三月の妙薬(プレビュー)









ある、クリスマスの夜のことでした。町は、光に溢れ、金や赤のきらきら光る飾りが、木々といい、家々の窓といい、華やかに彩っています。玄関の扉には、それぞれに工夫を凝らした、可愛らしいリースが掛かり、家の中からは、温かなごちそうの匂いが漂います。窓越しに見える家の中では、子どもたちが鳥の丸焼きに歓声を上げ、ツリーの下に置かれたプレゼントを開けるのを、今か今かと楽しみにしています。
そんな家々の屋根に、木々に、道行く人々の肩に、雪は静かに、少しずつ降り積もります。真っ暗な天の、どこか高いところで、白く輝く結晶は生まれ、同じ速度で、等しく地上へと降りてくるのでした。

町を出て、街道をしばらく行くと、鬱蒼とした森が広がっています。大樹は冬にも落ちることのない暗緑色の葉を一杯に茂らせ、雪化粧をした姿は見事なものでしたが、それを眺めて愛でる人の影はありませんでした。
光のない森にあって、降り積もった雪は、地面や木々を、白くぼんやりと照らし出しています。その奥深くに、小さな一軒の家がありました。窓からこぼれた灯りが、周りの雪を橙色に色づかせています。降りしきる雪に、身体を芯まで冷やしてしまった旅人ならば、誰でも、心を引きつけられる、温かな灯りでした。
一軒家の扉には、リースの一つも掛けられてはいませんでした。クリスマスらしい飾りつけは、何一つ、見てとれません。町の賑わいも、この森の中までは、届かないのでした。

家の中では、ひとりの少年が、背中を丸めて、熱心に乳鉢の中身をすり潰していました。年頃は、十代半ばでしょうか。黒髪の下の顔立ちは凛々しく、真剣な眼差しで手元を見つめています。彼はエレンといい、この家の主人であり、また、この森の唯一の住人でありました。
机の上には、古びてぼろぼろになった分厚い書物が積まれており、巨大な秤が目を引きます。あちこちに置かれたガラスの小瓶の中には、乾燥した草や何かの粉末、骨の欠片のようなものが収められています。その内容を示すラベルは、だいぶ黄ばんで、端のほうが剥がれたり、書き込まれた文字も消えかかっていたりと、あまり用をなしているとはいえません。
机の後ろには、天井までの背の高い戸棚があり、そこには、同じように古びた、大小さまざまなガラス瓶が、ところ狭しと詰め込まれているのでした。
薄い半透明の紙の上に、僅かにこぼした粉末を、エレンは慎重な手つきで、乳鉢に入れました。軽く混ぜ合わせたところで、手を休め、天井へ向かって大きく伸びをします。粉末を飛ばさないよう、天井を仰いだまま、一つ息を吐き、少年は凝り固まった背中や肩をほぐしました。ここまでくれば、あと一仕事だと、自分を励ますように、再び机に向かいます。
できたばかりの乳鉢の中身を、新しい薄紙の上に空け、手早く畳んで封をします。エレンは時計を見遣り、いつの間にか日付が変わっていたことを認めました。作業机に散らかったガラス瓶をかき集め、戸棚に押し込みます。ぎゅうぎゅうにしても入らない分は、横倒しにして突っ込みました。
書籍の上にこぼれた粉末を、払いのけ、ページをはたいていた、そのときでした。
こん、こん。
小さな音に、エレンは、ん、と顔を上げました。気のせいでしょうか。今、玄関のドアのほうから、ノックの音がした気がします。少年は手を休め、じっと扉を見つめました。もう一度、今度ははっきりと、こん、こん、とノックの音がしました。いよいよ、エレンは眉を寄せます。
こんな森の中に、それも雪の降る深夜、訪れる客があるものとは思えません。何らかの厄介ごとであることは、間違いないでしょう。
とはいえ、留守を決め込むという選択肢はありません。そんな反抗的な態度を見せれば、ただでさえ微妙な自分の立場を、より悪くすることにしかならないと、エレンはよく承知していました。渋々ながら、上着を羽織って玄関へ向かい、ドアを開けます。
思い切り不機嫌を滲ませた表情で、扉の外を見遣った少年は、しかし、咄嗟に文句の一つも紡げませんでした。そこに立っていたのは、こちらを忌々しげに、あるいは、おそろしげに見つめる、町の大人たちではありませんでした。突然に開いたドアに驚いたのか、大きな目を瞬いて、そこに佇んでいたのは、ひとりの子どもでした。
「あ……こんばんは」
高く澄んだ声が、そんな呑気な挨拶を紡ぎます。思わぬ相手に、拍子抜けしたような心地で、エレンはひとまず、腕を組みました。突然の来訪者を、上から下まで、眺めます。
相手は、子どもといっても、エレンと同じくらいの年頃に見えました。耳下で揃えた金髪の頭には、先のとがった赤い帽子を被り、やはり赤い膝上丈のワンピースを纏い、白いファーに縁取られた、フードつきの赤いケープを羽織っています。
ワンピースの裾から伸びる足は、ほっそりと頼りなく、厚手のタイツに包まれてはいましたが、いかにも寒々しく見えました。赤いショートブーツの踵は高めで、これを脱いだら、背丈は少年よりだいぶ低くなることでしょう。
金髪の下の顔つきは、丸みを帯びて幼く、頬は寒さのために紅潮して、大きな青灰色の瞳が、不安げにこちらを見上げています。そこまで観察した上で、エレンは問いました。
「……なんだ? オレに用事か?」
用もないのに、こんな夜更けに訪ねてくるわけがないだろうということは、分かっていましたが、数人の顔見知り以外の人間が、この家を訪ねる理由として、エレンに思い当たるものはありませんでした。それも、若い娘とあれば、なおのことです。町の人間の顔ぶれを、エレンは残らず知っているわけではないにしろ、この金髪には見覚えがありませんでした。
不審な思いを隠しもしないエレンの視線に、相手は、少し身を小さくしました。
「えっと、はじめまして。実は、乗っていたソリが、故障してしまって……一晩、ここに置かせてもらっても良いかな?」
来訪者は、困ったような表情で、そう説明しました。それが本当ならば、確かに、困ったことです。雪の中、こんなところで立ち往生なんて、たまらないことでしょう。真っ暗な森の中の唯一の灯りに、縋りたくもなるというものです。
相手が旅の人間であるということが分かって、なるほどな、とエレンは納得がいきました。町の人間であれば、どんなに困っていても、この家の扉を叩こうとはしなかったでしょう。この森の中の一軒家に住んでいるのが、何者であるのかということは、大人から子どもまで、誰でも知っているからです。この旅人は、不運なことに、それを知らずに迷い込んできてしまったのでした。
ともかく、このまま玄関先に立たせておくわけにもいきません。来客の赤いケープには、既に、うっすらと雪が降り積もっています。エレンは少し考えてから、とりあえず、入れよ、と客人を家の中に招き入れました。扉を閉めて、改めて問います。
「お前、旅人か? どこから来たんだ?」
「旅、といえば、そうだけど……」
赤い服の少女は、何か言い難いことでもあるのか、もごもごと口ごもります。何と言おうか、迷うようにした後、彼女は口を開きました。
「あのね、サンタって信じる?」
「サンタ? ああ……今日はクリスマスだったか、そういえば」
すっかり忘れていた、とばかりに、エレンは頭をかきました。実際、この家は、飾りつけも何もなく雑然として、ごちそうもプレゼントもありませんから、普段と何も変わりありません。町ではお祝いの雰囲気一色の、クリスマスも、サンタも、エレンにとっては、自分とは関係のない世界の出来事でした。
「……で、サンタを信じるかって? オレは、そんな奴、見たことねぇけど」
何故、そんなことを訊いてくるのかと首を捻りつつ、エレンは律儀に答えを返しました。その答えに、少女は、もの言いたげな表情で、自分の胸に手を当ててみせました。
「えっと、見てるよ。今、目の前にいる」
「……は?」
少女が何を言っているのか、咄嗟には分からずに、少年はあっけにとられました。その驚きの反応をどう捉えたか、少女は誇らしげに、赤い衣装を指し示して説明します。
「ずっとサンタを務めていたおじいちゃんが、引退したから、今年から担当してるんだ。ちょうど今、子どもたちに、クリスマスプレゼントを配って回ってきたところだよ。北の方から順に、ぜんぶ、配り終えて、あとは帰るだけというときになって、ソリが壊れちゃったんだ」
そう説明してみせる少女を、エレンは、じっと見つめて吟味しました。何を言ってるんだ、そんなわけあるか、ばかばかしいといって、追い返すことも、しようと思えば、できました。関わらないほうが良さそうだと判断するのが、無難であるかもしれませんでした。
しかし、エレンは、そうはしませんでした。赤い服の少女を追い出す代わりに、帽子とケープに積もった雪を、軽くはたいてやります。
「そりゃあ……災難だったな。まあ、上がれよ」
「おじゃまします」
家の若い主の後に続いて、客人は暖炉の前までやってきました。赤々と燃える火が、少女の頬を、優しく照らします。
「……温かい」
手袋をはずした、小さな手を、少女は暖炉にかざして呟きました。雪の降る中、こんな夜中までソリを走らせてきたのですから、きっと、芯まで冷え切ってしまっていることでしょう。指先をさすっている少女のために、火を大きくしてやりながら、少年は話しかけます。
「よく、今夜一晩だけで、プレゼントなんて配って回れたな」
「それが、仕事だからね。楽しみに待っている子たちを、がっかりさせたくはないよ」
「仕事熱心なんだな」
ぱち、ぱちと火がはぜます。サンタと聞いても、高揚するでもなく、証拠を求めるでもない、エレンの淡々とした態度に、少女は眉を曇らせました。
「……信じてない? そうだよね、いきなり、サンタだなんて、おかしいよね……」
ぎゅ、とスカートの裾を握って、少女は俯きます。うかつなことを言ってしまったと、後悔している様子です。エレンは、そういうわけじゃない、と首を振ってみせました。
「別に。疑っちゃいない。いいんじゃねぇの、そういうのがあっても」
実際のところ、少女がサンタであろうとなかろうと、エレンにとっては、どちらでも構わないことでした。他人の肩書きについて、自分がどうこう言える立場ではないということは、自分自身が、一番よく分かっていました。


--


苦しい息の下から、少女は、掠れた声を紡ぎます。
「ごめ、ん……こんな、迷惑……」
「いいから。ゆっくり寝てろ」
いくら知識のないエレンでも、高熱に苦しむ少女の様子から、これは明日や明後日に出発するのは無理そうだということくらいは判断できました。その間、少女の身柄は、エレンが預かることとなります。
自分が、何とかしてやらなくてはならないのだ、とエレンは思いました。誰かをそんな風に思うのは、初めてのことでした。厄介事を背負い込んだといって、己の不幸を嘆くのではなく、むしろ、何かを任されるということの、誇らしさのようなものを、エレンは感じました。
それから、エレンは時折、様子を見ては、少女に水を呑ませてやり、何かして欲しいことはないかと問いました。少女は頑なに、首を横に振って、大丈夫だから放っておいてくれと、弱々しい声で応えるのでした。
悪いことに、少女は気管を痛めているようでした。眠りに落ちても、苦しみから解放されることはなく、つらそうに眉を寄せています。薄く開いた唇は、苦しげな息遣いを続けていて、この調子で一晩を過ごしたら、喉が壊れてしまうのではないかと思わせました。
放っておいてくれと少女は言いましたが、エレンにはとてもそんなことはできませんでした。戸棚から、一つの小瓶を取り出します。
ごめんな、と胸の内で詫びてから、エレンは、少女のシャツの襟元に手を掛けました。一つずつ、釦をはずしていきます。胸元の辺りで、その手は、一旦、止まりました。しかし、躊躇いを振り切るように、少年は、手早くすべてを外してしまいました。少女の首から、上下する胸元、薄い腹までが、シャツの合わせから垣間見えます。ミルクのように白く、なめらかな肌でした。
そろそろと、エレンはシャツの合わせに手を掛けました。ごくりと、唾を飲みます。迷いを振り切ると、思いきって、大きく左右に広げました。白い身体が、あらわになります。それを見て、少年は、目を瞠りました。
「……お前、」
少女の身体には、想像したような乳房の膨らみはありませんでした。その身体つきは、確かに細く、華奢ではありますが、まろやかな少女のそれとは異なっていました。
信じられない思いで、エレンは、そのなだらかな胸元に手を置きました。余分な肉のない、硬い感触を確かめます。少女──いえ、目の前に横たわっているのは、確かに少年でした。
そして、服に隠れて見えなかった部分には、いくつかの痣が浮いていました。薄れかけたものもあれば、まざまざと赤黒いものもあります。白い肌に目立つ、その痛々しい痕に、エレンは眉を寄せました。少女のような幼い面立ちと、それは、まるで不釣り合いなものでした。
次から次へと、思わぬことが起こり、夢でも見ているのだろうかと疑うエレンを、苦しげな呼吸が、現実へと引き戻します。それで、エレンは、本来の目的を思い出しました。
目の前には、苦しんでいる相手がいます。骨の浮いた、薄い胸を上下して、精一杯に息を継ごうとしています。どちらの性別かなど、今は問題ではありません。エレンは、当初の目的を果たすことにしました。
小瓶を開けて、中の軟膏を掬い取ります。それは、エレンが普段、筋肉や関節を痛めたとき、患部を冷やして痛みを取るために使うもので、塗るとひんやりとして爽やかな薬草の匂いがします。それを、エレンは手に取ると、忙しい息を継ぐ胸の中央へと、擦り付けてやりました。
ひやりとした感触に、驚いたのか、彼はひくんと身体を跳ねます。嫌がるように、持ち上がって押し返してくる腕を、エレンは、ごめんな、と言ってシーツに押さえ込みました。そして、軟膏を、ゆっくりと塗り広げました。
胸を撫でさすっていると、細い身体は、ひくひくと跳ね、嫌がるように、緩く首を振るいます。金髪が、ぱさぱさとシーツを叩きました。
「ちょっと、冷たいだろうが、我慢してくれ。少しは、楽になるはずだ」
「ふ……ぁ、」
息を乱して、彼は身をよじります。切なげに眉を寄せ、頬は薄く色づいて、呼吸は相変わらず乱れたままです。もう少し、塗り広げたほうが良いのだろうかと、エレンは胸に置いた手を、左右に大きく動かしました。
「ぁ、ん……っ」
苦しげに息を継いでいた唇から、不意に、上ずった声がこぼれました。
見れば、真っ白な胸にあって、両の小さな尖端が、鮮やかに色づいています。甘酸っぱいベリーの実のように、ぷっくりと膨らみ、つんと立ち上がっているのでした。
そこが、粘膜が露出して、刺激に敏感な箇所であるということは、エレンも知っていました。どうやら、塗り広げたときに、うっかり、そこにも軟膏が付着してしまったようです。いかにも皮膚が薄く、弱そうな彼には、その刺激は強すぎたのか、敏感に反応して、腫れ上がってしまったのでしょう。
エレンは急いで、指先を拭うと、摘み取ってくれとでもいうように立ち上がった、小さな乳首を摘みました。付着したものを拭い取るように、指の腹を擦り付けます。思いのほか、そこは硬く、芯を持った弾力が、指先を押し返しました。


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「役に立たないなんて、そんなこと言うなよ。オレは、お前がいてくれることで、随分、助かってるんだ」
「僕、何もしていないよ」
「いいんだ。傍にいてくれるだけでいい……ここに、いてくれ」
「……エレン?」
どうしたの、とアルミンは案じ顔で、エレンの頬に指先を触れようとしました。その手を、エレンは掴んで、頬に押し当てました。柔らかな手のひらに、縋りつくように、頬ずりをします。アルミンの小さな手は、温かく、エレンの頬に寄り添いました。それを感じながら、エレンは、ぐ、と唇を噛み締めます。
「オレが……なんで、町の中じゃなく、こんなところにひとりで住んでるか、分かるか?」
「それは……そのほうが、仕事に便利だから?」
「そうじゃない」
話さなくてはいけない、とエレンはここで、心を固めました。ゆっくりと、口を開きます。
「オレは──狼男なんだ」
「狼……?」
思い掛けない告白に、アルミンは、目を瞠りました。エレンは、頷いて続けます。
「町の奴ら、そう言って、オレをつまはじきにした。……狼男は、いつ獣の本性を現して、家畜や人間を襲うか分からない。危険な存在だから、殺したほうがいいっていう奴らもいた。ただ、誰もうまく殺せる自信がない。万が一、殺し損ねたときには、手負いの獣のことだ、どんな大きな被害をもたらすかも分からない。仲間を呼ばれても厄介だ。そんな危険を冒すくらいなら、そっとしておこう、ってことになったらしい。町の外に住まわせて、町の中に入れないようにして……もっとも、たとえ許されたとして、そんな奴らと同じ場所で暮らすなんて、オレはごめんだけどな」
そういうわけで、オレはここに住んでる、とエレンは自分の状況をアルミンに教えました。突然のことに、さぞかし驚き、困惑するだろうと思われたアルミンの反応は、しかし、思いのほか、落ち着いたものでした。エレンの話を、痛ましげな面持ちで、頷きながら聞いています。怯えるか、逃げるかされても、無理はないと思っていただけに、これにはエレンのほうが、戸惑いを隠せませんでした。
「……オレが、怖くないのか?」
思わず、そう訊いたエレンに、アルミンは、小さく首を傾げます。
「あ、怖がったほうが、いいのかな……?」
「いや、別にいいけどよ……」
何と言えば良いのか、妙な心地で、エレンは言葉を濁しました。それなら良かった、とアルミンはほっと安堵の表情を浮かべます。
「親切にしてくれた人を怖がるなんて、難しいよ。それに、今の話……君は、周りから狼男と恐れられているけれど、実際に家畜や、人間を襲ったことは、ないんだよね。ただ、そうするかもしれない、というだけで……」
「……ああ。その通りだ」
エレンは少なからず、驚かされていました。狼男を、そんな風に理解するなんて、アルミンが初めてだったのです。普通の人は、エレンが狼男だというだけで、危険かもしれないというだけで、恐怖し、嫌悪し、忌み嫌うのでした。
実際に害を為したわけではないのに、それでは、どうしてエレンは人々から、狼男として恐れられるようになったのだろうかと、アルミンは疑問を抱いている様子です。彼は指先を伸ばして、エレンの目元に触れました。
「その、瞳の色のせい……? 狼の眼、って言われる……」
いや、とエレンは首を振りました。
「そんなのは、たいしたことじゃない。オレが、狼男ってことになったのは、身寄りがなくて、ひとりだからだ。狼男は、森にひとりで住むことになってる。家族がいたらいけない。それで、オレが、一番、適役だったんだ。……厄介者の狼男にも、役立つ面がある。オレみたいな狼男が住んでいると、森の狼どもに、ここらの家畜を狙われることがないんだとよ。奴らは、縄張りを守る。狼にとっても、狼男ってのは、怖いものらしいな」
だから、時々、叫んでやるんだ、とエレンは言いました。狼の真似をして、大声で叫び回るのです。そうすると、町の人々は、エレンがちゃんと狼男としての役割をまっとうしていることが分かって、安心するからです。
「仕事だって、そうだ。根っこが人間のかたちをした毒草で、引き抜くときに、そいつの叫び声を聞くと、死んじまうっていうのがある。だから、周りに肉汁をまいておいて、犬に掘り出させるんだ。犬は死ぬけど、貴重な毒草は手に入る……同じ毒草でも、犬の死骸がちゃんとついているやつは、高値で売られる」
オレがやっているのは、そういうことだ、とエレンは言いました。狼男が、たとえば野菜を作ったり、靴を縫ったりしたところで、誰もそれを欲しがりはしないでしょう。けれど、狼男が採ってきた毒草や毒蛇であれば、人々はこぞって買い求めるのです。
黙って話を聞いていたアルミンは、ここに至って、静かに問い掛けます。
「君は……それで、いいの?」
「ああ。オレは、有害な獣なんかじゃない。自分が人間だってことは分かってる、それは確かだ。だが、言ったところで、誰も聞いちゃくれない。町の奴らを全員、説得するなんて無理だ。だから、オレはそうしない。周りにどう言われようったって、構わない。オレは人間だと、自分でそれさえ分かってればいいんだ」
そう言い切るエレンを、アルミンは、眩しそうに見つめました。そうだね、と呟きます。
「僕も、知ってるよ。エレンは、みんなのために、あえて、ここにひとりで住んでいる。みんなの暮らしを、守るために。自分の気持ちも、自由も、犠牲にして。……とても、優しいんだ」
「優しい、……」
そんな言葉を掛けられたのは、エレンには初めてのことでした。それは、自分から一番遠い言葉だと、エレンは思っていました。誰かの優しさに触れることも、誰かに優しいと言われることも、この先ずっと、ないのだと思っていました。
「オレは、厄介者で、」
「そんなことはないよ。君が、みんなを守っているんだ。君がいることで、人々は救われている。……けれど、」
そこで一旦、アルミンは言葉を切りました。少し迷うようにしてから、続きを口にします。
「僕には、それは狼なんかじゃなく……山羊のように思えるよ」
アルミンは俯いて、そう言いました。おそろしい狼ではなく、むしろ、それに襲われる山羊のほうだというなんて、エレンには、その意味は分かりませんでした。


--


夜が再び、訪れようとしていました。同じ過ちを、エレンは三回も繰り返すつもりはありませんでした。前回の満月から、それは、固く心に決めたことでした。
己の自制心を頼りにするのは、もう、おしまいです。そんなものは、何の役にも立たないと、既に分かっています。だから、アルミンと三回目の満月を迎えるにあたり、エレンは言いました。
「お前は、オレと一緒にいないほうがいい。今晩だけでも、納屋に隠れてろ。鍵をかけて、扉の前も、しっかり塞いで」
「エレン……」
「いや、それよりも、オレを、柱に縛りつけておいてくれ。獣の力でも、解けないように、厳重に。そうしたら、心配ない」
これが一番、良い考えだと、エレンは思いました。しかし、アルミンは、悲しそうに、首を横に振りました。
「そんなことは、しないよ。エレンにそんなこと、したくない」
「だってお前、このままじゃ、」
「大丈夫。僕は、平気だよ。……それに、エレンも。きっと大丈夫……」
心から、そう信じているように、アルミンは繰り返しました。いくらアルミンが信じてくれていても、それが何だというのかと、エレンはやるせない思いに駆られました。最後まで、エレンを信じようとした挙句、喰い殺されてしまっても、アルミンはそれで良いとでも言うのでしょうか。良いわけがない、とエレンは思いました。
おもむろに、エレンは引出を開けると、奥から一本のナイフを取り出しました。刃に触れないよう、注意して、アルミンに示してみせます。
「オオカミゴロシ、っていう植物がある。その名の通り、花も、葉も、根も猛毒を持っている。この刃には、そいつの毒を塗ってある。これなら、狼男にも通用するはずだ。もしものときには、これでオレを刺してくれ」
「駄目だよ、そんな……」
「頼む。でないと、オレは……」
ぐ、とエレンは唇を噛み締めました。自分がひどいことを頼んでいるというのは、重々承知していました。できれば、アルミンにこんなことはさせたくありません。しかし、自分が彼を喰ってしまうおそれを考えれば、それよりは、何倍もましでした。
半ば無理やりに、エレンはナイフを押しつけました。禍々しい刃の輝きを見つめる、アルミンの手は、それこそ毒が回ったように、小さく震えるのでした。

雲が切れて、夜空には満月が煌々と輝いています。その光を浴びながら、ほら、やっぱりこうなったじゃないかと、エレンは悲しく鳴きました。言葉にならない、獣の鳴き声でした。
時間は、真夜中になっていました。いつになく、はっきりとした意識で、エレンは、今まさに自分が喰おうとしている獲物を見下ろしました。エレンの下では、四肢を押さえ込まれたアルミンが、苦しげに息喘いでいました。いくつもの、真新しい噛み痕から、じわじわと血を滲ませています。この前の満月の夜と、なにもかも、同じでした。傷の深さでいえば、よりひどくなったとさえいえます。
エレン、エレンと、アルミンはこんな状況だというのに、必死に呼び掛けてきてくれています。そうすれば、元のエレンが戻ってきてくれると、まだ信じているのでしょう。駄目なんだよ、とエレンはその声を振り払うように、烈しく頭を振りました。そんな名前を、そんな声で、どうか、呼ばないでくれ、と思いました。
アルミンがどれだけ懸命に呼び掛けてくれても、そんなことは、無駄なのです。エレンを、いささかも思いとどまらせることはできません。それを分からせてやるべく、エレンは、目の前にさらされたアルミンの首へ、喰らいつきました。びくりと、大きく跳ねる身体を、押さえ込んで、強く噛み締めます。
エレンの衝動は、次から次へと烈しく湧き起こって、身体を突き動かします。もっと噛みたい、もっと喰いたい。満足を知らずに、もっと、もっとと、追い求めてしまいます。アルミンの温もりが、柔らかさが、歯応えが、苦鳴が、血の匂いが、エレンの獣を煽って昂らせます。
アルミンの首筋を食みながら、やっぱり、駄目なのだとエレンは思いました。狼男の血に、逆らうことなど、できないのです。
あの夢のように、アルミンが動かなくなるまで、何度も牙を突き立てて、喰い千切ってしまうのも、時間の問題でした。それだけは嫌だと、エレンは強く思いました。この牙で、アルミンを喰ってしまうくらいならば、アルミンの手で、とどめを刺されたほうが、ずっと良いと、かろうじて残された理性で思いました。
このまま噛み締めてやりたいという、甘美な誘惑を振り払い、エレンは咥え込んでいたものを、なんとか解放しました。アルミンが、小さく呻きます。
己の牙が、これ以上、目の前の少年を傷つけるより前にと、エレンは自らの腕に、思い切り噛みつきました。簡単には外れないように、ぎりぎりと噛み締めます。皮膚を食い破る感覚があって、新しい血の匂いが広がりました。鋭い痛みに、指先が跳ね上がります。エレンは眉を顰めましたが、顎の力を緩めようとはしませんでした。アルミンは、この何倍も痛い思いをして、それでも、逃げようとはしなかったのです。ここで、エレンが逃げるわけには、いきませんでした。
そのアルミンは、自分自身に牙を向けたエレンが、何を求めているか、すぐに理解したようでした。アルミンの手が、ナイフを掴むのを、エレンは視界の端に捉えました。葛藤ゆえか、細い指は、小刻みに震えています。乱れた浅い息遣いは、悲鳴のようで、青灰色の瞳を一杯に見開いて、エレンを映しています。
早く刺せ、刺してくれと、口で伝えることができない代わりに、エレンは自らの腕を、一層に強く噛み締めました。ぶち、と嫌な音がして、痺れが肘を駆け上がります。堪らずに、エレンは低く呻きました。口元から、滴り落ちた血が、ぽとぽとと、アルミンの頬を汚しました。
それで、迷いが吹っ切れたのでしょう。これ以上、お互いが苦しまずに済むためには、方法は一つしかありません。アルミンは、ナイフの柄を握り直しました。




[ to be continued... ]
















HARU21新刊『三月の妙薬』プレビュー(→offline

2016.3.12

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