La giornata di Roma / Sugito Tatsuki
そこはどう見ても、庶民的な街並みの片隅で半地下という、冴えない立地条件の小さな店だった。
永遠の都を自らの庭とする生粋のローマっ子、ジャンカルロが案内したのはあまりに意外な場所で、
オリビエには何かの間違いではないかと思えた。「ローマいちのパスティッチェリーア」、彼は確か
そう言ったのではなかったか?
称讃を受ける店というのは、それに見合う風格を醸し出しているもので、通りすがりの者すら
姿勢を正し憧憬を送るような存在でなくてはならない。何も星三つを付けられた店に限ったことではなく、
パスティッチェリーアといえ「ローマいち」という栄誉を受けるならそれなりの店の筈――
だがここはどうだ?
友人の戸惑いをよそに、案内した当人は軽い足取りで階段を下っていく。
それでも、もしかすると万が一、ここがいわゆる「隠れた名店」を気取り、メディア露出を控える
秘密主義で、生粋のローマっ子の間にだけ知られる店という可能性もないことはない。
自分に言い聞かせたパリっ子は友人に続き、他に客の見当たらない狭い店内をさり気なく観察しつつ席に着いた。
疑念を込めた視線を気にもせず、地元の名門子息は早速、カメリエーレに注文を出す。
「僕のおすすめで良いよね?」という、一応質問の形となってはいるが応える暇を与えないのでは意味のない
確認に続けて、発せられた単語は一瞬、フランス貴公子の言語野の活動を停止させた。
――何故ここで、オウィディウスの著作が出てくる?
しかしその疑問は、注文を聞いたカメリエーレが意味あり気に笑みを含んだ視線でこちらをちらりと見たのが
気に障ったので微量な鋭さを込めて見返してやったら慌てて奥へ引っ込んだということをやっているうちに消え失せた。
「今の――君の"おすすめ"の品名か?ひどいセンスだ」
納得のいかないまま勝手に事態が進行することに起因する機嫌の悪さを声に滲ませ、腕組みをして向かいの相手を見やる。
「それに無礼なカメリエーレ……こんな所ではドルチェにも期待出来そうにない」
予想していた言葉だったのか、一押しの店を貶されたローマっ子は、それでもいつもの様に笑ったまま、まあ見れば
分かるよ、と言う。
心底楽しそうな様子、先程のメールといい、思いがけないことをやらかして、こちらが呆気にとられるのを
生き甲斐にでもしているのだろうか?全く趣味が悪い。しかし確かに気を引く効果は高い、恐らくそれが、
彼の得意とする技法――
「お待たせしました。"愛の技法("です」
先程のカメリエーレが思考を中断する。今度は目を合わせようとせず、畏まって運んできた皿を
テーブル中央に置く。
「それでは、ごゆっくり」
給仕人が視界から消えると、その作る料理のみならず彼自身も――主に美少年に目がない
広い層の女性から――熱烈な支持を得ている全仏いちの少年料理人は、備えた魅力を
余すところなく発揮した極上の微笑をたたえると、正面で嬉しそうに早速フォークを
手にしている相手に問うた。
「どういうことかな?」
アメシストの瞳に最早穏やかさは欠片もない。
場の空気を一気に凍結させた原因は、テーブル中央の平凡な皿であった。そこにあったのは、
何の変哲もないチョコレート・ケーキ(だった。
濃厚な色あいで扇形、クリームの添えられたそれは、全く、ただの大量生産品でしか
なかった――体積が常識的範囲の2倍はあることを除いては。
「これが君の"おすすめ"?呆れるね、ただ量があるだけじゃないか。
それも食器との調和を乱している。ドルチェは適切な形状、サイズであってこそ美しく、価値があるというのに。
君がこれ程甘党だとは」
食に保守的なローマの御曹司は、かの地伝統の食事では直接の摂取量こそない糖を、起床から就寝まで
一日中飲んでいるコーヒー(に景気良く入れる砂糖によって取り入れている。
栄養学の見地からは歓迎出来ない食生活だが、それが彼にとって最も自然な状態なのだから仕方がない。
ゆえにドルチェも愛してやまない彼は、しかし、食の専門家からの厳しい言葉に苦笑いすると、
いくら僕でも全部一人では食べないさ、と言った。
その言葉は、こんな安っぽい店に身を置いているだけで次第に不機嫌の度が増していく貴公子の
薄々勘付いていた推測に確信を与えた。
先のカメリエーレの言葉からするに、これが注文の全てであり、かつ、皿の置かれた位置は
向かい合う二人の丁度中間点。要するに、この一皿が二人分、ということだ。
「……小皿が見当たらないな、それにナイフも」
もしここに愛用のナイフがあれば、馬鹿なことばかり思いつく目の前のローマ人をまず屠ってやるところだと
不穏な想像を浮かべつつ、嫌な予感を振り払う様に呟いた指摘も、空しく宙に消える。
「つまり――こういうこと!」
本人だけが気付いていないが、あまり気が長くないという点で、従える聖獣とよく似ている
双頭蛇遣いは、止める間もなく、手にしたフォークでケーキの角を鮮やかに切り取ると、
クリームを乗せ、そのまま一口に食した。
結構おいしい、という感想は、その所業を信じられないという様に目を瞠る、
高級料理店次期オーナーの少年の耳には届かなかった。
彼の"常識"では、食事というものは一品ずつ、個人のためだけに、最高の状態で供給される
ものであって、彼はずっとその様にされてきたし、その様にしてきた。
はるばるやって来たからにはと出来るだけ多くの品を味わうことに必死の、欲の張った
観光客達が、中流以下のレストランで、給仕人に小皿も頼まず、分けるべきでない料理を
互いに切り分け物々交換しては批評し、分かったような気になっている、無教養と
品のなさの極致といえる場面を冷ややかに見てきた彼は、いかにインフォーマルな場といえども
一品を二人で、それも直に分けるなどという発想にショックを覚えるのを禁じ得ず、
巻き込まれた状況に軽く目眩すら起きてくる。
食べないの?と不思議そうに聞きながらも手を休めようとはしないドルチェ好きに力なく言う。
「……同じ、芸術を愛する国の者として、君には親近感を覚えたよ。
君は、多少時代的に偏っているけれどローマ叙事詩、恋愛詩、舞台にも詳しいし、
ラテン語によく通じているし、僕と議論が出来るし、一般人とは違うと――だが
完全には相いれないとよく分かった」
溜息と共にうつむき目を閉じると、沈黙が訪れた。
カシャン、と、金属と皿の触れる音がしたのはその数秒後だった。
「――ごめん」
声は、普段の浮かれた調子のそれではなかった。
「全然、君のこと、分かっていなかった。僕の感覚で、一緒に食べたら楽しいだろうと思って、
家族のパーティとか、気取らない仲間内でするみたいに。ここね、こうやって分けて食べるために
わざわざこんなメニュー出しているんだ。おかしいだろ、でも人気がある」
むやみに明るくうるさい位に陽気なローマっ子はどこへ行ってしまったのか、静かに語る
沈んだ様子にわずかな動揺を覚えるのを隠すと、貴公子は強気に言う。
「この注文も慣れたもの、ということか。これでどれだけ"恋人"を得た?」
うろたえるかと思った相手は首を横に振ると自嘲気味に笑った。
「僕に"好意"を寄せてくる彼女達が、こんなものを喜ぶと思うかい?」
求められるのは高価な物品と豪勢な演出、彼は自由恋愛を謳歌しながらも
よく理解している、自分の役どころを間違えたりはしない。
失言だった――珍しく余裕を失っていたらしい自分自身に、貴公子は
苦い気分を噛み締めた。自分の感覚を優先し、相手を分かろうとしなかったのはむしろ――
「オリビエ?」
手を伸ばし優雅にフォークを取る、先程までとは異なる様子の友人に、
落ち込んでいたローマっ子は何事かを問う。
「食べないとは言っていない、少々驚いただけさ――こういうのも
悪くないんだろう、きっと」
仲良し女学生みたいだけど、と言うと、美を信条とする少年は、それすら
無駄のない完璧な動作で、既に元の半分程度となったケーキを切り、
口へ運んだ。料理人の最初の修行として経験した菓子作りの日々を
思い起こしつつ味わうと、その軽い食感から、見たところよく知るガトー・ショコラかと
思われたケーキは実は、一切粉を用いない点で似て非なるイタリア地方菓子
であると知れて、認識を改める。
「……味についてのコメントはキリがないから控えておこう、それは重要じゃない。
分かったよ、君の言う"ローマいち"の理由」
今度こそ本当に嬉しそうな表情で、ほっとした様なローマ名門子息と、
穏やかな微笑の貴公子は目を合わせ、思えばつまらないことでここまで真剣になれる
自分達がおかしくて仕方ないという様に笑った。
また一口、ケーキを取ったパリジャンは、これが西洋文学史上で最もいかがわしいと
されてきた、愛の手引書のタイトルからとったメニューであることを思い起こす。
「僕は君ほどあの作品を熟読しているわけではないが――確か技法の1つにあったな、
意中の相手の口にする物を求め、そのグラスを奪ってそこから飲め、だったか」
名家の誇りを十分すぎる程に備えた自称ローマ人の末裔は、そう、と言って頷くと、
該当する箇所をよどみなく原語で引用してみせた。いとも簡単にやってのける友人の様子に、
文学少年でもあるまいにとパリっ子は苦笑する。
「君はおかしな所ばかりに記憶力を発揮する」
「あまり読み込んでしまってね――ああ美味しかった!」
皿はいつの間にか空になっている。
「また来てくれるかい?」
「そうだね、ローマならば君に倣うのも憚られない。そこはイギリス人の格言に同感だ」
それじゃあ、と軽く顔を寄せて別れの挨拶をすると、生粋のローマっ子は隣国へ帰る
友人を見送った。
――何て充実した一日だっただろう。
軽率で勝手で、どうしようもない、そんな自分をいつも見ているのに、
呆れながらも見限ろうとはしない素晴らしい友人は何にも代え難い。
自覚する程の寂しがりだから、自惚れかもしれないが、個人主義の彼に
これだけ構って貰っては、自分が特別扱いなのが知れて嬉しくなる気持ちを抑えられない。
「……相手にして貰えるのは良いね」
彼に会う度に起こる思いが、いっそう強く感じられた。
「さあ――次の『ローマの一日(』はどうしようかな」
End.
あとがき。
エセジャンオリ?
唐突に甘いロマンスで不可解です。
そして地の一文の長さは増すばかり。
ジャン&オリ本『Amore mio!』に描いた
漫画の続きの話だったりしますが
筋がワンパターンすぎて泣けます。
2006.04
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