コンフィチュール -3-
■6
寝台の中で、ティーカップを片手に今日一日の出来事に思いを馳せ、ゆったりと心身を安らげて眠りへ向かう、英国ならではのナイト・ティーの習慣を私は持たないが、自室の長椅子に身を預けて物思いに耽る、深夜の友は紅茶に限る。ラフな私服に着替え、装身具と眼球のレンズを外す代わりに慣れ親しんだ武骨なセルフレーム眼鏡を掛ければ、職務中に抑制され硬直していたものが、次第に緩くほどけていくのを感じる。
豆を食してはならない、という古代の賢人ピタゴラスの教えをいかように解釈し、どこまで従うべきであるかの議論は別として、私がコーヒーを摂取することを己に許すのは、パズル制作をはじめとする頭脳労働のやむにやまれぬ場面に限ってのことである。そのようにして脳を刺激し活性化させるのは、今の私の望むところではなかった。曖昧に沈んだ思考に身を委ね、深夜特有の静謐な時間を、無為に過ごしたかった。
ローテーブルには、淹れたばかりの上品な琥珀色の液体に満ちた簡素なティーカップ一式、それと、コンチネンタル・ブレックファストで給仕されるのが適切であるような、片手に収まるコンフィチュールの小瓶。一晩に一つ、蓋を開けて中身をこぼした、7つの瓶の最後の一つにして、それまでの6つと同じ役目を果たすことは永遠になくなった、どこにも行けぬ余りものである。
哀れなはみ出しものを、私は片手に取って何とはなしに弄んだ。それから、おもむろに蓋を捻る。瓶の口の擦れる小さな音とともに、固い抵抗をもって封の開く感覚が手のひらに伝達する。それは、今まで繰り返した夜と寸分たがわず同じであったが、しかし、この中身を塗りつけてやる対象は、既にない。
鮮やかな赤色に艶めくコンフィチュールの表面を、私は暫し見つめていたが、銀のティースプーンを取り上げると、小さく掬い上げて口に含んだ。およそ抵抗なくなめらかな感触でもって、じわりと舌先に伝達する、ラズベリーの甘酸っぱく濃厚な味わいは、一口にして、これを製造した南仏のアトリエを管理する技術者の確かな腕前を感じさせる。口腔内で十分に蕩かせて、私は広がる甘ったるい香りに酔った。また一口を、掬い取っては口に運ぶ。肘掛けに身をもたれて、私は自然と瞼を閉じていた。
甘酸っぱいラズベリーの香りに引き摺られて、鮮明な光景が、ばらばらと脳裏に展開していく。それは、己の意思ではどうしようもなく、蘇っては一気に溢れ出る。
同じようで、少し違っていて、やはり同じである、記憶の連鎖。
重なっては外れ、また重なる、結局のところ、同じことの繰り返し。
満ちた月も、空しく半分に欠けるほどの、愚かな行為。
そこで一度目を開けると、胸の底からこみ上げるものを紛らわせるように、私はいささか品位に欠ける振る舞いでもって、ティーカップを呷った。片手で無造作に外した眼鏡をローテーブルに放って、肘掛けの上で組んだ腕に顔を伏せる。舌の上のコンフィチュールは、きれいに流し去られた筈なのに、濃密な果肉の匂いは、いつまでも染みついて抜けないようだった。
■2
掬い上げた瓶の中身を、どろりとこぼすと、甘ったるい濃厚な匂いが鼻腔をくすぐる。私は、ルークの可憐な唇の上で、その赤黒い液体をぐちゃぐちゃとかき回した。潰れた果肉の欠片までも一緒くたに、たっぷりと注ぎ落しては、ゆっくりと顎を伝いかける赤い液体を指先で拭う。
ついついこぼし過ぎてしまうと、白い肌を抵抗なく滑るゼリー状の塊が、危うく垂れ落ちそうになる。私は間一髪でそれを摘まみ上げ、腰の辺りでわだかまるその純白の衣装に染みをこしらえる罪業から逃れた。指先に受け止めた塊は、そのまま口に入れて処理する。押し潰してやると、果実の名残を感じさせるざらついた舌触りとともに、むせかえるほどの甘美な香りが口腔に広がった。
「甘いですよ。お好きでしょう。さあ、どうぞ」
軽く閉じ合わされた唇に、人差し指を割り入らせると、生温い柔肉の間にまで塗りつけて、歯茎をくすぐる。そのまま歯列をこじ開けて、舌の上にたっぷりと落としてやりたかったのだが、ルークは頑なに歯を噛み締めて、侵入を許そうとしなかった。嫌がって口を閉ざそうとするルークの唇に、上下から強く挟まれるごとに、まるで指先に吸いついて浅ましくねだられているようにしか思えないというのが可笑しかった。そんな風に力を入れては、また傷口が開いてしまうだろうに、そんなことも分からないルークの愚かさが、私は愛おしかった。
爪で傷つけてしまわぬよう一応の気を払いつつも、手首を返して、柔肉をぐちゅぐちゅと擦り立てる。軽く歯茎をなぞってやると感じるようで、ルークは細い首を反らせて応じた。
入口だけでも、思うままに口腔を蹂躙してから、指を引き抜く。唾液とコンフィチュールにまみれた指先を、私は行儀悪く舌で拭い取った。感覚の麻痺しそうなまでの、生ぬるい甘味と入り混じった果実の酸味とが、じわりと口の中に広がっていくのを感じる。爪の間まで丁寧に拭い去ると、改めて我が主人のありさまを見下ろす。
「ああ──これはひどい」
今や、少年の口元は、行儀の悪い子どものように、暗赤色のジャムでぐしゃぐしゃに汚れていた。それを為した当人としては、最後まで責任をもって、これを拭い取らねばならない。自分の行動には自分で責任を持つこと、そして、食物を粗末にしないこと、敢えて言うまでもなく、それは成人としての第一の心得である。
ましてや、この少年はどうやら、己の顔を伝うものを拭うのに、舌も指も使う気がないらしい。頑なに口を閉ざして目を伏せ、軽く手を握って、自らの身に為されることをただ、受け容れている。そういう健気な少年を相手に、弄んでそのままに捨て置くというのは、褒められた行為ではない。
己の責任を果たすべく、私は身体を倒して、椅子に背を預けるルークにゆっくりと覆いかぶさった。
拭いきれなかったコンフィチュールが細い首を伝い下り、静かに上下する胸の中央に、一筋の鮮烈な赤を描いて滑り行く。艶やかな果肉が重力に従って臍まで伝い下りてくるのを、私は唇に受け止め、そのまま軌跡に沿って舐め上げた。掠めるように軽く、また、ねっとりと押し当てるように強く、緩急をつけてなぞり上げると、細い肢体は面白いように震えて反応を返した。堪え難いといった風に上がりかけるその腕を、私はやんわりと掴んで押し止めた。
「じっとなさってください。……また、こぼれてしまいますよ」
こちらとしては、それでも一向に構わなかったのだが、ルークはぴくりと身体を震わせると、抵抗をやめて静かに腕を下ろした。結構、と胸の内で呟いて、私はその身を伝うコンフィチュールを拭う作業に戻った。
胸骨、鎖骨、首筋、顎、白い肌は、どこを舐めても引っ掛かりなくなめらかで、作り物めいた細やかさでしなやかにその肢体を包み込む。その柔肌の上にあって、ただ、やがて至った唇の端に開いた傷口だけは、ささくれ立ってざらついた感触を舌先に伝えるのだった。
その、開くことの出来ない唇を拭ってやりながら、そっと、唇を重ねた。微かに触れ合わせて、離れ、また重ねる。閉じ合わされた柔肉の合間に沿って舌を這わせると、少し肩を強張らせたのが分かった。宥めるつもりで、丁寧に唇をなぞり、下唇に軽く歯を立てる。ルークの手が、静かに上がって、私の腕を掴んだ。いよいよ堪らなくなって、頑なな唇を強引に舌で割り、歯列を舐め上げる。外側と同様、コンフィチュールを塗りたくられたそこは、生温くぬめっていた。余すところなく、丹念に掬い上げては、嚥下していく。
そうしている間にも、唇の端から溢れ、伝い落ちるものが衣装を汚さぬように、時折拭ってやることも忘れない。ざらついた傷口に、噛みついてやりたくなる衝動を抑えながら、私は丁寧に繰り返し、その箇所をなぞった。塗り込めるように、あるいは舐め取るように強く舌を押し当てると、ルークはいちいち、小さく身を強張らせて反応する。
こちらとしては、もうラズベリーの甘ったるい匂いにすっかり脳を侵されて、感覚なんてただただ鈍磨していくようにしか思えないのであるが、この麻酔は少年にはあまり効いていないらしい。それもそうだろう、頑なに口を閉ざした彼に対して、こぼしたコンフィチュールをひたすらに拾い集めて摂取しているのは、私の方なのだから。
赤いラズベリー・コンフィチュールを拭い去れば、傷口もまた、一緒にきれいに取り払われるのではないか。
ぬるつく液体を舐め取れば、その下には、傷一つないなめらかな皮膚があるのではないか。
そんな妄想を抱いて、何度も舌を這わせたが、ざらついた感触が消えることはなかった。潰れた果実のイメージが、脳裏に残像のようにちらついていた。
舌と唇でもって丹念に奉仕を続けた結果、どろどろの液体にまみれていたルークの口元は、その傷口以外、元通りの在りようを取り戻した。すべてきれいに拭い去った白い面に、私は今一度、愛でるように唇を寄せた。これまでの、必要に迫られて行為としてのそれとは違い、それは純然たる私心に基づく行為に他ならなかった。
力なく顔を背けているルークの頤と後頭部を丁寧に支えてこちらを向かせると、可憐な唇に口づける。そのまま、私はそっと、柔肉の間に舌を潜り込ませた。もう、抵抗する気力も失せたらしく、ルークは口内に侵入する無遠慮な舌を、甘んじて受け容れた。
より深く、かき回してやろうと、顎に指を掛けて大きく口を開かせた、そのときだった。
「っ……」
耳に入ったのは、小さな、けれど聞き逃しようのない、苦鳴だった。それが、ずっと閉じられたままだった唇から発せられたものだと認識して、私は一旦、身を引いた。
ルークは、目を閉じたまま、僅かに眉を寄せていた。その、唇の端は、今まで見た以上に鮮やかな赤で、──一筋走った亀裂から、薄く、血が滲んでいた。
先にコンフィチュールにしたのと同じように、私は躊躇いなくそれを舐め取ったが、既に麻痺しきった嗅覚と味覚では、目新しいものは何も感じられられなかった。
■7
ああ、そうだ。すべて、私のせいではないか。
知っていながら、誰にも診せずに、毎夜、毎夜、繰り返し。
その舌で、彼の薄皮を剥いでおきながら。
塞がりかけた傷を、こじ開けておきながら。
まるで、これは自分のものであると、印を付けて証するように。
白い柔肌を、啄ばんでおきながら。
■8
翌日、ルークの唇の端からは、早くも赤みが引いていた。それを見て、私は素直に安堵の心地を覚えた。これで、口を開く度に痛みに襲われるような、不自由な思いをさせずに済む。また、彼の身体を温めるジンジャーシロップを飲ませてやることも出来るだろう。
ルークが元の通り、冷たく白い作り物めいた姿を取り戻してくれるのは、歓迎すべきことだった。しかし同時に、私は一抹の虚しさを覚えていた。それは、あるいは、寂しさといっても良かったかも知れない。
ルークの傷口を見つめるのは、辛いことだ。それをこじ開けるのは、もっと辛いことだ。
言うまでもなく、当たり前のことである。分かっていて、しかし、私はあえてそれを為した。自分で傷口を広げて、血を流させておきながら、治らないといっていたましく嘆息する。なんとも不条理な行為である。ただ、そうしてやるせない無力感に浸ることによって、私は確かに、ある種の悦びを得ていたのだった。
ルークであっても、傷を負う。
ルークであっても、汚される。
ルークであっても、痛みに啼く。
そうして、私の抱く概念上の崇高にして潔癖なルークの偶像が、粉々に破壊されるほどに、私は恍惚に浸る。護るべき大切なものが打ち砕かれるときの、あの何もかもから解放されて魂の浮き上がるような、身体から熱が消え去るような、痛みにも似た歓喜。
ルークを崇め奉って愛でては、同時に否定し、地に伏させ、ゆっくりと穏やかに傷つける。
目の前で、大切なルークが汚されていくのを見つめては、破滅的な悦楽に酔いしれる。
ああ、なんてひどいことをしているだろう、こんなことをしてはいけないのに、それなのに、どうしてこんなにも快いのだろう。禁忌を踏み越える悦びは、それが自分の胸を抉るものであるほどに、危ういほどの酩酊をもたらす。灼きつきそうなまでの、脈打つ心臓の叫びに暫し、身を委ねていたくなるのだ。
いつもそうだ、私たちは、いつだってそうなのだ。
繰り返しの中でしか、自分たちを把握出来ない。
傷をつけて、治して、また傷をつけて、それでようやく、分かるだけだ。
少なくとも、私たち二人だけは存在していると、分かるだけだ。
それは、辛い思いに堪えてまで得られる結果としては、とてもちっぽけなものに過ぎず、しかしそれを求める他に方法を知らない、私を憂鬱にさせる。
たぶん、私はルークを護りたがっているし、壊したがっている。
それらは背反するかに見せて、私の中で見事な協調関係を築いている。いずれにしても同じことではないか──他との接触を許さず、己の所有物としたい、という根本の欲求には、何ら違いがない。
傷つかないように護る。
逃げないように護る。
傷つかないように壊す。
逃げないように壊す。
同じことだ。自分以外の者との関与を断つ、という方法によってのみ、目的は達せられる。私にとって大切なのは、ルークそのものではなく、私の所有するルークという、限定的かつ非現実の存在でしかないのだ。そんな虚構に、私は価値を見出して跪き、忠誠を誓う。
何ら生み出すもののない、滑稽な一人芝居であることは百も承知だ。しかし、だからといって、他にいかなる代替手段も、私には思い浮かばない。私たちは、こうなるしかなかったし、この先にしても、こうなるしか、ないのだ。己の行為を、間違っていたとは、思わない。
普通に考えれば、間違いなく首を切られるどころの騒ぎではない裁きを下されて当然だというのに、その後ルークは何ら、この一件について言及することはなかった。唇の傷がすっかり治って、問題なく喋れるようになってまず私に向かって口にしたのが、「風呂に入りたい」である。久々に聞く少年の声は、少し掠れてはいたが以前と変わりなく冷静で、何事もなかったかのようなその振る舞いに、私は戸惑ったが、彼の意向がそうである以上、従うのが最良であろうとそれに倣った。間違っても、あんな扱いをされることが案外嫌ではなかったから不問に付したなどという理由がある筈もなく、ルークの意図は、結局読めずじまいだった。
ただ、一つ思い当たることがあるとすれば、私は彼の唇に傷を見出したとき、指先を押し当ててこう言った──あまり、お話しにならないでくださいね、と。ルークはそれに素直に従って、傷が癒えるまで誰とも一切、口を利かなかった。もしかすると、そのせいではないか、と思うのだ。
つまり、私が言ったのは、口を開けて傷を広げるな、という意味の禁止事項だった。だが、今一つコミュニケーションに難があり、他人の言葉を素直すぎるほど素直に捉えてしまうルークのことだ。もう一つ、意図せぬ意味の方も、同時に受け取ってしまっていたとしても不思議ではない。
話すな、という禁止事項。
──お話しに、ならないでくださいね。
唇が傷ついている間に起きた、すべてのことは、誰にも話してはいけない。
そういう風に、ルークが捉えなかったと──言い切ることは出来ない。そんな馬鹿なといって、一笑に付されてしまうかも知れないが、あの少年の特異な性質を思えば、それは十分に可能性があるように思えるのだ。
私がそう思う根拠は、ルークが行間を汲み取る類のコミュニケーションが不得意だからという、ネガティブな要因、それだけではない。第二の要因がある。
これは、第一の要因とも絡んでくる話ではあるのだが、ルークは「約束」というものに、普段の彼の無感動な在りようからすると意外なほどに強く関心を向け、それにこだわるという傾向がある。過去に何があったのか、詳しい詮索は抜きとしても、ルークの中で「約束」というものは、何を置いても守らねばならない最重要事項に設定されているらしい。まるでそれを都合良く利用するようで気が引けるのであるが、私は彼の世話をする中でどうしても改めて欲しい振る舞いだとか、協力して欲しい事柄があると、ささやかな約束を結ぶというかたちでそれをルークに教えたし、ルークもまた、そうすると驚くほどすんなりと従うのだった。結んだ約束は、すべて果たされることになっているし、自分もまた、それを守って果たすのが当然なのだと、それは、心から信じている無垢な幼子と何も変わりない態度だった。
「話してはいけない」という私の言葉は、ルークの中で、その「約束」として受け止められたのではないか。
誰に話してもいけない、内緒話。
二人だけの、秘密。
そんな他愛のない約束と、同列のものとして、処理されたのではないか。そうだとすれば、何事もなかったかのような彼の振る舞いにも納得がいく。ルークは今まさに、約束を守っている最中なのだ。そしておそらくは、これからもずっと、守り続ける。決して、誰にも、話さない。
やれやれ──と、自分の招いた事態に対して、私は苦笑した。これではまるで、世間知らずの子どもをいいように騙して弄んだ末、脅して口止めをする、低劣な大人も同じではないか。口止めが脅しではなく、約束の皮を被っているところが、より巧妙で、救いようがない。
ルークはただ、「約束」が「約束」だからという、それだけの単純なルールでもって、これを守ろうとしている。それは他人にどう言われようと、決して覆されることのない、彼の根幹をなすルールだ。おそらくは、約束の相手である私自身が、それを破棄すると明言し、もう話しても良いのだと言い聞かせたところで、ルークはそうすることは出来ないだろう。約束を、破る自分を、ルークは許せない。一つの例外だって、生まれさせては、すべてが壊れてしまうのだと、子どものように恐れている。
意図していなかったとはいえ、このような事態を引き起こしたのは言うまでもなく、私の余計なひと言であり、ルークに対してそれ相応の責任を負う義務があるといえよう。ルークとの間に、二人だけの秘密を持ってしまった責任であり、その間のルークから言葉を奪った責任だ。
余計な荷物を負い込んでしまったと、これは本来ならば、嘆く場面であるのかも知れない。しかし、私は不思議と心が浮き立つのを感じた。否、正直に認めよう。私は嬉しかった。ルークが私の言葉に従って、口をつぐみ続けてくれたこと、愚かな行為に付き合ってくれたこと、そして今なお、私との約束を守ろうとしてくれていること。そのすべてが、私にとって、喜び以外の何物でもなかった。
傷が塞がり、薄れ、消えて、もう見ただけでは何も分からなくなって、きれいに覆い尽くされて、そうすれば、もう何もなかったことになるのだろうか。
見えなければ、傷はない──傷なんて、なかったのだということに、なるのだろうか。
痛みも、記憶も、一緒に薄れて、消えていくのだろうか。
──少なくとも。
私は、覚えているだろう。
ルークの唇に開いた傷を、その色を、感触を、舌触りを、匂いを、味を。
冷たく白い人形ではない、温かく血が通い、傷つき、治る、そのしなやかな身体を。
二人だけの、約束と一緒に。
ラズベリーコンフィチュールのジャンジャンブル・オ・レを、ルークはもう、作って欲しいとは言わなくなった。たぶん、あのラズベリーの香りにはもう飽き飽きとしているのだろう。ちょうど幸いにも、ストック分は使い切ってしまったところであった。
また来季、南仏のアトリエから新作を取り寄せるとしよう。可憐な唇に、そっと押し当て、流し込んでやろう。今度もきっと、甘ったるく濃厚で、目にも鮮やかな、美しい果実のコンフィチュールを。
面倒見の良いメイズさん設定をルークたん相手にも活かしてほしいな という思い。
2012.01.30