アルヒノオト 1
■シガンシナ区(1)
きょうは、ぼくの6さいのたんじょうびでした。おとうさんと、おかあさんは、けんきゅうのおやすみをとって、とくべつにおいわいをしてくれました。いつも、ごはんはおじいちゃんとふたりきりなので、きょうはつくえのうえがおさらでいっぱいでした。ごはんは、すこしおにくもあって、かたくてたいへんだったけれど、おいしかったです。
ことしは、かぞくのほかに、ともだちのエレンもしょうたいしました。ともだちをよぶのは、はじめてだったので、どきどきしました。エレンも、たくさんおいわいをしてくれました。たのしそうにしていたので、ぼくもうれしかったです。
あとできいたら、エレンも、ともだちのたんじょうびにまねかれるのははじめてだったそうです。ふたりでどきどきしていたのかとおもうと、おかしかったです。こんどは、エレンのたんじょうびを、ぼくがおいわいしたいとおもいました。
それから、らいねんも、みんなでこんなふうにたのしくできたらいいとおもいます。1ねんは、とてもながいので、なにがあるかわかりませんが、らいねんのきょうがまちどおしいです。
大きな木造りの寝台は、幼い子どもには不釣り合いなほどであった。ランタンの小さな灯りの下、柔らかな枕にもたれる格好で、少年は分厚い表紙の書物を膝に抱えていた。明るい麦藁色の髪が落ちかかる、柔らかな頬は、ほのかに紅潮している。大きな瞳は青灰色で、抑え難い好奇心の光を宿していた。広げた書物の、繊細な銅版画の図版と、それを解説する小さな文字列を、一つも逃すまいとするように、丹念に追っては、古びたページを丁寧に捲る。細い指先の所作はあくまでも静かであり、子どもながら、書物に対する深い畏敬の念が滲んでいた。
その小さな手は、捲り上げるそばからずり落ちる袖口によって、指先まで隠れてしまっている。寝台だけでなく、纏う寝巻も、少年の身体に対して、どことなく大きめであった。子どもはすぐに成長するものだからと、多忙な両親に代わって、幼い孫を養育する祖父は、余裕のある大きさのものを与えていたが、これが丁度良いサイズになるまでは、まだ暫くの月日が必要なようであった。
ふと、少年は紙面から顔を上げて、窓辺を見遣った。淡い月光に包まれて、市街はひっそりと眠りに就いていた。普段であれば、少年も祖父に寝かしつけられて、夢の世界へと旅立っている筈の時間である。しかし、今夜は、なかなか眠れない特別な理由があった。どうせ寝付けないならば、その時間を使って本を読むのが合理的であると、幼い子どもなりに判断してのことだった。それに、皆が寝静まっている間に、自分だけがこっそりと起きているというのは、少し大人になったようで、幼い子供にとっては、一つの冒険のようなものだった。まるで、日常から切り離された、自分だけの時間を、ご褒美として、特別に貰ったような気分になるのだ。その時間を、大好きな本を読んで過ごせたら、どれだけ楽しいことだろう。早く読んでしまいたいような、勿体ないような心地で、少年はページを捲った。
そのとき、小さな軋みと共に、扉がゆっくりと開いた。
「おや、まだ起きていたのかい」
顔を覗かせたのは、少年の祖父だった。その呼び掛けに、少年は、書物の世界から意識を引き戻された。少しばつの悪い思いで、紙面から顔を上げる。夜更かしをする孫を、頭ごなしに諌めるでもなく、祖父は穏やかに寝台に歩み寄った。
「さあ、もうおやすみ。アルミン」
放っておくと、いつまでも絵本や図鑑を読み耽ってしまう孫の小さな手から、祖父は、静かに書物を取り上げた。革の栞を挟んで閉じられる書物を、アルミンは少し名残惜しい思いで見つめていたが、異議を唱えることはしなかった。大人しく、身体を丸めて横たわる。その胸元まで、祖父は静かに毛布を引き上げてやった。小さな手でそれを握って、アルミンは青灰色の瞳を上げる。
「お父さんとお母さん……明日は、おうちにいてくれるの?」
待ち遠しくも、少し心配げな表情で見上げてくる孫の問いに、祖父は、鷹揚に頷いてみせた。
「ああ、そうだよ。お昼はごちそうを作って、皆でお祝いをしよう。友達も来るんだろう? 楽しみだね」
慈愛に満ちた大きな手が、幼い少年の頭をそっと撫でる。骨ばった指が、柔らかな金髪を優しく梳いた。うん、と頷いて、アルミンは眼を閉じた。明日のことを思うと、胸がとくとくと高鳴って、なかなか落ち着かなかった。
明日は、一年に一度の、特別な日だった。その日が来るのを、幼い少年は、もう一カ月も前から待ち遠しく、楽しみにしていた。その日だけは、不在がちな両親が揃って、一緒に家で過ごしてくれる約束だったからである。
自分たちのひとり息子を、両親は多忙な研究活動の中にも、決しておろそかにすることはなかった。普段あまり構ってやれない分も取り戻そうというように、その日はどんなに研究が立て込んでいても、二人ともに一休みして、一日中アルミンと共に過ごしてくれるのだ。プレゼントには、アルミンの大好きな本を贈ってくれることに決まっていた。
いつもは、祖父と二人で暮らす、がらんとした家が、その日は賑やかで、温かく満たされる。両親も祖父も、アルミンがまた一つ齢をとったことを、心から喜んで、祝ってくれる。あまり身体が強くない自分が、それでも無事にまた一年を過ごすことが出来たという、それだけで、彼らが笑顔になってくれるのが、アルミンは嬉しかった。
両親の取り組んでいる研究の内容は、幼いアルミンには、まだよく分からないことばかりで、いくら本を読んでも、少しも近づけない。早く、彼らの手伝いをしたいのに、なんとももどかしい。そういうとき、アルミンは、自分の幼さが哀しくなる。自分は、両親にとって、役に立っているのだろうかと、不安になる。それを、年に一度の記念日は、きれいに払拭してくれるのだ。こうして、ただ生きているだけで、彼らを喜ばせることが出来る。ここにいることを、許されている。それが分かって、アルミンは安心する。
明日は、そうして、皆に喜んで貰える日なのだ。額に置かれた、祖父の大きな手の温もりを感じながら、アルミンは眠りに就いた。
澄みきった青を背景に、薄い雲の帯がかかって、天空は淡いグラデーションを描いていた。時折、吹く風は冷たく頬を撫でるが、日差しは穏やかに降り注ぎ、温かい。家の中で待っていれば良いのに、どうしても落ち着かずに、アルミンは玄関の外に出ていた。背伸びをして、今か今かと、通りの向こうに目を凝らす。やがて、そこに、駆けてくるひとつの影を見出して、アルミンは顔を綻ばせた。小さな影は、まっすぐにこちらを目指してくる。アルミンと同じくらいの背丈の、黒髪の少年だ。彼は、アルミンにとって、ただひとりの、大切な友人だった。彼の方も、扉の前で待っているアルミンの姿に気付いたのだろう、小走りで駆け寄ってくる。
「アルミン!」
走り寄ってきた勢いのままに、エレンはアルミンに飛びついた。わ、とアルミンはバランスを崩して、二、三歩後ずさったが、エレンがしっかりと腕を掴んでくれたので、尻餅をつかずに済んだ。感情表現の率直な、この友人と付き合っていると、こうして驚かされるのはしょっちゅうである。体勢を立て直したところで、アルミンは改めて微笑む。
「いらっしゃい、エレン」
「アルミン、誕生日おめでとう!」
それを言いたくて仕方がなかったのだ、というように身を乗り出して、エレンは祝福を述べた。同年代の子どもから、そんな風にまっすぐに祝いの言葉を掛けられるのは、初めてのことで、アルミンは嬉しさと気恥ずかしさで一杯になった。おめでとう、おめでとうと言うエレンに、ありがとうと返すのが精一杯だった。祝われている自分よりも、祝っているエレンの方が嬉しそうに見えて、アルミンは可笑しかった。
そうだ、とエレンは思い出したように、己の片腕に提げたものに視線を向けた。
「これ、父さんと母さんが、持っていけって」
そう言って、エレンは、アルミンに向けて大きなバスケットを差し出した。中には、丁寧に布に包まれた、一本のボトルが収まっている。ワインだろうか、とアルミンは首を傾げた。そうだとしたら、自分たちは飲むことが出来ない。開けてみろよ、というエレンの言葉に従って、アルミンは、その場で布を解いた。現れたものは、形状こそはワインボトルに近いが、貼られたラベルから、果実のジュースであることが知れた。そこに描かれた、赤い実の絵を見て、アルミンは目を瞬く。
「見たことない果物だ……何の実だろう?」
「内地でしか採れないんだって、父さんが言ってた。この前、なんか偉い人のところに行ったとき、分けて貰ったんだと」
名医として、街の住民から厚い信頼を受ける彼の父は、仕事の関係で内地に足を運ぶ機会が多いのだと、アルミンは話に聞いていた。そこには、この南端の街には存在しない風景があり、動植物があり、食べ物がある。伝え聞く、未知の世界の話は、少年の好奇心を強くかき立てた。そこから持ち帰った、見慣れぬ果実のジュースとは、いったい、どんな味がするのだろう。早速、ごちそうと一緒に、飲んでみたいとアルミンは思った。ありがとう、と言って、受け取ろうとしたときだった。
「アルミン、あんまり体、丈夫じゃないだろ。これ、栄養がたくさんあって、体に良いんだって。これから寒くなるし、風邪なんか引いちまうといけないから」
寝込んじまったら、一緒に遊べないもんな、とエレンは神妙な顔をして言った。差し出しかけた手を、アルミンは、ぴたりと止めた。
他の子どもと比べて体力がなく、貧弱であることは、アルミンにとって専らの悩みの種であり、それを理由に、周囲からからかわれたり、いじめられたりすることは、日常茶飯事であった。活発で健康優良なエレンと共に遊んでいると、特にそれが強調されて感じてしまう。だからといって、特別に気遣われたり、手を貸されたりするのは、アルミンの本意ではなかった。もしも、他の誰かから、体力がつくからといって食べ物を与えられたとすれば、アルミンは、それを受取ろうとはしなかっただろう。哀れまれることは、アルミンにとって、蔑まれることと、何も変わらないように思えたからである。
しかし、差し出されたバスケットを、アルミンは、押し返そうとはしなかった。中途半端なところで止まってしまっていた手を、もう一度、ゆっくりと差し出す。エレンの手から、それを受け取って、アルミンは大事に胸に抱えた。
「ありがとう。ごめんね、こんな、珍しいもの、」
「いいって。アルミンが元気でいてくれたら、オレも嬉しい」
言って、エレンは屈託なく笑う。それは、アルミンが無事に今日という日を迎え、また一つ歳を取ることを、無条件に喜んでくれる家族の眼差しと、同じだった。ただ、自分が元気で、ここにいるというだけで、喜んでくれるのは、エレンも同じなのだと分かった。それが、アルミンは嬉しかった。弱いからといって、かわいそうだからといって、哀れまれるのとは異なる。友人から、そんな風に、求めて貰えることが、嬉しかった。この冬は、きっと風邪を引いて寝込んだりするまい、とアルミンは胸に誓った。
「二人とも、そんなところで、どうしたのかい。準備が出来たから、入りなさい」
背後の扉が開いて、顔を覗かせたのは祖父である。扉の向こうからは、肉の焼ける香ばしい匂いが、ふわりと漂う。はーい、と返事をして、子どもたちは家の中へと掛け込んだ。
ささやかな祝いの席に、我が子が初めて、友達を招待したとあって、アルミンの両親は、とても喜んだ。他の子どもたちと一緒になって遊ぶよりも、ひとりで書物の世界に没頭することを好む我が子を、彼らは密かに案じていたので、心を許せる友人が出来たことは、歓迎すべきことだった。友達がいれば、両親が不在がちな寂しさも、紛れることだろう。その友人にしても、街の人々から尊敬を受けるイェーガー医師のひとり息子とあれば、心配は無用である。意志の強そうな瞳が印象的な、快活な子どもだった。一見すると、大人しい我が子とは、性質が全く異なるように見受けられる。しかし、暫く見ていると、二人は不思議と息が合っていることが分かった。ときに頑固で理屈っぽいアルミンの言葉にも、エレンは腹を立てたり手を上げたりすることはなく、素直に言うことを聞いている。他では、なかなかこういう子はいない、と両親は思った。これからも、きっと大人になるまで、良い友人であって欲しいと、彼らは小さな願いを抱いた。
別れ際、どうか今後もアルミンと仲良くしてやってくれと声を掛けると、エレンは、言われるまでもないというように、勿論だと元気に応えた。途中まで送っていくという、我が子と友人の小さな後姿を、両親はいつまでも、眼を細めて見つめていた。
■シガンシナ区(2)
今日は、僕の誕生日だったけれど、あまりお祝いをする気持ちにはなれませんでした。毎年、お祝いをしてくれたお父さんもお母さんも、もう、いません。おじいちゃんは、それでも、お昼ごはんには、いつもより品数の多い料理を作ってくれましたが、食べるほどに、悲しくなりました。これをいっしょに食べるはずだった二人のことを、どうしても、考えてしまいます。去年までは、家族4人と、友達をあわせて、5人でにぎやかに過ごしたのに、今年は、おじいちゃんと二人きりです。でも、ひとりでも僕を祝ってくれるおじいちゃんを悲しませたくはなかったので、さびしいなんてことは、言いませんでした。笑って、ごはんを食べていました。
エレンのことは、さそいませんでした。よけいに、去年のことを思い出してしまうからです。それに、彼だって、呼ばれても楽しくないだろうと思いました。もし、彼におめでとう、と言ってもらっても、きっと、僕はありがとうとは言えないと思うのです。それは、エレンに対しても、失礼なことです。だから、今日は、エレンとは遊ばないつもりでした。
ところが、昼過ぎになって、エレンは家にやってきました。そして、ふだんと同じようすで、遊びに行こう、と言いました。どうしようかと、僕は迷いました。困って、おじいちゃんを見ると、行っておいで、と言われました。それなので、エレンと一緒に家を出ました。
二人で、野原に行って、花をつんだり、ねころがって雲をながめたり、木にのぼったりして遊びました。どこにも特別なことはない、いつもと同じ遊びでした。誕生日おめでとう、と、エレンは言いませんでした。僕も、何も言いませんでした。
いっしょに夕焼けを見ながら、エレンは言いました。来年も、その先も、ずっと一緒だと、言いました。だから、さびしくないだろ、と言いました。僕は、とたんに、泣き出してしまいました。さびしくないはずなのに、エレンはここにいるのに、どうして泣いてしまうのか、わかりませんでした。たぶん、うれしかったのだとおもいます。エレンの言う通りだと思いました。お父さんとお母さんはいなくなってしまっても、おじいちゃんとエレンは、ここにいます。そばにいてくれます。いなくなったりはしません。それだけで、もう、十分なことです。
どうか、来年も、こうして過ごせますように。もう、誰も、いなくなりませんように。
両親は外の世界を目指し、そして、帰ってこなかった。失った二人の分も、祖父はアルミンに愛情を注いでくれたが、幼い子どもに刻まれた欠落を埋め合わせて、なかったことにしてやることは、出来なかった。
誕生日祝いは、例年の通りに行なわれることになった。親を亡くしても、子どもは成長するし、それは祝福されるべきことだ。ただ、何もかもが去年までと同じようにはいかない。作るごちそうは、半分の量になったし、誰も帰ってこない家は、がらんとして物寂しい。否応なしに感じさせられる、その空白は、アルミンを苛むばかりだった。去年の誕生日に、アルミンを祝ってくれた両親の優しい眼差しを、温かな腕を、思い出してしまう。野菜のたっぷり入ったスープを啜り、好物だったベーコンと芋の卵閉じを口に入れても、一向に、満たされた心地にはならなかった。
誕生日なんて、辛いばかりだと、アルミンは思った。こんな日があるから、思い出してしまうのだと思った。去年はどうだったか、一昨年はどうだったか、毎年のその日の記憶が蘇って、いっそうに辛くなる。それは、これからも毎年、この日が来る度に、思い出さなくてはならないことだ。いったい、あとどれだけの回数、それを繰り返すのだろうかと、思うとアルミンは暗澹たる心地となった。一年に一度の、喜ぶべき記念日が、どうして、こんなに悲しい日に変わってしまったのだろうかと思った。
スプーンを持つ手が、止まってしまったことに気付いてか、テーブルの向かいの祖父は静かに問う。
「おいしいかい」
「……うん。ありがとう、おじいちゃん」
祖父に心配を掛けたくなくて、アルミンは明るく答えてみせた。上手く笑えているかどうかの、自信はなかった。ごまかすように、俯いて、スープを口に運んだ。ごちそうの筈なのに、何を食べても、おいしく感じることの出来ない自分が、悲しかった。
義務のような食事を終えて、アルミンは、その後に何をすれば良いのか分からなかった。例年であれば、食事の時間は、賑やかなお喋りでもって、もっと長引く。祖父と、両親と、友人と、言葉を交わす時間は、いくらあっても足りない。しかし、今は、そうして話をする相手もいない。何を話せば良いのかも分からない。
暫し、途方に暮れた後、アルミンは寝台に上がり、読みかけの本を開いた。本の世界は、変わらない。急にいなくなってしまうこともない。そこに没入している間は、悲しいことも、辛いことも、忘れていられる。そうやって、今日は、一日をやり過ごそうと決めた。これ以上、特別な何が起こるのも嫌だった。自分の小さな世界を、掻き回されて、ぐしゃぐしゃにされるのが、怖かった。大人しくしていれば、見逃して貰えるような気がした。背中を丸めて小さくなると、開いたページに、早速、視線を落とした。
右手側にあった、ずしりと重いページの半分ほどが、左手側に移動した頃だった。扉をノックする音で、アルミンは我に返った。祖父の声が、耳を打つ。
「アルミン、お客さんだ」
自分を訪ねてくるような相手はいない筈だが、と思いつつ、アルミンは本を閉じた。気付けば、ずっと同じ姿勢でいた首から肩は、すっかり凝り固まってしまっている。軽く伸びをして、首を回しつつ、アルミンは寝台を降りた。祖父に促されるままに、玄関へと向かう。そこに佇む小さな影を見て、アルミンは、あ、と息を呑んだ。
「……エレン」
玄関の前に立っていたのは、アルミンのただ一人の友人だった。彼は無言で、殆どこちらを睨めつけるばかりにして佇んでいる。まっすぐな緑瞳に強く見据えられて、アルミンは、思わずたじろいだ。誕生日なのに、家に来てくれと誘わなかったことを、怒っているのだろうかと思った。アルミンとしては、エレンに声を掛けなかったのは、彼を呼んでも、十分にもてなすことが出来ないと思ったからだった。今のアルミンには、それだけの余裕はどこにもなかった。祝って貰ったとしても、何も返すことが出来ない。そんな状態で、大切な友人を招くわけには、いかないと思った。
しかし、エレンはそうは思わなかったのかも知れない。だから、わざわざ、家まで訪ねてきたのだろう。気を悪くしてしまったのであれば、謝らなくてはいけない。たった一人の友人を、アルミンは、失いたくはなかった。謝罪と弁明のため、アルミンは口を開きかけたが、結局、何らかの言葉が紡がれることはなかった。その前に、エレンが、無造作にアルミンの腕を掴んで引いたからだ。
「……行こうぜ。折角、良い天気なんだから」
「え……」
外で遊ぼうというのだろうか。いつもであれば、喜んでついていくところであるが、今日ばかりは、躊躇いが先立った。どうしたら良いのか分からずに、アルミンは、肩越しに祖父を振り返った。彼は、二人の子どもを静かな瞳で見つめ、そして、ゆっくりと頷いた。行っておいで、と言われたのだと、アルミンは分かった。
「行くぞ」
「う、ん……」
手を引かれるままに、アルミンはエレンと連れ立って、家を後にした。
誕生日おめでとう、とは、エレンは結局最後まで、言わなかった。普段、そうして遊ぶのと同じように、野原を駆け回り、植物を観察し、助けられながら木に上った。そうしていると、アルミンは少しずつ、いつもの自分を取り戻していくことが分かった。いつの間にか、アルミンは、自分が表情を緩めていることに気付いた。ごちそうを食べても、出来なかったことが、エレンと遊んでいると、自然に出来ていた。
ゆっくりと沈んでいく夕陽を、木の上に座って、一緒に眺めた。隣り合う肩の温もりが、優しかった。アルミンの小さな手を、エレンはぎこちなく握って、言った。
「オレは、ずっと、いるから。来年も、その次も、ずっと、お前と一緒にいる。だから……寂しくないだろ、」
ぎゅ、とエレンは少しだけ、手に力を込めた。それで、アルミンは、もう堪えられなかった。エレンの肩を借りて、泣いた。祖父の前では、泣けなかった。そんなことをしたら、彼が哀しむと思ったからだ。エレンの前でだって、本当は、泣くつもりはなかった。大切な友人に心配を掛けて、煩わせるのは、嫌だった。しかし、溢れ出すものを、堪えることは出来なかった。
しゃくり上げるアルミンの背中を、エレンは抱き寄せて、日が沈むまで、静かに撫でてくれた。
■開拓地
開拓地で過ごした二年間のことは、正直いって、よく覚えていない。こうして、後から思い出して記録しておこうと思っても、ペンはすぐに止まり、宙を彷徨ってしまう。毎日、代わり映えのしない荒野で、代わり映えのしない作業の繰り返し。何のために働いて、何のために生きているのかも、分からない。それは、ただ、12歳という、訓練兵団志願可能年齢に達するのを待って、やり過ごすだけの、無為な時間であるに過ぎなかった。
決して満たされることのない飢えと、癒されることのない、四肢にわだかまる疲弊。それが、自分たち、家畜の鎖だった。誕生日であろうと、何であろうと、変わらない。祝ってくれる家族は、もう、誰もいなくなってしまった。僕が誕生したときのことを、もう、誰も覚えていない。それなら、誕生日なんて、何の意味もない。何を記念して、何を祝うというのだろう。それが、当時の僕の考えだった。
それでも、一つだけ、思い出すことがある。もしかしたら、僕の記憶違いであるかも知れない。誕生日とは、何の関係もない、ある一夜の記憶が、都合よく編集されて、真実だと思い込んでいるだけなのかも知れない。なにしろ、寝入りばなのことなので、僕の勘違いであったとしても、不思議ではないのだ。もしかしたら、ただの幸せな夢だったのだろうかとも思う。エレンは、その夜の一件について、後から何も言うことはなかったからだ。
ただ、彼から伝わってくる体温は、そのとき、僕が一番、欲しかったものだった。彼の鼓動を聞きながら、温もりに包まれて、眠った。それが、僕の覚えている、あの荒野で迎えた誕生日の記憶だ。
そういえば、誕生日だったな、ということを、アルミンはその日、粗末な寝床に入ってからようやく思い出した。特別な感情は、特に起こらなかった。農作業で酷使した四肢が、ただ重く痛んで、小さな身体を気だるさで包んでいた。
故郷が陥落した、あの日から、誕生日なんてものは、なくなった。幼い頃からの家族の記憶が刻まれた家も、夢中で読み漁った書物も、友人と遊んだ野原も、枝に座って星を眺めた木々も、失われて、二度と戻らない。それらと、同じなのだとアルミンは思った。一つ齢を取ったからといって、もう、手放しで喜んでくれる相手はいない。アルミンの誕生を、11年前のその日、心から待ちわびて、喜んでくれた人は、もう誰も、いなくなってしまった。祝ってくれる人は誰もなく、祝われていた自分だけが、ぽつんと存在している。
ささやかなお祝いの夕食も、今となっては、遠い夢のようだった。数年前、家族皆で過ごした誕生日を思い出して、アルミンは溜息をもらした。あの頃は、家族全員が揃ってお祝いをしてくれるのを、当たり前のように感じていた。来年も、その次も、ずっと同じことを繰り返すのだと、疑いもなく信じていた。今や、食卓を囲む人間もいなければ、大皿に盛られるべき食べ物もない。訪れる冬を前に、寒さに凍えながら、薄い毛布を被り、硬くひからびたパンを齧る。昨日や一昨日と、何も変わらない。おそらくは、明日も明後日も同じだろう。飢えと寒さに蝕まれながら、なんとかやり過ごす、毎日と何も変わらない。
毛布を身体に巻きつけ、背中を丸める。手足の先は、冷え切った掌でいくら撫で擦っても、冷たいままだった。もうすぐ、ここも雪に覆われる。そうしたら、いよいよ、寒さは堪え難くなるだろう。いつも、冬には、アルミンの凍える手足を、祖父は大きな手の中にそっと包んで暖めてくれた。厚みのある掌から伝わってくる温もりを感じながら、アルミンは眠りに就くことが出来た。どうして、自分自身の小さな掌では、それが出来ないのだろうかと思った。手足は冷たく、いつまでも温まらなかった。眠りたいのに、氷を握り締めたかのような、皮膚の小さな痺れが、それを許さない。自分の身体の筈なのに、どうして、こうも上手くいかないのだろう。息を吐き掛けても、気休めにすらならないようだった。震える肩を、小さく縮めた。
「アルミン……寒いのか」
背後からの声に、アルミンは、ひくりと背を跳ねた。あまり、ごそごそと動いているものだから、隣のエレンを起こしてしまったのだと思った。アルミンは情けなくなった。凍えているのは、誰も皆、同じ筈だ。それを、エレンは堪えているというのに、自分は何て弱いことだろうかと思う。ぐ、とアルミンは奥歯を噛み締めた。友人に泣きついて、助けを乞うのは、もう、ごめんだった。背中を向けたまま、平静を装って応じる。
「……ううん。平気だよ、エレン……」
「そうか」
短く言って、エレンはそれ以上、食い下がろうとはしなかった。これで良い、とアルミンは思った。平気なのだと、自分自身に言い聞かせる。寒くなんてない、寂しくなんてない、大丈夫だ。誰もが皆、そうやって生きている、その中で、自分だけが、泣きごとを言うわけにはいかなかった。
隣のエレンは、もう、眠っただろうか。自分も、早く眠って、少しでも体力を回復しなくては、重労働に耐えられない。瞼をきつく閉じて、アルミンは、縋るように薄い毛布を握った。そのとき、背中の後ろで、小さな布擦れの音がした。
「でも……オレは、寒いから」
「え……エレン…?」
背中が、温もりに包まれる。それから、胸に腕が回って、抱き寄せられたのだと分かった。手探りで、縮こまっていた掌を探り当てられて、アルミンは小さく息を呑んだ。冷え切った手には、エレンの力強い手は、驚くほどに熱く感じられた。じわり、と熱が伝達する。それは、自分がエレンの体温を奪ってしまっているからだと、アルミンは思い至って、回された腕から逃れようと試みた。
「エレン、だめだよ……冷えちゃうから、離して……」
寒い、とエレンは言うが、こんなに冷え切ったアルミンの身体を抱いては、余計に熱を奪われるだけだ。自分で自分の頬に触れても、目を瞑ってしまうくらい冷たいのに、まして、温かなエレンの手には、氷のように感じられる筈だ。そんなものに、触れてはいけないと、アルミンは友人の手を振り解こうとした。しかし、エレンの手は、しっかりとアルミンの指先を握って、離そうとしない。エレン、と窘めようとしたところで、小さく耳元に囁く声がする。
「嫌なのか」
短い問いに、アルミンは、ぴたりと身じろぎを止めた。何と言えば良いのか、分からずに、視線を彷徨わせる。暫しの逡巡の後、アルミンは、訥々と答えた。
「……嫌……じゃ、ない…けど……」
「じゃあ、いいだろ」
そう言われると、アルミンは、何も反論することが出来なかった。大人しくなったアルミンに、エレンはしっかりと腕を回して、身体を密着させた。背中越しに、エレンの熱を感じる。規則正しい、鼓動が伝わる。回された腕の、重みが分かる。息遣いが、耳をくすぐる。エレンがいる、と感じた。とくとくと、鼓動が高鳴った。そう強く抱かれているわけでもないのに、胸が小さく締めつけられるようだった。
アルミンの耳元に、頬を擦り寄せて、エレンは呟く。
「何も……やれないから。アルミンに、何か、やりたいのに……何も、」
「……いいよ。十分、貰ってる」
声を潜めて、アルミンは応じた。その答えは、エレンにとっては、不可解であったらしい。訝しむように、彼は呟く。
「……何も、やってないだろ」
「でも、温かい」
きゅ、と指先を握って、伝えた、それがアルミンの素直な思いだった。今、こうしている間にも、エレンから分け与えられているものがある。それは、今のアルミンにとっては、何にも代え難い贈り物だった。エレンの体温で、冷え切っていた手の強張りが、少しずつ解けていくのが分かる。どちらともなく、そっと指先を絡めていた。
「エレンが、いてくれるから。……寂しく、ないよ」
「……なら、良かった」
おやすみ、と囁いて、目を閉じた。瞼から、伝い落ちるものが、温かかった。