アルヒノオト 2






■訓練兵団

一人の訓練兵として日々の鍛錬に励むようになってからは、いよいよ、誕生日なんてものは意識に上らなくなる。個性を主張するよりも、いかに集団に己を合わせていくかが、ここでの生活の基本となるからだ。兵団の一員として、命じられたままに、命じられた働きをする。それが、末端の兵士のあるべき姿だ。前線に立つ駒には、時として、名前すらも、必要がない。誰の誕生日がいつであったか、そんなことを覚えているのは、ごく親しい間柄の友人同士くらいのものだろう。
そもそも、訓練兵団入団以降、誰に誕生日を問われたこともないし、自分から述べたこともない。同期の間で、それを祝う風習があるという話を聞いたこともない。だから、何が起こる筈もないだろうという結論に至るのは、ごく自然なことだった。
それが、すっかり覆されてしまったのは、どういうわけだろう? 
正直なところ、まだ半分くらいは、夢だったんじゃないかと思っている。今日がその日という、ただそれだけで祝って貰えることなんて、きっともう、この先にはないものと思っていたのだ。幼い日にそうしてくれた家族は、皆、僕の前からいなくなってしまった。失ってしまったものは、二度と、戻らない。それが、当たり前の道理だと思っていた。
結論からいうと、僕のその考えは、間違いだったということになる。後から考えれば、恥ずかしくなるくらいの、大間違いだ。ただ、それなのに、間違えたというのに、不思議と心は軽い。気が滅入りもせずに、むしろ、嬉しいなんて、可笑しなことだ。
教えてくれたのは、大切な友人で、僕にとってはそれこそが、何よりの誕生日プレゼントだった。だから、この花を、今日の記録として、挟み込んでおこうと思う。
今日という、ある一日の、ノートのために。



待ちに待った休日、それも清々しい好天とあって、第104期訓練兵団の少年少女たちは、ひとときの自由を謳歌していた。多くは、無味乾燥な訓練地を厭って街へと繰り出し、残りは、日頃の疲れを癒すべく惰眠を貪るなり、体力のあり余っている者たちは、人数を集めて青空の下、球技に励むなり、思い思いの時間を過ごしていた。
「コニーの奴が、どうしてもって言うからよ。仕方ないから、出てやることにした」
大いに不服げな表情でもって、エレンは朝方、球技試合に参戦する旨をアルミンに伝えた。皆で力を合わせて一つの目標に向かうというよりは、己の力のみを頼りに突っ走る傾向にあるエレンにとって、団体戦はさして心躍るものではないのだろう。それでも、どうしてもと泣きつかれれば、渋々とはいえ腰を上げてしまうところがエレンらしい。
お前はどうするんだ、と問われて、アルミンは、既に決めていた予定を答えた。
「本を読んでるよ。普段は、なかなか読み進められないから」
アルミンの寝床の脇に、常に数冊の小難しい書物が積んである様子を思い起こしたのだろう、エレンは、ああ、と納得がいったように頷いた。それらは、消灯前の自由時間に目を通す予定で、アルミンが兵団の書庫から貸し出しを受けたものであるが、現在のところ、その計画は大幅に未達成であった。夕食を終えて寝床に辿りつく頃には、早朝からの訓練によって酷使された身体が悲鳴を上げており、一刻も早い休息を欲する。押し寄せる睡魔には、気力だけで打ち勝てるものではない。無理に瞼をこじ開けて読もうとしたところで、そのまま力尽き、本を枕にしてしまうだろう結果は目に見えている。
ゆえに、アルミンはこの貴重な休みに、溜まっていた書物を消化してしまいたかった。友人の勇姿を観戦しに行けないのは、残念であるが、後から話を聞かせて貰えば良い。
「観に行けないけど、応援してる。皆と、仲良くね」
「なんだそれ……じゃ、行ってくる」
運動場へ向かう友人を見送ったところで、アルミンは、さて、どの本から手をつけようかと思案した。それは、かつてであれば、心躍る幸せな悩みであっただろうが、今となっては、そうではない。アルミンにとって、今や読書は、己の知識欲を満たすための娯楽ではなく、稼げるところで出来るだけ点数を稼いでおくための手段の一つであった。
早くも、実技における評価で他の同期たちと差が生じつつあることは、アルミンも自覚している。この地でただ3年間を過ごしさえすれば、自動的に兵士になれるというような甘い話は、どこにもないことも承知している。何らかのかたちで、己の存在価値を主張してみせなければ、いずれ振るい落とされ、開拓地へと送り返されることになる。それだけは、避けなければならなかった。
いったい、人類の勝利の役に立つためといって、自分に何が出来るのか、アルミンには、まだ答えどころか、道筋も見出せない。それでも、自分に出来ることをするしかないということは分かる。誰も、無条件では、生きてはいけない。
ここにいることを、認められること。ここにいても良いと、許されること。それだけが、アルミンの第一の望みだった。
暖かな日差しに誘われて、アルミンは宿舎を出ると、木陰のベンチに陣取った。携えてきた、軍馬の改良史に関する書物を、早速、膝の上に広げる。時折、木の葉を揺らす微風が、頬に心地良かった。
遠く、運動場の方から聞こえる歓声は、エレンが言っていた例の球技試合のものであろう。どうしてもと乞われて、それに参加せざるを得なくなったことを、本人は面倒がっていたが、そうやって同期との親睦を深めるのは、今後の兵団内の人間関係を円滑に保つ意味でも、良いことであるとアルミンは思う。活躍していると良いなと思いつつ、少年は独り、書物の世界に没入していった。



「……アルミン」
広げた紙面に、ふっと影が落ちかかって、アルミンは意識を引き戻された。いったい、何時間が経過していたのか、木陰にあった筈のベンチは、いつの間にか、陽光の下に晒されていた。馬具の発展に関する図解から、視線を上げれば、すぐ目の前に、幼馴染の少女が佇んでいた。微風に揺れる艶やかな髪の下、漆黒の瞳が、じっとこちらを見つめている。
「ミカサ。どうしたの」
読みかけの本を脇に置いて、アルミンは身を起こした。買い出しの帰りであるらしく、ミカサは片手に大きな紙袋を携えている。それを運ぶ手伝いか何かが必要で、声を掛けてきたのだろうか。それならば、アルミンは喜んで引き受けるつもりであったが、彼女が告げた内容は、その予想とは異なっていた。
「アルミンに、渡したいものがある」
言って、ミカサはおもむろに紙袋を探った。思わぬことに、アルミンは何だろうかと内心で首を傾げた。特に、彼女に買い物を頼んだ覚えはないが、町で何か面白いものでも見つけてきたのだろうか。
一番上に入れておいたのだろう、目的のものはすぐに見つかったらしく、ミカサは丁寧な手つきでそれを取り出した。アルミンの前へと、黙って差し出す。彼女の手の中のものを見て、アルミンは目を瞬いた。
「……花、」
それは、小さな花束だった。贈答用の豪奢な花ではない。素朴な野の花を一握り、梱包用の麻紐で軽く括っただけのものだ。それでも、花束であることに変わりはない。子どもであれば、わぁと歓声を上げていただろう。否、同期の少女たちであっても、やはり瞳を輝かせて喜んだに違いない。赤茶けた土が剥き出しの、埃っぽい訓練地では、小さな野の花の彩りさえも貴重である。
ただ、どうして自分がそれを貰えるのか、アルミンは心当たりがなかった。手を出して良いものかどうか迷いつつ、首を傾げる。
「これ……僕に?」
あまり自信のない問い掛けに、ミカサはこくりと頷く。貰って良いらしい。とはいえ、可憐な花を愛でる趣味は、特に無いつもりなのだがと、アルミンは戸惑わざるを得なかった。事情を掴めずにいるアルミンに、ミカサは一言を付け加える。
「今日は、アルミンの誕生日だった筈」
静かに紡がれた、その言葉で、アルミンはようやく、ああ、と思い至ることが出来た。
「ああ……うん、そうだった。覚えていてくれたんだ」
そういうアルミン自身は、昨晩までは、何とはなしに頭の片隅で気にしていたが、いざその日を迎えてしまうと、もう何もかも済んだような心地になって、意識から外れてしまっていた。妙な緊張から解放されて、安堵したとさえいって良い。それよりも、今日読む本のことや、明日からまた始まる訓練課程の方が、頭の大半を占めていた。
改めて、アルミンはミカサの手の中の花を見つめた。では、これは誕生日のお祝いということだろう。まさか、わざわざそんなものを用意して貰えるとは思っていなかったために、反応が遅れてしまった。喜ぶより前に、まず驚きの方が、アルミンの胸の内に広がった。でも、どうして花なの、と問おうとしたときだった。小さな花弁を、指先に弄いながら、ミカサは淡々と呟く。
「アルミンは、よく、これで花飾りを作っていたから……これくらいしかなくて、申し訳ないけど」
「……あ、」
その言葉に、アルミンは思い出す。温かな陽射しと、丘を撫でる微風の運ぶ、緑と土の匂い。故郷の野原で、いつもエレンとミカサと三人、夕暮れまで遊んでいた。持ち出してきた本を読んだり、助け合いながら木に登ったり、花の冠や指輪を作って過ごすのが、何より楽しかった。ミカサと共に、出来上がった自信作でお互いを飾り、木陰で寝ていたエレンにも、これぞというものを献上したものだ。花なんて恥ずかしいと言って嫌がりながらも、しかし、頭に乗せられた冠を振り払おうとはしない、エレンの不服げな表情が、面白かった。
髪や身体のあちこちに花弁をつけて、草の匂いに包まれながら、じゃれあっていた。柔らかく、温かな感触。思い出すと、アルミンは、小さく胸が締めつけられるのを感じた。それは、切なくなるほどに優しい記憶だった。
「……アルミン? どうかしたの」
黙り込んでしまったアルミンの様子を、不審に思ったのだろう、ミカサは気遣わしげに首を傾げる。彼女を心配させないように、アルミンは静かに首を振ってみせた。
「ううん、ちょっと、びっくりしただけ……嬉しいな。ありがとう」
ミカサの手から、アルミンは小さな花束をそっと受け取った。踏み固められた訓練地周辺や、鬱蒼たる林の中では、見掛けることのない花だ。だいぶ、遠出をして採集してきてくれたのだろう。少し干からびかけている野の花を、アルミンは大切に胸元に寄せた。
はにかんだアルミンの表情を、じっと見つめて、ミカサは小さく頷く。
「上手に作って、また、エレンに上げると良い」
「……いや、そんなことは、もうしないよ……」
幼馴染からの提案に、アルミンは小さく苦笑した。何者の追随も許さぬ圧倒的な戦闘技術を有し、同期の中でも一目置かれる存在であるところのミカサが、真面目な顔をして、そんなことを言うのが、可笑しかった。彼女の中では、幼馴染三人は、未だに幼い子どものままのような感覚なのかも知れない。
アルミンがどうして顔を綻ばせているのか、ミカサはよく分からないのだろう、表情に訝しげな色が浮かんでいる。それでも、贈り物がどうやら喜ばれたらしいことが分かって、一安心したのか、携えてきた荷物を抱え直す。
「私は、これを置いてこなくてはいけないので……また、後で。おめでとう、アルミン」
「うん。本当に……ありがとう、ミカサ」
危うげのない足取りで、その場を後にする幼馴染を、アルミンは温かな心地で見送った。彼女が今日のことを覚えていてくれたことが、嬉しかった。それに、小さな贈り物のおかげで、懐かしい子どもの頃のことを、思い出すことが出来た。かけがえのない、三人で過ごした、大切な思い出だ。
はしゃいで駆けまわり、寝転がって笑っていた、あの故郷の丘は、とうに奪われ、踏み躙られた。あの日から、もう、花を摘むこともなくなった。失われたものは、二度と戻らない。しかし、今もこうして、花は咲いている。あの日々を、覚えている。それが、何か大切なことのように、アルミンには感じられた。
さて、これをどうしようかと、アルミンは小さな花束を見つめて思案した。空き瓶に水を入れて、活けておけば、暫くは保つだろうか。しかし、そんな風に寝床に花を飾っているところを、口の悪い同期たちに目撃されては、何を言われるか分かったものではない。ただでさえつきまとう軟弱な印象を、なにも自ら増進するような真似をすることはあるまい。
「……上手に作って、か……」
暫しの後、アルミンは呟くと、記憶を頼りに、小さく指先を動かし始めた。



「アルミン! アルミーン!!」
小さく背中を丸めて座り込んでいたところに、大声で名前を呼ばれれば、たとえやましいところがなくとも、たいていの人間は驚く。その例にもれず、手元に集中していたアルミンは、思わず肩を跳ねていた。幼馴染以外の他人から名前を連呼されるのは、どうも未だに慣れないものがある。
見れば、向こうから威勢良く駆けてくる、複数の影があった。サシャとコニー、そして、彼らを追うようにして、後からやってきたのはエレンだ。彼らは確か、例の球技の真剣勝負を繰り広げている最中であった筈だ。その顔ぶれが、いったい、こちらに何の用だろうか。
もしかすると、急に助っ人が必要にでもなったのだろうか、と考えてから、アルミンは、すぐさま自分でその可能性を否定した。どう贔屓目に見たところで、およそ戦力になりそうにない自分を、助っ人として誘う人間が、どこにいるというのかと思った。あるいは、突然に球技が盤上遊戯にでも種目変更したのだろうか。それならば、専ら頭脳労働が取り柄のアルミンが呼び立てられるわけも分かる。逆にいえば、そんな特殊な事情でもない限り、アルミンにお呼びが掛かることは、まずないといって良い。
この3人の取り合わせというのは、何とはなしに不安を誘うものがあるが、ともかく、今のところ逃げる理由はないので、アルミンはその場で、彼らが走り寄って来るのを待った。
「アルミン! 良かった、丁度良いところに!」
息せき切って到着したサシャとコニーの顔には、何故か、満面の笑みが浮かんでいる。丁度良いとは、いったい何のことであるのか、心当たりのないままに、アルミンは困って首を傾げた。
「なに、どうしたの……試合は?」
「試合は、終わった。オレ達が勝った」
簡潔に報告したのは、後から追いついたエレンである。彼は呼吸を整えると、気まずそうに頭をかきつつ、二名の同期を順に見遣った。
「いや、そういや今日、アルミンの誕生日だったな、っつってたら……こいつらが、」
「やったな、アルミン! こいつはめでてぇ!」
アルミンの手を、コニーはしっかと握って、勢い良く上下に振った。それから、ばんばんと無造作に肩を叩く。わ、とよろめきかけて、アルミンは危うく踏み止まった。じんじんと痛む肩をさすりつつ、小さく苦笑する。
「そんな……大げさだよ、」
それを言うために、わざわざここまで走ってきたのだろうか。何もそこまでしなくとも、とアルミンは嬉しくも気恥ずかしい思いを抱いた。やはり、住民全員が顔見知りというような、人間関係が密な小村の出身であると、こうした記念日は盛大に祝うものという意識が根付いているのかも知れない。祝われる本人よりも騒いでいる同期に苦笑いしていると、隣のサシャが、分かっていないなというように指を振る。
「何を言いますか。また、無事に1年を生き延びたってことですよ。それは大変なことです。一大事です。お祝いすべきです」
「はあ……」
それはまた、思考が動物的というか、完全に野生動物のそれになっているような気がする。しかし、考えてみれば確かに、公に心臓を捧げた兵士であるところの自分たちは、いつ訓練中の不慮の事故で、あるいは巨人の襲撃によって、命を落としてもおかしくはないのだ。何事もなく、漫然と日々を過ごしていれば、自動的に、一つ歳を取る──そんな暮らしは、偽りの安寧でしかなかったのだと、自分たちは、既に知っている。
生きることは、選択の積み重ねであり、その選択次第によって、いつ道が閉ざされるとも分からない。そう言われてみると、1年を生き延びたというのは、当たり前のことでも何でもなく、何か特別なことなのではないかと思えてくる。無事に生きているという、ただそれだけで、両親に祝って貰えた、幼い頃を思い出して、アルミンは小さく胸が疼いた。
「そういうことで、私からお祝いがあります!」
アルミンの内心を知る由もないサシャは、胸を張って宣言すると、ごそごそと懐を探った。
「はい! アルミンのお誕生日ということで特別に、厨房から芋を盗ってきました!」
「普段と変わらねぇだろうが」
冷静なコメントを紡ぐエレンであったが、サシャは動じた様子もなく、アルミンに向けて、戦利品を差し出す。
「さあ、どうぞ! 半分といわず、丸ごと1個いっちゃってください!」
「あ……ありがとう……いいの?」
食事の度に、どこかで余り物は出ていないかと、テーブルの上に目を光らせているサシャである。芋にしても、本当は他人に与えるよりも、自分が食べたい筈だとアルミンは思った。サシャの中で、食べ物への執着がどれほど優先順位の高いものであるか、アルミンは共同生活の中で既によく知っていたから、素直に施しを受けるのは、やや躊躇われた。食べ物のありがたみを知り、畏敬の念を抱き、きれいにおいしく食べる、そんな彼女に食べて貰った方が、盗まれた芋としても、幸せなのではないかと思う。
そんなアルミンの遠慮を、しかし、サシャは陽気に笑い飛ばした。
「いいんですよ、お誕生日なんですから!」
誕生日であるというのは、そんなにも全方面に有効な切り札であっただろうか。アルミンは素朴な疑問を抱いたが、そう言うサシャの顔をよく見れば、口の端に芋の欠片がついている。どうやら、自分の分は既に胃袋に収めたので、残りは気前よく分け与えようということらしい。それならば、厚意は素直に受け取るべきであろう。
「じゃあ……ありがたく、いただきます」
神妙に言って、アルミンは芋を大切に両手で包んだ。どうぞどうぞと、サシャは無邪気に手を叩いている。
一方のコニーは、めでたいとは言ったものの、特に祝いの品を用意したわけではないらしい。つい先ほど、誕生日の件を知ったのだから、それも当然であろう。ここですぐさまプレゼントを調達出来るサシャは、例外的存在である。普通であれば、そうはいかない。さて、どうしたものかと、コニーは腕組をして、頭を捻っている。
「えーと、じゃあオレは、なんも持ってねぇから、何かしてやるよ! 頼みがあれば、何でも言ってくれ! お、そういやアルミン、後方宙返りか何か、覚えたいとか言ってなかったっけか? オレ、得意だから、教えてやるよ! まず、こう腰を落とすだろ、ほら、」
「え、今? 今やるの? ちょ、芋が……」
突然に始まった器械体操指南に、アルミンは戸惑いの声を上げるが、すっかりやる気を起こしてしまったらしいコニーを止めるには至らなかった。有無を言わさず組みつかれ、取り落としかけた芋を慌てて掴み直す。そうしているうちに、背中合わせでしっかりと腕を組まれていた。いくぞ、とコニーが身を縮め、代わりにアルミンの身体が大きく仰け反る。視界が回転し、アルミンは小さな悲鳴を上げた。
「ま、待って……っ無茶だよ、これ無理…!」
「大丈夫だって、任せとけ!」
根拠のない自信に満ち溢れたコニーの台詞に、アルミンは血の気が引いていくのを感じた。身長はそう変わらないというのに、どこにそんな力があるのか、絡められた腕は少しも動かせない。必死に足をばたつかせていた、そのときだった。
「はっ……誰か来ます!」
何かに気付いたように、サシャはその場を飛び退った。迎撃態勢をとり、油断なく背後に視線を走らせる。
「この靴音は……教官!」
「バレたか!? ずらかれ!」
普段から、要注意人物として鬼教官に目を付けられているだけあって、サシャとコニーの反応は早かった。次の瞬間には、アルミンを解放し、後ろも見ずに、脱兎のごとく駆け出している。いっそ惚れ惚れとするほどの、鮮やかな逃げっぷりであった。
ベンチの上に放置されていたアルミンの本を素早く抱え上げ、エレンは短く叫ぶ。
「オレ達も行くぞ、アルミン!」
「あ、あぁ!」
盗みの証拠品の芋は、アルミンの手の中にある。見つかれば、たとえ実行犯が別であると弁明しようとも、問答無用で懲罰が下るだろう。めでたき誕生日に営倉行きとは、笑えない。サシャ達が逃げていったのとは別方向へと、二人は駆け出した。



「ったく……あいつらといると、ろくなことにならねぇ」
訓練用林地の近くまで至って、エレンは足を止めた。精確にいえば、アルミンの全力疾走が、その距離までしかもたなかったので、止まらざるを得なかった。二手に分かれたこともあり、ここまで来れば、見つかる危険は薄いものと思われた。今日は、立体機動装置の胸をすく射出音も聞こえずに、鬱蒼たる林は穏やかに静まり返っている。二人は並んで、大樹の根本に腰掛けた。息を切らしつつも、アルミンは、貰った芋を大切に両手に包み込む。
「はは……でも、お祝いして貰えて、嬉しかったよ」
「……オレは、」
そこで、エレンは、少しばかり言い淀むような表情を見せた。暫しの間を置いて、ぽつりと呟く。
「今年も……何にも、やれねぇけど」
俯いた面には、もどかしげな色が浮かんでいる。エレンのそういう表情を、アルミンは、これまでに幾度となく見たことがある。強く思い描いた目標がありながら、同時に、そこへ至ることの出来ずにいる己の現状を思い知らされるとき、エレンは、奥歯を噛み締め、痛みを堪えるような顔をする。強大な敵と戦うだけの力が足りないことも、友人の誕生日に何も贈り物をやれないことも、同じように、エレンに焦燥と、胸を噛む痛みをもたらす。
だから、エレンは優しい、とアルミンは思う。何もやれないとエレンは言うが、そうして、真摯に気に掛けて貰えるというだけで、アルミンにとっては、十分だった。なにも、エレンが思い悩んだり、自分を責めたりする必要なんて、ないのだと思った。それを伝えるべく、宥めるように言葉を掛ける。
「でも、覚えていてくれたでしょ」
「当たり前だろ。何年、一緒にいると思ってんだ」
夜と朝方が冷え込んで、星がよく視えるようになってきたら、アルミンの誕生日だろ、とエレンは分かり切ったことのように言った。まるで、季節が廻って花が咲く、自然の摂理と同じような物言いをするのが、アルミンは可笑しかった。手の中の芋を弄びつつ、呟く。
「エレンは、いつも……一番の贈りものをくれるよ」
「そうか?」
「そうだよ」
よく分からねぇな、とエレンは頭をかいた。何もプレゼントをした覚えがないのに、そんなことを言われては、戸惑うのも当然だろう。
「……でも、アルミンが喜んでるなら、いいか」
言って、エレンはこれで問題は解決したというように、小さく伸びをする。その納得の仕方は、エレンらしいな、と思い、アルミンは笑みをこぼした。それから、貰い物の芋を、軽く掲げる。
「半分、食べる?」
「お前が貰ったもんだろ。お前が食えよ」
「……貰ってばかりだから。僕も、あげたいよ」
子どもの頃は、誕生日には友人を家に呼んで、ごちそうを振る舞った。わざわざ、お祝いをして貰うのだから、それは当然のお返しだった。誕生日は、何かを貰う日であり、同時に、何かを返す日なのだ。誰も、一人では、生きてはいけない。この1年間、生きることが出来たのは、己の力というだけでなく、周囲の支えあってこそであると、忘れてはならない。
何も上げることが出来ない、とエレンが言うが、今となっては、状況はアルミンも同じだ。振る舞えるごちそうも、何もない。それでも、エレンが与えてくれたものに、応えたかった。朝から運動をして、腹を空かせているだろう彼が、これで少しでも満足を覚えてくれれば良いと思った。
「じゃあ……貰う」
積極的に拒む理由もないと判断したのだろう、エレンは片手を差し出した。手の中の芋を、アルミンは慎重に割った。蒸かしたての熱々ではないが、内部にはまだ、十分な熱が残っている。薄く湯気の立ち昇るそれを、はい、と友人に手渡した。
一口、齧って咀嚼すると、素朴な舌触りと共に、じわりと甘みが広がった。定められた食事時以外に、教官の目を盗んで密かに食べるものは、どうしてこんなに美味しいのだろう。いけないと思いつつも、自然と笑みがこぼれてしまう。
「おいしいね」
「ああ」
微笑み掛けるアルミンに、エレンも口一杯に芋を頬張りながら首肯した。やはり腹を空かせていたのだろう、良い食べっぷりである。危うく喉に詰まらせかけて、胸を叩くのも微笑ましい。
エレンが物を食う姿を見るのが、アルミンは好きだ。毎日の食堂で、パンを食い千切り、スープを飲み下す、エレンを向かいの席から眺めているだけで、胸がすくような思いがする。彼の生命の、溢れるばかりの熱と躍動が、ありありと伝い感じられる。それは、エレンが披露する器械体操の見事な連続技や、低い気合いと共に組み合う対人格闘術の型を眺めるときに、胸に湧き起こるのと同じ感情だ。
食べる彼は、強い、と感じる。自分は持たない、その苛烈さに、アルミンは焦がれる。
喰らう度に、エレンは、決意を新たにしているのだろう。今度は自分の方が、喰らう側になってやるのだと誓い、そのために喰らう。だから、エレンの食事は、真剣なのだ。他の同期たちの、和やかでどこか弛緩した娯楽としての時間とは、一線を画する。
自分の分け与えたものが、エレンの力になるのだと思うと、アルミンは小さな喜びを覚えた。どうか、食べて欲しいと思った。それは、陥落する故郷を脱し、辿り着いた避難所で、配給のパンを三人分、しっかりと胸に抱えたときから、アルミンの胸の内に芽生えた思いだった。エレンのために、エレンの役に立つことが出来ている。それを確かめて、アルミンは安堵する。ここにいても、良いのだと思える。ここで、同じものを食って、生きていて良いのだと思える。息を吹きかけて冷ましながら、アルミンは少しずつ、芋を齧った。
無言で芋を頬張っていたエレンであるが、そこでふと、アルミンの手元に視線を落とした。
「なんだ、それ」
訝しげに目を眇めて問う、彼の視線を辿って、アルミンは己の右手を見遣った。具体的には、手の中の芋──ではなく、それを支え持つ人差し指の付け根である。そこには、野の花を絡めて作った、小さな指輪が嵌っている。つい先ほど、出来上がったばかりの作品だ。ミカサに貰った花を前にして、手を動かしてみると、指先は自然と動いて、気付けば慣れた手順で円環を形作っていた。作るのは暫くぶりであったが、茎を丁寧に絡めた出来栄えはなかなかのものであった。試しに嵌めてみたところで、コニーたちが押し掛けてきたものだから、そのまま忘れてしまっていた。少し気恥ずかしい思いで、アルミンは答える。
「あ……ミカサから、花を貰ったんだ。それで、久し振りに作ってみたんだけど……おかしいよね、やっぱり」
考えてみれば、空き瓶に花を活けるのも、花の指輪を嵌めるのも、軟弱という意味では、どちらもどちらである。呑気なことをしているといって、あきれられてしまうのではないかと、アルミンは急に恥ずかしくなった。素朴な指輪を、そそくさと外そうとしかけたところで、エレンがぽつりと呟く。
「……いや。いいんじゃねぇの」
小さく呟かれた言葉に、アルミンは、指輪を外しかけた手を止めた。聞き間違いかとも思ったが、エレンはまじまじと、アルミンの手元を見つめている。その緑瞳には、子どもっぽい真似をしているといってあきれるのとは異なる、どこか懐かしげな色が宿っていた。遠い日に思いを馳せるように、エレンは小さく独りごちる。
「お前らが、そういうの作って遊んでるところ……見てるの、オレは、好きだったし」
それだけ言って、エレンは、再び芋を齧る作業に戻ってしまった。アルミンは、暫し茫として、その横顔を見つめた。
あの頃、丘の上で花飾りを作って遊んでいたとき、エレンは退屈しているものとばかり思っていた。遠い空を眺めて、時間を潰しているものとばかり思っていた。自分たちがそんな風に、彼に見つめられていたとは、知らなかった。
エレンが見つめた、あの丘の景色は、どんな色をしていたのだろう。今は届かぬ場所へと、アルミンは思いを馳せた。また、あの丘へと、三人で立つことが出来るだろうか──奪われた故郷を、取り戻すことが出来るだろうか。
「読み終わったら、起こしてくれ」
芋を食い終わると、エレンは少し寝る、と言ってその場で横になった。朝からの試合で、疲れてしまったのだろう。早速、規則正しい寝息を立てている友人を、アルミンは目を細めて見守った。幼い頃、遊び疲れて、木陰で居眠りをするエレンに、こうして寄り添っていたことを思い出す。
「……ありがとう」
友人の寝顔に、アルミンは、小さく囁いた。慣れ親しんだ温もりを、すぐ隣に感じながら、本のページを捲った。



「アルミン、聞いたぞ。誕生日なんだって? おめでとう」
エレンを起こし、寮へと戻ったのは、太陽の沈みかけた頃だった。おめでとう、おめでとうとすれ違いざまに声を掛けられる度に、アルミンははにかみながら、ありがとうと応じた。アルミンの誕生日だといって騒ぐサシャやコニーの姿は、思いのほか、多くの面々に目撃されていたらしい。周囲から、良い意味での注目を集める機会は、普段のアルミンには縁遠いものであっただけに、嬉しいような恥ずかしいような、落ち着かない心地がした。
「……うわ、何だそれ……」
祝福の言葉の中に混じった、異質な声に、アルミンは足を止めた。頭を巡らせたところで、苦々しげに眉を寄せた非友好的な表情にぶつかる。あきれたように、こちらを見遣っていたのは、何かとエレンと反りの合わない同期のひとり、ジャンだった。彼の視線の先にあるのは、アルミンの右手である。その指には、小さな花の指輪が嵌っている。自然と、ここまでつけてきてしまったが、むさくるしい訓練所に似つかわしくないそれが、はたから見ればいかに奇異に映ることか、アルミンはようやく思い至った。あ、と思ったときには、既に遅い。並んだエレンとアルミンを順に見遣って、ジャンは皮肉げに唇を歪めた。
「そいつがお誕生日プレゼントってか? はは、よくお似合いだぜ。結婚の誓いでも、交わしてきたんじゃねぇの」
「おい、お前な、……」
挑発的にせせら笑うジャンに、エレンは肩を怒らせて詰め寄る。まずい、とアルミンの脳裏に警鐘が鳴る。友人思いのエレンは、昔から、アルミンが馬鹿にされたり不当な扱いを受けたとなると、すぐに熱くなり、我を忘れて報復へと打って出てしまう。自分のために、ここで騒ぎを起こして、エレンの評価に傷を付けるわけにはいかない。止めなくては、と思ったときには、早くも、エレンは闘志剥き出しでジャンに相対している。
「さっきの試合で負けたからって、いちゃもんつけんなよ……見苦しいぜ」
「あぁ? 良い気になるなよ、まぐれ勝ち野郎。オレは純粋に、お前らの前途を祝福してやってんだろうが。とっととお外へ新婚旅行に行っちまえ、二度と帰ってこなくていいぞ」
「いや、待って……違うんだ、」
睨み合う両者の間に、アルミンは急いで割って入った。誤解を解くべく、ジャンの前に己の手を翳して説明する。
「エレンじゃない……こんな花、この辺りでは見ないだろう? これは、ミカサに貰ったんだよ」
「……は?」
今にも、粗末だの子どもじみているだのといった、何らかの失礼なコメントを紡ぎ出そうとしていたと思しきジャンの表情が、途端に固まる。目の前に翳された指輪を、彼は声もなく凝視した。分かって貰えたのだろうかと、アルミンは思ったが、しかし、安堵の息を吐くのは早かった。ミカサが、と呟くと、ジャンは心ここにあらずといった様子で、アルミンの手を取った。おい、とエレンが窘める声も、どうやら聞こえていない。触れるばかりに顔を寄せて、彼はアルミンの指をまじまじと見つめた。
「……そうか。よくよく見れば、実に可憐な花だ。そこらの雑草とはわけが違う。並大抵の花じゃない、オレには分かる。そして、シンプルながらも持って生まれた素材の良さを引き出す、この繊細かつ優美な造形。作り手の心の優しさ、清らかさが伝わってくるかのようだ。どんな金銀宝石を散りばめた指輪も、これには敵わないだろう。白くて細っこい指に、可愛らしく調和して、実に素晴らしい。さすがはミカサだ」
「おい、いつまで握ってんだ。離せよ」
宝物か何かのようにアルミンの右手を捧げ持つジャンの手を、エレンは無造作に振り払った。解放された友人の手首を掴み、行こうぜ、と大足で歩き出す。手を振り払われたことにも気付いていないのか、ジャンは夢見るような顔で立ち尽くしている。彼に一言、花を摘んできたのはミカサだが、指輪を作ったのは自分であるということを、教えるべきではないかとアルミンは思ったが、その機会は逸してしまった。誤解から殴り合いに発展してしまわなかっただけで、良しとしよう、とアルミンは己を納得させた。
一方で、先を行くエレンは、どうにも治まらないといった様子で低く呟く。
「どいつもこいつも……」
「褒めてくれたじゃないか。よく出来てる、って。嬉しいよ」
とりなすように、アルミンは言ったが、それはエレンを宥める役には立たなかった。肩越しに振り返ったエレンは、険しい表情でもってアルミンを見据えた。
「アルミンに花が似合うのは、知ってる。そんなの、オレはずっと前から、分かってる」
まるで、苦言でも呈するかのように、そう言い切ると、エレンはふいと顔を背けた。それでも、手は繋いだまま、離そうとしない。それが当たり前であると言わんばかりの、エレンの無言の主張が、可笑しかった。うん、とアルミンは小さく頷いた。

繋いだ手が、温かい。確かな存在が、ここにある。
ただ、ここにいるだけで認めて貰えるような、そんなものにはなれないのだと、分かっている。それでも、そうして扱ってくれる友人がいることを、アルミンは知っている。
誕生祝いが出来るのも、生きているからだ。幼い頃から、今日に至るまで、祝ってくれた面々の顔を、ひとつずつ思い返す。その日の記憶は、温かく優しさに満ちていたこともあれば、寂しく凍えていたこともあった。辛くて、投げ出したくて、なくなってしまえば良いと願ったこともあった。けれど、その日を重ねてきたからこそ、今、この瞬間がある。ここに、アルミンは、生きている。
今日この日の出来事も、いずれ、懐かしく思い返すことがあるだろうか。同じ日を、何回、繰り返すことが出来るだろうか。そんなことは、分かりはしない。分からないまま、健気に、愚直に、続けていくほかはない。
ただ、望むことは、一つだけだ。
1年後にも、どうか。その先にも、出来ることならば、走り続けられる限りの、最期の時まで。
ここに、いられるように。
繋いだ手に、力を込めて、固く握った。




[ ←prev ][ end. ]
















おめでとうアルミン ありがとうアルミン

2013.11.10

back