夜の司令補佐






トロスト区駐屯兵団本部の質実剛健たる威容は、最前線の町に暮らす人々にとって、心の拠り所であった。壁一枚を隔てて、巨人どもの領域と隣り合う恐怖に晒されながらも、人々の暮らしを成立させているのは、公に心臓を捧げた兵士たちによる厳重なる武装態勢であり、彼らを擁する兵団本部の存在である。町を見下ろす小高い丘の上に聳える堅牢なる要塞は、市民の自由と安全の象徴であった。
その本部も、人々の寝静まった今は、最低限の灯りのみを残して、闇と静寂に包まれている。灯りの漏れる窓の一つは、最上階の奥まった一角で、そこは誇り高き兵団の最高責任者の執務室に当てられている。その部屋は、深夜であろうと、祝祭日であろうと、決して灯りの消えることがないとして知られていた。
「……」
その窓からこぼれる灯りを、詰所と司令本部の棟を繋ぐ、渡り廊下から見上げる者があった。小柄な影は、暫しそうして佇んでいたが、やがて、マントを翻して足早に通路を進んだ。
月明かりが射したかと思えば、ほどなく厚い雲に遮られる、闇の深い夜であった。ものものしい石造りの通路は、宵闇に沈み込んでいた。等間隔に並ぶ小さな灯の揺らめきは、その陰影を払拭するには、到底、力が及ばぬ。何が潜んでいるとも知れぬ、深遠なる闇の降りた道程は、原初的な恐怖を誘う。精神鍛錬を受けている兵士を除く、大抵の者に、奥へ進むことを躊躇わせただろう。
そこに、小さな影は、迷いのない足取りで、靴音を響かせる。屈強な兵士たちの根城にしては、そのシルエットは、子どものように頼りなく細い。そのために、通常であれば威圧的に響く筈のブーツの足音は、何とはなしに重みに欠けていたが、規律正しい足運びのリズムは、よく訓練された兵士の行軍を彷彿とさせた。
雲が切れて、窓から月明かりが射し込む。ほのかな月光は、小さな人影にも落ちかかり、その姿を淡く照らし出す。細身の背中に翻るは、目にも鮮やかな青に染めたマントであった。マントと揃いの青の二角帽には、白い羽飾りが挿され、歩みに合わせて、優雅にその流線形をしならせる。
雲間から現れた月を見上げようと思ったのだろうか、帽子の深い鍔の影となっていた面が、少しばかり、上向けられる。そうして、月光に映し出されたのは、幼いとさえ言って良い、まだ年若い少年の白い面立ちであった。瑞々しい頬に、耳下辺りで切り揃えられた金髪が、さらさらと落ちかかる。大きな瞳は、ややくすんだ青灰色で、幼さを残した中にも、宿る光は秘めたる意思の強さを伺わせた。
実用性重視の駐屯兵団の兵服とは異なる衣装は、青と白を基調としながら、首もとを飾るタバードと肘までの長手袋は、好対照の明るいサフラン色に染め上げられている。その色彩が、麦藁色の髪に青灰色の瞳を持つ、この少年──アルミン・アルレルトただ一人のために誂えられたのであろうことは、誰の目にも明らかであった。

足早に先を急ぐアルミンは、前方からの灯りに気付いて、やや顔を俯けた。哨戒の帰りであろう、向かいからやってきたのは、二人組の駐屯兵であった。彼らは前方にアルミンの姿を認めて、何事かを囁き合った。瞳と唇の端には、好奇の色が浮かんでいる。じろじろと眺め回す無遠慮な視線から逃れるように、アルミンは俯きがちに歩を進めた。
すれ違いざまに、兵士の一人が、小さく鼻を鳴らす。
「ご老体の夜のお世話か。ご苦労なことだな」
「……」
嘲笑を隠そうともしない男の台詞に、少年は足を止めた。いまひとりの兵士が、よせよ、と仲間の肩を叩いて宥める。
「放っとけよ。司令の『お気に入り』の機嫌を損ねたら、俺達の進退にかかわるぜ」
場をとりなすようにしながらも、その言い草には、年若い少年に対するあからさまな侮蔑が宿っていた。
無視をして、構わずに通り過ぎることも出来た。しかし、アルミンは、そうはしなかった。代わりに、俯けていた面を、静かに上げる。姿勢を正し、まっすぐに前を見て、少年は応じた。
「これが、私の務めです」
高く澄んだ声が、石壁に凛と響いた。それは、一切の詮索も揶揄も受け付けることのない、高潔な響きを宿していた。子どもと侮っていた相手の発した、思わぬ気迫に、兵士たちはたじろいだ様子を見せた。相手を黙らせたところで、マントを翻し、靴音を響かせて、アルミンは躊躇いなく、目的地──司令の執務室へと向かった。

ドット・ピクシス司令──巨人どもとの戦闘の最前線、人類圏の南側一帯を束ねる総責任者。彼の補佐役が、現在、アルミンに与えられた職務である。
その職務内容は、情報収集、作戦立案、伝達、および司令の護衛など、多岐にわたる。少年の非凡な発想力、作戦立案能力が買われ、新兵から異例の抜擢となったかたちである。階級的には、末端の兵士と同等であるが、限定的状況下における発言権は、分隊長クラスに相当する。
司令に目を掛けられたことを、アルミンは心から誇りに思う。彼の期待に応え、人類の勝利の役に立つこと、それが己の使命であると、胸に刻んでいる。日中、ピクシス司令の傍に仕えて、アルミンはどれだけ多くのことを学ばせて貰っているか分からない。
年若い身でありながら、ここまで取り立てて貰い、発言権を与えられ、「人類の勝利の役に立ちたい」という希望を、最大限に叶えることが出来ている。あまりに恵まれた環境であることは、自覚している。司令には、心からの感謝を捧げてもなお、十分というには足りないだろう。
だから──周囲の兵士たちに、何を言われようとも、構いはしない。司令を敬愛し、信頼している──辛いことなど、何もない。日中のみならず、夜半にも気まぐれに呼び出され、朝まで拘束されることになるのも、それについて揶揄されるのも、慣れたことだ。
何事も、都合のよい面ばかりを享受することは出来ない。何かを得ようとするのならば、それに伴うリスクをも、受け容れねばならない。この衣装を身に纏う限り、それは、決して逃れることの出来ない責務だ。ぐ、とアルミンは己の肩を抱いた。
公に心臓を捧げると誓った身の上で、司令の要請に逆らえる筈もない。自分でも言い切った通り、これもまた、職務の一環である。気乗りがしないからなどという馬鹿げた理由で、自室に引きこもっているわけにはいかない。
自分は司令補佐──あらゆる面において、司令が円滑に職務にあたることの出来るよう、取り計らうのが仕事である。それが彼の益になるのであれば、いかなる行為に手を染めることも厭わない。ときに──自らの身を削ってでも。
恩義の代償として、彼の私的な娯楽に付き合うのは、当然のことである。少しでも恩返しが出来るとして、むしろ、喜ぶべきことだとさえいえる。そう考えて、アルミンは、己を奮い立たせた。
実を言えば、昼間の多岐にわたる任務によって、アルミンの甚だ心許ない体力の大半は、既に使い果たされていた。疲弊した心身は、早々に寝台に這入って、眠りに就くことを欲している。礼儀として、軽く水を浴び、身体を清めることで、多少の目覚ましにはなったが、おそらく今宵は自分の寝床に戻れないであろうことを思うと、足が重くなることは否定出来ない。
己を叱咤して、アルミンは歩を進めた。それよりも、こんな状態で司令の前に出て、失態を犯さぬようにとだけ、今一度、肝に銘じる。

考えごとをして歩いていたために、注意が散漫になっていたのであろう。曲がり角で、目の前に大きな人影が落ちたと思ったときには、既に、足を止めることは出来なかった。
「わ、っ……」
早足の勢いそのままに、まともに身体がぶつかって、アルミンは小さく声を上げた。それなりの衝撃に、思わず、目を瞑る。兵士たちの中にあって、小柄な少年は、堪らず後方に跳ね飛ばされてしまう。
「っと」
尻餅をつきかけるが、危ういところで、ぐ、と腕を掴まれる。そのまま、力強く引き寄せられたと思うと、無造作に抱き留められ、少年は再び、小さく声を上げることになった。辛うじて、惨めに倒れ込むことだけは避けられたところで、アルミンは、瞑ってしまっていた瞼を、そろそろと上げた。最初に目に入ったのは、駐屯兵団の薔薇のエンブレムで、通りすがりの兵士の胸に抱かれていることを認識する。
出逢い頭に、とんだ迷惑を掛けてしまった。詫びようとしたところで、頭上から声が降る。
「悪い悪い、大丈夫か? ……おお、アルミンじゃねぇか」
「あ……ハンネスさん」
見れば、長身の人影は、幼い頃から親しく付き合いのある駐屯兵であった。相手が顔見知りであったことに、少年は安堵の表情を浮かべた。
「ごめんなさい、ぼーっとしてて……ありがとう」
言って、抱き寄せられた腕の中から、一歩下がる。駐屯部隊長ともあろう人物に対する口の利き方ではないが、二人きりのときには、お互い、かつて暮らしていた町での関係に戻ってしまう。当初は、アルミンも畏まってみせたものの、どうも落ち着かないからやめてくれと、ハンネスの希望もあって、今のかたちに落ち付いている。
「……あれ?」
ふと、頭に手を遣って、アルミンはそこに帽子が乗っていないことに気付いた。ぶつかったとき、どこかへ跳ね飛ばされてしまったらしい。周囲を見回すと、ちょうど、ハンネスがそれを拾い上げるところだった。
「ほらよ」
「ありがとう」
手渡されたそれは、特に汚れもついておらず、繊細な羽根飾りも無事で、アルミンはほっと息を吐いた。軽くはたいてから、被り直す。微妙に角度を調整する少年を、ハンネスはじっと見つめていたが、小さく口を開く。
「今夜も──司令のところ、か」
「……うん」
努めて、何でもないことのような風情を装って、ハンネスは問い、アルミンもまた、短く応えた。まるで、これから作戦会議にでも赴くかのような風情である。勿論、この先に待ち受けているのが、そんなものではないということは、互いに承知している。
月明かりが仄かに照らす、優美な衣に着飾られた少年の姿を、ハンネスは僅かに目を眇めて見つめた。
「なあ、アルミン。その……無理はするなよ」
「……分かってるよ。大丈夫」
憐憫にも似た視線を避けるように、アルミンは俯いた。目深に被った帽子に隠れて、ハンネスから、こちらの表情は見えない筈である。これ以上、そんな風に、気遣わしげに見つめられたくはなかった。
この人は相変わらず、こちらを子どものように思って、気遣ってくれるのだなと思った。訓練兵を卒業したとはいえ、彼にとっては、三人の子どもたちは、いくつになっても、あの幼い頃のままのように感じられるのだろう。無垢で、無知で、何もかも希望に満ちていた、あの頃──何故だか、胸が痛んだ。
アルミンの内心を知ってか知らずか、ハンネスは親身に続ける。
「俺に出来ることがあれば、いつでも言ってくれ。力になるからな」
アルミンの肩に、軽く手を置いて、ハンネスは力強く言った。
彼に、助けを求める──それは、『あの日』、逃げ惑う人々で混乱に陥った町で、幼いアルミンが選択した行動を指して言っているのだろうと分かった。自分自身、一刻も早く避難しなくては命が危うい状況下で、人々に突き飛ばされながらも、アルミンは顔見知りの兵士の姿を捜し、彼の腕に縋りついたのだ。必死になって、幼馴染の少年少女の危機を伝えた。そして、彼は、アルミンの懇願に応えてくれた。子どもたちの命を、救ってくれた。
あのときのように、助けてやるからな、とハンネスの真摯な声は語っているように感じられた。一瞬、アルミンは、ぐらりと足元が揺らぐのを感じた。
己の胸の内を、彼ならば、受け止めてくれるのではないか。昔から、子どもたちを見守ってくれていた、今だって、手を引いて抱きとめてくれた、彼ならば──そんな、甘やかな誘いに、意識を奪われる。
腕を掴んで、縋りつけば良い。泣きついて、訴えれば良い。辛いといって、助けを求めれば良い。きっと、彼は、応えてくれるだろう。ハンネス自身、アルミンにそうされることを望んでいるから、こんなことを言うのだ。
この陰鬱な通路を抜けて、その先に待つ灯りの下へと、行かなくても良い、と言って貰えたら──何も案ずることなく、自分の寝台で、疲れた身体を休めて、ゆっくりと眠りに就くことが出来たなら。青灰色の瞳が、小さく揺れ、今にも何か言葉を紡ごうとしたところで、
──否。
ぐ、と拳を握って、アルミンは、ゆっくりと息を吐いた。くだらない夢想を、頭から追い払う。逃げてどうする──助けを求めてどうする。こんなのは、一時の感傷的な気分に流されているだけのことだ。懐かしい顔を見て、昔のことを思い出してしまったから、冷静な判断力が鈍ってしまったのだ。そう、自分に言い聞かせる。
踏み締めた足元は、最早、揺らぎはしない。面を上げて、少年は笑顔を拵えた。
「うん。それじゃあ、……行くね」
マントを翻して、アルミンは再び、歩み始めた。薄暗い廊下を歩む、少年の後姿が見えなくなるまで、ハンネスはその場に佇んでいた。



司令本部を統べる執務室の重厚なる扉は、いかなる音も光も漏らさぬ堅牢性を誇る。限られた者以外、足を踏み入れることを許されぬ、その扉の内側に立って、アルミンは恭しく頭を垂れた。
「──アルミン・アルレルト、参上いたしました」
目にも鮮やかな青に染めた、優美な曲線を描く二角帽を脇に抱え、敬礼の姿勢を取る。
「おお、来てくれたか」
参謀の男女と共に、執務机に向かっていたピクシス司令は、少年の姿を認めるや、ペンを置いて立ち上がった。両腕を広げて、歓迎の意を示す。司令の柔和な表情は、アルミンを安堵させるものであったが、同時に、小さな躊躇いを生起せしめる。己の内に生まれた迷いを、アルミンは、辛うじて振り払った。
有能なる部下たちを振り返り、司令は告げる。
「今日はここまでじゃ。解散としよう」
「はっ」
彼らは手際よく書類を片付け、アルミンと入れ替わりに、執務室を立ち去った。全てを承知して、何も問わない彼らの態度が、アルミンには、むしろいたたまれなかった。この時間まで、純然たる職務に励む彼らと引き比べて、自分がここに呼ばれた理由を思うと、胸が押し潰されそうになる。
ピクシス司令の意思に従う彼らは、新入りのアルミンのことも、公平な目で評価し、ある程度、買ってくれているようであるが、この「夜の職務」については、どのように捉えているのだろう。考えるほどに、アルミンは、一人、取り残されたような心細さを覚える。
「どうかしたかの。早う、入れ」
アルミンの心情を知ってか知らずか、そう言って促す司令の声は、限りなく優しい。ここにいて良いのかという不安が、少しだけ和らぐ。招き寄せられるまま、司令に続いて、アルミンは部屋の奥の扉を潜った。
執務室から続く、扉を一枚隔てた先は、司令の私的な空間である。彼の本来の住まいは、内地に構えた、その地位に相応しいだけの豪奢な邸宅の筈であるが、アルミンの知る限り、司令は専ら、兵団本部で寝泊りをしている。激務ゆえ、執務室と、隣の私室を行き来するばかりの生活は、質素にして簡潔である。
彼の私室はよく整頓されており、必要最低限の家具、棚には彼の趣味である多種多様な銘柄の酒瓶が陳列され、年代物のチェスセットが据えられている。部屋の隅の寝台は、新兵にあてがわれる寝床とは比べ物にならぬ大きさで、その寝心地の良さは、アルミンも身体で知っている。無意識にそちらに視線が向いてしまっていたことに気付いて、アルミンは気恥ずかしく目を逸らした。
アルミンが脇に抱えた、羽飾りつきの帽子を、司令は、自然な所作で取り上げた。その辺りに放って汚してしまわぬよう、衣装棚に仕舞いつつ、気軽に語り掛ける。
「すまぬな。疲れておるだろうに」
「いいえ……御心配には及びません」
言って、少年は健気に微笑んでみせた。ここで追い返されるのは、違う意味で辛いものがある──既に、心も身体も、司令に捧げる準備は出来ている。それをふいにされて、宿舎の狭い寝台で一人、縮こまるというのは、いかにも空しい。アルミンの意思を汲み取ってか、司令は静かに頷いた。
「では……早速じゃが」
骨ばった指が、アルミンの襟元に掛かり、これを緩める。司令が意図を達しやすいよう、少し顔を上げて、アルミンは従順に目を閉じた。気取られないように、こくりと唾を飲み下す。いつまで経っても、何度繰り返しても、慣れることのない「儀式」だった。
これから始まる行為に、優美な帽子も、衣装も、必要はない。服を脱ぐくらい、自分で、とアルミンは何度となく申し出たものだが、司令は聞き入れようとはしなかった。
「わしが着せてやった服じゃ。脱がせるのも、わしでなくてはな」
そんな、分かるような分からないようなことを言って、器用に衣装を暴いてしまう。どうせ、こうしてすぐに脱がされてしまうのだから、仰々しい衣装を纏わずとも、駐屯兵団の簡素な兵服で赴けば良いのではないかとアルミンは思うが、情緒がないといってあきれられてしまうだろうか。きっと、司令はこうした、一見煩雑な手順も、気分を高める材料として、大事にされているのだろうと解釈して、アルミンは人形のように身を任せるのだった。
身を包むマントとタバードを取り去ってしまうと、一般兵士と変わらぬ、素朴なシャツ一枚の姿となる。全身に張り巡らされた固定ベルトは、少年の未成熟な体格を強調するばかりである。細い手指を包み護る長手袋を外してやりながら、司令は詠嘆した。
「こうしてみると、思い出すのう……初めて逢ったときのことを」
無数の刃を向けられながら、極限の状況下で敬礼をとり、己の信念を叫んだアルミンを、司令はその場で見初めたのだった。お主は変わらぬ、とピクシス司令は軽く指先に金髪を絡めた。頬をくすぐられて、アルミンはふる、と睫を揺らす。少年の繊細な反応を、司令は慈愛の眼差しで見つめて告げる。
「無理強いはせぬ。気乗りがしないのであれば、断ってくれても良い……なに、そんなことで、待遇を変えはせんよ」
気取られてしまった──己の未熟さを恥じて、アルミンは俯いた。
ピクシスが、職務に私情を挟み込むような狭量な人間でないことは、アルミンもよく承知していた。決して、今の立場を失いたくないがために、司令の求めに応じているのではない。それを伝えなくてはと、アルミンは小さく口を開いた。
「私は、……」
「約束したろう。二人のときは、どうするんじゃったか」
「……僕は、」
一人称を、親しい者の前でのそれに切り替えて、アルミンは目を伏せた。僅かに躊躇うように、唇を引き結び、それから、静かに開く。
「僕は、あなたのものですから」
当たり前のことを告げるように、淡々と呟いて、アルミンは頭を垂れた。
「お相手を、務めさせていただけて──光栄です」



アルミンが司令の部屋で一夜を明かすことは、ままあって、兵団内でも、それはよく知られた事実であった。司令の夜の楽しみのためにこそ、この年若い少年が補佐役に選ばれたのだという事情は、誰しも容易に想像がつく。自分が、そういった意味で、司令の「お気に入り」であることを、アルミン自身、誰より正しく認識していた。
初めてのときは、正直いって、逃げ出したかった。緊張のあまり、身体は震え、血の気が引いて、頭が真っ白になってしまった。途中などは、ところどころ記憶が飛んでいる始末である。そんなアルミンを、司令は根気強く解きほぐし、少しずつ、その行為に慣らした。
とてつもなく恥ずかしかったし、突き落とされるくらいに惨めだった。どうして、こんな目に遭わなくてはならないのかと、涙をこぼした。上官を前に、泣き顔を晒すなど、兵士としてあるまじきことであるが、とうてい、堪えることは出来なかった。それでも、司令は、苛烈な行為を中断してはくれなかった。無理です、出来ませんと、嗚咽交じりに哀願するアルミンを、最後まで許さずに、一晩中、責め立て続けた。
あの強烈な初体験で、よくも司令に対する信頼が揺らがなかったものだと、アルミンは我ながら感心する。それは、すべてが終わった後、疲弊しきって声もなく打ちひしがれるアルミンを、司令が、それまでとはうってかわって、優しく慰めてくれたためであろう。
必要なことだった、と司令はアルミンの濡れた頬を拭って告げた。他ならぬ、アルミンのために、これは、どうしても避けられないことであったのだという、ピクシスの言葉を、アルミンはぼんやりと鈍磨した意識で聞いていた。
「技術を身につけて、武器にせよ。きっと、役に立つ時が来る。……腐っとると、思うかも知れぬが、お偉方は、戦場よりも、こちらの遊びにご執心じゃ」
いずれ、アルミンも、そうした場面に直面することになるだろう。王侯貴族の、都合の良い「遊び相手」として、奉仕せねばならないときが来る。駐屯兵団の中で、地位を高めていくためには、それは必要な取引であり、戦略だ──司令は、そう説明してみせた。誰より、ピクシス自身、それを身にしみて承知しているがための言葉であると、アルミンにも分かった。
慈しむように、少年の金髪を梳いて、ピクシスは苦笑いを浮かべる。
「そのとき、お主が傷つくことになるのは、忍びなくてのう……何の準備も心構えもなければ、こういうことになる。わしで慣らしておけば、まあ、その点で心配は要らぬ」
「……」
青灰色の瞳を伏せる、少年の頬を、また一筋の涙が伝った。筋張った手が、それをそっと掬い取る。アルミンの白い頬を、穏やかに包み込んで、司令は表情を緩めた。
「お主ならば、上手くやれるじゃろう。今宵、確信した。わしのお墨付きじゃ」
ろくに応じることも出来なかった、未熟な少年を、ピクシスはそう言って励ました。その優しさは、いっそうに、アルミンの胸を抉るのだった。
疲れただろう、ここで寝ていけという司令の言葉に従うかたちでもって、アルミンは、急速に意識を手放した。自分以外の寝台で、初めて、夜を明かした。

その日から──その夜から、アルミンに対する司令の「個人指導」が始まった。
その教授方法は、いたって苛烈であった。司令はどこまでもアルミンを追い詰め、すべてをさらけ出してみせろと強いる。己の無力を、浅はかさを、アルミンはその度に、思い知らされる。打ちのめされる。
昨晩の行為を思い出すのが辛くて、昼間、司令の骨ばった指先を、まともに見られないこともあった。いいようにされている自分が、無性に悔しくなる一方で、何日も呼ばれずにいると、堪らなく寂しくなったりと、どれほど翻弄されたことか分からない。
勿論、誰に相談することも出来なかった。今はそれぞれの兵団で職務を果たしている、訓練兵時代の同期にも、駐屯兵団の知人の兵士にも、誰にも言えなかった。しかし、本人が口を閉ざしていようとも、周囲は事の次第を察したらしい。あることないこと、興味本位の噂を立てられ、アルミンは肩身の狭い思いをせざるを得なかった。
幼馴染の親友がここにいれば、あるいは、泣きごとを言ってしまったかも知れない。エレンは司令に気に入られているから、その立場を利用して、一言、異議を申し立ててくれたかも知れない。しかし、調査兵団に籍を置く彼とは、気軽に会う機会もない。それに、一人の兵士となった今、友人の力を頼りにするというのは、あまりにも惨めであるように思えた。
アルミンは、ひとりきりだった。彼を理解し、彼を見守り、彼を導いてくれるのは、司令ただひとりであった。それが分かっていたから、アルミンは、ピクシスから離れることが出来なかった。彼は、アルミンを葛藤に陥れる一方で、救済を与える。夜を重ねるほどに、囚われていく、愚かな己を自覚しながら、アルミンは、自らすすんで彼のもとへと赴くのだった。



薄闇の室内に、時折の衣擦れの音が、控え目に時間の経過を知らせる。意識的に、アルミンは呼吸を整えた。押し殺した息遣いは、せめて、こちらの動揺を悟られないための、健気な努力だ。一方の司令は、あくまでも飄々とした態度を崩さない。その手が気まぐれにこちらへ伸ばされるのを、アルミンは、固唾を呑んで待つのだった。
老人の域に達していながらにして、その攻め手はおよそ衰えを知らぬ。豊富な経験を窺わせる、巧妙な技術に、未熟な少年は翻弄される一方であった。
「──お主は、ここが弱いのう」
分かりやすいように指先を彷徨わせて、司令は含み笑いをもらす。わざわざ、そんな指摘をしなくても良いだろうに──アルミンは、頬が熱くなるのを感じた。
「っ……分かっております……」
「否、分かっておらんから、こうして、教えてやっとるのじゃろう……どれ、」
聞きわけのない生徒を窘める教師の態度で、司令は、じわじわとアルミンを追い立てる。逃げ場のない息苦しさに、アルミンは声を詰まらせる。
「そこ、ばかり……」
「弱い箇所を、集中的に攻める。戦争の基本じゃろうが」
そんなことも忘れてしまったのか、と司令はからかうように続ける。ぐ、とアルミンは唇を噛み締めた。耐えろ──たとえ、あっけなく突き崩されることが分かっていても、それがせめてもの矜持だ。そう容易く降参はすまいと、アルミンは息を詰めた。
司令の巧みな指運びは、アルミンを突き崩し、着実に攻め上げる。逃げ場なく、焦燥で覆い尽くしていく。自分がこれからどうなってしまうか、どうされてしまうのか、確実に予測がつくというのに、アルミンは、それに抗うことが出来ない。気付けば、彼に呑み込まれ、彼の手に踊らされている。一矢報いようと試みたところで、それは、ピクシスには既に見通されている。子どものように、易々と押さえ込まれてしまうのだ。
彼の重ねてきた経験、こなしてきた場数は圧倒的で、とうてい叶わないのだと、思い知らされる。ちっぽけな自分ごときの防壁は、何の役にも立たずに、彼の侵攻を許し、内奥まで蹂躙されるのを、ただ受け容れるほかはない。
「お主が何を学び、何を身につけたか。こうしていると、問答より何より、余程よく分かるというものじゃ」
司令は、行為を通して、アルミンにそれを問うのだった。言葉ではないものを交わし合うことで、隠しようのない、今のアルミンのありのままが知られてしまう。ごまかし、やり過ごすことは出来ない。それは、司令からも釘を刺されていることだ。
「そつのない、やり過ごし方も出来るじゃろうが──わしの前では、ならぬ」
司令におもねり、従順になって、大人しく降参するという選択肢は、まず存在しない。司令がアルミンに望むのは、その真逆だからだ。たとえ見苦しかろうと、愚かしかろうと、すべてを開示してみせよと、ピクシスは少年に望む。
金銭を介して、一夜の満足を提供する契約であれば、違ったかも知れない。しかし、これは取引でもなければ、接待でもなかった。対話であり、戦いであった。
「お主は素直で、器用じゃ。呑み込みが早く、覚えも良い。昼間と同じじゃな」
しみじみと評する司令の声が、アルミンの耳を打つ。昼夜を問わず、常に隣に自分を侍らせている司令が言うのだから、そうなのだろうな、とアルミンはだいぶ朦朧としてきた頭で思った。上手く、思考が働かない。自分で、自分が余裕を失いつつあることが分かる。落ち着け、と己に言い聞かせるが、どれほどの効果があるのかは判然としなかった。そんな健気な努力に関わらず、司令はこちらを待ってくれようともしない。
「──どれ、次はこちらといくかの」
「ぁ、……」
「嘘が吐けぬところも……ほれ、早速、表情に出ておるぞ。可愛らしいものじゃ」
何も言い返すことが出来ずに、アルミンは頬を染めて、視線を逸らした。それでも、司令は、こちらを見つめて嬉しそうにしている。そのことに、アルミンは密かに安堵を覚えていた。
良かった──まだ、気に入って貰えているみたいだ。
まだ、司令を愉しませることが出来ている。
そう思って、安心する。



はじめのうちは、ただ、義務感だけで赴いていた。抵抗ひとつ出来ずに、一方的に弄ばれるばかりの行為に、気乗りがする筈もなく、逃げたいと思わなかったといえば嘘になる。
なにより、司令の期待に、上手く応えることが出来ていないという、焦りがあった。愛想を尽かされて、お前はもう用済みだとして、切り捨てられるのではないかと、恐れていた。どうか、司令に少しでも満足して貰えるようにと、アルミンは必死に努めたが、意識すればするほどに、上手くはいかない。むしろ、自分を傷つける結果に終わるのだった。焦らなくても良いと、司令はそう言ってくれたが、アルミンは、こんな自分が司令の相手を務めることに、ずっと引け目を感じていた。

どうして、自分なのかと、司令に問うたことがある。非礼を承知の上で、アルミンは、答えを求めた。
なにも、お互いのどこを愛しているかを語り合う、甘ったるい恋人同士の睦言とは異なる。いったい、自分のどこが評価されて、こういうことになったのか、アルミンには分からなかった。理解出来ないことを、そのままに放置しておくのは、気分の良いものではない。
年若いから、都合が良いから、我慢強いから、従順だから──理由をつけてくれるのであれば、どんな答えであろうと、構わなかった。
ピクシスは珍しく、言い淀むような表情を見せたが、やがて、口を開いた。
「……何故かのう。お主を、守ってやりたくなったのじゃ」
孫のようなものじゃな、とピクシスは大きな掌で少年の頭を撫でた。孫に対する接し方としては、彼の行為は、いささか逸脱しているようにも思えるが、守ってやりたいという言葉は、偽りではないように思われた。公私ともに「ピクシス司令の所有物」となることで、アルミンは、その身の安全を保証されているからだ。
無骨な駐屯兵団の兵服ではなく、奇抜なほど目立つ格好をさせられているのも、その方策の一つだ。すなわち、目にも鮮やかな衣装には、「いなくなれば、すぐに分かる」という利点がある。
階級的には新兵と同等でありながら、司令の側に仕え、特別待遇を受けるアルミンの存在を、快く思う者ばかりではない。どさくさにまぎれて、非力な少年を物陰に連れ込むのは、屈強な兵士にとっては容易いことだ。
目立つ格好をしている相手では、そうはいかない。常に周囲の視線を集めることになるから、何か不測の事態があれば、それだけ目撃者も多く、すぐにそれと知れてしまう。いわば、相互監視が機能しているのである。
同じ一般兵の身分で、特別な扱いをすれば、要らぬ軋轢を生むことになる。だから、司令はアルミンを他の兵から浮き立たせ、彼らの比較対象とならないように気を払う。
鮮やかに染め上げた衣装は、「ピクシス司令の所有物」という証であり、すなわち、「兵団の所有物」であることを意味する。自らの兵団の旗印を切り裂こうとする者はいない。アルミンを害することは、兵団を害することであり、ひいては自分自身の首を絞めることであると、司令は釘を刺しているのである。

守りたい、と司令は言った。その背景にあるのが、いかなる感情、あるいは計算であるのかについては、簡潔に言い表すことは難しいのであろう。小柄でひ弱なアルミンの幼い外見的特徴が、庇護欲をかき立てるのかも知れないし、あるいは、頭脳労働面における将来性が見出されているのかも知れない。少なくとも、捨て置くには惜しいと思われたことだけは確かである。司令ともあろう人物から、それほどの評価を受けたという事実に、アルミンは、いたく恐縮したものだ。
アルミンを見出し、手元に置いたからといって、ピクシスは決して、恩を着せるような言動はしなかった。むしろ、何かというとアルミンを気遣い、その希望を聞き入れようとしてくれる。この密室で交わされる行為にしても、アルミンが喜んで応じるのは当然であるなどといった驕りはなく、あくまでも丁寧に扱ってくれているのが分かる。力に訴えられたことは、一度もない。大事にされていることが分かる──だからこそ、アルミンは司令を信頼し、つき従うことが出来るのである。
行為の最中に、司令は思い出したように言う。
「こんな年寄りの相手など、嫌がられるものと思っておったがな。勿論、お主の立場上、不平を思っても、口には出せぬじゃろうが」
「そんな……僕は、」
「分かっておる、冗談じゃ。案ずるな……これでも、嘘や世辞を見抜くだけの眼は、持っておるつもりじゃ。若い者に、嫌々相手をさせても、不毛じゃからのう」
強いられているからというのではなく、自らの意思で、アルミンがここにいるということを、司令は過不足なく承知した風情で言った。
実際、アルミンは、司令との行為に嫌悪感を抱いてはいない。齢を重ねて筋張った手指は、少年の柔らかな肌には、硬くざらついて感じられたが、ときに非情なその手が、優しく髪や頬に触れるとき、アルミンは、畏怖する以上の安堵を覚える。勢い任せの猛進とは正反対の、執拗ともいえる根気強さで、少しずつ、時間をかけて炙るようにアルミンを追い立てる、そのリズムも、むしろ自分には合っていると思う。力任せに押し切られるよりも、熟練の手筋に翻弄され、もどかしいほどにじっくりと、奥から焦燥を煽られる方が好みであるなどといったら、こちらまで変人扱いされてしまうだろうか。
根底にあるのは、司令への信頼だ。彼が、アルミンを害するような真似をする筈がないという、信頼だ。なにも、自分が彼に気に入られているからといって、そう思うのではない。司令は、司令補佐という人材を、私情で損ない、失うほど愚かではないと、アルミンは知っている。
「司令を、信じておりますので……それに、こうしていると、」
そこで一旦、言葉を切って、アルミンは俯いた。
「畏れながら……祖父を、思い出します」
珍しく、個人的な話を持ち出した少年に、ピクシスは目を眇めた。
少年の最後の家族であった祖父が、ウォール・マリア奪還作戦に動員され、帰らぬ人となった経緯は、司令も承知していた。直截的には、巨人に食殺されたということになろうが、アルミンにとっては、同じ人類に身内を殺されたも同然である。それでありながら、少年は今、その非情なる決定を下した王の管轄する兵団に所属し、作戦を指揮した上官に仕えている。そう簡単に、気持ちの整理がつくものではない。
「……可愛がられておったんじゃな」
「はい……」
小さく唇を噛み締める、少年の白い面には、隠しきれない葛藤の色が浮かんでいた。青灰色の瞳が、微かに揺れる。
「……?」
頬に触れるものに気付いて、アルミンは顔を上げた。硬く筋張った司令の片手が、優しく頬を包み込んでいた。そっと撫でられる温かな感覚に、アルミンは目を伏せる。思い出話のために、期せずして、同情を誘うようなことになってしまったらしい。行為は一時、横に置いて、ピクシスは少年の上に手を休めた。
柔らかな金髪を梳いてやりながら、ピクシスは囁く。
「もっと、甘えてくれても、良いのだぞ」
深い慈愛を感じさせる司令の声に、少年は、微かに唇を震わせた。慎ましく目を伏せて、緩く首を振る。
「既に、十分に……いただいております」
奪い去られて、二度と戻らない、あの温かく大きな愛情を、司令に見出して、求めている。それは、愚かなことだ──分かっている。奪われてしまった、その代償として、埋め合わせとして、誰かを欲するなんて、浅ましいにもほどがある。
「こう、しているだけで、十分なのです」
非情にして、温かな掌に、そっと頬を擦り寄せた。

その言葉は、何も、根拠のない強がりでもなければ、世辞でもない。はじめの頃と比べれば、自分もだいぶ変わったものだと、アルミンは思う。
司令の言う、愉しみというものが、少しずつ分かるようになった。読書以外の娯楽について、およそ淡白であると自覚しているアルミンであるが、これはひとえに、司令の巧みな教育の賜物であろう。
彼は、己の愉しみのためにアルミンを「使う」のみならず、少年自身の内にも、快楽を生起せしめた。「そうでなければ、面白くない」というのが、彼の持論で、それはその通りだろうとアルミンも思う。行為の主導権を握ったことはないので、これは想像になるが、嫌々ながらの相手と一戦を交えたところで、空しくなるばかりであろう。無理強いをするのが好みであるという、歪んだ趣向の人間がいることも分かっているが、その趣味はアルミンには理解出来ない。どうせ同じことならば、双方にとって、満足のいく有意義な時間としたい。極めて個人的な娯楽場面においても、そのように生真面目に考えてしまうのがアルミンであった。
だから、積極的というにはほど遠いけれども、なけなしの勇気を振り絞って、アルミンは司令に応じる。ときに大胆に、自ら動く。勿論、それで手酷い目に遭うこともあるが、それもまた、一つの経験であると思う。失敗を重ねて、司令の言葉によるとアルミンは着実に「上達」しているそうだから、悪いことばかりでもない。
この類のことは、おそらく、繰り返すほどに身体に馴染んで、勝手が分かるようになり、その悦びの真髄を味わえるようになる。ピクシスに手ずから開かれたばかりの自分は、まだそのほんの入り口の段階にあるのだと、アルミンは承知している。その先には、未だ知らぬ世界があるのだ。勿論、これにばかり夢中になって溺れ、本分がおろそかになってはならないが、持ち前の好奇心が刺激されることは否めない。
今となっては、これは、アルミンの日常の一部なのだ。確かに、身体的負担はあれど、あまり長く司令に呼ばれなくては、落ち着かないし、物足りないとさえ思う。これも、彼の思惑通りということになるのだろうか。司令によって、都合の良いように、自分が作り変えられていくことを自覚する。
それについて、嫌悪感はなかった。公に心臓を捧げた自分は、司令補佐として、己の本分をまっとうするだけであると思う。司令がそれを望むならば、身体を差し出すことにも、抵抗はない。どうか、思うさま、自由に使って欲しいと思う。
これは、必要なことなのだ──人類の勝利の、役に立ちたいと、志を抱いて訓練兵団に入団した。自ら刃を振るって、巨人どもを蹴散らすことだけが、貢献の方法ではない。何かを変えることの出来る人物──ドット・ピクシスが、その本領を発揮出来るよう、補佐に尽くす。それもまた、一つの方法だ。

「……少しばかり、一方的過ぎたかのう」
呟く司令の声によって、アルミンは意識を引き戻された。ピクシスはおもむろに、少年の小さく握った手に手を重ね、引き寄せる。何を、と戸惑うアルミンに、司令は意味ありげに笑んでみせた。
「あっ……」
手を引かれ、触れさせられたものの硬い感触に、アルミンは上ずった声をもらした。思わず、手を引き戻しかけるが、掴まれた手首はびくとも動かない。思いがけないことに混乱するアルミンに、司令は落ち着き払って命じる。
「お主ならば、どうする。実地で見せてみよ」
「し──しかし、」
突然に、そのようなことを命じられても、すぐさま従えるものではない。葛藤の面持ちで、アルミンは声を詰まらせた。司令の手を振り払うような非礼があってはならぬと、叩き込まれた兵士としての精神が、抵抗を奪う。せめて、アルミンは喘ぐようにして訴える。
「こんな、のは……初めてで、」
「じゃから、見ていてやろうと言っておるのじゃ。……上手くやろうとせんでも、お主の好きなようにすれば良い」
「……は、」
そうまで言われては、これ以上、躊躇ってはいられない。観念して、アルミンは頭を垂れた。微かに震える指先で、触れさせられたものを、そっと握り込んだ。

「そう、上手じゃ……さすが、わしの教え子じゃの」
少年の柔らかな手が、躊躇いがちに動き、懸命に務めを果たそうとするさまを、司令は満足げに見下ろして詠嘆した。悩ましげに眉を寄せ、真摯に手元を見つめるアルミンの表情は、まるで、地図を広げて作戦を練る参謀のそれである。いかにも初々しく、余裕のない少年の様子を前に、ピクシスは苦笑した。
「そう神妙にならずとも良い。気を楽にせよ」
「は、……善処いたします」
そう言っているそばから、生真面目な応答をしてしまったことを、アルミンは自覚していたが、今更、態度を変えることは出来ない。これは、立体機動装置の扱い方、あるいは、馬の乗りこなし方を、手とり足とり教え込まれたのと、さして変わらぬ状況であると、アルミンは見做していた。気まぐれな司令の一夜の慰めとはいえ、気楽に挑めるものではない。これもまた、戦いの一つであると思うからだ。
「ここは……こうするのがよかろう」
「……はい」
言葉で指示し、時折は手を重ねて、司令はアルミンを導いた。その手順を、アルミンは懸命に、脳に叩き込む。今後、同じ局面が訪れた際には、もっと迅速に、躊躇いなく動けるようになっていなければならない。司令によって与えられたものを、一つも逃さず、吸収したい。それが、己の務めであると思う。
アルミンの内心を読んだかのように、ピクシスは呟く。
「わしの知識、技術、すべてを、お主に教えてやりたいんじゃがのう」
ぴくりと、アルミンは指先を跳ねた。失礼いたしました、と頭を垂れる。その表情には、隠しきれない高揚の色が見て取れた。そろそろと瞳を上げて、アルミンは応える。
「どうか、……教えてください。もっと、知りたいのです」
「……良い子じゃ」
骨ばった手が、優しく頭を撫でる。くすぐったい感触に、アルミンは目を細めた。
教えを乞うのならば、司令以外に最適な相手を、アルミンは知らない。一夜を共に出来るほど親密な人間関係を、アルミンは兵団内に築いてはいないし、それで構わないと思っている。誓いを立てるというわけではないが、結果的には、それに近いのかも知れない。十代半ばの少年として、人並み程度の関心しかなかったアルミンを、強引にこちらの道に引き摺りこんだのは、司令その人なのであるから、アルミンの中で、両者は最早、不可分である。
少年の内心を読み取ったかのように、ピクシスは、ふと問い掛ける。
「お主、他の者とは、こうして愉しむことはないのか? 若い者同士、ほれ、あの幼馴染などと」
疑いを掛けるというニュアンスはなく、それは、ただ不思議に思ったから問うたというだけのことのようであった。何でもないことのように問う司令から発せられた、「幼馴染」という単語に、アルミンは目を伏せた。
「彼とは、そんな……そういう関係でも、ありませんので」
そのようなことを、軽々しく口にしないで欲しいと、アルミンは控えめに意思表示をした。幼馴染にして、第104期訓練兵団の同期として苦楽を共にし、今は調査兵団にその身を置く少年──エレン・イェーガー。彼を命懸けで守らんと、立ち上がるアルミンの姿を目の当たりにしている司令は、両者の間に、友人というだけでは表現しきれない、強い絆を見出しているのだろう。ならば、一対一で、このような親密なひとときを持ったとしても不思議ではないという発想に至るのは、自然なことである。
しかし、壁外へ飛翔し、巨人どもと直截に命の遣り取りをする彼と、こうして壁の内側に留まる自分とが、いったいどうして、このような行為に勤しむことが出来よう。たとえ、アルミンが欲したとしても、エレンがそれに応えてくれるものとは思えない。巨人どもの駆逐こそを、己が存在意義として追い求める彼の興味関心領域は、一般的な青少年のそれに比べて、だいぶ偏りがある。ピクシスから手ほどきを受けているアルミンとは違って、おそらくは、ろくに手順も知らないだろう。教えようとしたところで、途中で飽きて、立ち去るか寝るかしてしまいそうな気がする。ピクシスのように、情熱的かつ緻密にアルミンを攻め立てるエレンなど、到底、想像が出来なかった。
胸の内が、表情に出てしまっていたのだろうか。司令は、アルミンの顔を覗き込んで、愉快げに笑う。
「まるで、それが残念に思っとるように聞こえるがのう」
「……そのような、ことは、」
小さく呟くと、アルミンは、痛みを堪えるように、微妙に眉を寄せた。動揺させられていることを、否応なしに自覚する。
他人に何を言われようと、己の務めを果たすことに関して、迷いはないアルミンであるが、唯一、親友の顔を思い出す度に、微かな躊躇いが胸を締め付ける。彼の曇りなく力強い緑瞳に、まるで、糾弾されているような心地になる。
エレンは、アルミンがこうして夜ごと、司令との行為に耽っていることを知れば、何と思うだろう──堕落したといって、憤慨するだろうか。叱責するだろうか。それとも、憐れんでくれるだろうか。
少年の表情を観察して、ピクシスは鷹揚に笑ってみせた。
「わしとしては、歓迎なのじゃがな。余所で遊んで、味わいが増して戻ってきてくれれば、お互いに、より楽しめるというもの。お主を、鳥籠に囲って一人占めしようとは思わぬよ」
もっとも、あんな服を着せてやっている時点で、信じては貰えぬかも知れんな、と付け加える。貴重な染料で染め上げた鮮やかな布地を惜しげもなく用いて、この少年のために仕立てた衣装は、それ自体、彼が司令の所有物であることの明瞭なる証である。司令の「お気に入り」に、あえて手出しをしようとするような、命知らずの者はあるまい。
「そうじゃ。誰か、相手を見繕ってやろうか。わしの認めた男であれば、面倒もあるまい。なんなら、付き添ってやっても良いぞ」
「御冗談を」
しかし、司令としては、この提案は、冗談というわけでもなかったらしい。頭をかきつつ、首を捻る。
「わししか知らぬというのでは、お主も今後、何かと都合が悪かろう。あまり、わしの手癖が骨まで染み込んでしまってものう」
司令の言葉に、アルミンは、気だるく首を振ってみせた。
「今更……手遅れですよ。そうなるように、仕込んだのは、あなたではありませんか……」
何も知らない無垢な少年を、手とり足とり導いて、ここまで教え込んだのは、他ならぬピクシスである。比較対象がないから、アルミンは、司令のやり方を、当たり前なのだとして受け容れるほかはない。彼の手順が、身体の隅々にまで、刻み込まれている。最早、条件反射として、彼の手に敏感に反応し、彼を満足させる。ピクシスにとって、最も都合が良いように、作り上げられた──人形なのだ。
他の者から、「指導」を受けたいとは思わなかった。心から尊敬し、心臓を預けても構わないと思える相手であるからこそ、こうして従順に務めを果たしているのだ。誰も良いというものではない。暇つぶしに弄ばれ、乱雑に使い捨てられるのは、ごめんだった。曲りなりにも、ひとりの兵士として、それくらいの誇りはある。
「何も知らなかった頃には、……戻れません」
「それはすまんかった」
言葉とは裏腹に、少しもすまなそうではない朗らかな笑顔で、司令は飄々と応じた。それから、ふと、表情を改める。
「──後悔しておるか」
少年の瞳を見つめて、ピクシスは、静かに問うた。その言葉が、何を指しているのか、アルミンは思案する。
彼と、こうして過ごすようになったことを、であろうか。それとも、駐屯兵団へ入る道を選んだことを、であろうか。いずれにしても、アルミンの答えは決まっていた。
「……いいえ」
後悔は──しない。それは、固く胸に誓ったことであった。
──もしも、友人と共に、調査兵団に入り、壁外へと赴いていたならばと、違う道を想像してしまうことは、仕方がない。自由の翼を背負う彼らに対する敬慕の念は、ずっと以前から変わらず、胸に抱いている。親友と共に、外の世界へと一歩踏み出すという選択肢は、確かに存在したのだ。
しかし、そうしていれば、何もかも、上手くいったのだろうか。輝かしい未来を、自由を、手に入れることが出来たのだろうか。
──そうは思わない。
今とは違う道が、もしもあったとしても、それはまた、違った苦難の道となるだけだ。そちらの方が、今よりましであったと、どうして言い切れる。それは、ただの都合の良い、現実逃避の手段でしかない。
見ることが出来るのは、自分が選んだ道だけだ。ならば、それを信じて、進むしかない。
幾度となく、繰り返し、考えて、納得したことだ。外の世界を探検したいという、幼い頃からの夢は、今も消えることなく、アルミンの内に息づいている。しかし、だからといって、ろくに戦闘能力のない自分が壁外に飛び出していったところで、何ら、人類の勝利に貢献出来るものとは思えない。再び、友人の足手まといとなるのが精々であろう。
己の能力を最も活かせる場所は、どこであるのか──冷静に客観視して、アルミンは、道を定めた。
自分は、こうなるしかなかったのだと、アルミンは思う。選んで──決めた。たとえ、何度、やり直したとしても、条件が同じであれば、アルミンは同じように考え、同じように判断し、同じように選択した筈だ。決して、偶然や気まぐれによる結果ではない。すべての積み重ねの上に、現在がある。ひとつひとつが、アルミンをここへ導くための、階段の材料であったのだ。
アルミンの決意の表情を前に、司令は、暫し瞑目した。それから、ゆっくりと瞼を上げる。表情は穏やかながら、その瞳には、触れれば斬れるばかりの鋭い光が宿っていた。
「ならば──そろそろ、仕上げとさせて貰うかの」
「あっ……そこ、は……」
膠着していた局面が、不意に大きく揺さぶられて、アルミンは青灰色の瞳を瞠った。上ずった声がこぼれ、こくりと喉が鳴る。いったい、何が司令に火を点けたものか、あまりの性急さに、アルミンは、辛うじて懇願の声を紡いだ。
「ま、待っ……」
「待ったは無しじゃ」
意地悪く笑みを浮かべて、ピクシスは降参を迫る。彼の無慈悲な先鋒によって、次に自分がどうされてしまうのか、アルミンには痛いほどによく分かっていた。
「っ……」
少年の細い指が、縋るように、空しく宙に伸びる。殆ど、抵抗らしい抵抗は出来なかった。息を呑んで、アルミンは、深く切り込んでくるものに備えた。




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