夜の司令補佐






「それ──王手じゃ」
黒の僧正の駒を移動させて、司令は余裕たっぷりに宣言した。盤上をX形に支配するビショップの駒の狙う先には、純白のキングの駒が、無防備に晒されている。ゆったりと腕組をして、ピクシスは背もたれに深く身を預けた。
「降参、かのう」
ここで辛うじて攻撃を防いだとしても、二手先で再び、チェックを掛けられることになる。聡いアルミンに、それが分からぬ筈もない──勝利を確信した表情で、ピクシスは、向かいに座する少年を見遣った。
「……」
沈黙を守る、アルミンの面持ちは硬い。すぐには敗北を受け容れられずに、何とか逃げ道を探そうとしているのだろうか。真剣な眼差しで、アルミンは、白黒に塗り分けられた64の升目が構成される盤面を見つめた。
互いのチェスピースが入り混じり、戦場は混乱の様相を呈している。今にも命を取られかけている白の王に視線を移し、アルミンは静かに手を伸ばした。自らの手でキングを倒し、降参を宣言するのだろうか? しかし、少年の手は、丸腰の王を素通りした。
「……ナイトを、cの4へ」
白き軍馬を模した駒を取り上げて、アルミンは司令の攻撃を断ち切った。
「ほう、諦めぬか……仕方あるまい、一時撤退じゃ」
白のキングにチェックを掛けていた、黒のビショップを、司令は摘み上げて後方へと退避させた。その動きさえも、読んでいたというように、アルミンは盤の隅に控えていたクイーンの駒を大きく前進させた。ピクシスは、意表を突かれたように瞠目する。
「お主……」
「どれだけ、あなたと戦ってきたとお思いですか」
己の一手を誇ることもなく、真摯な眼差しでもって、アルミンは司令を見つめた。そこには既に、先ほどまでの、翻弄される一方であった無力な少年の面影はない。いかなる犠牲を払おうとも、王の喉元へ、剣を突きつける覚悟を有した瞳であった。
自軍の王を守るべく、ピクシスはルークを前線へ送り出すが、所詮はその場しのぎに過ぎぬ。大駒を犠牲とする大胆な戦法で目を眩ませつつ、流れるような手つきで、アルミンは着実に、包囲網を狭めた。
思わぬ反撃に、ピクシスは顎を撫でつつ、低く呻く。
「ふむ……ここまで、精彩を欠いたように見せ掛けていたのは、このためじゃったか。油断を誘い、わしを引き摺り出す……これは、一杯喰わされた」
降参じゃ、とピクシスは自ら、黒の王の駒を倒した。それを見て、少年の唇は、安堵の息をこぼす。
今宵の勝負は、まずはアルミンの一勝である。張り詰めていた緊張を解いた少年の表情には、一手たりとも無駄にすることなく、美しく刻まれたこの対局への満足感と、仄かな勝利の高揚感が浮かんでいた。

日中の疲れをものともせずに、一日の終わりにアルミンと交えるチェス勝負に、ピクシスは執心であった。昼間とは違った戦場に身を置くことにより、思考を切り替え、新たな視点を導入するという狙いがあったのだろう。あるいは、酒と同様、彼なりのリラックスの手段であったのかも知れない。王侯貴族の接待で、上手く相手に負けるチェスを指さねばならないストレスとは、多大なものであろう。せめて夜くらいは、全力を尽くして駒を進めたいと思うのも当然である。
盤上ゲームに特別な興味もなく、人並み程度の腕前でしかなかったアルミンに、戦術の極意を叩き込んだのは、他ならぬ司令であった。兵団内で、まともに彼の相手を勤められる人材はなく、対戦相手に飢えていた彼は、夜ごとアルミンを招いては、己の持てる限りの技術と知識を教えた。
もともと、才覚があったのだろう。素直で勉強熱心な少年は、瞬く間にそれを吸収し、己のものとしていった。はじめのうちは、ろくに陣形を展開することも出来なかったというのに、今や、司令の真剣勝負の相手を務めるまでに成長したのであるから、ピクシスの見込みは間違いではなかった。
「腕を上げたものじゃ──戦の何たるかを、心得ておる」
今宵の一戦を振り返り、各々の指した手の良し悪しを検分しつつ、ピクシスは唸った。慎ましく頭を垂れて、アルミンは応じる。
「お相手をさせていただく度に、己の未熟さを思い知らされました。挫けそうになったこともあります……それでも、何とか、お役に立ちたいと、」
過去の名勝負と称される棋譜の研究、司令の好むゲーム展開のシミュレーションを重ねて、アルミンは地道に力をつけていった。司令を打ち負かすことが目的なのではない。強くなることで、彼の期待に応えたい、少しでも役に立ちたいという、使命感めいた思いが先立っていた。
ここまで、職務の合間を縫って、根気強く盤上ゲームを研究し続けてこられたのも、ピクシスが決して、初学者相手だからといって手抜きをすることなく、いつも全力で迎え撃ってくれたためであると、アルミンは思う。最初のうちに、徹底的に叩きのめされたのが、思い返してみれば、良いきっかけであった。それは、訓練兵時代の、教官からの数知れぬ罵倒によって、己を奮い立たせてきたのと、同じ理屈だった。強く打ちのめされるからこそ、這い上がるだけの気概も生まれる。
「最初は、手も足も出ずに、しくしくと泣いておったものな。いや、見上げた成長ぶりじゃ」
年若い少年に敗北を喫したにも関わらず、ピクシスは、むしろアルミンの成長を喜ぶように、豪快に笑った。

彼は真剣勝負の対局中にもかかわらず、よくお喋りをするし、腕を伸ばしては、チェスボード越しに、アルミンの髪や頬に触れる。手を引いて、次はこの駒を動かせ、と助言することもある。チェスのルール上、一度触れた駒は必ず動かさなくてはならないという規則に愚直に従って、アルミンは、その駒を活かす手筋をひねり出さねばならない。
もしもこれが正当な試合であれば、非難されても仕方のない行為であるが、アルミンはそれが嫌いではなかった。いつか、アルミンが兵団内で地位ある立場となったとき、王侯貴族らとのコミュニケーションツールとして、チェスは必須となるだろう。相手と近しく向き合いながら、本心を引きだす話術、相手のレベルに応じた柔軟な手筋、盤上から読み解く心理状態──司令は、それをアルミンに、実地で教えようとしている。盤上のみならず、盤外にまで広がりを見せる、彼の戦術に、アルミンは魅せられ、自分もそうなりたいと、強く望んだ。
盤上の苛烈な戦は、実戦の縮図である。日々の職務上、己の経験不足を実感しているアルミンにとっては、心身の疲弊を押してでも、応じる価値があった。二回戦、三回戦と続けていると、そのまま夜を明かしてしまうこともしばしばである。それでなくとも、極度な緊張状態と思考の高速回転のゆえに、一戦を終えると、ぐったりと疲れ切ってしまう、持久力のないアルミンに、司令は、自らの寝台を使う許可を与えた。チェスボードの置かれたテーブルと寝台とは、目と鼻の先である。マントや長手袋といった司令補佐の衣装を、対局の前に脱いでおくのは、その方が型に囚われずに、盤上でありのままの自己を開示出来るからであり、また、いつ、行き倒れるようにして寝台に身を投げ出しても良いようにといった意味合いもある。
その意味では、アルミンが「司令と寝ている」という心ない噂は、その通りであるとしか言いようがない。とはいえ、司令はたいてい、アルミンが眠りに落ちるまで、日中の業務の続きをこなしているし、朝も先に起床しているため、アルミンとしては、寝台を共にしている印象はない。いったい、この人はいつ眠っているのだろうと、いつも不思議に思う。
「さて──次は負けぬぞ」
疲れを感じさせぬ朗々たる声で、司令は宣言し、アルミンも再び、気を引き締めた。次なる対局のために、彼らは、32個のチェスピースを初期配置へと並べ直した。



結局、その晩は、もう一局だけ対戦して、いつものように、アルミンは司令の寝台で眠った。うとうととまどろみながら、瞼の落ちかかる最後に目に映ったのは、一人チェスボードに向きあい、思案に耽る司令の姿であった。
翌朝、アルミンが目を覚ましたとき、既に司令の姿はなかった。窓から射し込む清廉な朝日に、アルミンは目を細めた。緩慢に姿勢を起こし、寝台を下りる。丁度そのとき、執務室へと通じる扉が開いた。
「おお、起きよったか」
少年の起床の気配を、いかにして察したものか、姿を現したピクシスは言った。アルミンはすぐさま背筋を正し、敬礼をとる。寝起きの残滓を感じさせぬ、その凛々しい姿に、司令は満足げに頷いてから、衣装棚へと足を向けた。
司令がアルミンより早く起床しているのは、本人曰く、アルミンに服を着せてやるためだという。チェスの対局前に脱がせてやった、堅苦しい帽子やマント、長手袋といった、司令補佐の衣装──それを、ピクシスは再び、手ずから少年に着せる。彼の手を煩わせることに、はじめのうちはアルミンも恐縮したものであるが、司令にとっては、これも日々の楽しみの一つであるらしい。衣装を纏わせる手つきは、温かく、慈愛に満ちている。最後に、「今日も、よろしく頼むぞ」と、軽く肩を叩いて、アルミンを鼓舞するのだ。
司令の手によって、アルミンは、ひとりの兵士となる。内も外も、彼によって、自分がかたちづくられていることを実感する。そうして、今日も、動くことが出来るのだ。本日の業務内容を頭の中で確認しつつ、司令の手によって着せられたマントを翻して、アルミンは、一夜を過ごした部屋を後にした。

机に向かって、書類整理にかかりきりになる中にも、アルミンは時間を見つけては、立体機動の訓練を兼ねて、壁に上ることを日課としていた。使わなければ、たちまち錆びつき、劣化して、いざというときに役立てることが出来ないというのは、装置にしても肉体にしても、同じことである。体力トレーニングに割ける時間は、訓練兵団時代に比べれば、だいぶ減ってしまったが、せめて現状維持には努めたいと思う。「いざというとき」は、次の瞬間にも、防壁を打ち破って襲いかかるかも知れない。足手まといになるのは、二度とごめんだった。
危うげのない身のこなしで、アルミンは壁の上に身体を引き上げた。丁度真下は、かつて開閉扉があった地点にあたる。超大型巨人の襲撃により、打ち壊されたそこを大岩で塞ぐ作戦には、アルミンも命懸けで奔走した。あの日を忘れるなとでもいうように、ヒトの力では動かすことの叶わぬ大岩は、市街を守ってその身を横たえている。
壁の上に立ち、少年は、はるか下方に広がる町並みを眺める。腕を広げれば、その中に閉じ込めてしまえそうな、小さな世界だ。市場の喧騒も、50メートルの上空までは、届かない。聞こえるのは、低く鳴る風の音だけだ。
群を離れて、ひとり佇む静寂は、奇妙に現実感を欠いている。地に足のついていないような浮遊感に、アルミンは目を閉じた。鋭敏になった聴覚が、風を切って舞う力強い翼を捉える。吹きつける風が、マントをはたびかせ、髪をかき混ぜていく。
無数の羽ばたきと共に、鳥たちが、アルミンの脇を飛び去った。
それにつられるようにして、アルミンは背後を振り仰ぐ。眩いばかりの太陽に、目が眩んだ。青空はどこまでも続き、はるか地平が霞んで見える。
壁の内から外へ、外から内へと、鳥影は自由に行き交う。何に遮られることもない青空を、鳥たちは飛び去っていく。蒼穹を映し込んだ青灰色の瞳を細めて、アルミンはそれを眺め遣った。
「──『外』へ出たいか」
背後からの声に、アルミンは、天空へと向けていた視線を切った。声の主が誰であるのかは、振り返って確かめるまでもなかった。ゆっくりと靴音を響かせて、ピクシスは少年の傍らに立つ。
「お主がその気であれば──調査兵団へと、話を通さぬでもないが」
「……」
幼い頃から共に過ごした、友人の姿が瞼に浮かぶ。再び、彼と共に、走れるとしたら──飛べるとしたら。目を伏せて、アルミンは緩く首を振った。
「僕は、ここで……彼らの帰る場所を、守りたいのです」
彼らが憂いなく、壁外に進出出来るよう、アルミンたちは、残された人類圏を死守する。これ以上、犠牲を出すわけにはいかないのだ。
そうして、彼らとは違うかたちで人類を守るとともに、アルミンは、自由の尖兵たる彼らの居場所も守りたいと思う。両者の意味合いは、同一ではない。ただでさえ、税の無駄遣いとして、厳しい目で見られがちな調査兵団である。このまま、めぼしい成果を上げられなければ、解散の憂き目も免れ得ない。世間では既に、彼らを厄介者扱いし、忌み嫌う風潮も見受けられる。彼らを切り捨て、外界への扉を閉ざせば、人類は束の間の安寧を得るだろう。そして、緩やかに、衰退へと向かう。それだけは、避けなければならない。
たとえ、誰もが彼らを否定し、非難し、糾弾し、排斥しようとも──だから、アルミンは、彼らを守る。彼らを受け容れ、彼らの居場所を守る。いかなる手段を使っても、それが、己の果たすべき役割であると、知っている。今は無力だとしても、アルミンの瞳は、来るべき時を、はっきりと見据えていた。
アルミンの答えに、そうか、と司令は頷いた。
「あやつらにとっても、それが良いのかも知れん」
どういう意味だろうか、とアルミンは思ったが、司令はそれ以上、説明してはくれなかった。代わりに、アルミンへ向けて、意味あり気に笑む。
「お主の姿を拝んでから出陣すると、無事に戻って来られる、などというまじないが流行っておるようじゃな。昔からそうじゃ、壁の守護者として崇拝される兵士というのが、必ずおる。たいてい、年若い乙女だがの」
さしずめ、城塞(ルーク)にして女王(クイーン)といったところか、とピクシスはチェスになぞらえて、面白がるように付け加えた。
「はあ……それで、彼らの士気が上がるのであれば……」
喜ぶべきか、落ち込むべきか、判断のつかないままに、アルミンは曖昧に頷いた。何にしても、命を賭して壁外に挑む彼らを奮い立たせるのに、少しでも役に立てているのであれば、自分がここにいる意味もあると思う。壁の守護者などという物言いは、あまりにも大げさであるが、そう見做されていると思えば、いっそうに職務への熱意が増すというものだ。
「では、参ろうかの。間もなく会議じゃ……お主にも同席して貰う」
「はっ」
気を引き締めて、アルミンは背筋を正した。吹きつける風に逆らって、壁の内へと向き直る。
いかに、果てしない地平に憧れようとも、己の向かうべき場所を、見誤ることはない。鮮やかに染めたマントを大きく翻して、一歩、一歩を踏み締める。
この背中に、蒼穹を舞うための翼はない。純白の羽根飾りを帽子に挿して、今は異なる道を歩む友人を想う。
──いつの日か、壁の外へ。
約束の言葉を胸に、少年は顔を上げ、己の立つべき場所へと歩き出した。




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『反撃の翼』アルミンEXクラス「司令補佐」があまりにも突然のピクミンすぎて… あと…かわいい!

2013.09.23

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