少年椅子(プレビュー版)
※原作53・54話ネタバレご注意ください。
「あっ、待ってくださいアルミン! これもつけないと」
扉の向こうでは、相変わらず、ごそごそと取り合わせを工夫しているらしい。はしゃいだサシャの声が、よく響いて聞こえる。
共に戦っている間は、意識したことはなかったが、年頃の少女たちであれば、身につけるものや化粧に関して、それなりに興味関心がある筈だ。これまで、大っぴらにおしゃれを楽しむような余裕は持てなかったのであるし、これからも持てるとは限らないのだから、ここぞとばかりに熱が入るのも、当然のことであろう。
そのおしゃれをするのが、誰でもなくアルミンというのは、妙な話ではあるが、女子は、自分自身でなくとも、着せ替え人形で遊ぶだけでも、十分に楽しむことが出来るらしい。ジャンとしては、被ったところで面白くも何ともない、黒髪のカツラを弄りつつ、手持無沙汰に紅茶を啜っていた、そのときだった。
「や、嫌だ! それだけは、頼むから勘弁してくれ…!」
そんな悲鳴が聞こえて、何の気なしに、ジャンは振り返った。待て、だか待って、だかの声と、ばたばたという足音の後、閉ざされていた扉が勢いよく開け放たれる。
そこから転げるようにして飛び出してきた、小柄な人影を目の前にして、ジャンは一瞬、あっけにとられた。ソーサーに戻しかけたカップが、空中で静止する。
己の目がどうかしてしまったのだろうかと、ジャンは眼を瞬いた。それから、数秒を置いて、大笑いした。コニーはコニーで、ほう、と感心したような声をもらしているのが、また可笑しい。
転げ出てきたのは、アルミンだった。金髪がぼさぼさに乱れ、肩で息をしているのは、拘束を振り払って逃げ出してきたためであろうか。瞳には涙を浮かべ、世にも情けない表情をしている。とはいえ、ジャンはその間抜けな表情を見て、笑ったのではなかった。
何より、ジャンを硬直させ、大笑いさせたのは、その格好であった。
上半身に纏った、素朴な白いシャツは、まだ良い。よく見れば、女物であると知れるが、普段の見慣れた格好と、印象としてはそう変わりはない。ただ、何故か釦が一つも留まっておらず、まるで無理やり剥かれたかのように片袖は肩からずり落ちかけて、薄い胸から腹にかけてがあらわとなっているのが不思議だった。
問題は、その下で、少年の下半身を包むのは、膝下までの清楚なロングスカートであった。品の良い厚手の生地に、幅広のプリーツが入っている。細やかで楚々とした歩き方しか想定していないのだろう、そのプリーツは、大股で走り回ったために、ところどころ、よれて広がってしまっていた。
泣き出しそうな顔で、脱げかけのシャツを纏い、ロングスカートの裾を乱した少年──これを見て、どうして笑わずにいられるだろう。笑いすぎて目の端に涙を浮かべつつ、ジャンは大げさに、肩を竦めてみせた。
「おいおい、その格好はねぇだろ。はしたないぜ、お嬢様」
「う……」
落ち着いてみれば、さすがに自分でも、これはどうかと思ったのだろう、アルミンはそそくさとシャツの前をかき合わせた。
大きく開いてしまっていた足も、爪先を合わせてぴったりと閉じる。そうしてみると、まあ、笑うほどのものではないな、というのが、ジャンの正直な感想であった。
元々、アルミンの兵士らしからぬ線の細い身体つきは、女物を纏ったところで、そう見苦しいことにはなっていない。貧弱な胸と腰回りに、もう少々ボリュームが欲しいところであるが、このままでも、貧しい寒村から出てきた栄養失調気味の田舎娘というくらいには、見えなくもないだろう。
「いい感じじゃね? 似合う、似合う」
仲間の女装姿を、コニーは無責任に手を叩いて称賛した。社交辞令が言える筈もない仲間の正直な感想を受けて、アルミンは、何かを堪えるように、ぐ、と唇を噛んでうなだれる。
女装が似合うと言われたところで、ありがとうと返すのも妙な話ではあるが、何の返事も寄越さないというのも、不思議なことである。
先ほど、嫌だだの何だのと叫んでいたが、いったい、彼は何に抵抗して、逃げ出してきたのだろうか。スカートを脱ごうとはしないので、この格好が嫌ということではなさそうだが、とジャンは首を傾げた。
その答えは、すぐに明らかとなった。
「そうですよ、女の子が下着もつけないでどうするんです!」
背後からの声に、アルミンは、びくりと肩を竦める。逃げ出した少年を追って、部屋から出てきたのはサシャであった。手には、白い布切れを握っている。それを眼前に突きつけられたアルミンは、ひ、と息を呑み、怯えたように後ずさった。
いったい、何をそんなに拒んでいるのだろうか。ジャンはまじまじと、その布切れを見つめた。
そのとき、初めて気付いたというように、こちらを向いたサシャと視線がかち合う。目を剥いて、彼女はジャンに人差し指を突きつけた。
「はっ! 何を見ているんですかジャン! 失礼ですよ!」
お前にだけは言われたくない、と非常識代表の同期に軽口を返そうとしたジャンであるが、それは叶わなかった。
指を突きつけた拍子に、サシャの手の中から、例の布切れがこぼれて広がる。握り締められていたときには分からなかった、その全体像が明らかになり、ジャンは一目で、その正体を悟った。
「お、おい……それ、」
ごくりと唾を飲み下す。頬が、かっと熱くなるのを感じた。それは、乳房を包み込む布地と肩紐から成る、女物の下着だった。
決して、きわどい形状ではない。むしろ、布の面積は大きく取られており、色気のない、質素な趣向である。
ふわふわと柔らかく、肌触りの良さそうな純白の布地に、控えめにあしらわれた繊細な小花のレースは、いかにも胸の膨らみかけた少女が好みそうなデザインである。クッション性のありそうな生地は、大切なものを包み込んで支えるという用途に、いかにも相応しい。
はたして、誰の大切なものを包み守るためのものであるのかといえば──下着と、怯えた様子で青褪めたアルミンを交互に見遣って、まじかよ、とジャンは呻いた。
ジャンの熱心な視線をどう捉えたか、サシャは、あたふたと下着を振り回して抗議する。
「だから、いやらしい目で見ないでくださいってば! アルミンも、隠して、隠して!」
「そっちが見せてんじゃねぇか!」
いわれのない非難を受けては堪らないと、ジャンは憤りのままに、思い切り顔を背けた。
丁度そのとき、いつまでも戻ってこないアルミンに痺れを切らしたか、ミカサが部屋から顔を覗かせるのが、視界の隅に映った。彼女の前で、下着をまじまじと見つめる姿を晒さずに済んだのは、不幸中の幸いといえよう。
だが、心臓は、未だに高鳴っていた。くそ、落ち着け、と己に言い聞かせる。あんなもの、別にたいしたものではないだろうが──そろそろと、横目でアルミンたちの様子を窺う。
「さあ、もう逃がしませんよ。観念してください」
さっさとつけろと、サシャは下着を手に、じりじりとアルミンを壁際へ追い詰める。ジャンの反応とは対照的に、アルミンは血の気が引いた顔で、哀れに唇を震わせる。
「こ、こんなの……本当に、必要なの? 別に、見られるわけじゃないんだから、なにもそこまで……」
喘ぐようにして紡ぎ出す、最後のあがきは、深い溜息によって遮られた。やれやれと、サシャは肩を竦めて応じる。
「何を言いますか、アルミンらしくないですよ。作戦には、万全を期して挑むものでしょう」
こういうときだけ、実にまともなことを言う。同意するように、ミカサは静かに頷いた。
「躊躇う気持ちは分かる……でも、出来る限りの努力はするべき。体型を整えれば、それだけ、変装の精度が高まる。仮にボディチェックをされても、上手く切り抜けられる筈。つまり……我慢して」
女性陣の説得に、アルミンはなおも抵抗の素振りを見せたが、結局は諦めて従った。ちらりと垣間見た、その表情は、悲愴としか言いようがなく、他人事ながら、ジャンは哀れみを覚えた。
それから、化粧だの付け毛だのといった小細工が慌ただしくなされ、待ちくたびれた頃に、ようやく、「完成品」が一同の前に姿を現した。
「どう、かな……ごまかせそう?」
変装を終えたアルミンは、不安げに、仲間を見渡す。
なかなかのものじゃねぇか、とジャンはその姿に感心を覚えた。少なくとも、先ほど、半泣きかつ半裸で飛び出してきたときよりは、ずっと「らしく」見える。
柔らかな幼さを残した顔立ちは、女物の服を着せれば、純朴な田舎娘に見えないこともなかった。それが、付け毛を美しく整え、少し化粧を施してみると、それなりのものに見えてくるのだから、不思議なものである。
本人は、自信が持てないのだろう、おどおどと身を小さくしているが、胸の前で手を握ったその仕草が逆に、儚げな少女らしさを演出している。
最後まで抵抗していた、下着の件についても、ほのかな胸の膨らみは、ごく自然に仕上がっていた。大きさとしては小振りで、片手に収まる程度であろうか。未だ、成長途中といった様相である。控えめではあるものの、シャツを押し上げる双丘は、まろやかな陰影を醸し出し、確かにその存在を主張していた。
「あ……あまり、見ないでくれ……」
居心地悪げに呟いて、アルミンは胸元を庇うように、己の肩を抱いた。それほど熱心に観察してしまっただろうかと、ジャンは慌てて目を背けた。
「かわいいですもんねー、見蕩れちゃうのも納得ですねー」
「うるせぇよ!」
仲間内から見れば、アルミンが変装したところで、決してヒストリアに似ているとは言い難い。カツラをかぶっただけの、エレン曰く「全然似てない」ジャンの変装と、程度は同じようなものだ。
だが、それは三年間苦楽を共にした仲間であればこそ、気付くことの出来る差異であり、違和感である。特徴さえ揃えておけば、身内でもない実行犯らの眼をごまかすことは、難しくない。
小柄で、華奢で、長い金髪に大きな青い瞳、可憐な顔立ち。今や、アルミンはそれらの条件を見事に備えていた。そもそも、エルヴィン団長の見立てに、間違いがあろう筈もない。
ヒストリア自身は、どう評価するだろうか。見れば、特に感想を紡ぐことなく、目を伏せて、ひっそりと佇んでいる。人形めいた無感動な面立ちから、感情を窺い知ることは出来なかったが、自分の替え玉の人選について、そう気分を害してはいないらしい。
あるいは、そんなことは、今の彼女にとって、些事に過ぎないのだろうか。いずれにしても、自分の身代わりを務めるのがジャンであるということがどうしても気に食わずに、いちいち文句を垂れるエレンには、彼女を見習って貰いたいものである。
そのエレンは、幼馴染の変身振りを興味深げに眺め回して、へぇ、と声を上げた。
「やるなぁ、アルミン。これ、どうなってんだ?」
アルミンのささやかな胸の膨らみを、エレンは無造作に握って問うた。あ、とアルミンは目を瞠る。その場の誰しも、思わぬことに、一瞬、固まってしまった。
凍りついた場の空気に気付かないのか、あろうことかエレンは、その上、感触を確かめるように、二、三度、手の中のものを揉み込んだ。
おい、と咄嗟にジャンは咎めかけ、しかし、それより早く、ミカサがその手首を掴んでいた。掴むばかりでなく、易々と捻り上げる。よほど強烈な力であったのか、エレンは身を捩って呻く。
「痛ぇ、痛ぇってミカサ!」
「エレン……ここからは、アルミンはもう、ヒストリア。むやみに手を出さないで……アルミンも。女の子は、そうそう身体を触らせないもの。自分を大切にして」
「う、うん……気をつけるよ」
幼馴染からの忠告に、アルミンは神妙に頷いた。落ち着かない様子で、胸の詰めものの位置を調整する。自身の胸をまさぐるような、その姿に、慌てて目を逸らしかけてから、ジャンは、そんな必要はないことに思い至った。紛らわしいんだよ、と内心で毒づく。
出立の時間は、間近である。はじめこそ、荒唐無稽な作戦であると感じたが、これならば、いけるのではないか。そんな高揚感が、一同を包んでいた。
少しの間だけ、持ちこたえれば良い筈であった。
誘拐が実行された場合、まず連行されるのは、リーブス商会所有の施設のいずれかであろうと思われた。その中でも、周囲に人気のない倉庫群はうってつけである。いくつかの物流の要所に、既に目星はつけてあった。
その読みは当たり、二人を攫った馬車は、運河沿いの広大な倉庫群に至った。リヴァイ率いる有能な新兵たちが、まさか馬車を見失う筈がないから、今頃彼らは、倉庫周辺で、作戦実行のタイミングを計っているに違いない。こちらからは窺い知ることの出来ない仲間たちの動向に、ジャンは思いを馳せた。
あとは、彼らが一斉に事を仕掛け、外部に知れることなく、速やかに敵を制圧する。しかるのちに、目標たる商会の長をおびき寄せ、接触を持つ。
それくらいの間ならば、問題なく、影武者をまっとうできる筈であった。二人はただ、ぼろが出ないよう、余計なことをせずに、大人しくしていれば良い。
──しかし、そう何もかもが、思い通りに行くものではない。
エルヴィン団長も、まさか、このようなかたちで、替え玉作戦が露見するものとは、想定していなかっただろう。
──どうすればいい。
己の目の前で繰り広げられる光景を、ジャンは、固唾をのんで見つめていた。
「どうだ? ここが感じるんだろう……?」
椅子に縛りつけられたアルミンの胸元を、背後から覆い被さった男が、息も荒く、まさぐっていた。
■
薄暗い倉庫内には、無数のコンテナが積み上げられていた。高い天井近くの窓から射し込む、心もとない光では、その闇を払拭するには足りない。光線の中に、ゆっくりと漂う塵が、ちらちらと輝いた。
見通しの悪い倉庫内の中ほど、やや開けた空間に、二人は拘束されていた。
エレンとヒストリアに変装したジャンとアルミンを攫ったのは、馬車に乗った三人組であったが、見張り番として倉庫に残ったのは、一人の男であった。まずはジャン、それからアルミンを椅子に縛りつけたところで、男は立ち上がった。
「さて……まだ、ちゃんと見てなかったが、」
言って、男は背後から、アルミンの顔に手を伸ばした。男の指がアルミンの顎に掛かって、掬い上げるように上向かせる。
「……」
化粧を施しているとはいえ、近くで見られれば、正体がばれてしまうのではないかと危惧しているのだろう、アルミンの表情には不安が滲んでいる。だが、それは、街中で突然に攫われた少女が怯えているものと見れば、何ら不自然ではなかった。
「ちょっとごめんよ」
男の片手が、アルミンの顔に落ちかかる長い金髪を、そっと払い除ける。男の視線から逃れるように、アルミンは青灰色の瞳を伏せた。
怯える「少女」の面立ちを、間近で覗き込んだ男は、ほう、と感心したように溜息を吐いた。
「こいつは随分と、かわい子ちゃんだ。まあ、お互い、仲良くやろうじゃないか、なぁ?」
にやついた笑みを浮かべ、「少女」の白い頬を一撫でしてから、男は手を離した。無理に背後へ首を捻る姿勢から解放されて、アルミンはほっと息を吐いたようだった。
ひとまず、顔立ちから替え玉と見抜かれる心配はなさそうである。本人としては、やや男としての自信を傷つけられたかも知れないが、今ばかりは、それは歓迎すべきことにほかならない。後は、余計な疑問を抱かれぬよう大人しくしつつ、決行の時を待てば良い。
計画の上では、その筈だった。だから、この先に起こることを、少年たちが予測しておらず、何ら覚悟も心構えも出来ていなかったとして、誰にも責めることは出来なかっただろう。
「手荒な真似をして、すまなかったよ。俺も、ボスに言われて、仕方なくやったことなんだ。分かってくれるよな?」
顔から手を引いた代わりに、男は背後から、アルミンの両肩を包むように手を乗せた。
ジャンの見る限り、アルミンは努めて平静を装っていたが、触れられた瞬間、表情に緊張が走るのが分かった。肩が、僅かに強張る。それを、怯えと解釈したのだろう、男は猫撫で声で、馴れ馴れしく耳元に囁く。
「かわいそうに、怖かっただろう? 痛いところはないか?」
妙に優しげな手つきでもって、男はアルミンの薄い肩から二の腕にかけてを撫でさすった。それは、緊張を解きほぐそうとするかのような動きであったが、誘拐犯に肩を揉まれたところで、リラックス出来る筈もない。
それに、今のアルミンには、身体に接触されるとまずい事情がある。いくら外見を上手くごまかしたところで、触れて確かめられれば、少女らしい円みも柔らかさもない身体では、きっと正体を見抜かれてしまうだろう。それもあって、彼の表情は、強張ったままだった。
どうなんだ、と顔を近寄せて問い掛けながら、男は少しずつ位置を変えて、アルミンの薄い肩をねっとりと撫でる。果たして、悪い予想は、当たってしまった。
「この辺りは、どうだ?」
アルミンの肩を撫でさすっていた手が、ゆっくりと、鎖骨を伝い、胸元へと下りていく。ほのかな膨らみを、男は掬い上げるようにして、手中に収めた。円みに沿って、分厚い掌を這わせ、確かめるように、シャツに浮かぶ輪郭を押し上げる。
「……っ」
ふる、とアルミンは肩を震わせ、青灰色の瞳を瞠った。宥めるように、柔らかく円を描いて揉み込み、男は愉悦を浮かべる。
「抵抗しないんだな。賢い子だ。それとも、満更でもないのかな?」
どうなんだ、と問うて、男は乳房の上で、指先をばらばらにうごめかせる。思わず、ジャンは身を乗り出していた。
「てめぇ……!」
「おっと、大人しくしてろよ。この子が酷い目に遭っても良いのか?」
男は見せつけるように、背後からアルミンを抱きすくめて、身体を密着させた。こちらには、こいつをどうとでも出来るのだと、言われたようだった。
ぐ、とジャンが唇を噛み締めると、男は下卑た笑みを浮かべ、手のひら全体で、「少女」の上半身を撫で回しはじめた。反射的に、アルミンは身を捩るも、抱きすくめられた格好では、抵抗らしい抵抗も出来ない。
太い指に無造作にまさぐられ、ほっそりとした身体を包むシャツには、無惨に皺が寄る。ミカサたちが見立て、丁寧に着つけ、こぎれいに整えて、むやみに触るなといって窘めた、折角の衣装が、そんな経緯など知る由もない男の手によって、台無しにされる。それを、為す術もなく、ジャンは見ていることしか出来なかった。
■[中略]
すまない、すまないと、胸の内で、繰り返していた。
もうすぐ、終わるから。それまでの、僅かの辛抱だから。
すぐに、拭ってやるから。きれいにしてやるから。
べたべたと触れられたところを、薄布で丁寧に拭いて、汚れたところを、温かな湯で洗い流して、傷も匂いも、何の痕跡も残らないよう、手入れしてやるから。
何事もなかったかのように、元通りの、まっすぐに澄み切った姿に、戻してやるから。
忌まわしい光景は、記憶からも、消し去るから。
二度と、こんな目に遭わせはしないから。すべてが終われば、また、いつものように戻れるから。命を預けて戦える、相棒になるから。
だから、どうか、壊れないでくれと祈った。大切なのだ。かけがえのないものなのだ。こんな風に、汚され、奪われるのは、堪え難かった。
なんとなく、自分の傍にあるものだと思っていた。気を付けて見てやっていれば、汚れることも、壊れることも、ないような気がしていた。
このまま、共にあり続けるのだろうと思っていた。それが、巨人でもない、他の人間の手によって、貶められることなど、考えてもみなかった。
まるで、自分の所有物で、誰にも侵されることはないのだと、無邪気に信じていた。
そんな筈がないというのに。
自分自身の生命さえも、自分のものではなく、いつ不条理に奪われるとも知れない、こんな世界で、何一つ、自分の持ち物といえるものなど、存在しないというのに。
大切だった。守ってやりたかった。
こんな風になるまで、それに気付けずにいた、自分を呪った。そうすることで、やり直せるというのならば、いくらでも、愚かな自分を糾弾したかった。
■[中略]
作戦は、成功といって良かった。訓練兵の時分に積んだ対人格闘術の鍛錬の成果あって、新兵たちの手際は、鮮やかなものであった。
ジャンとアルミンも、その一員として、丸腰ながら、戦闘を支援した。誰もが、己の果たすべき役割を果たしていた。結果、兵長は速やかに、商会長ディモ・リーブスとの交渉に持ち込むという当初の目標を達成した。
叩きのめされた商会の連中は、拘束した上で、倉庫内の一所に集めた。その中には、見張り番のあの男も含まれている。
自分を欲望の対象とした男の傍にいて、居心地の良いわけがないだろうが、ジャンの見る限り、アルミンの様子は落ち着いて見えた。あくまでも、作戦上のこととして割り切っているのだろう。最早、自分は怯える「少女」ではなく、一人の兵士であるという意識が勝っている。猿轡を締め直すよう指示されて、アルミンが無防備に男に近づいたことが、その証だ。
しかし、本人の意識がどうであろうとも、見た目は可憐な少女のままで、自分を陵辱した相手に接近するとは、迂闊であったとしか言いようがない。結果として、アルミンは、いっそうの屈辱を受けることとなったからだ。
男の欲情の矛先は、「少女」ではなく、アルミン自身にまで、向けられた。見張り役の男は、アルミンの正体を知ってなお、萎えるどころか、鼻息を荒くした。男と分かっていても、おさまりがつかないと告白されて、いったい、アルミンはどんな心地がしただろう。
あっけにとられている同期に代わってやろうと、ジャンはその肩に手を掛けた。しかし、アルミンは動かない。目を瞠ったまま、硬直している。おい、と揺さぶろうとしたところで、男は、ずいと顔を近寄せる。
「責任を取ってくれよ……なあ、ほら、こんなになっちゃってるんだよ」
目の前で無防備に膝をついたアルミンへ、荒い息を吐きかけながら、男は尻でにじり寄った。逃げれば良いのに、アルミンは、咄嗟に後ずさることも忘れてしまったらしかった。
床についたスカートの膝に、男の下腹部が押し当てられる。う、と感じ入ったように小さく呻いて、男はそれを前後に擦りつけ始めた。
「……アルミン、どけ!」
少年の薄い肩を掴んで、ジャンは怒鳴った。腕を取って引き起こし、有無を言わせず下がらせる。
「あ……」
ようやく、我に返ったように、アルミンは小さく声をもらした。愕然とした面持ちで、ジャンを見上げる。その手の中から、ジャンは速やかに、猿轡を取り上げた。
「俺がやる、って言ったんだ。お前は、先に行ってろ」
先ほど、あんな目に遭った上、なおもあからさまな劣情の矛先を向けられたというのに、アルミンは今ひとつ、反応が鈍い。彼に代わって、ジャンは急ぎ、男に猿轡を噛ませようとした。これから仲間と共に、兵長に続いて移動するというのに、これ以上時間を取られるわけにはいかない。
しかし、気を急くジャンと、隣のアルミンを順に眺め遣って、兵長は思い直したように首を振った。
「……いや。お前たち二人は、ここに残れ」
「え……」
思わぬ指図に、ジャンは跪きかけた格好で、動作を止めた。ついてこなくて良いと言われたのだ、と遅れて理解する。
どういう意味かと、ジャン達が問い直す前に、リヴァイは淡々と指示を続けた。
「増援が到着するまで、暫くかかるだろう。それまで、お前たちが、ここの番だ」
不測の事態に備えて、倉庫内の見張りをせよという命令である。もっともらしい指示に聞こえるが、敷地内にいた商会のメンバーは既に制圧され、念入りに拘束されている。現状、仕事はあってなきようなものである。
異議を唱えようとしかけて、しかし、ジャンはそれを押し止めた。どうやら、身代わりとしての任務を十分に果たし終えた二人に対して、兵長は、少し休んでいろと言いたいらしい。少なくとも、ジャンは彼の言葉を、そのように解釈した。
立ち去り際に、リヴァイは軽く、アルミンの肩に触れた。
「……よくやった」
「はっ、……」
上官からの、珍しい労いの言葉に、アルミンはすぐさま背筋を正し、敬礼をとった。少女の姿をしていようとも、それは、まごうことなき兵士の誇りを感じさせた。痛々しいほどに、高潔な姿だった。
[ to be continued... ]
壁博2新刊『少年椅子』プレビュー(→offline)
2014.02.08