コンフィチュール -1-




■1


ラズベリーコンフィチュールにホットミルクと少量のジンジャーシロップを注いだ、淡赤色の甘やかなジャンジャンブル・オ・レは、いつも冷たい指先をしている彼に身体の内側から温まる感覚を教えてやりたくて私が作り始めたホットドリンクの中でも、このところルークのお気に入りらしかった。何らかの労いの言葉を賜ったわけではないが、カップを両手でゆっくりと持ち上げる仕草、睫を伏せた表情、口をつけるタイミングと、その一連の様子を観察した限りの私の主観では、そういう結論に達した。
「いかがですか」と問えば、無言で軽く頷く、それはしかしルークの場合、美味いだとか気に入っただとかの意思表示ではなく、ただ単に「飲める」という、この上なくシンプルな事実を伝達する程度の意味しか持ち得ない。彼は基本的に、飲み食いということに淡白で、あれが好きだのこれが嫌いだのと評することもせずに、ただただ必要なだけの栄養素と熱量を得るための作業として、目の前に出されたものを黙々と嚥下する暮らしを続けている。料理人であれば、およそ張り合いがないといって嘆きたくなる相手であるかも知れない。
ただ、私にとっては、自分の作ってやったものをルークが躊躇わずに口にしているという、それだけのことで、まるでそこに何か特別な関係性が生じたかのような幸せな思い込みに浸ることが出来る。パズルを生み出し、挑戦者に与えることだけが、そもそも私の職務の中核であった筈だが、公正な目で見れば、私はルークに何かを与えてやっている時間が最も長くなるだろうし、それに伴って得る喜びにしろやりがいにしろ、他とは比べ物にならない域に達しているといえよう。
崇高なる知の戦いの場であるパズルと違い、何が返って来るわけでもないというのに、行為それ自体を目的として何かを与えるなどと、我ながら物好きなことであると思う。合理的に考えれば、求められてもいないのにあれこれとルークの世話を焼こうと、命じられた最低限の職務だけを淡々とこなすにとどめようと、彼と私の関係は微塵も変わりがないだろうことが分かる。どころか、おそらくは、私が他の誰に代わっても問題なく、進むことも戻ることもなく、この関係は静止し続けることだろう。なにしろ、ルークの限定的にもほどがある興味関心領域において、一人の部下の存在などは、境界線を掠めてすらもいないのだから。
重々承知していながらも、私は別段に、そのことに対して不満を抱くだとか、腹が立つといったこともなく、今日もミルクを火にかけているのだから、不思議なことである。見返りのない奉仕など、物心ついた頃から私が最も毛嫌いしていた行為ではないか。尽くし、与え、それだけで勝手に満足している、今の私をあの頃の自分が見たらどう思うだろう。
想像してみると、思わず苦笑せずにはいられないが、一つ確かに言えるのは、私はこの現状を案外、楽しんでいるらしいということだ。昔の自分どころか、周りの誰に言っても、あきれて肩をすくめられてしまいかねないことである。緩く首を振ると、私は出来上がったジャンジャンブル・オ・レのカップをトレイに載せた。

「ルーク様」
執務室に這入り、小さく呼び掛けると、例によって駒の大幅に足りないチェス盤をじっと見つめていた少年は、音を感じさせぬ動きで顔を上げた。作り物めいて白い面は、いつも通り熱に欠けた無感動な在りようで、給仕に訪れた部下を歓迎するでも拒絶するでもなく、当然のことのように出迎える。
──変化なし、か。
ゆっくりと歩み寄りながら、その引き結ばれた唇に目を遣って、私が内心で落胆したのは、なにも労いの言葉が紡がれなかったからではない。命じられたわけでもない、こんな身勝手な行為でもって、ルークの言葉や表情を引き出せるなどという考えは、いささか無邪気に過ぎるというものだ。そんな見返りを、いちいち事細かに求めていては、とてもこの年若い主人に仕えることなどは出来ない。
だから、私が胸の内で溜息を吐かずにはいられなかったのは、言葉通り、ルークの唇に変化がなかったからだ。より具体的に言えば、その唇の端の、小さく爛れたような傷が、少しも快方に向かっているように見えなかったからだ。
目の前に丁重に置かれたカップを、ルークは気だるげに持ち上げると、睫を伏せて口をつけた。その唇の端が、少しばかり荒れていることには、数日前から気付いていた。薄皮がささくれて、粘膜の上だけでなく、その縁にまで赤みが広がっているようにも見える。何だろうかと思っているうちに、ささくれは広がって、気付いた時にはもう、皮膚が捲れて傷口が開いていた。大したことではあるまいと、自然治癒を期待していた己の考えを、私はここで訂正せざるを得なかった。
だからといって、どうされたのですか、などと間抜けにも訊くような愚を、私は犯さなかった。問うまでもなく理解っているから、ということではない。私は医療の専門家ではないし、毎日のルークの健康状態を、ラボラトリよろしく詳細な測定データによって把握しているわけでもない。
あえて何も問わないことにしたのは、そうしたところで、どうせ無駄だと知っていたからだ。
自分の身体が「どうした」のか。そんなことは、ルークには分からない。
どうしてそういうことになったのか、原因が分からない、身に覚えが無い、というのは、一般にもよく聞かれる応答であるから、構わない。知人から風邪をうつされた、古いものを食べて腹痛を起こした、などという単純な因果関係でもって、全ての疾病が片づけられるものであれば、医者の苦労はないだろう。
そういった文脈とは、しかし、違ったレベルでもって、ルークは自分の身体というものを分かっていない。普通ならば敏感に感じる取れる筈の、なんとはなしの身体の不調、不具合、痛みを、ルークは自分から訴えるということがないのだ。側近として公私を捧げて仕える中で、ルークが一度でも、痛いだの辛いだのと言っているのを、私は聞いたことがない。
別段に、彼の身体が強いだとか、痛覚が鈍っているだとか、そういったことではない。事実、彼はたびたび眩暈を起こすし、年に何度かは寝込むし、そういうときは、いつもの冷たい無感動な面に、ちゃんとそれらしい苦しげな表情が浮かんでいる。
逆に言えば、つまり、そうやって倒れるところまでいかない限り、ルークは自分の身体が発する危険信号を察知出来ないということだ。小さな痛みというシグナルが発せられても、それの意味するところが分からずに、素通りしてしまう。ルークに対して、およそ警告というものは、総じて何ら意味が無い。そんなもので、彼の行動が変えられることはないし、彼の意思が歪むことはない。
何か失いたくないものがあって、恐れるものがあって、はじめて警告は意味を為す。だから、はじめからそんなものを自分の身に持たない相手には、脅しの効く筈もないということだ。

そういう相手に対して、何か思い当たることがあるか訊ねるなど、愚問にもほどがある。彼自身が唇を噛み破ったのだというのでもない限り、何ら答えが返って来る筈もないのだ。ならば、側近として、出来ることは一つしかない。
何度かに分けてカップを傾け、ルークがその中身を呑み干したところで、私は彼の椅子の脇へと回り込んだ。意を問うようにこちらを見上げる少年の手から、カップを取り上げて卓上に置く。
「──失礼いたします」
一言、断ってから、私は少年の顔を上げさせ、その唇の端に指先を添わせた。なるほど、見たところの様子と違わず、皮膚がかさついて、小さくささくれた感覚がある。これと似た状態で思いつくのは、手指の霜焼けだ。乾燥による唇の荒れが、周囲まで広がってしまったのだろうか。
それにしては、唇そのものはひび割れもなく、みずみずしい弾力を保っているのが不思議であるが、それ以上の詳しいことは、門外漢である私には何とも評価出来ない。まだ空気が本格的な乾燥を迎える冬場ではないとはいえ、空調の加減によっては、皮膚の乾燥は季節を問わず起こりうる問題である。その薄い皮膚を保護するクリームの、そろそろ出番であるのかも知れない。
「お休みになる際に、何か塗っておくとしましょう。大丈夫、すぐに治りますよ」
安心させるように微笑んで私は言ったが、そもそもルークは自分の傷のことを心配などはしていないので、それは余計なオプションであったかも知れない。ルークは感情を伺わせぬ淡青色の瞳でじっとこちらを見つめていたかと思うと、小さく唇を動かす。
「……風呂に」
「かしこまりました」
入りたい、まで言わせずに、私は恭しく応じた。もう間もなく夕暮れである、少年がそう言い出すであろうことは予測がついていた。何なら、その唇が開いて小さく息を吸い込んだ瞬間に、一言も発声させる間もなく返答することも可能であったが、さすがにそれは行き過ぎであろう。かたちばかりであっても、ルークの意思を尊重する振りを装っておいて悪いことはない。
いつも必ず、ぽつぽつと語る主人の言葉が全て紡がれるのを待ってから応える筈の側近の、普段と違うやり方に、ルークは不審げに眉をひそめた。今度は内発的な微笑を浮かべて、私は少年の唇にそっと指を押し当てた。
「傷が開いては、いけませんから。あまり、お話しにならないでくださいね」
無遠慮な手を振り払おうともせずに、ルークは暫しこちらを見上げていたが、ふと目を伏せると、素直に小さく頷いた。私はささやかな満足感を覚えると、早速、少年をいざなってバスルームへと向かった。



すぐにでもクリームか何かを塗ってやることをせず、夜を待ったのは、これまでの経験上、ルークは唇に何か付けられるとどうしても違和感があるらしく、無意識のうちに薄皮を噛み締めて状態を余計に悪化させてしまうということが分かっていたからだ。眠っている間ならば、その心配はない。出来ることならば、傷が塞がるまでじっと人形のように深い眠りに落ちていてくれれば良いのだがと私は思い、それから自分の夢見がちな思考回路に苦笑した。
一日の職務を終え、少年が端末の画面を落とす頃合いになって、いよいよ彼の傷ついた唇にケアを施す。その素肌を護るために、冬場は全身に保湿クリームを、日中の外出時には抗紫外線ジェルを塗ってやるのが私の使命の一つであり、同様に、たかが唇程度のことであってもそれは変わらない。
良識ある人々からは、16にもなる少年に対して、それはあまりに過保護というものではないかと、非難を浴びそうなことであるが、相手は誰あろうルークである。既存の尺度で彼を語ることほど、無意味なことはない。
誤解を恐れずに言えば、私はこと自己管理という面において、ルークを全く信用していない。軽くリップクリームを塗る程度のことすら、彼は自分ではまともに出来る筈もないのだ。誰かが代わりに、護ってやらねばならない。
自分が部下から信用されていないことが不服なのか、私がこれから彼に塗ってやるガラス小瓶を取り出すのを見ると、ルークは視線を外して俯いてしまう。宥めるように、薄い肩に手を添えて椅子の背にもたれさせると、私はその首に巡らされた大仰な革ベルトを緩めて外した。
唇の傷の手当てをしてやるといって、まず取り掛かるのが、その一点の穢れなき純白の衣装をはだけることだからといって、何ら咎め立てされるいわれはない。彼の純潔は、いついかなる場合であろうとも、保たれてあってしかるべきである。万が一、塗りつけてやる瓶の中身がこぼれたり、襟元を掠めてしまったりして、べったりと付着してしまったら、それだけのことで、崇高なる存在としてのルークは損なわれてしまう。拭い去ったとしても、一度汚されたという刻印は決して消えることがない。私はきっと、心底がっかりとするだろう。彼は、熱も重さも、いっそ肉体そのものも、そんな煩わしいだけの醜悪なモノのすべてから解放され、自由であるべきなのだ。冷たく白い彼でなくては、ルークではない。彼を護る役目を担う私自ら、それを穢すような行為は、あってはならないのだ。
開いた衣装を、私は少年の頼りない肩から落とした。服を脱がせたところで、その下の肌もまた、色素に欠けているものだから、白い、という印象は変わらない。ただ、骨格の陰影も明瞭な痩せた身体がさらけ出された様は、何か見てはならないものを見ているような心地にさせられるし、浴槽ならばまだしも、それが地位ある者の坐するに相応しい重厚な椅子に頼りなくもたれているとなれば、ますます背徳的な色合いを濃くするばかりだった。
傷一つないなめらかな白い身体がさらされたことで、その唇の傷はいよいよ赤く、際立って目を引いた。このように皮膚を荒らして、まざまざと血肉をさらけ出す傷口などは、早々に修復しなくてはならないのだと、否応なしに感じさせられる。
覆い隠して、塗りつぶして、なにもかも、なかったことにする。
白くなめらかに、包み込む。
完璧にかたちづくられた存在としての、ルークを取り戻させる。
思うと、自分のやっていることは、治療者というよりは、白亜の塔の手入れを任された修復師といった方が適切で、それもオリジナルに忠実な復元よりも己の美学に沿わせることを優先してしまうのだから、褒められたものではないな、と私は胸の内で苦笑した。

軽く顔を上げさせて、私は改めて傷口を観察した。薄皮が裂けて割れ、すっと鮮やかな赤色の筋が走る様が見て取れる。それは、本来なら痛々しく、グロテスクなものであった筈だが、私にはさして嫌悪感を催すものではなかった。彼の白い肌、血の気のない唇、およそ生気を欠いたその容貌にあって、傷は赤く、彩りを添えていた。たとえるならば、森の奥深くに棲む妖精が花を喰らい、汁の滴る果実にかぶりついたならば、こんな風に美しく汚れるのだろうか。
冷たい人形めいたその身にあって、それは、彼が紛れもなく生命を持つ証であるといってよかった。皮膚が捲れて、血肉の赤色を晒す、その傷口に爪を埋め込んでみたい衝動を抑えて、そっと指先を触れさせてみる。二本の指でもって、瓶から中身を掬い上げると、私はそれを慎重にルークの唇に塗りつけた。唇の弾力を指先に味わいながら、丁寧に液体を馴染ませる。傷口付近には、注意深く触れるのだけれど、どうしても、捲れかけた皮膚が千切れてしまうことは避けられない。
どうしようもないこととはいえ、塗りこめるように撫でられると、やはり傷口に沁みてしまうようで、ルークは小さく肩を強張らせた。それでも、これが必要なことだと分かってか、抵抗の素振りは見せずに、瞼を閉じて大人しく椅子の背にもたれる。少年の柔肉の弾力を指先に確かめながら、私はゆっくりと、ぬるつく患部を擦った。


■3


傷が治るまで、私はルークに、喋ることを禁じた。
口を開けると、修復しかけた傷が、また裂けてしまうかも知れない。だから、出来る限り、喋ることも、食べることも、しない方が良いのだ。幸いなことに、ルークはもともと口数の多い方ではないし、大きく口を開けて物を食すような行儀の悪いことはしないので、さしたる不都合はないだろう。彼の言葉を直截に耳にする部下というのは私くらいのもので、それより下の者たちへの伝達は私を通して行なわれるか、あるいは文章によって為されることになっている。本部からの急な出頭要請でもない限り、ルークはたとえ部屋にこもりきりであっても、その職務を十分に果たすことが出来るのだ。
とはいえ、さすがに可哀想なので、私は彼に気を紛らわせるためのパズルを提供してやったし、チェスの相手を務めたし、寝る前にその傷口を診るときは、ことさらに丁重に触れてやった。お気に入りのラズベリーコンフィチュールのジャンジャンブル・オ・レにしても、傷に障るといけないので、暫くの間はジンジャー抜きにした上で、毎晩飲ませてやった。
私との約束を愚直に守って、ルークはいかなる場面でも、一言の言葉を発することもなかった。

それから一週間、毎晩同じことを繰り返したが、しかし、ルークの傷が良くなることはなかった。


■4


その日は朝から、日本支部の視察に訪れた本部の人員をもてなす役割を課せられていたので、私はルークを残して、外部での業務にあたった。彼の傍を離れることは、特にその体調に不安のある今、出来れば避けたいのであるが、POGジャパン中央戦略室付という肩書を持つ以上、そうも言ってはいられない。己の本来の職務が、あの白い少年の身辺の世話係ではないということを思い知らされるのはこういうときだ。
視察団と、名目上日本支部のトップである筈のルークとの会談は、はじめからセッティングされていなかった。本部の彼らはよく承知していたのだ、あの少年と話すことなどは何もないと。もし何かがあるとしても、それは、少年の側近を通して遣り取りをするものであると。
私はルークの代理として、彼らのいくつかの質疑に応え、当たり障りのない話題を提供し、つつがなく就業時間を消費していった。

会食に思った以上の時間をとられ、ルークの元へと帰りついたとき、彼はもう寝室に引っ込んでしまっていた。風呂や着替えは、事前に私が信用のおける部下に依頼しておいた通り、代わりにして貰ったのだろう。だが、こればかりは代理人には務まらない。少しも良くならない唇の傷を診るべく、私はいつも通りに、ガラス小瓶を片手にその扉を開けた。
寝台の上で素肌を晒したルークは、眠るでも本を読むでもなく、ヘッドボードに背を預けて力なく俯いていた。私が戻って来るのを待っていたのだろうか。思うと、日中の苦労が、少なからず癒されていくのを感じる。遅くなりまして、申し訳ありませんでしたと詫びつつ、私は寝台に歩み寄った。
「さあ、それでは横になって」
昨夜と同じように、私は少年の細い肩に手を掛けて促した。しかし、素直に従った昨日と違って、ルークは俯いたまま、力なく首を振った。そればかりか、気だるげに持ち上げた片手でもって、私の腕を振り解こうとする。どうしたというのだろう──私のいない間に何か、機嫌を損ねるようなことがあったのだろうか。側近の帰りの遅かったことを、不服に思っているのかも知れない。ひとまず私は、少年の意思を尊重することにして、その肩から手を外した。屈めていた身を起こしながら、静かに問う。
「……怒っていらっしゃいますか」
そこで初めて顔を起こすと、何か言いたげな瞳で、ルークはこちらを見上げた。それは、相手を睨めつけるだとか、射抜くだとかの烈しい情動をおよそ感じさせない、鎮まりかえった視線だった。投げ掛けられた問いに応えようとはせずに、ルークはただ、その淡青色の瞳にじっと私を映すのだった。
世間一般的な他者の有する理解力の程度というものを考慮せず、歩み寄ろうという気もさらさらないらしい、この少年の発する言葉はたいてい説明不足で、こちらとしては更にいくつかの問いを重ねたうえでようやくその意思を確認するのであるが、そもそもはじめから何の言葉も発して貰えなければ手の打ちようがない。
その傷ついた唇が何らかの説明の言葉を紡ぐのを待っていると、ルークは無言で左手を持ち上げた。その手の中には、小指ほどの大きさの銀のチューブが握られている。初めて目にするものだ──ルークの身の回りの物品を全て管理する、私が把握していない物を、どうして彼が持っているのだろう。どこから手に入れたのだろう。
否──それよりも。
それは──何なのか。
まるで、乾燥によるひび割れでもウイルスの感染でもなく、常在菌の日和見感染によって炎症を起こした患部に塗布するのに最も適切な塗り薬として処方されたかのような、それは──何なのか。

──どういう──ことなのか。

立ちつくす私の目の前で、ルークはチューブから乳白色の軟膏を絞ると、細い指先に乗せたそれを、唇の端に擦りつけた。私が毎晩、塗ってやっていたのよりも、それは随分と無造作な所作だった。まるで、自分の大切なものが、手の届かぬところで粗雑な扱いを受けたかのように、私は小さく胸が痛むのを感じた。
それでも、私が代わりに、と言って進み出ることは、出来なかった。そんなことが、出来る筈もなかった。ルークの指先が、患部に念入りに薬を塗り込めるのを、私はただ、突っ立って見つめていることしか出来なかった。

きゅ、とチューブの蓋を閉めて、ルークは今一度、側に佇む者を見遣った。その視線が、無言のうちにいかなるメッセージを込めたものか、今度は私にも理解出来た。
「分かっただろう」、そして「下がれ」。
理解した以上、私はそれに従うほかに選択肢はなかった。後退り、一礼する私を、少年はいつもの無感動な瞳でじっと見つめていたが、もちろん引き留めることはしなかった。そのまま、私は寝室を後にして、静まりかえった通路を行く。

手の中に、ルークの唇に毎夜塗ってやっていた、ラズベリーコンフィチュールの瓶を握って。




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