとを言う劣等生の相手をしている場合ではない。十分な睡眠を摂り、体調を整え、気を引き締めて、明日に望むことが望ましい。そういって、促すつもりだった。
「……っ」
しかし、それよりも、エレンが動く方が早かった。肩の辺りに、そっと触れられる気配があって、アルミンは危うく、声を上げそうになった。毛布を剥ぎ取られるのではないか、という危惧に、身を硬くする。そんなことをしても、何の意味もないのに、怯えたときに、きつく目を閉じてしまうのは、昔からの癖だ。目を閉ざし、耳を塞いで、恐怖や苦痛をやり過ごす。立ち向かうだけの力を持たない者は、ただ、そうして蹂躙に耐えるしかない。相手が飽きるか、あるいは、救いの手が差し伸べられるまで──その優しく温かい手に、今は追い詰められているというのは、なんとも滑稽なことであった。
エレンの手に、暴かれてしまう──今にも、毛布が捲られるのを予期して、アルミンは息を詰めた。嘘を吐いていたことを知ったら、エレンはどうするだろうか。怒るだろうか。あきれるだろうか。軽蔑するだろうか。想像するだけで、胸が潰れるようだった。
しかし、その心配は無用だった。毛布が暴かれる気配はない。エレンの手は、あくまでも穏やかに、肩に乗せられているだけだった。
「……こうしたら、ちょっとは安心だろ。父さんに教わったことがある」
不安になっているときはこうするといい、といって、エレンは毛布越しに、肩や背中を撫でてくれた。その手を振り払うことは、アルミンには出来なかった。いけない、こんなことはいけない、と思いながら、肌を撫でるもののあまりの心地良さに、意識を奪われてしまう。そうして、触れていて欲しい。寄り添っていて欲しい。もっと、エレンを感じたい。切望が、鮮やかに熱をもって蘇り、胸を支配する。
他者から奪ったパンを喰らって、その罪深さに苛まれながらも、腹は満たされてしまう。美味いと感じてしまう。もっと欲しいと願ってしまう。それと、同じだった。自分で、自分を制御出来ない。与えられれば、求めてしまう。だから、どうか、与えないでくれと祈った。そして同時に、心の底では、もっと与えてくれと欲していた──与えて貰えることを、知っていた。
指一本さえも、動かせない。意識も、呼吸も、鼓動も、囚われていた。エレンに、囚われ、守られていた。
間違っているかも知れないけど、と前置きして、エレンは静かに語る。
「──確かに、巨人は脅威だ……だけど、人類も、すごいと思わないか」
「……ぁ、」
そんなことまで──してくれるというのか。アルミンの偽りの不安さえも、払拭してくれようというのか。活き活きと紡がれるエレンの言葉を、アルミンは茫然として聞いていた。
あいつらの弱点が分かるなんて、すごいことだ。人類は確実に戦果を積み上げてきている。武器、戦術、知識、人材。すべてが、今ここに揃っている。言って、エレンは力強く、宣言した。
「──俺たちは、史上、最も力ある兵士だ!」
声を張り上げたわけでもない、いつもより、ずっと音量を落として紡がれたというのに、毛布越しにも、その言葉ははっきりと、アルミンの心臓を打った。
なんて──まっすぐなのだろう。まっすぐに、自分を信じている。「貰った分は、何倍にもして返せばいい」と言った、あのときと同じだった。今は直截に視ることの出来ない友人の、あの強い意志を秘めた緑瞳の輝きを、アルミンはありありと思い描くことが出来た。幼い頃から、その瞳に、強く惹かれていた。壁の外に思いを馳せ、夢を語るとき、活き活きと輝く瞳が、好きだった。もっと、輝かせたいと思った。新しく仕入れた、外の世界の知識を話して聞かせてやると、一番近くで、その煌めきを見つめることが出来た。ずっと、見つめていたいと思った。
いつからだろうか、はるか遠くを見据え、どこまでも突き進んでいく決意を宿した、その瞳を、見ているのが辛くなったのは。彼の瞳を、自分にはもう、輝かせてやることが出来ないのだと、諦めたのは。
彼に何もしてやれないことを、負い目に感じて、胸の内で勝手に、壁を──築き上げていったのは。
エレンの言葉は、ただ単に、アルミンを慰めるためだけに発せられたのではない。決して、その場しのぎの、優しい嘘や、儚い希望的観測ではない。エレンにとって、それが唯一の、真実なのだ。自らの手で、掴み取るべき、未来なのだ。
彼は、それを疑わない。ずっと昔から、まっすぐに信じ続けて、変わらない。
アルミンが、いようと、いまいと、関係がない。誰のためでもなく、己のために。たとえひとりでも、傷つこうとも、手足を失おうとも、彼は突き進むだろう。ただ一つの到達点、この世界の果てを目指して、放たれた一本の弓矢のように。斃れるまで、決して、止まることはない。
それが──エレンだ。
「……」
背中をゆっくりと撫でる手を感じながら、アルミンは声もなく、涙を落とした。手の中のパンを、握り締める。
──ああ、僕はまた、勘違いをしていた。
エレンの強さが、優しさが、アルミンのためだなんて、どうして勘違いをしただろうか。その上で、どうか構わないでほしい、喰らってしまうから、などと、真剣に思っただろうか。
違うのだ。アルミンは、強烈に思い知らされた。
パンを分け与え、奪い取り、喰らうのとは、わけが違う。アルミンは、エレンを喰っていない──アルミンごときに、エレンは、喰われない。
エレンの強さは、アルミンのために用意されたものではない。それは、どこまでも、エレンのためのものだ。彼が自分のために備え持ち、磨き上げ、行使する力だ。その力に、アルミンは、勝手に救われた気になっていただけであるに過ぎない。
それを、やめてくれというのは、お門違いもいいところだ。自分の問題を棚に上げて、なんという傲慢だっただろう。どうしようと、どうあろうと、それは、エレンの意思に基づく、エレンの自由だ。他人にどうこうと言われる筋合いはなかろうし、たとえやめろと言われたところで、やめられるものではない。それは、彼を彼たらしめる本質と不可分であるからだ。
エレンがもし、幼馴染を気に掛けることをやめ、もう手を貸すことも、励ますことも、なくなったならば──それは、エレンではない。
エレンは、アルミンを見捨てない。見限らない。裏切らない。力を貸してくれるし、手を差し出してくれる。アルミンの話を真剣に聞き、一緒に驚いたり、喜んだりしてくれる。いつも、傍にいてくれる。いつだって、そうだった。昔から、何も変わらない。
そういうエレンだから──アルミンの、親友なのだ。かけがえのない、一人なのだ。
勝手に卑屈な思い込みを募らせて、思い詰めていた己を、アルミンは恥じた。エレンのためを思うつもりで、結局は自分のことしか、考えることが出来ていなかった。
こういう自分だから、エレンが必要だ。だから、一緒にいる。答えは、驚くほどにシンプルだ。こうしてまた、エレンに救われていることを実感する。
「……エレン、」
小さく名前を呼ぶ。エレン、エレン、と繰り返し、胸の中で呼び求めた。どうした、と言って近づく気配を感じる。小さく毛布を捲って、アルミンは片手を差し出した。片手だけが、今の精一杯だった。手探りで、友人の袖を摘む。
「ごめん……ありがとう」
嗚咽に負けてしまわないように、懸命に、それだけを紡いだ。ふっと微笑むような気配があって、小さく指先を握られた。あぁ、と溜息がこぼれる。空腹が満たされるのに似た、圧倒的な安堵だった。異形の影に怯えながら進む夜道に、ようやく温かな灯を見つけたとき、抱くのは、こんな思いなのだろうか。心と、身体が、解けていく。
そうだ──怖かったのだ。怖くて、怯えて、震えていた。救われたくて、泣いていた。それが、今宵の自分の姿であると、アルミンは、ここにきて、ようやく気付かされた。
嗚咽がこぼれて、仕方なかったのは、誰かに気付いて欲しかったからだ。大丈夫だといって、安心させて欲しかったからだ。ただ、声を掛けてくれるだけでいい。傍にいてくれるだけでいい。──エレンが、いてくれるだけでいい。
巨人のことを考えて、怖くなって泣いていた、というのは、ある意味では、嘘でも何でもなかった。ただし、その巨人は、壁の外からやってくるのではない。アルミン自身の内に存在する。誰にも、助けてくれとは言えない。ひとりで、自分の力で、抵抗し、堪えるしかない。恐ろしくて、潰れてしまいそうだった。
それさえも、エレンは、救ってくれるようだった。口では平気だと言いながら、小さく震えている、この肩を力強く抱いて、大丈夫だと、言ってくれているような気がした。
エレンが言うなら──僕は、大丈夫だ。アルミンは思う。ひとりでは、とうてい得られない安堵を、エレンはただそこにいるだけで、アルミンに与えてくれる。気が緩んだら、もう、溢れ出るものを堪えられなかった。無理に声を抑えていた喉の緊張を、そろそろ、解いてやりたかった。せめて、周りで寝ている仲間の迷惑にならないようにと、口元に毛布を押し当てたが、寄り添うエレンには隠し通せない。
「泣き虫だな、アルミンは」
「っ…エレンに、言われたく、ない……」
互いに、指を絡めていた。喰うのでも、喰われるのでもない。緩やかに、繋がっていた。こんな風に、なりたかったんだ、とアルミンは目を閉じて、密やかな交感に身を任せた。何ということはない、簡単なことだったじゃないか──当たり前のことだったじゃないか。それが、こんなにも、嬉しい。
言葉も何もなくとも、確かに、伝わっていた。指先から感じる、エレンの温もりに、強さに、また、一粒の涙がこぼれた。

なんか、眠くなっちゃったな、とエレンは欠伸を噛み殺したような声で呟く。夜中に起き出して、こんなことをしていれば、当然だろう。さすがにそろそろ、自分の寝床に戻った方が良い。絡めた指が離れていってしまうのは、惜しまれるが、仕方のないことだ。そう思える程度には、アルミンの心身も、落ち着きを取り戻していた。漠然たる不安や心細さは、きれいに拭い去られて、残ったのは、穏やかな心地だけだ。
エレンと言葉を交わし、手を繋ぐことで、アルミンはいつも、救われる。彼が手を引いてくれるから、立ち上がれるし、歩き出せる。そうして幾度、救われたことか分からない。幼い頃だけではない。今宵も、そうだ。もう、十分に与えて貰った。力強く、引き上げて貰った。これ以上の、何を望むことがあるだろうか。
眠いと言っている相手を、無理に引き留めるというのも、申し訳ない。ここは別れて、後はこっそりと、残りのパンを片付けることにしよう。アルミンはそう結論付けた。何もかも、すっかり解決出来たような気になっていた。
「……じゃあ、また明日。エレン」
「面倒だから、ここで寝させて貰うか」
二人の台詞は、ほぼ同時に発せられた。友人が何を言ったのか、咄嗟に理解出来ずに戸惑うアルミンのすぐ隣で、布擦れの音がする。触れるほど近くに気配を感じると、あ、と思う間もなく、毛布ごと、抱き寄せられていた。
「エ、エレン……っ」
まずい、と冷静な頭の片隅で警鐘が鳴る。これでは、残りのパンを片付けられない。いくら毛布越しとはいえ、腕の中に抱き締めている相手が物を喰っていたら、気付かないということはないだろう。アルミンは焦って抵抗を試みたが、しっかりと回された腕を解くことは出来なかった。
──否、もとより、本気で解かせようとは、していなかった。たとえ、パンの件がばれたとしても、この拘束を解きたくないという気持ちの方が勝っていることを、アルミンはそろそろ認めざるを得なかった。どんなかたちであれ、エレンに触れられるのが、嫌であるわけがない。アルミンの方から手を伸ばし、小さく指を絡めたときから、分かっていた。本気で抗うなんて、最初から不可能なのだ。
無駄な抵抗はやめて、大人しく、身を任せることにする。エレンに抱かれ、かつ、パンも食べるというのは、果たして可能だろうか。エレンが先に眠り込んでくれることを期待すべきか。あるいは、彼より先に目を覚ますことが出来れば良いが、とアルミンは真剣に思案した。しかし、二つとも手に入れたがるなんて、あまりに欲張りではないかと思えて、悩ましい。
こちらの内情も知らず、なんか落ち着く、などとエレンは呑気に呟いている。
「落ち着かないよ……」
小さく呟いて、アルミンは遺憾の意を表明した。頃合いの抱き枕を得て、エレンは楽しいかも知れないが、こちらとしては、そうはいかない。手を繋ぐのとは、わけが違うのだ。しなやかに引き締まった友人の腕に、緩く拘束されるのは、まったく、落ち着かなかった。違和感があるのは最初だけで、すぐに慣れるかと思われたが、予測に反して、いつまで経っても、密着した身体を妙に意識してしまう。
回された腕が、丁度、アルミンの胸の上にある。どきどきと鼓動が高鳴って、これでは、エレンに気付かれてしまうのではないかと、気が気でなかった。彼が少し身じろぐ度に、思わず反応して、身を固くしてしまう。何をやっているのだろう──自分のありさまを思うと、アルミンは戸惑いと恥ずかしさで、頭が一杯になってしまった。心臓がうるさく鳴り、頬は熱く、息苦しい。毛布に包まっているせいだ、とアルミンは自分に言い聞かせた。しっかりと隙間なく毛布を被ったうえ、人間ひとりの熱源体と密着していれば、それは暑くもなるだろう。身体につられて、ぼんやりと、思考も熱に浮かされていくようだった。清涼な空気を求めて、息喘ぎながら、アルミンは思った。
──受け容れてくれるのだろうか。こんな自分を、彼は。
毛布越しにも、エレンの穏やかな息遣いを感じる。回された腕の重み、優しく伝達する体温。どれも、アルミンに、確かな実感を与えていた。
エレンがいる、と思った。
そうしたら、もう、堪えられなかった。
頑なに握り締めていた毛布を、静かに手放す。少しずつ、身体をずらして、頭から被っていたそれを、落としていった。熱のこもった毛布の中に、隙間から、新鮮な外気が流れ込んでくるのを感じる。久々に吸い込む、外の空気は、心身を清涼に洗い流してくれるようだった。半ば朦朧として、熱に浮かされていた頭も、少しだけ冷静を取り戻す。幾度か深呼吸をして、それでもなお、熱く脈打つ鼓動を、アルミンは静かに認めた。こればかりは、ごまかせない。
話そう──すべてを、打ち明けよう。アルミンの意思は、既に固まっていた。
エレンはそうしてくれた。彼の、偽りないまっすぐな信念を、見せてくれた。だから、アルミンも、そうしたかった。毛布の下で、何をしていたのか。何を思って、泣いていたのか。喰らうことと、エレンへの想い。それから、いっこうに落ち着かない、この心臓も。分かち合いたいと思った。
「……アルミン? 冷えるだろ、被ってろよ」
言って、毛布を掛けてくれようとする手を、押し止める。アルミンは、ゆっくりとエレンに向き合った。手の中に隠したパンを、そっと握り締める。
もしも、これをエレンに差し出したら、彼は、きっと固辞するだろう。強い者が弱い者に食料を譲ってやるのは、当然だとでもいうように、アルミンに返そうとするだろう。それでもなお言い募れば、おそらくは、半分こにしようということで、話がつく筈だ。夕食の席でも、そうしてくれたのだ。二人して、布団の中でこっそりと、一つのパンを分け合って食べる。二人だけの秘密を、分かち合うのだ。想像するだけで、高揚した。
「……はは、なんか、変な感じ──」
常ならぬ緊張の雰囲気を悟ってか、エレンは茶化すが、アルミンには応えてやれる余裕はなかった。代わりに、無言で身を寄せる。より近くなった距離で、直截にエレンを感じる。そこに彼がいる。思うと、嬉しいような、苦しいような心地で、胸が震えた。
「……エレン、──」
吐息交じりに囁く、声は思った以上に熱がこもって艶めき、アルミン自身、頬が熱くなった。ごくり、と喉を鳴らしたのは、いったい、どちらの側だっただろうか。
エレンを感じる──もっと、感じたい。
そして、アルミンはいよいよ決意を固めると、その言葉を紡ぐべく、唇を震わせ──




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