贖罪の部屋 4
ジャンの見る限り、アルミンはいつも、どこへ行くにも、エレンの隣にくっついていたものだが、彼の陰に隠れているというのではなく、他の同期たちとも、それなりに友好的な関係を築いていた。
直情的なエレンとは違い、温和で、何かと気が利き、控え目でありながら観察眼に長け、頭が切れる。座学の落ちこぼれ組が泣きつけば、しょうがないなと言いつつ、懇切丁寧に課題を解説してくれる。実技においては、アルミンは落第すれすれの惨憺たる成績で、普通であれば、周囲から蔑視される一方となる筈であるところ、むしろ成績上位者たちとの関係は良好であった。誰の目にも、戦闘向きではないと分かるアルミンが、それでも、決して音を上げることなく、懸命に訓練についてこようとしていること、その意思の強さを、彼らは知っていたからである。それを、身の程知らずとして疎ましく思う者は、少なくともジャンを含め、上位十名の中にはいなかった。
しかし、頭が良いくせに、どうしてこいつは、自分が兵士に向かないということだけは、理解出来ないのだろうかと、ジャンは不思議に思ったものだ。アルミンは、自分が訓練兵団の卒業試験を通過し、一人の兵士になるということを、疑いもしていない。精確に言えば──エレンと共に、兵士になるということを。
それは、アルミンの中では、既に、確定した未来だったのだと、今ならば分かる。それ以外の、いかなる選択肢も、アルミンの中には存在しなかった。存在しないものを、選ぶことは出来ない。つまり、アルミンは、それがどれだけ無謀であろうと、無茶であろうと、「そうなるしかなかった」のだと、ジャンは思っている。
あの頃、エレンとミカサは別として、アルミンが親しくしていた相手といえば、思い浮かぶのは、マルコだ。二人は、穏やかな性質と、頭脳労働を得意とする点で似通っており、自然と意気投合していたようだった。ジャンはエレンといがみ合っていたし、彼とつるんでいるアルミンに対しても、さして良い感情を抱いてはいなかったので、遠目に眺めていただけであるが、二人が書物を広げて活き活きと戦略分析を語り合っている様子は、仲の良い兄弟を連想させた。同期同士の間で、こう言うのも適切ではないかも知れないが、アルミンはそれだけ、マルコに懐いていたし、マルコはアルミンを尊重していた。
──守ってあげないと、と思うよ。
いつだったか、マルコはアルミンについて、そんなようなことを言っていた。幼さを残した小柄な少年に慕われて、やはり彼自身、保護者めいた感覚を抱いていたらしい。少し照れたような表情が、記憶に残っている。
トロスト区防衛戦においても、それは顕著であった。本部奪還作戦を立案したアルミンが、己の選択のもたらすであろう結果に葛藤していたとき、隣でさりげなく後押しをしてやったのは、マルコだった。彼とて、決して精神的に余裕のある状況ではなかった筈だが、それでも、手を差し伸べずにはいられなかったのだろう。
──アルミンは、僕の隣にいるといい。
銃を携えて、いよいよリフトに乗り込もうというとき、マルコはそう言って、アルミンを傍へと招き寄せた。ああ、確かに、守ってやろうとしているんだな、と、ジャンは別働隊で階下に向かいつつも、遠目に彼らを見つめて思った。
あのとき、エレンを目の前で巨人に喰われて失ったアルミンが、表面上は落ち着いているように見えて、その実、どれだけ危ういことになっていたか、マルコはちゃんと理解していたのだろう。ミカサとも別行動となった今、これは、傍に置いておかなくてはいけないと判断した。失われてしまった、エレンという、アルミンにとってあまりに大きな支柱の、一時的にでも、代わりになってやろうとした。
作戦中は、複数の巨人に囲まれる恐怖の中、アルミンを含む同胞たちを鼓舞し、見事な指揮をとっていたマルコであるが、片が付いた瞬間、一気に緊張が解けて、膝からくず折れたらしい。隣のアルミンが、慌てて支えてくれたんだ、と後から笑って教えてくれた。なるほど、一方的ではなくて、お互いに支え合っていたんだな、とジャンは思った。あの過酷な状況に耐えたアルミンを、少しだけ見直した。彼らはこれからも、良き友人同士で在り続けることだろう。当たり前のように、そう感想を抱いた。
それが──どうだ。
「っとに……何やってんだ、俺……なぁ、マルコ……何で、俺には、出来ねぇんだろうな、……」
小さくて弱いものを、マルコならば、ちゃんと守ってやることが出来たのだろう。その彼が、ここになく、代わりに、ここにいるジャンは、およそ考えられる限り最悪の結果を招いた。
合わせる顔がない、と思った。弱い人間には、弱い人間として、出来ることがあると、彼は言っていた。その言葉を、信じたかった。そういう人間でありたいと、心に決めていた。
──それなのに。
「こんな……手じゃ、何も……」
ぎり、と拳を握り締めた。
■
頭をふらつかせながら、寝台を降りる。壁際に寄って、ジャンは窓枠に手を掛けた。力を込めて、押し開ける。清廉な空気が、室内に流れ込み、カーテンを揺らした。暫し、目を閉じて、風が身体を撫でるに任せる。窓枠にもたれ、深く息を吐くと、片手で目元を覆った。
早く、拭い去ってくれ、とジャンは祈りに似た心地を抱いた。薄暗い室内に充満した、男どもの汗と体液の不快な臭いを、混濁した空気を、どうか、すっかりさらっていって欲しいと思った。出来ることならば、自分からも、そして、友人の身体からも、洗い流して欲しかった。しかし、いくら新鮮な空気を肺に取り込んだところで、身体にわだかまる、熱っぽい気だるさは消えることがなかったし、胸に圧し掛かるものは、少しも軽くならなかった。分かっていたことだ──拭い去り、洗い流して、なかったことにすることも、逃げることも、出来はしない。諦めて、閉じていた瞼を上げる。
窓の外の景色は、平凡で、穏やかだった。見上げれば、陽の落ちた藍色の空は、星を輝かせ始めている。昨日や、そのずっと前から、変わらない空だ。目を細めて、ジャンは、きらめく星の数を数えた。時折の微風が、優しく梢を揺らして通り抜け、頬を撫でた。
それから、外の景色に背を向けて、窓辺に背をもたれる。
薄闇に包まれた室内では、一つの頼りない灯りが、寝台の上を照らしていた。シーツの上に乱れた金髪は、微風に揺れ、その度に、きらきらと慎ましく光を反射する。茫として、ジャンはその小さな光の粒を眺めた。きれいだ、と思った。
エレンを寝かせて待機していた、あの部屋でも、ジャンは、光に透けるアルミンの金髪を見つめていた。見慣れた筈の、柔らかな金髪が、憔悴の色を滲ませる白い頬に落ちかかってきらめく、その横顔から、何故か目を離すことが出来なかった。きれいだ、という感想が自然と浮かんで、慌てて打ち消したことを覚えている。何を考えているのかと、己を戒めた。疲れているんだな、と自嘲したような気もする。ほんの、数時間前の話だ。
一つ溜息を吐いて、ジャンはもたれていた壁から身を起こした。椅子の上を探り、アルミン自身の手で丁寧に畳まれていた衣服を取り上げる。少し考えてから、取調役の憲兵が喉を潤すために用意していたのであろう水差しを、もう片手に取った。
出来る限り、友人の身体を見ないようにしながら寝台に寄り、ジャンは長身を屈めた。サイドテーブルに水を、枕元に衣服を置きつつ、静かに呼び掛ける。
「……アルミン。起きられそうか」
「……ぅ、」
呼び掛けに反応して、ひくりと肩が動く。小さく身じろいで、アルミンは、茫と天井を見上げた。シーツに腕をついて、緩慢に、身体を起こそうとする。途中、かくりと肘が折れて、ジャンは思わず、手を差し伸べかけたが、支えてやることは出来なかった。触れる前に、手が止まってしまった。この手で、自分がいったい、何をしたか、その感触が、まざまざと蘇った。その手を、再び、差し伸べることは、どうしても出来なかった。結局、アルミンが、何度も失敗しながら自力で身を起こすのを、馬鹿のように隣で待っていることしか、出来なかった。
乱れた金髪が、顔にかかるのを、アルミンは気だるげにかき上げた。青灰色の瞳は、ぼんやりと中空を見上げた後、ふと、傍らに視線を落とした。
「ん……服、ありがとう」
「あ、あぁ」
何と言ったら良いのか分からずに、ジャンはぎこちなく頷いた。謝るべきか、慰めるべきか、どうすれば良いのか、分からない。何を言ってやればいい──何をしてやればいい。この手で、傷つけたというのに、まるで分からなかった。
「汚れたり、破れたり、しなくて……良かった」
きれいに折り畳まれたままのシャツを見て、アルミンは、安堵したように息を吐いた。呟く声は、痛々しく掠れてしまっている。
どうして今、そんな表情が出来るのか、ジャンには分からなかった。衣服の心配よりも先に、言うべきことがあるのではないかと思う。服は無事で済んだかも知れないが、その代わりに、アルミンの身体は、汚され、破られてしまったのだから──それを為した相手の一人が、目の前にいるのだから。
アルミンは、ジャンに対して、何も言ってはくれない。出ていけ、消え失せろと吐き捨てられる心の準備は、もう出来ていた。そう言って貰えた方が、まだましだった。それだというのに、アルミンは、何をして欲しいとも言わない。そもそも、これまでだって、共同生活の中で、アルミンが誰かに何かをして欲しいと言うところを、ジャンは一度も目にしたことがない。
アルミンは、いつも、一人で何とか、片を付けようとする。決して、安易に他人に縋らない。それを知っていたから、ジャンは、堪らずに吐き出していた。
「何か、出来ること……俺に、させてくれ。自分のしたことの、責任は、……取る」
辛うじて、それだけ告げると、ジャンは口をつぐんだ。後は、アルミンが決めてくれれば良いと思った。その求めるところに、自分は、従うだけだ。
アルミンは、青灰色の瞳を上げて、じっとジャンを見つめた。そこには、いかなる嫌悪も、侮蔑の色も、浮かんではいなかった。いつも、何事にも正面から向き合って、見定めようとする、あの曇りなき瞳だった。ごくり、と唾を呑み下して、ジャンは、告げられる言葉を待った。暫しあって、アルミンは、小さく唇を動かす。
「それじゃあ……お願いしようかな」
「……ああ」
これで、少しでも、アルミンが楽になるのならば──罪滅ぼしに、なるのならば。安堵と、微かな緊張を覚えつつ、ジャンは頷いた。まずは、とアルミンは自分の身体を見下ろして呟く。
「中の……後始末を、しないといけないから、」
そっと労わるように、腹部に手を当てて、アルミンは、これからしなければならないことを簡潔に表現した。覚悟はしていたが、実際に口に出して言われることの生々しさに、ジャンは息を詰まらせた。アルミンの中を汚したのは、同罪だというのに、そんなことにも思い至らなかった己を、ジャンは恥じた。
自分の放ったものが、その後、どうなるかなんて、この身体から離れた時点で、もう関係がないような気になっていた。だが、それは今も、アルミンの腹の中に留まっているのだ。他の男の残したものと入り混じり、おそらくは、最後に繋がったジャンのものの濃度が、最も高い。
身体が離れた今なお、アルミンの中は、ジャンに犯され続けているのだ。それは、罪の証として、ジャンを糾弾する。もう一度、そこを拓かなくてはならないというのは、考えただけでも痛ましいが、アルミンにとっても、ジャンにとっても、このままというわけにはいかなかった。
せめて、ぶちまけてしまったものを、ジャンは、この手で始末したかった。そうしなければ、この先ずっと、負い目を抱えることになると思った。何より、自分の抱えた重苦しい罪悪感を、少しでも和らげることが出来ればと、浅ましい考えが先立っていた。アルミンのため、という言葉にすり替えて、自分自身こそが、この状況から、救われたがっていた。
今更、何を取り戻せる筈もないし、拭い去ることは出来ないのだと、分かっていても、淡い期待を抱いていた。アルミンの中から、自分の放ったものを掻き出してやれば、それは、なかったことになるのではないかと、期待した。
無意識のうちに保身に走る、浅ましい自分自身に、ジャンが直面したのは、アルミンから次に告げられた指示内容を、理解した瞬間だった。彼が、手順を教えてくれるのを、ジャンは従順に待っていた。そして、アルミンが口にしたのは、奇妙な指示だった。
「そこの……椅子に、座って」
「椅子……?」
気だるげに腕を上げて、アルミンは、先ほどまで並んで事情聴取を受けていた席を指した。いったい、そこで何をしろというのだろうか。奇妙に思いつつも、こういった経験のないジャンは、異論を差し挟むことが出来なかった。言われるがままに、席に着く。それを認めて、アルミンは小さく頷いた。
「そうしたら……顔を伏せて。出来れば、耳を塞いで……暫くの間、寝ていて」
「……は?」
さすがに、ここに至って、ジャンは椅子を蹴って立った。
「おい、それって、どういう……」
「終わったら、起こすから……その間、寝ていてくれと言ったんだ」
淡々とした口調で、アルミンは簡潔に指示を繰り返した。つまり、ジャンに手伝わせることは何もない、すべて自分でするから、関わるなと──そういうことだ。理解して、ジャンは、思わず声を荒げていた。
「俺は、お前のために、出来ることを──」
言い掛けて、ジャンは言葉を詰まらせた。気付いてしまったからだ。これが、唯一、自分の出来ることであるということに、気付いてしまった。何かしてやりたいといって、何も出来る筈のない、自分に気付いてしまった。
「……あまり、見られたい格好じゃない……」
言葉を失うジャンに、アルミンは、弱々しく微笑んでみせる。細い指が上がって、自らを抱くように、肩を掴んだ。
「大丈夫、初めてじゃないから……自分で、出来るよ。……お願いだ、ジャン…」
最後は、殆ど、哀願だった。大丈夫だと言いながら、その顔色は青褪め、今にも倒れてしまいそうに頼りない。見れば、指先が小刻みに震えている。それを隠そうとするかのように、アルミンは、ますます強く、自らの肩を抱いた。
今この瞬間にしても、アルミンは、決して、陵辱を受けた身体を他人の目に晒したくはないだろうということに、ジャンはようやく気が付いた。何かで身体を覆い隠してやることも、灯りを遠ざけてやることにも、思い至らなかった自分が、情けなかった。それを咎めもせずに、普段通りにジャンに向き合おうとするアルミンの、ぎりぎりの譲歩が、痛かった。
アルミンが、これから一人で行なう行為から、目を背け、耳を塞ぎ、ただ、終わるのを待つ。それが、ジャンに出来る唯一で──アルミンの、望みなのだと、分かった。
──そこで大人しく見ていろ、役立たず。
憲兵から投げつけられた言葉が、耳に蘇る。それに対して、ジャンは、何も返す言葉を持たなかった。今だって、同じだ、と分かった。
がくりと、膝を折るようにして、ジャンは椅子に座り直した。机に顔を伏せ、両腕でもって、きつく頭を抱える。
「……ありがとう」
安堵したような、か細い声が、寝台の方から聞こえた。聞こえていない振りを装って、ジャンは反応を示さなかった。こんな風に、耳を覆ったって、聞こえなくなるわけがないと、分かっていた。おそらくは、アルミンも承知している。とんだ茶番だ、と思った。それでも、こうして、白々しい嘘を通すしかない。そうやって、辛うじて、守れるものがある。守れるのだと、信じたかった。
「……ぁ、う……ん、っ……ふ、」
静寂の室内で、研ぎ澄まされた聴覚は、布擦れの音を明瞭に捉える。押し殺した控えめな息遣いも、時折、堪え切れずに入り混じる、上ずった声も、否応なしに、耳に入ってくる。駄目だ、聞くなと、いくら己に言い聞かせても、いったい今、寝台の上でアルミンがどういうことになっているのか、勝手に想像してしまう。
「う、……っく、ぁ……!」
苦しげな呻きが混じる度に、手を貸してやりたかった。きし、きしと寝台が軋む度に、かき抱いて、慰めてやりたかった。しかし、アルミンは、それを望んではいない。結局のところは、その小さな苦鳴に、己が糾弾されているようで、堪え難いというだけの、身勝手に過ぎないのだと、ジャンは知っている。
ならば、これは、罰なのだと思った。自分のしたことを、忘れるなといって、深く刻みつけるための、罰なのだ。逃げてはならない、余すことなく、受け容れなくてはならない。
寝台の方から聞こえるのは、いつしか、すすり泣くような声になっていた。
「っ、エレン……エレ、……ごめ、ん、……」
か細い嗚咽に、心臓の辺りを抉られながら、ジャンは、感覚が無くなるほど強く、拳を握り締めていた。ここにはいないエレンに対して、アルミンが、繰り返し、何を謝っているのかは、分からなかった。分かりたいとも、思わなかった。
「ジャン……いいよ」
どれほど、そうしていたことだろう。静かな声が掛かって、ジャンはゆっくりと、頭を起こした。見れば、寝台の上で、アルミンは衣服を身につけているところだった。シャツの釦を、ひとつひとつ留めていく、その手つきは、落ち着いてはいたが、のろのろと緩慢で、いつものような冴えた印象は、どこにも感じることが出来なかった。
暫し迷った後、ジャンは、ゆっくりと寝台に足を向けた。少しでも拒まれるようであれば、勿論、すぐに離れるつもりだった。しかし、アルミンは、何も反応を示さなかった。何事もなかったかのように、ジャンも平静を装って、アルミンの隣に腰を下ろした。寝台が、小さく軋んだ。
アルミンは、身体から汚濁を掻き出し、汚された肌を衣服で覆って、元通りになろうとしている。決して、取り戻せないと分かっていても、そうあろうと、努力している。ならば、自分はそれに付き合わなければならない、と思った。普段通りの振る舞いをしてやるのが、きっと一番なのだと、己に言い聞かせた。
襟元を留めながら、アルミンは、掠れた声で呟く。
「……ねえ、ジャン」
「なんだよ」
頬杖をつきながら、ジャンはあえて、どうでもよさそうに応じた。アルミンは、相変わらず、落ち着き払った態度で、少しばかり目を伏せて問う。
「僕に、欲情した?」
しん、と耳の奥が痛んだ。釦を留め終えたアルミンは、俯いたまま、ぼんやりと足先を見つめている。微風が、白い頬に落ちかかる一筋の金髪を揺らした。
小さく舌打ちをして、ジャンは頭を振った。
「……するわけねぇだろ、そんなもん」
「だよね……良かった」
殆ど吐息混じりに呟いて、アルミンは眼を閉じた。その身体が、支えを失ったように、ぐらりと傾く。慌てて両腕を差し出し、ジャンはその身体を支えた。
「っおい、……」
「ごめん……疲れた」
吐き出すように、それだけ言うと、アルミンは、自立の努力を放棄したらしかった。くたりと力を抜いて、ジャンの腕に身を任せる。それを、突き放すことは、ジャンには出来なかった。胸にもたれかからせているうちに、アルミンは早くも、ぶつりと糸が切れたように、眠りに落ちた。起こしてしまわないように、ジャンは、その身体を静かに寝台に横たえてやった。
規則正しい、小さな寝息を、どこか遠くに聞きながら、ジャンは慟哭を堪えた。
疲れた──それが、この密室での一件について、アルミンが感じ、思うところのすべてだった。その一言で、アルミンは、すべてを片付けてしまった。頼りなく細い身体の内に、すべてを背負いこんで、硬く目を閉じてしまった。誰にも、触れることを許さないという、それは、アルミンの頑なな意志の表れであった。
またかよ、とジャンは忌々しく唇を噛んだ。右手を開いて、睨めつける。その皮膚は、あちこち刷り切れ、熱を持って真っ赤に腫れ上がっている。先の市街戦で、力任せにブレードを振り回した結果だ。立体機動の最中ではない──その道具の扱いを、ジャンは同期の誰より心得ている自負がある。我を忘れて、刃を振り翳したのは、作戦のすべてが終わった後のことだ。
自ら、硬化させた結晶体の中に己を封じたアニを、この両手は、どうすることも出来なかった。むやみに刃を折り、自分の掌を擦り剥くばかりであった。リヴァイ兵長が制止してくれなければ、もっとひどいことになっていただろう。ひりつく痛みが、しつこく神経を刺激する。
同じだ、と思った。決して、触れることが、許されない。何かを守ろうとする、頑なな意思の前には、何もかもがあまりに無力だ。こんな手では、何も出来ない。近付くことさえ──叶わない。
額を押さえて、ジャンは背を丸めた。いったい、それでアルミンは、何を守ろうというのだろうかと思った。そうまでして、大切なものを捨ててまで、何を守りたい。
「ぅ、……」
小さな呻きに、意識を引き戻される。目を覚ましたのだろうか──隣のアルミンを、ジャンはぼんやりと見下ろした。苦しげに眉を寄せた、その目元から、一筋の涙が伝い落ちていた。
「……アルミン、」
引き寄せられるように、気付けばジャンは、片手を伸ばしていた。そろそろと、ぎこちなく、その頬に指先を触れかける。暫しの躊躇いの跡、臆病な手つきでもって、ジャンはアルミンの白い頬に触れた。こぼれ落ちる滴を掬い取り、血の気の引いた頬に張り付く金髪を、そっと払いのけた。柔らかな髪が、素直に指に寄り添う、淡い感覚を覚えた。
幼さを残した面立ちを、ゆっくりと辿り、頬を包み込む。こうして泣き顔を見るのは、暫くぶりであるような気がした。訓練兵時代には、何かというと、すぐに涙目になって、懸命に唇を噛み締めている印象が強かったが、調査兵団入りしてからこちら、アルミンが涙を見せたことはなかった。泣くような余裕もなかったか、あるいは、それを己に禁じていたのだろう。苦しげな表情を、どうしたら、少しでも、和らげることが出来るだろうかと思った。
──こんな風に、触れることも、出来た筈だ。
本当は、こんな風に、優しくしてやりたかった。大切にしてやりたかった。弱くて小さなものを、守ってやりたかった。壊されないように、潰されないように、汚されないように、自分の陰に入れて、守りたかった。弱くて、小さなものでも、ここにいて良いのだと、ここにいられるのだと、証明したかった。
そんなささやかな望みは、一つだって、叶わなかった。指先が、小さく震えた。
「……くそ、っ…」
くずおれるように、ジャンは寝台にうつ伏せた。眠るアルミンの金髪に、顔を埋めて、押し殺した呼吸を継ぐ。汗ばんだ首筋の匂いと、いくら空気を入れ替えても拭い去れない、あの忌まわしい残滓が、鼻を衝く。そんなものに興奮している自分が、惨めだった。どうして、こんな風にして、お互いを貶める真似しか出来ないのかと、やるせなかった。それでも、腹の底に抱え込んだ熱は、最早、ごまかしようがなかった。もどかしく前をくつろげ、その衝動の尖端を握り込んだ。
欲情しなかっただなんて、白々しいにもほどがある。強制されたからという理由だけで、あんな行為に及べる筈もない。あの瞬間、確かにジャンは、自らの意思で、アルミンを欲望し、犯した。アルミンも、それは承知の上だろう。それでも、あえて問うたのは、お互いに確認するためだ。あれが、何でもなかったということを、お互いに言い聞かせるためだ。すべて、終わったことで、一時だけのことで、何ら、後に引き摺るものではない。同期の仲間という関係が、それ以外の何に変化するわけでもない。アルミンは、それを、ジャンに確認したのだ。
彼が、今の自分の状態を知ったら、どう思うだろうかと、ジャンは自嘲した。小銃を構えた兵士は、もういないというのに、こうして、自らすすんで、アルミンを汚そうとしている。アルミンに、欲情している。
声を殺して、熱を持った自分自身を慰めた。目を閉じて、柔らかな金髪に顔を埋めていると、アルミンの匂いで満たされる。熱く湿って、ジャンをきつく包み込む、アルミンの中を思い出す。初めて知った感覚を、記憶を手繰り寄せて、何とか再現しようとしている、自分にほとほと、嫌気がさした。深く穿ってやったときの、感極まった声、上ずった嗚咽、押し寄せる快楽に苛まれる苦悶の表情。思い返すと、熱い溜息がこぼれた。それらは、すべて、ジャンのものだった。ジャンが、今、片手の中にあるものによって、アルミンの内に生起せしめたものの証だ。拭い去りたい、なかったことにしたいと言いながら、実際にはそんなことを思ってもおらず、まるで勲章のように、何度も繰り返したがっている、自分が愚かで、滑稽だった。
アルミンは、どうだったのだろうか。ジャンの打ち付けてくるものを、柔らかな箇所で受け止めながら、アルミンは、何を感じていたのだろう。エレン、エレンと啼きながら、何を思っていたのだろう。決して訊くことの出来ない問いの代わりに、もどかしく金髪を口に含み、そっと食んだ。
いつアルミンが目を覚ましてしまうかも分からない、こんな状況で、その緊張感にさえ、情欲を煽られている。浅ましい、この手は、こんな役にしか立たない。目元から、熱いものがこぼれ落ち、視界が歪んだ。アルミン、アルミンと、縋るように、胸の内で繰り返しながら、空しく果てた。押し寄せる徒労感のままに、ジャンは、暗闇に意識を沈み込ませた。
■
ほのかに温かく、しかし、光はない。意識を鈍磨させる、闇に覆われた世界で、静かな声が、耳を打つ。
「……僕はね、ジャン。……罰せられたかった」
高く澄んだ、か細い声。何か応えようと思ったのに、ジャンは、上手く声を紡ぐことが出来なかった。気だるさに支配され、舌も動かせない。ぼんやりと、ジャンは、次の言葉を待った。耳のすぐ傍で、途切れがちに、声は紡がれていく。
「エレンに、あんな……ひどいことを、言った。傷つけた……傷つけようと、思って、言った。それが、正しいと思ったから。人類のために、未来のために。大丈夫、こんなことでエレンは潰されない、ただ、痛いだけだ、……痛みと一緒に、理解してくれればいい。必要な痛みだ……そう考えて、言葉で、突き刺した。でも……エレンは、」
そこで、一呼吸を置いて、声は続ける。
「大事な、友達……なのに、」
友達、と言うときに、声は、微かに震えた。それから暫し、声は途切れた。込み上げてくるものを、堪えていたのだろうか。ややあって、はぁ、と小さく吐息をこぼすのが聞こえた。
「大切な何かを、捨てること。命だって、人間性だって、僕は……捨てても良い。だけど、……捨てられないよ。大切な、たったひとりの、友達のエレンは……捨てられない」
捨てられない──それは、諦念であったか、それとも、静かな決意であっただろうか。ジャンには、判断しかねた。だから、と声は続ける。
「だから、罰なんだ。僕自身、出来もしないことを、エレンに押し付けて、彼を傷つけた……罰せられないと、いけない。こんな、赦される、わけがない……」
だから、アルミンは、何も言わなかったのか、とジャンは鈍麻した意識で思った。憲兵の下衆共を、この友人ならば、上手く説得して、自分の身を守ることも、出来たかも知れない。しかし、アルミンは、まるで下された審判を従順に受け容れようというかのように、口を噤んでいた。同じ口で、先ほど、友人に対して犯した罪を、贖おうとするかのように。どうか、罰してくれと、身体を差し出した。
「っ……エレン、エレ、ン……」
もう何度となく聞いた、切ない呼び掛けが、耳を打つ。嗚咽交じりの声は、ところどころ震えて、聞き取り辛かった。それでも、ジャンは、耳を塞ぎたいとは思わなかった。逃さずに、聞き取りたいと思った。息を潜めて、耳を澄ませた。
上ずった声は、今にも消え失せてしまいそうに細く、儚い。それでも、言葉を紡ぐことを、やめようとはしなかった。まるで、それ自体が贖罪であるかのように、喘ぎながら続ける。
「こんなこと、何にもならない、分かっている……ただの、自己満足だ。何かを捨てたからって、代わりに何が手に入るわけでもない、知ってる……それでも、……僕だけ、傷つかずにいるなんて、失わずにいるなんて、……堪えられない、どうか、……罰を、…」
それが、最後だった。声が、遠のいていく。周囲は再び、静寂に包まれた。闇に呑まれ、まどろみながら、ジャンは胸の内に、声を聞いた。
──それで──それで、お前は、救われたのか。
どこへともなく問う、己の声だった。その答えを、ジャンは持たない。それを自分は、肯定して欲しかったのだろうか、否定して欲しかったのだろうか、とぼんやりと思った。
──罰されることで、お前は、──
「……アル、ミン…」
闇が、薄くなる。目を開けて、ジャンは、自分が寝入ってしまっていたらしいことに思い至った。小さく呻きながら、寝台から身を起こす。
いつしか、灯りは消え、室内は闇に包まれていた。アルミンはと見れば、最後に見たときと変わらぬ姿で、泥のように眠り込んでいる。出来れば、このままそっとしておきたいところであるが、そうもいくまい。ジャンは、眠る友人の肩に手を掛け、軽く揺すった。
「……アルミン。そろそろ、起きろ。戻るぞ」
「う……ん、」
小さく呻いて、アルミンは身じろぐ。少しは、心身とも、調子を取り戻していると良いのだが──起き上がるのを助けてやりつつ、ジャンはアルミンの顔色を窺った。
「……大丈夫か」
「うん……たぶん。これなら、エレン達にも、不審に思われずに済むかな……」
まだ少し眠そうな声で、アルミンの呟いた言葉に、ジャンは込み上げるものを噛み締めた。こんなときでも、アルミンの中の優先順位は、自分自身の安否よりも、「エレンを煩わせずに済むかどうか」であるということが、否応なしに分かった。それは要するに、「上辺を取り繕うことが出来る程度には回復したから、大丈夫」だと言っているようなものだ。そういうことを訊いたのではない、とジャンは胸の内で空しく呟いた。
それに、いくら表面上だけごまかしたところで──身体を見られれば、それと知れてしまうのではないか、とジャンは、そんな必要もない筈なのに、危惧を抱いた。アルミンの受けた傷は、そうすぐに癒えるものではあるまい。未だに信じられないが、あの憲兵どもの推察に従うならば、アルミンはエレンと交わっている。いくら常日頃からべたべたとつるんでいるからといって、そちらの方まで想像が及ばなかったのは、ジャンの経験不足のゆえであろうか。
心配してやる義理もない筈であるが、どうしても、考えずにはいられない。寝台の中で、他の男の痕跡を見つけてしまったら、エレンはどうするだろう。その相手の一人が、ジャンであったことを知れば、どうするだろう──ぞくりと、背筋が震えた。何と言ったら良いか分からないままに、ジャンは、躊躇いがちに呟く。
「お前……あいつと、その……そういう、」
「していないよ」
はっきりと、アルミンは言い切った。ジャンは思わず、瞠目する。まだ何も言っていないというのに、アルミンは、ジャンが何を気にしているのか、精確に把握したらしい。緩く首を振って、アルミンは、もう一度繰り返した。
「エレンとは、こんなこと、しない。……決まってるだろ、友達なんだから」
当たり前のことを述べるように、アルミンは、淡々と言った。ジャンには、とうてい、納得が出来なかった。アルミンが、この寝台の上で、どんな風に、どれだけ、エレンを呼び求めていたか、ジャンは身をもって知っている。彼との間に何もないと言うのなら、どうして、あんな風に名前を呼べる。すすり泣くような、か細い声で、切なく呼び求めることが、出来るのだ。思わず、ジャンは反論しかけていた。
「だって、……お前、」
「エレン、だったら……平気なのに、な」
呟いて、アルミンは、小さく笑った。それで、ジャンは、続ける言葉を失ってしまった。無理やり身体を繋げても、掴むことの出来なかった、アルミンの内に抱くものに、初めて、触れた気がした。
エレンと身体を重ねたことはない、とアルミンは言った。それは、きっと正しい。あの死に急ぎ野郎が、幼馴染を相手に寝台の上で励む姿など、とうてい、想像出来ない。しかし、その一方で、アルミンは幾度となく、複数の「エレン」に組み敷かれてきたのだろう。初めてのことではない、と言っていた。小さな身体は、強引に押し拓かれることに、慣れていた。
訓練兵団時代、実技は専らの劣等生でありながら、成績上位者たちと親しい関係にあったアルミンが、妬みから低劣な虐めの対象となっていたことは、ジャンも承知している。訓練中に、あるいは偶然を装って、小さな身体が突き飛ばされ、地面に叩きつけられるところは、何度も目にしたものであるし、どう考えても転んだだけとは思えない泥塗れの姿で、力なくしゃがみこんでいる後姿を、遠目に見掛けたこともある。
エレンやミカサという心強い幼馴染に縋りついて、守って貰えば良いものを、アルミンは、それを頑なに拒んでいた。くだらない鬱屈の捌け口にされて、腫れ上がった頬を、それでも事故だと言い張る姿には、ジャンもあきれたものだ。
アルミンは、助けを求めない。だから、彼が口を噤んでいた間に、いったい何があったのか、それは、エレンでさえも知り得ないことだった。忌まわしい憲兵どもの所業を目の当たりにした、今のジャンならば、当時のアルミンがどのような目に遭っていたことか、だいたいの想像がついた。
いつも、アルミンは、意に沿わぬ行為に従事させられながら、懸命に、自分に言い聞かせていたのだろう。これはエレンだ、エレンにされているのだ、と。エレンならば、堪えられる。死んでしまいたいくらいの恥辱に塗れても、平気でいられる。そうやって、アルミンは、自分を守るしかなかったのだろう。こんなかたちで、大切な友人を穢す、罪の意識に苛まれながらも、そうするほかになかった。そうでなければ──自分を、保っていられなかった。
凌辱を受けている間だけは、アルミンは、胸の内で、エレンの名を呼ぶことが出来た。決して届かないと分かっているから、助けを求めて、泣き叫ぶことが出来た。エレン、エレンと、嗚咽をこぼすことが出来た。堪えてきたものを、溢れさせることが出来た。
ひとりで後始末をしているときの、アルミンの切ない声を思い出す。自分の指を挿れながら、アルミンは、エレンにされているのだ、と思い込もうとしていた。エレンの腕に抱き支えられながら、清められ、慰められているのだと、自分に言い聞かせていた。そうでなければ、あまりの惨めさに、堪えられなかったのだろう。すべてが終わった後に、泣きながらエレンに詫びていたのは、そういうことだったのかと、ジャンはようやく理解した。エレンのための身体が、他の男に汚されてしまったことを、謝っていたのではない。アルミン自身が、エレンを汚したことを、謝罪していたのだ。
──大切な友達のエレンは、捨てられない。
友人以外のなにものでもない筈のエレンを、裏切り、汚し続けていることを、アルミンは、ずっと引け目に感じ、己を責めていたのだろう。償いたかったのは、先ほどのアニを巡る遣り取りの一件だけではなく、自分が都合よくエレンを利用してきた、そのすべてであったのかも知れない。
何をされても、エレンならば、平気だ、とアルミンは言った。それは、つまりは、彼に抱かれたいということと同義ではないか──もし、そう問えば、間違いなく、アルミンは否定するだろう。大切な友人相手に、そんなことは望まない、と当然のようにして言うだろう。それが、偽りなくアルミンの本心であろうことは、ジャンも理解している。アルミンは、エレンとどうなりたいわけでもないのだ。
望むのは、ただ、大切な友人であるエレンを守りたいという、それだけのことなのだろう。物理的にエレンの生命を守護するのみならず、アルミンの中における、「大切な友人のエレン」という立ち位置を守り続けることも、また、その一環であるに違いない。自分の内で、それが揺らぎかけたとあれば──自らすすんで、罰を欲するほどに。そうして、罪を贖い、己を戒めるほどに。最後まで──捨てられない。
ジャンの険しい面持ちをどう捉えたか、アルミンは、気遣わしげに目を伏せる。
「ジャン……巻き込んで、しまって……ごめん」
「……謝んなよ」
そんなことを言われては、余計にやるせなくなるだけだ。これが、アルミンの、エレンに対する贖罪であったとするならば、本当にジャンは、ただ巻き込まれただけの被害者である。だが、それについて、恨み言を述べるつもりはなかった。お前のせいだといって、糾弾するつもりはなかった。
巻き込まれただなんて、思いたくはなかった。自分の意思で、選んで、決めたことだと思いたかった。エレンにしても、アルミンにしても、ジャンにとっては、今や欠くことの出来ぬまでになった仲間であり、友人だ。命懸けで、付き合ってやるのは、当然のことであると思う。そうでなければ、ここを己の居場所として選んだ意味を失ってしまう。ジャンは手を伸ばすと、友人の金髪を、くしゃくしゃとかき回してやった。されるがままに任せながら、アルミンは呟く。
「……忘れてくれる、ここであったこと、全部」
その台詞に、ジャンは、手を止めた。お前は、それで良いのかと、訊き返したかった。もしも、それが、ジャンの体面を考慮しての判断であるのだとすれば、そんなものは鑑みなくて良いのだと言ってやりたかった。裁かれるべきものは、たとえそれが自分を含んでいたとしても、裁かれねばならないとジャンは思う。
しかし、アルミンは、忘れてくれと言った。そのよく働く頭の中で、いったい、どのような差し引きがなされて、この結論に至ったのか、ジャンに知る術はなかった。分かるのは、それが、滅多に他人に頼みごとをしないアルミンの、ただ一つの望みであるという、それだけだった。今のジャンがアルミンにしてやれることの、それが、唯一だった。暫しの逡巡の後、ぽつりと応える。
「……お前が、そう言うなら……忘れる」
そう言ってやると、アルミンは、ほっと安堵したように表情を緩めた。念を押すように、一言を付け加える。
「数の内に、入れなくていいからね」
「うるせぇよ」
相変わらず、アルミンは気の遣いどころが、どこかずれている。俺の経験人数なんて、お前が心配するところじゃねぇだろうが、とジャンは胸の内でぼやいた。まるで、自分は数の内にも入らない、取るに足らないものだとでもいうような、アルミンの物言いに、同調したくはなかった。一つ息を吐いて、立ち上がる。
「……戻るか」
「うん。……エレン、どうしてるかな。ひどいこと、されてないといいけど……いや、向こうは先輩方もついているだろうし、大丈夫か……」
呟きつつ、アルミンは、寝台から腰を上げかけた。しかし、立ち上がるより先に、彼の両脚は、宙を泳ぐこととなった。考えごとに夢中になっていたのか、アルミンは突然の状況を呑み込めなかったらしく、わ、と間抜けな声を上げる。
「ちょ、……ジャン、」
ささやかな抗議の声は無視して、ジャンはアルミンの頼りない身体を抱き上げた。背中と膝裏に腕を回して、落とさないよう、しっかりと抱き支える。小柄とはいえ、人間ひとりを抱きかかえて運ぶには、それなりの膂力とバランス感覚、加えて、運ばれる相手の協力的態度が不可欠となる。訓練兵時代、ガス切れの仲間や民間人の救助場面を想定し、立体機動で人間を運ぶという課題をこなした者ならば、誰もが知っている。しっかりと首に手を回し、身体を密着させ、体重を預けて貰うことで、重心が安定し、格段に運びやすくなる。それだというのに、アルミンは、大人しく身を任せるでもなく、居心地悪げに身じろいでジャンの胸を押し返し、この体勢に疑問を表明する。
「いいよ、自分で歩けるって……こんな、変じゃないか、エレンに何て説明、」
「大人しくしてろ。落っことすぞ」
我ながらどうかと思う脅し文句で、ジャンは、よく囀る友人を黙らせた。現在、アルミンをどうするも、ジャンの両腕次第である。それを理解したのか、アルミンは、抵抗をやめて押し黙った。大人しくなった友人を、胸にもたれさせるように引き寄せて、ジャンは大足で歩を進めた。扉を押し開け、人気のない通路を、ゆっくりと歩む。前方を見つめたまま、ジャンは、腕の中の友人に向けて、そっけなく呟く。
「……お前が、あんまりノロマなもんだから……階段で蹴躓いて、運悪く、全身打っちまって……仕方がねぇから、俺が運んでやる羽目になったんだろうが」
「……」
腕の中で、アルミンが、僅かに顔を上げる気配があった。そちらを見なくとも、今、彼がいったいどんな表情をしているのか、ジャンには分かる気がした。ややあって、アルミンは、再び俯いた。ぎゅ、と拳を握り、何かを堪えるように、小さく身を竦める、微かな動きも、密着した箇所から、明瞭に伝い感じられた。俯き加減のまま、アルミンは、ぽつりと呟く。
「……ごめん」
「だから、謝んなって……」
どうしてそう、何もかもを自責の念に変換してしまうのかと、ジャンはあきれて応じた。もしも片手が空いていたら、また髪をかき混ぜてやったところだ。その代わりに、薄い背中を支える片腕の、手首から先だけ動かして、軽く二回、肩を叩いてやった。腕の中のアルミンが、少し首を竦めるのが分かった。
往路にも通った回廊に差し掛かれば、目的地はほど近い。仲間たちの待つ場所が近付くにつれ、ジャンは、次第に足取りが重くなるのを自覚した。皆の前で、平静を取り繕えるかどうか、自信が持てなかった。彼らの顔を、まともに見られるものかどうか、分からなかった。この回廊が、円環を描いて、永遠に続けば良いなどと、馬鹿げたことを望んでいる自分に気付いて、ジャンは苦笑した。
時間稼ぎのように、頭を廻らせる。同じ場所から、アルミンは沈みゆく夕陽と、壁を越えて飛び立つ鳥たちを見送った。今は、ぽつぽつと灯りのついた町並みと、その向こうに聳える壁が、視界を覆う。何もかもを囲い、呑み込もうとするかのような、巨大な影を眺め遣って、ジャンは目を眇めた。どこへともなく、小さく呟く。
「……痛かったな」
「……」
大丈夫だよ、という言葉が、きっと、返ってくるのだろうと思った。アルミンは、決して、弱音を吐くことも、弱みを見せることもしない。折れてしまいそうに辛いときほど、斃れそうな声で、大丈夫だと言うのが、アルミンだ。それ以外の言葉を、彼は、自分に許さない。だから、きっとまた、甚だ信用ならない「大丈夫」が返ってくるものだと、ジャンは予測していた。
暫しの沈黙の後、アルミンは、ぽつりと呟く。
「うん……痛かったよ」
痛かった、と言って、アルミンは、ジャンの胸に頭をもたれた。それが、抱きかかえているジャンの負担にならないようにと、体勢を工夫しただけのことか、それとも、それ以外の何かであるのか、ジャンに知る術はなかった。ただ黙って、細い身体を、両腕の中にしっかりと、抱き寄せた。一歩ずつ、足を踏み締めて進む。
アルミンは、たぶん、自分の身体を捨てたいのだろう、とジャンは思う。小柄で貧弱な、兵士としては足手まといのお荷物にしかならない身体を、彼は恥じていた。この身体から解放されたら、どれほど自由だろうかと、彼は夢見たに違いない。
そんなアルミンは、やはり──死に急ぎ野郎だ。自分を、大事にすることが出来ない。小さくて弱い、まるで喰われるためだけに存在するような身体を、大事なものだとは、思えない。自分を、大事に、思えない。
だから、アルミンは、エレンに捧げることにしたのだろう。煩わしいだけの、身体なんて、感情なんて、道徳なんて、捨て去って、何も持たない、純粋な意志だけのものに、なりたかったのだろう。
疲れてなんていない、と、あの夕焼けの回廊で言ってみせたとき、アルミンは半ば、そちらに足を踏み入れかけていたように、ジャンには感じられた。身体がなければ──痛みも、疲れも、感じない。涙を落とすこともない。アルミンが、何かを切り捨てにかかっていることが、あのとき、分かっていた。
そのアルミンに、ジャンは、手ずから、痛みを与えた。アルミンが、熱も、重さも、失っていくことが、ジャンには、堪えられなかった。そうして、彼が何になろうとしているのかと思って、恐れを抱いた。何もかもを捨て去って、そうして、いったい、何が残るのかと思った。
お前がどんなに捨てたいと思っても、お前の身体はここにある、熱も、重さも、切り離すことなんて出来ない、弱くて小さな肉体という牢獄から、お前は逃げ出すことは出来ない、感じろ、刻み込め、覚えていろ、熱を、痛みを!
そうして、アルミンを、こちら側へと引き摺り下ろしたのだ。ばらばらになりかけていた、彼の精神と、肉体を、強引に繋ぎ合わせた。そうすべきだと思った。正しいかどうか、なんてことは、考えてはいなかったし、考えたところで、分かるまい。ただ、ジャンがそうしたかったから、そうしたというだけのことだ。自己満足でしかないことは、とうに承知している。
己の行為を、正当化しようとは思わない。赦されることは、ないだろう。ただ、結果として、アルミンは、疲れた、と言って寝入ったし、痛かった、と口にした。こちら側に、戻ってきた。それが、ジャンには、辛うじて掴み取った、なけなしの成果であるように思えるのだった。
忘れてくれ、とアルミンは言い、ジャンはそれを了承した。しかし、忘れられる筈もない。なかったことになど、出来るわけがない。痛みと共に、刻みつけて、抱えていくしかない。罪であろうと、傷であろうと、構わない。何も無いよりは、ずっと良い。何もかもを打ち砕いてしまった、この手の中にも、何かが残っている。そう考えて、自分を慰めるほかになかった。
「……ジャン?」
腕の中のアルミンが、控えめに声を上げる。とうとう、足を止めて、ジャンは俯いていた。思い返すのは、決まって、白い羽根のゆっくりと舞い散る、あの情景だ。
あのとき、白い小鳥を、この手に包み込んで、守ってやることが出来なかった。せめて、食い荒らされた屍を、埋葬してやりたかったのに、屋根の上に放置されたそれには、どれだけ手を伸ばしても、届かなかった。自分は、まるで無力だと思った。空っぽの掌に、ぽとぽとと涙が落ちた。
世界は、そういうものだ──仕方が無い。幼い心に、それだけを刻んだ。
今、この両手は、何かを守ることが、出来ているのだろうか。握り潰して、叩きつけるだけではなく、そうではなくて、丁寧に包んでやることが、出来るのだろうか。
腕に抱えたものの、慎ましい重さと、とくとくと息づく熱を感じる。今ばかりは、それが、自分の腕の中にあると信じたかった。残酷な世界の手の内で弄ばれるに任せるのではなく、どうか、この手に、預けて欲しかった。無力で、ぎこちなく、愚かしく、柔らかさにも優しさにもほど遠い、この手に、それでも、出来ることがあると信じたかった。
それは、愚かすぎる自惚れでしかないのかも知れない。そうだとしても──愚かに生きるだけが、自分たちではないか。抗いながら、生きる。それだけではないか。非情なる世界の手の中にあって、閉ざされ、囚われ、それでもなお、この手の中に、一握りの何かを、探し求めている。何かを切り捨てるほどに、手を伸ばし、求め続けている。
それだけが、小さくて弱い、自分たちに許された、反逆の術なのだと思った。
立ち止まってしまったジャンを不審に思ったか、腕の中で、アルミンが小さく身じろぐ。
「どうしたの、ジャン……重い? 下りようか、」
「……いや。何でもねぇよ」
緩く首を振って、ジャンは再び、歩き始めた。一歩一歩、進む足取りに、最早、迷いはなかった。顔を上げ、胸を噛む痛みを堪えて、まっすぐに前を見据えた。友人の頼りない身体を抱き支える腕に、僅かに力を込めて、自分の、自分たちの居場所へと、急ぐのだった。
オレ達の戦いはこれからだ
2013.10.26