カレル(プレビュー版)







向けられた殺意は、あと僅か数センチメートルのところまで迫っていた。白刃が、今にも目の前の空気を切り裂く、あの一瞬が、蘇っては、息を詰まらせる。
殺されるだけのことを、したのだという、実感。その一言を、口にした瞬間に、すべては確定したことだった。

──拷問を受けてるよ。

トロスト区防衛戦の後、身柄を拘束されたエレンが、いかなる処遇を受けることか、ミカサは傍から見ていられないほどに案じていた。
心配は要らない、誰もが彼の価値を測りかねている今、彼の身の安全は脅かされないし、上層部が冷静になれば、その重要性を理解して貰える筈だ。自分たちの証言によって、きっと彼を救い出せる。
アルミンは、彼女を何とか元気づけようと、希望的観測を並べ立てたものだが、自分自身、それが空しい言葉であることは分かっていた。
ミカサの前では、とても口に出すことは出来なかったが、エレンが憲兵団の手に渡れば、いかなる末路を辿ることになるか、おおよその想像はついたし、ある種の覚悟も固めていた。
過去、捕えられた巨人が、いかなる生体実験に供されたか、そして、人類にいかなる知見をもたらしたか、それは、訓練所の講義で得た知識として、アルミンの内に、はっきりと書き込まれている。
席に着いて、教官の話に耳を傾けていた当時のアルミンにとって、その行為は、人類の勝利のための輝かしい一歩に見えていたし、恐怖に打ち克って巨体に刃を突き立て、肉を切り裂いた研究者の勇気に、いたく感銘を受けたものだ。
だが、その栄光ある研究は、対象を友人に置き換えたとき、凄惨な拷問へと性質を変える。
過去の仔細な実験報告書を、書庫で密かに調べては、吐き気を堪えた。そこには、授業では省略された実験の内容が、緻密に綴られていた。読み進めるほどに、血の気が引いて、手は震え、膝はくず折れた。指先を叱咤しなければ、ページを捲ることが出来なかった。知らなくてはいけない、という義務感だけで、必死に文字列を追っていた。
潰れた眼球が、再び開くまでの速度計測。口の中に槍を突き入れ、口蓋を破壊して脳を引っ掻き回す試行。はらわたを引き摺り出して野晒しにする試行。四肢を切断し、切断面の肉を焼いて治癒課程を観察する試行。
うなじを削ぎ落とす以外の、およそ考えられる限りの方法で、その肉体は蹂躙された。
頭の中で、それらの情景は、勝手に繰り広げられて、アルミン自身にも、止めることは出来なかった。半分も読み終えないうちに、書物は手の中から滑り落ちた。
ぐらり、と視界が揺れて、その場にしゃがみ込んだ。心臓が早鐘を打ち、じわりと脂汗が滲んでいた。小刻みに震える指で、懸命に口元を塞いでいた。
大丈夫だ、きっと、そんなことにはならない──そこまで、人類は落ちぶれてはいない。ミカサを励ましたのと同じ言葉を、懸命に、自分に言い聞かせる。
一方で、どうしてそんなことが言えようかと、冷静に現実を受け容れる自分がいる。人間の愚かさを、お前はとうに、知っている筈ではないか。
あるいは、既に、今この瞬間にも──そこまで想像して、アルミンは抑えきれない苦鳴をもらした。こんなものでは、ない筈だと思った。現実になれば、こんな苦痛では、足りないだろう。
薄暗い書庫の隅で、背中を丸めて、襲い来る悪夢に堪えていた。

あのとき、自分が感じた痛みを、彼らに突きつけたのだ。心臓を握り潰されるような窒息、四肢の末端から切り刻まれるような苦痛、消え失せたくなるほどの罪悪感。それを、知っていて、利用した。
自分の命を捨てることは、大前提だった。この言葉を言い終えたら、それが、自分の最期であると、分かっていた。
一歩ずつ、終わりへと近付いていく。ともすれば、震えて閉ざされかける、喉を叱咤して、何とか声を紡いだ。瞬きも忘れ、眼球は乾き、鼓動がうるさく鳴り響いていた。肉薄する刃を、妙にゆっくりと感じた。
エレンが、自由にならない身体を捩って、懸命にこちらを見ようとしていた。何かを、訴えようとしていた。
後悔は、しないつもりだったのに、その姿を見て、少し胸が痛んだ。彼の目の前で死ぬのは、出来れば、避けたかったなと思った。まるで、彼に己の無力さを、思い知らせるかのようだ。
きっと、エレンは憤る。いくら、かつてと比べて、自分を律する術を身につけたとはいえ、仲間の血肉を直に浴びて、仲間の身体を刃が切り裂く感触を直に感じて、平常心ではいられまい。
それは、彼を奮い立たせ、怒りを原動力とした強大な力をもたらすが、同時に、彼を破滅へと追いやるだろう。再び、人間の身に戻ってこられるかどうかも、定かではない。そんな衝動的な戦い方を、させたくはなかった。
なにより、激しく己を責めるであろう彼を残して逝くのは、忍びなかった。彼を慰めることも、励ますことも、もう、出来ない。
だから、ごめん、と口の中で呟いて、覚悟を決めた。いずれにしても、もう後には退けない。自ら、引き金を引いてしまったのだ。
エレンには、悪いことをしてしまったかも知れない。しかし、後悔はなかった。
少なくとも、何かの役に立って死ぬことが出来て、良かった、と思った。あとは、自分が切り刻まれている間に、隙をついて、精鋭の誰かがエレンを奪還してくれることを、信じるばかりだった。
あれだけのことを言ったのだから、きっと、斬り捨てられるだけでは済まないだろうことを、予測していた。仲間を辱められた彼の激情は、何度もこの身体を刺し貫くことだろう。
出来るだけ多く、長い時間、そうしてくれれば良い。それだけ、エレンの奪還の望みは高まる。
死体になっても、そうして最後まで、ぼろきれになるまで、この身が人類の役に立てるのであれば、本望だった。人類の勝利の、役に立つこと。それが、アルミンの戦う理由だった筈だ。巨人のエサになって死ぬより、ずっと良い。
これが、自分の命の価値なのだ。ちっぽけな命であっても、ただ一度だけ、出来ることがあるのだと分かった。
今、自分にしか、出来ないことがある。これで、大切な友人を、人類の希望を、守ることが出来る。ただの自己満足に過ぎないが、それで十分だった。
心を決めたら、後はもう、静かだった。しっかりと目を見開いて、その瞬間を、待っていた。



(中略)



「掃除だけで、一日、終わっちゃったね……」
「ここが一軒家で、まだ良かった……旧本部のときなんか、班員総出で、数日がかりだったぜ」
班員──その言葉を口にするとき、エレンの表情に僅かに過ぎった苦みに、アルミンは気付いていたが、あえてそれに触れることはしなかった。
選ばれし調査兵団の精鋭達が、彼の目の前で次々と屠られた、あの日からまだ一月も経たない。そして、早々に「新リヴァイ班」の結成である。
最初の壁外調査から無事に生還し、死地を潜ってきた新兵たちであるが、今後、先達らと同じ運命を辿らないという保証はどこにもない。
エレンにとって、仲間とは常に、「死」と切り離せない存在である。おそらく、彼は理解している。仲間たちの死を、最後まで立って見届けるのは、自分であるということを。それゆえに、仲間の死は不可避であるということを。
エレンの傍にいるということは、すなわち、死に最も近接していることを意味する。承知の上で、アルミンも、他の仲間たちも、ここにいる。命を捧げる覚悟は、調査兵団を希望したあの夜から、既に決めている。
エレンの心を軽くしてやることは、出来ない。仲間であるがゆえに、自分たちの存在が、彼に重荷を負わせることは分かっている。それでも、自ら望んで、ここにいる。だから、アルミンは何も言えない。
代わりに、そうだね、と頷いて、窓枠を空拭きした。見逃していた埃が舞い上がって、小さく咳き込んだ。
起居の場の清掃に関する、リヴァイ兵長のおよそ妥協を許さぬ姿勢は、新兵たちにあてがわれた個室にまで及んだ。洗いたてのシーツを掛けてのベッドメイキングの結果は、隅々までチェックされ、その都度、細かな修正を要求された。
ようやく、就寝の許可が下りたときには、少年たちはすっかり参ってしまっていた。
「どうせ、寝ればぐちゃぐちゃになっちまうのに……」
ぼやくコニーに、エレンは当然のことのように応じる。
「そうしたら、また直すだけのことだ。勿論、朝にもチェックがあるからな」
これには、さすがのコニーも、声を失った。
訓練兵の時分から、寝床周りが、私物や脱ぎ散らかした衣類に占拠され、乱雑であるといって、周囲から苦情の出ていたコニーである。あまり細かいことを気にしない性分である彼は、今日も掃除の最中、度々リヴァイから厳しい教育的指導を受けていた。
あれを朝晩繰り返すことになるのかと、恐れおののくのも、無理もない話である。慰めるように、アルミンはコニーの肩に手を置いた。
「仕方ないよ……こういう、普段の生活態度の積み重ねが、いざというときに機敏な行動が出来るかどうかに関わってくる。常に、緊張感を忘れないことが、大切なんだ」
「くっそぉ……ならいっそ、俺はベッドを汚さないように床で寝るぜ!」
「それは本末転倒というものだよ……」
アルミンは苦笑したが、確かに、そうしたくもなるという気持ちは、理解出来た。
ただ、こうしてリヴァイ兵長の指揮下に入り、特別作戦班として組織された以上、その決め事には、早いうちに慣れる努力をするほかはない。そう結論付けて、アルミンは他の面々と同様に、寝支度にかかった。
しかしながら、諦めの悪いことに約一名、どうしても納得が出来ずにいる者がいた。何とか抜け道を探ろうと、頭を捻っていたコニーは、仲間たちが寝巻に着替え終わった頃、はたと手を打った。
「なあ、良いこと思いついたぜ。二人で一台のベッドに寝れば、直す手間も半分で済むんじゃねぇか?」
あたかも、大発見を為したかのように、興奮を抑えきれない様子で、コニーは身を乗り出してそう提案した。期待に満ちた瞳で、面々を見渡す。
「……」
思いも掛けない提案に、一同は、それぞれ作業の手を止めて、暫し、あっけにとられた。それを、己の案があまりに画期的で優れていたためであると受け取ってか、コニーは一人、得意顔である。
衝撃から、真っ先に体勢を立て直したのは、ジャンであった。彼は、やや顔を引きつらせながらも、余裕の態度で腕組をして、同期の提案を一笑に付した。
「は? 何言ってんだ、んな気持ち悪いこと、」
「一理あるね」
コニーの突飛な発想に感心を覚えつつ、アルミンは頷いた。おい、と非難するようなジャンの声が聞こえたが、頭の中では、既にシミュレーションが展開している。
考えに没頭すると、周囲の状況を顧みずに、思考を口に出して紡ぎ始めてしまうのは、悪い癖であると自認しているが、止めようと思って止められるものでもない。顎に指を遣って、アルミンは神妙に言葉を紡いだ。
「ベッドメイキングにしろ、洗濯にしろ、半分にすることで節約出来る労力と資源は、少なくない筈だよ。幸い、二人で寝ても十分なだけの広さは確保されている……その場合、体格からいって、ジャンとコニー、僕とエレンという組み合わせによって、負担は平均化されるんじゃないかな」
「勝手に話を進めんな! 言っておくが、俺はごめんだぜ。面倒だろうと何だろうと、自分のベッドで寝る」
宣言するや、ジャンは己の領土を主張するかのように、寝台の一つに陣取った。何人たりとも、この中には入れぬといった構えである。
「ちぇっ、なんだよ。人が折角、良いこと思いついたってのに」
愚痴を垂れながら、コニーもまた、自分の寝台に潜り込む。残されたのは、エレンとアルミンである。幼馴染二人は、どうしようかというように、互いに顔を見合わせた。
「オレは、別に構わねぇけど。なあ、アルミン」
「うん、いいよ」
お互い、寝相は悪い方ではない。同じ寝台で眠ったところで、何ら不都合は考えられなかった。ジャンには拒否されてしまったものの、自分の言葉に責任を持つ意味でも、アルミンは、エレンと共に寝ることが当然であると思った。
早速、枕を移動していると、ジャンがあきれたような顔で、ひらひらと手を振った。
「ああ、分かった分かった、お熱いことで。お前らはそうやって、ベッドの中でもベタベタしてろ」
同期の言葉に、アルミンは、はてと首を傾げた。
「熱い? でも、こんな山の中だし、夜は冷えると思うよ。ねえ、エレン」
「ああ。丁度良いんじゃねぇの」
付き合ってられるか、とジャンはさっさと毛布を被って、背を向けてしまった。オレ達も寝ようぜ、とのエレンの言葉に従って、アルミンも毛布の中に潜り込んだ。



(中略)



はじめに感じたのは、焦燥だった。
息が詰まる。上手く、呼吸が継げない。唇をわななかせ、息喘ぐ。
喉が、塞がっているのだと分かった。何かが、首に絡みつき、ぎりぎりと圧迫して、気道を塞いでいる。
それは、誰かの両手だった。開いた指が、決して放すまいとするように、首にきつく食い込んでいる。
身を捩って、振り払うことは、出来なかった。抵抗すべき腕も、脚も、何もかもが自由にならない。身体など、はじめから存在しなかったかのように、感覚自体が、消滅していた。ただ、首だけが、明瞭な現実感をもって、絞められていると分かる。
不思議と、抵抗する気は、湧き起こってはこなかった。甘んじて、それを受け容れる。
暗闇の中、憎々しげな瞳が、爛々と輝いて、こちらを睨めつけている。目を閉じているのに、相手の瞳に浮かぶ、突き刺すような憎悪は、明瞭に感じ取ることが出来た。
そうして、きつく、絞め上げられる。血塗れの腕が、首に絡みついている様子を、ありありと思い描くことが出来た。
頭は茫と熱く、思考は鈍磨し、感覚が融けていく。そうして、意識がぶつりと途切れるまで、赦されることはないのだと、知っている。
助けを求めることも、赦しを乞うことも出来ないままに、意識は底知れぬ闇へと沈んでいった。

「……う、ぅ」
小さく呻いて、アルミンは眉を寄せた。四方から、小鳥のさえずりが耳を打つ。それから、微かな布擦れの音。閉ざした瞼越しにも、瞳を射る光を感じる。
緩慢に瞼を上げたアルミンは、振り注ぐ白い光を目にした。窓から射し込んだ陽光が、乱れたシーツを照らし出し、濃い陰影を刻んでいた。
「おう、おはよう。アルミン」
「……おはよう」
先に起き出していたエレンの溌剌たる声に、アルミンはまだ上手く働かない頭で、ぼんやりと応じた。
身支度を整えて、食堂に集合しなくては──今日の訓練課程は何だっただろう? 
朝食までの時間的猶予を、友人に問おうとして、アルミンはここが、三年間を過ごした訓練兵団の、狭苦しい寝床ではないことに思い至った。
肘をついて、のろのろと身を起こす。寝台の上に座り直すと、アルミンは喉元に手を遣った。そろそろと指先を触れるだけで、息苦しさが蘇って、思わず肩を竦めた。
おそるおそる確認するが、勿論、紐か何かが絡みついているということはなかった。隣のエレンの寝相が悪く、腕や足が乗ってしまっていたのだろうか、と考えてから、否、とアルミンは自分でそれを否定した。
エレンと同じ寝床で眠るのは初めてのことではなく、彼にしても自分自身にしても、そこまでひどい寝相ではないことを、アルミンは知っている。
現実味のない悪夢として、片付けてしまうのは簡単だ。ただ、そうして忘れ去るには、喉に残る息苦しさは、奇妙に現実味を帯びている。目覚めてなお、夢の残滓が身体に影響を及ぼすことがあるだろうか。
「いや……逆か、」
喉をさすりつつ、アルミンはぽつりと独りごちた。
悪夢を見たから、喉が痛いのではない。喉が痛いから、そんな悪夢を見たのだろう、と発想を転換する。
昨夜のうちから、気付かぬ間にそこを痛めていたのだとすれば、考えられない話ではない。なにしろ、埃っぽい中で長距離の移動が続いていたから、呼吸器系には大きな負担が掛かっていた筈である。
子どもの頃から、乾燥する季節になると、アルミンはよく、喉を痛めていた。呼吸の度に、ひりつく喉の痛みに耐え、寝台の中で小さな咳を繰り返していると、祖父が手製の軟膏を塗ってくれた。
数種類の薬草と油脂を根気良く煮詰めて作った軟膏は、胸元に乗せると、子どもの体温でよく蕩け、なめらかに伸びた。祖父の大きな手は、アルミンの喉もとから胸にかけて、丹念にそれを塗り込んでくれた。
清々しい薬草の匂いが広がると、胸がすっとするようだった。少しだけ、呼吸が楽になる気がした。穏やかに胸を撫でる、温かな手に誘われるようにして、眠りに就くことが出来た。
思い起こして、アルミンは喉を探った。少し腫れているのか、熱を持って、鈍く痛む。
おそらくは、喉の違和感の方が先行していて、それが夢にまで投影されていたのだろう。推測して、ひとまずアルミンは、己を納得させた。
「いつまで寝惚けてんだ、アルミン。見回りの前に、シーツを直さねぇと」
「あ……うん。今起きる」
我に返って、アルミンは寝台を降りた。小さく咳払いをすると、もう、あの窒息の苦痛は薄れていった。
友人が喉の辺りを気にしていることに気付いたのだろう、エレンは案じ顔で問うてくる。
「昨日の傷……痛むのか?」
「ううん、それは平気。ただ、喉がちょっと……大掃除のせいかな」
そうか、と呟いて、エレンは顔を伏せた。シーツを伸ばしながら、独りごちる。
「だいぶ、埃っぽかったもんな。まあ、これからは心配ない……毎日、徹底的に掃除するからな」
それは、ありがたいことだね、とアルミンは苦笑で応じた。気を引き締めるべく、シーツをぴんと張り、丁寧に布団を折った。

初日だけあって、エレンたちの対応は完璧であった。兵長直々に実施される、朝の見回りへの対応である。
寝る前と一寸違わぬかのような精緻さでもって、寝台は見事に整えられていた。部屋を訪れたリヴァイは、一言、「悪くない」と呟いた。それが、合格の証であることは、エレンの顔に浮かんだ輝くばかりの喜びの表情を見れば、容易に推察出来た。
中でも、一つだけ妙にきれいな寝台に、兵長は暫し、目を留めていたが、特にコメントを紡ぐことはしなかった。今後もこのように、整頓と美化に努めよとの命を、新兵らは畏まって拝受した。

炊事は当番制であり、訓練兵時代から慣れ親しんだ食材で行なう調理には、特別な問題は発生しなかった。
硬く焼き締められたパンと、豆と野菜のスープに蒸かした芋、燻製肉が少々。昼も夜も変わり映えのしない献立であるが、それに不平を述べる者はいない。
ただ、上官と食卓を囲むという状況には、誰しも緊張を隠せるものではなかった。普段通りの旺盛な食欲を見せているのは、サシャくらいのものである。朝から雑談に花を咲かせられるようになるには、今暫くの時間が必要なようであった。
妙に大人しい同期たちとテーブルを囲みながら、それでもアルミンは、居心地の悪さよりも、安堵を覚えていた。
落ち着いて朝食を摂るのは、久し振りであるような気がした。開拓地でも、兵団でも、食事はいつも大人数で一斉に、ざわめきの中、決められた時間に決められた料理を決められた分量、過不足なく効率的に胃袋に収めるという作業だった。
ことに、前日の疲労を引き摺ったままの朝食の席では、無理やりに目をこじ開け、半ば意識を失いかけつつも、機械的にパンを齧っていたものだ。今日も一日、働かねばならないという義務感だけで、味も分からない料理を咀嚼していた。
そんな状況にも、すっかり適応したものであると思っていたが、兵団の殺風景な食堂に並ぶ年季の入ったテーブルと、暖炉や小さな飾り棚に囲まれた一軒家の食卓とでは、やはり、感じるものが違う。
窓から射し込む清涼な木漏れ日と、小鳥の囀りは、かつて、幼い頃は当たり前のようにして、身近に感じていた。今は、失われた故郷の我が家を思い起こさせる、優しい朝の知らせを、アルミンはスープと共に、大切に胸に落とし込んだ。
ささやかな異変があったのは、朝食を終えた、後片付けの場だった。当番に任ぜられていたアルミンは、エレンと並んで、流し台に立っていた。
隣で皿を洗っていたエレンが、やや声を潜めて問う。
「アルミン……大丈夫か?」
何のことだろうかと、アルミンは首を傾げた。友人は気遣わしげに眉を寄せて、こちらをじっと見つめている。そんなにも、皿を洗う手つきが危なっかしく見えたのだろうか。
「なに、エレン? どうしたの、突然……」
「いや……皆のいるところじゃ、言えなかったが……魘されてたみてぇだから」
言って、エレンは手元に視線を戻した。洗い終わった皿を、カゴに立てて入れる。その何気ない所作を、アルミンは、手を止めて見つめていた。
同じ寝台にいたとはいえ、まさか、エレンに気付かれているとは思わなかった。彼の言葉に従うならば、傍から見ても、それと分かるほどに、悪夢に苛まれていたということになる。
思うと、アルミンは気恥ずかしい心地を抱いた。たかが夢風情で、エレンに心配を掛け、彼の安眠を妨害してしまったのだとすれば、申し訳ないことである。
「ああ……起こしちゃったか、ごめんね」
「それはいいんだが……」
気を取り直して、アルミンは次の皿を手に取った。丁寧に擦り洗いながら、何でもないことのように続ける。
「大丈夫だよ。ちょっと……変な夢を見ただけだから」
「どんな」
「……」
暫し、迷ってから、アルミンは困ったように笑ってみせた。
「忘れちゃったよ。……さあ、次は、家の周りの掃除だね」
濡れた手を拭きながら、アルミンは努めて明るく言った。
愉快でもない夢の話をしたところで、仕方が無いと思った。怖い夢を見たといって泣きつくなんて、子どものすることだ。そこまで、友人の世話になるわけにはいかない。
それで話題を切り上げるつもりだったが、しかし、エレンはまだ何か言いたげに、アルミンの顔を見つめていた。
「本当に、覚えていないんだな」
念を押すように、エレンは今一度、ゆっくりと問うた。そのまっすぐな眼差しに、アルミンは内心でたじろいだ。
いったい、エレンは、何をそんなに気にしているのだろうか。ともかく、今更、前言を撤回するわけにはいかなかった。
「……うん」
「なら、いい」
それだけ呟いて、エレンは背を向けた。庭掃除に向かうのだろう、その後姿を、アルミンはその場から動くことなく、見つめていた。




[ to be continued... ]
















インテ新刊『カレル』プレビュー(→offline

2014.01.10

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