檻のユーフォリア 1
部屋にある水差しを使わずに、わざわざ庭の井戸へと赴いたのは、外の空気を吸いたいと思ったからだ。宵闇に紛れるようにして、草を踏み分け、歩を進める。先日、手入れをしたばかりだというのに、もう足首ほどまで伸びている雑草の、旺盛な生命力を実感する。
昼間であれば、威勢の良い兵士たちの掛け声、馬の嘶き、立体機動装置の胸のすくような射出および斬撃音があちこちで響き鳴る、活気に満たされた我らが根城も、今は、ひっそりと静まり返っている。静謐な闇が、はるか天空から降りて、古城をすっかり包み込んでいた。時折の風が、周辺に広がる森の木々を揺らす。どこからか、梟の囀りが聞こえた。
井戸の傍らに、人影を見出して、エレンは歩調を緩めた。先客か──こんな時間に、出歩く者があろうとは、とエレンは自分を棚に上げて思った。こちらに背を向けて、水を汲み上げているため、誰であるのかは判然としないが、背格好は小柄である。
近付いていくと、向こうもこちらに気付いたのか、肩越しに振り返る。耳下辺りで切り揃えた金髪が揺れて、仄かに光を反射する。月明かりに照らされた面立ちに、あ、とエレンは小さく声をもらした。水を汲んでいたのは、訓練兵団同期にして幼馴染の親友、アルミンだった。
「エレン」
向こうも、誰が来たものかと身構えていたのだろう。ほっとしたように、アルミンは表情を緩める。こちらが歩み寄るのを待っていれば良いのに、待ちきれないとばかりに、嬉しそうに駆け寄って来る。その笑顔を見ると、エレンは少しばかり、己に圧し掛かる重圧が和らいだような気がした。おう、と返事をして、二人して井戸に陣取った。
「陣形訓練、進んでるみたいだな」
よく冷えた地下水で顔を洗いつつ、エレンは隣の友人に話し掛けた。彼ら新兵とエレンは、同期とはいえ、その課せられた役割は大きく異なっている。全員揃って、長距離索敵陣形の実戦的訓練を積む彼らと、リヴァイ兵長率いる特別作戦班の精鋭たちと行動を共にするエレンが、日中に顔を合わせる機会は、そうあるものではない。
仲間たちの動向を、何とはなしに気に掛けていたエレンだが、久し振りに会った気がするアルミンが、怪我をするでもなく、落ち込んでいるでもないことに、小さく安堵していた。これならば、訓練は順調に進んでいると考えて良いだろう。うん、とアルミンは感慨深げに応じる。
「新しい兵服を着て、新しいことを学んで……思い出すよ、訓練兵団入りしたばかりの頃のこと。また、気を引き締めていかないと」
「一ヶ月後には壁外、だからな。……ああ、すっきりした」
袖口で無造作に顔を拭って、エレンは大きく息を吐いた。清涼な水を肌に浴びて、身体の中に滞っていたものまで、洗い流されたような心地だった。気を許せる友人に出逢えたということも、影響しているのだろう。
前髪から水滴を滴らせて、人心地をつくエレンに、アルミンは苦笑する。
「エレン……全然、拭けてないよ」
ほら、と手を伸ばして、アルミンは自分の携えた布でエレンの髪を拭った。丁寧に、水気を吸い取っていく。
「ん。悪い」
優しい手つきで、水滴が拭われていくのを、エレンは心地良く目を閉じて受け容れた。弟や子どものように、ミカサに世話をされることには、なまじ「家族」であるだけに気恥ずかしさが先立って、つい反発してしまうエレンであるが、相手がアルミンならば、抵抗はない。互いに、手の届かないところを補いあうのは、友人として当たり前のことであると思う。
共に入浴していた訓練兵時代には、大雑把なエレンの拭き残した背中や頭を、アルミンは「風邪引いちゃうよ」といって、甲斐甲斐しく拭ってくれたものだ。思い出すと、顔を拭かれているだけだというのに、不思議と、安堵が胸に満ちた。
「はい、出来た」
最後に、確かめるように軽く頬に触れてから、アルミンは満足げに頷いた。そこで、エレンは、ふと気付いた。ああ、触れられているから、安心するんだ──そんな、小さな発見が、新鮮に感じられた。それきり、もう用は済んだというように、友人の手が離れてしまって、少々物足りなかった。
ツタの這う石壁に、並んで背を預け、夜空を見上げる。磨き抜かれた鋼の刃に似た輝きを放つ、白銀の月を、エレンは目を細めて眺めた。エレンにあてがわれた、窓のない部屋からは、一日の終わりに夜空を眺めることも、朝の清廉な光で目覚めることも叶わない。周囲のざわめきも、四方の厚い壁に遮られて、気配すら感じ取れないのだから、下手をすれば時間感覚を喪失してしまう。
エレンの面持ちから、物憂げな色を感じ取ったのだろう、隣のアルミンが、気遣うように問うてくる。
「今は、地下で寝てるんだっけ」
「ああ。まったく、陰気で湿気っててたまらねぇよ」
言って、エレンは辟易したというように、おおげさに肩を竦めてみせた。それは滅入るね、とアルミンは自分のことのように表情を曇らせる。その反応を、エレンは好ましく感じた。
やはり、アルミンは分かってくれるのだな、と思った。離れ離れになっている間にも、エレンを理解し、共感しようとしてくれる。こいつの前では、強がりも意地も、必要ないのだと思える。弱音を吐くことも──許される。そう思うと、口が勝手に言葉を紡いでいた。
「それに……思い出しちまう。審議所の地下で、鎖に繋がれてたときのこと」
ブーツの爪先で、軽く草を蹴りつつ、エレンは苦い記憶を蘇らせる。
自由を奪われ、身も心も少しも休まることのない、狭苦しい寝床。周囲から絶えず向けられる、恐怖と嫌悪、疑念の眼差し。そこには、敵意以外の何物も存在しなかった。階段を上って地上に出れば、光が降り注いでいるということも、信じられなくなるほどに、陰鬱な闇に抱かれていた。
世界から、自分だけが、ぶつりと切り離されている。一筋の光も、こちらに射してはくれない、あの闇を──思い出す。
己の両手を、じっと見つめて、エレンは呟く。
「……変わってねぇんだって、思い知らされる。手錠は、外れたけど……俺は未だに、地下室の化物なんだって」
囚われている──壁の中に、古城の中に、地下室の中に、この身体の中に。いつでも、「処分」出来るように、枷を嵌めて、囲われていることを思い知らされる。ぐ、と拳を握った。
拳を震わせるエレンを、アルミンは気遣わしげに見つめた。それから、夜空に視線を移して、呟く。
「少しずつ……変わっていくよ。皆、理解してくれる筈だ。自由を制限されるのも、今は、監視というだけじゃなく……エレンを守るという意味合いが、強いんだと思う」
「どうだかな……」
友人からの折角の慰めの言葉であったが、今ばかりは、無邪気に受け容れることは出来なかった。アルミンも、それは承知の上であったのだろう。そうだよね、と言って俯く。森の木々を鳴らした風が、沈黙する両者の間を過ぎ去った。
こいつは、何でも分かっているんだな、とエレンは自然と思いを抱いた。エレン自身のことさえ、本人よりも、余程よく理解している。だから、アルミンはミカサと共に、つい行き過ぎてしまうエレンを引き留め、繋ぎとめてくれる。エレンが揺らいで、自分を見失ったとき、こちら側へと呼び戻してくれるのは、いつだって、この幼馴染だった。その声が、言葉が、掌が、温度が、エレンにとって、小さな灯りとなる。ちっぽけで、消えてしまいそうに儚い、けれど、暗闇にあっては、何よりよく視える、光だ。
風に乱れた髪を、アルミンは軽く梳いて、耳にかけた。その横顔を見つめて、気付けばエレンは、一歩を踏み出していた。
「……アルミン」
「うん…?」
不思議そうに首を傾げて、アルミンは応じる。衝き動かされるように、エレンは、友人との距離を詰めた。ざり、と足元で踏み締めた枯葉が鳴った。
「触って……くれないか。あのとき、みたいに」
「……エレン?」
触れるほどに近づいても、アルミンは逃げようとはしない。それは、エレンに、己の行為への確信を強めさせた。そんな必要もないのに、友人を閉じ込めるように、石壁に両手をつく。冷やりとした硬い感触を、掌に覚えつつ、姿勢を前傾する。落ちかかる影の中で、初めて、アルミンが小さく肩を跳ねるのが分かった。いったい、どうしてしまったのかというように、青灰色の瞳がこちらを見上げてくる。困らせるつもりはないのに──早く、分かって貰わなくてはと、エレンは言葉を重ねる。
「巨人の肉の中から、引き摺り出してくれた……あのとき、みたいに。触ってくれ」
焦燥のままに、目の前の友人の肩を掴んだ。青灰色の瞳が瞠られ、エレンの手の中で、小さな身体が強張る。構わずに、エレンはアルミンの肩を揺さぶった。
「触れないと、はっきりしない……どこまで、俺の身体なんだ? この身体は、俺なのか? なあ、……教えてくれよ。分からせてくれ」
「っ……」
もっと、しっかりと掴みたいのに、肩を強く揺すると、アルミンの頼りない身体は、あっけなくよろめいてしまう。その背中を、壁に押し付けて、ようやくエレンは、友人の身体を固定することが出来た。薄い肩を押さえ込んで、少し体重をかけると、アルミンは小さく呻いた。エレンを安心させるような言葉を言ってもくれないし、黙って手を差し伸べてもくれない。
「おい、……聞いてるのか、アルミン。どうしちまったんだよ」
どうして、答えてくれないのかと、エレンは焦燥を募らせる。縋るように、友人の肩に、ぎり、と指を埋め込んだ。
「痛っ……エレン、待っ……」
「お前が、俺を、引き戻したんだから、……お前なら、分かるんだろ、俺はもう、……」
分からない──アルミンの肩に掛けた、この指が、自分のものかどうかさえ、定かではない。
これは、本当に、自分の意思で動く、自分の身体なのだろうか? ならば、何故、友人の顔を、苦痛に歪ませている? そんなことを、望んだのか?
違う──こんな筈じゃ、なかった。
思うと、途端に、指先の感覚が消失した。力を込めることが、出来ない。あれほど強く、アルミンを拘束していたエレンの手は、あっけなく外れて、だらりと垂れ下がった。
「……あ?」
信じられないものを見る思いで、ぎこちなく、片腕を持ち上げる。肘から先に、力が入らない。感覚がない。思うように、動かせない。
そうだ、と脳に電流が走る。
腕は──食い千切られたんじゃないか。あの、忌まわしい巨人の口の中で、骨まで一気に、噛み潰されたのだ。刃物で断ち切られたのとは違う。切断面は、組織がぐしゃぐしゃに千切れ、潰れ、ひどいことになっていた筈だ。どんなに腕の良い医者がいたとしても、二度と、繋ぎ直せる筈もない。
だから──腕は、存在しない。その筈だ。感覚が無いのも、当然のことだろう。ありもしないものを、感じることも、動かすことも、出来るわけがない。
だが──と、エレンは緑瞳を瞠った。
それでは──この腕は、何だ? どうして、こんなものが、ついている? 自分の意思で動きもしない、何の感覚もない、こんなものが?
これまで、自分の腕だと思っていたものが、目の前で、醜悪な肉の塊に変容する。全身を、怖気が走った。
「う、わ……っ」
恐慌のままに、エレンは、やみくもに腕を振り払った。肘から先に力は入らないが、肩を回せば、連動して振り回すことは出来る。だらりと垂れ下がった片腕が、壁に叩きつけられて、鈍い音と衝撃が鳴った。それでも、しつこく繋がった肉は、離れてはくれない。もう一度だ、と思った。得体の知れないものに、身体を乗っ取られる前に、こちらから引き千切ってやる。
「こんなっ……早く、引き剥がさねぇと、」
骨を打ち砕くほどの意図で、エレンは腕を振り上げ、そのまま、力任せに振り下ろし──しかし、その動作は、壁に激突するより前に、中途半端なところで静止した。我に返ったというのではない。たとえ思い直したとしても、エレン自身、既に、止めることは出来なかった。そうではなく、外部から、強制的に、止めさせられたのだ。
「……エレン」
小さく紡ぐ、アルミンの声は、弱々しく掠れていた。声だけ聞けば、今にも泣き出しそうな顔で、頼りなく友人に縋りついているように思われただろう。しかし、実際には、それとは少し違っていた。
縋りつくのではなく、アルミンはエレンの腕を、しっかりと抱え込んでいた。咄嗟に、身体ごと、腕にしがみつくような格好でもって、アルミンは、エレンの衝動的な行為を押し止めたのだ。
拘束している、というものものしい表現は相応しくはないが、少なくとも、それでアルミンは、エレンの意図を封じることには成功していた。小柄とはいえ、仮にも鍛えられた兵士の身体ごと腕を振り回すだけの膂力を、エレンは持たない。動きを封じられたエレンは、もう片手でもって、友人を引き剥がしにかかった。
「アルミン、……離せよ、危ないだろ」
「……駄目だ」
肩を震わせながら、それでもアルミンは頑として、エレンの腕を、離そうとしない。少しでも力を緩めれば、すぐさま振り払われてしまうと思っているのだろう。胸に抱えた、エレンの片腕を、決して離すまいとするように、ぎゅ、と抱き締める。
そんなものを、どうして、守ろうとするのか、エレンには分からなかった。次の瞬間にも、得体の知れないこの腕は、アルミンを傷つけるかも知れない。爆薬にも似た、そんなものに、無防備に身体を密着させていいわけがない。
どうして、分かってくれないのか──聞き分けのない友人の態度に、エレンは声を荒げる。
「アルミン、いい加減に、」
「……エレンだよ。ずっと、昔から、変わらない。エレンだ」
紡がれた声は、かき消されてしまいそうに小さく、しかし、はっきりと耳に届いた。どんな状況下にあろうとも、高く澄んだアルミンの声は、いつもエレンの耳に届いて、決して聞き逃すことがない。その声が、エレンを奮い立たせ、叱咤し、慰め、「こちら側」に──引き留める。友人を引き剥がそうとする手を、エレンは、ぴたりと止めた。
僕が、知っている、とアルミンは穏やかに声を紡いだ。温かな手が、腕を伝い下りて、そっと手を握る。その、柔らかな感触を、エレンは掌に感じることが出来た。しっかりと腕を抱き締める、アルミンの温度と、鼓動、なけなしの重さを、感じることが出来た。
こんな状況だというのに、否、こんな状況だからこそだろうか。アルミンは、ぎこちなくも、優しい頬笑みを浮かべる。
「エレンの──腕だ」
「……ああ、」
指先に、力を込めてみる。ぴくりと、思った通りの指が跳ねた。繋いだアルミンの手を、確かめるように握ると、応えて、小さく握り返してくる。自然と、指を絡め合った。自分と、アルミンの指の一本一本を、明瞭に感じた。もう大丈夫だと、その指先が、伝えてくれているような気がした。
「悪い……取り乱して、」
「ううん。いいよ」
ばつの悪い思いでエレンは詫び、アルミンは緩く首を振って応じた。それでも、しっかりと繋いだ手を解くことはしない。ふふ、とアルミンは可笑しそうに声をこぼす。
「こう、するのは……二回目になるのかな。エレンは、覚えていないだろうけど」
「なんだよ、それ……」
自分が寝ている間に、そんなことをしていたのか、とやや咎めるような口調になってしまった。いったい、そのとき、アルミンはどんな顔で、指を絡めたのだろうか。やはり、安堵したような、泣き出しそうな顔をしていたのだろうか。
そのときのことを思い出したのか、アルミンは青灰色の瞳を伏せて、懺悔するように声を紡ぐ。
「腕、痛かっただろう? ごめんね……僕のせいで、二度も」
俯いて、アルミンは、きゅ、と繋いだ手を握り締める。彼が、そのことを気にしているだろうことは、エレンにも分かっていた。だから、安心させてやるように、自由なもう片手でもって、友人の金髪の頭を撫でた。
「平気だ、もう治ってる。それに、あの時は、痛みなんて、感じてる余裕もなかった」
巨人に腕を食い千切られ、あるいは、超硬質ブレードに刺し貫かれて、痛みがなかった筈もなかろうが、実際、そのときはそれどころではなかった。痛みにのたうち、泣き叫ぶことが出来るのも、心身にある程度の余裕があってこそである。極度の興奮状態では、痛みを感じる暇もない。巨人どもとの初めての戦闘の最中、手足を食い千切られようとも、苦痛に意識を奪われることなく、友人のために動き続けることが出来たのは、そのためだ。
二度目のときは、巨人の肉の中に埋もれて朦朧としていたから、そもそも、腕を刺し貫かれたこと自体、はっきりと覚えてはいない。覚えているのは、繰り返しこちらに呼び掛けてくる、アルミンの切迫した声だ。
あのときも、アルミンが、こちら側へ連れ戻してくれた。いつだってそうだ、突っ走って、行き過ぎてしまう──同期の言葉によると、死に急いでしまう──エレンを引き止めて、崖っぷちで連れ戻してくれるのは、ミカサとアルミン、幼い頃からの二人の親友だ。
少しでもタイミングが遅れて、引き留めきれなければ、共に足を踏み外し、真っ逆さまに墜落してしまうのに、それを分かっていながら、彼らはぎりぎりまで、エレンを追ってきてくれる。エレンのために、何の見返りも求めずに、当たり前のように、そうしてくれる。だから、エレンは、辛うじて踏みとどまることが出来る。向こう側へと、取り返しのつかない一歩を、踏み出さずに済む。
エレンにとって、二人の存在は、自分がこちら側に確かに属しているという、その証左なのだ。しっかりと、こちら側に立脚している友人がいるから、迷わずに、戻って来られる。
ああ、まだ、大丈夫だ。まだ、自分でいられる。この手が、繋ぎとめてくれている。繋いだ手を握り返しながら、エレンは、自然と目を閉じた。指先から伝達する、柔らかな感触を、大切に味わった。
「ああ、痛くはなかったが……熱かった、気がする。焼けた石、押し付けられた感じで」
「……それは、相当に痛かったってことじゃないかな……」
苦笑するアルミンの息遣いが、微かに鎖骨の辺りを撫でる。何故だか、エレンは鼓動が鳴るのを感じた。じわりと、心臓の熱が、指先へと伝い走る。
エレンのささやかな変化には気付いた様子もなく、アルミンは相変わらず穏やかに問う。
「今は?」
「……くすぐったい」
正直に答えると、友人は、安堵したように頷いた。
「ちゃんと、繋がってるってことだ。骨も、筋も、神経も。ちゃんと、エレンだよ」
くすぐったいのは、お前の呼吸や髪が首を掠めるからなのだが、とは、エレンは言わなかった。友人の言葉が正しいのならば、彼をこうして肌で感じている首も、腕も、ちゃんとエレンに繋がっているということである。温かさも、柔らかさも、くすぐったさも、感じるすべてが、エレンの存在を保証してくれる。
「お前が、言ってくれると、……なんか、落ち着く」
「そう。なら、良かった」
もっと近付けば、もっと、安らぎを感じることが出来るのだろうか。触れ合わせれば、自分の境界が分かって、安堵の中で、眠ることが出来るのだろうか。思うと、ねだらずにはいられなかった。きっと、アルミンは断らない、と確信していた。
「なあ、アルミン。もっと、」
「……うん」
思った通り、アルミンは、気恥ずかしげに目を伏せながらも、小さく頷いてみせた。
体格的に優れているとはいえない、ほっそりとした腰に、もう片手を回して、引き寄せた。互いの身体が、密着する。手を繋ぐよりも温かく、接触面積の問題か、思ったより熱い、と感じた。身体を押しつけるようにして抱き寄せつつ、エレンは声を潜めて告げる。
「お前も、……腕、回せよ」
「う、うん」
腕の中で、小さく身じろぐ気配があって、そろそろと持ち上がった腕が、エレンの背中に回る。小さく服を掴んで、それは、抱くというよりは、しがみつくといった方が適当であっただろう。変わらないな、とエレンは思った。幼い頃、いじめられて怪我を負ったアルミンを、エレンが背負ってやったり、手を引いてやったりしたとき、いつもアルミンは、こうしてエレンの服を摘んだものだ。
腕の中の友人の、未成熟な身体に、身体を擦り寄せる。アルミンは戸惑うように、ひくりと肩を震わせたが、拒むことはしなかった。頬を擦り寄せ、鎖骨を押し当て、心臓を重ねた。シャツの薄い布地越しに、とくとくと脈打つ、温かい身体を感じる。もっと、もっとと、追い求めているうちに、いつしか姿勢が崩れ、友人に覆い被さるような格好となる。こんなところで、と思いながらも、止めることは出来なかった。頭を打たないように、支えてやりながら、草の上に、ゆっくりと押し倒した。身体を重ね合って、手脚を絡める。ぐ、と上体を押し付けると、アルミンの唇から、小さな呻きが上がった。
「エレン、どいてくれないかな……重いし、背中、痛い」
「あぁ……我慢してくれ」
アルミンのささやかな抗議を、エレンは、そっけなく受け流した。我ながら、ひどい応答であるとエレンは思ったが、それよりも、ここで離れてしまうことが惜しかった。それは、アルミンも分かってくれる筈だと、身勝手ながら、確信していた。
予測通り、アルミンは不満げに、ひどいな、と呟いたが、かといって、エレンを押し退けようとはしなかった。ならば、続けても構わないということであると、エレンは解釈した。
大人しくなった友人を相手に、エレンは、繰り返し、身体を擦り合わせた。はじめのうちは、細身の友人を押し潰してしまわないようにと、気を遣って自重を支えていたが、次第に、そんなことを気にしてはいられなくなった。アルミンの温度を、肌で感じるほどに、安堵とは違うものが、身体の奥から湧き起こる。それが、何であるのかは分からないままに、ただ、心地良さを追い求めて、重なり合った。布擦れの音に、微かに乱れた呼吸が、入り混じる。
「っ、は……エレン、ちょっと、待って……」
肩を両手で押し返されて、初めてエレンは、アルミンが息を切らしていることに気付いた。
見れば、アルミンは目を伏せて、力なく顔を背けている。寄せた眉は苦しげで、唇は忙しい息を継いでいる。
「おい、……大丈夫か、」
とりあえず、身体を起こして呼び掛けると、アルミンはぼんやりと、青灰色の瞳を上げた。大きな瞳は、いつもより潤んで、光を揺らしている。睨んでいるつもりなのかも知れないが、あまり咎められているようには感じられなかった。
「圧し掛かっておいて、その台詞はないよ……ああ、苦しかった」
胸を上下して、アルミンは幾度か、深呼吸を繰り返した。どうやら、胸の上に圧し掛かられたせいで、まともに肺を膨らませることが出来ていなかったらしい。
手を引いて、身体を起こしてやりながら、エレンは己の性急な行為を詫びた。
「悪い、気付かなかった」
「だろうね……いいよ」
小さな溜息を吐いて、アルミンは緩く首を振ってみせた。エレンが無茶をして、アルミンが巻き添えを食うのは、幼い頃からありふれたことで、加害者側であるエレンの言うことではないが、今更、言い争うようなことではない。悪気のないことが分かれば、アルミンはどんな目に遭っても簡単に、エレンを赦してしまう。ごめんな、とエレンは友人の金髪を軽く撫でてやった。
そうこうしているうちに、新鮮な空気を取り入れて、呼吸はだいぶ、落ち着いてきたとみえる。ほのかに紅潮した友人の頬に、エレンはおもむろに、掌をあてがった。ふるりと、伏せた睫が震えるのが分かる。頬を包みながら、エレンは感想を呟く。
「さっきより、熱い」
「エレンの手も、だよ……」
添えられた掌に頬擦りをして、アルミンは応じる。柔らかな手触りを、エレンは暫し、堪能した。
「エレン……」
「ん」
そろそろと持ち上がった、アルミンの手が、エレンの頬に触れる。両手で軽く包み込まれる感触に、エレンは、くすぐったいな、と肩を竦めた。触れるばかりに顔を寄せて、アルミンは、じっとエレンの瞳を覗き込んでくる。互いの息遣いが聞こえる距離で、暫し、見つめ合った。
昼の陽光の下では、抜けるように晴れ渡る空と同じくらい澄み切って見える、アルミンの瞳は、今は薄闇に包まれて、冬の曇り空の色をしている。寂しそうな色だ、と思った。吹雪の中、かじかむ手で農作業を続けていた、厳冬の開拓地を思い起こす。厚い雲の向こうに隠れた太陽は、幼い少年少女を温めてはくれなかった。お互いの手を握って、せめて、温もりを分け合っていた。あのときの、靄に覆われて、何もかもが灰色にくすんだ景色を、アルミンの青灰色の瞳は、映し出しているようだった。
だから、寒いのだろうか。寂しいのだろうか。温めて欲しいと、欲しているのだろうか──
「もう、大丈夫だね」
間近で発せられた、その言葉に、エレンは、はっと我に返った。灰色の雲に覆われた景色が、かき消える。何故、こんなときに、何年も前のことを思い出すのか、分からなかった。最早、無力な子どもではないのだ。あの頃とは、違う。記憶の残滓を振り払うように、軽く頭を振って、エレンは笑ってみせた。
「ああ。お前のおかげだ、ありがとな」
それで、アルミンも安心したようだった。
見れば、柔らかな金髪に、ところどころ枯葉が絡んでしまっている。
「すまん、汚れちまったな」
目についたものから、指先で摘み取ってやりつつ、エレンは詫びた。背中の土埃も、ついでに払ってやる。
「いいよ。平気」
一方的に押し倒され、土に汚れたというのに、アルミンは、少しも気にしていないといった風情で言う。その態度が、エレンは少々、気がかりに感じられた。
確かにアルミンは、喧嘩っ早い同期たちと違って、穏やかな性質ではあるが、自分の身が害されたことについて、もう少し何か、感じるべきところがあるのではないかと思う。この調子では、押し切られるままに、何もかも許してしまいかねない。勿論、エレンはそんなことはしないが、よからぬ思いを抱く輩というのは、どこにでもいるものである。
「俺の言えたことじゃねぇけど……お前、無理すんなよ」
「してないよ」
何を言い出すのだろう、とでもいうように、アルミンは不思議そうに目を瞬いて応じる。そうじゃなくて、とエレンはもどかしい思いで続けた。
「いや……今のは、そうだとしても……他の奴らとか。今の俺じゃ、何かあっても、昔みたいに、すぐに駆けつけてやれねぇから……」
「ああ……そりゃあ、他の人だったら、ちょっと困るけど……エレンなら、平気。エレンだから、いいんだ」
照れくさそうに、そんなことを言う。自分だけが特別に、アルミンに許されているというのは、悪い気はしなかった。同じように、エレンとて、アルミン以外には、こうして己の内面をさらけ出そうとは思わない。同じなのだ、と思った。お互いが、お互いだけに、許している。気恥ずかしくも、それが、友人ということなのだと思った。
「じゃあ……行くね。おやすみ」
「ああ。おやすみ」
それぞれの寝床へ帰るべく、二人は反対方向に向けて歩き出した。陰鬱な地下室に戻らなくてはならないことに変わりはないが、エレンの足取りは、やって来たときよりも、だいぶ軽くなっていた。