コンフィチュール -2-




□5


ええ、あれを差し上げたのは私ですわ。口角炎、だったのでしょう。直截にルーク様にお会いするのは、二週間振りで、一目見て驚きました。毎日お会いして、お側にいらっしゃる方には、少しずつの変化で慣れて感じられてしまうのでしょうか……私には、それだけ鮮烈だったんです。
あの方は、私たちとの会合のときにも、いつも口を引き結んで、余計なことは仰らないし、まっすぐな姿勢を崩しもされないものだから、目を伏せていらっしゃると、まるで人形みたい、とこっそり思っていました。無礼でしょうか。女の子ならともかく、お人形みたい、と言われてあの方が嬉しいわけがありませんものね。でも、真っ白で冷たそうな、人形みたいなルーク様は、本当にきれいで、私ごときがこんなことを言うのもおこがましいのですけど、護って差し上げたい、と思うんです。あの子には──あの方には、そういうところがあります。たぶん、他の二人も、同じようなことを思っているんじゃないかしら。

だから、今日お会いして、私はその口元に釘付けになりました。最初に思ったのは、誰がこんなことを、です。可笑しいでしょう。普通は、おいたわしいだとか、ちゃんと体調管理をされなくてはだとか、そうして思い遣るものですよね。ところが、私はまるで、真っ白な壁にインクが飛び散っているのを見たかのように、こんなことをした犯人に憤ったのです。
怒ったところで、向ける相手もいないというのに。怪我を負わせられたというならまだしも、これは病気なのだから、責めるとすればせいぜい、ルーク様のお食事の栄養バランスをみてビタミンB2の不足に気付かなかった者を──いえ、失礼いたしました、ビショップ様のことを申し上げているのではないのです、どうぞご寛恕を……。

その炎症はどうされたのかと、私はルーク様にお聞きしたくてたまりませんでした。他の二人も、おや、というような顔はしていましたが、おそらく一番気にしていたのは私だと思います。以前に一度、肌に合わない化粧品で、かぶれてひどい目に遭ったことがあるので……つい、重ね合わせて見てしまったのかも知れません。
こちらが報告を終えて、ルーク様が全てを承知されたように頷かれたので、そのまま私たちは退室いたしました。廊下へ出るなり、私は早速、二人に言いました。
「ねえ。どうされたのかしら、あれ」
「アレ……って、なんスか?」
驚きました。こちらが、いてもたってもいられずに切り出したというのに、ダイスマンは平然と首を傾げてみせたのです。こいつは駄目だ、と思いました。基本的に、彼は自分自身にしか興味の向かない人間なのです。
私は、まだ話の通じそうなフンガへと向き直りました。彼は、気付かれ難いのですが、なにかとルーク様のことを気にかけて、陰でそっとサポートして差し上げていることを私は知っていましたから、きっと同じ思いでいることだろうと思いました。
それは、半分は当たっていて、半分は間違いでした。
見込み通り、フンガは痛ましげに眉を寄せると、「おいたわしいことだ」と言いました。忠実な部下としては、実に適切な、教科書のお手本にしたいくらいの反応です。しかし、そんなことは私も分かっています。求めたのは、そんな当たり障りのない感想などではなく、私を納得させてくれる意見です。
反応の薄さに多少の苛立ちを覚えながら、私は今一度、繰り返しました。
「どうしてあんなことになっているの? ちゃんと薬は塗っているの? ルーク様の健康状態は、何を置いても優先されるべきではないの? どうして誰も、おかしいって思わないの?」
言っているうちに自分でもなんだか、つい熱が入って、二人を問い詰めるような格好になってしまいました。そんなことを言われても、というような目をして、ダイスマンは降参するように両手を上げました。
「こっちが心配しなくたって、大丈夫っしょ。だって、ルーク様っスよ? ビショップ様だって、いつもお側で気遣ってらっしゃる。ちょっと治りが悪くてこじらせちゃったんでしょうよ。平気平気」
これだからこいつは、と私は緊張感の欠片もない軽薄な男を睨めつけました。さすがにフンガは冷静に腕組をして、何か考え込むようにしていましたが、ふと顔を上げると、「私もそう思う」と、信じられないことを言いました。はぁ? と詰め寄りかける私を制して、彼は言い難そうに言葉を続けます。
「まあ、聞け。ダイスマンの言うように、ルーク様にはビショップ様がついておられる。プロジェクト上の関係にとどまらず、身の回りのお世話、もちろん体調管理だって重要なお役目の一つだ──あの方は、お独りでは上手くご自分の身体を扱えないから。当然、なにか異変があれば、それがどんなに小さかろうとも、ビショップ様の気付かぬ筈もないし、ましてや、気付いてなお放っておく筈もない。最善の努力が施されてなお、ああなのだと解釈するのが妥当ではないか」
「そんな、」
「……つまらぬことを、まるで自分が初めて発見したかのように浮かれて言いふらし、皆の笑い物になって初めて、己の過ちに気付く。そんな愚か者に、なりたいのか」
フンガは、私を諦めさせるつもりで言ったのでしょう。だとしたら、それは、私という人間を読み違えていたと言わざるを得ません。彼の厳しい言葉によって、私は逆に、己の内に密かにあった決意を新たにしたのですから。
「……そうね。分かりました。もう言いません」
口先だけでしおらしげにそんなことを言うと、二人はあからさまにほっとしたようでした。私が何か出しゃばった真似をして、自分たちにも累が及ぶことを危惧していたのでしょう。まったく、情けないことです。

二人と別れて、私は暫く通路を進むと、頃合いを見て、急いで引き返しました。チャンスは今しかない、と思ったのです。誤解なさらないでくださいね、ビショップ様がいらっしゃらない内に、という意味ではありませんので。
ルーク様のスケジュールに出来た空き時間、のことを私は当てにしていました。本来ならばその時間、私たちはまだ、ルーク様の前で報告を続けている筈でした。今回は、ご意向を伺いたい件もいくつかあり、そのつもりで、面会時間も長くセッティングしてあったのです。ところが、直前になって、ダイスマンの担当箇所に不備が見つかり、資料の手直しが必要になって……本当、溜息が出ますわ……今回は諦めて、簡易な報告だけにとどめたのです。早く切り上げられて思わぬ空き時間が出来たと、ダイスマンは喜んでおりましたが、ただ先延ばしになっただけだと分かっているのでしょうか……次回は雑用だけ、全部任せてやりたいと思います。
ただ、おかげで私はチャンスを得たわけですから、悪いことばかりではありません。空き時間が出来たのは、ルーク様も同じ──そう気付いたら、もう迷いはありませんでした。
出てきたばかりの扉を勢いよく開けると、部屋を後にしたときと同じ姿勢で、ルーク様は椅子に深く腰掛け、机に置いた端末の画面を見下ろしていました。突然に乱入してきた無礼な部下にも、まるで驚かれた様子はなく、ただ、気だるげに少し視線を上げて、こちらをご覧になりました。
「──失礼いたします」
それは扉をノックする前に言うことだろう、と私は自分で自分にあきれつつも、お許しが出るのも待たずに、ルーク様の方へと無遠慮に歩み寄りました。近づいていくごとに、ルーク様は視線だけでなく、少し首の角度も動かして、見上げるようにこちらをご覧になるので、そんな仕草が、なんだかとても幼く感じられたのを覚えています。
いえ、幼い──ですね。私から見て、16歳の少年というのは、いかに驚異的な能力を備えていようと、幼いものにほかなりません。そうは思いませんか、ビショップ様。……そうですか。確かに、これからあの方が、なにか成長されるだとか、大人びてくるなんて変化、想像も出来ませんものね。ルーク様は、もう既に、完成されたお方なのですから。

さて、私は勢いのままに突き進んで、ルーク様の隣に立ちました。いつもなら、ビショップ様が立たれている位置です。もちろん、そんな場所に身を置くというのは初めてのことで、私は畏れ多いと思うと同時に、奇妙な高揚感を覚えました。椅子に腰かけた白い少年を、隣で上から見下ろす感覚──彼に仕える者は、いつもこんな感覚を味わっているのだろうか。密やかな悦びを、噛み締めているのだろうか。──いえ、一緒にしては叱られてしまいますね。こんな風に感じるのは、私だからであって、きっとビショップ様にとっては少しも特別なことなどではないのでしょう。
ちらりと見えた机上の端末画面には、私たちの提出した資料ではなくて、一枚の写真が開いてありました。仲の良さそうな、可愛らしい二人の子どもの写真です。一人はおさまりの悪い黒髪、もう一人は、触れたら柔らかそうな白金の髪。じっと見つめていらっしゃったので、大切な写真なのだろうな、とは思いましたが、あまりじろじろと詮索しては失礼ですし、今はそれどころではないので、すぐに視線を外しました。あれは何だったのかしら……柔らかそうな白金の髪、なんてルーク様とお揃いですわね。ご親戚の子かなにかでしょうか。

許された範囲を超えてやって来た部下に、ルーク様はやはり、何も仰ることはありませんでした。ただ、その澄んだアクアマリンの瞳は、じっとこちらを見つめていて、そうされると、あの唇の傷口がまざまざと目に飛び込んで、私は胸が締め付けられるようでした。
「……治療を、されてはいませんね」
一つ息を落ち着けてから、私は緊張交じりに問いました。たいてい、ルーク様とお話するときは、ビショップ様を介しての遣り取りとなりますから、これはもしかしたら、初めての直截の会話だったかも知れません。相手から一言の応答もなく、こちらが喋っているだけのことを、会話、と呼べるならの話ですが。

ルーク様は、何もお答えになりませんでした。その沈黙が、私をますます焦燥にかき立てます。本当に、ビショップ様は気付かれていないのか、あるいは、気付かれた上で放ってらっしゃるのか。それ以前に、ルーク様はご自分で、異変に気付かれなかったのだろうか。痛みを、違和感を、誰かに訴えなかったのだろうか。
私には、それらのことは、ただただ不可解に思えました。こんなことでは、いけないと思いました。今にして思えば、いったい自分でも、何をあんなに熱くなっていたのか、よく分かりません。お節介だの、世話焼きだのと、よく言ってからかわれるのですが、別に子どもが好きということもありませんし、どちらかというと苦手な方ですし、自分ではそんな風には思いません。感情に流されやすい、というのは、きっとあるのでしょうが。いつも冷静沈着なルーク様、優雅な物腰のビショップ様を見ていると、つくづくそう感じますわ。お二人のように振舞えるのは、きっと選ばれた人間のみなのでしょうね。

かかりつけのお医者様に連絡を、と私は言いました。本来ならば、上司に向けるにははなはだ不適切な、強めの口調だったのですが、それでもルーク様は、こちらを見つめるばかりで、動かれようとはしませんでした。
もしかしたら、医者にかかりたくないのだろうか、と私は思いました。一つだけ、見落としていた可能性があったのです。ルーク様も、ビショップ様も、異変に気付かれていて、しかし、ルーク様が拒否されたから、治療をしていない──そうだとしたら、私はとんだお節介な迷惑者です。フンガの言った通り、一人で騒いでいる愚か者ということになるでしょう。
考えなしだった、と私は一瞬、自分を責めましたが、すぐに気を取り直しました。ルーク様は、今のところ、こちらに対して何か拒絶だとか抵抗だとかのご様子を見せていません。本当にお嫌ならば、出ていけとでも言って命じれば良いのです。さすがに、そうなれば私も素直に退散いたします。だから、そうならないということは、これはルーク様も望んでいらっしゃることなのだ、と私は都合良く解釈させていただきました。残念ながら、私はビショップ様と違って、物言わぬルーク様のご意思を汲み取る術を持ちませんもの。

す、と細い指が持ち上がって、机上の端末に触れました。今まで表示されていた写真を閉じて、ルーク様は、何かのリストをフリックすると、ある箇所で止めて、指先で軽く弾きます。表示された個人情報カードに、ドクターの文字が見えた気がしたときにはもう、回線は先方に繋がっていました。数回のコールの後、画面の向こうで応答したのは、穏やかな印象の壮年の男性で、白衣こそ身に纏っていませんでしたが、「どうしましたか?」と問う声の響きは確かに、患者を診る医師のそれでした。

後のことは、お医者様に訊かれた方が良いのではないでしょうか。回線を開いておきながら、他人事のようにそっぽを向いて、自分では何も語ろうとしないルーク様に代わって、私は必死になって、画面の向こうの相手に彼の状態を説明し、薬を出して貰おうと、かなり慌てていたように記憶しています。いくつかの質問に私は答え、もっとよく見て貰った方が良いと、あろうことかルーク様の腕を引き、頼りない肩を抱いて、端末のカメラに向かわせたのです。これはひどい、とお医者様が患部を見て眉をひそめつつも、同時に恐れを知らぬ私の行為に対して苦笑していたので、覚えています。
ともかく、すぐに伺います、とのことだったので、私はお願いしますと頭を下げ、回線を切りました。はぁ、と無意識に一つ溜息を吐くと、腕の中で少年が身じろぎました──腕の中で。そこで私は、馴れ馴れしくもルーク様の肩に手を回していたことに遅ればせながら気付き、慌てて身を引きました。どうしよう、気分を害されてはいないだろうか、と心配しましたが、別段にルーク様に変わった様子はなく、それきり興味を失くされたように椅子に腰かけ直すと、ぼんやりと目を伏せて物思いにふけっておられるようでした。

いっそ、立ち去れとでも命じられた方が、まだ良かったかも知れません。お医者様が来られるまで、私ははたしてここにいて良いものかどうか、落ち着かない気分でしきりに時間を気にし、たびたび意を決してルーク様にご意向を伺おうとしては、その白い横顔に何と言って声を掛けたら良いか分からず、黙るということを繰り返していました。
おそらくは、私がルーク様のチェスのお相手をして、チェックメイトされることを3回繰り返すくらいまでの時間が経った頃、先程端末越しにお話した男性が姿を現しました。彼は、ドクターズバッグこそ携えていましたが、やはり白衣は着ていませんでした。
診察が始まると、私はほっとして、少し離れた位置からその様子を眺めていました。もう役目は終わったのだから、帰ってもいい筈なのですが、そうしたくないという思いの方が勝りました。よく眠れていますか、最近変わったことは、などという問い掛けに、ルーク様は頷いたり首を振ったりの答えを返されていて、彼に対して少なからず心を開いていらっしゃることが分かりました。それも当たり前でしょうか、自分の弱いところをさらけ出す相手なのですから。信頼関係がなくては、成り立ちませんもの。そうですね、ビショップ様に対するのと、それは同じものであったように思います。

どうやら、ルーク様の症状は塗り薬で簡単に改善するものらしく、男性は小さなチューブから軟膏を取って患部に塗りつけて差し上げると、次はご自分でこうして塗ってくださいね、と言ってチューブを手渡しました。ルーク様は素直にこくりと頷かれます。
ご自分で、というのが、私は少しだけ引っ掛かりました。なんとなく、そういったことはなにもかも、ビショップ様がお世話して差し上げているような気がしたので……薬を塗って差し上げるなんて、一番ありそうなことだと思ったのです。しかし、お医者様はルーク様に直截にチューブを手渡し、ルーク様もまた、これを受け取りました。ただ単に、この場にビショップ様がいらっしゃらないからなのだろうな、と私は自分を納得させました。夜になれば、きっとビショップ様にお願いして、塗って貰うのだろう、と思いました。

お医者様が帰られるのと一緒に、私も退室いたしました。突然のことにも対応してくれた彼に、もう一度お礼を言うと、向こうもまた、私に感謝したい、と言いました。
あの子は不調を隠しがちだし、まるで自分の身体のことを思っていない。今回だって、あの子が自分で、痛いと言って訴えてくれれば、もっと早く来てやれたのに、とやるせない表情で彼は語りました。
それを聞きながら、私は、少し嬉しくなりました。ルーク様を気にかけてくれる人がいるのを見るのは、嬉しいことにほかなりません。
私は最後に、どうして白衣を着てらっしゃらないのですか、と尋ねました。彼は笑うと、「ルーク様が怖がるから」と答えました。子どもみたい、と可笑しな気がしましたが、考えてみれば大人だって、白衣の先生の前では緊張してしまう、血圧が上がってしまう、なんていう人は珍しくありません。
なるほど、クライエントをリラックスさせることを仕事の第一段階とする心理カウンセラーは、白衣は着用しませんものね。先に訊いてみたところ、彼の専門は精神医学とのことでしたから、その辺りも関係しているのだろうなと私は理解しました。

そうそう、その方から伺ったのですけど、民間伝承では口角炎というのは、食事のお行儀の悪い子どもを、カラスが自分たちの仲間とみなして、くちばしでつついて付けた印なんだそうです。お行儀が悪いとカラスにつつかれるよ、と言って子どもを教育していたのですね。あの真っ黒な鋭いくちばしで、柔らかな唇の端を啄ばまれるなんて、ぞっとしませんわね。相手が真っ白なルーク様であれば、なおさらのことです。

でも、良かったですわ。きちんと薬を塗りさえすれば、すぐに炎症は治まって、跡も残らないそうです。再発しないように、何より体力をつけること、しっかり休養することが大事、とも仰っていました。
ビショップ様も、そろそろお医者様に相談しようかと思ってらっしゃったところだなんて、奇遇でしたね。最初のうちは、乾燥のせいかと思ってリップクリームで対処されたとのこと、よく分かります。いつもお世話をされているビショップ様ですもの、当たり前のようにそうされたことでしょう。それが少々、傷口には刺激が強く、よりひどいことになってしまったのは、ただただお気の毒でした。
ルーク様が、あまり診察を受けるのがお好きではないことをご存じだから、ビショップ様は、暫く様子を見てらしたんですよね。本部の視察団との間の案件をいくつも抱えられて、お忙しかったんですもの、ひと段落してから専門家に診せようと思われたのは当たり前ですわ。
先走ってお医者様を呼んでしまって、私はやはり、出しゃばりの愚か者みたいです。出過ぎた真似をして、申し訳ありませんでした。このようなことは二度と……え? まあ、ありがとうございます。そのように言っていただけると、心が楽になりますわ。ルーク様にも、喜んでいただけていましたら光栄の至りです。

それでは、資料作成が残っておりますので、これで失礼いたします。
ところで、そちらの──ラズベリージャム、お好きなんですか? ああ、パンに挟んで軽食に。良いですわね、手も汚れませんし、片手間に摂れますものね。私も作ってみようかしら。でもあまり、夜中に食べるものではありませんけれど。




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