アンバースデー -1-




おめでとう、おめでとう。
生まれてきてくれて、ありがとう。
私たちの元へ来てくれて、ありがとう。
あなたは私たちの誇り、私たちの宝。
私たちは、あなたを愛する。
私たちは、あなたの名を呼ぶ。
あなたが初めてこの世に生まれ出た、この日を、私たちは覚え、歌い、祝福しよう。

──Happy birthday to you!





黄金螺旋を描く姿も美しいオウムガイのシンボルマークだけが、繰り返し現れては消えるモニタールームの大画面の前で、白い少年は茫として立ち尽くしていた。細い首筋を、少し反らせてモニターを見上げる、その表情は本来の予定であれば、悠々として悦に入った満足げな微笑を浮かべている筈であった。その予定運命が、あっけなく崩れ去った今、最早、この少年がどんな顔をして笑っていたのかどうかも、はっきりと思い起こすことが難しい。既に、他の幹部たちは退席させ、寒々しいまでの広大な空間に一人残ったビショップは、己の年若い主人の、白く血の気の失せた横顔をいたましく見つめた。
愕然として唇をわななかせていた、当初のショック状態は既に脱して、今はただ、受け容れ難い現実の処理にその脳の活動の大部分を割いているらしい。憎々しげに睨めつけるでもなく、驚愕に震えるでもなく、淡青色の瞳はただ開かれているだけといった表現が適切な在りようで、モニター上に点滅する光をガラス玉のように反射する。その向こうに、ルークがいったい何を見ているのか、ビショップには分からない。

ルークが珍しく「読み」を外したことについて、ビショップは、とやかく言うつもりはなかった。他の者たちにとってはどうだか知らないが、それは別段に、驚くほどのことではないというのが正直な実感だからだ。
確かに、直截に駒を操る盤上の世界では、ルークは決して判断を誤らず、美しく緻密な戦略でもって、計画通りに相手を追い詰め、計画通りに勝利する。その「読み」が外れることはない──うっかり彼の指が滑って、思わぬ位置へ駒を進めてしまいでもしない限りは。
しかし、こんな分かり切ったことを、あえて確認しなければならないというのは、気が引けるところではあるのだが、と思いつつ、ビショップは白い少年の強張った身体をゆっくりと眺めた。一つだけ、ルークは心得ておくべきだった──現実は、チェスのようにはいかないと。
あらゆる可能性を考えて、計画を立てるということ、それ自体は良い。驚嘆すべき情報処理能力を活かした脳内シミュレーションは、ルークの最も得意とするところである。だが、忘れてはならない。すべての可能性を検討する、それだけでは、まだ不十分なのだ。これに加えて、さらに必要なものがある。
すなわち、「予期せぬ何が起ころうとも、対処出来る余地」を残すこと──それがあるか否かによって、結果は大きく異なってくる。

ルークの頭の中には、彼の考えた膨大な可能性のパターンはストックされていたかも知れないが、「それ以外」という選択肢が存在することについて、考慮の内に入れようとすらしていなかった。これがチェスであったならば、それは何ら咎めだてされるべきことではないし、おそらくは最も確実な勝利の手段として褒め称えられよう。駒の動かし方のルールは決まっているのだから、こちらの手、そして相手の出方の組み合わせを全て演算し、最良の一手を導き出す手法に、何ら異論を挟む余地はない。圧倒的な情報処理能力に物を言わせ、今や人間を差し置いて、コンピュータ同士がチェスチャンピオンの座を競うようになって久しいではないか。
ルークが頭の中で行なっているのは、言うなれば、そういうことだ。片端から情報を処理し、可能性を検討し、崇高なる計画を組み上げる。そういう頭脳を持ったことが、本人にとって幸か不幸かという議論は抜きにしても、単純にビショップは驚嘆せざるを得ない。そんなことの出来る存在が、すぐ目の前にいるという事実に、畏怖の念を抱かずにはいられない。
ルークにとって、未来は自明だ。彼にとって、起こり得る全ての事態は、既に予測され、入念にシミュレートされたものでしかないのだから、何ら恐れるには値しない。これまで、ルークはずっとそうしてきたし、そして、これからもそうしていけるのだと、きっと、信じていたことだろう。

だから──と、ここでビショップは、確かめるように軽く拳を握った。
──だから、子どもだというのだ。
何も、分かっていないというのだ。

ルークは、分かっていない。現実はチェスとは違うのだと、分かっていない。いくら彼の頭脳が秀でていようとも、その考えの外に、いくらだって世界は広がっているのだと、分かっていない。未来を俯瞰し、すべてを見通せるなどと、傲慢にもほどがあるということを、分かっていない。他人を駒のように、思い通りに動かすなどと、幻想に過ぎないということを、分かっていない。
分かっていないということを──分かっていない。
その急所を突かれたら、ルークの組み上げた理想上のきれいな世界なんて、いとも容易く崩れ去ってしまうということを──分かっていない。

特別な才を与えられた、選ばれし子ども、そのくせをして、こんな簡単なことも分からない。ビショップはまったくやるせない心地になったが、そのことについて、ルークを責めようとは思わなかった。分かっていたことだ──こうなるであろうことは、分かっていた。分かっていながら、放置していた、責任を取るというのならば自分を含め、ルークの周りにいたすべての者たちこそが相応しいとビショップは思った。
あたかも、ルークの意思に従い、その言うがままに動いているかのように装って、実際のところはまるで逆に、彼の周りの者たちひとりひとりが、ルークにここまでの行動を強いていたのだ。
誰も、ルークを止めようとはしなかった。
誰も、ルークを諌めようとはしなかった。
誰も、ルークに教えようとはしなかった。
誰も、ルークを理解せず、誰も、ルークを見つめず、誰も、ルークを赦さず、誰も、ルークと話さず、誰も、ルークに触れなかった。
思うと、ビショップの胸の内に湧き起こるのは、ルークに対する幻滅や侮蔑などではなく、単純なる自分自身への後悔と無力感だけだった。誰より近く、側に寄り添い、その望みを理解してやることで、まるで何らかの役割を果たしているかのような気になっていた。自分だけは、真の意味でルークを思い遣ることが出来ていると、思い込んでいた。
実際には、そんなことは、少しもなかったというのに。少しだって、特別な何かを、ルークに与えてやることなんて、出来ていなかったというのに。
ルークから、奪う一方で、何も与えなかった。その結果がこれだ。現状を招いたのは、ルークに関わるすべての人員の所為であって他になく、間違っても、この今にも崩れ折れそうな危うさで立ち尽くす、16歳の少年に負わせるべき責任などはない。それだけは、はっきりと言い切ることが出来る。
しかし、それゆえに、ビショップは暗澹たる心地となるのだった。おそらく、自分以外の者たちは、こんな風に身を呈してルークを庇うような言説を、大人しく受け容れてはくれないだろう。そうして皆が仲良く分けあって責任を背負い込むよりは、一人の扱い辛い身勝手な少年を切り捨てた方が、組織にとってはよほど合理的というものだ。

果たしてそのとき、自分はどちらの側に立つのか──悲愴な想像を巡らせかけて、ビショップは緩く首を振った。そのような思考は、今は不要である。今は、目の前にいる少年──斃れてしまわないのが不思議なくらいの在りようで佇む、この白い子どもを、何とかしてやらなくてはならない。放っておけば、少年はずっと、この姿勢で固まり続けることだろう。
まずは、どこか落ち着くところへ導き、そして出来れば、一度この現状を離れ、眠りに落ちるよう促してやれれば良いのだが──否、無理矢理にでも、夢の世界に突き落としてやらねばなるまい。これだけの負荷を受けたのだ、一度、その心身を休めて、脳をリセットしてやる必要がある。思いながら、ビショップはゆっくりと足を踏み出した。
「……ルーク様。行きましょう」
怯えさせぬよう、可能な限りに抑えた穏やかな声でもって、ビショップは少年に呼び掛けた。名前を呼ばれた瞬間、ルークはびくりと身を竦ませた。咄嗟に後ずさろうとしたのだろうか、ぐらりと上体が傾いで、ふらついた足元はバランスを失った身体を支えきることが出来ずにもつれ、細いシルエットがあっけなく崩れ折れる──直前に、その腰に腕を回して、ビショップは慌てず丁重に少年を支えた。
「……ぁ、……」
力ない身体を側近の腕に任せて、ルークは微かな息をもらした。その細い指が、きゅ、とビショップの袖を掴む。何か伝えたいことでもあるのだろうかと、ビショップは腕の中の少年と向き合う格好をとった。途端に、ルークは切迫した様子で、側近の黒衣を掴んだ。訴えるような、もどかしげな、少年のそんな表情を見るのはビショップは久し振りで、少なからず新鮮な心地を覚える。
忠実なる側近の腕を掴み直すと、堰を切ったように、ルークは上ずった声を紡ぎ出した。
「あ──あの日、水曜日だった、日の出7時42分、気温摂氏2度、湿度80%、気圧1028ヘクトパスカル、曇り時々晴れ──いつも通りに、パズルを──演算パズルを、作ったけど、駄目だって──もっと追い詰めて、苦しませないと、駄目だって──だから、戦車を──昨日、本で読んだ、とても大きくて、強くて、簡単に人をばらばらにするんだって──だんだん、地響きが近づいて、爆音が近付いて、怖い、怖い、怖いように──いやなのに、頭は勝手に、砲台の角度を計算する──せめて、ファンファーレの鳴る楽しいゲーム画面にしたら、褒められた──そのギャップが不気味で、より、解答者の不安を煽るからって──そんなんじゃない、そうじゃないのに──僕のパズルは、そんなんじゃ──でも、言うことを聞かないと怒られる、痛い、怖い、いやだ──だから僕は、今日もパズルを裏切って、かわいそうなパズルを作って──ごめんね、ごめんね、僕のせいで──僕が、弱いから──僕を見て、記録を取っていた研究員に、他のもう一人が言う、『おい、違うぞ。今日から、年齢は5歳だ』と──ミスを指摘された男は、乱暴に二重線を引きながら、『なんだ、面倒くさい』と舌打ちをして──何のことだか、僕は分からなくて──誕生日、なんて言葉、聞いたことがなかった──ラボラトリを出て、初めて、そんな日のこと──そんな日なんて、何も特別じゃない、大切なんかじゃない、なのに──なのに、どうして、今でも──忘れられないの、こんな、要らないのに、思い出したって仕方がないのに──僕の、5歳の誕生日、なんて──」
制御出来ない、秩序を失った思考の欠片が浮かぶままに、自動的に口にしているのだろう、痛々しく掠れた声を繋ぎ続けるルークの肩を、ビショップは宥めるように軽く掴んだ。
「ルーク様。……もう、良いですから、」
どうかこれ以上、自分で自分の傷を抉るような真似はやめてくれと、伝えかけた側近の言葉は、しかし、白い少年には届かなかった。己の名前が呼ばれたのに反応して、ルークは我に返るどころか、何かとても嫌なことを耳にしてしまったとでもいうように、聞き分けのない子どもの頑固さで頭を振った。
「どうして、どうして皆、僕のことを、そんな──そんな風に呼ぶの、どうして誰も、呼んでくれないの、あんな風に──僕の、名前を──ただの、僕(ルーク)を──」
「……ルーク・盤城・クロスフィールド管理官」
おそらくは、少年が望んでいるであろうものから最も遠いところにある、崇高なる呼称を、あえてビショップは口にした。感情を伺わせず、極めて事務的に紡がれた、いっそ冷淡にさえ聞こえる声は、しかし、このままぼろぼろと崩壊しゆくルークを危ういところで繋ぎとめ、引き戻すためには、最も効果的な手段だった。
見込み通り、その名で呼ばれた途端に、ルークは弾かれたように顔を上げた。やや潤みを帯びた淡青色の瞳を瞠るとともに、何かを口にしようとしていた唇を、開きかけたままに凍りつかせる。やがてそれは、いかなる音も紡がぬままに、ゆっくりと閉ざされた。紡がれなかった言葉は、おそらく喉の奥に呑み込まれ、再び姿を現すことはないだろう。そのまま、一歩後ずさって、側近の腕の中から身を離す。穢れなき純白の衣装の胸元で、栄誉の証たる銀の徽章が、鈍く光って見えた。




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