贖罪の部屋 1
子どもの頃、小鳥が喰われているのを、見たことがある。
近所の石畳の道を歩いていたら、上から、舞い落ちてくるものがあった。一瞬、花弁かと思った。白く、小さく、ひらひらと風に煽られながら、ゆっくりと落ちてくる。それは、羽だった。綿のように軽く、柔らかそうな、白い羽が、断続的に、降ってくる。
雨が降り出したとき、人が無意識にそうするように、何の気なしに、顔を上げた。すると、民家の屋根の上に、小鳥がいた。他の鳥に、喰われているところだった。たぶん、もう、動かなくなっていた。大きな黒い鳥が、しっかりと爪を食い込ませて押さえ込み、太い嘴で、その羽を毟っていた。獲物を捕えて歓喜するように、黒い鳥は、大きく翼を広げて、ばさばさと打ち鳴らす。それに混じって、何かが、引き千切れる音。舞い落ちる羽毛は、いつしか、赤く染まっていた。
その後、どうしたのだったかは、覚えていない。ただ、今でもはっきりと、その場面が記憶に残っており、こうして鮮やかに思い出せるということは、暫し、茫然として、目の前の光景を見ていたのだろう。
次に記憶にあるのは、自分の見たものを親に報告している場面だ。小鳥がかわいそうだ、どうしてあんなひどいことをするのかと、訴えた。あんな黒い鳥は、ひどいやつだから、みんな殺してしまえばいい。そう、真剣に思っていたし、主張もした。
親は、困った様子で、仕方がないんだよ、と応じた。小さくて、弱いものは、喰われてしまっても、仕方がない。それは、どうしようもなく、はじめから決まっていることだ、と言った。そういうものなのだから、諦めなさい、と肩を叩かれたことを覚えている。
小さくて弱いものは、守って、助けてやらなくてはいけないものだと、思っていた。そういう風に、周りの大人たちから教えられてきたし、当たり前のことだと思っていた。それなのに、仕方が無いことだ、と言われて、混乱した。とうてい、納得は出来なかった。そういうものなのだとして、受け流すことは、出来なかった。
──否。
本当は、分かっていたのかも知れない。そういうものなのだと、分かっていた。
喰われつつある小鳥を、助けようともせずに、立ち尽くしていた、あのとき、頭に満ちていたのは、かわいそうだという思いよりも、仕方が無い、そういうものだという、諦念だったのではないか。石を投げるなり、棒を振り回すなりして、黒い鳥を追い払う方法はあった筈なのに、何もせずに、突っ立っていた。小さなものが、喰われるさまを、ただ眺めていた。そんな自分を認めたくないがために、親の前で、意地を張ってみせた。結局のところは、あの小鳥を憐れんでいたのではなくて、何を変えることも出来ない、無力な己を直視したくなかっただけのことだ。
昔の話で、今となっては、食物連鎖の理に異議を申し立てようとは思わない。あの鳥も、生きるために喰ったという、ただそれだけのことで、それが哀しいだのなんだのといった感想は浮かばない。小さくて弱いものが、真っ先に狙われるのは道理であると、承知している。
──ただ、それでも。
空から舞い落ちてくる羽毛は、本当に軽やかで、柔らかそうで、光を透かす様は、とてもきれいだった。こんな清らかな羽を持つ、小さなものを、両手の中にそっと包み込んだら、どれほどの温もりと、儚い柔らかさを、感じることが出来ただろうかと、夢想した。
かさついた掌を見つめて、今でも、思い出す。
あの日、喰われてしまった小鳥を。
この手の中に、探している。
■
ストヘス区憲兵団支部は、この度の女型巨人捕獲作戦による市街の被害状況への応対に、その殆どの機能を割いていた。関係者──すなわち、作戦を独断専行した調査兵団の人員──への事情聴取のための一室の用意さえも、どうやら、ままならぬ状況であるらしかった。憲兵の先導で、作戦に携わったいまひとりの同期と共に通路を歩みながら、ジャンは状況を推察した。
推測通り、連れて行かれた先は、支部の一室ではなく、それに隣接する宿舎であった。空き部屋の一つを、臨時の取調室として使用しているものとみえる。前を行く憲兵に聞こえないよう、音量を落として、ジャンは独りごちる。
「慣れねぇ『お仕事』で、てんやわんやなんだろうな。……早いとこ、片が付くと良いが」
呟いて、ジャンは赤く染まりゆく空を眺め遣った。隣のアルミンが、控えめに応じる。
「うん……街の復興にしろ、住民の精神面のケアにしろ、時間はかかるだろうけれど……」
「事情聴取のことだよ。早く終わらせて、休みてぇ……」
ふぁ、と欠伸を噛み殺して、ジャンは己の本心を述べた。隣を歩む同胞の、伏し目がちの横顔に視線を落とす。
「お前だって、そうだろ。壁外からこっち、ずっと働き詰めで、気の休まる暇もなかった……正直、エレンの野郎より、お前を寝かせるべきじゃねぇか」
「そんなことは……僕は、平気だよ」
「疲れた、って顔してるぜ」
「そう……かな」
力なく俯いて、アルミンは吐息混じりに応じる。その顔だ、とジャンは思った。初めての壁外調査からというもの、この小柄な同期の肩に、どれだけの重荷が課せられてきたか、ジャンはそれなりに理解しているつもりだった。自分たちがついていながら、頭脳担当のこいつに怪我を負わせてしまったのは、大きな失態であったと思うし、その罪滅ぼしというわけではないが、壁内へ帰還するまでは勿論、その後も、出来るだけ近くで気に掛けてやった。
ジャンの見る限り、アルミンは、いつも苦しんでいた。そして、それを他人に悟らせまいと、努力していた。ジャンに悟られている時点で、それは失敗であったということになるが、少なくとも、エレンやミカサの前では、意識的に「強い自分」を演じていたように見受けられる。
それも、もう、一休みして良いんじゃないかとジャンは思う。そろそろアルミンは、自分がどれほど、精神的にも身体的にも、ぎりぎりのところまで追い詰められ、疲弊していることか、分からなくなってしまっているのかも知れない。あるいは、それを自覚したら、もう終わりだとして、あえて目を背けているのだろうか。自分の死に様について、アルミンは、「考えないようにしている」のだと言っていた。考えれば、恐怖心が生まれ、戦場に立つことが出来なくなる。それと同じで、アルミンは自分自身を、留まることなく走り続けさせるために、その邪魔となるものを、「感じないようにしている」のかも知れなかった。足を踏み出せなくなって、立ち尽くすくらいならば、砕け散るまで走り続けることを、アルミンは、望むのだろう。
そんな風に、焦ったところで、決して良い結果は生まれないと、聡いアルミンが分からぬ筈もないが、どうもアルミンは、自分自身をあまり大事にしない傾向がある。自分を大事にするのと、臆病というのは異なるし、いくら強い兵士でも、自分を大事にしなければ、あっさりと巨人に食われて終わるだけだ。何も捨てられない者には何も変えられないと、アルミンは自身に言い聞かせるかのように、繰り返し口にするが、ジャンにはそれが、エレンとは違った意味で「死に急ぎ野郎」であるところのアルミンにとって、己の行為を正当化するための、後付けのエクスキューズではないかと思えるのだ。
確かにアルミンは、必要とあれば率先して、仲間のために自らの命を投げ打とうとする。そこには、本来あるべき躊躇いも恐怖も、殆ど感じられない。だが、それは、アルミンの言う信念ゆえの行動であるとは、ジャンには思えなかった。先に行動があり、後から、それを言語化した信念がついてきた、と考える方が、しっくりとくる。
「自分を捨てる」ことにだけは、躊躇いのないアルミンにとって、「何も捨てられない者には、何も変えられない」「何かを変えられるのは、何かを捨てられる者」という文言は、救済なのだ。その言葉は、アルミンの選択を、お前は正しいといって、後押ししてくれる。その言葉だけを信じて、アルミンは、突き進むことが出来る。
ただ、友人が自信をつけるのは、良いことである筈なのに、ジャンがそれを素直に喜べないのは──アルミンが、あまりにも純粋で、しかも、頑固だからだ。アルミンを救う筈だった、その言葉は、同時に、彼を懊悩に突き落とす。何もかもに、馬鹿正直に向き合おうとした結果、きっとアルミンは、破綻するだろう。
否──もう既に、少しずつ──
「入れ」
高圧的に発せられた憲兵の声に、ジャンは思考に沈んでいた意識を引き戻された。ここまで少年たちを先導してきた憲兵は去り、代わりに、臨時の取調室前で彼らを待ち受けていた若い兵士に、身柄を引き渡される格好となる。促されるまま、ジャンはアルミンと共に、室内に足を踏み入れた。背後で、扉が閉まり、錠の掛かる音がした。
簡素な宿舎の一室には、中央に四人掛けのテーブルが据えられ、おそらくは隊長格であろう、足を組んで座する壮年の憲兵、その背後に控える若い二名の部下が、ものものしい雰囲気を醸し出している。部屋に元々備え付けてあったとみえる、窓辺で穏やかに揺れるカーテンと、隅に据えられた寝台が、緊迫した空気とは不釣り合いに感じられた。
「さっさと席に着け」
背中を押す、硬い感触は、先ほどの憲兵が携えたライフルの銃口であろう。まるで罪人扱いだな、と胸の内で舌打ちをしつつ、ジャンは一歩、進み出た。そのときだった。
「あっ……」
隣で、小さな声が上がったと思った瞬間、ジャンは咄嗟に、手を伸ばしていた。殆ど、反射でしかない行動だった。差し伸べた腕に、軽い衝撃が走る。よろめきかけるのを踏みとどまりつつ、ジャンは、己の咄嗟の反応が間違いではなかったことを知った。ジャンの片腕は、つんのめって倒れ込みかけたアルミンを、危ういところで抱き留めていた。何が起きたのか分からない、というように目を見開くアルミンを見下ろして、ジャンは眉を寄せた。
「おい……何しやがる」
低く呟く、その言葉を向けた相手は、アルミンではない。その後ろに立ち、今しがた、無防備な少年の背中をライフルの銃口で無造作に押しやった兵士だ。険しく睨めつけるジャンの眼光にたじろいだ様子もなく、男はライフルを片手に弄んでいる。
「ぐずぐずしているもんだから、後押ししてやったんだろうが。こんなことで蹴躓くとは、調査兵団も情けないもんだな」
「ってめぇ……!」
侮蔑と嘲笑を隠そうともしない物言いに、ジャンは思わず、相手に掴みかかりかけた。もし、それを実行していたならば、次の瞬間には、向けられた銃口が火を吹いていたことだろう。そうならずに済んだのは、ジャンの腕を、ぐ、と掴んで引き留める者があったからだ。
「ジャン。……やめよう」
張り上げるでもなく、冷静に落ち着き払った声で、アルミンはジャンを制止した。殆ど、腕に縋りつくばかりにして、一歩も行かせまいと引き留める力は、思いのほか強い。
「でも、お前、……っ」
「いいんだ……僕は、平気。ちょっと、躓いちゃっただけ」
それより、早く、席に着こう、と促す。ここは堪えろと言い聞かせるように見上げてくる青灰色の瞳と、周囲の憲兵どもを順に見て、ジャンは、きつく拳を握り締めた。込み上げるものを堪えて、無言で席に着く。
「──失礼いたしました」
向かいに座する、上役の憲兵に、アルミンは深々と頭を垂れて詫びた。少し遅れて、ジャンもぎこちなく頭を下げる。とりあえずはそれで、双方ともにこの件は、なかったことにされたようだった。
「それでは──詳しい話を、聞かせて貰おうか」
到底、納得のいかない思いを抱えながらも、ジャンはアルミンと共に、この度の女型巨人捕獲作戦の発端に関する証言を始めた。
「──だいたいの事情は把握した。質問は以上だ」
書類をまとめつつ、憲兵に告げられた言葉に、ジャンは胸の内で盛大に安堵の息を吐いた。自分たちの応答によっては、調査兵団の存続も危ぶまれるかという瀬戸際で、懸命に頭を廻らせつつ、そつのない会話を続けるのは、想像以上に神経の参る時間であった。隣のアルミンはと、横目で様子を窺えば、やはりこちらも、表情の緊張がほんの僅かに和らいでいる。ここへ連行される間にも、ずっと纏っていた、張り詰めた雰囲気が、いくらか解けたようで、ジャンは自分のことのように、ほっと息を吐いた。
やれやれ、アルミンにしろ自分にしろ、これでようやく、寝床で休める──ジャンが椅子を立ちかけた、そのときだった。
「──アルミン・アルレルト」
「……はっ、」
ペンを傍らに置いた憲兵が、威圧的に呼び掛けた。応じて、アルミンは、姿勢を正す。事情聴取は終わったというのに、いったい、何の用であろうか──戸惑いの表情を浮かべる少年に、憲兵は顎をしゃくると、「そこに立て」と短く命じた。
言われるままに、アルミンは席を立ち、テーブルの脇に立った。少年の全身を舐めるように眺め回して、男は重々しく告げる。
「貴様は真に、アルミン・アルレルトか?」
「……? 仰る意味が、よく……」
目を瞬くアルミンに、憲兵は芝居がかった調子で肩を竦める。
「その柔弱な面構え、貧弱な肉体。とても、兵士とは思えん。我々を欺くべく送り込まれた、替え玉ではないか」
男が何を言っているのか、ジャンは一瞬、あっけにとられた。遅れて、ようやく、同胞が言いがかりをつけられているらしいことを認識する。難癖をつけるにしても、もう少し他にあるのではないかと思えるような、あまりにも稚拙な内容であったために、理解が遅れた。いったい、何を言い出すのか──戸惑いながら、ジャンは、まだよく状況を呑み込めていないらしい仲間に代わって口を開く。
「いや……そんな無茶な、こいつは間違いなく、自分の同期の、」
思わず口を挟みかけたところで、ジャンは、「貴様は黙っていろ」と一喝された。上官の言葉には絶対服従という、訓練兵時代に骨の髄まで叩き込まれた規律が、反射的に、口を噤ませる。
他人に命令することに慣れ切った態度で、憲兵は悠然と腕を組む。
「身内の証言など、当てになるものか。……おい、調べろ」
「はっ」
上官の目配せを受け、意気揚々として進み出たのは、先ほど、アルミンの背中を小突いた、下っ端の憲兵である。男は、今にも舌舐めずりをしそうな下卑た面持ちで、ライフルを構えた。
「おい……!」
今度こそ、ジャンは椅子を蹴って立ち上がろうとした。しかし、その瞬間、肩に鈍い衝撃が走っている。
「っう、ぐ……っ」
何かが打ち下ろされた衝撃のままに、ジャンは机に突っ伏す格好となった。骨に響く鈍痛に、低く呻きをもらす。辛うじて片目を開けて、ジャンは、己の肩がライフルの銃床で強打されたことを知った。上官の背後に控えていた二名の憲兵が、素早く動いて、ジャンの動きを制したのだ。撃たれなかっただけ、ありがたく思えということだろう。おそらく、次はない。事情聴取に抵抗し、暴れ出したため、やむをえず威嚇射撃をしたところ、当たりどころが悪く──そんな弁明には、きっと事欠くまい。
肩を押さえて呻くジャンの目の前で、アルミンは、気丈にも顔を上げて、憲兵に相対していた。緊張の色を隠せない、唇を引き結んだその表情を、兵士は小銃の照準越しに、じっくりと鑑賞した。
「すぐに吐かせてやりましょう──おい、貴様、何を企んでいる」
頭の悪そうな台詞を吐いて、兵士は丸腰の少年を恫喝した。己に向けられる銃口を、まっすぐに見つめて、アルミンは静かに応える。
「……今、お話したことが、私たちの知る、すべてです。事実の隠蔽も、歪曲も、誓って、ありません。僭越ながら、他の者の聴取結果と照合していただければ、ご理解いただけることでしょう」
「……は。いつまで、そう言っていられるだろうな」
「必要な情報があれば、すべて、正式に資料を提出いたします。隠し立てすることは、何も、」
「黙っていろ」
正論を述べるアルミンの鼻先に、小銃を突きつけて、憲兵は短く命じた。僅かに眉を顰めて、アルミンは口を噤む。大人しくなった少年を鼻で笑うと、男は、銃身を構え直した。
銃口は、触れるばかりの距離でもって、アルミンの額に狙点を定める。こめかみ、瞳、耳、首筋──狙いをつけながら、男はことさらにゆっくりと、アルミンの背後へと回り込んだ。その間、アルミンは微動だにせず、直立の体勢を保っていた。
兵士はアルミンの背後に立ち、わざとらしく音を立てて、小銃を構える。それでも、アルミンが怯えた態度も見せず、黙って背筋を伸ばしているのが、気に入らなかったのだろうか。男はおもむろに、ぐ、と少年の後頭部に銃口を押し当てた。無抵抗のアルミンの身体が、小さく揺れた。うなじから脊椎に沿って、銃口は舐めるようにして、ゆっくりと這い下りていく。平静を装うアルミンの頬を、一筋の汗が伝い落ちる。まさか、本当に撃たれはしまい──分かってはいても、ジャン自身、じわり、と嫌な汗が滲むのを感じた。
こんなことに何の意味があるのか、ジャンには到底、理解が出来なかった。銃口をつきつけて、奴らは、アルミンをどうしようというのか。こんな脅しによって、何か、有益な情報を引き出せるものとでも思っているのか?
──否。ジャン自身、はじめから、理解している──事情聴取が終わった瞬間から、自分たちは証人ではなく、奴らの暇つぶしの玩具に成り下がったのだと、分かっている。市街に甚大な被害をもたらし、憲兵団の面子を潰した、忌々しい調査兵団というのが、今の自分たちに下された評価である。そんな、本作戦の必要性も、成果の価値も理解していないのだろう男たちの、くだらない鬱屈の矛先が、今、銃口を通して、喉元に突きつけられているのだ。
「これでは、分かりませんな」
ライフルを構えた兵士は、再び正面に回って、銃口をアルミンの顎に掛けた。無理やりに顔を上げさせられて、アルミンは苦しげに眉を寄せたが、抗うことはしなかった。無造作に揺すられるままに、身を任せている。
こんな馬鹿連中に、仲間がいいようにされているという事実は、ジャンにとって、屈辱以外の何物でもなかった。巨人どもの領域に進出し、命懸けの戦闘の中で、ジャンは幾度、アルミンの智恵に感嘆したことか知れない。咄嗟の機転で、命を救われたことさえある。こいつにならば、背中を預けて戦える、と確信した。夜の森を往くような、星一つ視えない、不安に満ちた状況下であろうとも、こいつならば、打開する術を見出してくれる──そんな期待を、抱いてしまう。
訓練兵時代には、頭だけは良い、どんくさい奴という程度にしか捉えていなかったが、今では、決して欠くことの出来ない同胞であると認識している。アルミンにしか出来ないことがある──誰にも、代わりはきかない。
──お前たちが、くだらない暇つぶしで、ちょっかいをかけて良い相手じゃない。
どれほど、席を蹴って、そう叫んでやりたかったことか、分からない。実行に移さなかったのは、ひとえに、アルミンが無抵抗を貫いていたからだ。葛藤に呑まれながらも、ジャンは、アルミンの意思を尊重したいと考えていた。彼が、この場は耐えろというのならば、おそらくは、それが正しい。部屋に入ったとき、アルミンを小突いた兵士に、ジャンが掴みかかろうとするのを制止したのと、同じだ。後になってみれば、その選択が正しかったことが分かる。こういう場面で、後先考えずに暴れ出すのは、あの死に急ぎ野郎だけで十分だ。俺は、あいつとは違う──己を、律することが出来る。そう、自分に言い聞かせるしかなかった。感覚がなくなるほどに、拳を握り締めていた。
部下の銃口に弄ばれる、無抵抗の少年をじっくりと鑑賞して、上官は声高に命じる。
「確かに、これでは分からんな──おい、服を脱げ」
「な、……」
声を詰まらせたのは、命じられたアルミンではなく、ジャンであった。これに反応して、従順に伏せられていたアルミンの瞳が、一瞬、ジャンの方へと向けられた。青灰色の瞳が、まっすぐに、ジャンを見据える。思わず、ジャンは何事かを口にしかけたが、その前に、アルミンは視線を外してしまった。何を言うことも、許されなかった。
悠然と足を組み替えて、憲兵は威圧的に続ける。
「聞こえなかったか? 服を脱げと言っている。それとも、何か、隠さなくてはならない事情でもあるのかね」
「……いいえ、」
高く澄んだ声は、小さくもはっきりと、一言だけを紡いだ。意を決したように、細い指が持ち上がって、シャツの襟元に掛かる。僅かの逡巡の後、アルミンは、表情を隠すように俯いた。上からひとつずつ、釦を外していく。指先の動きは、少なくとも表面上は、平静であった。ぷつ、ぷつと小さな音がする度に、なめらかな鎖骨、白い胸元が、少しずつ、布地の合間から露わになっていく。
「……やめろよ、」
音を立てて椅子を引き、ジャンは、ゆっくりと立ち上がった。何をするつもりかと、背後の憲兵が、素早く肩を掴む。
「おい、貴様は大人しく、」
痛めた肩を、ぐ、と押さえ込まれて、鈍い痛みが走る。しかし、構うことなく、ジャンは叫んだ。
「やめろっつってんだよ、アルミン! お前、何やってるか、分かってんのか! 何かを捨てるってな、そういうことじゃねぇだろうが! 馬鹿じゃねぇのか、お前はもっと、っ──」
叩きつけるような怒鳴り声は、途中でぶつりと打ち切られた。長身が、ぐらりと傾ぐ。膝が、あっけなく崩れる。背後から、頭部に一撃を喰らったのだと、認識したときには、ジャンは派手な音を立てて、床に倒れ伏していた。呻きながら、身を起こそうとしたところで、額を床に叩きつけられる。
「が、っあ、……っ」
頭を持ち上げることが出来ない──断続的な鈍痛に、後頭部をブーツの踵で踏み躙られているのだ、と理解した。苦鳴をもらすジャンの耳に、落ち着き払った響きの声が届く。
「……この者は、別室に待機させてはどうでしょうか。ここに置いていても、ご覧のように、騒ぐばかりで、何ら有益な情報をもたらすものではありません。かえって、お手を煩わせる一方かと……」
信じ難いことに、憲兵にそれを進言しているらしいのは、アルミンだった。頭蓋に響く激痛に耐えながら、ジャンは血反吐を吐くような声で呻く。
「……アルミン、てめぇ……」
「いや、そういうわけにはいかんな。正当なる事情聴取の最中に、みだりに部屋を出入りさせるわけにはいかん」
どこか愉悦を含んだ響きで、憲兵は提案をすげなく却下した。それは、この場に留まることを望む自分の意思と合致していたので、ジャンはそれ以上、言葉を紡ぐことなく押し黙った。アルミンと共に、ここに残るという、こればかりは、唯一、下衆連中の考えに賛成であった。
あまりやりすぎるとまずいと思ったのか、それとも単に飽きたのか、頭を踏み躙っていた足が、退けられる。痛む額を押さえつつ、ジャンは身を起こした。倒れ込むようにして、椅子に身を預ける。
「俺は……逃げねぇぞ。お前だけ、置き去りにして、のこのこ帰れるか……っ」
呻き混じりに、ジャンは辛うじて、それだけは口にした。だから、二度とふざけたことを言うんじゃないと、射抜くばかりに力を込めて、友人を睨めつける。
アルミンは、一瞬だけ、泣き出しそうな、痛みを堪えるような顔をした。けれど、それも僅かのことで、すぐに隠れてしまったから、ジャンの見間違いであったかも知れなかった。何事もなかったかのような表情で、アルミンは、シャツの最後の釦を外した。
するりとシャツを脱ぎ落し、あらわとなった上半身は、確かに、兵士というには頼りなく、ほっそりとしたシルエットが、未成熟な骨格を強調する。ただ、その白い肌の上を這うように、はっきりと残る、立体機動装置のハーネスによる擦過痕が、彼が紛れもなく一人の兵士であることを証していた。
脱いだシャツを、アルミンは几帳面に折り畳んで、椅子の上に置いた。続いて、下衣に手を掛ける。好奇の視線を浴びながら、ゆっくりと、己のすべてを晒すアルミンを、ジャンはとても、見ていられなかった。堪らずに、視線を逸らす。脱いだ衣服を、やはり丁寧に畳んでいるのであろう、布擦れの音がして、それから、何も音が聞こえなくなった。どうしたのだろうかと、ジャンはそろそろと視線を上げた。
部屋の中央に、アルミンが立っている。身に付けたものをすっかり取り去って、隠すところなく、すべてを晒している。兵服を着込んだ憲兵たちに囲まれて、それは、異様な光景であったが、滑稽であるとは感じられなかった。
背後の窓から差し込む光が、少年の輪郭を、淡く縁取って浮かび上がらせていた。微かな風が通るたびに、切り揃えられた金髪が軽く揺れ、光を透かしてきらめく。沈みゆく太陽の、最後に残した黄金色の光を背負って、少年は、まるで重さも実体もないものであるかのように、そこに佇んでいた。小さく喉を鳴らして、ジャンは、自分がその光景に見惚れていたことに気付いた。自分も、周囲の何もかもが、静止したようだった。
しかし、それも、僅か数秒のことだった。流れる雲が、陽光を遮り、室内を翳らせる。途端に、そこに立つのは、哀れな生贄の子羊でしかなくなった。周囲の憲兵どもは、値踏みするような視線を隠そうともせずに、無遠慮にアルミンの肢体を眺め回す。
「一応、ついてはいるんだな」
先ほどの続きとでもいうかのように、ライフルを手にした憲兵は、小馬鹿にしたように言った。無防備に晒された、幼さを残すアルミンの下腹部を、銃口で探る。その手つきは、これまでとは、微妙に目的を異にしていた。瑞々しい内股を、つ、と撫で下ろし、また膝から、そろそろとなぞり上げる。ほっそりとした腰の辺りは、特に執拗な動きで、男は念入りにアルミンの肢体を辿った。
脇腹から伝い上がり、固定ベルトの痕に沿って、薄い胸元をなぞっていた男は、ふと、赤く色づいたその尖端に目を止めた。唇を歪めると、銃口を、ひたりとそこへ押し当てる。
「っ、ん……」
じっと口を噤んで堪えてきたアルミンが、ここで、小さく肩を跳ね、声をもらした。僅かな反応を、憲兵は見逃す筈もなく、白々しくも首を傾げる。
「ん? どうした、何か言いたいことでもあるのか?」
「……いえ、っ……、ふ、…」
冷たい銃口が、柔肉を押し込む。ひくりと肩を震わせ、アルミンは小さく身を竦める。そんな声を聞くのも、そんな表情を見るのも、ジャンは初めてのことだった。見てはいけないと思うのに、引き摺られるようにして、注意を引かれてしまう。いつしか、息を詰めて、異様な光景に見入っていた。
「乳首で感じていやがるのか。誰に教え込まれたんだ? 兵団の尊敬すべき先輩か?」
小突くように、あるいは弾くように、男は愉悦の表情で、アルミンの乳首を弄ぶ。気まぐれに、左右に刺激が与えられる度に、アルミンは、敏感に身を竦めて応じた。今や、その箇所は、触れられて悦ぶように、鮮やかに充血し、ぷっくりと立ち上がっている。あんな風になってしまうのか、とジャンは密かに唾を呑み下した。堪え難いというように、アルミンは唇を噛み締め、顔を背けた。
「態度が不審だな。これは、詳しく調べる必要がありそうだ」
黙って鑑賞していた上官が、重々しく呟く。詳しく調べる──服まで脱がせて、これ以上、何をしようというのか。ジャンが状況についていけずにいる間にも、下っ端は早速、無造作にアルミンの腕を捻り上げている。小さな苦鳴をこぼして、少年は身体をよろめかせる。もつれあうようにして、兵士はアルミンを寝台に押し倒した。身を起こす暇も与えずに、圧し掛かって制圧する。
苦しげに呻くアルミンを愉悦の表情で見下ろす、男の低劣な意図を、ようやく察して、ジャンは戦慄した。とりかえしのつかないことが、目の前で、起ころうとしている。最早、堪えることは出来なかった。椅子を蹴って立ちかけたところで、すかさず、背後の兵士に取り押さえられる。それでも、拘束を振り解かんと、力任せに身を捩って、ジャンは叫んだ。
「アルミン…! やめろ、離しやがれ! この、クソども、っ……」
無力な喚き声に、肉を打つ鈍い音が重なった。
「っ、ぐ……!」
声にならない呻きをもらしたのは、しかし、ジャンではない。小さな唇を、悲鳴の形にわななかせたのは、アルミンだった。一瞬、何が起こったのか分からずに、ジャンは瞠目する。
「なっ……アルミ、……」
「か、はっ…、は、ぁ……っ」
細い身体を折って、アルミンは、続けざまに咳き込んだ。苦痛に顔を歪め、庇うように、腹に両手を押し当てる。無防備なそこは、今しがた、ジャンが暴れ出すと同時に、憲兵によって容赦なく打ち据えられていた。
何故、アルミンが殴られなければならない。自分ではなく、アルミンが──抵抗も忘れて、ジャンは呻いた。非道を為した憲兵は、茫然とするジャンに向けて、肩を竦めてみせる。
「ほら、お前があまり騒ぐものだから、つい、苛ついて手が出ちまった。可哀想になあ」
鈍痛に耐えて肩を震わせるアルミンの、乱れた金髪を無造作にかき混ぜて、憲兵は唇を歪めた。おい、顔はやめておけよ、と仲間がおどけて忠告し、勝手知ったる様子で、窓に手を掛けた。蝶番の軋む音とともに、外界との接点が閉ざされる。緩やかに流れていた空気が、行き場を失って滞る。カーテンが引かれ、室内は薄闇に包まれた。
「大人しくしておくのが、お互いのためってことだ。さ、隊長、どうぞ」
部下の言葉に、上官は悠然と椅子を立ち、ジャケットを脱ぎ捨てた。腰のベルトを緩めつつ、寝台に上がる。ぎし、とスプリングが軋み、アルミンの小さな身体は、落ちかかる影に覆われた。
「強情な相手への尋問の仕方というのを、教えてやろう。貴様らも、よく見ておけ」
は、と胸に拳を当てる部下たちの前で、男は、ぐったりとしたアルミンの白い首筋に、顔を埋めた。