エルヴィン団長の総回診です。(プレビュー版)
...要するに、自分の腕から順調に血液が吸い上げられていくさまを目の当たりにして、アルミンは、その場で昏倒してしまったらしかった。視界が暗闇に呑まれる中、周囲で慌ただしい人々の遣り取りが聞こえ、すぐさま横にさせられたような気がする。それも、断片的な記憶だけで、気付いたときには、救護室に寝かされていた。
「……何がいけなかったんだろう…」
考えてもみなかった事態に、半ば茫然としつつ、アルミンは天井を仰いだ。
あんな少量の採血で、貧血を起こすわけはないから、おそらく原因は、精神的なものであると思われる。しかし、当然のことながら、血が怖いというのが理由でないことは自明である。血の滲む傷口の手当を自前で行なうことは、日常茶飯事であったから、自分のそれを見慣れていないわけではない。
それでは、痛みのゆえであるのかといえば、そうとも言い難い。針の刺さった瞬間、確かに、痺れるような痛みを感じたが、三年間の訓練兵時代に身体に叩き込まれたあらゆる苦痛と比べれば、ほんの微々たるものだ。どこにも、昏倒するほどの要因は見当たらない。
しかし、これだけ強固で揺るぎないと思われた、アルミンの「大丈夫」という言葉を、あの細い針の先端は、いとも容易く突き崩してしまったということだ。いくら理屈を並べ立てようとも、ここにこうして安静にさせられているという事実は、覆しようがない。アルミンは深々と溜息を吐いた。
「他人の心配してる場合じゃ、ないだろ……」
今にして思えば、不安げな面持ちの少女を気の毒がるなど、とんだ笑い話だった。検査技師にも、見ていて大丈夫かと、わざわざ訊いて貰ったというのに、一笑に付した結果がこれだ。おそらく、彼には、アルミンがこうなるであろうことは、なんとなく予想がついていたのだろう。経験豊富な先達の忠告は、大人しく聞いておくべきであったと、反省する。
結局、一番危ないのは自分であるということを、一時でも、忘れてしまった。このところの目まぐるしい日々の中で、頭の片隅に追いやられていたのかも知れない。
己の立案した作戦で仲間の命を救い、親友の窮地に際して信念を固め、人類の栄光ある最初の勝利に貢献を果たした。まるで、自分が何者かになったかのような気がしていた。あれだけの体験をしたのだから、そんな勘違いをしてしまうのも、無理はないだろう。
だが、勘違いは、あくまでも勘違いだ。間違いは、いずれ正されなければならない。だから、まるで収支を合わせるかのように、アルミンは情けなくも、こうして寝かせられている。人間、そう簡単には変われない、ということだろうか。無力で足手まといであるとしか考えられなかった、かつての自分に、戻ってしまったようで、胸が小さく軋んだ。
軽く指先を動かしてみると、腕には、まだ微かな痺れが残っている。青灰色の瞳を伏せて、アルミンはその感覚を確かめた。
「ちゃんと……最後まで、採れたかな……」
今のところ、気がかりはそれだけであった。もう一度、あの恐ろしい針を突き立てられたくないから、というわけではない。日を改めて再検査などといったことになれば、それだけ、兵団に迷惑を掛けることになる。まだ何の成果も上げていない新兵の分際で、早速、上官らの手を煩わせるのは、心苦しい。
否、それを言うならば、既に迷惑は掛けてしまっているのだが──何事も最初が肝心というのに、スタート以前の段階で躓いてどうする、とアルミンは己を責めた。こんなときでも、やはり自分は、足手まといだと思った。
きっと、皆にも、あきれられてしまったことだろう。新兵勧誘式のあの夜、光栄にも、調査兵団団長から「尊敬する」との言葉を授かり、本物の敬礼を教わったというのに──早くも、先行きが怪しい。
調査兵団に入るということと、調査兵団になるということは、決してイコールではないのだと実感する。臆病者は、どこにいたって臆病者のままだ。周囲の環境が、勝手に自分を作り変えてくれるなどという、うまい話はない。自ら変わろうとしない限り、それを脱することは出来ないのだ。
こんなところで、躓いているわけには、いかないのに──一足先に、調査兵団の一員となり、取り替えの利かぬ重要な戦力、人類の希望の旗印として、己の責任を果たそうとしている幼馴染を思い浮かべて、アルミンは瞳を揺らした。追いついたと思ったら、またすぐに引き離されて、遠くへ行ってしまう、親友の眩しい後姿を思った。
いったい、いつになったら、彼と肩を並べて歩いていけるのだろうか。彼の隣に立ち、共に駆けたいのに、今の自分は、こうしてベッドに横たわっている。
「弱虫……意気地無し……情けない……」
やるせなく、アルミンはシーツに頬を擦りつけた。それでも足りずに、忌々しく、金髪をかき乱す。丁度、そのときだった。
「失礼するよ」
控えめなノックの音ともに、落ち着き払った男性の声が、入室を告げた。様子を見に来た医師だろうか? そちらの方に首を回して、アルミンは、はっと青灰色の瞳を瞠った。
「──団長!」
扉の先に佇んでいたのは、自由の翼を背負う者たちの先頭に立ち、兵らを率いる男──調査兵団エルヴィン・スミス団長であった。予想外の人物の来訪に、アルミンは慌てて、半身を起こした。それから、寝乱れたシャツに気付いて、手早く襟元を正す。金髪はぼさぼさのままであったが、仕方あるまい。
こういう場合の敬礼はどうすれば良いのだったか、さすがにそんな事例は教わってこなかったが、出来る限りの範囲で、敬意を表する。しゃちほこばる少年に、エルヴィンは穏やかな目を向けると、ゆっくりと寝台に歩み寄った。軽く後ろ手を組み、静謐な光を宿した眼差しで問う。
「どうだい、気分は」
「はっ、問題ありません。ご迷惑をお掛けし、申し訳ありませんでした」
「ああ、まだ無理をしない方が良い」
簡潔に現状報告をしつつ、今にも寝台から降りようとするアルミンを、彼は片手で制した。しかし、と物言いたげな少年の薄い肩に、団長は優しく手を乗せて、言い聞かせるように紡ぐ。
「我々も、配慮が足りなかった。先の戦闘からというもの、君は友人の件で、今日まで、気の休まる暇もなかった。神経が過敏になっていたんだろう」
無理をさせて、すまなかった、と団長はアルミンに詫びた。思わぬ来訪者からの、思わぬ言葉に、アルミンは驚きを隠せなかった。たかが一人の新兵の事情を、団長自ら、気に掛けてくれようとは──その気遣いに、いたく恐縮しつつ、とんでもない、と首を振る。
「いいえ……いいえ。辛苦を舐めたのは、誰も皆、同じです。私だけ、特別な配慮をいただくことは、ありません」
それは、アルミンの本心からの言葉であった。弱者であるからといって、特別扱いを受けることは、堪え難い。気遣われるくらいならば、怒鳴られた方が、まだしも気が楽だ。
少年の殊勝な言葉に、団長は目を細めた。血塗れの刃を振るうよりは、教壇に立つ方が似合いの、深い知性を感じさせる碧眼の奥に、いかなる思考が紡がれているものか、アルミンには想像が及ばない。
いったい、彼の眼に、自分はどのように映っていることだろう──いかなる駒と見做されていることだろう。アルミンは、緊張の面持ちで、この新たなる上官を見つめた。ただでさえ、相手は二メートル近い長身であるのに加え、こちらは低い寝台で身を起こしている関係上、殆ど、真上を見上げるような格好になってしまう。首が痛くなるのも、時間の問題であるように思われた。
アルミンが懸命に顔を上げているのに気付いてか、団長は自然な所作で長身を屈めた。視線の高さをアルミンに合わせて、告げる。
「疲れているところにすまないが、最後に、私が診せて貰うことになっていてね。あと少しだけ、辛抱してくれ」
「はっ。よろしくお願いいたします」
背筋を正して、歯切れよく答えるアルミンの態度は、初々しくも、上官に対する忠誠のほどを伺わせ、新兵として申し分が無い。しかし、その表情には、隠しきれない不安の色が滲んでいた。人類を守護する三つの兵団、そのうちの一つを束ねる大人物を目の前にしていては、無理もない。こくりと喉を鳴らして、アルミンは唾を呑んだ。
団長直々の審査とは──いったい、いかなる試験が行なわれるのだろうか。健康診断とは、わけが違う。今度こそ、失態を見せるわけにはいかない。これまでの年月に学んだすべてを出し切り、事にあたらねば──その内心を読んだかのように、エルヴィンは苦笑した。
「どうか、気を楽にして欲しい。我々は、これから仲間になるのだから──ありのままの君を、見せてくれれば良い」
そう言って微笑む、団長の態度は、予想よりも親密で柔らかなものであった。これまで、遠目に見る限り、何とはなしに、冷徹で堅苦しい人物像を思い描いてしまっていたが、それは修正の必要がありそうである。
彼の一言によって、アルミンは、放っておくと深刻になる一方の思考が、さりげなく押し止められるのを感じた。エルヴィンの言葉が、すっと胸に入り込み、緊張に慄く心を軽く解きほぐしていく。
これも、上に立つ者ならではの人心掌握術であろうか。そこには、強者揃いの兵士たちの命を預かり、彼らを率いるに相応しい、圧倒的な求心力が感じられた。
彼の言葉は、戦場で兵士たちを鼓舞し、激励し、慰撫するだろう。己の使命を胸に刻み込ませ、勇猛なる意志を燃え上がらせ、熱狂を巻き起こすだろう。この人物に、つき従いたいと思わせるだろう──きっと、散り往く最期の時まで。
その彼は、しかし、今ばかりは、新兵に対してあくまでもフランクに接していた。どうやら、そう厳しい審査がなされるというわけではなさそうである。適性判断の面接のようなものだろう、とアルミンは推測した。
調査兵団団長との、一対一の面接──普通であれば、ますます緊張してしまうところである。しかし、アルミンは、「ありのままに」という団長の言葉を念頭に置いていた。
そもそも、上位者と話す際に緊張をするのは、少しでも自分を良く見せよう、上手いことを言おうと、気負ってしまうからだ。己の器には不釣り合いな結果を求めるから、そういうことになる。
実際には、そうした見栄を張るのは、得策とは言い難い。無理に自分を偽って、その場は切り抜けられたとしても、後から辻褄合わせに苦労するだけだ。上手いことを言って不釣り合いな結果を得たところで、中身が伴っていなければ、それはどこまでも、身に不釣り合いな結果でしかない。
嘘は、いずれ破綻する。否、エルヴィンほどの人物であれば、発せられたその瞬間に、嘘を嘘と見抜いてしまうことだろう。ならば、正直に自己開示した方が、双方のためである。
幼い頃、異端者と罵られようとも、周囲に迎合することなく、あくまでも人類は外の世界へ向かうべきであると主張し続けていたことを思い出す。そして、もう遠い過去のようにも思える、つい先日の初陣では、左胸に拳を置き、己の信念を叫んだ。ありのままの自分を、さらけ出してぶつけたのだ。「弱いくせに根性がある」と同期から評されたことは、ささやかな誇りである。
団長直々に何を問われるにしても、これまでのように、己の本心を述べるのみである。いくつかのパターンを想定して、アルミンは質問に備えた。
何故、入団を決意したのか。心臓を捧げる覚悟のほどは。今後、人類の取るべき道は、いかなるものか。急いで、考えをまとめる。血を抜かれて、ベッドに寝かされ、ぼんやりと霞んでいた思考が、順調に回転数を上げていくのが分かる。
忙しく頭を回転させるアルミンに対して、団長は余裕に満ちた面持ちで、親しげに、寝台に腰掛けた。シーツが沈み込み、きし、と音を立てるスプリングの軋みが、アルミンにも直截に伝わる。傍らに椅子もあるというのに、あえて寝台に座ることを団長が選択したのは、アルミンにとっては意外なことであった。気取らない会話をしよう、ということなのだろうか。背を屈めてくれたのと同様、アルミンをリラックスさせるための、一つの演出なのかも知れない。
それから、団長はおもむろに、アルミンに向けて両腕を広げた。
「さあ、おいで」
「え……」
まろやかな声で発せられた、思わぬ言葉に、アルミンは、咄嗟に反応を返せなかった。何を問われようとも、すぐさま答える心の準備は整えていたつもりであったが、どうやら、それは無駄になってしまった。何を言っている──今、何と言われた?
わけが分からず、青灰色の瞳を瞠って困惑するアルミンに、エルヴィンは、軽く己の膝を叩き、この上に座れ、と促した。自分が何を求められているのか、ようやく理解して、アルミンはたじろいだ。慌てて、首と手を横に振ってみせる。
「いえ、そんな……」
「遠慮することはない。こうしないと、次の段階へ進めないからね」
場を和ませるための、彼なりの冗談かとも思ったが、エルヴィンの表情に、少年をからかって愉しむような色は見て取れない。何もおかしなことは言っていないというような、いたって平静なその様子に、アルミンは、ますます戸惑いを深めた。
遠慮も何も、調査兵団団長ともあろう人物の膝の上に、腰を下ろせるわけがない──わけが分からない。ともすれば、自分の聞き間違いであると信じたいほどである。いかに団長命令とはいえ、何もかも、無条件で従えるものではない。彼の言う「次の段階」とやらも気に掛かる。膝の上に乗せて、それでいったい、次に何をするつもりだというのか。
「あの……な、何が、始まるのでしょうか」
おそるおそる、微妙に声を震わせながら、アルミンはやっとのことで問うた。訓練兵時代こそ、教官の命令に対して、このような態度を取れば、即座に怒鳴られ、貴様は何も考えずに黙って従っていれば良いのだ、と叱責されたことだろう。目の前の彼ならば、殴りはしないだろうが、それでも、気分を害するであろうことは疑いがなかった。
しかし、それを承知の上で、アルミンは疑問を口にした。団長には、ありのままの自分を見せろと言われたばかりである。集団の一員として、足並みを乱さず、個性を消すための訓練を重ねてきた、これまでとは事情が異なる。疑問に思ったことは、訊いておきたかった。たとえ、答えて貰えないとしても、意志表示程度の役には立つ筈である。
予想に反して、エルヴィンは気を悪くした様子は見せなかった。むしろ、当然の疑問だとでもいうように、軽く頷いてみせる。
「面談と、軽い触診といったところか。これから共に戦う仲間なのだ。上官として、新兵の身体の状態は、精確に把握しておかなくては」
「な……なるほど、」
それは、もっともな話だと思い、アルミンは頷いた。団長の深みのある声と、堂々と落ち着き払った態度が、その印象を後押しした。
触診までされるとは予想外であったが、確かに、医者に任せて数値を取るだけでは、見逃してしまうこともある。団長自ら、新入りの肉体および精神を診ることで、個々の能力をより精確に把握することが出来るだろう。
それは、後々の配属、部隊編成に活かされ、作戦行動の成否に大きく関与してくる。己の持つ武器の特性も知らずに、勝利を収めることは出来ないのと同じように、配下の兵の特性を知らなければ、勝てる戦いにも勝てないというものだ。
また、触診によって身体距離を近づけることによって、打ち解けた雰囲気を醸成するという狙いもあるのかも知れない。真正面に相対する人間に対して、人は身構えてしまいがちであるが、並んで座る相手に対しては、どこか心を許してしまう。膝の上に乗るというのは、斬新であるが、その変形であると考えれば良いだろう。
これも、個人個人の心的状態、思考特性、人格傾向を探るためには、必要不可欠な手順なのだ。そうであるに違いない。エルヴィンは、計り知れぬ深遠な意図でもって、それを提案したのだ。恥ずかしいから、などという馬鹿げた理由で、新兵風情が、それを拒否出来る筈もなかった。
黙り込んで思考を廻らせるアルミンに、団長は、気遣わしげな声を掛ける。
「気乗りがしないのなら、また後日にしようか」
「いえ……いいえ。今、ここで、お願いします」
きっぱりと首を振って、アルミンは覚悟を固めた。特別扱いをされるのは、もう、ごめんだった。既に迷惑を掛けてしまった分を取り戻す意味でも、事は迅速に運ばねばならない。今の自分に出来るのは、可能な限り、団長の手を煩わせないことだ。自分のために、彼の貴重な時間を浪費させてはならない。
己の身を包んでいた毛布を、アルミンは、静かに引き剥がした。少年を歓迎するように、大きく広げられた腕の方へと、膝立ちで進む。
「……失礼いたします」
神妙に断ってから、そっと、エルヴィンの膝の上に跨る。彼を椅子に見立てて座る向きである。さすがに、向かい合って膝に乗る勇気はない。もし、こちらを向けと言われたらどうしようと思いながら、アルミンはおそるおそる、腰を落としていった。身体を支えるために、掌を置いた、彼の大腿は、鞭のように引き締まり、硬い感触でもって、アルミンを受け止めた。触れた箇所から感じ取れる、肉体の存在感に、アルミンはこくり、と唾を呑み下した。密かに期待していた、制止の声は、掛からない。
気休めかも知れないが、出来るだけ彼の負担にならないように、衝撃を与えないようにと、アルミンは気遣いながら、静かに腰を下ろした。臀部が、硬く弾力のあるものに支えられるのを感じる。ああ、と少年の唇から、諦念の息がもれる。本当に、座ってしまった──もう、戻れない。
あろうことか、団長の膝を尻に敷くなど、なんと畏れ多いことだろうか。それでも、向き合った格好でないだけ、まだましであると、アルミンは自分自身に言い聞かせた。何もかもを見透かすような彼の瞳に、表情を見られずに済む。逆にいえば、この状況で慰めになりそうな点といえば、それくらいしか見出せなかった。
寝台の上に折り畳んでいたアルミンの脚を、エルヴィンは促して、自分同様に前へと投げ出させた。彼の足は、しっかりと床を踏み締めているが、アルミンの方は、「椅子」の高さが加わったために、爪先が届かずに、頼りなく、宙に揺れている。エルヴィンの大腿に、全体重を預ける格好となって、安定感があるとは言い難い。小さく身じろぐと、背中が何かに当たる。
「あっ…申し訳、ありません……っ」
アルミンは慌てて、姿勢を起こした。少年が身を任せてもびくともしなそうな、頼りがいのある背もたれは、言うまでもなく、団長の胸板である。彼の胸にもたれかかるような非礼があってはならないと、アルミンは、出来るだけ身体を離して縮こまろうと試みた。
しかし、その健気な努力は、「もっと深く座らなければ、ずり落ちてしまう」という団長の指摘で、水泡に帰した。力強い腕が、少年の腰に回って、抱き寄せるようにして、容易く引き上げる。親猫の口に吊り下げられた子猫のように、アルミンは大人しく、身を任せるほかはなかった。とん、と背中が男の胸に当たる感覚がある。緩く囲まれた、彼の腕の中で、少しくすんだ雨上がりの森の匂いが、鼻をくすぐった。
アルミンの腰に腕を回したまま、団長は淡々と声を紡ぐ。
「随分と軽い。ちゃんと食べているかい?」
「は、はい……すみません……」
己の貧弱な身体を恥じて、アルミンは消え入りそうな声で答えた。
今、自分が腰掛けている脚にしても、身体を引き上げた腕にしても、背中に感じる胸にしても、一切の無駄なく禁欲的に鍛え上げられ、逞しく引き締まっていることが分かる。それに比べたら、自分の身体は、なんと脆弱なことだろう。
三年間の訓練期間で、身長は多少伸びたけれど、同期たちと並ぶとまるで子どものようであるし、いくらトレーニングに励んだところで、体格を改善するには至らなかった。立体機動術は力勝負ではない、という点だけが慰めであったが、それとて、特に光るところがあるわけではない。今、尻に敷いている団長の肉体には、程遠い。また、この先、自分が彼のようになれるものとは、とうてい思えなかった。
団長の膝に乗り上げるなど、考えられない、あまりに申し訳ないことであると思ったが、こうしてみると、彼にとって、この体勢はなんの負担にもなっていないだろうことが知れた。
彼より頭二つ分背の小さいアルミンの体重は、おそらく、エルヴィンの半分程度であろう。これだけ体格差があれば、それこそ、子猫を膝に乗せているようなものだ。彼の強靭な筋肉の鎧に、何ら、響くところはないであろう。おかげで、団長の負担にならずに済んだのは良いことであるが、自分の未熟さを思い知らされたようで、アルミンは恥入った。
居心地悪げに身じろぐ少年の耳元で、ふっと微笑む気配がある。
「では、少し、診せて貰うよ」
囁く声は、何も心配することはないというように、穏やかであった。後ろから回った手が、シャツのボタンに指を掛ける。一瞬、それを振り払い掛けて、アルミンは急いで自制した。それでも、団長の手を煩わせまいと、控えめに声を上げる。
「自分で……」
「じっとしていなさい」
落ち着き払った声で、一言、命じられると、アルミンは黙らざるを得なかった。大人しくなった少年の襟元に、エルヴィンは改めて、指を掛けた。ぷつ、と小さな音がして、襟が広げられた。
男の指は、時間をかけて丁寧に、一つずつ、シャツのボタンを外していった。薄い布地越しにも、肌を掠めていく、その手の硬く引き締まった感触を伝い感じられる。首から、胸元、腹へと、エルヴィンの指は一定のペースを保って、丹念に仕事をこなしながら下りていく。
腕の中に閉じ込められる格好となって、アルミンは出来る限り小さく身を縮めていたが、それでも、エルヴィンが手を動かす度に、背中が、肩が、腕が、彼と密着して触れ合ってしまう。それは、あまりに明瞭な存在感を持った感覚で、アルミンは思わず、ひくりと身を竦めてしまうのだった。
そんな小さな反応も、密かに唾を飲み下すのも、鼓動の早さも、きっと、自分を抱いている男には隠し通せず、直接に伝い感じられてしまっているのだろうと思うと、アルミンは消え入りたいような心地で、ますます身を固くした。
あえてゆっくりと、時間を掛けてボタンを外していく男の手つきは、まるで、そんな少年の反応をたっぷりと愉しもうというかのようだ。何もされていないというのに、早くもアルミンは、落ち着きを失っている。
こんなことくらいで、心を乱されてしまうなんて、とアルミンは己の未熟さを恨んだ。静寂の室内に、微かな布擦れの音と、己の呼吸だけが、妙に明瞭に聞こえる。早く済ませて欲しいとも言えずに、次第に晒されていく己の薄い肉体がいたたまれずに、アルミンは目を瞑った。
すっかりボタンを開けてしまうと、団長は優しげな手つきで、シャツの前を広げた。医者でもない人間と一対一で、己の裸身が光の下に晒されるというのは、分かってはいても、心細いものである。
まして、貧相な自分の身体を仔細に観察して、いったい団長は何を思うだろうか。想像すると、アルミンはますます委縮した。使いものにならないと判断されて、追い出されなければ良いのだが──
「失礼するよ」
ぎし、と寝台を軋ませて、団長は肩越しにアルミンの身体を覗き込んだ。少年は思わず、身体を震わせる。覆い被さられるようにして、互いの身体が密着すると、否が応にも、男の大きさと熱を感じ取ってしまう。少年の細い身体は、男の腕に囚われ、容易くその影の中に閉じ込められていた。首筋を掠める吐息を、明瞭に感じる。心臓が、高く鳴った。
「あ、あの……っ」
固まってしまった喉を叱咤し、アルミンは辛うじて声を上げた。緊張のあまり、少し裏返ってしまったが、贅沢は言っていられない。今にも、少年の骨の浮いた脇腹に手を滑らせようとしていた団長は、一旦、それを止めて問う。
「うん? どうしたのかな」
流されるままであった行為を、一時的にとはいえ押し止めることが出来て、アルミンはほっと一息を吐いた。しかし、気を緩めている場合ではない。暫しの逡巡の後、アルミンは、なけなしの勇気を振り絞って、口を開いた。
「この、検査は……エレンも、受けたのでしょうか」
[ to be continued... ]
壁外調査博新刊『エルヴィン団長の総回診です。』プレビュー(→offline)
2013.08.24