檻のユーフォリア 2
深呼吸をして、朝の清廉な空気を胸一杯に吸い込む。地下室から這い出て、白い陽光を浴びながら、朝露の匂いのする風に身を晒すとき、エレンは、自分が蘇ったことを感じる。一度死して、暗闇に葬られたものが、再び、光の下へと再生を果たす。それは、巨人の肉に埋もれて、熱と闇に朦朧とする中、誰かの手によって引き摺り出され、強烈な光に瞳を射られたときに感じたものと似ている。アルミンと井戸の脇で言葉を交わした、あの夜からは、何とはなしに、寝覚めの良い日が続いていた。
朝食までは、まだだいぶ時間的余裕があるだけに、起き出している兵士はまだ少ないものとみえる。人気のない廊下を、エレンは厩舎へ向けて歩んだ。
向かいから、ぞろぞろと数名の足音がする。角を曲がって、姿を見せたのは、新兵たちの小グループだ。何か談笑しながら、こちらへ向かってくる。その中に、友人の麦藁色の髪を見て取って、エレンは足を止めた。
「あ──」
「お、エレン! 早いな」
真っ先に気付いて、手を振ってきたのはコニーである。気さくに駆け寄ってくる同期に、エレンは片手を上げて応えた。
「ああ、馬の世話だ。お前らは?」
「食事当番。ここ、すげぇ良い食材揃ってんのな。芋と豆だらけのこれまでとは、大違いだぜ」
「折角の食材、台無しにしちまわないようにな」
「わかってらぁ!」
任せろと言わんばかりに、彼らは威勢よく、厨房へと向かって行った。
「……エレン、ちょっと」
「ん……なんだ」
一人、その場に残ったアルミンの、音量を抑えた呼び掛けに、エレンは短く応じた。
二人きりになると、妙に気恥ずかしい。あの夜の一件があるからだろうか。アルミンも同じ思いだったようで、暫し躊躇うようにしてから、声を潜めて問うてくる。
「あの、夜のことだけど……」
「……ああ」
何を言われるのだろうかと、エレンは神妙に、アルミンの言葉の続きを待った。なにしろ、突然のことであったから、その場では混乱してしまって、言えなかったこともあったのかも知れない。後から落ち着いて考えてみたときに、アルミンなりに、色々と思うところがあったのだろう。何でも聞いてやろうという思いで、エレンは友人を見つめた。
自分から言い出しておきながら、アルミンは、なかなか続きの言葉を紡ごうとしなかった。青灰色の瞳を伏せ、躊躇いがちに、唇を開く。
「兵長には……報告した?」
「……え?」
それは、エレンの側としては、思いがけない問いであった。自分の軽率な行為のために、友人から何らかの小言を言われるだろうとは予測していたが、何故ここで、リヴァイ兵長の名が出てくるのだろうか?
一瞬、戸惑ってから、ああ、と納得する。あの夜のエレンの取り乱した様子を、アルミンは、巨人化の副作用か何かと見做したのだろう。ゆえに、エレンの身柄を預かる責任者に、早急に事実を報告すべきであるという結論に至った。生真面目なこの友人の考えそうなことだ、とエレンは内心で苦笑した。
自分のことだからよく分かるが、あれはなにも、いちいち上へ報告するような類の変調ではない。たまたま、そういう気分になってしまったというだけのことで、巨人化と関係があるとは思えない。こんなことを、いちいち報告していては、多忙な兵長にとっても、迷惑でしかないだろう。ただでさえ、世話になっている彼に、これ以上、余計な面倒を掛けさせたくはない。
どうやら、事を大げさに捉えてしまっているらしいアルミンを安心させる意味で、エレンは軽く答えた。
「いや、別に、いいだろ。何もなかったんだし、ちょっと混乱しちまっただけだ」
「……そう」
応じるアルミンの表情は、何故か、晴れることはなかった。不審に思いながらも、この友人は心配性だからな、とエレンは結論付けて、深く考えることはなかった。励ますように、自分より低い位置にある肩を、ぽんぽんと叩く。
「じゃあな。訓練、頑張れよ」
「うん。エレンも、気を付けて」
窓から差し込む、朝一番の白い陽光に、目を細める。それぞれの方向へ向けて、二人は歩き出した。ふと、エレンは、振り返って付け加える。
「あぁ、そうだアルミン。今度、何か良い本あったら、持って来てくれよ。地下室、何もなくて、退屈しちまうんだ」
「本? 分かった、探しておく」
頼んだぞ、とエレンは手を振った。実を言えば、現状、エレンはさして本に飢えているわけではない。足しげく図書館に通っては、両手いっぱいに持てる限りの本を山積みにして、貪欲に知識の吸収に励んでいるアルミンは、どうやら一日に一定以上の文字数を読まなければ生きていけない体質のようであるが、エレンはそうではない。夜更けの静かなひとときを、読書をして過ごすくらいならば、明日に備えてさっさと寝てしまう方が理に適っているという考えの持ち主である。たいてい、日中の訓練で身体は疲弊しきっているから、睡眠時間は、いくらあっても困ることがない。
だから、これは、エレンの浅知恵に過ぎなかった。友人の好きなものを持ち出して、機嫌を取ったと言われれば、それまでのことである。それでも、アルミンの青灰色の瞳が、嬉しそうに輝くのを見て、エレンは安堵を覚えた。その声が、少し高揚したように弾んで聞こえて、満足だった。一瞬でも、友人を遠く感じてしまったのが、くだらない勘違いだと分かって、エレンはほっと一息を吐いた。
アルミンは、何も変わっていない。変わることなく、エレンの一番の友人なのだ。その実感を胸に、エレンは厩舎へと向かった。頭の中で、本日の行動予定を確認する。先輩方と哨戒に出て、そのまま周辺の林に陣取って、立体機動術の鍛練──その間、アルミンは他の新兵たちと共に、壁外で生き延びるための知識を叩き込まれている筈だ。次に会えるとすれば、ちょうど食事の時間が重なったときか、先ほどのように、移動中の偶然に頼ることになるだろう。
別れたばかりだというのに、もう、次を考えてしまっている自分が、可笑しかった。あまり長いこと、常に傍にあったものだから、こうして離されていると、どう距離をとったら良いのか、感覚が分からなくなってしまう。ただ、約束は取り付けたのだから、近いうちに、また話せるだろう。悪夢に魘され、叫びながら飛び起きる、そんな目覚めは、もう、ごめんだった。
本当は、陰鬱な地下室に欲しいのは、本ではなくて、アルミンなのだ。眠りに落ちるまで、アルミンが、隣で話を語り聞かせてくれたら良い。子どもの頃のように、抱きあって眠ったら、きっと、何より安堵する──夢想しているうちに、思い切り馬の鼻息を浴びせ掛けられて、エレンはうわ、と声を上げた。
午後の哨戒を終え、夕食までのひとときは、暫しの団欒の時間である。古城の一角に設えられた、談話室と呼ばれている部屋は、目下のところ、リヴァイ兵長率いる特別作戦班専用の休憩所として使用されていた。その性質上、隅々まで完璧に拭き清められた室内には、調査兵団設立当初からのものであろう、重厚なるテーブルが据えられ、その上には、磨き抜かれたティーセットが鎮座している。何かというと、ソーサー付きのカップで茶を愉しむというのが、特別作戦班の日常の一部となっていた。重厚なる歴史を感じさせる古城の趣きにはよく似合っているが、野外にまでわざわざ一式を持ち出して、青空の下の茶会と洒落込むのだから、よほどのこだわりようである。
自分の前に置かれたティーカップから立ち昇る湯気を、エレンは茫として見つめた。湯気──煙──蒸気。巨人の肉体の放つ、圧倒的な熱風。決して、正体を見せないもの。手を伸ばしたところで、空しく、かき消えてしまうもの。その先には──何が──
「どうした。飲まないのか?」
隣でカップを傾けていたグンタの声に、はっとして我に帰る。いくら休憩中とはいえ、気が抜けて茫とするなど、褒められたことではない。取り繕うように、エレンは頭をかいた。
「いや……こんな風に、茶を飲んで、菓子を食うとか、とても考えられなかったので……なんだか、妙な感じで」
テーブル中央の大皿には、一口程度の小さな焼き菓子が数種類、盛りつけられており、各人は気ままにそれを摘んでいた。こんがりと焼き目のついた、四角い一片を、グンタは軽く摘み上げて口に運ぶ。
「そう、たいしたものじゃないぞ。家庭料理に毛が生えたようなもんだ」
「ああ。王都なんかの洗練されたものとは、比べ物にならん」
エレンの感想を不可思議に思ったのだろう、エルドたちは首を捻りつつ言った。ああ、とエレンは彼らと自分との差異に思い至り、説明を付け加える。
「その、家庭料理の味とかも……もう、忘れかけてたもので、」
そこで、彼らは一様に、何かに気付いたような表情を浮かべた。しまった、というのが、その心境を表現するには最も適切であっただろう。こういう雰囲気が、エレンは好きではない。訓練兵団に入って早々に、同期に取り囲まれ、巨人の話をせがまれたときも、そうだった。特別扱いをされても、少しも気が楽にはならない。哀れまれるのは、何より堪え難い。
そんなエレンの意思を、特別作戦班の先達らは、察してくれたのだろう。取り繕うような言葉も、憐憫の視線も、向けられることはなかった。それが、エレンにとっては、何よりありがたかった。
「……訓練兵団に入る前は、開拓地にいたんだったか」
「はい。幼馴染の奴らと、一緒に」
微妙に話題をずらして貰えたことに安堵しつつ、エレンは応じた。開拓地か、とペトラは思いを馳せるように詠嘆する。
「あの頃の開拓地の食糧事情、相当に厳しかったって聞くわ。苦労したでしょう」
「そうですね……だいぶ、ひもじい思いもしましたが、三人で助け合って、なんとか。あ、この度、入団した、ミカサ・アッカーマンとアルミン・アルレルト、あいつらです」
帰る家は失くしたが、ちゃんと自分には、硬い絆で結ばれた友人たちがあるのだと、エレンは言いたかった。自分は、自分たちは、決して、哀れな子どもなどではない。その点を、強調しておきたかった。言外の主張が伝わったのか、エルドは深く頷く。
「勇敢な幼馴染を持ったな、エレン」
はい、と誇らしくエレンは応えた。隣では、ペトラが記憶を探るように中空を見上げている。
「ミカサと、アルミン……ごめんね、まだ全員の名前、覚えてなくて」
「おい、なにも俺たちから歩み寄って、覚えてやる必要はねぇぞペトラ。むしろ、あいつらの方が、俺たちに顔と名前を覚えて貰うために努力すべきなんだからな。それが先輩の威厳というものだ」
割り込んできたオルオに、はぁ、と苦笑いして、エレンはもう少しだけ、昔話を続ける。
「ミカサは、そこらの大人より農作業が得意で、その分、少しだけ褒美も貰えたし……アルミンは、仕事は苦手だったけど、あいつ、昔から頭良くて、大人にも気に入られやすかったから……どっかから、パン貰ってきて、俺やミカサに分けてくれたんですよ。本当、あれは助かりました」
「……『気に入られる』か。気に入らねぇな」
口を挟んだのは、それまで雑談の輪から一人外れて、気だるげに椅子にもたれていたリヴァイである。吐き捨てるようにして、呟かれた一言は、音量にしては大したことはなかったが、エレンの耳が聞き逃すことはなかった。思わぬ人物からの、思わぬ言葉に、エレンは瞠目する。
「えっ……リ、リヴァイ兵長、あいつが何か……?」
「……」
少年の疑問に答えることはせずに、リヴァイはつまらなそうにカップを傾ける。これは、説明する気がまったく無いときの態度である。なんとかして、彼の心中を推し量るほかに、コミュニケーションの術はない。僅かに和みかけた、場の空気は、彼の一言によって、再び固まってしまった。誰もうかつに反応が出来ない中、エレンは懸命に頭を廻らせた。
自分の友人は、知らぬ間に、この人類最強の兵士の気に障るようなことを仕出かしていたのだろうか? 生真面目で大人しいアルミンに限って、そんなことは考え難いが、なにしろ相手は、その潔癖ぶりで畏怖されるリヴァイ兵長である。何が逆鱗に触れるか、分かったものではない。エレンは身をもって、その恐怖を知っている。
尊敬する兵士長と、幼馴染の親友との間に確執があるというのは、エレンとしても、具合が悪い。それぞれと適当に話を合わせて上手く付き合うような器用な真似は、エレンには出来ない。
だいたい、同じ調査兵団組織の仲間内で、いがみ合うことはないではないか。壁の外に一歩出れば、命を預けて共に戦う者同士なのだ。兵長は、個人的に「気に入らない」からという理由で、新兵を差別するような狭量な人物ではないと、エレンは信じているが、それでも、友人を貶められたままではいられない。少年は慌てて、幼馴染を擁護した。
「気に入らないって、そんな……確かにあいつは戦闘向きじゃないですけど、でも、頭は優秀で、いつも一生懸命で、仲間思いで、」
「そんなことは、分かってる。俺が言ったのは、……」
結局、そこでリヴァイが何と言いたかったのかは、分からずじまいであった。彼の物憂げな声をかき消すように、勢いよく、扉が押し開けられたからだ。
「さあさあ、今日も楽しい実験の時間が始まるよ! はりきっていこう!」
そんな陽気な掛け声とともに登場したのは、ハンジ分隊長である。大足でテーブルに歩み寄り、「ちょっと借りるね!」とエレンの腕をとる。力強く引っ張られるままに椅子から腰を浮かせつつ、エレンは戸惑いの声を上げる。
「ちょ、……今からですか!?」
「善は急げだよ、エレン! 共に生き急ごう!」
最早、実験計画しか頭にないと思しきハンジに連行されるかたちでもって、エレンはその場を離れざるを得なかった。辛うじて振り返って見た限り、リヴァイは何事もなかったかのような面持ちで、不味そうにカップを傾けていた。
エレンの襟首を引き摺りながら、ハンジは意気揚々と、本日のスケジュールを語る。
「今日はね、エレンの運動能力の限界に迫りたいと思うんだ。巨人じゃなくて、人間の方のね。巨人の力が、傷の回復の他に、体力面にも何らかの影響を及ぼしているとすれば、それを武器として利用出来るかも知れない……何にせよ、まずは試行錯誤さ。科学ってのは、地味で地道なひとつひとつの事実の積み重ねだ。私にも、君自身にも、未だ、正解なんて分からないんだから。実行あるのみ!」
「は、……はい…!」
頼もしい先達の言葉に鼓舞されて、エレンは覚悟を固めた。
数時間後、その覚悟は、崩壊寸前といった様相を呈していた。
死ぬかと思った──という言葉を、最早、自分は気軽に使える身分ではないと、エレンは重々承知しているが、それでもなお、現在の心境を表現するとすれば、これ以外に、相応しい言葉はなかった。死ぬ寸前まで走れ、とは、訓練兵時代にはお決まりのしごきであったが、まさか、ここでもそれを繰り返す羽目になるとは思わなかった。
限界まで肉体を酷使して、最早立っていられないまでに疲弊し、地面に這い蹲るエレンの傍らで、データを見比べていたハンジの出した結論は、
「特に、変化はないみたいだね」
という、あまりにもシンプルな一言であった。この有能なる研究者にとっては、それはそれで、かけがえのない貴重なデータとなるのだろうが、「何もなかった」という結論にありがたみを感じられるほど、エレンは科学的思考に心臓を捧げた人間ではなかった。
「主観的には、どうかな? なにか、気分の変調とかはない?」
「いえ、特には……」
喋るのもだるいほどであるが、これは身体的疲弊のゆえであろう。気分の変調──一瞬、あの夜のことが頭を過ぎった。上の人間に報告すべきである、と言っていた、アルミンの心配そうな表情を、思い起こす。
「ん? 何かあった?」
エレンの微妙な表情の変化を見逃すことなく、ハンジはずいと身を乗り出して問うた。いったい、何を期待しているのか、その瞳は爛々と輝いている。話せば、すぐさま「それは大変だ。詳しく調べる必要がある!」とでも言い出しそうな勢いである。探究心の塊そのものといった熱い視線から、顔を逸らしつつ、エレンは緩く首を振った。
「……いいえ」
何でもありません、と応える声は、少し、掠れた。期待が外れたせいか、ハンジは少しばかり残念そうな顔をしたが、それ以上、追及しようとはしなかった。代わりに、ふと思い出したように、人差し指を立てる。
「ああ、言い忘れていたけれど、これは継続実験だから」
「……は?」
思いがけない言葉に、エレンは気の抜けた声をもらして、目を瞠った。分隊長が口にするのは、たいていの場合、思いがけない言葉ばかりなので、エレンは何度、こうした反応をさせられる羽目になったことか分からない。この人物の突飛な言動に慣れるには、今暫くの時間が必要なようである──それはともかく、今、何と言われた?
声を失うエレンに、ハンジは慈愛すら感じさせる穏やかな面持ちで、ゆっくりと言い聞かせるように紡ぐ。
「一度きりの試行で言えることなんて、微々たるものだ。言っただろう、地道な反復によるデータの蓄積によって、私たちは、少しずつ、相手のかたちを見極めていくんだよ。何が正常で何が異常か、なんてのは、結局のところ、比較の問題だけれど、今の君には、それを測る物差しもないわけだから……ああ、安心して、なにも今すぐ、もう一回やれっていうんじゃないから。今日はゆっくり身体を休めて、また明日もよろしくね!」
「……は、……はい…」
釣り込まれるようにして、エレンが頷いたのを確認して、ハンジは満足げに去っていった。エレンは、思わず、深々と息を吐いていた。ハンジは何かと熱弁していたが、エレンの内に残ったのは、明日もやるのか、という茫然たる心地だけであった。